第23話 船
万里は、白馬を駆り――南西へ。
蹄が草を踏み荒らす。
低い草が靴の脇をかすめ、朝露が弾けて、細かな霧となって散った。
あるのは、かろうじて踏み固められた土の跡だけだ。
万里は目を細める。
「あれは……」
視線を落とす。顔を上げる。
さらに先――湿った土に、深く刻まれた轍。
「車輪か……」
「しかも、急いでるな」
轍は乱れている。
間隔も一定ではない。
「官道じゃない、が……」
「強引に抜けてるな?」
ふと顔を上げれば、遠くに川が見える。
水面が西に傾いた陽光を受け、淡く光を返している。
「間違いないな……」
「もう渡ってるか」
万里は軽く踵で馬腹を促す。
「行け!」
白馬が応じるように速度を上げる。
踏み倒された草の筋をなぞり、そのまま河岸へと駆け抜けた。
やがて、水の流れる音が近づいてくる。
川幅は広く、水流は穏やかだ。
岸辺には粗末な木舟がいくつか繋がれている。
数人の漁師が、黙々と網を繕っていた。
万里は手綱を引き、声を張る。
「すーみーまーせんー」
「少し前、この辺りを通った奴らを見ませんでしたか?」
「あるいは――」
「やたら目立つ女が、川を渡っていませんでしたか?」
漁師たちは顔を見合わせる。
答えが出る前に、一人の老人がゆっくりと歩み寄ってきた。
「見たとも」
老人は確信したように頷いた。
「少し前だ。若い娘がな。男と女、合わせて三人で舟に乗っていった」
万里の目がわずかに細まる。
やはり、進むべき方向は間違っていない。
「助かります~」
老人は、ふっと意味ありげに笑った。
「いやあ……あの娘はな」
「生まれてこの方、あれほどの別嬪は見たことがない」
「肌は白くて、顔立ちも見事でな」
「目がまた……いやはや」
「まるで絵から抜け出してきたようだった」
「こんな年寄りでも、思わず見とれてしまうほどの娘だったわい……」
老人は、話すほどに調子づき、ついには身振りまで交えはじめた。
万里はそれを聞きながら――
表情が、じわじわと固まっていく。
「あーはいはい」
「分かった分かった」
さすがに途中で口を挟んだ。
「それで――」
「馬ごと渡れる舟は?」
漁師たちは互いに顔を見合わせる。
ややあって、一人の若い漁師が舟を寄せた。
小ぶりだが、手入れは行き届いている。
「よろしければ」
「拙い舟ですが、お乗せできます」
万里は舟を見て、それから萌萌へと視線を移す。
舟を指しながら問いかけた。
「萌萌、乗れそうか?」
白馬はふっと温かな息を吐き、鼻先をわずかに震わせる。
拒む様子はない。
万里は頷き、簡潔に尋ねた。
「いくら?」
若い漁師は軽く頭を下げた。
「十文で結構です」
万里はそれ以上何も言わず、懐から紫の巾着を取り出し、二十文を手に乗せて差し出した。
「二十文」
「俺も手伝う」
「急いでる」
若い漁師は一瞬目を見開き、すぐに真剣な面持ちで頷いた。
「承知しました」
万里は手綱を引き、白馬を船板へ導く。
船体はわずかに揺れたが、すぐに安定を取り戻す。
乗り込むと同時に、万里はそばにあった竹竿をひとつ取り上げ、漁師と左右に分かれて構えた。
若い漁師が力を入れようとした、その瞬間――万里はすでに動いていた。
両手で竿を握り込み、腰をひねる。
まるで壊れた歯車みたいに、全身が一気に回転を始めた。
竹竿は水面に次々と軌跡を刻み、残像が幾重にも重なる。
「ばしゃばしゃばしゃばしゃ――!」
水しぶきが四方に散り、あまりの速さに動きが追えない。
小舟は勢いよく前へ跳ねた。
――かと思えば。
その場でぐるりと回転し始めた。
「ぐるるるるる――」
船体は水面でくるくると回り続ける。
水流は巻き込まれ、小さな渦が生まれた。
萌萌は踏ん張りきれず、船板の上で必死に重心を取り直している。
その瞳は、次第に焦点を失っていった。
「ヒヒィィィン!?」
戸惑いに満ちたいななきが響く。
一回転。
さらにもう一回転。
ついには完全に方向感覚を失い、その場で小刻みに足踏みを繰り返し始めた。
脇で見ていた年配の漁師は、呆気に取られて口を開けたまま固まっていた。
若い漁師に至っては、顔色がみるみる青ざめていく。
「ま、待って待って待って待って――!」
慌てて手を伸ばし、制止する。
「旦那!いったん止めてください!!」
「そんな漕ぎ方じゃありません!!」
若い漁師は、まだ小刻みに揺れている船体を見て、こめかみに冷や汗をにじませた。
少しためらいながら、慎重に口を開く。
「その……旦那……」
「ずいぶんと……お力が強いようで」
万里は竹竿を握ったまま、小さく頷いた。
「まあな」
若い漁師は深く息を吸い、船尾の方を指差した。
「もし差し支えなければ――」
「船尾の方を向いて、後ろ向きに漕いでいただけますか?」
「舵は私が取りますので」
万里はあっさりと頷いた。
「おう、わかった!」
すぐに向きを変え、両手で竿を握り直し、足を踏み込む。
次の瞬間――
「ばしゃあっ!!!!」
竹竿が水面に突き込まれ、盛大な水しぶきが弾けた。
小舟は一気に前方へと跳び出す。先ほどとは比べものにならない速度だ。
水流は力ずくで押し分けられ、船尾には白い航跡がはっきりと残る。
船首に腰を落としていた若い漁師は、必死に船縁へしがみついた。
その表情が、みるみるうちに変わっていく。
平静から、驚愕へ。
そして、信じがたいものを見るような顔へ。
風が唸りを上げ、川岸の景色が勢いよく後方へ流れていく。
「こ……これは……」
「舟を出して十年以上になるが……」
「こんな速さは――」
「見たことがない……!!」
萌萌は風をまともに受け、たてがみを乱しながら耳をぴたりと伏せていた。
先ほどの回転の余韻がまだ残っているのか、どこか焦点の定まらない顔をしている。
それでも、ほんのわずかな時間で――
船は急激に速度を落とし、対岸へと滑り着いた。
万里は素早く手綱を取り、萌萌を船から降ろす。
白馬は四肢が地面に触れた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
そして――
「ぶふっ……ぶふっ……!!」
その場で盛大に吐き戻した。
それを見た若い漁師の口元が、わずかに引きつる。
万里は萌萌の様子を一瞥し、軽く首筋を叩いた。
「悪かったな」
そう言った直後には、もう身軽に鞍へと跨っている。
手綱を引き締め、前を向いた。
「もう少しだけ我慢してくれ。すぐ着く」
萌萌はまだ完全に立ち直れていない様子だったが、体は反射的に動き出していた。
白い影がひとつ、再び勢いよく駆け出していく。
――途中で何度かえずきながら。
万里は振り返り、片手を軽く上げた。
「助かった!」
声は風にさらわれ、次第に遠ざかっていく。
若い漁師は岸辺に立ち尽くし、手にした竹竿を下ろすこともできずにいた。
やがてぽつりと、呟く。
「……いったい、何者なんだ……」




