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6.図書棟-地下二階

 6.図書棟-地下二階

 


 帰宅の時刻を少しずらして、図書棟へ向かった。

 昨日のランチのことが、まだ頭の中をうろうろとしていた。穏やかな時間だった。穏やかすぎて、逆に落ち着かなかった。少し頭を冷やす必要があった。

 

 図書棟の地下二階、閲覧室の端の席を選んだ。

 二月という時期のせいか、人の出入りは少なかった。この棟は地下三階から地上十三階まである広大な建物で、どこのフロアに行っても同じ空間にいる人数は数えるほどしかいない。それが今日は都合よかった。

 

 暖房が効いていて、外の冷気とは別の世界のように静かだった。ページをめくる音、鉛筆の音、遠くの空調の唸り。それ以外はほとんど何も聞こえない。

 窓のない閲覧室では、天気も時刻も分からなくなる。書架の谷間に机が並び、点々と灯る手元のライトの数だけ、人がいることが分かる。今日は三つか、四つ。どの灯りも遠く、互いに干渉しない距離で黙っていた。

 

 席に着いて、コートを椅子の背にかけた。

 鞄から筆記用具を出し、レジュメを日付順に揃え、教科書の該当ページに指を挟む。試験は来週。範囲は七章まで。そんなことを確かめながら、机の上に一通りを並べていく。準備というのはありがたいもので、手を動かしている間は、頭の方が黙っていてくれた。

 

 楽しかったことはまず認めるしかなかった。

 彼女の好きな店で、彼女の好きなメニューを食べて、益体もない話をして笑った。頬の熱も、浮ついた足取りも、帰ってからも消えなかった妙な高揚も、その全てが本物だった。一年半、数十メートルの距離から眺めるだけだった人間からすれば、あれは夢と呼んで差し支えのない時間だったはずだ。

 

 楽しさと軋みが、同じ一日の中に、分かち難く編み込まれていた。

 どちらかだけなら話は簡単だった。楽しいだけなら浮かれていればいいし、苦しいだけなら離れればいい。厄介なのは、あの店の窓際の席が、身の丈に合わないと軋みを立てながらもそれでも居心地がよかったことだ。分不相応だと分かっている椅子から、立ち上がりたくないと思ってしまったことだ。

 

 天板の木目を意味もなく目でなぞる。誰かが彫った小さな落書きが、ニスの下に沈んでいた。

 遠くの席で椅子を引く音がして、また静かになる。頭を冷やす、というのは思ったより難しい作業だった。冷やすべきものから意識を逸らそうとする、その動き自体が結局そちらを向いていた。

 

 ノートを広げ、ペンを手に取る。だが書き始めようとした瞬間に、視界の端で何かが動いた。

 顔を上げるつもりはなかった。それでも目が動いてしまったのは、嫌でも引き寄せられてしまう何かが、そこにあったからかもしれない。天性の引力とでも呼ぶべきものが、宮舞天音という人間には備わっている。

 

 斜め前方、数列離れた席に、宮舞天音がいた。

 

 

 


 

 いつもの黒のタートルネックに、今日は薄い色のカーディガンを羽織っている。ポニーテールにまとめた銀髪の毛先が、俯いた拍子に肩口へ流れた。ノートか何かに視線を落としていて、こちらには気づいていないように見えた。

 

 見入ってしまったと気づくまでに数秒かかった。

 気づいた瞬間に視線を手元へ引き戻す。ペン先がノートの上で止まったまま、動かなかった。

 

 連絡先を交換する以前は、この距離でも何も感じなかった。名前を呼ばれ、笑顔を向けられた今となっては、同じことをしていたとしてもどこか意味合いが変わってきている気がしてしまい、ペンを走らせ文字を書くことに集中しようとした。

 

 レジュメをひっくり返していると、スマートフォンが振動する。画面を見ると宮舞天音からのメッセージだった。心臓に悪い。

 

 『今、何していますか?』

 

 今しがた見ていたことと、このメッセージのタイミングが重なって、一瞬だけ、見られていたのかと思った。

 

 だが彼女の方を覗いてみると、前を向いたまま手元を見ていた。スマートフォンを操作している様子はあったが、こちらを見てはいない。

 返信しようかどうか、一拍迷ってから、打ち込んだ。

 

 『試験勉強中です』

 

 送信した直後に、すぐ返信が来る。

 

 『自然術史ですか? 来週の』

 

 彼女も同じ講義を取っている。来週の試験のことは当然知っているだろう。

 

 『はい』

 

 と打ちかけたところで、耳元に声がかかった。

 

 「ご一緒してもいいですか」

 

 顔を上げると、宮舞天音が立っていた。

 荷物を両手に抱え、こちらをまっすぐに見ている。碧眼がすぐ近くにあった。

 スマートフォンの画面には、『はい』の文字が入力途中のまま止まっていた。

 

