12.教室前
12.教室前
朝の講義棟は、まだ冬の名残の冷たさを溜め込んでいた。
夜のあいだに冷え切った石造りの壁は、廊下の窓から差し込む白い光をもってしても温まりきらず、行き交う学生たちは皆コートの襟に首を埋めるようにして歩いている。
一限から講義を入れている人間は多くないから、足音もまばらで、天井の高い廊下にはそのひとつひとつがやけに響いた。欠伸を噛み殺し、寝癖を手で押さえつけながら階段を上る。いつもの教室へ続く角を曲がったところで、足が止まった。
教室の前に、宮舞天音が立っていた。それ自体は、もう見慣れた光景のはずだった。ここ最近の彼女はいつも先に来ていて、廊下の窓際に立ち、こちらが角を曲がるのとほとんど同時に顔を上げる。狐の耳は足音で人を聞き分けるらしく、彼女がこちらの到着を外したことは一度もない。
だから今朝も、視線が合うところまでは予定調和だった。
何かが違う。まず服だった。
見慣れた黒のタートルネックではなく、柔らかな生成り色のニットに、細身のロングスカート。いつも通り背中まで下ろされた銀髪は、しかし今日は毛先がゆるやかに巻かれていて、窓から差す朝の光を受けるたびに波打つ面が淡く色を変えた。
眼鏡はいつも通りだが、その奥の目元がどこか柔らかく、唇にはほんのりと色が乗っている。
廊下を歩く学生たちが露骨に振り返っていく。すれ違った男子の二人連れが、通り過ぎてから小声で何か言い交わしているのが聞こえた。
当の本人はそれらに気づいた様子もなく、こちらを見つけると、ぱっと表情を明るくして小さく手を振った。
「おはようございます」
「……おはようございます」
返事が一拍遅れた。目のやり場に困って、視線が髪と顔と、ニットの襟元の間を意味もなく行き来する。何かを言いかけて、続く言葉が見つからずに口を閉じた。目に見て取れるどれを口にしても、その先に「似合っています」まで続けなければ会話として着地しないだろう。そしてその一言が自分の口から出るところを想像できなかった。
結局、なんでもないです、と誤魔化すことになる。彼女は小さく首を傾げ、それからふと思い出したように口を開いた。
「そうだ。一限、休講になりましたよ。教授が急用だそうです。さっき掲示が出ました」
スマートフォンを確かめると、確かに教務課からの通知が届いていた。送信時刻は三十分も前で、今の今まで気づいていなかった。通知に気づかないほど寝ぼけて歩いてきた自分と、休講の教室の前でわざわざ待っていた彼女。その組み合わせに違和感を覚えるより先に、彼女が一歩、距離を詰めてきた。柔らかな香りが強くなる。
「なので、今日はこのまま、出かけませんか」
「それは、その」
「はい、デートです」
……にべもない。
「駅の向こうに、大きな水族館があるんです。平日の午前中なら空いていますし、午後まで、私も貴方も、講義はありませんよね」
水族館、と提案の中身が出てくるまでの淀みのなさは、あらかじめ用意されていた台詞のそれだった。
「……ちなみに、休講のこと、いつ知ったんですか」
「さっきです」
「本当に?」
「…………昨日の夜、です」
観念するのが早かった。狐耳が、嘘の下手さをそのまま物語るように、ぱたりと伏せられる。結月が教授の助手の方と知り合いで、と彼女は白状した。昨夜のうちに休講を知り、今朝のこの装いで教室の前に立ち、掲示を「さっき」見たばかりの顔で誘いをかけた、ということになる。
それで、と続きを促すと、彼女は視線を斜め下へ逃がして、準備というか、と口ごもり、頬のあたりを朝の冷気のせいではない色に染めて、消え入りそうな声で言った。
「……せっかくなので」
それ以上は言わなかったし、こちらも聞かなかった。
大学から水族館までは、電車で二十分だった。
平日の午前の下り車内は空いていて、二人並んで座ることができた。座ってしまえば種族差はいくらか縮まって、彼女の肩がすぐ隣に来る。ドアの上の路線図と、窓の外を流れていく街並みを交互に眺めながら、彼女は時折、鼻歌ともつかない小さな音を漏らしていた。聞いたことのない旋律だった。
既存のどの曲とも違う。新曲だろうか、と思ったが、口ずさんでいる本人の横顔があまりに機嫌よさそうだったので、指摘して止めてしまうのが惜しく、黙って聞いていた。
旋律は窓の外の景色に合わせるように上がったり下がったりして、踏切を通過する警報音と一瞬だけ重なり、彼女は自分でそれに気づいて小さく笑った。
