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8.翌日

 8.翌日

 

 

 いつもの講義室に向かう。

 扉を開けると、いつもなら既に最前列で姿勢を正している宮舞天音の姿が見当たらなかった。

 

 昨日のやり取りを思えば、来ないことの方が自然なのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、結局はいつもの最後列に腰を下ろした。

 

 講義開始のチャイムまでには、まだ少し時間があった。

 ノートを広げて、昨日のことをぼんやりと反芻する。お断りします、と口にした瞬間の自分の声。冷たくなった彼女の視線。失礼します、と言って出ていった背中。

 

 ……あれで、終わったのだろうか。

 

 そんな訳がない、と考えていると、教室の扉が開く音がした。

 顔を上げると、宮舞天音が入ってくるところだった。

 

 いつもより少し遅い。

 普段なら、開始の十分以上前には席に着いている人だった。

 

 彼女は教室を一瞥すると、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。

 周りの学生たちの視線が一瞬だけ向けられたのが分かったが、宮舞天音は気にした様子もなく、隣の空席に腰を下ろした。

 

 「……」

 

 言葉が出てこなかった。

 昨日のことがあって、なぜ当たり前のように隣に座るのか、その判断の基準がまったく読めなかった。

 

 宮舞天音は鞄から教科書を取り出しながら、ちらりとこちらを見た。

 

 「何か?」

 

 「いえ、その……」

 

 「座っては駄目でしたか」

 

 「駄目、というか」

 

 言葉に詰まる。

 駄目だと言うべきなのは分かっていた。だが昨日あれだけはっきりと拒絶を口にしたばかりで、もう一度同じことを繰り返す気力が、今はまだ湧いてこなかった。

 

 宮舞天音はそんなこちらの様子を見て、小さく目を細めた。

 

 「不公平だと思っていたんですよ」

 

 「……何がですか」

 

 「私はいつも、貴方の姿を見ることができないのに」

 

 さらりと、それだけ言った。

 

 意味を測りかねていると、彼女は静かに続けた。

 

 「貴方は、私の知らないところで、ずっと私を見ていましたよね」

 

 心臓が激しく軋んで、苦しいぐらいだった。

 

 「だから、これくらいは。お互い様だと思っています」

 

 その言い方には、どこか論理めいた響きがあった。

 筋が通っているようで、根本的なところがどこかずれている。だが反論する言葉を、すぐには見つけられなかった。

 

 宮舞天音は教科書のページを開きながら、もう一言だけ付け加えた。

 

 「それに、座る席を貴方が決められる理由は、特にないと思いますが」

 

 「……それは、そうですけど」

 

 「では、いいですね」

 

 有無を言わせない口調で、それで会話は終わった。

 

 ちょうどそのタイミングで講義開始のチャイムが鳴る。

 教授が教壇に立ち、スライドが切り替わる。隣からは、ペンが紙を滑る音が聞こえてくる。

 いつもと同じ音のはずなのに、今日はその音の一つひとつが、やけに鮮明に耳に残った。

 

 昨日、あれだけはっきりと距離を置きたいと言ったはずだった。

 それなのに今、彼女はいつもと変わらない様子で隣に座っている。拒絶されたことなど、まるで意に介していないかのように。

 

 不公平、という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

 彼女がこれまでどれだけ自分のことを見てきたのか、その量を考えるたびに、薄ら寒いものが背筋を伝った。

 

 講義が終わるまでの間、宮舞天音は何事もなかったかのように、いつも通り講義に集中していた。

 時折こちらに視線を寄越すこともあったが、それ以上踏み込んでくることはなかった。ただ「隣にいる」という事実だけを、静かに積み重ねているようだった。

 

 鐘が鳴り、講義が終わる。

 宮舞天音は鞄をまとめながら、こちらを一瞥した。

 

 「また、明日」

 

 返事を待たずに、彼女は席を立った。

 長い尻尾がコートの裾から覗き、廊下の人混みの中へ消えていく。

 

 




 

 

 

