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7.卒煙支援ブース

 7.卒煙支援ブース

 

 

 ……かちりとライターに火をつける。

 じりじりと紙が赤く光る。

 

 ストーカーは辞めた。

 

 

 普段ならスタバでフラペチーノでも飲んでいる宮舞天音を追ってコールドブリューを注文している頃合いだが、踵を返してこうして敷地内の端の端の喫煙所に来ていた。

 理由は単純ではない、一つ確かなことは近付き過ぎということだ。

 

 本当に久しぶりに彼女を追うことを止めていた。今頃は何をしているのだろうか。

 ファンとして遠くから見ている分には何も問題はなかった。だが連絡先を交換し、隣の席で講義を受け、名前を呼ばれ、笑顔を向けられる。大したことだ、それが途轍もなく重たかった。

 

 こういう距離感でいてはいけない、と頭の中の冷静な部分が告げていた。

 自分がしてきたことを棚に上げて言うことではないが、これ以上踏み込んでいくことは正しくないように感じた。

 あの日から既に三日が経過していた、……心の中に燻ぶる罪悪感と、消えない過去がずっと付きまとっていた。

 

 嬉しかったのは紛れもない事実だ。

 推しと普通に話せる。隣に座って笑いかけられる日が来るとは思っていなかった。

 だが自分は真っ当なファンではない、だからこそ余計に苦しかった。

 

 俺は彼女の知らないところで、彼女の生活の隅々まで追いかけ続けてきた人間だ。

 彼女から連絡の通知が来るたびに、その事実が喉の小骨のように引っかかっていた。

 

 宮舞天音の口から出てくる言葉の端々には、同様に気になるものがあった。

 講義のスケジュール、SNSのアカウント、座っている場所。俺が宮舞天音のことを知っているように、彼女も当然のように俺のことを知っていた。

 

 どの程度かは分からないが、少なくとも一方的に見ているだけの関係ではなかった。

 

 それに気づいて、ようやく決めたことだ。

 普通の関係になりたい。一人のファンとして、一人の知人として、まっとうな距離感を作り直したい。そのためには先ず自分がやってきたことを完全に断ち切る必要があった。

 

 今日は同じ講義のない日だった。図書館で時間をつぶして、帰宅時間をいつもよりずらした。宮舞天音と意図して鉢合わせないようにだ。

 

 たったそれだけのことで、今日は酷く疲れていた。

 

 

 

 

 

 煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 卒煙支援ブースの中は相変わらず狭く、隙間風が足元から忍び込んでくる。換気扇の低い音だけが、この空間を満たしていた。

 

 あの日、ここで宮舞天音と相合傘をした記憶が、今こうして一人で立っていると妙に遠く感じられる。たった数日前のことのはずなのに、随分と長い時間が経ったような錯覚があった。

 

 昨日までの三日間が、頭の中で繰り返される。

 

 最初の講義の日、隣の席に座って、彼女が解いた演習問題を見せてもらった。次の日は昼休みに誘われて、他愛のない話をした。三日目は、図書館で並んで勉強をした。

 

 どの記憶も、不思議なくらい穏やかだった。

 ファンとして遠くから見ていたころには、想像すらしなかった種類の時間だった。彼女の声が思っていたよりずっと近くで聞こえること。笑った時に目尻がわずかに下がること。考え込むときに癖でペンの後ろを唇に当てること。そういう、画面越しや遠目には分からなかった細部が、今では当たり前のように認識していた。

 

 それに恐怖を感じた。

 

 怖い、という言葉が正確かどうかは分からない。だが近い感覚ではあった。

 知れば知るほど、自分がしてきたことの重大さを思い知らされる。彼女の隣にいる資格などあるはずがない。それなのに、誘われるたびに頷いてしまう自分がどうかしていると思った。

 

 灰皿に煙草の灰を落としながら、もう一度自分に言い聞かせる。

 

 今日からは、距離を置く。

 彼女の生活圏から、できる限り自分の気配を消す。SNSも見ない。スケジュールも合わせない。偶然を装うことなど勿論しない。

 

 それはこれまでとは正反対の行動だった。

 追いかけることに慣れた身体には、追いかけないということの方がよほど難しかった。何もしていないのに、落ち着かないそわそわとした感覚がずっと続いている。スマートフォンを確認したい衝動を、何度も煙でごまかした。

 

 ポケットの中で、何度か振動があった。

 見なくても、誰からかは分かる気がした。

 

 確認しないと決めていた。

 決めていたはずなのに、指先がポケットの中で携帯の輪郭をなぞってしまう。

 

