5.講義室
5.講義室
「お昼、どうしますか」
2講の終わり、ノートをまとめていると宮舞天音がそんな風に口を開いた。
約束通り、同じように二人並んで講義を受けた。気のせいかもしれないが、昨日よりも他の生徒の視線を感じたように思う。
「もしよろしければ、一緒にどうですか?」
いつもなら、今日のこの時間なら彼女は学食へ向かう。そして期間限定メニューを頼む。それを知っているのは今まで何度も後ろをつけていたからだ。
そして今日も同じだろうと思っていた。「いいですよ」と軽い返事をする。
宮舞天音に連れられて、横を並んで歩く。
一日たてば、未だに慣れはしないものの会話程度は普通にできた。つい先ほどの講義の話などを交わしながら、足取り軽やかに進んでいく。
……のだが、途中でふと気づいた。学食は東側だ。彼女の足は、明らかに反対へ向かっている。訊ねる間もなく、西の校門前に辿り着いた。
「……学食じゃないんですか」
「今日はちょっと、外に出たくて」
宮舞天音はそれだけ言うと、にこやかに微笑んだ。
「昨日は、その」
少し言いにくそうに、彼女は視線を横へ流す。
「急に四人になってしまったので」
「……ああ」
昨日のカフェのことだ。篠崎結月の値踏みするような視線と、時津凛華の質問攻めを思い出す。あれはあれで得るものの多い時間だったが、心臓には悪かった。
「今日は邪魔が入らないところで、ゆっくり食事がしたいんです。……二人で」
二人で、のところだけ、少し声が小さくなった。
ここまで一緒に歩いておいて、断る理由が見当たらなかった。というより、そんな言い方をされて断れる人間がいるなら見てみたいところだ。
校門を出ると、大学前の喧騒はすぐに薄れた。
昼の商店街を一本外れた路地は静かで、古い家々の軒先に午後の白い光が落ちている。二月の風はまだ冷たかったが、日向を選んで歩けば苦にならない程度だった。隣を歩く彼女の尻尾が、時折こちらの腕を掠めそうになる。種族差のある歩幅を、今日は彼女がさりげなく合わせてくれていることに、今日になって初めて気がつく。
大学から少し歩いた先に、その店はあった。
「お気に入りの店なんです」と彼女の言う店は、古い町家を改装したイタリアンで、外観からはほとんど店とは分からなかった。オレンジ色の煉瓦には蔓が巻かれ、格子戸の脇に小さな看板が出ている。彼女たちが時折利用することから存在は知っていたが、利用したことはなかった。
……正確に言えば、一度だけ、この格子戸の前を素通りしたことがある。中に入っていく彼女たちの背中を見届けて、そのまま帰った。あの日は路地の入り口までが、自分に許された距離だった。
宮舞天音は慣れた手つきで扉を引く。
からり、と乾いた音を立てて格子戸が開いた。中に入ると、古い梁の残る天井は低く、照明は控えめで暖かかった。白い壁に木製のテーブルが並んでいて、昼時にしては静かで、奥の席から小さな話し声が聞こえる程度だった。挽き立ての珈琲とオリーブオイルの匂いが、乾いた木の香りに混ざっている。
「いらっしゃいませ。……宮舞様、お久しぶりです」
初老の店主が厨房から顔を出し、深く頭を下げた。常連に向けるというより、もっと丁寧な、大切な家の客に向ける類の礼だった。
「二人です。窓際、空いていますか」
「ご用意しております」
彼女は当たり前のようにそれを受け取り、背筋の伸びた綺麗な会釈を返した。その一礼だけで、この店の空気と彼女の空気が、地続きであるのだと理解した。
……敷居をまたいだ瞬間、自分の履き潰したスニーカーの爪先が急に目についた。
窓際の二人席に案内される。外は中庭になっていて、冬の枯れた植え込みの向こうに、隣の瓦屋根が見える。低い日差しが瓦の稜線をなぞり、窓際のテーブルにまで淡く届いていた。
「美味しいし、落ち着いていていいお店なんですよ」
