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11.十三号棟-地下二階

 11.十三号棟-地下二階



 

 翌日、午前の講義には出た。 

 

 彼女と共通の講義は、午後からだ。午前中なら鉢合わせる心配はない。教授の声は右の耳から左の耳へ抜けていき、九十分かけてノートに残ったのは日付だけだったが、それでも出席したのは、単位まで捨ててしまえば本当に何も残らない気がしたからだった。 

 

 問題は午後だった。 『待っています』と告げられた講義に、行くつもりはなかった。かといって帰宅もできない。夕方からは講義棟の地下で、教授のアルバイトが入っている。

 ……つまり、それまでの数時間を、彼女に見つからずにやり過ごす必要があった。

 

 誰もいない場所を探して、当てもなく構内を彷徨った。

 

 歩いているうちに、また視線を感じ始めた。

 

 昨日までなら、気のせいだと片付けていた種類の感覚だ。だが今は、その正体に心当たりがある。……宮舞天音か。

 既読をつけていないメッセージへの返事を、直接受け取りに来たのかもしれない。足取りは自然と早くなったが、逃げ切れるとも思っていなかった。彼女から逃げ切れた試しがない。

 

 だが、歩くうちに違和感が膨らんでいった。

 

 何かが、違う。

 

 彼女の視線なら、嫌というほど知っている。この数日で骨身に染みた。あれはもっと静かで、深くて、こちらの輪郭をなぞるような──湯に浸かっているのに似た、奇妙な温度のある感覚だ。認めたくはないが、慣れてしまえば不快ですらなかった。

 

 今、背中にあるものは温度が違った。

 硬くて、乾いていて、こちらを測っているような。包む視線ではなく、突きつける視線だった。

 

 それに、隠し方が拙い。

 彼女の気配は、意識を尖らせてようやく「いるかもしれない」と感じ取れる程度のものだ。これは違う。曲がり角の向こうで足音が半端に止まり、窓ガラスの端を影が掠める。素人の尾行だった。……素人の尾行を見分けられる自分も、大概だが。

 

 振り返って確かめる勇気はなく、かといって撒ける気もしなかった。

 

 行き着いたのは十三号棟の地下だった。

 比較的新しい校舎で、地下二階にはワーキングスペースと呼ばれる自習用の区画がある。白い長机と揃いの椅子が整然と並び、壁際には使われた形跡のないホワイトボード。空調の低い音だけが響いていて、人の気配は全くなかった。

 

 昼のこの時間、ここまで降りてくる学生はまずいない。

 階段を降りる間も、気配は一定の距離を保ってついてきていた。途中から、隠す気すらなくなったようにも感じられた。

 

 鞄を下ろし、手近な椅子に腰を下ろそうとしたところで、背後から声がかかった。

 

 

 「──こんなところに、何の用があるんですか?」

 

 振り返った。

 廊下の入り口に、時津凛華が立っていた。

 

 赤茶色の髪が蛍光灯の光を受けて揺れている。

 いつもの明るい表情ではなく、どこか値踏みするような目でこちらを見ていた。

 

 「……サークルの練習は」

 

 「夜からです」

 

 一歩、二歩と歩いてくる。

 靴音が、無人のフロアにやけに大きく反響した。

 

 「まあ私を誘い込んだってところですか、歓迎ですよ、私としてもお話がしたかったので」

 

 「そんなつもりは」

 

 「冗談ですよ」

 

 時津凛華は笑った。目は笑っていなかった。

 

 「でも、人に聞かせるような話でもありませんからね」

 

 彼女は手近な長机の縁に、ひょいと浅く腰を預けた。

 一見すると気安い仕草だった。だがその実、こちらと階段の間、唯一の出口を塞ぐ位置取りだった。偶然ではないだろう。

 

 「地下二階まで尾行されて、気づかないふりで案内してくれるんですから。貴方、慣れてますよね、そういうの」

 

 「……気づいていたなら、上で声をかけてくれても」

 

 「嫌ですよ。人前でする話じゃないですし」

 

 時津凛華は机の縁を指先でとん、とんと叩いた。

 ギタリストらしい、皮の硬くなった指先だった。一定のリズムを刻むその音だけが、しばらく二人の間を埋めた。

 

