第30話 血が、跳ねた
無極城――
いつの間にか、空は厚い雲に覆われていた。
激しい雨が、容赦なく降り注ぐ。
石畳を打ちつける水音。
跳ね上がるしぶき。
冷たい湿気が、空気そのものを重くしていた。
広場では、人々が周囲へと追い立てられている。
兵が戟を構え、隙間なく並ぶ。
息が詰まるような圧迫感。
中央へ――
甄宓が、侍女に押されるようにして連れ出されてきた。
大紅の婚礼衣装は、すでに雨に濡れている。
裾は地に貼りつき、色はさらに深く沈んでいた。
その先。
高く設えられた壇の上。
高座には、一人の男が腰を下ろしていた。
――袁熙。
線の細い男だった。
紫金の長衣をまとい、衣は贅を尽くしている。
顔立ちは端正で、肌は白い。
細く伸びた目元は、一見すれば穏やかで落ち着いた印象を与える。
だが――
その奥にある視線は、どこまでも冷めていた。
何もかもに飽いたような目だった。
まるで、退屈そうだった。
椅子の背に身を預け。
片足を組み。
悠然と、その光景を見下ろしている。
甄宓は、台の前へと押し出された。
その瞳には、すでに光がなかった。
袁熙が、ゆっくりと立ち上がる。
歩み寄る。
彼女の前で足を止め、手を伸ばした。
紅の被り布を、そっと払う。
雨が、髪を伝って滴り落ちる。
それでもなお、その顔立ちは崩れない。
淡く、整った美しさ。
袁熙は、小さく頷いた。
「……なるほどな」
「これなら、民に慕われるのも分かる」
一歩、距離を詰める。
声を落とす。
「顔を上げろ」
甄宓は、反応しない。
瞬きすら、しない。
まるで、何も届いていないかのように。
袁熙の眉が、わずかに寄る。
次の瞬間――
「――パァンッ!」
乾いた音が、雨の中に弾けた。
甄宓の身体が、ふらりと傾く。
そのまま、横へ崩れ落ちた。
雨が、すぐに衣の袖を濡らしていく。
それでも――
反応はない。
まるで、何も感じていないかのように。
袁熙は、一瞥する。
興味を失ったように。
「……つまらん」
軽く手を振った。
「もう一人も連れてこい」
兵が、すぐに動く。
やがて――
張燕が、引きずられるように連れてこられた。
断頭台の前へ。
重い枷に縛られたまま、無理やり膝をつかされる。
隣には、張白姫。
同じように拘束されていた。
その光景を見た瞬間。
張白姫の身体が、びくりと強張る。
息が、詰まる。
次の瞬間――
耐えきれなかった。
「やめて――ッ!!」
声が震える。
涙が混じる。
「袁熙様――!」
「お願いです……!」
「どうか、その人を殺さないでください……!」
「ずっと、私の面倒を見てくれていたんです!」
「私にとって……父親みたいな人なんです……!」
雨に濡れた頬を、涙が伝う。
水と混ざり、区別もつかない。
張燕は、わずかに目を見開いた。
そして――
ふっと、やわらかく笑う。
どこか、気の抜けた声音で。
「へぇ……そう思ってくれてたのか」
「そりゃ光栄だな」
肩をすくめる。
「来世でも、嬢ちゃんの親代わりでもやるか」
張白姫の顔が、歪む。
「こんな時に……っ!」
「ふざけないでよ……!」
袁熙は、何も言わない。
ただ、手を軽く振った。
次の瞬間――
刃が、振り下ろされる。
血が、跳ねた。
世界が、止まる。
張白姫の顔から、色が消えた。




