13.自宅
13.自宅
目覚ましより先に、目が覚めた。
カーテンの隙間から差す光はまだ薄く、部屋の空気は冷たい。枕元のスマートフォンを引き寄せると、時刻は朝の六時半で、通知が一件、既に届いていた。
『おはようございます。準備はできていますか?』
律儀な連絡だった。布団の中で少し笑って、おはようございます、と返す。
既読は三秒でついて、続けざまに吹き出しが並んだ。『眠れましたか』『私は少しだけ緊張しています』『あと、今日は何色の服で来ますか』──黒です、と正直に答えると、『分かりました』とだけ返ってきて、狐が敬礼しているスタンプが押された。
あなたでも緊張するんですか、と打つと、少し間があってから返事が来た。
『します。貴方が見ているので』
二千人の前で歌う人間の緊張の理由が、その中の一人であっていいはずがない。
ないのだが、彼女に関しては、冗談と本気の区別をつける努力をこちらが放棄しつつあった。
机の上には、チケットが置いてある。黒を基調とした地に、バンドのロゴが銀箔で押された一枚。
あの雨の日、卒煙支援ブースで手渡されたものだ。券面の座席番号は、最前ブロックの上手寄り。一般販売なら開始三分で消えた席で、抽選に勝ち続けた人間か、よほどの伝手のある人間しか座れない場所だった。
この一ヶ月、何度も手に取っては眺めてきたせいで、銀箔の縁が指の脂で僅かに曇っている。今日で、この紙は半券になる。そのことが、少しだけ惜しかった。
会場の最寄り駅に着いたのは、開場の二時間も前だった。
指定席なのだから並ぶ必要はない。頭では分かっていたが、身体の方が勝手に早く家を出た。一年半、整理番号の若さと場所取りに人生を懸けてきた身体だった。習慣というのは、チケットの種類が変わったくらいでは抜けないらしい。
駅から会場までの道は、同じ方向へ歩く人の流れで既に色づいていた。バンドのタオルを首に掛けた集団、遠征らしい大きな鞄、開演前から興奮で早口になっている二人連れ。歩道橋の上から見下ろすと、会場の外壁に巨大なフラッグが下がっているのが見えた。五人の影を意匠化したロゴが、二月の終わりの白い空の下で風を孕んでいる。
物販の列は建物の裏まで折り返していた。並ぶつもりはなかったのに、列の最後尾を目で探してしまってから、自分に苦笑する。買わなくていいと言われていた。欲しいものがあれば、本人に言えばいいと。
……本人に言えば、おそらく箱ごと届く。それはそれで困るので、列の最後尾に並んだ。
席に着くと、ステージは思っていたより近かった。
最前ブロックの上手寄り。目の前に組まれた照明のトラスと、暗幕の奥で仄かに光る機材のランプ。スタッフがステージ上を行き交うたび、床を這うケーブルが影ごと揺れる。開演前特有の、期待で飽和した空気が客席全体を満たしていた。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
『席、着きましたか』
着きました、と返す。
『見えています』
思わず暗幕の方を見た。当然、何も見えない。だが袖のどこかから、この二千の頭の中から、彼女は正確にこちらを見つけているのだろう。今朝の服の色の質問の目的は、正しく果たされたらしい。
『今日は一日、私のことだけ考えていてください』
言われるまでもなかった。返信を打つ前に、客電が落ちた。
暗闇が、歓声で満ちる。
SEの重低音が床から立ち上がり、暗幕の向こうで人影が五つ、定位置へ入るのが分かった。ドラムカウントが四つ、同時に世界が爆ぜた。
一曲目のイントロで、二千人がひとつの生き物みたいに揺れた。
音は耳で聴くものではなかった。胸骨で受けるものだった。姫凪・リンドヴルム・ラスターシャの歌声が会場の全てを突き抜け、時津凛華の奏でる音色が空間を切り裂き、篠崎結月のドラムが床ごと心臓を掴んで揺さぶってくる。神薙燕のアルペジオが花火のように駆け上がり、照明が音に合わせて白く明滅するたび、汗と髪と振り上げられた無数の腕が、静止画のように焼き付いては消えた。
そのすべての一番底で、宮舞天音のベースが鳴っていた。