 「……ずっと、引っかかってたんです」

 

 「カフェで会ったとき、言いましたよね。どこかで会ったことある気がするって」

 

 「はい」

 

 「あれから、ずーっと考えてたんです。授業中も、練習中も。おかげでこの数日、コードを三回も間違えました。」

 

 軽口の体裁を取ってはいたが、声の芯は硬いままだった。

 

 「最初はライブかなって思ったんです。よく来てくれてる人だし。でも違う。ライブで見る顔なら『お客さん』の顔で覚えてます。私が引っかかってたのは、そうじゃなくて」

 

 指のリズムが、止まった。

 

 「学祭のあと。天音ちゃんと二人でファミレスに行った帰り道。……向かいのバス停に、ずっと立ってた人」

 

 「去年の秋。サークル棟の前の自販機。天音ちゃんが機材を運んでる間、缶コーヒーを二本買って、一本も飲まなかった人」

 

 「先月。学食で、天音ちゃんの三つ後ろに並んで、天音ちゃんと同じ限定メニューを頼んだ人」

 

 一つ挙げるたびに、時津凛華は指を折った。

 こちらは声も出せなかった。挙げられた場面のどれにも、覚えがあった。全部、完璧に隠れられていたと思っていた場面だった。

 

 「私、こう見えて目はいいんですよ。ステージの上から、客席の一人ひとりの顔が見えるくらいには」

 

 「点と点だったんです、ずっと。ばらばらの、ただの偶然かもしれない点。でも先週、貴方の顔を近くで見て──昨日の夜、全部つながっちゃいました」

 

 時津凛華は机から腰を上げた。

 まっすぐに、こちらを見る。

 

 「思い出しました」

 

 「貴方は、その……」

 

 一度言葉を切る。言い慣れない単語を、口の中で確かめるような間があった。

 

 「天音ちゃんのストーカーを、していませんでしたか」

 

 空調の音が、急に大きく聞こえた。

 

 言い逃れの言葉なら、探せばいくらでも出てきただろう。同じ学部だから、講義が被っているから、ただのファンだから。この一年半、自分自身に言い聞かせてきた言い訳の在庫は豊富だった。

 

 だが、目の前の彼女はもう、点を線にしてしまっている。

 そして何より、まぎれもない事実だった。

 

 「……はい」

 

 はい、と答えるしかなかった。

 

 時津凛華は、しばらく黙ってこちらを見ていた。

 驚いた様子はなかった。ただ、ふっと肩から力が抜けたのが分かった。最後の確認が終わった、という顔をしていた。

 

 「そう、ですか」

 

 「……正直、ちょっとだけほっとしました。私の思い過ごしじゃなかったんだって」

 

 「私としては、気にしすぎだと思いたかったのですがね」

 

 ため息とともに吐き出された声には、怒りよりも落胆の色が濃かった。

 

 「言い訳とか、しないんですね」

 

 「……できる立場じゃないので」

 

 「そこは評価します。往生際だけは」

 

 時津凛華は腕を組んだ。組んだ腕の指先が、二の腕に食い込んでいる。平静な声とは裏腹に、その手は微かに震えていた。

 

 怖いのだ、と遅れて気づいた。

 彼女は今、素性の知れないストーカーと、人気のない地下で二人きりでいる。それを承知の上で、逃げ道を塞ぐ位置に立って、追及している。震える手を隠しながら。

 

 「……一つ、聞いてもいいですか」

 

 「どうぞ」

 

 「天音ちゃんに、何かしましたか。触ったり、脅したり、家に行ったり」

 

 「していません。……信じてもらえないでしょうが、一度も」

 

 「信じますよ、一応」

 

 あっさりと返ってきて、面食らった。

 

 「そういうのがあったなら、天音ちゃんの様子でわかりますから。あの子、隠し事は上手いけど、我慢は下手なので」

 

 「じゃあ、もう一つ」 

 

 時津凛華は、そこで少しだけ声を低くした。

 

 「天音ちゃんは、このこと──貴方が何をしていたか、知っているんですか」 

 

 一瞬、答えに詰まった。 

 

 知っている。最初から、全部。それどころか彼女は、同じことをこちらに返してさえいる。昨日の渡り廊下で、頬を染めながら、愛じゃないですか、とまで言った。……だが、それをどう説明する? 誰が信じる? 