コートを脱ぎながら宮舞天音が言う。
メニューを手渡されたが、値段を確認して少し目が泳いだ。学食と比べると桁が違ったように見えた。だがここで動揺するのも格好がつかないと思い、なんでもないふりをしてメニューを眺めた。
向かいに座る宮舞天音はメニューを静かに眺めている。
長い指先がページを繰る。眼鏡の奥の碧眼が文字の上を静かに滑った。窓からの光が銀髪の輪郭を細く縁取っている。
「何にするか、決まりましたか」
こちらへ視線が向く。
メニューを眺めながら、宮舞天音が何を頼むか先に聞いてから、同じものにしよう、と考えていた。知らない店では彼女と同じものを頼む。長い習慣だった。
「おすすめはなんですか?」
「私の好きなメニューなら、ありますが」
「……知りたいです。宮舞さんの、好きなもの」
口に出してから、我ながら大胆なことを言ったと思った。だが事実だった。彼女の好物なら大抵把握しているつもりだが、この店の、というのは知らない情報だ。
宮舞天音は一瞬だけ目を丸くして、それから少し照れたように視線をメニューへ逃がした。
「……海老と菜の花のクリームが、おすすめです」
「同じものにします」
「……」
注文を取りに来た店員に、彼女は同じものを二つ、と告げた。
そのとき、彼女の口元がほんのわずかに、何か言いたげに動いた気がした。狐耳が一度だけ所在なさげに揺れる。だが結局何も言わず、メニューを静かに閉じただけだった。
前菜のサラダが運ばれてくる。
色の違う葉や根菜が小さく整えられていて、オレンジ色のドレッシングがかけられていた。
「貴方は、いつも学食ですよね」
フォークを手に取りながら、宮舞天音が言った。
「……まあ、そうですね」
「こういうお店は、あまり来ないですか」
「正直、あまり」
「そうですか」
宮舞天音は小さく頷いた。否定も、からかいもしない。ただ確認したような顔をした。
「一人だと、なかなか来づらいですよね」
彼女はそう言いながら、サラダを口へ運んだ。
その所作には何の力みもなかった。
カトラリーは迷いなく外側から。皿の上で音を一つも立てない手つき。背筋は講義室で見るのと同じ角度で伸びていて、料理を口へ運ぶ間、肘は一度もテーブルにつかない。皿を下げに来た店員への「ありがとうございます」さえ、呼吸のように自然だった。
生まれたときから、これが当たり前の世界で育った所作だ。
「こういうお店、緊張しますか」
視線に気づいたのか、彼女が小さく首を傾げた。
「……少し」
「ふふ。私は逆です。ファミレスとか、ああいうお店の方が緊張します」
「緊張する要素、ありますか?」
「呼び出しボタンを押す勇気が、なかなか出なくて」
真顔で言うので、思わず笑ってしまった。彼女も釣られて笑う。
和やかな話のはずだった。だが笑いながら、胸の底が静かに冷えていくのが分かった。同じ大学の、同じ講義室に座っていても、立っているステージがまるで違うことが、言葉や仕草の端々から伝わっていた。彼女の当たり前と自分の当たり前では、どこまで遡っても交わらないのではないか。
自分もフォークを手に取る。
野菜の歯応えと、柑橘の香りがするドレッシングが思ったより軽やかで、少しだけ肩の力が抜けた。
パスタが運ばれてくる。白いプレートの上に、薄いクリームソースで和えたパスタが、こんもりと盛られていた。上に海老が二尾と、鮮やかな緑の菜の花が添えられている。湯気に乗って、海の甘い匂いがした。
向かいにも同じ皿が置かれた。
宮舞天音はそれを見て、こちらをちらりと見た。それから自分の皿を見て、もう一度こちらの皿を見た。
「美味しそうですね」
「……同じですよ、お互い」
「そうですね」
彼女はどこか、ほんの少しだけ残念そうに笑った。
どうかしたのか、と訊く前に、彼女はフォークを手に取っていた。
