第24話 跡の果て
万里は手綱を引き、わずかに速度を落とした。
懐から、簡素な地図を取り出す。
何度も折り畳まれた紙は、端がわずかに波打っていた。
片手で手綱を握りながら、視線を素早く走らせる。
――無極城は北。自分はすでに河を渡り、南へ下っている。
白巾賊が最も無難なルートを選ぶなら――
地形のなだらかな道を辿り、九門城へ向かうはずだ。
だが、人質を連れている以上、あまりに開けた道は逆に不自然だ。
万里の指が、地図の上をなぞる。
――密集した森林地帯。
そこに、一筋の古道があった。
正式な官道ではない。
だが、巡回を避けつつ、馬の通行も可能な道。
「なるほどな……」
遠回りにならず、なおかつ見つかりにくい。
地図を懐へ戻し、萌萌の首筋を軽く叩いた。
蹄が枯草を踏み砕く。
そのまま、見立てた道筋をなぞるように南へ進む。
やがて――
地形が、ゆっくりと変わりはじめた。
開けていた野が消え、
視界は、高く伸びる木々に覆われていく。
古木が天を突き、
枝葉が幾重にも絡み合う。
陽光は、幾層にも遮られ、
地に届くのは、わずかな光の斑だけ。
林の奥から、葉を擦る風の音がかすかに聞こえてくる。
だが、鳥の声はない。
その静けさが、かえって不気味だった。
万里は顔を上げ、遠方を見据える。
地図の見立てでは、この森を抜ければ――九門城の輪郭が見えるはずだ。
だが、すぐには踏み込まなかった。
わずかに目を細める。
地面には、踏み荒らされた痕跡。
木の根元の土も、踏み崩されている。
――つい先ほど、誰かが通った。
しかも、人数は多くない。
万里は、ゆっくりと手綱を握り締めた。
直感が告げている。
あの白布の賊は――まだ、この林の中にいる。
おそらく、そう遠くへは行っていない。
万里は片手に地図を持ち、もう一方で萌萌の手綱を引きながら、足音を殺して林の中へと踏み入った。
林内は薄暗く、幹は太く、根は地を這うように絡み合っている。
地面には落ち葉がびっしりと積もり、踏みしめても、かすかな擦れる音がするだけだった。
萌萌もまた、空気の変化を感じ取っているらしい。
余計な音は立てず、耳をわずかに伏せ、周囲を警戒するように見回していた。
万里は地図を照らし合わせながら、
踏み倒された草の跡を辿って進んでいく。
「……方向は、間違っていないはず」
奥へ進むにつれ、空気はじっとりと湿り気を帯びていった。
風も、木々の梢に遮られ、
周囲はますます静まり返っていく。
およそ一刻ほど進んだ、そのとき。
万里の足が、ぴたりと止まった。
遠くから――
かすかに、人の声が聞こえてくる。
抑えた声ではあるが、焦りが滲んでいた。
万里は萌萌を太い幹の陰へと引き、
気配を殺して、ゆっくりと音の方へ近づく。
枝葉の隙間から、前方を覗くと――
林の中に、二つの人影があった。
白布を頭に巻いた二人。
一人は大人、もう一人は子ども。
それぞれが馬を引いて歩いており、
そのうちの一頭の背には――甄宓が縛りつけられている。
手足は拘束され、口には白布が詰められていた。
だが衣は乱れておらず、乱暴された形跡は見当たらない。
そのとき。
やや癖のある髪をした、中年の男が、疲れたような背を丸めて口を開いた。
「……お嬢、俺たちは賊なんだぞ……」
「どうして、こんなことを……」
男は一度言葉を切り、さらに声を潜める。
「しかも相手は甄家の人間だ……こんなの、あまりに目立ちすぎる」
「見つかったら……俺の首、三回どころじゃ済まねえぞ……」
前を行く少女は、振り返らない。
「黙って」
「言われた通りにやればいい」
「余計なことは考えなくていい」
――小さく。
少女が、誰にも聞こえないほどの声で呟く。
「これで……わかった」
「予言は……きっと、本当だから……」
――その瞬間。
木々の影の奥から、ふいに足音が響いた。
落ち葉が、かすかに踏み鳴らされる。
二人の白布の賊は同時に身を強張らせ、
はっとして振り返った。
そこにいたのは――
一本の木にもたれかかる、一人の青年。
万里だった。
片手には地図。
もう片方の手で、白馬の手綱を引いている。
まるで、ずっと前からそこにいて、
一部始終を聞いていたかのように。
万里は、手にしていた地図を無造作に畳み、
小さく息を吐いた。
「まさか、たった二人の雑魚相手に、ここまで手間取るとはな……」
そう言いながら、顔を上げる。
その視線が――
馬の背に縛られた甄宓へと、静かに向けられた。
言葉が落ちた、その瞬間――
その瞬間――少女の表情が一変した。
喉を裂くような声で、叫ぶ。
「張燕ッ!!」
「殺せ――ッ!!!」
次の瞬間。
張燕は長槍を構え、地面を強く踏み抜いた。
落ち葉が弾け飛ぶ。
その身体は、放たれた矢のように万里へと一直線に突進した。
あまりの速度に、残像すら残すほどだった。
万里はそれを見据えたまま、鼻で笑う。
「へ――黒山軍の張燕か。」
「大したことねえな」
万里は鼻で笑う。
槍先が空気を裂き、低く唸るような風切り音を響かせる。
一直線に――喉元を狙う!
