10.通路
10.通路
「……聞きたいことが、あります」
声を絞り出すまでに、随分と時間がかかった。
宮舞天音は逆光の中で、静かに頷く。
「どうぞ」
「あの視線は……俺がずっと感じていた視線は、あなただったんですか」
夜の校舎。図書棟。バイト終わりの廊下。さっきの渡り廊下。
数え上げようとして、多すぎてやめた。
「はい」
あっさりとした返答だった。
「……全部?」
「全部かどうかは分かりません。私が見ていなかった時間の分までは、保証できませんから」
冗談めかした言い方だったが、目は少しも笑っていなかった。
「いつから、ですか」
「数ヶ月前から、でしょうか。最初は、時々。最近は……毎日」
毎日、という言葉が、狭い通路の壁に反響した気がした。
「どうして」
「どうして、とは」
「どうして、隠れて見ていたんですか。あなたなら、いつでも声をかけられたはずです」
実際、彼女は声をかけてきた。喫煙所で、教室で、当たり前のように隣へ来た。隠れて見る必要など、彼女には最初からなかったはずだ。
宮舞天音は少しの間、視線を落とした。
傾いた日が、伏せられた銀色の睫毛の影を頬に落としている。
「貴方の、真似です」
「……真似?」
「貴方がしてくれていたことの、真似です」
理解が追いつかなかった。
彼女は構わず続けた。囁くような、大切な打ち明け話をするような声だった。
「気づいたとき、最初は不思議だったんです。どうして声をかけてくれないんだろうって。ファンなら、話しかけてくれればいいのに」
「でも、見ているうちに分かりました。貴方は、私の邪魔にならないように、私が困らないように、わざわざ見えない場所を選んでいたんですよね」
「写真も撮らない。家にも来ない。プレゼントも贈らない。万が一にも、私に迷惑がかからないように」
図星だった。
限りなく無害であろうとしている──自分に言い聞かせてきた言い訳を、彼女は一言一句、正確に読み取っていた。ただし、言い訳としてではなく。
「それって、その……愛じゃないですか」
愛、という単語が、静かな通路にぽとりと落ちた。
「何も求めない。気づかれることすら求めない。ただ元気でいてくれればいいって、遠くから祈っているだけ。……私、そんなふうに想われたのは初めてでした」
「だから、私もそうしたかったんです」
「同じやり方で、お返しがしたかった」
「貴方が私にしてくれたことを、そっくりそのまま。……不器用なのは、自覚しています。でも私、これ以外に貴方へ伝わる言葉を、知らなかったので」
言い終えて、宮舞天音はわずかに目を伏せた。
四本の尻尾が、落ち着きなく揺れている。頬が、夕日のせいだけではない色に染まっていた。
拙い手作りの贈り物を差し出す子供のような顔で、彼女はそこに立っていた。
「……違う」
喉から出た声は、掠れていた。
「違いません」
「違います。あれは、愛なんかじゃない。……ただの、犯罪です」
「俺は、あなたの生活を勝手に覗いて、勝手に追い回して、勝手に満足していただけだ。祈っていたなんて、そんな綺麗なものじゃない」
言いながら、気づいていた。
彼女の行為を否定しようとする言葉が、一言残らず、放った先から自分自身に突き刺さって返ってくることに。
宮舞天音は、悲しそうに──それでいて、どこか嬉しそうに首を振った。
「なら、私のしたことも犯罪ですね」
「私は貴方の後をつけて、アカウントを特定して、時間割を調べ上げて……貴方の持ち物も、借りています」
「貴方が自分を許せないと言うなら、私のことも許さないでください」
「貴方が自分を犯罪者だと言うなら、私も同罪です」
「だから」
彼女は一歩、距離を詰めた。
「私たちは、同じなんですよ」
同じ。
その二文字が、これほど恐ろしく響いたことはなかった。
彼女を肯定すれば、自分のしてきたことを肯定することになる。
自分を断罪すれば、目の前で頬を染めているこの人を、断罪することになる。
どちらの道も、選べなかった。
「……同じじゃ、ない」
「どこがですか」
「あなたには価値がある。大勢に必要とされていて、これから先も必要とされていく人だ。俺とあなたじゃ、釣り合いが──」
「関係ありません」
初めて、声が強くなった。
「価値があるから許される、ないから許されない。そういう話を、私はしていないんです」
「私はただ、貴方と同じ場所に立ちたいだけです」
「貴方が暗がりに立つなら、私も同じ暗がりに立ちます。それの、何がいけないんですか」
答えられなかった。
碧眼がまっすぐにこちらを射抜いている。日はもう沈みかけていて、通路の影は足元でひとつに溶け始めていた。
「……教えてください」
彼女の声が、ふいに細くなった。
「私のやり方は、間違っていましたか」
「貴方は、あの日々を──私を見ていてくれた日々を、間違いだったと思っているんですか」
それは、一番聞かれたくない質問だった。
間違いだったと言えば、文化祭のあの日からの一年半を、彼女を追うことでかろうじて自分を成り立たせてきた、その全てを否定することになる。
間違いではなかったと言えば、彼女の視線を、この先もずっと受け入れると宣言することになる。
喉が、からからに渇いていた。
言葉は、どちらも出てこなかった。
代わりに、足が動いた。
「……すみません」
彼女の横を、すり抜けた。
肩が触れそうな距離だった。彼女は、止めなかった。手を伸ばせば届いたはずなのに、その手は最後まで伸びてこなかった。
振り返らずに走った。
背中に視線を感じた。今度こそ気のせいではないと、知ってしまった視線を。
それは最後まで、追いかけてはこなかった。
家に辿り着いたのは、日がとっぷりと暮れてからだった。
どの道を通って帰ったのか、まるで覚えていない。電気もつけないまま、玄関に座り込んだ。
あの通路で、彼女は確かに嬉しそうだった。長いあいだ隠してきた宝物を、ようやく見せられたというような顔をしていた。
俺はその宝物から、逃げ出してきた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
『また明日、待っていますね』
既読はつけられなかった。
つけなかった、というほうが正確かもしれない。
画面が暗転して、間抜けな男の顔だけが映る。
愛じゃないですか、と彼女は言った。
私たちは同じなんですよ、と彼女は言った。
もし、そうだとするなら。
俺があの人に向けてきた一年半が、本当に彼女の言う通りのものだったのだとするなら。
俺は今日、生まれて初めて正面から愛されて──そして、そこから逃げたということになる。