 

 話していません、と言えば、この場は丸く収まる。分かっていた。分かっていたが、口が動かなかった。それは彼女が昨日、拙い贈り物のように差し出してきたものを、こちらの都合で無かったことにする嘘だった。

 

 「……知って、います」 

 

 正直に、答えた。 

 時津凛華の眉が、ぴくりと動いた。

 

 「……は?」

 

 「彼女は、知っています。多分、最初から全部」 

 

 口にした瞬間、自分でも分かった。

 これは、世界で一番信用されない台詞だ。 

 

 時津凛華は、しばらく無表情でこちらを見ていた。値踏みするような目が、探るような目に変わり、それから、深い深いため息に変わった。

 

 「……あのですね」 

 

 声から、それまで辛うじて保たれていた丁寧さが、一段剥がれた。

 

 「それ、ストーカーの常套句だって、知っていますか。『彼女は分かってくれている』『本当は受け入れてくれている』──ニュースで捕まった犯人が言うやつと、一言一句同じですよ」

 

 「……」

 

 「大体、知っていたら、あの子が貴方の隣であんなに楽しそうに笑っていられるはずがないでしょう」 

 

 反論の材料なら、あるにはあった。

 向こうから交換を求められた連絡先。手渡されたチケット。ブックマーク欄を埋め尽くしていた、自分の投稿。そして昨日の、あの告白。だが、どれ一つとして口にできなかった。

 証拠として並べれば並べるほど、ストーカーの妄想の目録にしか聞こえない。そして何より、それらは宮舞天音の秘密だった。彼女が一年かけて隠してきたものを、彼女のいない場所で、自分の弁護のために切り売りする権利はなかった。

 

 「……反論、しないんですね」

 

 「信じてもらえるとは、思えないので」

 

 「言い分も聞かず話を進めるのは、趣味じゃないのですが」 

 

 時津凛華は腕を組み直した。それから、視線を落とし、少しだけ声を柔らかくした。

 

 「最近の天音ちゃん、変なんです。ここ一年くらい、ずっと」

 

 「やたら機嫌がいいんですよ。鼻歌なんて歌う子じゃなかったのに、スタジオで歌ってて。曲もどんどん書くようになって。……こそこそスマホばっかり見て、煙草なんて吸い始めて」

 

 「凛ちゃんは知らなくていいです、って笑うんです。あの子が私に隠し事するの、初めてだったんですよ」

 

 「だから心配で、ようやく貴方に行き着いたっていうわけです……その隠し事の正体が貴方なんだとしたら、余計に、放ってはおけません」」

 

 顔を上げた時津凛華の目には、もう迷いがなかった。



 「……本当にそうだったならば、私の要求は一つです」

 

 「天音ちゃんが真実を知る前に、二度とあの子の前に姿を現さないでください」

 

 静かな、それでいて一切の譲歩を感じさせない声だった。

 

 「今の天音ちゃんが貴方に懐いているのは、見ていればわかります。……だから、余計に駄目なんです。仲良くなればなるほど、いつか全部知ったときの傷が、深くなる」

 

 「今なら、まだ間に合います。貴方が黙って消えれば、あの子は寂しがるでしょうが、それで終わりです。信じていた人の正体を知って泣くよりは、ずっとましです」

 

 「それと──万が一、億が一、貴方の言う通りだったとしても」

 

 時津凛華は、一拍置いて、はっきりと言った。

 

 「それなら、尚更です。ストーカーだと知っていて、その隣で笑っていられるんだとしたら、あの子は今、正常な判断ができていません。何かに夢中になって、目が曇っているだけです」


 「……どちらに転んでも、貴方が離れるべき理由にしかなりませんよ」

 

 「貴方がしていたことは、れっきとした犯罪行為です。世に出れば、あの子にも、バンドにも傷がつきます。……私は、あの子が泣くところを見たくないんです。ステージの上でも、下でも」

 

