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三千界戦:起源  作者: 天上天下天地無双刀
1章 無極城編
32/35

第32話 死の美学?

 豪雨が、容赦なく叩きつけていた。

 濡れた黒髪が、頬に張りついていた。


 きちんと結い上げていたはずの髪は、とうにほどけていた。濡れた黒髪が頬や首筋にちょうりつき、いく筋かが額に垂れ、雨を含んで重く沈んでいる。


 乱れていた呼吸は、やがてゆっくりと落ち着きを取り戻した。

 匕首を握る手の震えも、次第に収まっていく。


 静かに立ち上がる。

 一歩ずつ、確かめるように、甄宓のもとへと歩み寄った。


 衣の裾から滴る雨が、刑台の上で細い水の筋となって広がっていく。


 足取りは、ひどくゆっくりだった。


 やがて目の前で足を止めると、

 左手を伸ばし、そっと甄宓の顎に触れ、その顔を持ち上げる。


 甄宓の肌は、すっかり雨に濡れていた。

 施されていた化粧は崩れ、原形をとどめていない。


 紅を引いた唇は色を失い、口元には滲んだ赤が、無惨な跡として残っている。


 丁寧に描かれていた眉尻も、水に引き延ばされ、

 目元の紅も淡くにじみ、かすかな桃色を残すばかりだった。


 雨粒が睫毛を伝い、頬へと落ちていく。


 その瞳は――


 もはや焦点を結んでいなかった。


 恐怖も、怒りも。悲しみすら、なかった。


 まるで、もはや何も映さなくなった鏡のように、ただ空虚だった。


 ちょうはくの指先に、わずかに力がこもる。


 刃を、甄宓へと向け――ゆっくりと突きつけていく。


 切っ先はやがて、その瞳の目前で止まった。

 ほんの紙一重の距離。


 それでも――


 甄宓は、まったく反応を示さない。


 瞬きひとつせず、まるでこの場に存在していないかのようだった。


 ちょうはくの眉が、きつく寄る。


 次の瞬間、

 胸の奥から、怒りが一気に噴き上がった。


「……甄宓」


「しっかりしろよ……!」


 声が、かすかに震える。


「なんでだよ……」


「なんで、何も反応しねえんだよ……!」


「お前、いつもそうだろ……頭、回るくせに……!」


「どうすればいいか、わかってるくせに……!」


 声は、次第に大きくなっていく。


 抑えきれない感情が、そのまま溢れ出すように――


「なんで今になって、自分の命すらどうでもいいみてえになってんだよ――ッ!!」


 ちょうはくは、両手で甄宓の肩を掴み、激しく揺さぶった。


 水しぶきが弾け、甄宓の身体が揺れる。


 ――それでも。


 何の応答も、返ってこなかった。


 こちらを一瞥することさえない。

 まるで、抜け殻だった。


 その光景が、ちょうはくの呼吸を完全に乱す。


 ――そのとき。


 えん《えん》《き》の、冷えきった声が響いた。


「つまらん選択だな」


「顔良、ちょうえんを始末しろ」


 その一言は、氷の刃のように、ちょうはくの意識へ深々と突き刺さった。


 彼女は弾かれたように振り向く。

 瞳が大きく見開かれ、ほとんど反射的に匕首を握り締めた。


 ――次の瞬間。


 残された力を、すべて振り絞る。


 地を蹴り、一直線にえん《えん》《き》へと突進した。

 匕首が、その胸元へまっすぐに突き込まれる――!


