第29話:一人ゆく背中
「……はい! 配信、無事にオフラインになりましたーっ!!」
スタジオの天井にセットされたミキサーブースから、弦の甲高い声が響き渡り、モニターの『LIVE』を示す赤ランプが静かに消灯した。
その瞬間、全身の筋肉を縛り上げていた緊張の糸が一気に弾け飛び、みあは両膝から崩れ落ちるようにステージの床へへたり込んだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ……っ」
荒い息がマイクを離れた空気を揺らす。
全身に装着されたモーショントラッキングセンサーのLEDが、みあの荒い上下運動に合わせて静かに点滅していた。1ヶ月間、足が縺れて倒れそうになりながら叩き込んだ体幹とダンス。全身の筋肉が心地よい打撲のような熱を帯び、汗がポタポタとステージの床に滴り落ちていく。
「みあちゃんっ! 大丈夫!? 体動く!?」
弦がミキサーブースの階段をすっ飛ばすような勢いで駆け寄ってくると、みあの足首や腰のセンサーを手際よく外しながら、手元のタブレットを目の前に突きつけてきた。メガネの奥の目が、見たこともないほど血走って輝いている。
「見てよこれ……! 同時接続者数、最終的に52万人突破! Twixのトレンドも1位『#音無すず3Dお披露目』、2位『天月ルナ』、3位『Vスタ移籍』、4位『Re:BIRTH』、5位『奇跡のデュエット』……10位まで全部うちのワードで埋まった! サーバーの負荷ログ、見たことない波形描いてるよ!!」
「ごじゅう、に……まん……!?」
数字の大きさが脳に追いつかず、みあは目を丸くしたまま固まる。
そんなみあの頭の上に、ぽんと重い手が乗せられた。
見上げると、駆が静かに見下ろしていた。
腕を組み、相変わらず表情一つ変えない冷徹な眼差し。だが、みあの頭をポンポンと叩くその指先には、確かな温度と、隠しきれないプロデューサーとしての誇らしさが宿っていた。
「弦、落ち着け。みあがパニックを起こしている」
「だってさ駆! 52万だよ!? 日本の人口の何パーセントが今みあちゃんの歌聴いてたと思って——」
「知っている。俺が仕掛けたんだ」
駆は短くそう切ると、屈み込んでみあ目線を合わせた。
「よく投げ出さずに耐えたな、みあ。声が出なくなったあの日から、お前が血の汗を流して掴み取った結果だ。……見事だった」
「織田さん……っ……!」
その一言で、目頭が熱くなった。
厳しくて、容赦なくて、でも誰よりも自分たちの歌を信じてくれたプロデューサー。
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙を、みあは汗まみれの腕でゴシゴシと拭った。諦めずに足掻き続けた先に、こんなにも眩しくて温かい世界が待っていた。
その時、ミキサーブースの大型モニターから、ポーンと柔らかな接続音が響いた。
画面に映し出されたのは、潜伏先の部屋からシークレット・リモート接続で参加していた天月ルナの姿だった。
アバターを脱いだ彼女の素顔は、鼻水をすすり、目元を真っ赤に腫らしたひどい顔だった。けれど、その瞳にはこれまで見たこともないほど清々しい光が満ちている。
『みあちゃん……!』
「ルナさん……!」
『私ね……画面に繋ぐ直前まで、怖くてガタガタ震えてたの。Live:CLOWNを飛び出して、ファンのみんなに裏切り者って叩かれたらどうしよう、二度とステージに立てなくなったらどうしようって……っ。でも……みあちゃんの最初のハイトーンが聴こえた瞬間、身体が勝手に歌ってた……!』
画面越しに両手を伸ばすようにして、ルナが涙声で言葉を紡ぐ。
『私の憧れてた歌姫は……画面の中にいたんじゃない。私を迎えに来てくれた、みあちゃんだったんだよ……っ!』
「ううん……違います、ルナさん……!」
みあは首を激しく横に振った。
「私を暗闇から引っ張り出してくれたのは、ルナさんの歌声です! 押し入れの中で、声が出なくて一人で泣いてた私に『歌いたい』って思わせてくれたのは……天月ルナなんです……っ! だから……私と一緒に歌ってくれて、本当に……本当にありがとうございました……っ!」
『……ううん。ありがとうと言うのは、私の方。……これからは、Vスタの仲間として、隣で一緒に歌わせてね……みあちゃん』
画面越しに手を重ね合わせるようにして、二人は涙を拭い、心からの笑顔を交わし合った。
「ルナちゃんVスタへようこそー!」と弦がクラッカー代わりに叫び、駆が静かに拍手を送る。楽屋の中は、どこまでも温かく、大成功の熱狂と未来への希望に満ちあふれていた。
だが——その楽しげな笑い声が届く楽屋の防音扉。
その分厚い扉のすぐ外、薄暗い廊下に、あかぎ蓮は静かに立ち尽くしていた。
重いアケコンを胸に強く抱きしめたまま、微動だにしない。
汗ばんだ前髪の間から見える彼女の瞳は、まるで底なしの深淵を覗き込んでいるかのように暗く、空虚だった。
脳裏に焼きついて離れない、隣の別室で行われていた『REIGN CHAMPIONSHIP』決勝戦の光景。
相手は、世界大会を何連覇もしているプロ格ゲー界の『絶対王者』。
自分の繰り出した渾身の差し込みも、崩しも、体幹を活かした読み合いも、すべてをあらかじめ知っていたかのように完璧に裁かれ、反撃のコンボを叩き込まれた。
結果はパーフェクト負け。
かすり傷ひとつ負わせることすらできず、文字通り「1HIT」も奪えないまま画面端でハメ殺された。
(……あはは、惨めだな……アタシ……)
楽屋の扉の隙間から漏れ聞こえてくる、みあたちの嬉しそうな泣き声と、弦の興奮した声。
本当なら、ドアをバタンと開けて「みあ、お疲れ! 最高のライブだったぞ!」と笑って頭を撫でてやるつもりだった。
だが、今の自分にはそのドアノブを引く資格すらないように思えた。
世界王者との間に横たわる、残酷なまでの実力差。
1HITも届かなかった己の無力さと惨めさに、胸が締め付けられるように痛む。こんなボロボロの顔で部屋に入れば、せっかくの最高の雰囲気に水を差してしまう。
(……帰ろ)
蓮は歯を食いしばり、溢れそうになる悔し涙を袖でゴシゴシと拭い去った。
抱えたアケコンが落ちないよう強く腕に力を込めると、足音を殺して静かに楽屋へ背を向けた。
誰にも声をかけず、誰にも気づかれないように。
あかぎ蓮は一人、底知れぬ挫折の影を背負ったまま、静まり返った夜の廊下を出口へ向かって歩き始めた。