入場ゲートをくぐると、通路は一息に青い薄闇へ変わった。
外の白い冬の光から数歩で切り替わるものだから、目が慣れるまでの数秒間、世界の輪郭が溶ける。慣れた先に現れたのは、壁一面、というより壁そのものが水になったような、巨大な水槽だった。
揺らめく水面の光が天井まで届いて、通路全体がゆっくりと呼吸するように明滅している。小魚の群れが銀色の帯になって旋回し、帯は伸びては縮み、大型の魚が突っ込むたびに一瞬だけ千切れて、また一つに戻った。エイが悠然と滑空していき、その影が床を、こちらの爪先を、ゆっくりと横切っていく。隣で、わ、と小さな声が上がった。
水槽の青い光の中で、天音の姿は一段と現実味を失って見えた。
下ろされた銀髪が肩から背へ流れ、水中を貫く光の柱が揺れるたび、その一筋一筋が淡く発光する。白い肌は青に透けて、輪郭だけが仄かに光っていた。巻かれた毛先が水の揺らぎと同じ周期で揺れるものだから、彼女自身が水槽の中に立っているようにすら見える。
ガラスの向こうの魚群より、隣に立つ人間の方がよほど幻想的だと思ったが、口には出さなかった。代わりに、魚が好きなのか、と当たり障りのないことを訊いた。
「水族館が好きなんです。暗いので」
「暗いので?」
「誰も、ここでは他人のことなんて見ないでしょう」
彼女は水槽を見上げたまま、続けた。
「暗いところだと、みんな水槽しか見ないんです。だから、ゆっくりできて」
彼女らしい理屈だった。言われて館内を見回してみれば、確かに、まばらな客は誰一人振り返っていない。皆の顔が一様に青く照らされて、一様に水の方を向いている。
ステージの上ではあれほど注がれていた視線が、この青い闇の中では綺麗に剥がれ落ちて、水に流されていく。彼女の肩から力が抜けているのが、隣にいるだけで分かった。呼吸が深く、ゆっくりになっている。ステージの上の彼女でも、講義室の彼女でもない、誰にも見られていない時の宮舞天音が、そこに立っていた。……一人だけ、見ている人間がいる。彼女はそれに気づいたように、ふとこちらを向いて、少し笑った。
「まあ、貴方は暗くても私を見ていますけど」
「……見てないです」
「今、見ていましたよ」
反論できなかった。
順路は、進むにつれて少しずつ深海へ潜っていく造りになっていた。照明が絞られ、通路の青が藍に、藍が墨色に近づいていく。
発光する小魚の群れが暗闇に星座のような模様を描き、砂地の水槽ではチンアナゴが揃って同じ方向へ首を伸ばし、その隣の低温の水槽では、馴染みのない異界の蟹が岩のようにじっと動かずにいた。
彼女は一つ一つの水槽の前で律儀に足を止める人だった。魚を眺め、それから必ず解説板まできちんと読む。読み終えると、時々こちらに要約をくれた。
「この蟹、脱皮に丸一日かかるそうです」
「へえ」
「一日、無防備なんですって」
「……大変ですね」
他愛のない、中身のない会話だった。中身のない会話というものが、こんなに続けやすく、こんなに楽しい相手だとは思っていなかった。
かつて数十メートル後ろから見ていた頃、彼女と交わす会話を想像したことは何度もあったが、想像の中の会話はいつも音楽の話か、もっと気の利いた何かだった。脱皮の話をする日が来るとは、あの頃の自分は想像もしていなかった。
クラゲの展示室は、館内でも一番暗かった。壁も床も黒く塗り込められて、円柱形の水槽だけが点々と光り、その中をミズクラゲが明滅しながら漂っている。
傘が開いては閉じ、閉じては開き、そのたびに水槽の光の色が白から青へ、青から菫色へと移ろった。光っているのは水槽と、水槽に照らされた互いの顔だけで、他の客の姿はほとんどなかった。
二人で並んで、一番大きな水槽の前に立つ。
「……綺麗ですね」
「そうですね」
クラゲには脳がないらしい、というどうでもいい知識を披露しようかどうか、水槽を眺めながら真剣に迷っていた、そのときだった。袖を、軽く引かれた。
見ると、天音の指が袖口を摘まんでいた。
「……暗いので」
「はい」
「はぐれると、いけませんから」
誰がどう見てもはぐれようのない距離だったし、そもそもこの暗さでもこちらを見失わない目と耳を持っている人だったが、指摘はしなかった。指摘しないでいるうちに、袖を摘まんでいた指が、ためらいがちに、するりと下りてきた。手の甲に、指先が触れる。そこで、止まった。
