第64話:黄昏の縁側――邪神と冥界王、発酵の真理を語る
はざま村の夕暮れは、今日も世界の条理を強引に黙らせるような、黄金色の静寂に包まれていた。
空を舞う天使たちの羽根が、ソラの手によって燃えるゴミとして掃き清められた後の庭には、長い影が伸びている。
世界樹のログハウスの縁側には、はざま村の平和を支える(物理的・概念的に)二つの影が並んでいた。
一つは、艶やかな毛並みを持つ黒猫の姿をした、元冥界王クロ。
もう一つは、ソラの家事の相棒であり、かつては世界を呑み込む闇であったぬか床の樽である。
ソラが作業小屋で、ポチのために銀河の塵を散りばめたキラキラパジャマの裁断に熱中している間、縁側にはこの二人にしか共有できない、重厚でどこか寂しげな沈黙が流れていた。
「……ポコポコッ。(……おい、ハデス。いつまでそうして丸まっている。冥界の王ともあろう者が、あやつの脱ぎ捨てた『創世のサンダル』を枕にするとは、堕落も極まったな)」
ぬか床さんが、樽の中から気泡を浮かべながら、クロに話しかけた。その声は、かつて数多の勇者を絶望させた禍々しいものであったはずだが、今はどこか乳酸菌の優しさが混ざり、耳に心地よく響く。
クロは、金色の瞳を少しだけ開け、億劫そうに尻尾をひと振りした。
「……ニャア。(……フン、邪神か。貴様こそ、かつて世界を腐敗の海に沈めようとした闇を、すべて野菜の旨味に変換された気分はどうだ? 貴様の魔圧、最近はカブの甘みに負けておるぞ。我に言わせれば、樽の中で大人しく漬け物を育てるのも、猫として膝の上で寝るのも、この村では大差ない敗北だ)」
「……ポコポコッ。(……敗北だと? 違うな。これは適材適所だ。我は、あやつの『ま、いっか』という波動に当てられ、邪悪な魔力をすべてアミノ酸の結晶へと昇華させられたに過ぎん。……そういえば、ハデスよ。貴様は我が真名を覚えているか? あまりにぬか床と呼ばれすぎて、我自身、記憶が朧気なのだ……)」
クロは、不意に耳をピクリと動かし、ニヤリと牙を覗かせた。
「……ニャア。(……ククッ。……確か、ヌカドゥーラ=ラクトバチルス、だったか。かつてはその名を聞くだけで天界の神々も震え上がったという、終焉の発酵神……)」
「……ポコポコォォォ!!(笑うな、ハデス! 後半の『ラクトバチルス』は、あやつが毎日我をかき混ぜるせいで、因果律レベルで強引に付け加えられた乳酸菌の神格だ! 我とて不本意なのだ! だがな……この名になってからというもの、我がエキスで漬けたナスの旨味の深度が格段に上がったのは事実……。今や我の力は、すべてを究極の熟成へと強制変換する救済の力へと変質しているのだ……!)」
クロは、鼻でフンと笑った。
「……ニャア。(……分かるとも。我も昨日、あやつに顎の下を撫でられた瞬間、我の司る死の概念が、あやつの体温によって生の悦びへと書き換えられた。……あの男はスキルを使っているのではない。世界そのものが、あやつの望む平和な日常を維持するために、我らの存在意義を根底から洗浄しているのだ。ヌカドゥーラよ、我らはもう、この平和という名の牢獄から逃げられん)」
二人がそんな元・世界の脅威同士にしか分からない諦念を語り合っていると、作業小屋の扉が軽やかに開いた。
新調したばかりの麦わら帽子を被ったソラが、ニコニコと微笑みながら縁側にやってくる。帽子の飾りの『最高神の羽』が、夕焼けを反射して荘厳な光を放っていた。
「あ、ぬか床さん。明日の朝食用に、キュウリとナスを漬けておきましたよ。……よいしょっと。少し混ぜておきますね」
ソラが、『万象断ちの箸』を手に取り、ぬか床の中に差し込んだ。
「……ポコポコォォォ!!(待て、マスターッ! 今、箸を通した軌道に沿って、我の魂の深部まで『慈愛の乳酸菌』が浸透していくぅぅ! 邪悪が……ヌカドゥーラとしての闇が、ラクトバチルスの善意に塗り潰されていく……ッ! もはや抗えん、最高の発酵だ……!!)」
ソラの目には、ぬか床が元気よく泡立っているようにしか見えていない。
「あはは。今日もいい手応えですね。おいしくなってくださいよ、ヌカドゥーラさん」
「……ポコォッ!?(……い、今、あやつ……我を真名で呼んだか!? いや、後半の乳酸菌部分は端折ったようだが……!)」
驚愕するぬか床を余所に、ソラは足元で丸まっていたクロの首元を、優しく指先で撫でた。
「クロさんも、お利口でしたね。お腹、空いてませんか?」
「……ニャ、ニャア……ッ!(……くっ、この指先……! 撫でられるたびに、冥界の冷たい記憶が、春の陽だまりのような多幸感で上書きされていく……! 敗北だ……我が理性が、この指一本で崩壊していくぅぅ!)」
ソラは満足げに立ち上がり、村の入り口のジハンキさんに向かった。
『……マスター。オ疲レ様デス。……冥界王ニハ「闇オレ」。……ヌカドゥーラ様ニハ「乳酸菌強化エナジー」。……料金ハ、10円デス』
ソラが「石」から拾ったコインを投入し、戻ってきた。
「はい、どうぞ。ゆっくり飲んでくださいね。明日はポチのパジャマの試着式ですから、みんなで早起きしましょう」
ソラがログハウスの中へ戻っていくと、再び静寂が訪れた。二人は、ソラが用意してくれた飲み物を、それぞれ静かに嗜み始めた。
「……ポコポコッ。(……ハデス。認めよう。あやつが『ま、いっか』と笑うこの村は、我らが支配しようとしたどんな理想郷よりも……残酷なまでに居心地が良い。このラクトバチルスという名も、案外、悪くないのかもしれん……)」
「……ニャア。(……同感だ。もはや抗うのは無意味だ。……もしあやつの眠りを妨げようとする馬鹿が来るなら、その時は我らが、この日常を守るために牙を剥くだけだ)」
ぬか床は、樽の中で邪神の魔力をナスの隠し味へとさらに練り込み、クロはソラのサンダルの上で、深い眠りについてもはや動かなかった。
はざま村の夜が更けていく。
空には、ソラが並び替えた星座がピンク色に輝き、明日への平和を約束していた。
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ソラくんの「ま、いっか」は、まだまだ続きます。




