第22話 戦争の準備
一个時辰後。
甄俨はただちに軍令を発し、やがて、城内に鼓の音が響き始めた。
兵が動き出す気配が、城のあちこちに満ちていった。
万里だけは、無極城南門の前に静かに立ち尽くしていた。
地図に記された、九門城へと続く一本の道を見つめながら。
彼は、そっと息を吐く。
「日が沈むまで、あと二刻もない……」
「時間がねぇな……」
「城も守って、甄宓も助けなきゃならん」
「あー……めんどくせー」
一人の厩務員が手綱を引き、一頭の白馬を万里の前へと連れてきた。
「こちらは我が厩舎一番の名馬――萌萌でございます」
そう言って、馬の首筋を軽く叩く。その声には、わずかな誇らしさがにじんでいた。
「一日に千里を駆けるとも言われる、西涼から来た希少な良駒です」
「どうか万里様、大切にお扱いください」
万里は一瞬、目を瞬かせた。
「……萌萌?」
思わず、目の前の馬をまじまじと見つめた。
全身は雪のように白く、毛並みはきめ細やかで艶やか。引き締まった筋肉は滑らかな曲線を描き、四肢は長く力強い。
たてがみが風にかすかに揺れ、その眼差しは澄んでいながら、どこか鋭さを帯びていた。
呼吸は安定し、立ち姿も凛として崩れない。
そこに立っているだけで、並外れた爆発力を秘めていることが伝わってくる。
間違いなく、一級の名駒だった。
―――ただ、名前だけが少し場違いだった。
万里は小さく頷く。
「いい馬だ」
「名前も……まあ、悪くない」
厩務員は、その微妙な間に気づかなかったのか、満足そうに頷いた。
万里は簡易地図を懐へとしまい込む。
続いて軽やかに馬へ跨り、手綱をわずかに引き締めた。
「行け」
白馬は一瞬で地を蹴り、力強く駆け出した。
四蹄が地を打ち、矢のような勢いで城門を飛び出した。巻き上がる土煙の中、
その姿は瞬く間に、無極城南門の彼方へ消えていった。
わずかな時間――
普段なら、本でも読んでれば終わる程度の時間だ。
だが今の彼には、そのわずかな時さえ、やけに長く感じられた。
無極城・演武場。
三百人ほどの働き盛りの男たちが緊急招集され、落ち着かない様子で身を寄せ合っていた。
彼らの多くは、粗末な麻服を身にまとい、手にしているのは、支給されたばかりで刃もついていない錆びた長槍や、簡素な木盾ばかり。
彼らは兵ではない。
城西の鍛冶屋、城東の行商人、つい先日妻を迎えたばかりの農夫、家の跡取りである若い書生――どこにでもいる、ごく普通の人々だ。
「甄様、いったい何が起きたんです?」
日に焼けた肌の男が人波をかき分けて前へ進み出る。手には固く握りしめた棒。
その瞳には、疑いよりも、ただまっすぐな信頼が宿っていた。
甄俨は高台の上から、その目を見つめる。
男の名は狗児。親孝行で知られ、普段は甄家へ炭を届けに来ている者だ。
いま、狗児をはじめとする民たちは、食い入るように彼を見上げていた。
まるで、甄様が「問題ない」と言いさえすれば、本当に何事も起きていないのだと信じられるかのように。
甄俨は深く息を吸い込み、眼下に並ぶ不安と恐れを湛えた数々の眼差しを見渡す。
そして穏やかに微笑み、手を軽く下へ押し下げる仕草で、静まるよう促した。
「狗児、そして皆の者よ!」
甄俨の声は穏やかでありながら揺るぎなく、演武場の空気を静かに引き締めた。
「皆が何を恐れているのか、分かっている。だが――どうか、私の話を聞いてほしい」
ざわめきが次第に静まり、狗児と呼ばれた男も、握りしめていた棍棒の力をわずかに緩めた。
その瞳に宿っているのは疑念ではなく、まっすぐな信頼だった。
「正面の戦場には、正規軍の鉄騎がいる。そして無極城にも、百名の精鋭甲士が控えている」
甄俨は背後にはためく甄家の旗を指し示し、落ち着いた口調で続けた。
「前線の兵が命を懸けて戦っている以上、我々も何もせずにいるわけにはいかない。
