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三千界戦:起源  作者: 天上天下天地無双刀
1章 無極城編
33/35

第33話 忠心

 そのとき――

 刑台の奥、闇の中から足音が響いた。


 ゆっくりと。

 だが、妙に鮮明に。


 袁熙の動きが、ぴたりと止まる。


 わずかにがんを傾け、

 雨幕の向こうを見据えた。


 ――現れたのは。


 本来、牢にいるはずのしんふくの護衛。


 闇の中から、一歩、また一歩と歩み出てくる。


 雨夜の中、その姿はひどく痩せて見えた。

 上半身は裸のまま。


 かつて全身を覆っていた奇妙な紋様は、

 いまやその多くが消え失せ、

 ところどころに残骸のような痕跡を残すのみ。

 まるで、何かに“喰われた”かのように。


 その目は虚ろ。底知れぬ静けさを湛えていた。


 一切の揺らぎがない。


 死に限りなく近い、静寂。


 ただ無言のまま歩く。


 血と雨が混じる地面を踏みしめ、

「ぴちゃ……ぴちゃ……」と、湿った音を立てながら。


 一歩ずつ、

 刑台の中央へと近づいていく。


 袁熙の瞳が、わずかに細まった。

 だが、その口元には――怒りを帯びた笑みが浮かぶ。


「……ほう?」


 声が、低く沈む。


「誰の許しを得て――」


「この至上の儀を、邪魔している?」


 ばんは、何も答えなかった。


 ただ――歩き続ける。


 一歩。


 また一歩。


 雨が肩を伝い、静かに流れ落ちる。


 足元の血と混ざり合い、

 淡く広がっていった。


 袁熙の表情が、次第に固まっていく。


 胸の奥から、言いようのない違和感がじわじわと湧き上がった。


 ――何だ……?


 ――なぜ、まだ生きている……?


 ばんの歩みは止まらない。


 速まることもなく、

 ただ一定のリズムで、距離を詰めていく。


 近づく。


 さらに近づく。


 そして――。


 ――次の一歩。


 その瞬間。


 袁熙の心臓が、ぎゅっと掴まれたように締めつけられた。


 説明のつかない寒気が、背骨を駆け上がり、

 一気にうなじへと突き抜ける。


 空気が、凍りついた。


 胸が、息を拒む。


 ――ありえない。


 この世界に在ってはならない何かが、

 今まさに、自分へと殺意を向けている。


 袁熙の瞳が、勝手に収縮する。

 こめかみに、冷たい汗が滲んだ。


 気づかぬまま、

 半歩、後ずさる。


 ――その刹那。


 圧が、爆発的に膨れ上がった。


 まるで空間そのものが、ばんへと崩れ落ちていくかのように。


 理性が、音を立てて砕け散る。


がんりょう――ッ!!」


「殺せ――ッ!!!」


 怒号が弾けた。


 その背後から、巨大な影が踏み出す。


 その一歩で、地面が激しくひび割れた。


 溜まっていた水が、四方へと弾け飛ぶ。


 がんりょうが、天を仰いで咆哮した。


「オォォォォォォ――ッ!!!」


 獣のようなその雄叫びが、周囲の武卒たちの耳を震わせる。


 両腕の筋肉が膨れ上がり、青筋が浮き出る。

 片手だけで、あの巨大な刃斧を頭上高く持ち上げた。


 空気が、力に裂かれる。

 低く、重い破裂音が響いた。


 その一撃は――

 振り下ろされた瞬間、地面が割れた。

 巨斧が、真上から叩き落とされた。


 ばんは、身体を捻って避ける。


 だが――

 わずかに、遅れた。


 斧の風圧が、肩口を掠める。


 裂けた。


 逞しい腕に、深い傷が走る。


 血が、噴き出した。


 着地した瞬間、

 ばんの身体が、わずかに沈む。


 まるで、何か重いものを背負わされたかのように。


「……チッ」


 ばんは、わずかに眉をひそめた。


「……やっぱりか」


「力がまだ戻ってねえ……身体が重い」


 刃の軌跡が、肩すれすれをかすめる。


「――ドォンッ!!」


 直後、地面が爆ぜた。


 石畳が粉々に砕け、

 砕石と雨水が一斉に宙へと舞い上がる。


 衝撃波が地を走り、

 周囲の武卒たちは思わず後ずさった。


 ばんの足も、半歩だけ押し戻される。


 足裏が、血溜まりへと滑り込んだ。


 まだ体勢が整わぬうちに――


 がんりょうが、再び間合いを詰めてくる。


 あの巨躯に似合わぬ速さ。

 むしろ、息を呑むほどの疾さだった。


 両腕の筋が浮き上がる。


 巨斧が、再び頭上へと掲げられた。


「オオオオオオォォォ――ッ!!!」


 咆哮が、空気を震わせる。

 雨の幕さえ、一瞬押し退けられた。


 その刹那。


 ばんの視線が、がんりょうの左目を捉える。


 ――瞳の奥。


 刻まれている。


 (Ⅱ)


