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三千界戦:起源  作者: 天上天下天地無双刀
1章 無極城編
23/35

第23話 船

 ばんは、白馬を駆り――南西へ。


 蹄が草を踏み荒らす。


 低い草が靴の脇をかすめ、朝露が弾けて、細かな霧となって散った。


 あるのは、かろうじて踏み固められた土の跡だけだ。


 ばんは目を細める。


「あれは……」


 視線を落とす。顔を上げる。


 さらに先――湿った土に、深く刻まれた轍。


「車輪か……」


「しかも、急いでるな」


 轍は乱れている。

 間隔も一定ではない。


「官道じゃない、が……」


「強引に抜けてるな?」


 ふと顔を上げれば、遠くに川が見える。

 水面が西に傾いた陽光を受け、淡く光を返している。


「間違いないな……」


「もう渡ってるか」


 ばんは軽く踵で馬腹を促す。


「行け!」


 白馬が応じるように速度を上げる。

 踏み倒された草の筋をなぞり、そのまま河岸へと駆け抜けた。


 やがて、水の流れる音が近づいてくる。


 川幅は広く、水流は穏やかだ。

 岸辺には粗末な木舟がいくつか繋がれている。


 数人の漁師が、黙々と網を繕っていた。


 ばんは手綱を引き、声を張る。


「すーみーまーせんー」


「少し前、この辺りを通った奴らを見ませんでしたか?」


「あるいは――」


「やたら目立つ女が、川を渡っていませんでしたか?」


 漁師たちは顔を見合わせる。


 答えが出る前に、一人の老人がゆっくりと歩み寄ってきた。


「見たとも」


 老人は確信したように頷いた。


「少し前だ。若い娘がな。男と女、合わせて三人で舟に乗っていった」


 ばんの目がわずかに細まる。


 やはり、進むべき方向は間違っていない。


「助かります~」


 老人は、ふっと意味ありげに笑った。


「いやあ……あの娘はな」


「生まれてこの方、あれほどの別嬪は見たことがない」


「肌は白くて、顔立ちも見事でな」


「目がまた……いやはや」


「まるで絵から抜け出してきたようだった」


「こんな年寄りでも、思わず見とれてしまうほどの娘だったわい……」


 老人は、話すほどに調子づき、ついには身振りまで交えはじめた。


 ばんはそれを聞きながら――


 表情が、じわじわと固まっていく。


「あーはいはい」


「分かった分かった」


 さすがに途中で口を挟んだ。


「それで――」


「馬ごと渡れる舟は?」


 漁師たちは互いに顔を見合わせる。


 ややあって、一人の若い漁師が舟を寄せた。


 小ぶりだが、手入れは行き届いている。


「よろしければ」


「拙い舟ですが、お乗せできます」


 ばんは舟を見て、それから萌萌へと視線を移す。


 舟を指しながら問いかけた。


「萌萌、乗れそうか?」


 白馬はふっと温かな息を吐き、鼻先をわずかに震わせる。


 拒む様子はない。


 ばんは頷き、簡潔に尋ねた。


「いくら?」


 若い漁師は軽く頭を下げた。


「十文で結構です」


 ばんはそれ以上何も言わず、懐から紫の巾着を取り出し、二十文を手に乗せて差し出した。


「二十文」


「俺も手伝う」


「急いでる」


 若い漁師は一瞬目を見開き、すぐに真剣な面持ちで頷いた。


「承知しました」


 ばんは手綱を引き、白馬を船板へ導く。


 船体はわずかに揺れたが、すぐに安定を取り戻す。


 乗り込むと同時に、ばんはそばにあった竹竿をひとつ取り上げ、漁師と左右に分かれて構えた。


 若い漁師が力を入れようとした、その瞬間――ばんはすでに動いていた。


 両手で竿を握り込み、腰をひねる。

 まるで壊れた歯車みたいに、全身が一気に回転を始めた。


