第81話:普通の理――世界が沈黙した日
【AM 10:00:沈黙する聖域】
はざま村の朝は、いつも通り穏やかに始まった。
……はずだった。
縁側で伸びをしたソラは、庭の隅で元気に(?)茂っている雑草に目を向けた。
「うーん、今日は雑草を少し整えましょうか。……ま、いっか、少しだけですよ」
ソラはいつものように、畑へと歩いていく。そして、軽くしゃがみ込み、雑草に優しく手をかざした。
本来なら、ここでソラの『万象創造』が無意識に発動し、雑草は聖なる粒子となって土壌の肥料へと書き換えられ、周囲の因果律ごと完璧な庭へと再構築されるはずだった。
だが。
「……あれ?」
雑草は、何も変わらずそこにあった。
風に揺れているだけの、ただの、名もなき草。
「……ん? ソラさん、今……やったよな?」
縁側で『飲むと胃袋がオリハルコン製になる胃薬(10円)』を握りしめていたアレンが、眉をひそめて立ち上がった。
「はい。いつも通り、少しだけ整えようと思ったんですけど……」
ソラはもう一度、今度は少しだけ意識を込めて手をかざす。
「えいっ」
——静寂。
空気がピリリとも震えない。奇跡の気配が、一滴も感じられない。
「……あれぇ? おかしいですね」
【AM 11:30:機能不全の神々】
「おい、ちょっと待て! 何かおかしいぞ!」
アレンが叫ぶ。
「ピピ! お前、あれやってみろ。いつもの浄化ミストだ!」
「ピピピッ!(了解です!)」
池から飛び出したピピさんが、空中でくるりと回転し、本来なら一滴で海を浄化するはずのミストを放つ。
だが、地面に落ちたのは、ただの少し冷たい水だった。
「……普通の水じゃねぇか!!」
『……報告。……異常、検知。……マスターノ、神聖定数、消失』
空間からハクさんの声が響く。
『……最適化、実行……。……エラー。……権限、拒否。……ハクサン、タダノ「白い建物」ニ、格下げ中デス』
「ハクが弾かれた!? 天界も魔界も超越したあいつが!?」
ユウナが慌てて立ち上がり、指先に魔力を集める。
「『ストロベリー・ピュリフィケーション』!」
——ぽちゃん。
ただの水滴が、虚しく土を湿らせただけだった。
「……女神の権能が、消えてる。……何よこれ、ただの水鉄砲以下じゃない!」
沈黙の中、黒猫姿のクロさんがゆっくりと金色の目を開いた。
「……ニャア。(……この空間、あの男の理から切り離されておるな)」
「どういう意味だ、クロ!」
「……ニャア。(今だけ、この世界は別の理……つまり、ソラが来る前の『ただの物理法則』で動いておるのだ。奇跡の在庫が切れたのか、それとも世界が休憩を欲したのかは知らぬがな……)」
アレンが思わず口にする。
「……これ、戻らなかったらどうする?」
誰も答えなかった。
【PM 1:30:ソラの「よいしょ」】
全員が絶望と混乱に陥る中、ソラだけは「えっと」と小さく手を上げた。
「つまり……今日は、手で抜けばいいってことですね?」
「は?」
アレンが呆然とする中、ソラは迷わず地面に膝をついた。
そして、軍手もせず、素手で雑草の根元をしっかりと掴む。
「……よいしょっと!」
ぐいっ、と力を込める。
ぷちっ、という、土が剥がれる確かな感触。
「……おお。抜けた」
ソラは、手に残った泥と、草の根の感触を確かめるように見つめた。
「……ソラさん、あんた……」
「ちょっと力がいりますね。でも、なんだか新鮮です。……よいしょ、よいしょ……」
ソラは黙々と、自分の手で草を抜き始めた。
一分に一本。いや、根が深いものは数分かかる。
普段なら瞬き一つで終わる作業。しかし、ソラの額には、うっすらと汗が浮かび、指先は真っ黒に汚れていく。
「……はぁ。……疲れますね、これ」
ソラが腰を叩きながら、にこっと笑った。
「当たり前だ!! それが労働ってやつなんだよ!!」
アレンが叫ぶ。しかし、その声には不思議と、いつものような悲壮感はなかった。
ポチが近づいてくる。「ガウ?」と首を傾げるその姿には、銀河を圧壊させるようなオーラはない。ただの、毛並みの良い、少し首が多いだけの大きな犬だ。
「……なんだか、安心するな」
アレンがぼそっと呟いた。
【PM 5:00:不変の魂】
夕方になり、ソラが自分の手で整えられたのは、畑のほんの一角だけだった。
泥だらけの服、少し荒い呼吸。だが、ソラの瞳は、これまで以上に穏やかに輝いていた。
「……ねぇ、アレン」
ユウナが、雑草を抜くソラの背中を見つめながら呟いた。
「……ソラくん、何も変わってないわね」
アレンはその言葉に、目を見開いた。
世界からチートが消え、万能の力が失われ、神のような存在からただの人間に戻ったはずのソラ。
だが、その笑顔も、その「ま、いっか」という口癖も、何一つ変わっていない。
彼は、力が有ろうが無かろうが、最初から『ソラ』という完成された存在だったのだ。
「よし、今日はこれで終わりですかね」
最後の一本を、ソラが引き抜いた瞬間。
——ふわり、と風が吹いた。
畑が一斉に光り輝いた。
ソラが一日かけて抜いた場所だけではない。畑全体が、村全体が、一瞬にしてソラの認識した理想状態へと再構築される。
ピピさんのミストが虹を放ち、ハクさんのシステムが再起動し、ユウナの指先からイチゴの香りが爆発した。
「……戻ったのか?」
アレンが空を見上げる。
ソラは少し驚いた顔をしてから、土のついた手を軽く払い、くすっと笑った。
「……あはは。やっぱり、こっちの方が早いですね」
「結局それかよ!! 俺の感動を返せ!!」
クロさんが目を細め、喉を鳴らす。
「……ニャア。(……依存しておらぬから、壊れぬ。……あの男は、最初から自分という理を持ってここに来たのだからな)」
『……結論。……マスター……性能ニ、依存セズ。……世界ノ方ガ、彼ニ、追従シテオリマス』
夕焼けが村を真っ赤に染める。
ソラは空を見上げ、満足げに呟いた。
「でも、さっきのも楽しかったですね。……ま、いっか!」
——だからこの世界は、今日も壊れない。
その一言で、世界は再び、圧倒的な平和(と理不尽な神域)へと戻っていった。
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ソラくんの「ま、いっか」は、まだまだ続きます。




