第6話 スマホ、いいですね
朝の光が格子窓を通り、静かに寝室へ差し込んでいた。
甄宓はゆっくりと目を開き、見慣れた帳をぼんやりと見つめる。
昨夜の光景が走馬灯のように脳裏をよぎった――血まみれのアライグマの怪物、自分が人前で叫んだ荒唐無稽な言葉、屋敷中を巻き込んだ大騒動……どれも現実とは思えないほど馬鹿げている。
彼女はかすかに眉を寄せ、しばらくして小さく息を吐いた。どこか納得したように。
「……やはり、夢だったのね」
幼い頃より礼法に則って育てられ、心を律し続けてきた自分が、あのような振る舞いをするはずがない。ましてあんな言葉を口にするなど――あり得るはずがない。
彼女は小さく頷き、自分の考えに納得するように呟いた。
「きっと近頃、袁家へ嫁ぐ話が進んでいるせいで、気持ちが落ち着かなかったのでしょう。だから、あんな妙な夢を……」
そこまで考えたところで、彼女の表情にはいつもの落ち着きが戻っていた。
部屋を見渡すが、見知らぬ男もいない。奇妙な衣も見当たらない。不審な痕跡もない。
こくりと、もう一度小さく頷く。
「ふふ……やっぱり夢だったのね~」
衣を整えながら立ち上がる足取りもどこか軽やかで、まるで昨夜の影など最初から存在しなかったかのようだった。
――そして。
長持の前に立ち、蓋へ手をかけ、ゆっくりと開く。
整然と畳まれた衣の中に、ひどく場違いなものが一つだけ横たわっていた。
暗い赤色に染まった、アライグマの着ぐるみ。その微笑んだ顔が、こちらを見ている。
……空気が止まる。
甄宓は無言で蓋を閉じ、深呼吸してからもう一度ゆっくりと開ける。
やはりそこにある、笑顔のアライグマ。
見知らぬ男。荒唐な言葉。屋敷中の騒ぎ。そして――「房中術」。
甄宓の瞳が、ゆっくりと大きく見開かれていく。表情が平静から困惑へ、信じられないという色へと変わり――そして完全に崩れ落ちた。
夢じゃ……なかったのね……っ!!
心の奥からこみ上げた悲鳴が、今にも彼女自身を引き裂きそうになる。
「よっ。早いな」
窓辺のほうから気の抜けた声が聞こえた。
甄宓の身体がぴたりと固まり、ゆっくりと振り返る。
万里は窓枠の縁に身を乗り出すようにして突っ伏し、蒸餅を半分くわえたまま、まるで自分のベランダにでもいるかのようにくつろいでいた。
白い内衣に着替え、外には黒の厚布衣をゆるく羽織っている。襟元に施された暗紅の刺繍が、光の中でわずかに揺れた。
清潔感はあるのに、どこか近寄りがたい空気をまとっている。
甄宓は小さくため息をつき、現実を受け入れることにした。
「万里殿。その衣と蒸餅は、どこから……」
「買った。最後にこれ食ったの、たしか数千年前だな。思ったより美味い」
万里は笑いながら咀嚼し、屑をぽろぽろ落としている。
甄宓はじっと彼を見つめた。その目には疑念しか浮かんでいない。
……絶対に盗んだ。
万里はその視線に居心地悪そうに手を振った。
「違う違う!ちゃんとイヤホンを質に入れて手に入れたんだって!服と……その、蒸餅!」
甄宓はわずかに目を瞬かせた。
「イヤホン?」
聞き慣れない単語を繰り返す。
「それは何ですか?」
万里が口を開きかけた、そのとき控えめなノックの音がした。
「お嬢様、朝餉の支度が整っております。お入りしてもよろしいでしょうか?」
侍女の声は穏やかで丁寧だった。
甄宓は反射的に窓の方を見るが、そこにいたはずの万里の姿は影も形も消えていた。
「……入りなさい」
扉が開き、二人の侍女が盆を持って入室する。
温かい粥、蒸餅、いくつかの淡い味付けの菜。湯気がゆらりと立ち上る。
侍女が恭しく頭を下げる。
「昨夜はあまりお休みになれなかったご様子。安神茶をお持ちしましょうか?」
「いえ、不要です」
侍女は静かに退出した。
再び部屋は静寂に包まれる。
しばらくして、窓辺からかすかな声がした。
「……いい匂いだな」
甄宓のこめかみがぴくりと動く。
「食べたいのですか?」
窓から顔を出した万里の目が、やけに輝いていた。
「食べたい」
甄宓は軽く息を吐いた。予想通りだ。
