蓮花の少女 02
蓮池から舞い降りた蝶が、鼻先をひらりとかすめて空に飛び去る姿を追い。視線を向けた先では、銀灰色の髪を揺らす少女が振り返っておりました。
「おそいよ、杏華。はやく行こう」
普段は落ち着き払った様子で、淡々と青年の背を追っているのに、その日の時雨ちゃんはやたらと上機嫌。『女将に伝話をかけに行こう』なんて言われて、肝を冷やし切った私とは対照的な振る舞いでございました。
「お待たせいたしました、時雨ちゃ……」
「ね、杏華。かき氷食べよ。買ってくるね」
「えっ、あ、はい!」
時雨ちゃんが買ってきたのは、露店の果実氷。最新の機巧を用いて、ふんわり削った果汁の氷。
そこに、たっぷりの果物や練乳を飾り付けた、いかにも観光地らしい華やかな菓子でございました。
「いちごと、ゆず味があった。どっちがいい? 一応、いちごの方がおすすめ」
「エエト、ではいちごをいただきます」
「ん!ひと口だけ、味見させて」
どうぞ、と皿を差し出せば、慣れた様子でパクリとひと口。小さく頷き、自身のかき氷を食べ始めた時雨ちゃんは、上機嫌。今にも鼻歌を歌いそうなご様子でした。
「……」
「どうしたの、杏華」
「いえ。時雨ちゃん、今日は楽しそうだなって」
口元に付いた果汁に気付き、手拭いを少女の頬へ。
頬を拭かれた少女は目を瞬かせ、ふにゃりと笑みを浮かべました。
「忙しくて、杏華と、あんまり話せてなかった。それに、この街、美味しいもの、たくさんあるから。出かけないと、もったいない」
「時雨ちゃんも月牙様も、食べるのが好きでございますものね」
時雨ちゃんは、足をぱたつかせ。やがて、大きなため息をつきました。
「……結界ってさ。仕方ない時はご飯食べるけど、途中で雪隠に行きたくなったら、困ると思わない?」
「言われてみれば、確かに」
「だから、基本は食べないんだよ。結界のために吸い上げた竜沁で、身体を維持する。完結させる。慣れてないと胃が弱るから、最初のごはんで、おかゆが出されるんだ。味気なくて、どろどろのやつ。絶対、もっとおいしくできるのに」
「えっ」
言われてみれば、確かに。廃鉱町において、結界を一晩維持していた月牙様は、夜が明ける直前まで不眠不休でございました。
「ずっとご飯を我慢して、ようやく食べるおかゆが超まずい。これは絶許。陰湿ないじめだよね」
かき氷の皿を脇に置き。少女は、大きく肩を竦めました。
「なので、おかゆは極めた。木の実とか干果物で甘くしても良いけど、やっぱり、出汁はだいじだよね。削り節とか、昆布とか。僕はいい思い出がないから、周りには、おいしく食べて欲しい……って。月坊、言ってた」
「言われてみれば。ワタシがお二人を追いかけて、野営地に着いてすぐに月牙様が下さったおかゆ……すごく、美味しかったでございますね」
砕いた木の実で触感を増したおかゆ、焼き魚、少しの果物。まだ底冷えする春の山で食べたあの食事は、腹の底から温まる逸品でございました。
「落ち込んでる時とか、大事な事を決める前はね。おいしいご飯とか、甘くて元気が出るものを食べるのが、だいじ」
今も、そうでしょう。少女の言葉にハッとして見下ろせば、蓮池色の瞳には、柔らかい笑みが浮かんでおりました。
「がんばろうね。それじゃあ、行こ」
手を引かれ、歩き出す。市場の人混みが流れるように背後に過ぎ去る中、少女の髪は軽やかに弾んでおりました。
市場を超え、点在する蓮池を眺める街道、商店街を通り抜け。辿り着いた通伝局は、蒼い屋根が美しい洋館でございました。
当時の伝話機巧は、伝話個室に一機ずつ備えてあり。二人で一つの伝話を使おうと思えば、押しくら饅頭、すし詰め状態。
体の向きをなんとか変えようと身じろぎしていると、時雨ちゃんが両手を上に伸ばしました。
「最初、わたしがかけようか」
旅館に電話をしたとして、最初に女将が出るとは限らない。いやはや、気まずいのなんの。
「……。お願いしても?」
気遣いに感謝しつつ、ワタシは少女に受話器を渡しました。電話交換手に指定された宛名は『かぜひら亭』。温泉が有名な地域にある、しかしぽつんと離れた温泉宿。山菜料理が有名で、宿の近くには鋼胡桃の木立があって──
(鋼胡桃? ああ、道理で)
風生獣が屋根裏に入り込むワケだ、と。どうでもいい閃きは、月牙様の教えを思い出したから。初対面の月牙様は、皮肉や嫌味なんぞ言いそうにない、大層な優男に見えていたなぁ、などと。
口元だけで笑ったワタシの耳に、チリンと響くは伝話の接続音。思わず身を正しましたが、受話器から漏れ聞こえるのは、くぐもった男の声でございました。
