9.通学路
9.通学路
翌朝、講義棟へ向かう途中に足を止めた。
理由はうまく言葉にできなかった。
何かが引っかかった、という程度のことだった。風の向きが変わったとか、誰かの足音が重なって聞こえたとか、そういう、具体的な理由があったわけではない。ただ、首の後ろのあたりに、薄い圧のようなものを感じた。
振り返ってみても、廊下には数人の学生が行き交っているだけで、こちらを見ている者は誰もいなかった。皆それぞれの行き先へ向かっているだけで、誰一人として視線の合うものはいなかった。視界の端で何かが動いた気がして、注視してみるも誰もいない。曲がり角の向こうに誰かが立っていたような気配を感じて、少し戻ってみても実際にはそこには何もなかった。
教室の扉を開けて中に入ると、感覚が少し薄れた。
屋内の、人の多い場所に入ったからだろうか。それとも単に気が散っただけだろうか。
宮舞天音と同じ講義ではないから、というのは考え過ぎだと思いたかった。
一瞬だけ歩いて来た廊下を振り返った。
廊下の外、構内の通路が見える。行き交う学生。木の梢が風に揺れている。階段の手前に銀色の何かが見えたような気がして目を凝らしたが、それが何だったのか確認できなかった。
教室の空気が思ったより冷たかった。
二月の朝としては普通の寒さのはずだった。それでも、首の後ろから背中にかけて、じわりと冷えが残っている。汗をかいているわけでもないのに、体の芯だけが微かに湿っているような、嫌な感覚だった。
あの頃、自分は常に死角を選んでいた。
視界の端、柱の裏、人の流れの中。彼女の動線を先読みして、こちらからは見えるが相手からは見えない位置に立つ。気配を消す。足音を周囲の騒音に紛らわせる。それを何ヶ月も続けていた。
見つからないように動くということが、どういうことか、嫌というほど知っていた。
だがその頃は、見られている側の感覚を知らなかった。厳密には理解していなかったということになるのだが。
宮舞天音の後をつけていた時、気づかれていると意識したことはなかった。完全に隠れられていると思っていたわけではないが、少なくとも確信されてはいないだろうと高をくくっていた。
しかし彼女の言動から判断するに、ずっと前から知られていたのだろう。
見られている側には何かが伝わる。根拠のない、証拠もない、それでも消えない感覚として。
もし、同じやり方で見られているとしたら。
その可能性に思い至った瞬間、背筋に感覚が走った。
ひやりとした、というより、何かが腑に落ちた、という感覚に近かった。
夜の校舎で、図書棟で、暗い夜道で、自宅で、至る所で感じていた視線を思い出す。
呼吸の気配。人がいなくなった後に残る、誰かがそこにいたような空気。
その感覚が始まったのは、いつからだっただろうか、と思った。
思い返せば随分前からあった気がした。
ただその頃は、自分にやましい気持ちがあるからだ、と片付けていた。
やましいことをしている人間は、見られていると感じやすい。それは自分でも分かっていた。だから、感覚を感じるたびに、その説明で上書きしてきた。
だが今も、同じ感覚がある。
やましいことをやめようとしている、今この時でも。
誰もいない、ということと、誰もいなかった、ということは厳密には違う。
自分が一番よく知っている話だった。
昼休みが終わり、午後の講義に入ろうとしていた。
約束の講義には向かわなかった。
啖呵を切った手前、『待っています』と告げられた講義に向かう気は起きなかった。
人の流れと逆方向に歩いて、図書棟へ向かう。
地下への階段を下りると一層空気が冷たく感じた。外の湿った冬の空気とは違う、乾いた紙と埃の混じった匂い。地下特有の静けさが階段を下りるたびに濃くなっていった。
地下3階の閲覧室は、予想通り人が少なかった。
通常の試験は既に終わっているため、わざわざここまで来る学生はほとんどいない。奥の席に数人いる程度で席はほぼ空いていたので、壁を背にして、入り口が視界に入る位置に座った。
無意識に見られる側の選択になっていた。先日のように鉢合わせにはなりたくなかった。
教科書を広げて、講義の復習を始める。
ページをめくる音が、静かな地下に小さく響く。