 次の瞬間。


 がんりょうが地を踏み抜いた。


「ドンッ!!!」


 石畳が砕ける。


 反動を利用し、その巨体が宙へと浮かび上がった。


 そして――


 恐るべき慣性を帯びた一撃が、横薙ぎに振り抜かれる。


 空気が、強引に押し潰される。

 低く重い轟きが、空間を震わせた。


 同時に――


 空の奥で、鈍い雷鳴が転がる。


 刃の上に、気流が絡みつく。

 稲光が、鋼の縁をかすめるように走った。


 ――常人の限界を、明らかに超えている。


 ばんは、腕を上げて受ける。


 その瞬間――


「――ッ!!」


 衝撃が、腕を貫いた。


 まるで山塊が、そのまま叩きつけられたかのような重圧。


 ばんの身体が、横へと弾かれる。

 足元の血溜まりが、長く引き裂かれた。


 腕の感覚が、消える。


 骨が砕けたかのような、鈍い痛みだけが残った。


 ――間を置かず。


 第三撃。


「オオオオォォ――ッ!!!」


 がんりょうが吠える。


 巨斧が、下からすくい上げるように振り上げられた。


 地面に、鋭い裂け目が走る。

 砕石が、激しく弾け飛んだ。


 ばんは、強引に身体を捻り、後方へ跳ぶ。


 刃が、腹部すれすれをかすめた。


 圧で雨が割れる。

 空気が、耳を裂くような爆音を上げた。


 ばんが着地した瞬間――身体が、ずしりと沈んだ。


 皮膚の上に、紫の封紋がかすかに浮かび上がる。

 力の流れが、明らかに鈍っていた。


 筋肉の反応も、いつもより遅い。


 ばんは、視線を落とす。


 腕に刻まれた紫の線。

 まだ半分以上が、消えていない。


 体内の力は、いまだ鎖に絡め取られたまま。

 何重にも、抑え込まれている。


「……反応が追いつかねえ」


「このままじゃ……どう死ぬかも分からねえな」


 がんりょうが、再び地を踏み抜く。


 刑台が揺れ、

 巨体が一気に距離を詰めてきた。


「なら――」


 その瞬間。


 がんりょうが、怒号を轟かせる。


 両腕の筋が膨れ上がり、

 巨斧が頭上へ掲げられた。


 刃の下で、空気が低く唸る。


「オオオオオオォォォ――ッ!!!」


 斧光が雨幕を切り裂く。

 雷鳴が、振り下ろしとほぼ同時に炸裂した。


 ――だが。


 次の瞬間。


 刃は、何も捉えなかった。


 ばんの姿が――消えている。


 がんりょうの動きが、わずかに止まる。


 そのまま、巨斧が地へ叩きつけられた。


「ドォンッ!!!」


 石畳が粉砕され、

 砕石と雨水が激しく飛び散る。


 袁熙の瞳が、鋭く収縮した。


 即座に周囲を見渡す。


 刑台の上には――

 張白姬と張燕のみ。


 ばんの姿は、どこにもない。


 激しい雨だけが、打ち続けている。


 袁熙は、わずかに眉をひそめ――


 やがて、口元を歪めた。


「……逃げたか?」


「笑止!」


 ゆっくりと、張白姬へ視線を向ける。


 その唇が、愉悦を含んで持ち上がった。


「どうやら――」


「お前の“頼れる味方”は、見捨てたようだな」


 その言葉が終わる前に――


 袁熙の表情が、凍りついた。


 背後から、腕が伸びる。


 五指が、ぎり、と締まる。


 頭を――掴まれた。


 袁熙の瞳が、限界まで見開かれる。


 反応する暇もない。


 次の瞬間――


「――ドンッ!!!」


 凄まじい力が、真下へと叩きつけられた。


 彼の頭は、容赦なく押さえつけられた。


 力任せに、地面へと叩き込まれる。


 後頭部をがっちりと掴まれたまま――


 がん面ごと、暴力的に石畳へと叩きつけられた。


 青石が、その瞬間に砕け散った。


 鼻腔と口から、血が噴き出し、飛び散る。


 がん面と砕石が擦れ合う音が、細かく、耳障りに響いた。


 雨に混じり、砂や破片が皮膚の奥へと押し込まれていく。


 そのまま――腕が持ち上がる。


 袁熙の身体は、無理やり地面から引き剥がされた。


 血と雨水が、ぽたり、ぽたりと滴り落ちる。


 ばんは、その場に立っていた。


 手には、いまだ袁熙の頭を掴んだまま。


 その表情は、静かだった。


 あまりにも――静かすぎるほどに。


 雨は、瞬く間に暗い紅へと染まっていく。


袁熙


がんりょうを、自殺させるか」


「――それとも」


 ばんの手が――


 袁熙の頭を掴んだまま、ゆっくりと力を込めていった。


 五指が、じわじわと締め付けていく。


 力が、少しずつ増していった。


「――ミシッ……」


 鈍い音が、頭蓋の奥から軋む。


 ひびが走る。


 隙間から、血が一気に滲み出した。


「選べ」


 言葉が落ちた、その瞬間――


 袁熙の思考が、止まった。


 激しい雨が叩きつける。

 風が唸りを上げる。

 両足が宙に浮く。


 袁熙は必死に両手でばんの指を引き剥がそうとするが――

 びくともしない。


