第24話:未来へのステップ
「三分間で決めてください、鬼塚社長。……会社を潰すか、ルナを諦めるか」
応接室に設置された英国製の重厚な置き時計が、カチ、カチと不気味に秒針を刻む。
ガラス張りの窓の外では、港区の摩天楼を見下ろす空から冷たい雨が降り続いていた。
「……一分経過」
冷酷に時を刻む駆の声が、特別応接室の重苦しい静寂に落ちる。
鬼塚社長は固く拳を握りしめ、両腕をテーブルにつけて体を震わせていた。
額から流れ落ちる脂汗が、最高級の紫檀テーブルにぽつりと落ち、小さく弾ける。
頭の中が真っ白になり、次いでドス黒い怒りと恐怖が交互に渦巻いた。
すでに追放したはずの前統括部長がやらかしたDDoS攻撃と違法労働。あの男個人の暴走で片付け、闇に葬ったはずの汚名が、まさか裏口座の決裁ルートまで押さえられ、会社そのものを滅ぼす爆弾として戻ってくるとは夢にも思っていなかった。
(この男は……最初からここまで見越して……っ!)
鬼塚は血走った目で駆を睨みつけた。
喉の奥から殺意すら漂うような怨嗟の息が漏れる。目の前の男を今すぐ叩き潰してやりたい。警察を呼ぶか? 警備員に叩き出させるか? いや、ダメだ。胸ポケットから覗くあのスマホ一タップで、自分が人生をかけて築き上げた『Live:CLOWN』という数十億円規模の巨大帝国が一夜にして破滅するのだ。
両脇の顧問弁護士と人事役員は、もはや顔を覆って俯くことしかできない。
大手としての権威も、数億円の違約金という脅し文句も、目の前の男には一切通用しない。自分たちが誇ってきた「法と契約の壁」は、駆の手によって完璧な犯罪の証拠へと裏返されていた。
「……二分経過。残り一分です」
「……く……っ、う……っ……!!」
鬼塚の歯の根がガチガチと音を立てて鳴った。
プライドが、自尊心が、これまで踏みにじってきた数多のライバーたちの顔と共に脳裏を駆け巡る。天月ルナ——我が社の不動の「女王」。彼女を無償で渡すということは、年間数十億の利益を捨て、ライバル事務所の軍門に下ることを意味する。
だが、拒絶すれば明日には会社のビルに捜査員が雪崩れ込み、株価は暴落し、全スポンサーが手を引いて倒産する。
「残り三十秒……」
駆が胸ポケットから静かにスマホを取り出し、画面をタップしようとしたその瞬間——。
「……分かった……ッ!! 判ったからそれを仕舞え……ッ!!」
鬼塚は血を吐くような悲鳴を絞り出すと、デスクの高級万年筆を引ったくり、駆が差し出した和解協定書へ震える手でサインを叩きつけた。
バリッ、と大きな音が響く。あまりの強圧と悔しさに万年筆の金属ペン先がへし折れ、黒いインクが和解書とテーブルの上にドロリと飛び散った。
「……B案を受け入れる……っ! 既に解雇した前統括部長の件も含め、あいつ個人の全責任として処理し、示談とする……! ルナのチャンネル、アバター、すべての利権も……無償で『Vスタ』へ移譲する……っ!!」
ガタガタと肩を揺らし、血の涙を流さんばかりの顔で駆を射殺さんばかりに睨みつける鬼塚。
「三分間」の極限の心理戦の果て、かつて業界の頂点に君臨していた絶対王者は、完全に屈服した。
駆は協定書を手にとり、インクが乾いているのを確認すると、サインと捺印に間違いがないか冷静に確認し、それを静かにレザーファイルへ収めた。
「賢明なご判断です、鬼塚社長。これで本件における一切の不法行為について、Vスタ側および天月ルナからの公表・法的措置は取り下げます」
駆は立ち上がり、胸ポケットから一冊の小さなノートを取り出してテーブルの上、インクの染みの脇へ置いた。
「それと……これはルナが後輩ライバーたちのために残した、現場の改善要望書です。過剰な配信ノルマの緩和と、スタッフの労働環境の改善。……今後はこれに目を配ることをお勧めします。次に同じようなことが起きれば、二度目はありませんよ」
一礼し、静かに応接室を去っていく駆の背中を、鬼塚はギリ……と歯が砕けんばかりに噛み締めながら、ただ絶望と悔恨の中で見送るしかなかった。
「織田……駆……ッ! 貴様……ッ!! 許さん……絶対に許さんぞ……ッ!!」
誰もいなくなった最上階の応接室に、鬼塚の激昂と悔し涙の咆哮が虚しく響き渡った。
数日後。VTuber界隈に巨大なショックが駆け巡った。
『Live:CLOWN』公式アカウントより、味気ない一枚のプレスリリースが流されたのだ。
【公式発表:『天月ルナ』契約終了および退所のお知らせ】。
理由の詳細は「方向性の違い」と濁され、活動休止すら挟まない突如の退所発表。
転生先の告知もなければ、最後の引退配信すら行われない。
SNSのタイムラインは瞬く間にパニック状態へ陥った。
『は!? 嘘だろ!? 天月ルナ退所!?』
『150万人の女王がこんな終わり方あるかよ……』
『運営と何があったんだ……お願いだから嘘だと言ってくれ』
『もうルナちゃんの歌は二度と聴けないの……?』
ファンたちの悲鳴、憶測、そして運営への怒りが渦巻く中、天月ルナのSNSアカウントはピタリと動きを止め、彼女は表舞台から完全に姿を消した。
世間がどれほど騒ごうとも、駆はルナを都内のウィークリーマンションへ匿い、外部との連絡を遮断させて静かに休養させていた。
「悔しいか、ルナ」
潜伏先の部屋を訪れた駆が、窓の外を見つめるルナに問いかける。
「……ううん。全然後悔してません。あんな偽りの場所で歌うより……ずっと心が軽いです。ただ……ファンの人たちを不安にさせちゃってるのだけが、胸が痛くて……」
「心配いらない」
駆は不敵に口角を上げた。
「お前をこのまま闇の中に消すつもりはない。……近いうち、最高のお披露目の舞台を用意する」
「お披露目の……舞台……?」
「『音無すず』の初の3Dお披露目ライブだ。……そのフィナーレでお前をステージに立たせる」
ルナが息を呑む。
「すずちゃんにも内緒なんですか……?」
「ああ。すずにも、他の誰にも一切知らせない。弦と俺だけで極秘裏にシステムを組む。本物の驚きと、本物の歌声を、ライブ配信という一番熱い場所で世界にぶつけるんだ」
駆の言葉に、ルナの瞳にパッと眩い希望の光が宿った。
「すずちゃんの3Dライブ……! 私……すずちゃんにも、待っててくれたファンのみんなにも……私の最高の歌を届けたいです……っ!」
「よし。ボイストレーニングと準備に入れ。演出のプランは俺がすべて組み上げる」
絶対女王の沈黙。それは敗北でも引退でもない。
世界を激震させる、史上最大のサプライズへ向けた『溜め』の期間だった。