空調の唸りが一定のリズムで続いているのみで、それ以外には何の音も聞こえなかった
ページをめくっていくと途中で手が止まる。自分の字ではない宮舞天音の可愛らしい丸文字が目に入った。
それは一緒に講義を受けた日のノートだった。余白に書き込みが入っている。整然とした細い文字で、自分が取りこぼしていた板書の補足や、式の途中経過が丁寧に添えられていた。
見比べると自分のノートとの差が嫌になるほどはっきりしていた。走り書きで半分しか追えていない自分の文字と、どこにも迷いのない彼女の文字が同じページの上に並んでいると、思わずため息が出る。
開いたまま机に置いておく気になれず、ノートを閉じた時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
『今、どこにいますか?』
『会いたいです』
『見ていますよね』
『返事をしていただけませんか』
喉の奥がひくひくと引き攣った。思わず電源ボタンを長押しする。
携帯は静かになったが、胸の鼓動がいつものようにどくどくと鳴り始めていた。
空調の駆動音が嫌に頭に響き、この場所にいることが急に堪えられなくなっていた。
荷物をまとめて、席を立つ。
地上に出ると、外の空気が冷たかった。
地下の乾いた静けさとは打って変わって、廊下には講義の合間の学生が行き交っていた。その流れに混じりながら、どこへ行くか決めかねていた。
図書館を出たのは、落ち着かなかったからだ。
落ち着かない理由は分かっている。分かっているが、だからといってどこへ行けば落ち着くのかも、よく分からなかった。
人の流れを避けるように、裏手の渡り廊下へ向かった。
この通路は古い棟と新しい棟を繋ぐためだけに存在していて、普段から人通りが少ない。授業の合間に使う学生もほとんどおらず、気が向いたときに一人でいるには都合のいい場所だった。
渡り廊下に入ると、一気に外の騒音が遠のいた。
コンクリートの壁に、細長い窓が等間隔に並んでいる。外は中庭で、冬の枯れた芝生が広がっていた。午後の光が低い角度から差し込んで、廊下の床に窓枠の影を規則正しく落としていた。
ゆっくりと歩きながら、頭の中を整理しようとした。
宮舞天音のことを考えていた。
自分にとって宮舞天音は推しである。この感情について深く考えることは今まであまりなかったが、どこまでも追いかけたくなる程に夢中になっていることは確かだった。
その適切な距離がどこにあるのか、今も以前も自分で測ることができなかった。
宮舞天音にとっての自分がなんであるかは、考えてもわからないことだった。
宮舞天音に求められて、それを避けている自分のことも整理がつかなかった。
本来ならば喜ぶべきであるのだろうか、夢のような話であることは理解しているつもりだった。だがそれ以上の得体の知れなさに逃避を選んでいた。
先日の、昼食を共にした時の会話を思い出す。
『分からないことは、一つずつ聞けばいいじゃないですか』
……と、彼女は言った。会話を交わせば、宮舞天音のことを理解することもできるのかもしれない。
しかしそれと同時に、自身と宮舞天音の間にある埋めることのできない差についても十分理解しているつもりだった。
ファンの身から知って取れるように、彼女のバンドは今が一番勢いに乗っていて、今が一番大事な時期だった。
そんな彼女の時間が自分のような存在に使われることに耐えられなかった。
自分には何もなかった。信念も、本心も、何一つとして優れている点が思い浮かばない。
アイデンティティでさえも彼女に依拠していた。宮舞天音を追う自分という存在になることで自分自身を成り立たせていた。
廊下の中ほどまで来たところで、ふと足を止めた。
窓ガラスに、自分の姿が薄く映り込んでいた。
外の光が強いせいで、映り込みははっきりとしていた。鏡のように映る自分の輪郭、その後ろに続く廊下の奥。
目が、そこで止まった。
映り込みの中、廊下の奥の方に、また何か、銀色のきらめきが見えた気がした。
一瞬のことだった。窓ガラスに反射する像は歪んでいて、正確な形は分からない。銀色の、細長い何か。
振り返るも誰もいなかった。
廊下の奥まで、視線を走らせた。