万里の瞳が、わずかに細まった。
鋭い穂先が迫る。
万里は半歩、身体を捻る。
槍は喉元すれすれをかすめ、
風が耳元を掠めていった。
――だが、それで終わらない。
張燕の手首が、瞬時に返る。
軌道が変わる。
連続の突き。
雨のように降り注ぐ槍影。
一撃ごとに、確実に急所を抉りに来る。
喉
心臓
腹――
無駄は一切ない。
すべてが、殺すためだけの動き。
「はい~はい~速い速い」
「けど……」
万里は、片手だけで応じていた。
払う、受ける、いなす。
一見すると無造作な動き。
だが、そのすべてが寸分の狂いもない。
槍の軌道はことごとく逸らされ、
刃先はついにその身に届かない。
その最中――
万里の左手が、ふいに懐へと差し入れられる。
取り出したのは、蒸し餅。
そのまま、かじった。
もぐ、と二度ほど咀嚼する。
戦闘の只中とは思えないほど、あまりに気の抜けた所作。
万里は、軽く口元を歪めて言う。
「勘違いすんなよ」
「これは――これは技の差じゃねえ」
張燕の目に、露骨な動揺が走った。
「なに……!?」
その一瞬。
槍の動きが、わずかに止まる。
その一瞬の隙を、万里は見逃さなかった。
右手が閃き、槍の柄を掴む。
そのまま膝を軽く打ち込んだ。
――バキンッ。
硬いはずの槍身が、あっけなく二つに折れる。
「次元の差だ」
ドンッッッッ――!!!
その瞬間、時間がわずかに鈍ったかのように感じられた。
蒸し餅が――真正面から顔面に叩き込まれる。
ただの一撃。
だが、その威力は異常だった。
張燕の身体が、折れた槍の柄ごと吹き飛ぶ。
宙に弧を描き――
枝を何本もへし折りながら、
数十メートル先の地面へと叩きつけられた。
「がはっ――!」
血を吐く。
槍の柄は手から離れ、
張燕は、もはや立ち上がることすらできなかった。
血が、止めどなく口から溢れる。
掠れた声で、かろうじて言葉を絞り出した。
「お嬢……」
「……逃げろ……」
万里は、口の中の蒸し餅をゆっくりと飲み込み、
指で軽く口元を拭う。
その表情は、あくまで平静だった。
「弱いんだよ、お前」
「そんな腕で甄家の娘を狙うとか……金のために命捨てる気か?」
言い終わるより早く――
その姿は、もうそこにはなかった。
次の瞬間、少女の目の前。
躊躇なく蹴りが放たれ、腹部へ直撃する。
「ぐっ……!」
身体がくの字に折れ、胃液を吐きながら地面へ崩れ落ちた。
万里は足を持ち上げ――
少女の後頭部に、軽く乗せる。
「遺言は?」
少女の瞳が震える。
本能が、それを理解していた ――処刑だ。
呼吸は荒く乱れ、
指先が反射的に地面を掻き、必死に逃れようとする。
だが――
万里の足が、容赦なくその頭を踏みつけた。
「ないなら、そのまま殺すけど?」
死が、すぐそこにある。
張燕は、傍らで必死に身体を起こしていた。
腕は震え、
胸からは血が止まらず溢れている。
それでも、歯を食いしばり、
一歩、また一歩と前へと這い進む。
地面には、引きずるような血の跡が刻まれていった。
張燕は、震える手を伸ばした。
万里の足首を、掴む。
ほとんど力は残っていない。
それでも――その手は、決して離そうとはしなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
その表情を見た瞬間、万里はわずかに目を見開いた。
張燕の目は、すでに涙で濡れていた。
喉は潰れ、声はかすれている。
それでも、必死に言葉を絞り出した。
「頼む……助けてくれ……」
「怒りがあるなら……俺を殺せ……」
「その子だけは……見逃してやってくれ……」
「頼む……頼む……」
万里は、張燕を見下ろしたまま、しばし沈黙した。
ふと、頭の中に妙な考えがよぎる。
――なんだこれ。
こいつら、何やってんだ……。
まるで俺のほうが、追い剥ぎの悪党みたいじゃねえか。
「頼む……頼む……」
「その子だけは……」
「頼む……頼む……」
……
小さく息を吐く。
その瞬間、興がすっと引いていった。
ゆっくりと足をどける。
殺気が消えたのを感じた途端、
張燕の身体から力が抜けた。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたように。
そのまま意識を失い、地面へと崩れ落ちる。
万里はしゃがみ込み、
少女の頭に巻かれていた白布を引き剥がした。
両手を背中に回して縛り上げると、
続けて二人の荷を漁った。
縄を取り出し、
張燕のほうも同じようにきつく拘束する。
短時間では動けないことを確認してから、
ようやく立ち上がった。
視線を、少し離れたところへ向ける。
甄宓は、いまだ馬の背に固定されたままだった。
頭をわずかに傾け、
呼吸は規則正しい。
どうやら――ぐっすり眠っているらしい。
ときおり、ちゅっと小さく音を立て、
途切れ途切れに寝言まで漏らしている。
内容ははっきりしないが、
どうやら夢の中で妙なことでもしているようだった。
口元には、うっすらと涎まで浮かんでいる。
万里はしばし黙り込み――
なんとも言えない顔になった。
万里は、地面に倒れている二人と、馬上の甄宓とを見比べる。
頭の中で、素早く段取りを組み立てた。
一人で三人を引きずって進むとなると、
自分はともかく、萌萌のほうが先に潰れる。
さっき川を渡ったときの惨状が脳裏をよぎり、
小さく首を振った。
馬のそばへ歩み寄る。
手を伸ばし、甄宓の柔らかな頬を軽く叩いた。
「おい、甄宓様」
「起きろ」
「もう寝てる場合じゃない」
甄宓の眉が、わずかに寄る。
長い睫毛が、かすかに震えた。
やがて、ゆっくりと目が開く。
まだ眠気は抜けきっていない。
「万……」
「……里?」




