第32話 死の美学?
豪雨が、容赦なく叩きつけていた。
濡れた黒髪が、頬に張りついていた。
きちんと結い上げていたはずの髪は、とうにほどけていた。濡れた黒髪が頬や首筋に張りつき、いく筋かが額に垂れ、雨を含んで重く沈んでいる。
乱れていた呼吸は、やがてゆっくりと落ち着きを取り戻した。
匕首を握る手の震えも、次第に収まっていく。
静かに立ち上がる。
一歩ずつ、確かめるように、甄宓のもとへと歩み寄った。
衣の裾から滴る雨が、刑台の上で細い水の筋となって広がっていく。
足取りは、ひどくゆっくりだった。
やがて目の前で足を止めると、
左手を伸ばし、そっと甄宓の顎に触れ、その顔を持ち上げる。
甄宓の肌は、すっかり雨に濡れていた。
施されていた化粧は崩れ、原形をとどめていない。
紅を引いた唇は色を失い、口元には滲んだ赤が、無惨な跡として残っている。
丁寧に描かれていた眉尻も、水に引き延ばされ、
目元の紅も淡くにじみ、かすかな桃色を残すばかりだった。
雨粒が睫毛を伝い、頬へと落ちていく。
その瞳は――
もはや焦点を結んでいなかった。
恐怖も、怒りも。悲しみすら、なかった。
まるで、もはや何も映さなくなった鏡のように、ただ空虚だった。
張白姫の指先に、わずかに力がこもる。
刃を、甄宓へと向け――ゆっくりと突きつけていく。
切っ先はやがて、その瞳の目前で止まった。
ほんの紙一重の距離。
それでも――
甄宓は、まったく反応を示さない。
瞬きひとつせず、まるでこの場に存在していないかのようだった。
張白姫の眉が、きつく寄る。
次の瞬間、
胸の奥から、怒りが一気に噴き上がった。
「……甄宓」
「しっかりしろよ……!」
声が、かすかに震える。
「なんでだよ……」
「なんで、何も反応しねえんだよ……!」
「お前、いつもそうだろ……頭、回るくせに……!」
「どうすればいいか、わかってるくせに……!」
声は、次第に大きくなっていく。
抑えきれない感情が、そのまま溢れ出すように――
「なんで今になって、自分の命すらどうでもいいみてえになってんだよ――ッ!!」
張白姫は、両手で甄宓の肩を掴み、激しく揺さぶった。
水しぶきが弾け、甄宓の身体が揺れる。
――それでも。
何の応答も、返ってこなかった。
こちらを一瞥することさえない。
まるで、抜け殻だった。
その光景が、張白姫の呼吸を完全に乱す。
――そのとき。
袁《えん》熙《き》の、冷えきった声が響いた。
「つまらん選択だな」
「顔良、張燕を始末しろ」
その一言は、氷の刃のように、張白姫の意識へ深々と突き刺さった。
彼女は弾かれたように振り向く。
瞳が大きく見開かれ、ほとんど反射的に匕首を握り締めた。
――次の瞬間。
残された力を、すべて振り絞る。
地を蹴り、一直線に袁《えん》熙《き》へと突進した。
匕首が、その胸元へまっすぐに突き込まれる――!
「チッ……」
「くだらん。予想通りすぎて、興も削がれる」
袁《えん》熙《き》は片腕をわずかに上げただけで、
彼女の手首を、あまりにも容易く掴み取った。
手首が、まるで鉄みたいに動かなかった。
匕首は弾き飛ばされ、石畳の上へと落ちる。
――カン、と乾いた音が響いた。
袁《えん》熙《き》の表情に、露骨な不快が浮かぶ。
次の瞬間、もう一方の脚を振り上げ、
容赦なく彼女の横顔へと叩き込んだ。
「――ッ!!」
凄まじい衝撃に、張白姫の身体が横へと弾き飛ばされる。
そのまま地面に叩きつけられた。
起き上がる間もなく――
袁《えん》熙《き》はゆっくりと歩み寄り、
無造作に足を振り上げると、再び彼女を蹴り倒す。
声音は、冷えきっていた。
「顔良――まずはこいつからだ」
その言葉が落ちた、まさにその瞬間。
袁《えん》熙《き》の背後に、
巨大な影が、ぬっと立ち上がった。
それは、山のような巨躯を誇る武者だった。
筋肉は隆起し、捩れ合うように盛り上がり、その姿は激しい雨の中に溶け込むかのように佇んでいる。
片手には、巨大な刃斧。
分厚い刃は鈍く光り、見る者の呼吸を奪うほどの圧を放っていた。
反応する間すら与えない。
その巨斧は、すでに高く振り上げられている。
――そして。
振り下ろされた。
その瞬間、
世界の流れが、引き延ばされたかのように遅くなる。
地に倒れ伏した張白姫の身体は、もはや思うように動かない。
薄れていく意識の中で、
残された力を振り絞り、わずかに顔を横へと向ける。
その視線の先――張燕のいる方へ。
脳裏に、断片的な光景が、次々と浮かび上がっていった。
父が討ち死にした、あの夜。
腹を空かせて過ごした日々。
ただ生き延びるために走り続けた、逃亡の道。