 ばんの五指は、なおも締め付けを強めていく。


「ミシッ……」


「パキ……」


「ミシミシ……」


 袁熙の頭蓋が軋む音が、次第に増えていく。

 間隔も、どんどん短くなっていった。


 噴き出した血が、瞬く間にがん全体を覆う。


 眼窩が赤く染まり、

 涙が抑えきれずに溢れ落ちた。


 それまでの余裕も、狂気も――

 この瞬間、すべて崩れ落ちた。


 残ったのは、剥き出しの恐怖だけ。


 涙も鼻水も、血に塗れていた。

 表情は、もはや人の形を保っていない。


がんりょう――ッ!!!」


 声が裂ける。

 威厳など、欠片も残っていない。


「早くしろ!!」


「今すぐ自殺しろ!!!」


「早くッ――!!!」


 ばんの指は、なおも力を込め続けていた。


 五指はすでに頭蓋へと食い込み、

 次の瞬間には、そのまま握り潰されそうなほど。


「早くしろォォ――ッ!!!」


「役立たずが!!敵も殺せねえ、死ぬこともできねえのか!!」


「だったら価値なんてねえ!!」


「死ね!!今すぐ死ねェェ――ッ!!!」


 引き裂くような絶叫が、

 激しい雨の中に響き渡った。


 がんりょうは、その場に立ち尽くした。


 巨躯が、わずかに強張る。


 Ⅱの刻まれた左目が、ばんを睨み据える。


 呼吸が荒くなる。

 胸が、大きく上下した。


 体内で、煞気が渦巻く。

 戦えと、命じてくる。


 だが――

 わずかに残った理性は、別の声を上げていた。


 守れ。

 主を、守れ。


 口が、開く。


 何かを言おうとして――

 だが、言葉にならない。


 思考は、すでに煞に侵されていた。


 声は、かすれて途切れる。


「……主……」

「……袁……」


 そのとき――


 忘れ去られていたはずの記憶が、

 ゆっくりと脳裏に浮かび上がった。


 ――遥か昔の、庭。


 陽だまりが、柔らかく差し込んでいる。


 幼い袁熙が、よろけながら駆け回っていた。


 手には、小さな木剣。

 がんには、あどけない得意げな笑み。


 ぎこちなく剣を振り、

 見よう見まねで“武”を真似ている。


 その傍らに、がんりょうが立っていた。


 優しく微笑みながら、

 その握り方をそっと直してやる。


 幼い主が、木剣で自分の鎧を軽く叩くのを――


 ただ、静かに受け止めていた。


「えいっ!」


「えいっ!」


がんのおじさんを倒すぞー!!」


「うわー、やられたぁ〜……」


 がんりょうは壁にもたれかかり、わざとらしく倒れたふりをする。


 それを見て、袁熙は声を上げて笑った。


 廊の下では、袁紹しょうがその光景を静かに見守っている。


 満足げに、微笑んだ。


がんりょうがいる限り――我が子に憂いはない」


 その言葉に、がんりょうの目が見開かれる、深く胸に残った。


 袁紹しょうにとっては、何気ない一言。


 だがそれは、がんりょうにとって――

 一生を貫く志となった。


 ……


「――ポタリ」


 一滴の血が、

 宙から落ちた。


 青石に当たり、静かに弾ける。


 暴雨の音に溶けるように、

 記憶はゆっくりと霧散していく。


 ――現実へ。


 目の前にいる袁熙


 かつての面影は、どこにもない。


 恐怖。


 醜い歪み。


 そして――


 崩れ落ちた懇願。


 そのすべてが、

 もはや見知らぬものへと変わっていた。


 がんりょうの視線が、わずかに止まる。


 ――どこかが、噛み合わない。


 その場に立ち尽くす。


 動かない。


 だが――

 拳だけが、ゆっくりと握り締められていく。


 あの記憶が、まだ残っている。


 陽だまり。

 笑い声。

 そして、あの一言――


「この子の一生は、憂いなし」


 それが、今目の前の光景と重なり合う。


 だが――

 どうしても、繋がらない。


 噛み合わない。


 がんりょうは、ゆっくりと目を閉じた。


 雨が降る。


 一滴、一滴――

 石畳を叩き続けていた。


 しばしの静寂のあと。


 がんりょうは、ゆっくりと目を開いた。


 Ⅱの刻まれた瞳が、わずかに収縮する。


 その奥に渦巻いていた混濁が――

 一瞬だけ、止まった。


 まるで――


 何かが、ほんのわずかに戻ってきたかのように。


 口元が、かすかに動く。


 それは、ほとんど穏やかとさえ言える、微かな笑みだった。


「……若様」


「これから先は――」


「どうか……まともに、生きてください」


 斧光が、横薙ぎに閃いた。


「――ブシュッ!!」


 血が、空へと噴き上がる。


 巨大な首が、宙へと弾かれた。


 重く、鈍い軌跡を描きながら。


 そして――


 次の瞬間。


「ドンッ……」


 鈍い音とともに、地面へと叩き落ちた。

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