出入り口の扉は閉まっている。柱の陰にも、壁際にも、人の姿はなかった。窓の外の中庭も、人けがなかった。
だが今度は、気のせいだと思えなかった。
窓ガラスに映った像は、確かに見た。一瞬だったが、銀色のものが廊下の奥にあったのは確かだった。それが何だったのか、今となっては確認できないだけで。
しばらく、その場で動けなかった。
廊下の窓から差し込む光だけが、規則正しく床に影を落としていた。その影が、風もないのにわずかに揺れているように見えた。気のせいだった。今度は本当に気のせいだったと思う。だがそう分かっていても、目が影の動きを追い続けた。
視線を感じていた。
ずっと前から、ずっと感じていたものだ。見られている、覗かれているとはっきりと理解できるような感覚。
背筋を冷たいものが伝った。
恐怖とは少し違った。もっと静かな、根元から崩れていくような感覚だった。
最早この感覚に耐えることはできず、振り切るように走り出した。
考えるより先に、足が出ていた。振り返ったら、また何かが見える気がした。
走った。
どこへ向かうかは考えていなかった。ただ、視線の届かない場所へ。それだけを目指して、渡り廊下を抜け、旧棟の脇をすり抜けた。
旧棟の裏、資材置き場の脇を抜ける細い通路に入る。
学生はまず使わない道だった。両側を古い壁に挟まれ、日もろくに差さない。ここを通る人間がいるとすれば、近道を知り尽くした業者か、人目を避けたい人間くらいのものだ。
ようやく足を緩める。肺が痛い。壁に手をつき、荒い呼吸を整える。
視線は、もう感じなかった。
撒いた、という言葉が頭に浮かんで、すぐに打ち消した。撒くも何も、誰かに追われていたという証拠はどこにもない。銀色の何かも、揺れる影も、全部気のせいで済む範囲の話だ。走り出したこと自体が、過剰な反応だったのかもしれない。
呼吸が落ち着いてくると、今度は自分の滑稽さが染みてきた。
誰もいない通路で、一人で息を切らしている。何から逃げてきたのかも、自分で説明できないままに。
とにかく、ここを抜けよう。
通路の先は確か、講義棟の裏口に繋がっている。そこまで出れば人目もある。人目があれば、少なくともこの感覚からは──
顔を上げて、足が止まった。
通路の出口、逆光の中に、人影が立っていた。
長身のシルエット。頭の上で揺れる二つの耳。逆光の縁で、銀色の髪が細く光っている。
走って、経路を選んで、撒いたはずだった。
その先に、彼女は立っていた。追いかけてきたのではない。息一つ乱れていない。最初からそこにいて、ただ待っていたという佇まいだった。
俺がどこへ逃げるか、彼女は走り出す前から知っていたのだ。
かつての俺が、彼女の動線を先回りして待ち構えていたのと、寸分違わず同じやり方で
「こんにちは」
立っていたのは、宮舞天音だった。
すれ違う人もいない静かな通路で、彼女だけがそこに立っていた。
表情は変わらず涼やかで、何事もなかったかのような微笑みを浮かべている。
「……どうして、ここに」
思わず声が出た。
この通路は、普段彼女が使う動線からは大きく外れている。偶然などありえない場所だった。
宮舞天音は小さく首をかしげた。
「偶然ですよ」
「偶然」
「偶々、私の行こうとする先に、貴方が居るだけです」
あまりにも自然に、あまりにも淀みなく、彼女はそう言った。
その言い方に、覚えがあった。
かつて自分が、彼女の後をつけながら、心の中で何度も繰り返してきた言い訳だ。
偶然同じ講義だった。偶然同じ時間に同じ食堂にいた。偶然、同じ場所を歩いていた。
その言葉が、今は彼女の口から出てきている。
「と、私が言うと思いましたか?」
「貴方に会いに来たんです」
宮舞天音はそう言うと、にこりと微笑んだ。
その笑顔の奥に、これまで見たことのない種類の光が宿っているような気がした。
偶然のはずがない、と分かっていた。
彼女がここに来るための偶然など、最初から存在しない。
だが、それを指摘する気力は、もう残っていなかった。
距離を置こうとして、断ったはずだった。
それなのに今、彼女は前よりも近い場所に立っている。
まるで、立場が入れ替わってしまったかのようだった。




