第25話 崩壊の始まり
甄宓が、はっと目を見開いた。
意識はまだ完全には戻っていない。だがその表情には、すでに明らかな緊張が浮かんでいる。
反射的に周囲を見回し、すぐさま口を開いた。
「まずい……万里、今は何刻?」
隠しきれない焦りが、声に滲む。
言い終えた直後、ふと何かに気づいたように動きを止めた。
無意識に手を上げ、口元に残っていた涎をそっと拭う。
それだけで、いくらか表情に落ち着きが戻り、
再び端正な佇まいを取り戻していく。
万里は一瞥だけくれると、淡々と告げた。
「日没までは、あと一刻もない」
その言葉に、甄宓の瞳がわずかに細まる。
万里は続けて言った。
「賊はすでに捕らえた。馬も手配済みだ」
そう言って、傍らの萌萌の首筋を軽く叩く。
「甄宓、乗馬は?」
甄宓は小さく頷いた。
「ええ……多少は心得ているわ」
しばらくして、二人は馬上にあった。
再び林の中に、蹄の音が激しく響き渡る。
木々の影が、後方へと流れるように過ぎ去っていった。
やがて――
川岸が、再び視界に入る。
遠目にも、先ほどの若い漁師が舟を片付け、帰り支度を始めているのが見えた。
万里はすぐさま手を上げ、声を張る。
「おーい! まだ人、乗せられるか!」
若い漁師が顔を上げ、応じようとした――そのとき。
視線が甄宓に止まり、わずかに動きが止まる。
次の瞬間、
慌てて口元をぬぐった。
実際には何もついていないのに。
表情を引き締め、取り繕うように言う。
「だ、大丈夫です! ただ……」
ちらりと万里の方を見る。
「船賃は、やっぱり二十銭で」
万里は無言で手を伸ばし、懐の銭袋を探る。
――そして。
足りていないことに気づいた。
場の空気が、ふっと気まずくなる。
その様子を見て、甄宓は静かに銭袋を取り出し、銅銭を差し出した。
若い漁師は手を伸ばしかけ――ふと動きを止める。
ちらりと甄宓の顔を見やり、
その頬がみるみるうちに赤く染まった。
「……い、いえ! 今回はいただけません!」
万里:「……」
胸の奥に、なんとも言えない微妙なもやもやが生まれる。
――美人って、昔からこういう特典持ちなのかよ。
ほどなくして、三人と二頭は再び舟に乗り込んだ。
今度は万里が自ら船尾へ回り、竹竿を手に取る。
若い漁師は前方に座り、進む方向を指示する役に回った。
「よし、そのまま……もう少しゆっくり――」
言い終える前に――
「ザバァッ――!!!」
竹竿が水面に突き立てられた瞬間、
舟が一気に加速する。
その勢いは凄まじく、
まるで水面すれすれを滑るように突き進んだ。
若い漁師は慌てて船縁にしがみつき、
やがて、考えることをやめたような顔になっていく。
それからほどなくして、舟は対岸へと到着する。
二人は馬を引いて下船し、万里は軽く頷いた。
「助かった」
若い漁師は慌てて手を振る。
「いえいえ、ついでですから、ついでですから!」
そう言いながらも、
視線はつい甄宓の方へと引き寄せられてしまう。
甄宓はわずかに頭を下げた。
「ご助力、感謝いたします」
落ち着いた、品のある声。
若い漁師は反射的に背筋を伸ばす。
「と、当然のことです! どうか道中、お気をつけて!」
二人はそのまま馬に跨り、
手綱を引いた。
白い影が、地を蹴って駆け出す。
川岸の景色は、瞬く間に後方へと流れていった。
――数分後。
距離が開くにつれ、
無極城のある方角の空が、ゆっくりと視界に入り込んでくる。
遠くに、城壁の輪郭がかすかに浮かび上がる。
そして――立ちのぼる煙。
万里の視線が、わずかに鋭さを帯びた。
残された時間は少ない。
一刻も早く、戻らなければならない。
やがて。
もう一頭の馬に縛りつけられていた白布の少女が、わずかに眉をひそめた。
意識が、ゆっくりと浮上していく。
瞼がかすかに震え――
そして、静かに開かれた。
焦点が合った、その瞬間。
少女は前方を見据え――甄宓の姿を捉える。
次の瞬間。
瞳が、激しく収縮した。
血の気が引き、顔色が一瞬で蒼白に変わる。
