第7話 神に愛された超絶完璧美少女の自尊心
万里は腕を組む。自信満々。
「何言ってんだよ。俺がいるだろ」
「俺、無敵だから」
甄宓はじっと彼を見た。
「……そう、ですか?」
質屋で手に入れた衣。半分もらった粥。
どう見ても天下を動かせる人物には見えない。
「……まあ、よろしいでしょう」
甄宓は小さく息を吐き、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
「では、万里殿を雇うとしたら、報酬はいくら必要ですか?」
万里の目がぱっと輝く。
「衣食住込みで、三十銭」
甄宓はほとんど迷うことなく言った。
「いいでしょう」
甄宓はしばし考え込むように沈黙し、やがて何かを決意したように小さく頷いた。
彼女は寝台の脇へ歩み寄り、衣箱の中から細い紐で結ばれた小さな布袋を取り出す。紫色の織布で作られたその袋は、目の詰まった上質な生地に丁寧な縫製が施されており、一目で上等な品と分かる代物だった。
それを万里の前へ差し出す。
「はい」
万里は一瞬きょとんとしたが、袋を受け取ると何気なく口をほどき、中を覗き込んだ。銅銭が触れ合い、澄んだ金属音を立てる。
万里は顔を上げる。
「……二十七銭しかないじゃん?」
甄宓は平然としている。
「この袋だけで三銭の価値がありますので」
万里は手元の精巧な小袋と甄宓の顔とを交互に見比べ、しばし言葉を失った。
……こいつ、意外と抜け目ないな。
思わず小さく笑い、銅銭を袋へ戻して懐にしまう。
「まあいいか」
衣の襟元を軽く叩きながら、万里の表情がわずかに引き締まる。
「実は、ずっと気になってたことがあってさ……」
その言葉を聞いた瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。甄宓の穏やかな表情が、ほんのわずかに引き締まる。
まさか――偶然入り込んだわけではなく
何か狙いがあるのではないか。
盗賊か、それとも敵か。
視線がわずかに鋭さを帯びるが、声色はあくまで礼儀正しく落ち着いている。
「……何でしょう」
万里の目が、にわかに真剣な色を帯びた。
ゆっくり顔を上げるその様子は、まるで命に関わる重大な事実を語ろうとしているかのようだった。
室内の空気が、わずかに張り詰める。
甄宓の指先が止まり、彼の口元へと向けられた。まるで――これから何か重大な真実が語られるかのように。
沈黙が伸びる。
万里は一度ゆっくり息を吸い、言葉を選ぶように口を開く。
そして、やや間を置いて。
ようやく絞り出した。
「……ここ、どこだっけ?」
首をこてんと傾げた。
甄宓の表情がぴたりと止まり、次の瞬間、深いため息が漏れる。
「……真面目に考えた私が愚かでした」
そう言って彼女は衣箱へ向かい、何かを探し始める。衣擦れの静かな音が室内に響く。
ぶつぶつと呟きながら。
「異世界の人だと言うわりに、自分がどこにいるかも分からないのですね……」
どこか皮肉めいた響きだった。
万里は腕を組み、目を閉じて軽く顎を上げた。
「別にお前みたいなガキには興味ないよ」
「俺は胸が大きくて尻のラインが綺麗に出てる、色っぽい大人の鄒氏が好きなんだよな」
空気が、すっと静まり返った。
甄宓の手がぴたりと止まる。
わずか一瞬だけ、彼女の瞳の奥に揺らぎが走った。
それは単なる不快感でも、怒りでもない。
――自尊心を、かすかに刺激された感覚。
「へえ……そうですか」
彼女の声は、ふいに不自然なほど穏やかになった。穏やかすぎて、まるで感情の起伏が完全に消えたかのようだった。
「鄒氏……確か、長安の近く――弘農あたりのご出身でしたね」
ゆっくり振り返る。口元には礼儀正しい微笑。
「ええ、ええ。無極の小さな県に住む娘では、とても都の女には及びませんものね」
声は穏やかだが、空気の温度がわずかに下がった。