一口食べると、クリームに海老の甘みがよく出ていた。菜の花のほんの少しの苦みが、後から来る。
美味いと素直に思った。
「どうですか」
宮舞天音が聞いてくる。心なしか、前のめりだった。
「……美味しいです」
「よかった」
それだけ言って、彼女も同じパスタを口へ運んだ。
その後、しばらく二人とも黙って食べた。沈黙が、不思議と気まずくなかった。店内の静かな空気と、フォークの音と、外の冬の光がそれを埋めていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、宮舞天音がこちらの皿をじっと見ていた。
正確には、皿の上の海老を。
「……食べます?」
「え」
「いや、ずっと見ていたので」
「違うんです」
彼女は珍しく慌てたように首を振った。狐耳がぱたぱたと忙しない。
「その……別のものを頼めばよかったなと、思っただけです」
「気分じゃありませんでしたか」
「違います。大好物です。そうじゃなくて」
宮舞天音はフォークを置き、しばらく言い淀んでから、観念したように白状した。
「別のものを頼んでいれば、その……一口ください、とか。一口どうぞ、とか。……そういうのが、できたのになと」
「……」
言い終えると、彼女はうつむいて、パスタをくるくると必要以上に丁寧に巻き始めた。頬のあたりが、暖房のせいではない色に染まっている。
こちらはこちらで、返事の代わりに水を飲んだ。飲まなければ、顔の温度をどうにもできなかった。
「……同じものでも、できるんじゃないですか。それ」
気づけば、そんなことを口走っていた。
それはちょっとした叛逆心だった。余りにも遠い存在だった宮舞天音が、手を伸ばせば届いてしまいそうで、まるで手を差し伸べられているかのように思ってしまった。
宮舞天音の顔が、ぱっと上がる。
「いいんですか」
即答だった。そして彼女は自分の皿から海老を一尾、器用にフォークへ載せると、テーブル越しにすっと差し出してきた。
「はい」
譲る気配は微塵もなかった。碧眼が期待に満ちてこちらを見ている。四本の尻尾が、椅子の後ろで機嫌よく揺れているのが見えた。
店内を素早く見回す。奥の客はこちらに背を向けている。店員はカウンターの中だ。誰も見ていない。誰も見ていないが、問題はそこではない気がした。
覚悟を決めて、口を開ける。
海老は、自分の皿のものと寸分違わぬ味がした。当たり前だ。それなのに、心臓の音は先ほどまでの倍になっていた。
「……どうですか」
「同じ味です」
「ふふ」
宮舞天音は、今日一番の満足そうな表情で笑った。
それから、期待のこもった目のまま、少しだけ首を傾げてみせる。
「私にも、くれますか」
最早後退はできなかった。
震えそうになる手でフォークに海老を載せ、差し出す。彼女は少し身を乗り出して、ぱくりとそれを口に収めた。咀嚼して、飲み込んで、それから花が咲くように笑う。
「……美味しいです。今日一番」
「同じ味でしょう」
「味の問題じゃないんです」
幸福な場面のはずだった。実際、頬は情けないほど熱い。
それなのに胸の奥では、小さな軋みが鳴り続けていた。この店も、この一皿も、この人の向かいの席も、どれ一つとして自分の身の丈に合っている気がしなかった。
半分ほど食べ進めた頃に、宮舞天音が口を開いた。
「貴方って」
「好き嫌い、ありますか」
思い悩むも、あまり思い浮かばない。正月に食べたおせちが気に食わなかったぐらいだが、ここで求められるのはそのような答えではないだろう。
「……そんなにはないですけど」
「じゃあ、苦手なものは」
「ふき……ぐらいですかね」
「ふき、ですか」
宮舞天音は小さく繰り返した。メモでもするように、一度目を落とした。
「覚えておきます」
宮舞天音の好物については、自分はあまり知ってはいなかった。学内では割とどのようなメニューでもバランスよく食べる。甘いものが好きといった程度だった。