 彼女の提示した二つの世界──彼女が知らない世界と、知っている世界。前提がどちらであっても、結論は寸分違わず同じ場所に落ちる。


 知らないなら、知る前に消えるべきだ。知っているなら、その歪んだ天秤ごと、遠ざかるべきだ。


 目が曇っている、という言葉は、ここ数日、自分自身が薄々抱えてきた恐れと、同じ形をしていた。彼女の向けてくる好意は、こちらの犯した歪みが映り込んだだけのものではないのか、という恐れと。

 

 むしろずっと誰かに、こう言ってほしかったのかもしれない。宮舞天音本人が決して言ってくれなかった言葉を、彼女の一番近くにいる人間が、震える手を隠しながら代わりに言ってくれている。

 

 これで終わりにできる。

 距離を置きたいと、自分の口ではうまく言い切れなかったことを、外側からの力で終わらせてもらえる。

 

 ……息を吸った。

 

 「分かりました、もう近づき──」

 

 「凛ちゃん? 何してるんですか?」

 

 言葉は、最後まで続かなかった。

 

 

 






 

 階段の方から、声がした。

 振り向かなくても分かった。それでも足音は迷いなく近づいてきて、視界の端に銀色が入り込んでくる。

 

 宮舞天音が、そこに立っていた。

 

 時津凛華の顔から、すっと血の気が引いた。

 

 「あ、天音ちゃん、これは……」

 

 「駄目ですよ、そんな意地悪をしては」

 

 宮舞天音はゆったりとした足取りでこちらへ歩いてくると、当然のように隣に並んだ。

 そして、時津凛華に向かって微笑んだまま、言った。

 

 「この人は、私の恋人になったんです」

 

 「は?」

 

 時津凛華の声が裏返った。

 声にこそ出さなかったが、こちらも全く同じ気持ちだった。

 

 「う、嘘です。そんなわけ……」

 

 「嘘ではないですよ」

 

 「だ、だって天音ちゃん、知らないんです。この人は──」

 

 「知っていますよ」

 

 遮る声は、静かだった。

 

 「この人が何をしていたか。いつから、どこで、どんなふうに私を見ていたか。……全部、最初から知っています」

 

 時津凛華が、固まった。

 その視線が、天音とこちらの間を二往復する。


 数分前、ストーカーの常套句だと一蹴された台詞が、本人の口から寸分違わず追認されたのだ。信じられないものを見る目のまま、彼女はゆっくりと首を振った。

 

 「……それなら、尚更です」

 

 絞り出すような声だった。

 

 「そうだと知っていて、その隣で笑っているんだとしたら──貴方は今、正常な判断ができていません。何かに夢中になって、盲目的になっているだけです」

 

 「……昔から、そうじゃないですか。天音ちゃんは一つのことに嵌ると、周りが見えなくなる。ベースを始めた年だって、指の皮が剥けても弾き続けて、私たちが取り上げるまで止まらなかった」

 

 「今の貴方は、あのときと同じ目をしてます。夢中になってるだけです。それは恋とかじゃなくて、ただの、熱です。冷めたときに、隣にいるのがこの人だったら、取り返しがつかないんですよ」

 

 「どうだったとしても、この人が離れるべき理由にしかなりません。天音ちゃんのためを思うならって、この人だって──」

 

 「凛華」

 

 天音が、名前だけを呼んだ。

 咎める声ではなかった。ただ、続きを一度預かる声だった。

 

 「私の目が、曇っていると思いますか」

 

 「……思います。今の天音ちゃんは、冷静じゃないです」

 

 「では、どうすれば冷静だと信じてもらえますか」

 

 時津凛華は言葉に詰まった。視線が泳ぎ、机の縁を掴んだ指に力がこもる。追い詰められた末に、彼女は半ば自棄になったように言い放った。

 

 「し、証拠……証拠を出してください。恋人だっていうなら、真実の愛だっていうのなら!」

 

 「証拠って?」

 

 宮舞天音は小さく首をかしげた。

 

 「……キ、キスとか?」

 

 「いいですよ、分かりました」

 

 「は?」

 

 今度の「は?」は、時津凛華と自分の、ほぼ二重奏だった。














 

