第52話:天界温泉保安官の受難 〜神の掟と10円の衝撃〜
はざま村の朝は、相変わらず世界の理不尽を詰め込んだような輝きに満ちていた。
村の端に位置する、ソラお手製の『多次元融合・極楽露天風呂』。
そこは、浸かるだけで魂のカルマが浄化され、失われた神力すらも10円の入浴料でフルチャージされるという、天界の倫理観を根底から覆す魔窟である。
その湯船に、二人の美女が肩まで浸かっていた。
一人は、この村の監視役でありながら、すっかり毒気を抜かれた女神ユウナ。
そしてもう一人は、天界から違法な神域化を調査しに来たはずの、温泉保安官・大天使エリエルである。
彼女の背中には、大天使の証である6枚の輝く翼が、濡れないように器用に折り畳まれていた。
その翼は本来、一羽ばたきで暴風を鎮め、邪悪を払う聖なる力を持つものだが……今は、ソラが「お風呂上がりに」と置いていった『万象吸収・超吸水タオル』の柔らかさに、すっかり骨抜きにされていた。
「……ねえ、ユウナ。これ、やっぱりおかしいわよ」
エリエルが、タオルを握りしめ、震える声で呟いた。
「見て。このお湯……成分が『最高神の涙』と『原初のマナ』の1対1ブレンドじゃない。これ、天界の法律なら、一滴で小国の国家予算が飛ぶレベルの劇物よ?」
ユウナは、湯面に浮いた黄色いアヒル(ソラが作った『万象観測・癒やしダック』)を指で突きながら、力なく笑った。
「……エリエル、それ、まだ序の口よ。見てなさい。あのアヒル、今、私の肩の凝りを因果律ごと切除して、無かったことにしてるから」
「……ま、いっか……って言いたいけど、言えないわよ! 私、保安官なのよ!?」
エリエルがはざま村にやってきたあの時、彼女はソラが作った『全自動・背中流しゴーレム』に捕まり、強制的に天界最高級の垢すりを体験させられ、危うくアイデンティティを喪失しかけた。
「昨日、ソラくんに言われたのよ。『エリエルさんはいつも頑張ってるから、保安官のバッジ、磨いておきましたよ』って」
エリエルが、岩の上に置いてある黄金のバッジを手に取る。
本来、それは大天使の権威を示す聖遺物なのだが、今のそれは、ソラが台所のクレンザーで磨いたせいで、直視できないほどの神光を放っていた。
「……これ、今ならこのバッジ一つで、地獄の門を一万年くらい封印できるわ。ただの掃除で、聖遺物のランクが三段階くらい上がっちゃってるのよ」
エリエルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「私たちが何万年もかけて修行して得る神徳が、あの男のついでに負けるなんて。天界のOSが、もうエラーを吐きすぎて、さっきから『ま、いっか』って通知が止まらないの……!」
「……わかるわ。私も最近、自分の神格が村の天気予報係程度にしか機能してないことに気づいて、考えるのをやめたの」
ユウナが遠い目をしていると、脱衣所の方から聞き慣れた重厚な音が響いた。
『……起動。ジハンキ、マスターノ期待ニ応エマス。入浴後ノ水分補給、推奨シマス』
ジハンキさんは浴室の壁を透過して(ソラが「不便ですから」と分子構造を透過型に改造したため)、その無機質なボディを湯気の中に現した。
「……ジハンキさん。エリエルに、何か『落ち着くやつ』を。10円で」
ユウナが、湯船の横にある石(10円玉自動生成岩)からコインを拾って投入する。
『……了解。ジハンキ、特別メニュー、起動。……【大天使専用・魂のデフラグ・オレ】提供シマス』
取り出し口から出てきたのは、七色に発光し、小さな羽の形をした氷が浮いているビンだった。
「……何これ。これ、飲んだら私、大天使の枠を超えて何か別の生き物になっちゃわない?」
怯えるエリエルに、ユウナは無慈悲に勧める。
「いいから飲みなさいよ。美味しいわよ。……あ、でも気をつけて。これ、一口飲むと、天界の悩み事が全部どうでもいいゴミに見えるようになるから」
エリエルが恐る恐る口に含んだ瞬間。
「……っ!? ……ふぁ……」
