第1話 賞金二百億ドルの男
「なあ――」
「この世界が本物である確率って、どれくらいだと思う?」
アライグマの着ぐるみが東京タワーの頂上に立ち、眼下に広がる光の海のように瞬く夜の東京を見下ろしていた。
夜風に吹かれ、安っぽい茶色のボア生地がふわりと揺れる。まるで巨大なぬいぐるみの毛並みが乱されているようだった。
ヘッドホンの中では、わずかに歪んだイントロが気怠いリズムを刻み始める。
「俺は――」
男はくすりと笑い、まったく迷いなく両腕を広げると、そのまま後ろへ身を傾けた。
両腕を広げ、一歩踏み出す。その勢いのまま、身体を反らして後方へ倒れた。
彼の視界が、唐突に前方へと傾いた。
東京タワーの鉄骨が視界の上方へ滑り去り、足元の街が、一瞬で逆さまの星の海へと反転する。
ちょうどその瞬間、ヘッドホンの楽曲がサビへ突入し、電子ドラムが耳を打ち抜くように炸裂した。
風が耳元で悲鳴のように唸る。
空洞のアライグマの目が、真っ直ぐ夜空を見つめていた。
「ゼロと思ったー」
落下速度がみるみる加速していく。
風が無数の手が貪るように着ぐるみの表皮を激しく引き裂こうとする。
東京タワーのライトが視界の中で狂ったように明滅しながら回転し、白い残光の軌跡を引き延ばした。
地面が急速に迫る——
通行人、車、横断歩道、ネオン看板が、小さなピクセルのような点から、一瞬で生々しい質量を伴って迫ってきた。
サビは最高潮へ達し、電子ビートが鼓膜を容赦なく叩き続ける。
そのとき、路地の向こうから遠慮のない笑い声が聞こえてきた。
いかにもテンションの上がりきった若者たちが、コンビニで買ったばかりの缶ビールをぶら下げ、肩をぶつけ合いながら大声で騒いでいる。
「なあ今日カラオケ行かね?」
「ナナも来るって。あいつマジで胸デカいんだよ」
「マジかよ、あのビッチ?」
「 いいじゃん、行こうぜ!」
腹を抱えて笑いながらビールを振り回し、そのうちの一人がわざと空き缶を道路脇へ放り投げ、乾いた金属音を響かせた。
肩を組み、悪態をつきながら歩くその姿には、夜遊び慣れした夜遊びに慣れた若者特有の軽薄さと虚勢が滲んでいる。
——その瞬間。
「ベシャッ」
湿った、骨の砕ける音を伴う鈍い衝撃音。
まるで隕石でも落ちたかのように、地面がびりっと震えた。
鮮紅の液体が信じがたい圧力で噴き上がり、街灯の下で粘ついた不気味な光を放つ。
アライグマの着ぐるみの胴体が、道路の中央に静かに横たわっていた。四肢は人間ではあり得ない角度にねじ曲がっている。
血が安物のボア生地に染み込み、重くねっとりと濡れ、壊れた水道管のようにごぼごぼと溢れ出す。頭部の中では、潰れた血肉と砕けた骨片が混じり合っていた。アスファルトの亀裂に沿って広がり、白い横断歩道を赤く染め、路肩に停まっていた車のタイヤまでも濡らしていく。
空気が、その瞬間だけ抜け落ちたかのように静まり返った。
さっきまで騒いでいた若者たちが、凍り付いたように立ち尽くす。
自分の身体に降りかかった生暖かい液体を見下ろし、まだ消えきらない下卑た笑みを浮かべたまま、表情だけがゆっくりと恐怖へ変わっていった。
一人は缶ビールを握ったまま手が震え、血と泡が混ざり合いながらぽたぽたと滴っている。
「……は?」
最前にいた男が最初に我に返った。声はかすれ、明らかに裏返っている。
顔を手で拭った瞬間、掌いっぱいに広がる鮮やかな赤。
粘つく感触に、吐き気が込み上げた。
隣にいた男が耐えきれず叫ぶ。
「ちょっ……血!!血だって!!」
「なんだよこれ!?着ぐるみ!?人が空から落ちてきたのか!?」
数歩よろめいて後ずさると、足元の血溜まりがぬちゃりと嫌な音を立てた。
さっきまで威勢よく笑っていた顔は真っ青に変わり、目は裂けそうなほど見開かれ、身体が勝手に震えている。
コンビニから出てきたばかりのカップルが呆然と立ち尽くす。
女は口を開けたまま、声が出ない。
並んで歩いていた学生の一人が、仲間の肩にぶつかりながら震える声を漏らす。
「き、着ぐるみ……?」
誰もが吐き気と恐怖に飲み込まれかけた、壊れかけたイヤホンの中で、サビが頂点へ達した。
雷鳴のようなビート。
次の瞬間、アライグマの下半身が、高圧のバネでも入っているかのように地面を激しく蹴り上げた!