派手ではない。最初は聴き分けられないほど、音の奥にいる。だが一度意識してしまえば、もう目線を外せなかった。うねり、支え、時に先回りして曲の背骨を通す。誰よりも冷静で、誰よりも熱い低音だった。ステージ上手、定位置に立つ彼女は、銀髪を照明に透かしながら、ほとんど動かない。動かないまま、会場全体を底から揺らしている。
──ただ後ろをついて歩くだけ、と彼女は言った。
冗談ではなかった。この音のどこが「ただ」なものか。二千人の足元を支えている音の、どこが。
曲間、彼女の視線がふっと客席へ落ちる。上手寄り、最前ブロック。目が合った、と思う間もなく、次の曲のイントロが彼女の指から始まった。今のは気のせいではない。気のせいではないと、身体の方が先に確信していた。
中盤、ステージが一度暗くなり、マイクが天音に回された。
普段ほとんど喋らない彼女がマイクの前に立つ、それだけで客席が沸く。彼女はマイクスタンドに軽く手を添え、少しの間、黙っていた。二千人が、その沈黙ごと彼女を見ている。
「今日は……私の大切な人が、来てくれています」
歓声と、口笛と、拍手が客席を満たした。眩むほどの長い間だったが、彼女はそれが静まるのを待って、一言だけ続けた。
「その人に届くように、歌います」
照明が、すべて落ちた。
完全な暗闇の中、ベースの音だけが、ぽつりと鳴り始める。低く、ゆっくりと、心拍のような四つの音。聞き覚えがあった。どこで──思い出すより先に、鳥肌が立った。電車の中だ。水族館へ向かう車内で、彼女が窓の外を見ながら漏らしていた、あの名前のない鼻歌。あの旋律が今、二千人の会場の暗闇で、輪郭を持って鳴っている。
青みがかった白い光だった。暗闇に浮かんだ彼女は、銀の髪の一筋一筋まで光を纏って、深い水の底に立っているように見えた。あの日の水槽の青が、そのままステージに移されたようだった。
その歌はまるで、海の底にさえも届く光の様だった。低いところから会場を満たしていき、気づけば彼女を見上げている。二千人が、声も上げずに聴いていた。手拍子も、コールもない。ただ全員が、同じ時の中で息を止めていた。
碧色の瞳が、暗闇の中でまっすぐに──こちらを見た。
二千人の中で、確かに目が合っていた。スポットの逆光の中、彼女の視線だけが、糸のように一直線にこちらへ届いている。歌詞のひとつひとつが、マイクとスピーカーという何万ワットの機材を経由して、それでも耳打ちのように近く聞こえた。
一目惚れした文化祭の日のことを、思い出していた。あの日、名前も知らないステージの上の人の声に、勝手に射抜かれた。今日の声は、あの日と同じ声で、あの日とはまるで違う歌だった。あの日の歌は誰のものでもなかった。今日の歌は、宛先を持っている。二千人の会場で、宛先はたった一人だった。
視界が滲んでいることに、曲の終わりまで気づかなかった。
最後の音が消え、一拍の完全な静寂のあと、会場が割れた。地鳴りのような歓声の中、彼女は深く一礼した。
それから顔を上げ──ほんの一瞬、こちらへ向けてだけ、小さく笑った。
終演後のロビーは、興奮の坩堝だった。
規制退場のアナウンスが繰り返され、ブロックごとに吐き出されてくる人波が、出口へ向かってゆっくりと流れていく。誰もが上気した顔で、口々に今日のセットリストの話をしていた。断片だけが波音のように耳を掠めていく。人波には乗らず、ロビーの壁際に退いた。
……ライブの後のことを、何も話していなかった。
今朝のやり取りも、開演前のやり取りも、話題はすべて開演までのことで、終わった後にどうするのかは、どちらの口からも出ていない。このまま流れに合流して、帰ってしまうべきなのだろうか。それとも、連絡を待つべきなのか。
こちらから送るのは──やめておいた方がいい気がした。終演直後のバンドが忙しくないはずがない。撤収、ミーティング、関係者への挨拶。あれだけのステージをやり切った直後の人の時間に、感想ひとつで割り込むのは気が引けた。彼女なら片手間に返してきそうだが、片手間に返させること自体が、なんだか申し訳なかった。
だが結局のところ、結論はすでに出ていた。
ロビーの隅のフラワースタンドをぼんやりと眺める。そうして立っているうちに、人波は驚くほど早く引いていった。
物販の列が短くなり、フラワースタンドの前で写真を撮っていた集団が消え、床に落ちたフライヤーだけが人の数の名残になっていく。あれほど飽和していたロビーが、空白を取り戻していく。
