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三千界戦:起源  作者: 天上天下天地無双刀
1章 無極城編
22/35

第22話 戦争の準備

 一个時辰後。


 しんげんはただちに軍令を発し、やがて、城内に鼓の音が響き始めた。


 兵が動き出す気配が、城のあちこちに満ちていった。


 ばんだけは、無極城南門の前に静かに立ち尽くしていた。


 地図に記された、九門城へと続く一本の道を見つめながら。


 彼は、そっと息を吐く。


「日が沈むまで、あと二刻もない……」


「時間がねぇな……」

「城も守って、甄宓も助けなきゃならん」

「あー……めんどくせー」


 一人の厩務員が手綱を引き、一頭の白馬をばんの前へと連れてきた。


「こちらは我が厩舎一番の名馬――萌萌でございます」


 そう言って、馬の首筋を軽く叩く。その声には、わずかな誇らしさがにじんでいた。


「一日に千里を駆けるとも言われる、西涼から来た希少な良駒です」


「どうかばん様、大切にお扱いください」


 ばんは一瞬、目を瞬かせた。


「……萌萌?」


 思わず、目の前の馬をまじまじと見つめた。


 全身は雪のように白く、毛並みはきめ細やかで艶やか。引き締まった筋肉は滑らかな曲線を描き、四肢は長く力強い。


 たてがみが風にかすかに揺れ、その眼差しは澄んでいながら、どこか鋭さを帯びていた。


 呼吸は安定し、立ち姿も凛として崩れない。


 そこに立っているだけで、並外れた爆発力を秘めていることが伝わってくる。


 間違いなく、一級の名駒だった。


 ―――ただ、名前だけが少し場違いだった。


 ばんは小さく頷く。


「いい馬だ」


「名前も……まあ、悪くない」


 厩務員は、その微妙な間に気づかなかったのか、満足そうに頷いた。


 ばんは簡易地図を懐へとしまい込む。


 続いて軽やかに馬へ跨り、手綱をわずかに引き締めた。


「行け」


 白馬は一瞬で地を蹴り、力強く駆け出した。


 四蹄が地を打ち、矢のような勢いで城門を飛び出した。巻き上がる土煙の中、


 その姿は瞬く間に、無極城南門の彼方へ消えていった。


 わずかな時間――


 普段なら、本でも読んでれば終わる程度の時間だ。

 だが今の彼には、そのわずかな時さえ、やけに長く感じられた。


 無極城・演武場。


 三百人ほどの働き盛りの男たちが緊急招集され、落ち着かない様子で身を寄せ合っていた。


 彼らの多くは、粗末な麻服を身にまとい、手にしているのは、支給されたばかりで刃もついていない錆びた長槍や、簡素な木盾ばかり。


 彼らは兵ではない。


 城西の鍛冶屋、城東の行商人、つい先日妻を迎えたばかりの農夫、家の跡取りである若い書生――どこにでもいる、ごく普通の人々だ。


「甄様、いったい何が起きたんです?」


 日に焼けた肌の男が人波をかき分けて前へ進み出る。手には固く握りしめた棒。


 その瞳には、疑いよりも、ただまっすぐな信頼が宿っていた。


 しんげんは高台の上から、その目を見つめる。


 男の名は狗児。親孝行で知られ、普段はしん家へ炭を届けに来ている者だ。


 いま、狗児をはじめとする民たちは、食い入るように彼を見上げていた。


 まるで、甄様が「問題ない」と言いさえすれば、本当に何事も起きていないのだと信じられるかのように。


 しんげんは深く息を吸い込み、眼下に並ぶ不安と恐れを湛えた数々の眼差しを見渡す。


 そして穏やかに微笑み、手を軽く下へ押し下げる仕草で、静まるよう促した。


「狗児、そして皆の者よ!」


 しんげんの声は穏やかでありながら揺るぎなく、演武場の空気を静かに引き締めた。


「皆が何を恐れているのか、分かっている。だが――どうか、私の話を聞いてほしい」


 ざわめきが次第に静まり、狗児と呼ばれた男も、握りしめていた棍棒の力をわずかに緩めた。

 その瞳に宿っているのは疑念ではなく、まっすぐな信頼だった。


「正面の戦場には、正規軍の鉄騎がいる。そして無極城にも、百名の精鋭甲士が控えている」


 しんげんは背後にはためくしん家の旗を指し示し、落ち着いた口調で続けた。


