終章.卒煙支援ブース
終章.卒煙支援ブース
三月も半ばを過ぎたが、外は朝から雨だった。
薄いプレハブの屋根を雨粒が叩き、一定のリズムを奏でている。壁の隙間からは相変わらず冷たかったり生ぬるかったりする空気が忍び込んでくるが、隣に人がいるだけで、この小屋は随分とましな場所になった。
煙草を咥え、ポケットを探る。……ない。上着を替えたときに、ライターを移し忘れたらしい。
「すみません、天音さん。ライター借りても──」
言い終わる前に、隣で、かちり、と音がした。
天音は自分の煙草に先に火をつけると、ライターをポケットへ仕舞ってしまった。
「……天音さん?」
「貸しません」
「え」
「その代わり」
……彼女は咥えた煙草の先を、こちらへ少しだけ傾けてみせた。
じり、と赤く灯る火種と、その向こうの碧眼が、期待の色を隠しもせずにこちらを見ている。
「……こちらから、どうぞ」
意味を理解するまでに、二秒かかった。理解した瞬間、耳まで熱くなった。
「……ライターで、いいんですが」
「駄目です。こういうのは、こうするものなので」
どこかで聞いた理屈だった。いつかの一件以来、彼女の中では「こういうもの」の辞書が着々と厚くなっている。譲る気配は、今日も微塵もなかった。
観念して、煙草を咥えたまま、顔を寄せる。
先端と先端が触れる。息を吸うと、彼女の火がこちらの紙へ移って、じり、と小さな音を立てた。距離にすれば、煙草二本分。それだけの近さで、雨音の向こうに彼女の睫毛の瞬きまで見えた。吸い込んだ最初の一服は、いつもと同じ味のはずなのに、この世で一番心臓に悪い味がした。
「……ご馳走様です」
離れ際に、彼女が満足そうに言った。あの日の地下二階と同じ台詞を。
「……その台詞、癖になってませんか」
「なっています、だってその通りですから」
悪びれもしなかった。四本の尻尾が、狭いブースの中で機嫌よく揺れている。
二本の煙草から、二筋の煙が昇っていく。銘柄はどちらも同じ。換気扇がジー、と唸り、雨音と、二人分の呼吸の音が混ざった。
特別な話は、何もなかった。
来週の試験の話。打ち上げで結月がやらかした話。凛ちゃんが恋愛に興味津々な話、姫ちゃんが連休で深淵渉りをした話。薙ちゃんが本当に何もしていないという話。次のライブの話。メジャーデビューの話。ふきの入った学食の新メニューが出たが絶対に頼まない、という話。
なんでもない話を、なんでもない顔で、隣に並んでする。一年半前の自分に教えたら、卒倒するだろう。だが相応の時間はすでに経過していた。
「……そういえば」
改まった口調で、天音がふと口を開いた。
「貴方って、女性のきょうだいはいらっしゃいますか?」
「……妹が、いますけど」
「妹さん」
彼女は短く復唱した。それきり黙って、息を一つ吐く。
狐耳が、ぴこ、ぴこ、と小刻みに動いていた。何かを処理している耳だった。
「……高校生ですか」
「今度、大学です」
「仲は」
「普通です。……あの、この質問はなんですか」
「いえ」
天音は窓の外へ目をやった。やってから、耐えきれなくなったように白状した。
「先週、貴方が駅前で女の子と歩いているのを見たので」
「……見たので?」
「調べようかどうか、一晩悩みました」
「でも、この前決めたんです。気になることは、調べる前に、まず本人に聞くって」
言い切ってから、彼女は少しだけ胸を張った。当人としては、大変な自制と進歩の報告であるらしい。実際、二人にとっては大変な自制と進歩なのだった。
「……偉いです」
「ふふ。もっと褒めてくれていいですよ」
「妹です。進学の準備で、買い物に付き合わされてました」
「はい。……安心しました」
彼女は素直にそう言って、それから、少し声を落とした。
「妹さんには、その、いつか。……ご挨拶とか、できたら、と」