「はい。女将に代わって欲しいのだけど……宿にいない? え、ハスノハの街に向かった?」
その言葉に、ギョッと視線を落とします。時雨ちゃんも、ワタシの顔を見上げつつ、言葉を紡ぎます。
「宿はどこ。いつ、こっちに着くの……そろそろ着く予定? わかった」
受話器が置かれます。カチャンと軽快な音を響かせ、数秒。無言で扉を開け、逃走しようとしたワタシの足を、時雨ちゃんがサッと引っ掛けました。
「わっ、とと!」
寸前で手をつき、ぐるんと身を翻して起立。伝話個室の待ち列にいた人々の視線を浴びつつ、逃走を試みかけたのでございますが。
「杏華、こら。逃げないよ」
ガシィッと手首を掴まれれば、観念するほかございません。しょんもりと口をすぼめながら手を引かれ、壁際に寄った後。
「女将、来ておられるのですか。ハスノハの街に? なぜ?」
「あなたの親権の話。しに来たんだと思う。どうにかならないのかって、速達手紙で相談した……月坊が、していたもの」
口元に手をやりながら、少女は考え込み。真剣な眼差しをワタシに向けました。
「このまま、会いに行こう。女将は、杏華の為にここまで来てる」
「で、でも。それは流石に、月牙様に同行をお願いせねば」
「ばか、杏華」
少女は、ワタシを小突きました。
「女将にとっては、だいじな娘さんをさらった、悪い男なんだよ。会った瞬間に怒られるか、蓮池に投げられるか、ショウガを顔面に投げつけられる決まってる」
「なぜにショウガ」
「えっとね。『ショウガは要らない。だからこちらも箕は用意しない』あなたの身柄について、最初に聞いた時の手紙の返しが、そうだったから」
意味不明のやり取りに、なんの暗号かと頭を悩ませ。やがてそれが、嫁入りした娘にショウガを持たせて里帰りさせ、箕を持たせて嫁入り先に帰らせる。『ショウガ節句』になぞらえた例えと気付きます。
「ワタシ、嫁入りしたワケじゃございませんけども⁈ 」
「女将にとっては、そのくらい真剣に考えた上で、あなたをわたし達に預けてくれたんだよ。あなたの旅装を買う為のお金もね、こっそり女将が振り込んでくれたんだから」
連絡してる事を伏せていたから、言いそびれていたけどね。そう言って、少女はワタシの頭をぽふんと撫でました。
「大丈夫だよ。女将は、真剣にあなたのことを考えてくれてる。話しに行こう」
少女の言葉を受けつつも、視線を地面に落とします。喧騒の中で駆け巡った葛藤は、大河が石を削る時間ほどに長く、複雑に渦を巻き。
逃げ出した自分が恥ずかしい。気まずい。そういった思いに素直に落とし込むまでは、ずいぶんと時間がかかってしまいました。
「時雨ちゃん。女将と話す時、一緒にいて下さいませんか」
訊ねれば。大きな袖に包まれた手が、ワタシの手を上下から包み込みました。
「うん。そばにいるからね」
舌ったらずの喋り方には似合わない。落ち着いた、優しい声。時雨ちゃんが、自分より歳上なのだと聞いていても、やはり不思議に思えてしまう姿でしたが。
(それでも。時雨ちゃんも月牙様も、ワタシを一人の子供として、見守って下さっている)
であれば、ワタシも『親』と向き合わねばならない。そう、決意することができたのです。
「じゃあ、行こうか」
少女と共に、踵を返して出口の方向へ。慣れぬ石造りの床を進み、豪奢な装飾灯を仰ぎながら、ふと。
「……でも、月牙様にお声がけはした方が良いんじゃ?」
「そもそも、手紙を出したのは月牙なんだから。女将と月牙は、玖蓮大社で正式に面会できると思うよ。そこは大丈夫」
改めて確認したワタシに、時雨ちゃんは応えました。
「あと個人として会ったら、開幕で葉ショウガぶつけられそうだし、顔のありとあらゆる穴に、ショウガ詰められて窒息死しそうだから嫌。そう言って嫌がると思うよ。この予想は八割当たってる。そう思う」
そのように。口端を歪めて笑う少女の表情は、青年によく似ておられました。
さて、辿り着くのは旅館通り。表の賑やかな観光路とは異なり、閑静な佇まいの建物が並ぶ中。
「……杏華?」
背後からかけられた声に、ワタシは振り返りました。
◇ショウガ節句
8月1日、八朔の日の別称。「ショウガない嫁」にショウガを持たせて実家に里帰りさせ、実家から返す時は「ミかえしてやります」「はやく子ができて、ミ持ちになりますように」との願いを込めて箕を持たせて帰す。という習慣が一部地方に伝わっている。現代基準で見ると、まぁ、うん。