伺いを立てるような間だった。振り払うことも、気づかないふりで手を引くことも、できる位置で止まっている。彼女らしくもない、遠慮の形をした指先だった。
この手を取ることが何を意味するのか、暗がりの中で、数秒だけ考えた。考えて、──手のひらを、上に向けた。
細く長い指が、確かめるようにゆっくりと、一本ずつ絡んでくる。彼女の手は、少しだけ冷たかった。指先はひやりとしているのに、絡んだ手のひらの中心だけがじんわりと温度を持っていて、その温度差が、これは現実だという証拠のように思えた。
「……手、あったかいですね」
彼女が、水槽を見たまま言った。声が、ほんの少しだけ上ずっていた。
「そうですか」
「羨ましいです。私、指先だけ、いつも冷たいので」
それきり、どちらも何も言わなかった。何か言えば、この手が今どういう意味で繋がれているのか、答えを出さなければいけなくなる気がした。答えの出ないまま、繋いだ手の中でだけ、体温の貸し借りが静かに続いていた。
青い光の中を、クラゲが音もなく昇っていく。傘が開いて、閉じて、また開く。同じものを、同じ場所から、同じ速さで流れる時間の中で、二人で見ている。ただそれだけのことが、どうしようもなく満ち足りていて、この部屋の順路が一生終わらなければいいとさえ思った。
繋いだ手は、クラゲの部屋を出ても、解かれなかった。
ペンギンのコーナーは打って変わって明るかった。
屋内プールの水面がきらきらと光を散らし、ペンギンたちが水中を弾丸のように行き交っては、陸に上がった途端によちよちと歩き、時折立ち止まって翼を広げている。
ちょうど、餌やりの時間の様だった。バケツを提げた飼育係が岩場に現れると、群れがいっせいにそわそわし始める。
飼育員が名前を呼ぶ。すると一羽だけが、群れの中から弾かれたように飛び出して、よちよちと全力で駆け寄った。魚を一匹もらって、満足げに戻っていく。
また一羽。呼ばれた個体だけが、確かに応えて出てくる。個体識別の管理か何かだろうが、傍から見れば、名前を呼ばれた者だけが特別に招かれているようだった。
「……賢いですね。自分の名前が、分かるんだ」
柵に手を掛けて、惚れ惚れするように言った。繋いだままの手が、柵の上で二人分重なっている
「呼ばれ慣れているんでしょうね。毎日、ああやって」
「毎日、名前で」
彼女は復唱して、駆け寄る三羽目をじっと目で追った。四本の尻尾が、ゆっくりと揺れている。
「……いいなあ」
ぽつり、と落ちた声だった。独り言のつもりだったらしく、こちらの視線に気づくと、彼女はわずかに慌てて付け足した。
「ペンギン、可愛いですね」
「……そうですね」
その意味を測りかねたまま、頷いた。餌やりが終わり、群れが水へ戻っていく。名残を惜しむ客たちが、ぱらぱらと次の展示へ流れ始めた。
「じゃあ、俺たちも次に──」
歩き出そうとして、繋いだ手が、ぴんと張った。
振り返ると、柵の前から一歩も動いていなかった。
こちらを、じっと見ている。怒っているのでも、拗ねているのでもない。ただ、まっすぐに。眼鏡の奥の碧眼が、瞬きも惜しむようにこちらへ注がれていた。
「……宮舞さん?」
「聞こえません」
「聞こえてるじゃないですか」
「聞こえません」
聞こえていないはずがなかった。狐の耳は囁き声すら拾う上に、なにしろ、手が繋がっている。声どころか脈拍まで届いていそうな距離で、彼女は答えだけを返しながら、一歩も動かない。視線も、逸らさない。周りの客が引いていき、ペンギンのプールの前には、張った手で繋がれた二人だけが残された。
……ああ、そういうことか。
名前を呼ばれた者だけが、招かれる。彼女は今、餌を待つ群れの中の一羽のように、呼ばれるのを待っている。呼ばれるまで、動かないと決めている。
理解した瞬間、館内の喧騒が急に遠のいた。ペンギンの鳴き声も、水音も、全部が一枚膜の向こうへ下がって、張った手の先で待っている人だけが近い。
「……天音、さん」
彼女が、動いた。
弾かれたような一歩だった。繋いだ手の張りが緩んで、距離が一息に縮まる。下ろした銀髪がふわりと遅れて揺れ、狐耳は真上を向き、尻尾は四本とも、隠す気もなく大きく揺れていた。……さっき魚をもらいに駆け寄った一羽と、動きの原理がまるで同じだった。
「はい、なんでしょう」
澄ました声で言うが、顔の方がまるで澄ましきれていなかった。