時計の表示だけが映る携帯の画面と、疎らな人の眺めを交互に覗いていた。
それで、目に入った。
ロビーの隅、飲料の自販機と柱に挟まれた窪みのような一角に、人がひとり、うずくまっていた。
女性だった。床に直接しゃがみ込み、膝を抱えるようにして頭を伏せている。
傍らにはトートバッグが力なく倒れて、口から今日の物販らしい筒状のポスターが半分覗いていた。首には、バンドのタオル。
最初は、連れを待っているだけかと思った。あるいは、スマートフォンでも見ているのか。だが、見ているうちに分かってきた。姿勢が、まったく動かない。俯いた角度も、膝を抱えた腕も、置物のように固まったままだ。休んでいる人間の弛緩ではなく、動けない人間の静止だった。
そして、誰も気づいていなかった。
当然だった。あの場所は、ロビーの動線からは死角になる。人の流れからも、出口を捌くスタッフの視界からも外れた窪みだ。スタッフは全員、出口の誘導に張り付いている。こちら側にいるのは見渡す限り、壁際の自分だけだった。足は、すぐには動かなかった。
声をかけて、ただ休んでいるだけだったら。不審者だと思われたら。女性に、こんな人気のない隅で、見知らぬ男が。頭の中の言い訳は次から次へと湧いてきた。スタッフを呼びに行く、という穏当な選択肢もあった。現にもう既に、出口の人だかりの方へ数歩歩いた。歩いて、振り返った。スタッフのいる出口までは遠く、その間に、彼女の頭がさらに深く沈むのが見えた。
……一息だけついて、足を動かした。
隣を歩くのにふさわしい人間でありたい、と思ったことを、思い出していた。誰に許されるためでもなく、そうあろうと決めたはずだった。ここで一番楽な選択肢を選んで、数分を人任せにする人間が、あの人の隣に立てるのか。
戻った。近づいて、少し離れた位置で足を止め、口を開いた。
「……あの」
声が、掠れて出なかった。人と話す準備のできていない喉だった。咳払いをひとつして、もう一度。
「あの、すみません。……大丈夫ですか」
女性の肩が、びくりと跳ねた。
のろのろと持ち上がった顔は、蛍光灯の下でも分かるほど白かった。額に前髪が汗で貼りつき、唇に色がない。それでも彼女は、反射のように答えた。
「……だ、大丈夫です。すみません」
「そう、ですか」
「はい。ちょっと、休んでるだけなので……」
大丈夫です、と言われてしまえば、それ以上踏み込む言葉の持ち合わせがなかった。そうですか、では、と立ち去りかける──その途中で、彼女が立ち上がろうとした。こちらに気を遣ったのだろう、床に手をついて腰を浮かせ、そして、大きく傾いだ。
「っ、」
手が、勝手に出た。掴んでいいのか分からず、行き場をなくした両腕の中で彼女はなんとか転倒だけは免れた。ずるずると、体を掴まれたまま元のしゃがんだ姿勢に戻る。荒くなった呼吸が、静かなロビーにやけに大きく聞こえた。
「……大丈夫じゃない、と思います」
我ながら、間の抜けた言い方だった。だが他に言い方を知らなかった。
「立たなくていいので。そのまま、座っていてください」
「……すみません……」
「謝らなくても」
それきり、困ったことになった 突っ立ったままでは威圧するようで、かといって移動すると今にも倒れそうだった。結局、少しの時間をかけて体を横に倒した。深呼吸をさせて、何とか落ち着いたように見えると、飲み物と思い至ったのはたっぷり十秒も黙り込んでからだった。
鞄の中に、開栓していないペットボトルの茶があった。開演前に自販機で買って、そのまま忘れていたものだ。緊張で、喉を通らなかったのだった。
「……これ、未開封なので。よかったら」
「え……いえ、そんな、悪いです」
「俺は、飲まなかったので。ぬるいですけど」
彼女は少し迷ってから、両手で受け取った。キャップを捻る手に力が入らないようだったので、開けます、と断って開けて渡し直した。彼女は小さく一口飲み、間を置いて、もう一口飲んだ。白かった唇に、わずかに色が戻る。
「……ありがとう、ございます」
「いえ」
また、沈黙になった。
