第2話 ワシ、妖仙じゃ
「……あれ?ここは?」
万里は、つい先ほどサビの頂点で決めたポーズのままぴたりと固まっていた——
両手を高く掲げ、体を意味不明なS字ポーズ、血まみれのアライグマの着ぐるみが空中でぴたりと止まっている。
「どこだここ……?」
ネオンも、悲鳴も、血溜まりも、東京タワーも——すべて消えている。
代わりにそこにあったのは、古めかしい寝室。
薄絹の帳が静かに垂れ、屏風が半ば閉じられている。
淡い灯りが静かに揺れていた
空気にはほのかな檀の香りが漂い、鼓動の音さえ聞こえそうなほど静まり返っている。
そして、わずか三歩先。
一人の少女が、寝台の前で着替えをしていた。
衣の帯はまだ結ばれていなかった。
薄い紗の衣が白い肩まで半ば滑り落ち、雪のようにきめ細やかな肌が、燭火の柔らかな光を受けてほのかな艶を帯びている。
息を呑んだ拍子に、胸元が小さく揺れる。
少女は真正面から万里と視線をぶつけ、無防備な姿のまま呆然と彼を見つめていた。
彼女の瞳孔が大きく収縮し、指先が反射的に衣を掴む。だが整えるどころか、かえって衣紐を乱してしまう。
雪のように白い頬が、目に見えて薄紅に染まり、呼吸の調子が一瞬で乱れた。
ようやく思考が再起動した万里が、ようやく絞り出した言葉は一つ。
「おいおいおい!!なんだこの展開は!?」
しかも本人はまだあの奇妙なポーズを維持したまま、血まみれの着ぐるみの片手を宙に掲げて固まっている。
ボア生地にこびりついた血が、ゆっくりと床へぽたり、ぽたりと滴り落ちていた。
空気が、粘りつくように重く沈んだ。
三秒後、万里は無理やり精神を立て直した。
「ふん……たかがラッキースケベ展開じゃないか。漫画で八百回は見た。今さら動揺なんてしない」
ばっとポーズを解き、両腕を組み、無理やり仙人みたいな顔を作る。
もっとも、全身血まみれで、裂け目からまだ血が滲んでいるアライグマの着ぐるみが、せっかくの格好つけた雰囲気が台無しになっていた。
「こほん……ワシは長年修行を積んだ妖仙じゃ。ひょんなことから俗世に迷い込んでしもうてな」
「今日こうしてお嬢さんと出会ったのも、前世からの因縁というものじゃろう。用が済めばすぐ立ち去る——善哉、善哉。南無阿弥陀仏」
そう言いながら、ゆっくりと一歩後ずさる。
少女は一瞬きょとんとした後、なぜか少しだけ表情を緩めた。
「……妖仙様でしたか」
小さく頷き、柔らかな声で答える。
「てっきり恐ろしい妖が、私の寝室に入り込んだのかと思いました」
「ほほ……ほほほ……そうそう、妖仙、ただの通りすがりの妖仙というやつでして」
万里は乾いた笑いを浮かべながら、じりじりと後退していく。
血の足跡が床に二筋、妙に生々しく残った。
「お嬢さんも冗談がお上手で……ほほほ……」
「フフフ……」
「ほほ、ほ……」
二人は作り笑いを浮かべたまま、五秒間も視線を合わせ続けた。
笑い声は次第に空々しくなり、気まずさだけが濃くなっていく。
やがて、空気がぴたりと、断ち切られたように静まり返った。
二人とも、同時に気づいた。
血まみれのアライグマの化け物が、衣服も整っていない少女の寝室に立っているという、どう考えても異常な状況であることに。
そして、次の瞬間——
「きゃあああっ——!!!」
鋭い悲鳴が、静まり返った室内を切り裂いた。
「妖怪ぇぇぇぇ!!」
万里「ま、待て!話せば分かる——!」
しかし、もう遅い。
扉の外から、慌ただしい足音と、武具がぶつかる乾いた音が響いてきた。