「前線の兵が命を懸けて戦っている以上、我々も何もせずにいるわけにはいかない。


 皆には城壁の内側で陣を整え、簡単な教練を受け、兵糧と兵器を守ってもらいたい」


 そして、ひと呼吸おいて言った。


「よほどの事態とならぬ限り――

 皆が直接、あの怪物と刃を交えることはない」

 城外へ出て命を懸ける必要はない――そう分かった瞬間、下から安堵の声が一斉に漏れた。


 しんげんはさらに、希望を与える言葉を重ねる。


「家に残してきた妻子が心配なのも承知している。だが先ほど、先生が自ら手配してくださった。城中の老人や子供、婦人はすべて最も安全な内城の避難所へ集め、保護する!後顧の憂いはない!」


「それはありがたい!様はまさに生き仏だ!」


「外に出て怪物の餌にされなきゃ、それで十分だ!」


「ここを守るくらいなら俺たちにもやれる!しんげん様の力になろう!」


 張り詰めていた空気が、ふっとほどけた。


 男たちは互いに肩を叩き合い、安堵したような笑みを浮かべていた。甄様を信じ、しんげんが語った軍師の存在を信じていた。


 その笑顔を見つめながら、しんげんの胸にもまた、かすかなおんもりが満ちていった。


 その頃――無極城西門。


 正門に満ちていた昂揚した空気とは対照的に、ここでは声を潜めたまま、慌ただしい大移動が進められていた。


 民衆は小声で言葉を交わしながら足早に歩き、車輪の軋む音すら、誰もが必死に抑えていた。


「急げ、声を出すな。前の列について行け」


 人波の中で、一人の中年の男が少女の手を強く引いていた。


 だが、おんは勢いよくその手を振りほどく。


「行かない!」


 目を赤く染め、声を必死に押し殺しながらも、震えは隠しきれない。


「どうして私が行かなきゃいけないの?」


「私だって力になれる!」


「ここに残って、一緒に城を守る!」


 おん店主は眉を固く寄せ、声を低く抑えながらも、厳しく言い放った。


「馬鹿を言うな!」


「ここはお前がいるべき場所じゃない!」


 彼は包みを無理やりおんの胸に押しつけ、そのまま脇にできた避難者の列を指し示した。


「荷物を持って、列について行け」


 おんは彼の衣の裾を、ぎゅっと掴んだまま離さない。


「行かない!」


「一人になんてさせない!」


「母さんはもういないのに……親父まで失うなんて——」


 その言葉を聞いた瞬間、おん店主の動きが止まる。

 その表情がかすかに揺らいだ。


 次の瞬間――


 パシン!


 乾いた平手打ちの音が、押し殺されたざわめきの中でひどく鋭く響いた。


 おんは呆然と立ち尽くした。


「行け!」


 おん店主の声は、氷のように硬く冷たくなっていた。


「俺は、お前のことなんか、一度だって可愛いと思ったことはない」


「お前ら母娘を養ってきたのだって、ずっと重荷だったんだ」

「これから先も――」

「もう二度と、顔なんか見せるな」


 その言葉を突きつけられた瞬間、おんの瞳がわずかに縮まった。

 おんは唇をきつく噛みしめ、涙があふれた。


 荷をひったくるように抱え、そのまま人波をかき分けて駆け出す。


「バカ!」


「親父の大バカ!!!」


 泣き叫ぶ声は、遠ざかる背中とともに次第にかき消えていった。


 おん店主はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。


 人の流れに押され、ようやくゆっくりと俯く。


 こらえきれなかった涙が一筋、地面へ落ちる。

 唇だけが、かすかに動いた。


 ――すまない……。


 通路の入口には、が立っていた。


 両手を袖の中に収めたまま、何の表情も浮かべず、ただその光景を静かに見ている。


 大勢の老人や婦人、子どもたち、互いに支え合いながら、涙をこらえ、できるだけ物音を立てないよう、静かに外へと移されていく。


「軍師!」


 一人の副官が額に汗を浮かべて駆け寄り、避難していく人々の列と、城の中心部の方角とを、落ち着かない様子で見比べた。


「ご指示どおり、城内の老人、婦人、子どもはすべて集結しました。現在、順次、避難させています」

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