 馬鹿げている、と思う。

 たった三日前まで、彼女の動向を逐一追いかけて生きていた人間が、今さら距離を置くなどと殊勝なことを考えている。正に滑稽だった。だがこれ以外にどうすればいいのか、自分には分からなかった。

 

 煙草の先が短くなっていく。

 窓のない狭い空間で、時間の感覚だけが緩やかに薄れていった。

 

 もう一本、火をつけようか迷っていたところで、外で物音がした。

 砂利を踏む、規則正しい足音が聞こえる。

 

 反射的に身構えた。この時間、この喫煙所に近づいてくる人間は普段はいない。

 足音は迷いなく近づいており、止める間もなく、まさか、と思う間もなく引き戸に手がかかる音がした。

 

 

 

 

 「……こんにちは」

 

 大きな影が、喫煙所の室内を差していた。

 入り口に立っていたのは宮舞天音だった。

 黒のタートルネックに、紺のロングコート。今日は少し改まった格好をしている。逆光を背負っているせいで表情までは読めず、ただ輪郭だけが、狭い出入り口いっぱいに立っていた。銀髪が外光を細く透かし、その足元から伸びた影が、こちらの爪先まで届いている。

 

 

 「……どうして」

 

 「散歩していたら、見えたので」

 

 直感的に嘘だと悟った。

 この喫煙所は校舎の裏手の、積極的に探さなければ辿り着けないような場所にある。散歩の経路には入らない。第一、雑草と無断栽培の薬草をかき分けてまで通る散歩道がこの世のどこにあるというのか。

 

 だが問い詰める前に、宮舞天音はこちらの正面に立った。

 手を伸ばせば届く距離に宮舞天音は立っていた。必然的に首を上げて見上げる形になる。煙草の火は既に自分で磨り潰したばかりだった。

 

 「……私の事、避けましたよね」

 

 「いえ、そういうわけでは」

 

 「嘘つき」

 

 宮舞天音はか細く、短い声でそれだけを言った。

 声に怒気が感じられないことが、かえって恐ろしかった。荒らげてくれた方がまだ受け止めようがあった。彼女はただ、曇り空の澱んだ空気をそのまま身にまとって、静かにこちらを見下ろしている。

 

 「今日、いつものスタバに行こうとしたんです」

 

 「貴方がついてこないので、変だなと思って」

 

 コートのポケットから手を取り出して、静かに続けた。

 心臓がどくどくと嫌な音を立てている。

 

 「ついてくる、というのは」

 

 「貴方、いつも私の後ろにいますよね」

 

 淡々とした響きに、喉の奥が引き攣る。

 逃れようのない過去が、重みと鋭さを持って胸の奥深くへ突き刺さる。

 

 「気づいて……いたんですか」

 

 「最初からです。気づかなかったと思いました?」

 

 宮舞天音は短く息をついた。呆れとも、諦めともつかない息だった。

 

 「今日もいるだろうと思っていました。でも、いなかった」

 

 「……すみません」

 

 反射的に謝っていた。

 謝る理由が正確には分からないまま、口が勝手に動いていた。

 

 宮舞天音はそんなこちらをじっと見ていた。

 いつもの涼しい表情の奥に、何か別の感情が混じっているような気がした。

 

 「謝ってほしいわけではないんです」

 

 静かな声だった。

 

 「ただ、知りたいんです。なぜ急に消えたのか」

 

 「……消えたわけでは」

 

 「消えましたよ」

 

 被せるように言われた。

 

 「SNSも、更新が止まっていました。連絡の通知も見ていないみたいでした。いつも感じていた貴方の存在が、今日はどこにもなかった。分かっていて聞いています」

 

 淡々とした口調だったが、その言葉の量に圧倒された。

 ここ三日、隣から自分がどれだけ動向を見られていたかが、嫌でも伝わってきた。

 

 「……何か、私が悪いことをしたのでしょうか」

 

 不意に、声のトーンが変わった。

 

 問い詰める色から、少しだけ不安げな色へ。張り詰めていた糸が、そこだけ細くなったような変化だった。

 

 「私が、何か貴方に失礼なことを言ってしまったとか」

 

 「いえ、そんなことは」

 

 「なら、なぜ」

 

 答えられなかった。

 ストーカーをやめようと決めたから、と正直に言えるはずもない。だが何も言わなければ、この沈黙がそのまま彼女を傷つけてしまう気がした。

 目の前の碧眼は、責める色よりも、答えを待つ色の方が濃くなっている。

 

 「……俺は、その」

 

 言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。

 

 「あなたとこうして話せるようになったのは、嬉しかったです。それは本当です」

 

 宮舞天音の表情がわずかに動いた。

 

 「でも」

 

 「でも?」

 

 「自分が、ちゃんとしたファンじゃないという自覚があって」

 