「戻っちゃだめ!!」
「戻っちゃだめえええッ!!」
掠れた声で絶叫しながら、
身体を激しくよじり、拘束から逃れようともがく。
「甄宓様――ッ!! 無極城には戻れません!!」
「絶対に……絶対に戻っちゃだめですッ!!」
万里は、うんざりしたように横目で一瞥した。
「……最初から、口も塞いどくべきだったな」
言い終えるより早く――
万里は、ふと眉をひそめた。
空気の中に、わずかな違和感が混じっている。
土の匂いでも、川の湿り気でもない。
――血の匂いだ。
万里は、はっと顔を上げた。
視線は一直線に、無極城の方角へと突き刺さる。
その瞬間、心臓がわずかに沈み込んだような感覚が走った。
目の前の光景が、ゆっくりと輪郭を帯びていく。
同時に、時間そのものが引き延ばされたかのように、鈍く歪む。
――本来、青々とした草原のはずだった。
だが今は。
一面が、黒ずんだ液体に染まっていた。
土ではない。
――血だ。
広がるのは、果ての見えないほどの血だった。
それはすでに土へと染み込みながら、なおゆっくりと流れていた。
暗い赤の細い筋となり、地表を蛇のように這い、どこまでも伸びていく。
――さらに、その先。
そこにあったのは、人影。
いや。
――屍だ。
一体、また一体と。
横たわり、折り重なり、無秩序に散らばっている。
空を仰いだまま、目を見開いたままのもの。
身を丸め、最期の瞬間に何かから逃れようとした形のまま固まっているもの。
陣形など、存在しない。
隊列もない。
抗った形跡すら、どこにもなかった。
――ただ、殺されている。
風が吹き抜ける。
折れた旗が、かすかに揺れた。
布は血を吸いきり、重く竿に貼りついている。
もはや、その色すら判別できなかった。
馬の脚は、止まらない。
だが――何かを踏みつけている。
ぐしゃり、と。
湿って柔らかい、嫌な音が響いた。
万里の視線が、ゆっくりと動く。
まるで何かに引きずられるように――地面へと落ちていった。
そこにあったのは。
一つの、少女の首。
血に濡れた髪が、地面に貼りついている。
その顔には、最期の瞬間の恐怖が、ありありと刻みつけられていた。
――温店主の娘。温綺。
万里の呼吸が、一瞬止まる。
はっとして、隣の甄宓を見た。
甄宓の顔は、すでに血の気を失っている。
両手で口元を押さえ、
その視線は――城門の上へと、釘付けになっていた。
身体が激しく震えている。
押し寄せる恐怖が、全身の血を凍らせるように縛りつけていた。
信じられない、というように。
万里は、その視線を追う。
城門の高み。
そこに――
一つの首が、吊り下げられていた。
その首から滴る血は、まだ完全には乾いていなかった。
顔中の穴という穴から血が流れ出ている。
舌は抉り取られ、耳は欠け、
眼窩の中は――空だった。
それは――
甄俨の首だった。
次の瞬間。
甄宓の身体から、力が抜け落ちる。
そのまま馬上から崩れ落ち、地面へと叩きつけられた。
「……っ、う……ッ」
両手を地に突き、激しく吐き戻す。
身体は抑えきれず震え続けていた。
今、目にしたものは――
すでに彼女の許容量を、完全に踏み越えていた。
万里は即座に手綱を引き、馬を止める。
そのまま飛び降りると、素早く駆け寄り、甄宓の肩を支えた。
「見るな」
そう言って、
彼女の視線を無理やり逸らそうとする。
――その瞬間。
「……っ」
唐突に、全身から力が抜け落ちる感覚
体の内側から、力がごっそりと抜き取られたかのように。
万里の眉が、きつく寄った。
視界が、急速に霞んでいく。
意識が沈んでいく。
まるで深い水底へと引きずり込まれるように――。
周囲の音が、遠のいていく。
歪み、途切れ、かすれていく。
やがて、完全に意識が途切れる寸前――
かろうじて、誰かの声が耳に届いた。
「例の紫衣の男の言う通りだ。毒は回った」
「甄宓は確保済み。護衛も制圧した」
その声も、すぐに遠ざかる。
――そして。
闇が、すべてを呑み込んだ。