語尾は雨音に紛れて消えたが、耳だけは正直にこちらを向いていた。心の準備が出来ていないと、聞こえなかったふりをして煙を吐いた。頬が熱いのは、煙草のせいということにした。
雨脚が、少し強くなった。
屋根を叩く音が細かくなり、窓の外が白く煙る。彼女は短くなった煙草の火の始末を付けると、鞄の中を探り始めた。
「……あの。渡したいものが、あるんです」
取り出されたのは、小さな包みだった。
手のひらに載るほどの、簡素な白い紙の包み。受け取ると、思ったより硬く、軽い音がした。
「開けても」
「どうぞ」
包みを解く。
中から出てきたのは、鍵だった。銀色の、なんの変哲もない鍵が一本。……いや、変哲はあった。キーホルダーとして、小さなペンギンがぶら下がっている。水族館の土産物屋で見た覚えのある、あのペンギンだった。
「……これは」
「合鍵です。私の部屋の」
さらりと言っていい種類のものではなかった。
「ちょ、っと待ってください。早くないですか」
「遅いくらいです」
即答だった。
「私はもう、貴方の家の鍵の隠し場所も、間取りも、ベッドの位置も知っていますし」
「知ってるんですか?」
「……たとえばの話です」
目が泳いでいた。たとえばの話ではなさそうだった。追及するべきか一瞬迷い、やめた。この期に及んで、彼女のそういう部分に驚いてみせるのは、もはや白々しいというものだった。
「これからバンドが忙しくなると、会えない日が増えます。ツアーも、レコーディングも。……だから」
彼女は、手の中の鍵を見つめたまま続けた。
「私がいない日でも、貴方が私の部屋にいてくれたら、嬉しいなと。帰る場所に貴方がいると思えば、どこへでも行けるので」
「……都合よく使われませんか、俺」
「使います。堂々と」
開き直りが清々しかった。
「水をあげてほしい観葉植物もありますし、機材の湿度管理もありますし。……あと」
「あと?」
「貴方の匂いが部屋に残っていると、よく眠れるので」
「……」
「引かないでください。お互い様でしょう」
お互い様、という言葉に、もはや反論の余地はなかった。講義の時間割から互いの匂いまで知り尽くした者同士の、普通なのだった。世間の普通と多少ずれていようが、二人の間で釣り合っているなら、それでいい。最近は、そう思えるようになっていた。
鍵を握り込む。ペンギンが、指の間で小さく揺れた。
「……ありがとうございます。大事にします」
「……雨、強くなりそうですね」
「そうですね」
彼女は窓の外に目をやってから、ちらりとこちらを窺う。
「傘、あります?」
「今日は、あります」
鞄から折り畳み傘を取り出してみせると、彼女は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、しましょうか」
「相合傘」
「……ほんの数メートルですよ」
いつか彼女に言われた台詞を、そっくりそのまま返される日が来るとは思わなかった。
天音は悪戯な目をして、機嫌よく尻尾を揺らしている。
傘を開き、狭い出入り口を二人でくぐった。
一本の傘に、種族差のある二人分は収まりきらない。彼女が半分濡れないように傾ければこちらの肩が濡れ、こちらが傾け返せば彼女の尻尾が濡れる。数メートルの距離を、譲り合いながらゆっくりと歩いた。あの日と同じ雨の中を、あの日とは反対の傘の下で。
最近、視線を感じることがある。
気のせいではないことを、もう知っている。
講義中も、図書棟でも、バイト終わりの廊下でも、飲みに出た店の中でも。
ふと顔を上げれば、碧色の瞳がこちらを見ている。目が合うと、彼女は誤魔化しもせずに、ただ嬉しそうに笑う。
物も、もう失くさなくなった。
……代わりに、時々増えていることがあるのだが、それはまた別の話だ。ポケットの中の鍵も、その一つに数えていいのかもしれない。
結論から言うと、俺たちは互いにストーカーだった。
今はただの、恋人同士という話だ。