 竹竿は水面に次々と軌跡を刻み、残像が幾重にも重なる。


「ばしゃばしゃばしゃばしゃ――!」


 水しぶきが四方に散り、あまりの速さに動きが追えない。


 小舟は勢いよく前へ跳ねた。


 ――かと思えば。


 その場でぐるりと回転し始めた。


「ぐるるるるる――」


 船体は水面でくるくると回り続ける。


 水流は巻き込まれ、小さな渦が生まれた。


 萌萌は踏ん張りきれず、船板の上で必死に重心を取り直している。


 その瞳は、次第に焦点を失っていった。


「ヒヒィィィン!?」


 戸惑いに満ちたいななきが響く。


 一回転。


 さらにもう一回転。


 ついには完全に方向感覚を失い、その場で小刻みに足踏みを繰り返し始めた。


 脇で見ていた年配の漁師は、呆気に取られて口を開けたまま固まっていた。


 若い漁師に至っては、顔色がみるみる青ざめていく。


「ま、待って待って待って待って――!」


 慌てて手を伸ばし、制止する。


「旦那!いったん止めてください!!」


「そんな漕ぎ方じゃありません!!」


 若い漁師は、まだ小刻みに揺れている船体を見て、こめかみに冷や汗をにじませた。


 少しためらいながら、慎重に口を開く。


「その……旦那……」


「ずいぶんと……お力が強いようで」


 ばんは竹竿を握ったまま、小さく頷いた。


「まあな」


 若い漁師は深く息を吸い、船尾の方を指差した。


「もし差し支えなければ――」


「船尾の方を向いて、後ろ向きに漕いでいただけますか?」


「舵は私が取りますので」


 ばんはあっさりと頷いた。


「おう、わかった!」


 すぐに向きを変え、両手で竿を握り直し、足を踏み込む。


 次の瞬間――


「ばしゃあっ!!!!」


 竹竿が水面に突き込まれ、盛大な水しぶきが弾けた。


 小舟は一気に前方へと跳び出す。先ほどとは比べものにならない速度だ。


 水流は力ずくで押し分けられ、船尾には白い航跡がはっきりと残る。


 船首に腰を落としていた若い漁師は、必死に船縁へしがみついた。


 その表情が、みるみるうちに変わっていく。


 平静から、驚愕へ。


 そして、信じがたいものを見るような顔へ。


 風が唸りを上げ、川岸の景色が勢いよく後方へ流れていく。


「こ……これは……」


「舟を出して十年以上になるが……」


「こんな速さは――」


「見たことがない……!!」


 萌萌は風をまともに受け、たてがみを乱しながら耳をぴたりと伏せていた。


 先ほどの回転の余韻がまだ残っているのか、どこか焦点の定まらない顔をしている。


 それでも、ほんのわずかな時間で――


 船は急激に速度を落とし、対岸へと滑り着いた。


 ばんは素早く手綱を取り、萌萌を船から降ろす。


 白馬は四肢が地面に触れた瞬間、ぴたりと動きを止めた。


 そして――


「ぶふっ……ぶふっ……!!」


 その場で盛大に吐き戻した。


 それを見た若い漁師の口元が、わずかに引きつる。


 ばんは萌萌の様子を一瞥し、軽く首筋を叩いた。


「悪かったな」


 そう言った直後には、もう身軽に鞍へと跨っている。


 手綱を引き締め、前を向いた。


「もう少しだけ我慢してくれ。すぐ着く」


 萌萌はまだ完全に立ち直れていない様子だったが、体は反射的に動き出していた。


 白い影がひとつ、再び勢いよく駆け出していく。

 ――途中で何度かえずきながら。


 ばんは振り返り、片手を軽く上げた。


「助かった!」


 声は風にさらわれ、次第に遠ざかっていく。


 若い漁師は岸辺に立ち尽くし、手にした竹竿を下ろすこともできずにいた。


 やがてぽつりと、呟く。


「……いったい、何者なんだ……」

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