 メッセージアプリの通知音で目が覚めた。

 枕元のスマートフォンを手に取ると、暗い部屋の中で画面だけが眩しいくらいに光っていた。

 

 時刻は朝の七時前。普段ならまだ眠っている時間だった。カーテンの隙間から差す光はまだ弱く、部屋の空気は冷え切っている。

 

 『おはようございます』

 

 宮舞天音からだった。

 続けて、狐のスタンプ。両手を上げて朝日を浴びている、暢気な絵柄だった。

 

 しばらく画面を見つめたまま、布団の中で動けずにいた。

 

 返信するべきか、しないべきか。昨日のやり取りを思えば、無視するのが筋のはずだった。だが既読をつけることすら、何か意味を持ってしまう気がして、結局はそのまま画面を閉じた。

 

 

 

 大学に向かう支度をしている間に、また通知が鳴った。

 

 『今日もいい天気ですね』

 

 窓の外は、彼女の言う通りの快晴だった。

 返信はしなかった。既読もつけなかった。画面の上半分の表示だけを見て、また伏せる。

 

 プレビューで読む、という中途半端な抜け道を覚えてしまっていた。読んでいないことにしたまま、読んでいる。我ながら姑息だったが、これが今現在で最も楽な選択肢だった。

 

 電車に乗っている間にも、もう一件届いた。

 

 『今、私も電車にいます』

 

 吊り革を握る手に、力がこもった。

 どこの、とは書いていないが、彼女の使う路線は知っている。この時間なら、この電車に乗っていてもおかしくない。……そこまで即座に計算できてしまう自分の頭に、うんざりした。

 

 顔を上げて、車内をさりげなく見回す。朝の車両は混んでいて、コートの背中と後頭部ばかりが視界を埋めていた。銀色は、見当たらない。

 

 偶然なのか、それとも知っていて送ってきているのか、判断がつかなかった。

 画面を見ないようにしながら、車窓の外をぼんやりと眺めた。ガラスに薄く映る自分の顔が、ひどく寝不足の顔をしていた。

 

 午前の講義は、内容がほとんど頭に入らなかった。

 教授の声よりも、鞄の中のスマートフォンの方に意識が向いていた。振動は、講義中に二度あった。二度とも、確かめなかった。確かめなかったことを、九十分間ずっと考えていた。

 

 

 

 

 

 昼休み、学食でうどんを啜っていると、また着信音が鳴った。

 

 『うどん、好きなんですか』

 

 箸を持つ手が止まる。

 偶然にしてはタイミングが良すぎるので、顔を上げ、周囲を見回した。

 昼時の学食は満席に近い。トレーを運ぶ列、席を探す集団、笑い声。数百人の中に、あの銀髪があれば一瞬で分かるはずだった。人混みでも隠しようのない長身と、狐耳。……見当たらなかった。二階の吹き抜けを見上げても、窓際を端から辿っても、いない。

 

 ただの偶然だ、と自分に言い聞かせる。昼休みの時間に、昼食について聞くこと自体は、それほど不自然なことではないはずだった。

 だが、うどん、という具体名が喉に引っかかっていた。今日は何を食べていますか、ではなく。うどん、好きなんですか、と来た。言い逃れることが無茶なように思う。

 

 ……かつての自分を、思い出さずにはいられなかった。

 彼女の昼食の時間と場所を投稿から割り出して、同じメニューを頼んでいた頃の自分を。あの頃の自分がもし彼女にメッセージを送れたとしても、決してメッセージは送らないだろうが。

 

 既読をつけずに画面を閉じる。

 うどんの味は、既によく分からなくなっていた。すだちの酸味だけが舌の上を刺激して存在感を示している。

 

 食べ終えて席を立つと、すぐにまた振動があった。

 振り返って学食の中を見渡したが、宮舞天音らしき姿はどこにもなかった。

 

 いない。それなのに、いないことが安心につながらなかった。姿が見えないことと、見られていないことが、彼女に関しては同じ意味にならないと、もう知ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 午後は図書棟の隅で時間を潰した。

 共通の講義がない日で、それだけが救いだった。それでも廊下を歩くたびに、曲がり角の先を気にする癖がついていた。たった一日で身についた、情けない癖だった。

 

