第18話 《前進の大人》
画面の光が、薄暗い部屋の中でかすかに明滅している。
パソコンのファンが低く回り続け、開きっぱなしの本や、飲みかけの缶が机に散らばっている。
万里は腕を組み、椅子にもたれながら、画面に流れる映像をじっと見つめている。
聞き慣れたOPが流れ始める
隣では、友人が机に寄りかかり、なんとなく画面に目を向ける。
「何見てるんだ?」
万里はわずかに顔を向けた。
友人の顔は、まるで淡い霧を隔てたように、はっきりとは判別できない。
万里は何気なく答える。
「前進の大人」
友人は軽く頷いた。
「ああ、最近やたら話題になってるやつか」
「俺も見たけど、確かに面白かったな」
万里は小さく笑い、再び視線を画面へと戻した。
「そうだな」
「面白い作品なんていくらでもあるのに、どういうわけか、これだけは何度見ても毎回新鮮なんだよな」
友人はわずかに考え込む。
「うーん……たぶん、残酷だからじゃないか?」
何かを思い出すように、視線を宙へと向けた。
「なんて言ってたっけな……」
「人は、残酷なのが見たいんだよー」
万里は思わず吹き出した。
「まさか」
友人は腕を組み、わずかに首を傾げる。
「じゃあ、お前はどう思う?」
万里の表情がゆっくりと引き締まっていく。視線はなおも、画面の明滅する光の中に留まっていた。
「うーん……人間、か」
友人が繰り返す。
「人間?」
万里は静かに口を開いた。
「ロボットものでも、ミステリーでも、熱血ものでも」
「そういう表面を剥がしていけば――」
「最後に残るのは、たった一つだ」
「人間性」
友人は何かに思い当たったように目を細める。
「結局どんな作品も、人間を描いてるってことになるよな」
「それじゃ、全部似たようなものにならないか?」
「見続けてたら、さすがに飽きるだろ」
万里は小さく笑った。
「くく……そこに出るんだよ。作者自身の積み重ねの差が」
「同じ人間でも、10歳のときに書いたものと、40歳で書いたものじゃ、まるで別物になる」
「結局さ、その人が何見て生きてきたかって、出るんだよな。」
友人は静かに問いかけた。
「もし――あらゆることを経験し尽くした人がいるとしたら?」
「それでも、まだ新しいものを書けるのかな」
万里はわずかに言葉を失った。
そして、もう一度友人の方へ視線を向ける。
その顔はやはりぼやけたままで、どれほど目を凝らしても、輪郭すらはっきりと掴めない。
しばしの沈黙。
やがて万里は、低く呟く。
「むしろ……書こうなんて思わなくなるんじゃないか」
「そういう人ってさ――」
「生きてるだけで、もう疲れてるだろ」
友人は小さく笑った。
「はは……それもそうだな」
友人は何気なく話題を変えた。
「じゃあ万里、お前の好きな作家って?」
万里はほとんど考える間もなく答えた。
「藤本」
友人はわずかに眉を上げる。
「ずいぶん即答だな……」
万里は淡く笑みを浮かべた。
「本当に好きだからな」
友人はさらに問いかける。
「どうして?」
「展開が読めないからか?」
万里は静かに首を横に振った。
「違う」
「ああいうの、まともな感性じゃ描けないだろ」
友人は一瞬だけ黙り込み、やがて苦笑した。
「それ、褒めてるのか貶してるのか分からないな」
「普通は“天才”って言うところじゃないのか?」
万里は小さく繰り返す。
「天才、か」
ふっと、かすかに笑った。
「俺が知る限り、いちばん失礼な言葉だな」
友人はわずかに目を見開く。
「どうして?」
万里の視線は、なおも画面の光に向けられていた。
「天才って言葉、便利すぎるんだよ」
「なんでもそれで片付けちまう」
「誰かを天才だって持ち上げるとき――」
「たいていは、その作品に注ぎ込まれた血と涙のほうを、つい見落としてるんだ」
友人は何かを考えるように呟いた。
「なるほどな……じゃあ、もし誰かが常人よりずっと多くの苦しみを経験していたとしたら?」
「そういう経験って……」
「作品を、より“本物”に近づけるのかな」
万里はかすかに笑った。
「いや」
友人が聞き返す。
「違うのか?」
万里は静かに続けた。
「本当に現実に近すぎるものってさ、まともな形じゃ表現できないんだよ」
「だって、大半の人間は――」
「誰かがどれほど苦しんだかなんて、そこまで知ろうとしない」
友人はしばらく黙り込んだ。何か言いかけて、言葉を飲み込む。
やがて、小さく息を吐いた。
「……いや、どうだろうな。まあいい」
「そろそろこのシーンだろ? ここ、特にすごいって聞いた」
万里も再び視線をモニターへ戻す。
揺れる光が、その瞳の奥で明滅していた。
「……ああ」
「ここヤバいんだよ」
部屋は再び静まり返る。
かすかにイヤホンから漏れる音楽と、進み続ける映像の光だけが、空間を満たしていた。
ふいに友人が思い出したように口を開く。
「そういえばさ」
「最近、あんまり眠れてないんじゃないか?」
万里は一瞬だけ言葉に詰まった。
「なんでそう思う?」
友人は軽く笑う。
「なんとなく、疲れて見える」
「ずっと休んでないみたいな顔してるぞ」
万里は答えなかった。
ただ、画面に映る光景を見つめ続ける。
しばらくして。
静かに呟いた。
「……かもしれないな」
――その瞬間。
視界が、ぶつりと切り替わった。
次に映ったのは――
一人の女だった。
彼女は、万里の身体を強く抱きしめ、
堪えきれないように肩を震わせている。
「万里!! 死んじゃダメだよ!! お願いだから……!!」
嗚咽混じりの声が、何度も何度も名前を呼ぶ。
涙が、彼の頬へとぽたり、ぽたりと落ちていった。
――その光景に。
万里は、ただ呆然と目を瞬かせる。
「……は?」
「え、ちょっと」
「誰だお前」