 制止する間もなかった。

 宮舞天音がこちらへ向き直る。長い指が頬に添えられ、上向かされる。眼鏡の奥の碧眼が近づいてきて、視界が銀色でいっぱいになった。

 

 唇に、柔らかい熱が触れた。

 

 慌てた素振りは、どこにもなかった。売り言葉に買い言葉の勢いですらなかった。ゆっくりと、丁寧に、一秒ずつ確かめるような口づけだった。一瞬だったのか数秒だったのか、時間の感覚が完全に飛んでいた。微かに、香水の甘い匂いが残っていた。

 

 宮舞天音はゆっくりと顔を離すと、濡れた唇を薄く弧の形にした。

 

 「……ご馳走様です」

 

 それから、立ち尽くす時津凛華へ向き直る。頬にはうっすらと朱が差していたが、声だけは、どこまでも凪いでいた。

 

 「私は、頭の一番冷えたところで、この人を選んでいます。夢中なのは、その通りですけど」

 

 「なっ……は、破廉恥な……」

 

 時津凛華は顔を真っ赤にして後ずさった。

 用意していたはずの反論は、どこかへ蒸発してしまったらしい。口を開き、閉じ、もう一度開いて、結局出てきたのは白旗だった。

 

 「い、いいでしょう、認めます、認めますよ。二言はないです」

 

 そして、きっとこちらを睨む。

 

 「紛らわしいんですよ! 恋人ならもっと堂々としていてください」

 

 言うだけ言って、時津凛華は逃げるように階段を駆け上がっていった。

 乱れた足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 

 ……膝から力が抜けて、椅子に崩れ落ちた。

 心臓がうるさい。唇にはまだ、熱の残滓のようなものが残っている気がした。

 

 「すみません、でもああでもしないと、凛ちゃんは納得しないでしょうから」

 

 宮舞天音は悪びれる様子もなく、隣の椅子を引いて腰を下ろした。 

 

 「貴方もいけませんよ? ああいう、誤解されるようなことをしては」

 

 「誤解も何も」

 

 声を絞り出す。

 

 「……全部、事実です。俺があなたのストーカーだったのは、本当のことです」

 

 「知っています」

 

 宮舞天音は、さらりとそう返した。

 天気の話でもするような声だった。

 

 「……恋人、というのは」

 

 「はい、恋人です、嫌なんですか?」

 

 答えられなかった。

 嫌なはずがない。だが頷いていいはずもない。二つの気持ちが喉元でぶつかって、どちらも音にならなかった。

 

 宮舞天音はそんなこちらをしばらく眺めてから、小さく息を吐いた。

 

 「さて」

 

 姿勢を正し、まっすぐにこちらを見る。

 

 「流石にここまで露骨だと、貴方も気付いたと思うのですが」

 

 「私たちって、似た者同士なんですよ」

 

 「お互いに惹かれあって、互いのことを知りたくて堪らない」

 

 「私の考えていることがわからない、と言っていましたね」

 

 「これも、同じなんですよ?」

 

 碧眼が、逃げ場なくこちらを捉えていた。

 

 「私も、あなたのことが好きなんです」

 

 「一目惚れ、ではありませんが」

 

 息の仕方を忘れた。

 冗談だと言われるのを待った。ふふ、冗談ですよ、という声を。

 だがその時はいつまで経っても来なかった。

 

 「……私って、不安だったんです」

 

 代わりに聞こえてきたのは、これまで聞いたことのないほど静かな声だった。

 

 「バンドのみんなは、みんな凄い人で」

 

 「姫ちゃんは何時でも何処でも中心にいて、私を引っ張ってくれた」

 

 「結月は、ちょっとだらしないところはあるけど。私たちの中で一番賢くて、分からないことを教えてくれた」

 

 「凛ちゃんは、後輩なのに誰よりもしっかり者で、どんな些細なことでも気にかけてくれる優しい子なんです」

 

 「薙ちゃんは一番楽器が上手で、本当は姫ちゃんと同じぐらい歌も上手だし……」

 

 指を折るように、一人ずつ名前を挙げていく。

 その横顔には、ステージの上の凛とした表情も、いつもの余裕のある微笑みもなかった。

 