冗談ではない。
物心ついた頃から、周囲の男たちは――名家の子弟であれ、訪れた客人であれ、気づけば彼女へ視線を向けていることが多かった。
その理由を、甄宓自身が知らぬはずもない。
――いや、正確には。
誰もが認める「神様に寵愛された超絶完璧美少女」。
それが甄宓という存在である。
そんな彼女が、容姿についてここまであっさり流されたのは――
これが初めてだった。
胸の奥に、かすかな感情が静かに芽生えていた。
それは単なる怒りではない。どこか、負けたくないと思わせるような感覚だった。
細く目を細め、地図を手に取る。万里へ歩み寄る。
万里が受け取ろうと手を伸ばした瞬間——
「ぱしっ!」
ぴしゃんっ、と乾いた音が室内に響いた。
厚手の巻物が勢いよく振り抜かれ、万里の頬を直撃する。紙が打ちつけられる鈍い衝撃がわずかに遅れて伝わった。
万里の表情はその場で完全に停止し、頬にはうっすらと赤い跡が浮かび上がる。
「痛っ……!」
万里は慌てて頬を押さえ、反射的に半歩後ろへ下がった。本当に殴られるとは思っていなかったらしい。
理解が追いつく前に――
「ぱしっ!」
二発目は、すでに万里の頭に命中していた。
巻いた地図は甄宓の手の中でまるで教鞭のように振るわれ、その一撃は迷いなく、やけに慣れた手つきだった。
しかも当の本人は、優雅で柔らかな微笑みを浮かべたまま。
声色すら、どこか上品だった。
「ねえ――守ってくださるのでしょう?」
「この程度も防げませんの~?」
「ぱしっ」「ぱしっ」「ぱしっ」
小気味よい音が、容赦なく続く。
「無敵、でしたよね?」
「ぱしっ」「ぱしっ」
「それとも――口だけですの?」
「ぱしっ」「ぱしっ」「ぱしっ」
巻かれた地図が、まるで教鞭のように軽快なリズムで振り下ろされる。
優雅な笑顔と裏腹に、手加減という概念は一切感じられなかった。
万里は頭を守りながら慌てて叫ぶ。
「待て待て待て!!」
甄宓の笑みが深くなる。
「万里殿、反応が遅すぎますよ」
「ぱしっ」
「それで運命を変えるなどと?」
万里が不意に手を伸ばした。
振り下ろされようとしていた地図を持つ甄宓の手首を掴み、そのまま動きを封じる。
予想外の反応だったのか、甄宓の重心がわずかに崩れ、その身体が前へと傾いた。
気づけば、互いの距離が大きく縮まっていた。
「ごつっ」
鈍い音が響いた。
額と額が、正面からぶつかる。
甄宓の身体が小さく揺れ、瞳の焦点がふっと外れた。
そのまま、すとんと力が抜けた。
万里が固まる。
「……え?」
万里は、腕の中で急に大人しくなった少女を見下ろした。
「……おーい?」
反応なし。
軽く揺すってみるが、やはり反応がない。
万里はぱちぱちと目を瞬かせた。
「……え、死んでないよな?」
慌てて指を伸ばし、鼻先にそっとかざす。
しばらくして、かすかな吐息が指先に触れた。
万里は大きく息を吐く。
「はぁ……」
「マジで焦った」
万里は小さくため息をつき、意識を失ったままの甄宓をそっと抱き上げ、寝榻の上へ静かに横たえた。枕の位置をわずかに整え、首元が苦しくならないよう確かめてから、ようやく身を離す。
そのまま卓の前へ戻り、再び地図を広げた。
厚手の紙に描かれた絵図は、通常の書冊よりもはるかに大きく、広げると机の面をほとんど覆い尽くすほどの大きさがある。紙はやや黄みを帯び、縁にはわずかな擦れが見られ、長く繰り返し使われてきたことがうかがえた。
外周には太い線で国境の輪郭が引かれ、山々はゆるやかに連なる曲線で表され、線の間には細かな筆致が密に重ねられている。河川はなめらかな曲線を描いて伸び、主流は太く、支流は徐々に細くなりながら、地図全体へ張り巡らされていた。
とりわけ幅の広い大河はさらに強調されて描かれ、傍らには小さな文字で名が添えられている。軍事の要と思われる城の名も見える。