 振動は、途切れなかった。二時間おきだった間隔が、夕方に近づくにつれて狭まっていくのが、確かめなくても分かった。ポケットの中の振動の回数だけで、彼女の感情がじわりじわりと伝わってくる。

 

 夕方、バイト先に向かう途中で電話が鳴った。

 メッセージではなく、着信だった。

 

 画面に表示された名前を見て、足が止まる。着信音が、静かな廊下に妙に大きく響いた。通りには人気がなく、自分の影だけが長く伸びた道の真ん中で、手の中の板だけが鳴り続けている。

 

 出るべきか迷っているうちに、コール音は途切れた。

 ほっとしたのも束の間、すぐにまた同じ画面が光る。

 

 二回目のコールも、無視した。マナーモードに変更した。

 

 三回目、四回目。律儀に同じ間隔で、着信が繰り返される。感情的な連打ではなかった。むしろ規則正しさが恐ろしかった。鳴らして、待って、切れて、また鳴らす。メトロノームのような正確さで、諦めるという選択肢だけが省かれていた。

 

 五回目で、ようやく止まった。

 

 しばらく道端で立ち尽くしたまま、スマートフォンの画面を見つめていた。

 不在着信の通知が、画面いっぱいに並んでいる。同じ名前が、同じ字面で、五つ。

 

 その下に、メッセージが一件届いていた。

 

 『電話、出てもらえませんか』

 

 そっけない一文だった。

 怒っているのか、落胆しているのか、悲しんでいるのか、文字だけでは読み取れない。だがその短さが、かえって重く感じられた。今日一日の、天気だの昼食だのという言葉の飾りが、この一件だけ全部剥がれていた。

 

 返信せずに、また画面を閉じた。

 バイト先へ向かう足取りが、いつもより重かった。仕事中も、ロッカーに仕舞ったスマートフォンのことを、何度も考えた。今も鳴っているだろうか。鳴っていないなら、それはそれで、なぜ鳴っていないのか。

 

 ……気づけば、彼女の動向を推し量っている。無視をしている側のはずなのに、頭の中は一日中、彼女で占められていた。それこそが彼女の目的なのだとしたら、この勝負はとうに決まっていた。

 

 夜、帰宅してから、改めて通知の一覧を確認した。

 数えるつもりはなかったが、ざっと見ただけでも、この一日だけで五十件近いメッセージが届いていた。

 朝の挨拶。天気の話。昼食の話。今何をしているか。講義の感想。バイトは何時までか。夕飯は食べたか。

 電気もつけないまま、ベッドの縁に腰掛けて、それを上から順に読んだ。

 

 一つひとつは、何でもない言葉だった。

 既読をつけない読み方は、もうすっかり手に馴染んでいた。

 

 友人同士のやり取りであれば、何の違和感もないような内容ばかりだ。絵文字の使い方も、スタンプの選び方も、いつも通りに柔らかい。怒りの言葉も、責める言葉も、昨日の話を蒸し返す言葉も、一つもなかった。

 

 だが、その量と頻度が、明らかに普通ではなかった。

 既読をつけていないのに、まるで会話が成立しているかのように、彼女のメッセージだけが一方的に積み重なっていく。返事を期待していないのか、それとも、返事をされないことすら織り込み済みなのか。

 

 画面をスクロールしていくと、一番下に、先ほどの電話の件に続けてもう一件、新しいメッセージが届いていた。

 

 『明日も、待っていますね』

 

 送信時刻は、つい数分前だった。

 

 画面を閉じると、真っ暗になった画面に、自分の顔が映る。

 布団に入ってからも、しばらく寝付けなかった。

 目を閉じると、彼女からのメッセージが瞼の裏に並んだ。どれも柔らかく、どれも優しく、どれも、こちらの返事を必要としていた。

 

 既読をつけなかったことに、安堵すべきなのか、後悔するべきなのか、それとも別の意味で不安に思うべきなのか。

 自分でもよく分からないまま、スマートフォンを枕元に置いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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