彼女の誇り高い6枚の翼が、歓喜に打ち震え、一枚一枚がダイヤモンドのように硬質で美しい光を放ち始めた。
「……美味しい……。……ま、いっか。天界の温泉法なんて、そもそも誰が決めたのかしら。……私、もう保安官やめて、この村のサウナ番に転職しようかしら……」
そこへ、ドォォォォォン!! という地響きと共に、三首の番犬ポチが飛び込んできた。
「ガウッ!!(ご主人から預かった新しいシャンプー、持ってきたぞ!)」
「ウゥゥ(俺の鼻にご主人の神気が……! 洗いっこするんだもん!)」
ポチは巨大な体を湯船に突っ込んできた。
「きゃあああああ!! ポチ! 来るんじゃないわよ!!」
ユウナが悲鳴を上げる。しかし、ポチの首に巻かれた『名札』が、ユウナの怒りを「喜びの波動」に変換してしまう。
「(……ガウッ! ご主人のお友達、みんな仲良し! 俺、嬉しい!)」
ポチが尻尾を振るたびに、原初のマナが津波となってエリエルを襲う。
「……ふふ、あはははは! 凄い、ポチさんの尻尾、一振りで銀河が一個生まれるくらいのエネルギーが出てるわ! もうどうにでもなれー!」
エリエルは、美しく輝く6枚の翼をバタバタとさせて湯の上を浮きながら、完全にはざま村の狂気に馴染み始めていた。
「……あ、皆さん。入ってたんですか。失礼しました」
湯気の向こうから、ソラがひょっこりと顔を出した。
彼は新しい麦わら帽子を被り、手には『温泉卵(一個食べると寿命が一万年伸びる)』が詰まったカゴを持っている。
「ソラくん! ちょっと、ポチを止めてよ! エリエルがもう、保安官じゃなくて『ただの酔っ払い天使』みたいになってるじゃない!」
ユウナが叫ぶ。ソラは「ま、いっか、楽しそうですし」と微笑み、帽子を脱いで扇いだ。
その時、帽子の飾りに付いていた最高神の羽から、眩いばかりの聖光が放たれた。
「……え?」
エリエルが、その羽を見て硬直した。
「……ソラさん。その……帽子に付いている『羽』……それ、まさか、私たちのトップである『最高神様』の、一番大事な部位の羽じゃ……」
「ああ、これですか? 昨日の運動会で、空から降ってきたんですよ。ちょうど帽子の飾りにいいかなと思って、瞬間接着剤でつけちゃいました」
「……瞬間接着剤で……最高神の羽を……」
エリエルは、ついに考えるのをやめた。
最高神がフォークダンスを踊り、羽をむしり取られ、それが人間の帽子の飾りにされている。
この事実を報告した瞬間、天界は崩壊するだろう。
「……ユウナ。……もう一回、10円入れてくれる?」
「……ええ。私も、もう一本飲むわ」
二人の女神と大天使は、再び湯船に深く沈み、ソラが持ってきた温泉卵を剥き始めた。
夕暮れ時。
温泉から上がったエリエルは、ピカピカに磨かれた保安官バッジを胸に、天界へと帰るゲートの前に立っていた。
その手には、お土産としてソラから持たされた10円で買える、『概念を固定する洗濯バサミ』の袋が握られている。
「……ユウナ。私、報告書にはこう書くわ」
エリエルは、誇り高き6枚の翼を名残惜しそうに揺らしながら、遠い目をした。
「『はざま村の温泉は、法的に異常なし。なぜなら、そこには法の概念が存在しないからである。ま、いっか』……って」
「……賢明な判断ね。エリエル、また胃が痛くなったら、いつでも来なさい。10円で、胃そのものを鋼鉄製に作り変えてもらえるから」
エリエルがゲートをくぐり、空に消えていく。
それを見送ったユウナは、ふと、夜空を見上げた。
そこには、ソラが昨夜なんとなく並び替えた、巨大なタコの形をした星座が、ピンク色に輝いていた。
「……ま、いっか。タコ、美味しいし」
ユウナは、ソラ特製のパジャマの袖をまくり、ログハウスへと戻っていった。
はざま村の夜は、今日も平和(という名の狂気)に包まれて更けていく。
読んでいただきありがとうございます!
もし面白かったら【★★★★★】やブックマークで応援していただけると嬉しいです!
ソラくんの「ま、いっか」は、まだまだ続きます。