 「じゃあ、私の取り柄って何だろうって思ってたんです」

 

 「演奏が上手なわけでもない、頭がいいわけでもない、気が利くわけでも、特別な何かがあるわけでもない、ただ後ろをついて歩くだけで」

 

 「私は、ここにいていいのかなって、思ってたんです」

 

 学内屈指の有名人。メジャーデビュー目前のバンドのベーシスト。誰もが振り返る絶世の美人。

 そのどれとも重ならない言葉が、彼女の口から次々と零れていく。

 

 「でも、違ったんです」

 

 宮舞天音は顔を上げた。

 

 「それを教えてくれたのは、貴方でした」

 

 「貴方が私を見つけてくれた日から、私は自分の足で、前を向いて歩けるようになれました」

 

 「何時だって励ましてくれた、いつも応援してくれた」

 

 「毎日、毎秒、私だけを見てくれた」

 

 「私は、貴方に救われたんです」

 

 沈黙が落ちた。

 空調の音だけが、二人の間を埋めていた。

 

 毎日、毎秒、私だけを見てくれた。

 それは糾弾されるべき行いのはずだった。れっきとした犯罪行為だと、ほんの数分前に断じられたばかりの。

 それを彼女は、救いだったと言う。

 

 「……俺は」

 

 声が掠れた。

 

 「あなたが思っているような、いいものじゃないです」

 

 「知っています」

 

 即答だった。

 

 「全部、知った上で言っています」

 

 宮舞天音は立ち上がると、コートの裾を整えた。

 

 「返事は、今じゃなくていいです」

 

 「私はずっと待っていましたから。少しくらい、平気です」

 

 そう言って、微笑む。

 いつもの完璧な微笑みに戻る寸前、その口元がわずかに震えていたのを、見なかったことには、見過ごすことはできなかった。

 

 彼女が、階段へ向かおうと踵を返す。

 

 このまま行かせてしまえば、楽だった。

 持ち帰って、一人で抱え込んで、既読もつけずに逃げ回る。この数日繰り返してきた、いつものやり方だ。

 

 だから、気づけば自分の意志で、体を動かしていた。









 

 「……待ってください」

 

 宮舞天音の足が、止まる。

 

 「俺から、聞きたいことがあります」

 

 自分の声とは思えないほど、はっきりと出た。

 心臓は破裂しそうにうるさかったが、目だけは逸らさなかった。逃げてばかりだった人間の、初めて自分から踏み出した半歩だった。

 

 宮舞天音は目を瞬かせた。

 それから、ゆっくりと戻ってきて、椅子に座り直す。狐耳がぴんと立っていて、心なしか嬉しそうだった。質問される、ということ自体を喜んでいるように見えた。

 

 「どうぞ」

 

 「いつから、気づいていたんですか。俺のこと」

 

 「最初から、と言いたいところですが」

 

 宮舞天音は少し考えるように視線を上げた。

 

 「文化祭の、三ヶ月後くらいだったと思います。ライブのとき、いつも見てくれている人がいるなって」

 

 「照明の当たらない、後ろの方の柱の横。最前列の目の前、目を凝らさないと見えない、うんと後ろの時も。でも毎回、必ずそこにいるんです。手を振って、声を出して。ただずっと、私を見ている」

 

 「最初は少し、不思議でした」

 

 彼女は机の上で、指先を軽く組んだ。


 「なんで私なんかを、って思ってました」

 

 「でも、嬉しかったです。貴方の見る目は、その、なんというか」

 

 「……私までドキドキするぐらい、気持ちがこもっていましたから」


 思わず、目が合わせられなくなる。

 それでも彼女の碧眼は、真っ直ぐにじっとこちらを見つめていた。


 「……アカウントは、どうやって」

 

 「学祭の実況を遡ったんです。私たちの出番の時間帯に、一番熱心に投稿していた人を探して」

 

 「あとは、いいねの速さですね。私が投稿すると、貴方は大体三分以内にいいねを押すので」

 

 「学食の期間限定メニューの文句とか、講義の愚痴とか、照らし合わせていくと全部一致しました」

 

 「私も、調べるのは得意なんですよ」

 

