第39話:冥界王、黒猫になって「ま、いっか」を体験する
遥か深淵の底、冥界の玉座。
死者の王ハデスは、目の前に置かれた『一切れのナス』を震える手でつまんでいた。
それは昨日、はざま村のソラから『超時空通信ポスト』を通じて届けられたお裾分けである。
「……信じられん。一口食べただけで、数万年蓄積した我が死の瘴気が、春のそよ風のように浄化されていく。……このままでは、我は『死の王』ではなく、ただの『健康なおじさん』になってしまう……!」
ハデスは焦っていた。しかし、それ以上にもっとあの村のものを食べてみたいという抗いがたい欲望に突き動かされていた。
ソラの幸福の波動が込められたナスは、神の理性を破壊するほどに美味すぎたのだ。
「……こうなれば、正体を隠して直接赴くしかあるまい。……幸い、あの村には元魔王や元古龍が小動物の姿で潜伏していると聞く。ならば我も……」
漆黒の魔力が弾け、玉座には一匹の、艶やかな毛並みを持つ『黒猫』が残された。
冥界王は、自らの魂を極限まで圧縮し、ソラに拾われるための最高に可愛い姿へと変身したのである。
はざま村。ソラは今日も、庭の『超時空通信ポスト』の点検をしていた。
「昨日はハデスさんにナスを送ったけど、無事に届いたかなぁ」
その時、ポストがガコンッ!!と激しい音を立てた。
投函口から、もぞもぞと動く黒い塊が吐き出される。
「おや? お手紙じゃなくて、猫……? ……えーっと、首輪にメモがついてますね。『冥界の特産品(黒猫)です。ま、いっか!』……って。ハデスさん、随分と粋なプレゼントをくれるんだなぁ」
「(……いや、おかしいだろソラさん! 特産品が猫ってなんだよ! そもそもポストから生物が出てくる時点で、この箱の因果律はどうなってんだ!!)」
アレンが叫ぶ中、ソラは黒猫をひょいと抱き上げた。
「可愛いですね。ハデスさん、僕が一人暮らしで寂しいと思ったのかな。……あ、でも今はみんながいますけど。ま、いっか!」
黒猫は、ソラの腕の中に抱かれた瞬間、戦慄した。
「(……な、なんだこの男は!? 抱かれているだけで、我が魂の根源にある虚無が、ひだまりのような暖かさに書き換えられていく……! これが、ハガキ一枚で冥界を震撼させた男の魔圧(※ソラの体温)か……!)」
「よし、ちょうどお昼ですし、みんなに紹介しましょう。……あ、ぬか床さん、お友達が来ましたよ!」
縁側で日光浴(発酵)をしていたぬか床の前に、黒猫が置かれた。
『ポコポコッ!?(……ぬ、ぬおおおっ!? この気配、まさかハデスの野郎か!? 貴様、ついに耐えきれなくなって堕落しに来たか!)』
「……ニャァ。(……黙れ、邪神。貴様こそ、すっかりいい匂いのする漬け物樽に成り果ておって。……我はただ、あのナスの正体を確かめに来ただけだ)」
黒猫とぬか床が火花を散らす中、ソラが台所から戻ってきた。
「今日はハデスさんから頂いたナスを、さらに美味しく食べるために、新しいお箸を使いましょうか」
ソラが取り出したのは、神域の作業小屋で一秒(永遠)をかけて削り出した一膳の箸。
神器『万象断ち』である。
「アレンさん、これ、凄く切りやすいんですよ。力がいらなくて。……あ、チッチさんもどうぞ」
ソラが箸をナスの浅漬けに向けた瞬間、アレンの『全知の解析眼(ソラのお下がり)』が警報を鳴らした。
「(……ヒィィッ! ソラさん、待て! その箸、今、空間そのものを食材と一緒に原子レベルでスライスしなかったか!? 箸が動くたびに、宇宙の強固な概念が豆腐みたいに切れてるぞ!!)」
「えいっ」
ソラが箸を動かすと、ナスは一切の抵抗を受けず、細胞一つ一つを壊すことなく完璧に切り分けられた。
その瞬間、ナスの内部に閉じ込められていた冥界の魔圧と、ぬか床の発酵神気が融合し、虹色の光となって噴き出した。
「さ、どうぞ。黒猫さんも食べますか?」
ハデスは、差し出された一切れのナスを口にした。
「(……ッ!? ……馬鹿な。我が数千年の統治で得たどんな知識をもってしても、この旨味は説明できん。……箸が食材を昇華させておる。……ああ、我が死の王としての矜持が、乳酸菌と神気によって、溶けて……消えていく……)」
黒猫は、あまりの美味さに「ニャアァ……(……ま、いっか……)」と、力なく鳴いた。
そこへ、ジハンキさんが音を立てた。
『……新規生命体ノ入村ヲ検知。……個体識別:冥界王ハデス(偽装形態)。……マスターノ「ま、いっか」波動ニヨリ、敵対心ガ0.0001%以下ニ低下シタコトヲ確認。……本日ヨリ、村の癒やし係(見習い)トシテ登録シマス』
「おぉ、ジハンキさんも認めてくれましたか。……名前はどうしましょう。黒いから……『クロさん』でいいかな? ま、いっか!」
「(……ハデス様が『クロさん』だと!? 冥界の連中が聞いたら卒倒するぞ……!)」
アレンが頭を抱える横で、ポチが三つの首でクロさんを囲んだ。
「ガウッ!(新入りか! 挨拶代わりにご主人のパジャマの浄化波動を浴びせてやるぜ!)」
「ポポポ!(……無用だ三首。この黒猫、既にソラの飯の虜だ。我らと同じ道を歩む運命よ)」
アカさんが、尻尾でクロさんの頭をぺしぺしと叩く。
数時間後、縁側ではソラが麦わら帽子を目深に被って昼寝をしていた。
そのお腹の上には、すっかり毒気の抜けたクロさんが丸くなっている。
「(……くっ、この男のパジャマ……。着ているだけで不老不死が確定するなど、死を司る我への嫌がらせかと思っていたが。……これほどまでに温かく、心地よいものだったとは……)」
クロさんは、自分の正体がバレているのかいないのか、もうどうでもよくなっていた。
この村には、地位も名誉も、死の恐怖すらも、「ま、いっか」の一言で溶かしてしまう魔法がある。
「アレンさん……見てください。クロさん、もう懐いちゃいました。……やっぱり、動物はいいですねぇ。平和が一番です。ま、なんとかなりますよ」
「(……平和のレベルが違うんだよなぁ。冥界の王を腹の上に乗せて寝る村人なんて、歴史上あんただけだよ……)」
アレンは諦めて、ジハンキさんから10円でコーヒー牛乳を買い、ぬか床の隣に座った。
「……おい、ぬか床。あとでそのナス、一切れ分けてくれ。俺、もうツッコミすぎて疲れたわ」
『……ポコポコ(……ふん、一回100円だ。……だが、今日だけは10円でいいぞ。我も、あのお気楽な黒猫を見ていたら、少しだけ気分が良い)』
夕暮れのはざま村。
また一人(一柱)、最強の住人がスローライフという名の不可逆的な浄化に飲み込まれていくのであった。
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ソラくんの「ま、いっか」は、まだまだ続きます。