「……次、行きますよ」
「はい」
打って変わって、素直だった。素直なまま、隣に並んで、それから小さく付け足す。
「もう一回、呼んでもらえますか」
「もう呼びません」
「けちです」
言い合いながら歩き出したが、頬の熱はなかなか引かなかった。たった三文字が、口の中にまだ残っている。名前というのは、呼ばれた側だけでなく、呼んだ側の口にも残るものらしかった
順路の後半、大水槽を横から見上げるベンチに二人で並んでいた。
繋いだ手を離さないまま腰を下ろし、回遊する魚の群れをぼんやりと目で追っていた。青い光が斜めに落ちて、その横顔を照らしている。まばたきのたびに銀色の睫毛が光を掬い、口元にはまだ、さっきの言い合いの名残のような笑みが浮かんでいた。あまりにも柔らかい横顔だった。気づけば、空いている方の手が、ポケットのスマートフォンに伸びていた。
「……写真、撮ってもいいですか」
それはずっと堪えてきた一言だった。ライブ会場で、学食で、渡り廊下で、シャッターを切りたい衝動を何百回と飲み込んできた。万が一咎められれば一番迷惑を被るのは彼女だと、自分に言い聞かせて封じてきた一言だ。それがこんなに簡単に、こんなに自然に口から出る日が来るとは。
彼女は目を丸くして、それから、ゆっくりと、花が開くように笑った。
「初めてですね。貴方からお願いしてくれるの」
「駄目なら、いいんです」
「駄目なわけないじゃないですか」
一度手を解いて立ち上がり、青い大水槽を背にして、少しだけ首を傾げてみせた。ライブのポスターで見るような完成されたポーズではなく、どこか照れの混じった、こちらだけに向けられた立ち姿だった。いくらでも、どうぞ、と言われて、シャッターを切る。静かな館内に、電子音が小さく響いた。
画面を確かめると、青い光の中の彼女は、記憶の中のどのステージ写真よりも、SNSに上がるどの宣材写真よりも、よく笑っていた。一年半、画像フォルダに一枚も持てなかった人の写真が、いま初めて自分の手の中にある。
「私も」
撮り終わるのを待っていたように、スマートフォンを取り出した。
「一緒に、いいですか」
訊く声と、肩を抱き寄せられるのが、ほとんど同時だった。断る間などなかった。画面の中に二人の顔が並ぶ。彼女が少し屈む形になり、頬が触れそうな距離で、シャッター音が鳴った。
「送りますね」
声の直後に通知が来る。画面の中の自分は、見たことがないくらい間の抜けた顔をしていた。その隣で屈んで写る彼女は、悔しいくらいに完璧だった。
二人で写った写真というものを、生まれて初めて手に入れた。これをなんと呼べばいいのかは、やはり分からないままだった。
午後の講義に間に合う電車で、大学へ戻った。
行きと同じ並びで座り、行きと同じ肩の距離で揺られる。彼女はもう鼻歌を漏らさなかった。代わりに、送られてきたばかりの二人の写真を、スマートフォンの画面の中で何度も拡大しては眺めていた。見ないふりをするのに、割合の労力を要した。
駅から大学までの道も、手は繋がれたままだった。だが校門が近づくにつれ、同じ方向へ歩く学生の姿が増えていく。どちらが言い出すでもなく、繋いだ手から少しずつ力が抜けて、指の絡みがほどけて、校門をくぐる頃には、指先だけが引っかかるように残っていた。離してしまえばいいのに、その最後の一点だけが、どちらの意地なのか、離れなかった。
中庭の手前、通路が二手に分かれる場所で、足が止まった。
「私、次は北棟なので」
「……俺は、こっちです」
反対方向だった。それは分かっていたことで、それでいても惜しむ気持ちが雪解けの洪水のように押し寄せていた。
二人して、引っかかったままの指先を見下ろす。往来の学生が、時折こちらへ視線を寄越していく。離すべきだった。離す理由なら、人目でも、講義の時間でも、いくらでもあった。
先に動いたのは、彼女だった。指先が、一本、また一本と、確かめるようにゆっくりほどけていく。急げば一瞬で済むものを、彼女はわざわざ時間をかけた。最後に人差し指の先だけが触れて、それも、離れた。
手のひらに、体温の残りだけが置いていかれる。
「……また、後で」
「はい。また後で」
また明日、ではないのが、せめてもの救いだった。彼女は向こう側へ数歩歩いて、一度だけ振り返り、小さく手を振った。彼女の顔が遠目にも分かるくらいに綻んで、それから人波の向こうへ消えた。