空の碗を取り、粥を半分分け、蒸餅も二枚重ねて卓の向かいへ置く。
「どうぞ」
言い終わる前に、万里は慣れた動きで室内へ滑り込んできた。着地の音すらほとんどない。もはや勝手口みたいな扱いだった。
彼の視線は食物に釘付けだった。
手を伸ばした、その瞬間。
碗がわずかに遠ざけられる。
手が空中で止まる。
甄宓の表情は端正なままだが、瞳にははっきりと探究の色が浮かんでいた。
「あなたの世界について、もう少し聞かせてください」
「えー、さっき信じてなかっただろ……」
「信じます。ですから話してください」
万里はぶつぶつ言いながら懐を探り、小さな黒い板のようなものを取り出した。
指先で触れる。
次の瞬間、柔らかな光が彼の掌の中でふわりと灯った。
甄宓の視線がたちまち釘付けになり、身体が思わず前のめりになった。普段は滅多に崩れない落ち着いた表情が、はっきりと綻んだ。
「……それは何ですか?」
燭火とはまるで違う、均一で澄んだ光。文字や図が自ら光を放ちながら静かに浮かび上がっている。
「これはスマホ。写真も動画も撮れるし、電波があれば――」
説明の途中。
万里のもう片方の手が素早く卓へ伸びる。
粥と蒸餅が消えた。
「サンキュー」
すでに食べ始めている。
甄宓は気づいていない。
慎重に指先で画面に触れる。
画面が動く。
もう一度なぞる。
また変わる。
やがて彼女の瞳はみるみる輝きを帯びていった、指先の動きも最初は恐る恐る触れていたものから、次第に大胆さを増していった。
「この中に……景色が収められているのですね……」
「収めてるんじゃなくて表示な」
口いっぱいに蒸餅を頬張りながら訂正する。
聞いていない。
画面の光が彼女の瞳に映り込み、より透明に見せていた。
やがて、ふと口を開く。
「別の世界の方だと仰いましたが……なぜ言葉が通じるのでしょう」
万里の手が止まる。顔を上げる。
「……あ」
沈黙。
東漢末期と現代。言語も文化も違うはずだ。
それなのに、何の違和感もなく会話している。
「おかしいな……いつもは古代に来るたび言葉を覚え直すのに……」
甄宓も首を傾げる。
互いに答えが出ない。
数秒の静寂。
やがて甄宓が小さく笑った。
万里は肩をすくめる。
「まあ……縁とか?」
甄宓は呆れたように口元を押さえたが、完全には否定しなかった。わずかに笑みが浮かぶ。
「変わった方ですね」
再び光る板に目を向ける。
「この中に、私のことも記されているのですか?」
万里は少し考え、すぐ理解した。
「ああ、歴史書のことか」
端末を操作し、保存していた資料を開く。
「……あるな」
甄宓の目がわずかに輝いた。
「拝見しても?」
端末を受け取る。
画面を指でなぞる。
すぐに読み方に慣れた。
表情が静まっていく。
歴史、一族、天下――
それらは彼女の理解できる世界だった。
袁家へ嫁げば甄家の地位は安定する。兄の出世も望める。乱世の中でも一族を守れるかもしれない。
指が止まる。
画面に浮かぶ文字。
【建安九年、袁氏は曹公に敗る】
【甄氏、後に曹丕に納めらる】
【黄初年間、甄氏寵を失い、死を賜る】
甄宓の呼吸が、ぴたりと止まった。
部屋の空気が重く沈み込む。
万里はもともと袖口を整えていたが、異変に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
――しまった、油断したか。
甄宓の表情は完全に止まっていた。
画面に並ぶ数行の文字。それはあまりにも簡潔で、あまりにも冷酷だった。
彼女はそこから視線を離すことができず、長い間ただ見つめ続けていた。
やがて彼女は、かすかに微笑んだ。
「そうでしょうね。乱世に生きる女の末路など……このようなものなのでしょう」
万里は妙に真面目な顔で言った。
「いや、今回は違う」
甄宓が顔を上げる。
「歴史上の甄宓は、スマホなんて見たことないからな」
一瞬の沈黙。
理屈は通っていない。だが妙に説得力があった。
甄宓は端末を見て、万里を見る。
眉がわずかに上がる。
「……その“すまほ”ひとつで、運命まで変わると?」