自販機の駆動音と、遠い出口のアナウンスだけが聞こえる。気の利いた言葉のひとつも出てこない自分に呆れながら、それでも立ち去るわけにもいかず、倒れたトートバッグだけ、そっと起こして彼女の脇に寄せた。筒状のポスターを差し込み直す。スタッフを呼びに行こうとすると、彼女がそれを目で追って、少しだけ、泣きそうな顔で笑った。
「……すみません。一人で来てるので、ちょっと、心細くて」
「……」
「もう少しだけ、ここにいてもらっても、いいですか」
「はい。……急いでないので」
彼女はほっとしたように息を吐いた。それから、膝を抱えた腕を少しほどいて、ためらいがちに続けた。
「あの……変なお願いなんですけど。手、握ってもらっても、いいですか」
「…………え」
「目の前がちかちかして、自分がどこにいるか分からなくなりそうで。……何かに、掴まっていたくて」
固まった。見ず知らずの女性の手を握る。その絵面が頭をよぎり、続いて、まったく別の銀髪の人の顔がよぎり、頭の中が短く渋滞した。
だが目の前の彼女は、壁に爪を立てるようにして、現実に掴まろうとしている。病人だ。病人の、命綱の代わりだ。それ以上でも以下でもない。
ほんの少しの逡巡ののち、手を差し出した。
「……どうぞ」
驚くほど冷たい手だった。指先が、氷のように冷えている。彼女はその手で、遠慮がちに、けれど確かな力でこちらの手を握った。溺れる人が浮輪を掴むのと同じ握り方だった。他意の入り込む余地など、どこにもなかった。
「……あったかい」
「……そうですか」
「すみません、ほんとに……もう少しだけ」
それから彼女は、握った手はそのままに、ぽつり、ぽつりと話した。今日のライブが、どれだけ最高だったか。一曲目から全力で跳んで、全力で歌って、アンコールまで一秒も休まなかったこと。楽しすぎて、限界なんてとっくに越えていたのに気づかなかったこと。
「……出し切っちゃいました。百二十パーセントくらい」
「……見事な燃え尽き方だと思います」
「ふふ。悔いはないです」
力なく、それでも心底幸せそうに、彼女は笑った。その気持ちだけは、痛いほど分かった。今日のあのステージは、そういうステージだった。
五分ほどして、彼女の呼吸が落ち着いてきた頃、ようやく出口の誘導が一段落したらしいスタッフが一人、ロビーを横切った。声をかけると、こちらの指す先を見て表情を切り替え、早足で窪みへ向かってくる。
「お客様、大丈夫ですか。立ちくらみですか?──救護室が近くにあります。看護師もおりますので、少し横になっていきましょう」
「あ……でも、もう、だいぶ」
「念のためです。お一人ですよね? お帰りの途中で倒れられる方が心配ですので」
スタッフの登場と入れ替わるように、握られていた手が、そっと離れた。彼女はゆっくりと、今度は傾がずに立ち上がり、それから、こちらへ向き直って深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。……あの、お茶代」
「いいです。自販機のなので」
「……ありがとうございました。ほんとに」
もう一度頭を下げて、彼女はスタッフに付き添われ、ロビーの奥へ歩いていった。その背中に、お大事に、と声をかけた。かけてから、もっと何か言いようがあっただろうと思ったが、他の言葉は最後まで出てこなかった。
窪みの前には、自分ひとりが残された。
急に、どっと疲れが出た。壁にもたれ、息を吐く。助けた、と呼べるほどのことは何もしていない。ぬるい茶を一本渡して、隣でしゃがんで、手を貸して、スタッフを呼んだだけだ。それだけのことに、この消耗だった。
顔を上げると、ロビーはもう、がらんとしていた。清掃のスタッフが床を掃き始め、物販の列は畳まれ、祭りの後の空気だけが残っている。壁の時計を見上げて初めて、時間の経過に気づいた。
ポケットからスマートフォンを取り出したのは、そのときだった。
『搬入口側の通用口へ。スタッフの方に名前を伝えてください』
『着きましたか』
着信が数件
『どこにいますか』
『返事をください』
最後の一件は、三分前だった。
『向かいます』とだけ連絡を送り、もどかしい気持ちで案内を待ち、走った通用口の先、楽屋裏の廊下は、表の熱気が嘘のように静まり返っていた。空調の音と、遠くで機材を運ぶ台車の音。その廊下の真ん中に、ステージ衣装のままの天音が、腕を組んで立っていた。