そして――いつも、あの調子で笑いながら言っていた。
「お嬢、心配すんなって」
……あの、おっさん。
いつも饅頭ばっかり食ってた、あの人。
何度も思った。
うるさい、って。
余計なことばっかりする、って。
見た目だってみっともない、ただのくたびれた親父じゃないか、って。
――なのに。
一度も、礼を言ったことがなかった。
そのことに思い至った瞬間――
張白姫の唇が、かすかに震える。
喉の奥から、ほとんど音にならない声が、絞り出された。
「……ごめん」
「なさい……」
巨斧が振り下ろされ、血飛沫が弾けた。
――だが。
刃がその身に触れようとした、まさにその瞬間。
一つの影が、弾かれたように飛び込んできた。
張白姫の身体を押し退け、その前へと割って入る。
袁《えん》熙《き》の瞳が、瞬時に見開かれた。
地に膝をついたのは、甄宓だった。
両腕を大きく広げ、張白姫を胸元へと庇うように抱き込んでいる。
刃が横薙ぎに走り、
鮮血が、噴き上がった。
その身体は――
腰の位置で、真っ二つに断ち切られた。
袁《えん》熙《き》の、あの気だるげな表情が――一瞬で崩れ落ちた。
勢いよく立ち上がる。
瞳は激しく収縮し、直後には大きく見開かれた。
まるで、この世で最も愉悦に満ちた光景でも目にしたかのように――
両腕を大きく掲げる。
激しい雨が顔を打ちつけるのも構わず、
天を仰いで、狂ったように笑い出した。
「ああああああああああああああああああああ――――――!!!!!!!」
「いいぞ……ッ」
「実に素晴らしい……!!――!!」
「ハハハハハッ!! これだ!!」
「これだよ!! この瞬間だ!!」
その狂気じみた声が、雨音を引き裂くように響き渡る。
両手で髪を掻きむしり、
抑えきれない興奮に身を震わせながら――
もはや正気とは思えぬほどに、狂喜していた。
「――極限まで追い詰められたときにこそ」
「その一瞬に咲き誇る“選択”こそが――」
「最も美しいんだよォ――!!」
「ハハハハハッ!! ああ、たまらない……!!」
袁《えん》熙《き》は一歩、ぐいと前へ踏み出す。
その視線は、両断された甄宓の身体に釘付けだった。
顔には、歪んだ陶酔が浮かび上がっている。
「甄宓――今のお前は、本当に美しい」
「なんて気高い」
「なんて愚かで――」
「なんて……」
「――人を狂わせる」
呼吸が、次第に荒くなる。
指先がわずかに震えていた。
だがそれは恐怖ではない。
――抑えきれない、病的なまでの昂揚だった。
「はぁ――はぁ――焦るなよ……!」
頬を伝う雨が、飛び散った血の雫と混ざり合い、
そのまま露わになりつつある胸元へと滴り落ちていく。
袁《えん》熙《き》は一切の躊躇もなく、
ぐいと手をかけ、すでに濡れきった外袍を引き裂いた。
――ビリッ、と。
布の裂ける音が、豪雨の中でもはっきりと耳を打つ。
続けざまに、中衣、帯……
一枚、また一枚と、乱暴に引き剥がし、
血と雨が入り混じる刑台へと投げ捨てていく。
鍛え上げられた上半身が、完全に夜雨の中へ晒された。
水に打たれた筋肉は、冷たい光沢を帯びている。
胸や腕には、先ほど飛び散った血がまだ付着しており、
それはまるで、不気味な紋様のように肌へ貼り付いていた。
袁《えん》熙《き》の呼吸は、ますます荒くなる。
その視線は――
真っ二つに断たれた甄宓の遺体へと、強く縫い付けられていた。
腰で断たれたその身体は、なおも張白姫を庇う姿勢を保っている。
上半身はわずかに傾き、
蒼白な肌が、雨に打たれていっそう白く際立っていた。
断面からは、なお血が絶え間なく溢れ出し、
雨水と混ざり合って、石の台を広く染め上げていく。
袁《えん》熙《き》は、一歩、また一歩と近づいていく。
足元で、血溜まりがぬめりを帯び、
踏みしめるたびに、粘つく音を立てた。
甄宓の無残な遺体の傍らに、片膝をつく。
血に濡れたままの手を伸ばし、
ゆっくりとその冷えきった頬を撫でた。
指先が、血の気を失った唇の輪郭をなぞる。
「生きている間は、あんなにも退屈だったくせに……」
「死の間際になって、ようやく光り輝くとはな」
「ならば今、この俺が――」
「お前に、至上の“栄誉”を与えてやる――!」
袁《えん》熙《き》は片手で帯に手をかけると、
濡れきった布を乱暴に引き裂いた。
布が擦れる不快な音が、雨音の中でも耳障りに響く。
豪雨はなおも叩きつけ、
刑台の血溜まりは押し流されながら、四方へと広がっていく。
最後の一枚を脱ぎ捨てようとするその動きは、
もはや獣じみた荒い呼吸に支配されていた。
そのとき――
「……おい」




