第21話:暗闇のメッセージ
『Live:CLOWN』が所有する都内一等地の高層マンション。
その一室にある防音配信ルームは、機材のLEDランプだけが怪しく青白く明滅する、冷たい暗闇に包まれていた。
防音壁に囲まれた静寂の中で、天月ルナはデスクに突っ伏したまま、震える指先でスマホの画面を見つめていた。
画面に映っているのは、先ほどまで世界中を熱狂させていた『音無すず』の歌唱シーンの切り抜き動画だ。
個人勢時代の苦しみ、アンチからの心ない暴言、そして声を失いかけた恐怖……そのすべてを飲み込み、突き破るようにして解き放たれたすずの圧倒的な歌声。
(あんなに……あんなに綺麗に歌えるんだ……)
ルナの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、スマホのガラス画面を濡らした。
すずの歌声は、ただ上手いだけではなかった。聴く者の心を揺さぶり、「明日も生きてみよう」と思わせる本物の光があった。
翻って、自分はどうだろう。
チャンネル登録者数150万人。『Live:CLOWN』の不動のトップライバー。
世間からは羨望の眼差しを向けられる「絶対女王」。
けれど、その実態は——会社が買い叩いた既成のポップスを、過剰な機械補正で整え、会社から配られたマニュアル通りの笑顔と「営業トーク」でファンを繋ぎ止めるだけの、無機質な操り人形だった。
『ルナ、次の歌ってみたの収録、スケジュールの都合で明日の朝6時からになったから』
『もっとファンを喜ばせるような甘いセリフ言いなよ。数字落ちてるよ?』
『君をここまで育ててやったのは会社なんだから、余計な自己主張はいらないんだよ』
脳裏にリフレインする、前統括部長やマネージャーたちの冷淡な声。
部屋の片隅に置かれたファイルには、未成年の頃に右も左も分からぬままサインさせられた「専属契約書」が挟まれている。
そこには、競業避止義務、過酷な配信ノルマ、そして万が一契約を解除した際の破格の違約金条項が、微細な文字でびっしりと書き連ねられていた。
「私……何のために歌ってるんだろう……」
喉の奥がヒリヒリと痛む。
声が出なくなるのが怖くて、本当の自分を偽り続けて、数字という数字の奴隷になっていた。
画面の前で嘘の笑顔を浮かべるたび、心がバキバキと音を立てて割れていく感覚がしていた。
すずの歌声が、駆の教えてくれた言葉が、ルナの胸の奥で激しく疼いていた。
『歌は……誰かを幸せにするためにある』
(私も……私の歌を取り戻したい……! 誰かを幸せにするための、本当の歌を……っ!)
ルナは涙を袖で拭うと、意を決してスマホのファイルマネージャーを開いた。
会社から隠れるようにして、密かに録音してきた統括部長からのパワハラ音声データ。
過剰な連日配信を強要された社内チャットのスクリーンショット。
そして、法的に極めてグレーな専属契約書のスキャンデータ。
発覚すれば、会社からどのような報復を受けるか分からない。恐怖で全身の毛穴が開き、手がガタガタと震える。
けれど、ここで立ち止まれば、自分は一生「天月ルナ」という綺麗な籠の中で腐っていく。
ルナは連絡先のアドレス帳の最下部、ずっと消せずにいた名前に指を添えた。
『織田 駆』。
かつて、自分を人間として扱い、会社の大人の都合から庇おうとしてくれた唯一のプロデューサー。
ルナは震える指先でファイルをメッセージに添付し、血を吐くような想いを文字に打ち込んだ。
『織田さん、夜遅くにすみません。すずちゃんの配信を見ました。私……もうLive:CLOWNで嘘の自分を演じるのは限界です。私の歌を取り戻したい。……助けてください』
送信ボタンを押した瞬間、ルナはスマホを胸に抱きしめ、祈るように強く目を閉じた。
同じ時刻。深更のボロアパート『Vスタ』事務所。
コラボ配信の処理を終え、ソファでウーロンハイを飲んでいた神代弦が、ふとデスクの上の駆のスマホが静かに光ったことに気づいた。
「ん? 駆、なんかメッセージ来てるよ。こんな時間に珍しいね」
ベランダで夜風に当たっていた駆が、ガラス戸を開けて戻ってくる。煙草の灰を消し、手にしたスマホの画面を覗き込んだ。
差出人の名を見た瞬間、駆の眉根がわずかに寄った。
「……天月ルナか」
駆が添付ファイルを開き、画面をタップしていく。
スピーカーから漏れ聞こえてくるのは、締め切った部屋で統括部長がルナを詰問する、生々しく陰湿な音声だった。
『お前の代わりなんていくらでもいるんだよ! 誰のおかげで100万人超えたと思ってんだ!? 言うこと聞けないなら潰すぞ!』
弦のグラスを持つ手が止まり、顔から一気に血の気が引いていった。
「うわ……これ、マジ……? ルナちゃん、裏でこんなこと言われてたの……!?」
駆は無言のまま、添付された契約書の条項やチャットログを一つ一つ慎重に追っていく。瞳の奥に、氷のように冷たく静かな怒りの火が宿っていくのが分かった。
「駆……ルナちゃんを助けたい気持ちは分かるよ。でも、相手は『Live:CLOWN』のトップ中のトップだよ!?」
弦が身を乗り出し、焦ったように語りかける。
「看板ライバーの引き抜きなんて、向こうは会社を挙げて潰しにかかってくる。それに『天月ルナ』のアバターやチャンネルの権利を買い取るとなったら、違約金も含めて数十億円は下らない。うちの事務所の資金なんて一瞬で吹き飛ぶよ! アバターを捨てて、転生してもらうしかないんじゃ……」
「いや」
駆は低く、地獄の底から響くような声で弦の言葉を遮った。
「転生なんてさせるものか」
「え……?」
「転生すれば、過去のファンを置き去りにし、『天月ルナ』として積み上げてきた歴史も歌もすべて奪われる。……そんなのは、Live:CLOWNの思惑通りに屈したのと同じだ」
駆はデスクに両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。その眼光は、暗闇の中で獲物を狙う猛禽のように鋭かった。
「『天月ルナ』という名も、あの姿も、何百万人のファンも……すべてをそのままVスタへ奪い取る」
「む、無茶だよ駆! どうやって数十億の利権を突っぱねるつもりなのさ!?」
「買い取るんじゃない。……あちらから『すべて無償で譲渡します、どうか許してください』と頭を下げさせるんだ」
駆はスマホの画面を閉じ、弦に向かって不敵に口角を上げた。
「神代。お前が押さえたDDoS攻撃のログ……そしてルナが命がけで送ってきたこの証拠。……これらを組み合わせれば、会社全体を『不法行為の泥沼』へ叩き落とせる」
弦は呆気にとられたように目を見開き、やがてゴクリと唾を飲み込んだ。
「……本気なんだね、駆」
「ああ。……待たせたな、ルナ。今度こそ、お前をあの暗闇から引きずり出してやる」
静まり返ったボロアパートの一室で、巨大な帝国『Live:CLOWN』を崩壊させるための、恐るべき反撃の盤面が静かに組み上がり始めていた。