 「……どうぞ」

 

 気づけばそう答えていた、断る言葉が今日も出てこなかった。




 

 宮舞天音は隣の席に荷物を置くと、コートを椅子の背にかけた。カーディガンの袖をわずかに直してから、静かに腰を下ろす。一連の動作に余計な音がなかった。

 

 「邪魔をするつもりはないので」

 

 小声で、それだけ言った。

 図書館の中だからという理由もあるだろうが、それにしても声が低かった。やけに耳に近い声だった。

 

 言葉通り、彼女は本当に静かだった。

 ノートを開き、レジュメを揃え、ペンケースの位置を直す。一通りの支度が済むと、あとはもうページをめくる音と、ペン先の走る音だけになった。

 

 つられてこちらもペンを動かす。

 ……動かそうとした。だが式は三行目で止まり、視線は気づけば真横の宮舞天音へ滑っていた。

 

 彼女のノートは、遠目にも整然としていた。

 定規を当てたようにまっすぐな行。三色に使い分けられたインク。重要語の下に引かれた線は、力の入り具合まで均一だった。

 

 バンドの活動でろくに出席できていないはずの講義のノートが、皆勤の筈のこちらのものより厚い。誰かに借りて、写して、自分の言葉で補い直しているのだろう。才能のある人間が、努力まで人並み以上にする。世の中の不平等というものが、白い紙の上に見やすくまとまっていた。

 対して手元のノートは、我ながら雲泥の差だった。

 

 三十分程静かに勉強できていたが、手が完全に止まった。

 例題の途中で、前提になる式が思い出せない。レジュメを遡っていると、机の上に影が差した。

 

 「ここ、ですか」

 

 囁き声とともに、白い指先がこちらのノートの一点を指した。

 いつの間にか、彼女は椅子ごと近づいていた。距離の詰め方に音というものがない。

 

 「先週の、この定義を使うんです。……少し、失礼しますね」

 

 断りの言葉と同時には、もうこちらのノートの余白にペンが走っていた。

 整った、少し丸みのある文字が、自分の走り書きの隣に並ぶ。同じページの上に置かれると、その差は残酷なほどだった。彼女の書いた三行は印刷物のようで、自分の十行は暗号文のようだった。

 

 「……分かりました。ありがとうございます」

 

 「いえ」

 

 彼女は満足そうに小さく頷いて、椅子を元へ戻した。

 ……戻した位置は、来たときよりも拳一つ分、こちらに近かった。指摘するのも妙な気がして、黙っていた。

 

 余白に残された丸い文字を、しばらく見下ろした。

 自分のノートの上に、彼女の痕跡がある。それだけのことが妙に落ち着かなくて、そのページだけ紙の目方が変わったような気さえした。

 

 ペンを持ち直し、目の前の式に集中しようとする。

 ……無意識に、椅子をわずかに引いていたらしい。木の脚が床を擦って、小さな音を立てた。彼女が顔を上げる。

 

 「……寒いですか?」

 

 「……いえ」

 

 「そうですか」

 

 彼女は短く答えて、手元へ戻った。

 それから少しして、机の中央に置かれていた彼女の水筒が、音もなくこちら側へ数センチ寄った。意味があるのかないのか分からない移動だった。ただ、引いた分だけ何かが静かに詰めてくるような、ここ数日で覚えのある感覚だけが確かにあった。

 また静かな時間が始まる、さっきまでと同じ沈黙なのに、少しだけ密度が高い気がした。

 




 「少し休憩しませんか」

 

 しばらくして、宮舞天音が言った。

 

 「そうですね」

 

 ペンを置くと、宮舞天音は水筒を取り出した。

 蓋を静かに開けて、一口飲む。それから、こちらへ目を向けた。

 

 「貴方って、将来どうするつもりですか」

 

 唐突な問いだった。

 

 「……どうするとは」

 

 「卒業してから。なんでもいいんですけど、考えていることがあれば」

 

 なんでもいい、と言われると余計に答えに詰まる。

 就職。大学院。それ以外の何か。そういう選択肢があることは当然知っていたが、どれも自分のこととして考えたことが、あまりなかった。

 

 「……まだ、特には」

 

 「そうですか」

 

 「あまり考えていなくて」

 

 宮舞天音は否定も肯定もしなかった。

 ただ、小さく頷いた。

 

 「あなたは」

 

 「私は音楽を続けるつもりで。バンドで」

 

 「……メジャーデビューが近いという話を聞きましたけど」

 

 「そうなんです、たぶん来年中には」

 

 決まっていることを話すような、落ち着いた声だった。不安も、過剰な自信も、どちらも混じっていない。ただ、そうなるだろうと思っている、という声だった。

 