汗で額に貼りついた前髪、照明の熱の名残で上気した頬。駆け寄って、遅れたことを詫びようとして
──やめた。空気が、凍っていた。
「……二十三分」
「……え?」
「メッセージを送ってから、貴方がここへ来るまでの時間です」
声は、恐ろしいほど平坦だった。
「女の人の隣にしゃがんで、飲み物を渡して……手まで、握っていましたよね。ずっと」
どうやって知ったのか、と思うより先に喉が詰まった。
「あれは、その、具合を悪くした人で……人混みにあてられたみたいで、放っておけなくて。一人で来ていて、動けなくなっていたので」
「スタッフの人に引き継ぐまで付き添っていました。名前も知りません。メッセージに気づかなかったのは、本当にすみません」
「そうですか」
平坦なままの相槌だった。信じたのか信じていないのか、読み取れない。
「……メッセージ、送りました」
「すみません、ポケットの中で──」
「既読が、つきませんでした」
彼女は目を伏せた。
「……あの時と、同じですね」
既読をつけず、電源を切り、人気のない校舎の地下へ隠れていた、あの数日間のことだ。心臓を、冷たい手で掴まれた気がした。
「あなたは……私だけを見ていてくれていたんじゃなかったんですか」
一歩、一歩と距離を詰められる。背中が、コンクリートの壁についた。
「嘘つき」
「違──」
「嘘つき、嘘つき、嘘つき」
まずい、と思った。今日という日に、よりによってこの手で古傷を、自分の不注意でまた開かせた。何を言えば伝わるのか。言葉を探して、探して、見つからなくて──気づけば、手が先に動いていた。
「誤解だ」
彼女の両肩を掴んでいた。初めて自分から触れた彼女の身体は、驚くほど細かった。
瞳孔が、ゆっくりと丸みを取り戻していく。
「逃げたんじゃない。俺はもう、あなたから逃げません」
「……え、あの」
「それに」
言うなら、今しかなかった。この一ヶ月、喉の奥で温め続けて、渡り廊下でも、地下のワーキングスペースでも、水族館の青い闇の中でも、渡しそびれてきた言葉だった。息を吸う。
「俺が今日、あの会場で見ていたのは、最初から最後まで、あなただけです」
「今日だけじゃない。文化祭のあの日から、ずっとです。」
息を吸う。
「……好きです」
「……ふぇ」
「ずっと前から。多分、あなたが思っているよりずっと、重たい意味で」
言い切って、顔を上げた。
目の前の彼女は──耳の先まで、真っ赤になっていた。
瞳孔は真球のように丸く、狐耳はぴんと立ち上がり、尻尾は四本ともぶわりと膨らんだまま硬直している。凍っていたはずの空気は、もうどこにも残っていなかった。
「ま、待ってください。あの、ストップです」
彼女は視線を左右に振りながら、両手を胸の前でぱたぱたと振った。
「じょ、冗談だったんです。今の、ぜんぶ」
「……冗談?」
「見ていました。最初から、全部。あの方を助けて、介抱していたのも、手を繋いであげていたのも。……立派だと思いました。本当に、誇らしいくらいでした」
早口だった。ステージの上ではあれほど声を張らない人が、廊下に響く声量になっている。
「ただ、その……待たされたのが、少しだけ悔しくて。だから少しだけ意地悪をして、困った顔を見たら、すぐ種明かしをするつもりで。……そうしたら貴方が、思ったより真剣な顔をするから、引っ込みがつかなくなって、それで、その」
弁明はそこで燃料切れを起こして、彼女は両手で顔を覆った。指の間から覗く耳の先まで、赤い。
「……そうしたら、す、好きって。聞いてないです、そんなの。心の準備が、まだ」
肩を掴んだままの自分の手と、顔を覆って湯気を上げそうになっている彼女とを、交互に見た。どっと力が抜けて、壁に背中を預ける。人生でいちばんの覚悟を、悪戯の返り討ちに使ったらしかった。
「……人が悪すぎませんか」
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
顔を覆ったまま、彼女はしばらく黙っていた。廊下に、空調の音だけが戻ってくる。
やがて、指の間から、碧眼が半分だけ覗いた。
「……でも、本当に?」
問いに主語はなかった。なくても、分かった。
頷いた。