 声が掠れた。

 自覚、という言葉の中身を、彼女がどこまで知っているのかは分からない。分からないまま、ぎりぎりの縁を歩くように言葉を継いだ。

 

 「だから、距離を置こうと思いました。あなたに、ふさわしい人間でいたくて」

 

 嘘ではなかった。これは一つの本心ではあった。

 

 宮舞天音はしばらく黙っていた。

 雨の気配が近いのか、換気扇の向こうで風の音が湿り始めていた。彼女は何かを測るように、こちらの目をじっと見ている。

 

 「……それだけ、ですか」

 

 やがて、静かに聞いてきた。

 

 「それだけ、というのは」

 

 「私に嫌気が差したとか、面倒になったとか、そういうことではなく」

 

 「違います」

 

 即答だった。

 今日初めて、迷いなく言葉が出た。

 

 宮舞天音は小さく息をついた。

 安堵したような、あるいは別の感情を押し殺したような、複雑な音だった。張り詰めていた肩が、ほんのわずかに下がる。

 

 「……よかった」

 

 「……」

 

 「私、てっきり嫌われたのかと思っていました」

 

 ぽつりと漏れた声には、これまで聞いたことのない柔らかさがあった。

 いつもの余裕のある笑みではなく、もっと素の感情に近いものが滲んでいる気がした。

 

 「嫌うはずがないです」

 

 気づけば、そう口にしていた。

 

 宮舞天音は少しの間、こちらを見つめた。

 それから、ふっと表情を緩める。いつもの微笑みに戻りながらも、目の奥にはまだ何か別のものが残っていた。

 

 「ふさわしい人間でいたい、というのは」

 

 彼女はゆっくりと続けた。

 

 「貴方が決めることではないですよ」

 

 「……」

 

 「私が決めます」

 

 言い切る声には、有無を言わせない響きがあった。

 さっきまでの不安げな色は、もうどこにもなかった。

 

 「私が、貴方と一緒にいたいと思っている。それだけで十分です」

 

 「……それは」

 

 「だから」

 

 宮舞天音はこちらへ一歩近づいた。

 狭いブースの中、距離がまた縮まる。

 

 「勝手にいなくならないでください」

 

 その言葉には、懇願のような、命令のような、両方の響きがあった。

 

 声が出るまでに、少し時間がかかった。

 

 頭の中では、もっと穏当な返事を探していたはずだった。曖昧に頷いて、その場をやり過ごす方法はいくらでもあったはずだ。

 

 だが喉から出てきたのは、もっと硬く、もっと尖った言葉だった。

 

 

 

 

 












 

 

 

 

 

 

 

 「……お断りします」

 

 震えた声だった。

 自分でもそうと分かるくらい、語尾がわずかに揺れていた。

 

 狭いブースの空気が、一瞬で、冷たいものに変わる。

 

 「……は?」

 

 宮舞天音の声は、これまで聞いたどの声とも違っていた。

 心の底から底冷えするような声色だった。困惑の色が滲んでいるのに、それでいて温度が氷点下まで一気に下がったような、奇妙な響きだった。

 

 碧眼がこちらを見つめている。

 断られるなどという可能性は最初から想定していなかった、という顔だった。理解できないものを見るような、それでいて祈りすがるような目をしていた。

 

 「今、なんと」

 

 「お断りします、と言いました」

 

 もう一度、はっきりと言った。

 今度は震えなかった。だが代わりに、心臓が痛いくらいに早鐘を打っていた。

 

 宮舞天音は黙ったまま、しばらくこちらを見続けていた。

 換気扇の唸りだけが、二人の間を埋めていた。

 

 「……理由を、聞いてもいいですか」

 

 ようやく口を開いた声は、先ほどよりも幾分か落ち着いていた。だが、その下にまだ何か硬いものが残っているのが分かった。

 

 理由なら、いくらでもあった。

 むしろ、ありすぎて、どれから話せばいいのか分からなかった。

 

 「……あなたは、有名人です」

 

 ゆっくりと、言葉を選びながら口を開く。

 

 「ファンと、こんな風に近い距離でいることが、もし知られたら」

 

 「知られたら?」

 

 「あなたの評判に、傷がつきます」

 

 宮舞天音はわずかに眉をひそめた。

 

 「私の心配を、しているということですか」

 

 「それもあります」

 

 「それも?」

 

 「……それだけじゃないです」

 

 息を整える。

 言わなければならないことが、もう一つあった。これが本題だった。

 

 「あなたが、なぜそこまで俺に構うのか、正直まったく理解できません」

 

 はっきりと言った。

 言ってしまってから、自分の声の硬さに少し驚いた。

 