折れた骨が肉の中で耳障りな摩擦音を立て、血がさらに高く飛び散る。
物理法則を嘲笑うかのような、異様で、どこか壊れたような姿勢で血溜まりから跳ね起きた。
体が半空で異様な弧、折れ曲がった四肢がありえない角度で激しく振り回される。
両拳を握りしめ、頭上高く掲げ——
狂ったように踊り始めた。
血を吸ったボア生地が振り回されるたび、濡れ布を振り回したように血飛沫が撒き散らされる。
折れ曲がった四肢があり得ない角度で振り回され、頭部の中で崩れた肉と砕けた骨がリズムに合わせて激しく揺れた。
空洞のアライグマの目が、人々をまっすぐ見据える。
裂けた口の奥から、引き裂くような歓喜の咆哮が響いた。
「あああああああ——!!!ハハハハハハ——!!!イェェェ!!!」
その動きはビートと完全に同期していた。
腕を振るたび、腰を捻るたび、狂気じみた解放感が溢れ出す。
「ば、化け物だ!!逃げろ!!」
悲鳴が感染のように広がる。
人々は我先にと逃げ惑い、前の人間を突き飛ばし、転んだ者を踏み越えていく。
母親が子供を胸に抱き込み、顔を押しつけながら泣き叫ぶ。
多くの人間が本能的にスマートフォンを取り出す。
通報ではなく、撮影するために。
震える指で構えた画面の中には、揺れる血の赤と歪んだアライグマ、逃げ惑う人影しか映らない。
ある男は泣きながらスマートフォンを向け、叫び続けていたが、その顔には抑えきれない病的な笑みが浮かんでいた。
「東京タワーの下でヤバいことになってる!怪物が踊ってるぞ——!早く撮ってネットに上げろ!!は、ははは……!!」
通りは一瞬で地獄絵図へと変わった。
それでもアライグマの着ぐるみは血溜まりの中央に立ち続け、折れた四肢を振り回しながら踊り続ける。
悲鳴とビートが混ざり合い、滑稽で、気味が悪く、それでいて妙に癖になる恐怖のリズムだった。
「俺の名前は万里」
「火刑356回」
「毒殺457回」
「銃殺677回」
「絞首刑856回……」
「それでも今なお、懸賞金200億ドルの国際指名手配犯ってわけ」
「そう、俺は不死身だ。万里ってのも、これまで使ってきた無数の名前の一つに過ぎねえ」
「別に大した罪なんて犯しちゃいない。がこの世界じゃ――為政者の手に収まらない存在であること自体が、どうやら一番の罪らしい」
「人間ってさ、自分たちのことを高等知性とか言い張るくせに、理解できないものを前にすると、結局いちばん原始的な恐怖と偏見に頼るんだよな――」
「俺は地球の誕生を見たし、何度も何度も滅びる瞬間にも立ち会ってきた」
「万を超える輪廻を繰り返しても、こうして無傷のままだ」
「天上天下唯我独尊——この言葉、俺のために作られたようなもんだろ?」
「……ん?俺の正体が気になるって?」
「はは、真名を知れば分かるさ」
「今日は機嫌がいい。特別に教えてやる」
音楽はなおも轟き続ける。
だがダンスは、不意にぴたりと止まった。
空洞の瞳と裂けた笑みだけが、異様な存在感を放つ。
「俺の本当の——」
「名は——」
その瞬間、眩いハイビームが夜を切り裂いた。
猛獣の咆哮のようなエンジン音が急速に迫る。
「ドンッ!!!」
巨大な影が凄まじい速度で突っ込み、アライグマの着ぐるみを弾き飛ばした。
音も、光も、人の気配も——
すべてが途切れる。
無限の虚空の中で、人類には理解できない冷たい記録だけが直接意識へ刻み込まれた。
「特異点」
「12372352223288412354124261236412392123581237212374123561241412377回観測対象、消去完了」