州郡は境界線によって区分されているが、線にはわずかな揺らぎがあり、手描きならではの歪みが、かえって地図に現実味を与えている。郡県の名称は端正な小楷で書き込まれ、墨の色もやや濃く、後から書き加えられた補記、あるいは重要な地点を示す印であることが見て取れた。
万里は視線を落とし、目の前の地図をじっと見つめた。指先で墨線をなぞりながら、現代で知る地理の輪郭と、この古人の視点に基づく世界とを、少しずつ重ね合わせていく。
「無極県……無極県……」
やがて、「中山」の二字の傍で指先が止まった。
細かな境界線を慎重になぞるように辿り、そのままゆっくりと視線を滑らせていく。そして、やや小さく記された一角に、ようやくその二文字を見つけた。
――無極。
万里はわずかに身を乗り出した。
この都市は絵図全体の中でも、決して目立つ存在ではない。交通の要衝でもなければ、軍事的な重鎮でもなく、山川の要地に位置しているわけでもない。
意識して探さなければ、そのまま視線から零れ落ちてしまいそうなほどだった。
無極城は、冀州中山の南部に位置している。
その位置は、いくつかの城郭に挟まれるように存在しており、大きな流れの中で取り残された小さな拠点のようにも見えた。
北には中山郡の治所である盧奴城があり、地名もやや大きな文字で記されていることから、この一帯における重要な拠点であることがうかがえる。
西側には新市の名が見え、道筋を示す線のすぐ傍に位置していた。交通の要として一定の役割を担っているのだろう。
東には漢昌があり、水脈を表す墨線の近くに記されている。河道に沿う立地から見て、渡し場や商路が通じている可能性も高い。
――そのとき。
寝榻の方から、やや冷ややかな声が聞こえてきた。
「ようやく、自分がどこにいるのか分かったの?」
甄宓は淡々とそう言いながら身を起こし、万里の向かいへ静かに腰を下ろした。
「……ああ。無極県は、いま誰の管轄だ?」
万里は声を抑え、確認するように尋ねる。
「袁紹様です。そして――」
そこまで言いかけて、甄宓はわずかに言葉を止めた。視線が地図の上に落ち、そのまま静かに留まる。
どのように伝えるべきか、思案しているようだった。
「明日、袁紹様のご子息――袁熙様が、直々に無極へお越しになります」
「表向きは……私を娶るため、という名目です」
「同時に――」
指先で中山の位置を軽く叩く。
「袁紹様は、新たな中山郡の官を任じており、その赴任も兼ねております」
「その方が到着されるまでの間、私の身辺警護と無極城の守備は、家兄・甄俨が暫く引き受けております」
そう言って、甄宓はゆっくりと視線を上げ、万里を見た。
万里が顎に手を当てる。
「つまり……」
「私たちに残された時間は、一日だけということですね」
そこまで言ったところで、二人はほとんど同時に口を閉ざした。
万里の視線は、依然として机上の地図に落ちている。
状況は、想像以上に単純ではなかった。
もし甄宓が無事に袁熙へ嫁ぐことができなければ――
甄家にとっては、甄俨の失態はそのまま袁家への公然たる侮辱となる。
この時代において、婚約とは単なる男女の問題ではない。
それは家と家との政治的約束であり、体面と威信に直結する重大な契約だ。
破談は、ほとんど裏切りに等しい。
しかも袁紹陣営には名門豪族が林立し、利害と権力が複雑に絡み合っている。
甄家ほどの名門であっても、あくまで袁氏の勢力圏に属する立場に過ぎない。
もし不忠・不順・制御不能と見なされれば――
軽ければ士族社会の中心から排除される。
重ければ、一族ごと粛清。
万里は顎に手を当て、静かに思考を巡らせた。
だが仮に、予定どおり袁熙へ嫁いだとしても――
歴史の流れそのものは変わらない。
やがて官渡の戦いが起こり、袁紹は曹操に敗北する。