 「最初は、ファンとして覚えていてくれているだけだと思っていました。でも、講義のスケジュールを知っていたり、SNSのアカウントを特定していたり……今日だって、そうです。スタバについてこなかったからといって、わざわざここまで来た。普通、そこまでしますか」

 

 宮舞天音は何も言わなかった。

 その沈黙が、肯定にも否定にも見えた。

 

 「分からないんです、あなたの考えていることが」

 

 声が少しだけ荒くなった。

 

 「それが、怖いんです」

 

 怖い、という言葉を口にした瞬間、自分でもその意味を測りかねた。

 彼女が怖いのか、彼女の行動の理由が怖いのか、それとも、自分がそれに惹かれていることが怖いのか。境界線はもう曖昧で、ぐちゃぐちゃだった。

 

 「だから、距離を置きたいんです。これ以上、近づくべきじゃない」

 

 言い切ると、息が切れていた。

 曖昧だった自分の感情を、曖昧なまま、思うがままに口に出した。

 狭いブースの中の空気が、やけに重く感じられた。

 

 

 お互いにしばらく、何も言わなかった。

だがそれは、納得して黙っているようには見えなかった。何かを組み立て直しているような、次の言葉を選んでいるような沈黙だった。

 

 「……評判の話は」

 

 宮舞天音はゆっくりと口を開いた。

 

 「貴方が決めることではないと、さっきも言ったはずです」

 

 「でも」

 

 「私の評判が傷つくかどうかは、私が判断します」

 

 声には、わずかに苛立ちの色が滲んでいた。

 それは、これまで見たことのない種類の苛立ちだった。

 

 「それに」

 

 彼女は一歩、こちらへ踏み出した。

 壁際まで追い詰められる距離になる。

 

 「貴方が私の考えを理解できないと言うなら、私だって貴方のことを全部理解しているわけではないですよ」

 

 「……それは」

 

 「お互い様じゃないですか」

 

 碧眼が、まっすぐにこちらを見据えていた。

 逃げ場のない視線だった。

 

 「相手のことを理解したいと考える、そのために歩み寄るのは普通の事だと思いませんか」

 

 さらに半歩、距離を詰められる。

 

 「分からないから離れる、というのは、おかしいと思いませんか」

 

 「……おかしいかもしれません。でも」

 

 言葉に詰まる。

 頭の中では、もっと別の理由があった。だがそれを言葉にすることはできず、結局は同じ言葉を繰り返すしかなかった。

 

 「俺は、距離を置きたいんです」

 

 宮舞天音の表情が、わずかに揺れた。

 

 「……なぜですか」

 

 「……」

 

 「本当の理由を、言ってください」

 

 声が低くなる。

 懇願ではなく、もっと切実な、何かを確かめるような響きだった。

 

 「私の何が、貴方をそんなに不安にさせるんですか」

 

 答えられなかった。

 本当の理由は自分でもわからなかった。

 

 沈黙が続いた。

 換気扇の音だけが、やけに大きく響いていた。

 

 「……言えない、ということですか」

 

 宮舞天音は静かに呟いた。

 責めるような声ではなかった。ただ、確認するような声だった。

 

 「言えないなら、それでいいです」

 

 「……」

 

 「でも、覚えておいてください」

 

 彼女はわずかに目を細めた。

 

 「私は、簡単には諦めません」

 

 その言葉には、先ほどまでの懇願や苛立ちとは違う、もっと深いところから出てきたような響きがあった。

 冗談には聞こえなかった。

 

 「……それは、どういう」

 

 「そのままの意味です」

 

 そうやって短く言うと、少しだけ後ろに下がった。

 距離が、わずかに戻る。

 

 しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく息をついた。

 ようやく出てきた声は、驚くほど平坦だった。

 

 「今日のところは、引きます」

 

 あっさりとした答えに、逆に戸惑った。

 もっと反論されると思っていた。もっと食い下がられると思っていた。だが宮舞天音は、それ以上何も言わずに、ただ静かにこちらを見ているだけだった。

 

 「貴方の言うことは、よく分かりました」

 

 その声には、もう懇願も命令もなかった。

 代わりにあったのは、何か別の、もっと静かに固まっていく決意のようなものだった。

 

 「では」

 

 彼女はコートの裾を整えると、引き戸へ手をかけた。

 振り返らずに、それだけ言う。

 

 「……失礼します」

 

 引き戸が開き、外の冷たい空気が流れ込んできた。

 宮舞天音の背中が見えなくなるまで、声をかけることができなかった。

 

 一人になったブースの中で、ようやく息を吐く。

 言うべきことは言った、はずだった。

 それなのに、胸の中に残ったのは安堵ではなく、もっと重くて、形のはっきりしない不安だった。

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