 こともなげに言うが、それは自分がやってきたことと寸分違わぬ手口だった。

 似た者同士、という昨日の言葉が、嫌な精度で裏付けられていく。

 

 「……煙草は」

 

 「言ったじゃないですか」

 

 宮舞天音は鞄からピースの箱を取り出し、軽く掲げてみせた。

 

 「人の、影響だって」

 

 「銘柄も、ずっと前から知っていました。あの喫煙所のゴミ箱、空き箱がいつも同じでしたから」

 

 「同じ味が、してみたかったんです」

 

 あの雨の日、隣で見た蛍光色のライターとピースの箱。

 自分とまったく同じ銘柄だと気づいたとき、運命めいたものを感じて浮かれた自分を、遡って殴りたくなった。運命ではなかった。もっと具体的で、もっと重たい何かだった。

 

 「それと」

 

 宮舞天音は鞄の中を探ると、何かを取り出してこちらへ差し出した。

 

 見覚えのあるシャーペンだった。

 二ヶ月ほど前に失くした、なんの変哲もない量産品。

 

 「……そろそろ、お返ししますね」

 

 「ごめんなさい。どうしても、貴方のものが一つ、欲しくて」

 

 受け取ったシャーペンは、彼女の体温でほんのりと温かかった。

 背筋を冷たいものが伝う。それなのに、その温度を不快だと思えない自分が、確かにいた。

 最近物を失くすことが多い、と思っていた。視線を感じることがある、と思っていた。

 全部、気のせいではなかった。

 

 「……他には」

 

 「今持っているのは……シャーペンだけです」

 

 「そうじゃなくて。……いや、それも聞けて良かったですけど」

 

 息を深く吸い込み、吐き出した。

 

 「初めて話したあの日。悩み事はないかって、聞いてきましたよね。あれは」

 

 「ああ」

 

 宮舞天音は少し目を伏せた。

 

 「貴方、あの少し前から様子が変だったので。投稿も減っていましたし、ライブにも来なくなっていましたし」

 

 「何かトラブルに巻き込まれているんじゃないかって、心配だったんです」

 

 「チケットが取れなかっただけです」

 

 「今なら分かります。でも、あのときは気が気じゃなくて」

 

 「貴方はいつも私を支えてくれるのに、私は貴方に何もできていないのが、ずっと嫌だったんです」

 

 支えた覚えなど何一つない。

 だが彼女の中では、そういうことになっているらしかった。認識の歪みを訂正するべきなのだろうが、その歪みに自分も救われている以上、強く言える立場でもなかった。

 

 一度、大きく息を整えた。それから、ずっと言わなければならなかったことを、ようやく口にした。

 

 「……すみませんでした」

 

 頭を下げた。

 

 「あなたの言う通り、俺はあなたをずっと追い回していました。講義も、昼食も、ライブも、全部です。どんな理由をつけても、やっていいことじゃなかった」

 

 「知られていないと思って、好き勝手に見ていました。……気持ち悪かったと思います」

 

 沈黙があった。

 顔を上げられないでいると、頭上から静かな声が降ってきた。

 

 「謝罪は、受け取ります」

 

 「でも、気持ち悪いと思ったことは一度もないですよ」

 

 「それに──」

 

 声に、少しだけ悪戯な色が混ざった。

 

 「私のしてきたことと、おあいこですから」

 

 顔を上げると、宮舞天音が笑っていた。

 ファンサービスの微笑みではない、目尻の下がった、素の笑い方だった。

 

 「これからは、隠れて見るのは無しにしませんか。お互いに」

 

 「見たいときは、隣で見ればいいんです。特等席を用意しますから」

 

 「……善処します」

 

 「あと、宮舞さん、というのもそろそろ」

 

 「え」

 

 「天音、でいいですよ」

 

 碧眼が、期待するようにこちらを覗き込んでくる。

 断れる雰囲気ではなかった。いや、正確には、断りたくなかった。

 

 「……天音、さん」

 

 狐耳がぴこぴこと忙しなく動き、四本の尻尾が機嫌よく揺れた。

 感情が、これ以上ないほど分かりやすかった。

 

 「はい」

 

 返事の声は、春みたいに柔らかかった。

 



































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