河北は曹氏の手に落ちる。
そして甄宓は、曹家の勢力へと取り込まれる。
――曹丕。
万里の眉が、わずかに寄った。
相手が袁紹だけであれば、まだ付け入る余地はある。
袁紹は強大ではあるが、優柔不断で、内部の派閥争いも激しい。
判断を誤った例も少なくない。
だが曹操は違う。
あれはまったく別格の存在だ。
後に天下をほぼ掌握するほどの人物。
いったんその権力構造に組み込まれてしまえば、
そこから抜け出す難易度は一気に跳ね上がる。
どちらの道を選んでも、行き着く先には危険がある。
そして史実どおりなら、甄宓の結末は――死。
万里はゆっくりと目を閉じ、情報を整理する。
小さく息を吐き、再び目を開いたときには、先ほどよりも落ち着いた声音になっていた。
「甄宓」
少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「袁熙に嫁ぐこと……それ自体は、必要条件かもしれない」
「……悪い」
望んだ答えではない。
だが現時点では、もっとも現実的な判断だった。
甄宓はそれを聞いても、取り乱す様子はなかった。
瞳にわずかな陰りは浮かんだが、
むしろ、どこか予想していたかのように静かだった。
「そうですか」
小さく頷く。
「甄家を守れるのでしたら……私は構いません」
あまりにも淡々としている。
まるで日常の予定でも決めるかのように。
万里は一瞬、言葉を失った。
重くなりかけた空気を察したのか、
甄宓は軽く背を伸ばし、体をほぐすように腕を上げた。
空気を変えるように、わざとらしく小さく息を吐く。
「あーあ」
そして、少しだけ冗談めかした声音で続けた。
「袁熙様と夫婦のことをするなんて……正直、あまり想像したくありませんね」
振り返り、わずかに舌を覗かせる。
ほんの少しの軽口。
重い現実を、無理やり軽くしようとしているのが伝わった。
万里は苦笑を浮かべる。
甄宓は軽く手を振った。
「少し準備してまいります」
そのまま内室へ向かい、屏風を静かに閉じる。
「整い次第、一緒に出かけましょう」
万里が首をかしげた。
「出かける?……蒸餅?」
屏風の向こうから、即座に淡々とした声。
「蒸されたいのはあなたの頭ですか?」
「武器を買いに行きます。素手で私を守るおつもりですか?」
万里は少し考えてから頷いた。
「それは……確かに無理だな」
机の前に腰を下ろす。
部屋はやがて静まり返った。
聞こえるのは、かすかな水音。
木箱の蓋が開く音。
小さく触れ合う装飾具の、控えめな響き。
しばらくして。
万里は窓の外に目を向けた。
「……三十分くらいか?」
さらに時間が過ぎる。
座り方を変える。
「……一時間?」
陽の角度が明らかに変わっている。
頬杖をつき、ぼんやりし始める。
さらにしばらく。
机の上の銅銭を並べ替え始める。
万里はやることを失い、地図に描かれた山を数え始めた。
「山、多い……」
指で数える。
「百二十……」
「百二十一……」
「百二十二……」
もはや何のために数えているのか、自分でも分かっていない。
視線は徐々に虚ろになり、まばたきすら減っていく。
――そして。
二時間が経過した。
魂がじわじわと抜けかけていた。
……待て。
こんなに時間が経っているのに、まだ出てこないのか?
彼はわずかに眉をひそめる。
ここは甄家の内院――本来なら厳重に警備されているはずだ。
だが――
もし潜入に長けた賊が相手だとすれば……可能性がないとは言い切れない。
万里の視線が、ゆっくりと一枚の衝立へと落ちる。
空気が、妙に静まり返っていた。
次の瞬間――
衝立の向こうから、ごくかすかな物音が伝わる。
衣擦れの気配。
それに、かすかに混じる呼吸の音。
万里の目が鋭く細まる。もう迷いはなかった。
静かに一歩、衝立へと近づく。
――その幕を、捲ろうとした。