その夜、ベッドに寝転がってメッセージアプリを開いた。一番上に天音の名前があり、トークの最後には今日の写真が表示されている。青い光の中の、二人の顔。親指でそれを拡大して、縮小して、また拡大して、それから入力欄をタップした。
思えば、自分から彼女にメッセージを送ったことは、未だに一度もなかった。来る通知に怯え、既読を付けず、電源を切り、返事をするときすら彼女の言葉に短く応じるだけだった時が今では懐かしく、五十件の通知を、電気もつけない部屋で上から順に数えた夜もあった。深呼吸を一つして、一番素直な二行を打ち込んだ。
『今日はありがとうございました』
『楽しかったです』
送信ボタンを押す。指が微かに震えていたのは、目を閉じて見なかったことにした。
間を空けずに既読が付いた。
直後、通知がたて続けに鳴る。
『!!』
『初めてですね、貴方から送ってくれるの』
『嬉しいです。すごく』
『私もです。楽しかったです。帰ってからもずっと、今日のこと』
最後の一件は、そこで途切れていた。打ちかけのまま送信してしまったらしい。続きを待ったが、今度は「入力中」の表示が出ては消え、出ては消えた。三度目に消えて、そのまま何も来なくなる。あの完璧なノートを書く人が、文面を書き損じているのだろうか。
どうしたのかと打とうとした、その矢先に画面が切り替わり、着信の表示が全面に広がった。
反射的に思い出したのは、いつかの夕暮れの住宅街だった。鳴り続ける着信音を道端で立ち尽くして聞き、何度も無視してようやく止んだあの日の画面だ。
あれと寸分違わぬ表示が、いま手の中で光っている。
「……もしもし」
『出てくれた』
開口一番、それだった。スピーカー越しの声は、思ったよりずっと近くで聞こえた。
『ごめんなさい、夜遅くに。その、メッセージが、貴方から来たので……嬉しくて。返そうとしたんですけど、文字にすると全部足りない気がして、もどかしくなってしまって』
途切れた一件と、三度出て消えた入力中の表示の理由が、それで分かった。
『ふふ』
電波の向こうで、笑う気配がした。
『今日、楽しかったですか』
「送った通りです」
『文字じゃなくて、声で聞きたいんです』
少しの沈黙。天井を見上げて、観念した。
「……楽しかったです。とても」
『私もです』
『すごく、すごく楽しかったです。……あと』
「あと?」
『名前。呼んでくれたの、嬉しかったです』
一幕がよみがえって、耳が熱くなった。
「……あれは、あなたが動かなくなるから」
『はい。呼んでくれるまで動かないつもりでした』
悪びれる気配は、電波越しにも微塵もなかった。
それからしばらく、中身のない話をした。クラゲの寿命の話の続き。チンアナゴのどれが誰に似ているかの話。時計を見て、日付が変わりかけていることに二人同時に気づいて、どちらからともなく笑った。
『……そろそろ、寝ないとですね』
「そうですね」
『はい。……あの』
「はい」
『………………なんでもない、です』
沈黙が、電波の向こうで小さく続いた。切る気配はない。何かを言いかけて、飲み込んで、それでも切れない沈黙だった。
……この沈黙の形に、覚えがあった。
昼間、プールの前で足を止めていたあの瞬間、あの時と同じ形をしている。言ってしまえば済むのに、言えない。催促してしまえば台無しになると、本人が一番よく分かっている。だから、待っている。
電話越しでは、狐耳がどちらを向いているかは見えない。見えないが、おそらくこちらを向いているのだろう。
息を一つ吸った。昼間ほどは、震えなかった。
「おやすみなさい。天音さん」
息を、小さく呑む音が聞こえた。
『…………はい』
たっぷり三拍分の沈黙の後に返ってきた声は、至上の喜びを表しているかの如く、等身大の感情が載せられていた。
『おやすみなさい。また明日』
「また明日」
通話が切れた。
スマートフォンを持ったまま、しばらく天井を見ていた。耳の奥に、まだ彼女の言葉が残っている。文字で読むのと声で聞くのとでは、同じ言葉でもまるで重さが違った。文字じゃなくて声で、と言った彼女の気持ちが、少しだけ分かってしまった。
枕元にスマートフォンを置く。通知の音が、いつの間にか怖くなくなっていた。着信の画面すら、もう怖くなかった。むしろ次の音を待っている自分に気づいて、天井に向かって一つ、息を吐いた。