彼女は両手をゆっくりと下ろした。真っ赤な顔のまま、まっすぐにこちらを見る。
「……もう一回」
「え」
「もう一回、言ってください」
「……好きです」
「もう一回」
「好きです」
「……私だけ?」
「あなただけです」
碧色の目に、今度こそ本物の涙が盛り上がって、堰を切ったように零れ落ちた。
天音が、倒れ込むように抱きついてきた。長身の彼女を受け止めきれず、二人して壁にぶつかる。四本の尻尾がふわりと広がって、こちらの身体に巻き付いてきた。柔らかくて、温かくて、まだステージの熱を残していた。
「私もです」
肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声が言う。
「私も、好きです。貴方が思っているより、ずっとずっと重たい意味で」
「……知ってます」
「ふふ」
濡れた笑い声がして、彼女が顔を上げた。泣き腫らした目のまま、これ以上ないほど幸せそうに笑っている。距離が、ゆっくりと縮まる。
今度のキスは、証拠のためのものではなかった。
「──うわ」
廊下の角から、間の抜けた声がした。着替え終えた篠崎結月が、ドリンク片手に固まっていた。
「……ごゆっくり〜」
にやにやと笑いながら、来た道を引き返していく。天音の顔が、耳の先まで一瞬で赤くなった。
「ゆ、結月……!」
「恋人なら堂々としていろと、言われたのでは」
「そ、それとこれとは話が別です」
天音は慌てて身体を離すと、指先で目元を拭った。それから、廊下の奥──篠崎結月の消えた方角と、その先の楽屋を、少しだけ恨めしそうに見た。
「……今日はこの後、打ち上げなんです。バンドだけの」
「はい」
「本当は」
彼女はこちらへ向き直った。目元はまだ赤いのに、その奥の光は、ステージの上と同じ温度に戻っていた。
「今すぐ、このまま連れて帰りたいくらいなんですけど。今日は、我慢します。今日のライブは、みんなで作ったものなので。……けじめ、です」
「行ってきてください。今日の、その──」
言葉を探した。圧巻だった、では足りない。綺麗だった、でも足りない。結局、一番単純なものしか残らなかった。
「……一生、忘れないと思います。今日のあなたを」
天音は目を瞬かせ、それから、堪えるように唇を結んだ。もう一度泣くのを、意志の力で止めた顔だった。
「……ずるいです、そういうの。打ち上げに行きたくなくなるじゃないですか」
「行ってください」
「行きます。行きますけど」
彼女は一歩、距離を詰めた。至近距離から、碧眼がまっすぐに見下ろしてくる。
「先に、言わせてください。今日は一緒にいられませんが──とにかく、愛しています」
好き、より一段深いところの言葉を、彼女は迷いなく置いた。
「あの曲も、あなたのために書きました。これから書く曲も、多分、全部そうなります。私の一番いいところは、ぜんぶ、あなたが見つけてくれたものなので」
「……」
「返事は、いいです。さっき、貰いましたから」
彼女は身を屈め、額に一度だけ、触れるようなキスを落として、離れた。
「気をつけて帰ってください。家に着いたら、連絡すること。……また連絡がつかなかったら、どこにでも迎えに行きますからね」
「打ち上げはどうするんですか」
「抜けます」
即答だった。冗談の顔をしていなかった。今日の悪戯を思えば、この人が予告を実行に移さない保証はどこにもなかった。
「……着いたら、すぐ連絡します」
「よろしい」
彼女は満足そうに笑って、踵を返した。廊下の照明の下、四本の尻尾がこれ以上ないほど上機嫌に揺れながら、楽屋の方へ遠ざかっていく。角を曲がる寸前、一度だけ振り返って、小さく手を振った。振り返す。もう迷わなかった。
通用口を出ると、夜風が火照った顔に冷たかった。
人の引いた会場前で、フラッグだけが夜空の下で静かに揺れている。耳鳴りの奥では、まだあの歌が鳴っていた。宛先のある歌が。
駅へ歩き出してすぐ、ポケットの中が震えた。
『愛しています』
打ち上げの席からだろうに、仕事が早い。立ち止まり、夜空の下で、少しだけ考えて、打ち込んだ。
『俺もです』
送信して、歩き出す。三秒後についた既読の向こうで、彼女がどんな顔をしているか、見なくても分かる気がした。