「貴方のことを、もう少し知りたいと思っています」
デザートを待つ間に、宮舞天音が静かに言った。
窓の外の光は、来たときより少しだけ角度を変えていた。
「……なぜですか」
「なんとなく、だと怒りますか」
「怒りませんよ、ただ」
「ただ?」
「……分からないので」
何が分からないのか、うまく言葉にできなかった。
あなたが何を考えているのか。なぜここまで興味を持つのか。どこまで知っていて、どこから知らないのか。
宮舞天音はしばらくこちらを見てから、ゆっくりと口を開いた。
「分からないことは、一つずつ聞けばいいじゃないですか」
「……聞いていいんですか」
「もちろん」
「じゃあ」
少しの間、言葉を選んだ。
「なぜ、学食じゃなくて、ここに誘ったんですか」
宮舞天音は少し考えるような間を置いた。
「学食だと、あまりゆっくりできないので」
「……混んでいますから?」
「それもありますけど」
彼女は窓の外に目をやった。
枯れた中庭の向こうに、白い空が広がっている。
「昨日みたいに、誰かが割り込んでくるのも困りますし」
「それに、私の好きな場所を、貴方にも知ってほしかったので」
返す言葉を探しているうちに、デザートが運ばれてきた。
小さなパンナコッタに、柑橘のソースがかかっていた。
宮舞天音は当然のようにスプーンを手に取った。
こちらも、それに倣った。
パンナコッタはスプーンを入れると柔らかく震えて、口に運ぶと柑橘のソースの酸味が先に立ち、あとからミルクの甘さがゆっくり追いついてきた。美味しい、と素直に思う。
「気に入りましたか」
スプーンを止めて、天音がこちらを見ていた。デザートの感想を訊いているようで、その目はもう少し広いことを訊いている気がした。この店を、という意味だ。私の好きな場所を、と彼女はさっき言った。
「……はい。緊張はしましたけど」
「ふふ。最初だけですよ、それは」
「最初だけ、ですか」
「二回目からは、初めて来たお店ではなくなりますから」
彼女はそう言って、パンナコッタの最後の一匙を口に運んだ。
皿の上のものがなくなると、店内の静けさが少しだけ濃くなった気がした。昼時を過ぎたのか、奥の席の話し声はいつの間にか消えていて、厨房から水音がかすかに届いてくるだけになっている。
「……そろそろ、出ましょうか。午後の講義もありますし」
天音が壁の古い時計へ目をやって言った。名残惜しさを隠さない声だった。頷いて、伝票へ手を伸ばす。
会計を済ませようとすると、宮舞天音がすっと先に手を出した。
「いいですよ、今日は私が」
「いや、でも」
「またの機会に」
それだけ言って、宮舞天音は財布を仕舞った。またの機会、という言葉が自然に出てきたことに驚いた。彼女の中では既に次があることになっているらしかった。
格子戸を開けて外に出ると、二月の風が火照った顔に心地よかった。
帰り道、彼女は来たときと同じように、さりげなく歩幅を合わせてくれた。
午後の光の中、煉瓦と格子戸の路地を背にして歩く彼女は、それだけで一枚の絵になった。この街並みにも、あの店にも、店主の一礼にも、彼女は最初から嵌っている。嵌っていないのは、隣を歩く自分の方だった。
気づけば、半歩だけ遅れて歩いていた。
ストーカーだった頃の距離が数十メートルなら、今は半歩。縮んだ距離を誇るべきなのだろう。だがその半歩は、追いついた半歩ではなく、引いた半歩だった。
彼女はそのたびに歩調を緩め、何食わぬ顔で隣へ戻ってくる。詰められた分だけ、また足が半歩遅れる。彼女がそれに気づいているのかどうかは、分からなかった。
またの機会、と彼女は言った。次は別のものを頼もう、とも笑う。
その「次」の席に座っている自分の姿を、なぜかうまく思い描けなかった。