 頷きながら、ふと余計な計算をしてしまう。

 メジャーデビューを控えた人間の一日と、自分の一日。同じ二十四時間の値段が同じはずがない。

 その値のつく時間が、今この瞬間も閲覧室の隅で自分のような人間に費やされている。ノートの余白の三行にも、机を寄ってきた水筒の数センチにも、本当なら別の正しい使い道があるのではないだろうかと。

 

 「怖くないですか」

 

 「怖い、というのは」

 

 「これだけ人気になって、さらに大きくなっていくことが」

 

 宮舞天音は少し考えた。

 

 「怖いこともありますよ」

 

 「そうなんですか」

 

 「でも、やりたいことがあるので。それをやるだけです」

 

 

 やりたいことがある。

 その一言が、思ったより重く胸に落ちてきた。

 自分には、その感覚が今のところない。

 

 やりたくないことは分かる。なりたくないものは分かる。だが何かに向かって進んでいるという実感が、学生生活を通じて一度も持てたことがなかった。

 

 それを今まであまり意識しなかったのは、比べる対象が近くにいなかったからかもしれない。

 

 「貴方は」

 

 宮舞天音がこちらを見た。

 

 「何か、好きなことはありますか」

 

 「……特には」

 

 「ないですか」

 

 「強いて言えば、音楽は聴きますけど」

 

 「どんな曲を、聴くんですか」

 

 少し迷って、結局正直に答えることにした。嘘をついたところで、どうせこの人には調べがつく。

 

 「……あなたたちの曲です。ほとんど」

 

 「文化祭で聴いてから、似た曲を辿って、他のバンドも聴くようにはなりましたけど。入り口も、真ん中も、あなたたちなので」

 

 宮舞天音は一度目を見開き、それから、ゆっくりと目を細めた。

 嬉しさと、それ以外の何かが半々に混ざったような、判断のつかない表情だった。

 

 「……それは、光栄です」

 

 「でも、好きなことと、それで生きていくことは別なので」

 

 思ったより率直に言葉が出た。

 

 「それに」

 

 言うつもりのなかった続きまで、口をついて出た。

 

 「俺の『好き』は、多分ぜんぶ借り物なんです。聴く曲も、取っている講義も、昼飯のメニューまで。……あなたみたいに、自分の中から出てきたものが、一つもないので」

 

 「……」

 

 「それが、どういうことなのか、最近少し考えています」

 

 言ってしまってから、本当に後悔した。

 こんなことを彼女に話すつもりではなかった。だが言葉が出てきてしまった。

 

 宮舞天音はしばらく沈黙していた。

 閲覧室の空調が、低く唸っていた。

 

 「……焦らなくても、いいと思います」

 

 やがて、静かに口を開いた。

 

 「曲を作るときも、最初の一音が決まるまでが、一番長いんです。何日も、一つも音を鳴らせないまま終わる日もあります」

 

 「でも、その沈黙は無駄ではないと思っています。鳴らしたい音を、探している時間なので」

 

 「貴方の今も、私にはそれと同じに見えます」

 

 「……慰めですか」

 

 「違います」

 

 即座に返ってきた。

 

 「私は音楽のことでしか、物を考えられないだけです」

 

 筋が通っているようで、少し煙に巻かれているような気もした。

 だがそれ以上、反論する気にはなれなかった。

 

 「……ありがとうございます」

 

 「お世辞ではないですよ」

 

 宮舞天音は水筒の蓋を閉めながら、もう一度だけこちらを見た。

 

 「続けましょうか」

 

 「はい」

 

 二人でノートに向き直った。

 静かな時間が戻ってくる。

 さっきと同じ時間のはずなのに、どこかが変わっていた。変わったのが自分なのか、空気なのか、あるいは二人の間にある何かなのか、うまく言葉にできなかった。

 

 ただ一つ、はっきりと分かったことがあった。

 自分と彼女の間には、才能や学力や容姿以外にも、もっと根本的な差がある。

 

 何かに向かっている人間と、そうでない人間の差だ。

 それに今更気づいたことが、なぜか昨日のランチよりも、ずっと重く残った。

 

 

 

 



 

 閉館を告げる館内放送で、顔を上げた。

 窓のない地下では気づかなかったが、地上に出ると、空はもう藍色に沈みかけていた。街灯が点き始めた構内を、帰り支度の学生がまばらに歩いている。

 

 「私、この後サークル棟に寄るので」

 

 宮舞天音は鞄を持ち直し、東の方角を示した。

 

 「また明日、会いましょう」

 

 「……はい」

 

 彼女は小さく会釈をして、歩き出す。

 夕闇の中を遠ざかっていくその背中には、行き先があった。今日この後の練習。来月のライブ。来年のデビュー。一歩ごとに、どこかへ近づいていく歩き方だった。

 

 自分はといえば、ここから帰るだけだ。

 同じ歩くという動作一つにとっても、その意味がまるで違うことが実感できた。

 

 角を曲がって姿が見えなくなるまで見送って、踵を返す。この見送る癖だけは、どうやっても抜けそうになかった。













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