「チッ……」


「くだらん。予想通りすぎて、興も削がれる」


 えん《えん》《き》は片腕をわずかに上げただけで、

 彼女の手首を、あまりにも容易く掴み取った。


 手首が、まるで鉄みたいに動かなかった。


 匕首は弾き飛ばされ、石畳の上へと落ちる。

 ――カン、と乾いた音が響いた。


 えん《えん》《き》の表情に、露骨な不快が浮かぶ。


 次の瞬間、もう一方の脚を振り上げ、

 容赦なく彼女の横顔へと叩き込んだ。


「――ッ!!」


 凄まじい衝撃に、ちょうはくの身体が横へと弾き飛ばされる。


 そのまま地面に叩きつけられた。


 起き上がる間もなく――


 えん《えん》《き》はゆっくりと歩み寄り、

 無造作に足を振り上げると、再び彼女を蹴り倒す。


 声音は、冷えきっていた。


「顔良――まずはこいつからだ」


 その言葉が落ちた、まさにその瞬間。


 えん《えん》《き》の背後に、

 巨大な影が、ぬっと立ち上がった。


 それは、山のような巨躯を誇る武者だった。


 筋肉は隆起し、捩れ合うように盛り上がり、その姿は激しい雨の中に溶け込むかのように佇んでいる。


 片手には、巨大な刃斧。


 分厚い刃は鈍く光り、見る者の呼吸を奪うほどの圧を放っていた。


 反応する間すら与えない。

 その巨斧は、すでに高く振り上げられている。


 ――そして。


 振り下ろされた。


 その瞬間、

 世界の流れが、引き延ばされたかのように遅くなる。


 地に倒れ伏したちょうはくの身体は、もはや思うように動かない。


 薄れていく意識の中で、

 残された力を振り絞り、わずかに顔を横へと向ける。


 その視線の先――ちょうえんのいる方へ。


 脳裏に、断片的な光景が、次々と浮かび上がっていった。


 父が討ち死にした、あの夜。

 腹を空かせて過ごした日々。

 ただ生き延びるために走り続けた、逃亡の道。


 そして――いつも、あの調子で笑いながら言っていた。


「お嬢、心配すんなって」


 ……あの、おっさん。


 いつも饅頭ばっかり食ってた、あの人。


 何度も思った。


 うるさい、って。


 余計なことばっかりする、って。


 見た目だってみっともない、ただのくたびれた親父じゃないか、って。


 ――なのに。


 一度も、礼を言ったことがなかった。


 そのことに思い至った瞬間――


 ちょうはくの唇が、かすかに震える。


 喉の奥から、ほとんど音にならない声が、絞り出された。


「……ごめん」

「なさい……」


 巨斧が振り下ろされ、血飛沫が弾けた。


 ――だが。


 刃がその身に触れようとした、まさにその瞬間。


 一つの影が、弾かれたように飛び込んできた。

 ちょうはくの身体を押し退け、その前へと割って入る。


 えん《えん》《き》の瞳が、瞬時に見開かれた。


 地に膝をついたのは、甄宓だった。

 両腕を大きく広げ、ちょうはくを胸元へと庇うように抱き込んでいる。


 刃が横薙ぎに走り、

 鮮血が、噴き上がった。


 その身体は――

 腰の位置で、真っ二つに断ち切られた。


 えん《えん》《き》の、あの気だるげな表情が――一瞬で崩れ落ちた。


 勢いよく立ち上がる。

 瞳は激しく収縮し、直後には大きく見開かれた。


 まるで、この世で最も愉悦に満ちた光景でも目にしたかのように――

 両腕を大きく掲げる。


 激しい雨が顔を打ちつけるのも構わず、

 天を仰いで、狂ったように笑い出した。


「ああああああああああああああああああああ――――――!!!!!!!」


「いいぞ……ッ」


「実に素晴らしい……!!――!!」


「ハハハハハッ!! これだ!!」


「これだよ!! この瞬間だ!!」


 その狂気じみた声が、雨音を引き裂くように響き渡る。


 両手で髪を掻きむしり、

 抑えきれない興奮に身を震わせながら――

 もはや正気とは思えぬほどに、狂喜していた。


「――極限まで追い詰められたときにこそ」


「その一瞬に咲き誇る“選択”こそが――」


「最も美しいんだよォ――!!」


「ハハハハハッ!! ああ、たまらない……!!」


 えん《えん》《き》は一歩、ぐいと前へ踏み出す。


 その視線は、両断された甄宓の身体に釘付けだった。

 顔には、歪んだ陶酔が浮かび上がっている。


「甄宓――今のお前は、本当に美しい」


「なんて気高い」


「なんて愚かで――」


「なんて……」


「――人を狂わせる」


 呼吸が、次第に荒くなる。


 指先がわずかに震えていた。

 だがそれは恐怖ではない。


 ――抑えきれない、病的なまでの昂揚だった。


「はぁ――はぁ――焦るなよ……!」


 頬を伝う雨が、飛び散った血の雫と混ざり合い、

 そのまま露わになりつつある胸元へと滴り落ちていく。


 えん《えん》《き》は一切の躊躇もなく、

 ぐいと手をかけ、すでに濡れきった外袍を引き裂いた。


 ――ビリッ、と。

 布の裂ける音が、豪雨の中でもはっきりと耳を打つ。


 続けざまに、中衣、帯……

 一枚、また一枚と、乱暴に引き剥がし、

 血と雨が入り混じる刑台へと投げ捨てていく。


 鍛え上げられた上半身が、完全に夜雨の中へ晒された。

 水に打たれた筋肉は、冷たい光沢を帯びている。


 胸や腕には、先ほど飛び散った血がまだ付着しており、

 それはまるで、不気味な紋様のように肌へ貼り付いていた。


 えん《えん》《き》の呼吸は、ますます荒くなる。


 その視線は――

 真っ二つに断たれた甄宓の遺体へと、強く縫い付けられていた。


 腰で断たれたその身体は、なおもちょうはくを庇う姿勢を保っている。

 上半身はわずかに傾き、

 蒼白はくな肌が、雨に打たれていっそうはくく際立っていた。


 断面からは、なお血が絶え間なく溢れ出し、

 雨水と混ざり合って、石の台を広く染め上げていく。


 えん《えん》《き》は、一歩、また一歩と近づいていく。


 足元で、血溜まりがぬめりを帯び、

 踏みしめるたびに、粘つく音を立てた。


 甄宓の無残な遺体の傍らに、片膝をつく。


 血に濡れたままの手を伸ばし、

 ゆっくりとその冷えきった頬を撫でた。


 指先が、血の気を失った唇の輪郭をなぞる。


「生きている間は、あんなにも退屈だったくせに……」


「死の間際になって、ようやく光り輝くとはな」


「ならば今、この俺が――」


「お前に、至上の“栄誉”を与えてやる――!」


 えん《えん》《き》は片手で帯に手をかけると、

 濡れきった布を乱暴に引き裂いた。


 布が擦れる不快な音が、雨音の中でも耳障りに響く。


 豪雨はなおも叩きつけ、

 刑台の血溜まりは押し流されながら、四方へと広がっていく。


 最後の一枚を脱ぎ捨てようとするその動きは、

 もはや獣じみた荒い呼吸に支配されていた。


 そのとき――


「……おい」

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