皆には城壁の内側で陣を整え、簡単な教練を受け、兵糧と兵器を守ってもらいたい」
そして、ひと呼吸おいて言った。
「よほどの事態とならぬ限り――
皆が直接、あの怪物と刃を交えることはない」
城外へ出て命を懸ける必要はない――そう分かった瞬間、下から安堵の声が一斉に漏れた。
甄俨はさらに、希望を与える言葉を重ねる。
「家に残してきた妻子が心配なのも承知している。だが先ほど、賈詡先生が自ら手配してくださった。城中の老人や子供、婦人はすべて最も安全な内城の避難所へ集め、保護する!後顧の憂いはない!」
「それはありがたい!賈詡様はまさに生き仏だ!」
「外に出て怪物の餌にされなきゃ、それで十分だ!」
「ここを守るくらいなら俺たちにもやれる!甄俨様の力になろう!」
張り詰めていた空気が、ふっとほどけた。
男たちは互いに肩を叩き合い、安堵したような笑みを浮かべていた。甄様を信じ、甄俨が語った軍師の存在を信じていた。
その笑顔を見つめながら、甄俨の胸にもまた、かすかな温もりが満ちていった。
その頃――無極城西門。
正門に満ちていた昂揚した空気とは対照的に、ここでは声を潜めたまま、慌ただしい大移動が進められていた。
民衆は小声で言葉を交わしながら足早に歩き、車輪の軋む音すら、誰もが必死に抑えていた。
「急げ、声を出すな。前の列について行け」
人波の中で、一人の中年の男が少女の手を強く引いていた。
だが、温綺は勢いよくその手を振りほどく。
「行かない!」
目を赤く染め、声を必死に押し殺しながらも、震えは隠しきれない。
「どうして私が行かなきゃいけないの?」
「私だって力になれる!」
「ここに残って、一緒に城を守る!」
温店主は眉を固く寄せ、声を低く抑えながらも、厳しく言い放った。
「馬鹿を言うな!」
「ここはお前がいるべき場所じゃない!」
彼は包みを無理やり温綺の胸に押しつけ、そのまま脇にできた避難者の列を指し示した。
「荷物を持って、列について行け」
温綺は彼の衣の裾を、ぎゅっと掴んだまま離さない。
「行かない!」
「一人になんてさせない!」
「母さんはもういないのに……親父まで失うなんて——」
その言葉を聞いた瞬間、温店主の動きが止まる。
その表情がかすかに揺らいだ。
次の瞬間――
パシン!
乾いた平手打ちの音が、押し殺されたざわめきの中でひどく鋭く響いた。
温綺は呆然と立ち尽くした。
「行け!」
温店主の声は、氷のように硬く冷たくなっていた。
「俺は、お前のことなんか、一度だって可愛いと思ったことはない」
「お前ら母娘を養ってきたのだって、ずっと重荷だったんだ」
「これから先も――」
「もう二度と、顔なんか見せるな」
その言葉を突きつけられた瞬間、温綺の瞳がわずかに縮まった。
温綺は唇をきつく噛みしめ、涙があふれた。
荷をひったくるように抱え、そのまま人波をかき分けて駆け出す。
「バカ!」
「親父の大バカ!!!」
泣き叫ぶ声は、遠ざかる背中とともに次第にかき消えていった。
温店主はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。
人の流れに押され、ようやくゆっくりと俯く。
こらえきれなかった涙が一筋、地面へ落ちる。
唇だけが、かすかに動いた。
――すまない……。
通路の入口には、賈詡が立っていた。
両手を袖の中に収めたまま、何の表情も浮かべず、ただその光景を静かに見ている。
大勢の老人や婦人、子どもたち、互いに支え合いながら、涙をこらえ、できるだけ物音を立てないよう、静かに外へと移されていく。
「軍師!」
一人の副官が額に汗を浮かべて駆け寄り、避難していく人々の列と、城の中心部の方角とを、落ち着かない様子で見比べた。
「ご指示どおり、城内の老人、婦人、子どもはすべて集結しました。現在、順次、避難させています」




