蓮花の少女 01
──普段会わない側室の息子とやらが、頼池様を正面パンチでぶっ飛ばしたらしい。
なんてウワサが、市井に流れることはございませんでしたが。
あの日からしばらく、月牙様と時雨ちゃんは頻繁に紫玖家に出入りするようになり、ワタシは拠点に残される時間が長くなりました。
月牙様は、紫玖家での出来事を私に話すことはなく。夕飯時に顔を合わせても、「君に不利にならないように相談しているから、心配せずに待て」と早急に話を終わらせ。夜遅くまで部屋の明かりを灯し、何やら必死に書き物をしておられました。
気遣ったイリス様が、頻繁に気晴らしをさせて下さったものの。自分の身柄が、把握できない場所で転がされている、という不安と焦燥はぬぐえませんでした。
過ぎ去る日々。朝日に輝いては、泥中に沈む蓮の花。夏の気配はさらに深まり、空はむせ返るような蒼に染まっておりました。
自室の窓から外を眺め続けるだけで、日中の時間は過ぎ去り。膝にいた白鼻丸は、退屈そうに足を伸ばし、部屋の外に出て行ってしまいました。
(少し、散歩でもしましょうか)
部屋にこもっていても、仕方がない。揺れる白鼻丸の尾を追って、居間に降りた時でございました。
「おや」
居間の長椅子に。月牙様と時雨ちゃん、そして先に降りて行った白鼻丸が、寄り添い眠っておりました。
姉弟というよりは、まるで犬が寄り添って眠るような。微笑ましい様子に、ふっと口元が緩んだ時でございます。
「……ん」
もぞもぞ、ぐいーっと。
月牙様の腕から這い出た時雨ちゃんが、月牙様の額に、己の額を押し当てました。そして、そのまま数十秒が経過。
「エエト。時雨ちゃん?」
おそるおそる声をかければ、少女はガバッと身を起こしました。左右を忙しなく確認し、己の膝から落とされた白鼻丸が、月牙様の襟巻きに慌てて潜り込む様子を見つめ。やがて、大きなため息をこぼします。
「……。おはよ、杏華」
「おはようございます、時雨ちゃん。月牙様は、よく寝ておられますね」
静かに寝息を立てる青年を一瞥して、少女は肩をすくめました。
「しばらく、起きないと思う」
「承知しております。意外と寝汚いでございますよね、月牙様って」
「まぁ、うん。体質かな」
ワタシの冗談に、少女は曖昧な応えを返しました。
訪れた沈黙に、先に耐えられなくなったのは、ワタシの方。
「あの」
しかし、ワタシの言葉に被せるように、少女は告げました。
「心配せずに、待っていて。確かな事を言えるようになったら、ちゃんと説明する」
よく整った顔に、まっすぐ見つめられ。ワタシは、静かにうなだれました。
「分かり、ました。良い子で待機しておりますね」
「ありがとう」
再びの沈黙。普段なら、ワタシが一方的にしゃべり倒して、時雨ちゃんは静かにそれを聞いてくれるのです。ですから、ワタシが黙っていては、時雨ちゃんとの会話は成立いたしません。
何か、話さねば。その思いだけを先行させ、ワタシは、口を開きました。
「時雨ちゃんって。月牙様と、ずっと一緒におられたんですよね」
「そうだよ」
「月牙様のお師匠様とも仲が良くて、頼池様とも対等に話せて……実は、ワタシなんかが気軽に話すべきじゃない、すごい人なのかも、とか思い始めたのでございますが」
──しまった。これは言うつもりがなかったのに。冷や汗が背筋を伝いましたが、言った言葉は戻りません。
作り笑いが引きつるワタシを、どのような思いを抱いていたのでしょう。少女は、静かにワタシを見つめた後、口を開きました。
「時雨はただ、身体が大きくならなかっただけ。成長、うまくできなかった。でも、それ以外は、皆とそんなに違わない。旅したり、杏華と話すの、すごく楽しんでる」
身を乗り出した少女の肩から、銀灰色の髪が流れ落ちます。
ワタシの頬を大きな袖で包み込み、少女は目を細めました。
「だから、これまで通りでいて。笑っていて。その為なら、わたし達、頑張れるから」
それが、わたし達からのお願い。少女の声は、乾いた砂地に降る雨のように、ワタシの涙腺をじわ、と満たしました。
「ちゃあんと、分かっております。時雨ちゃんや、月牙様が、ワタシ如きのために、尽力して下さっているのは」
「……。でも、やっぱり不安?」
「そりゃあ、当然! 師父の仲間衆は、ワタシの事が大っ嫌いでして。あんな鬼奴子、生かしておくだけ災いの種だ、手離してしまえ〜っなどと、師父に詰め寄る姿を見かけておりました。でも、多分、彼らのうち誰かが、ワタシの親権を持っている。現状は、そのように推測しておりまして」
──溢れる。溢れてしまう。
笑いを形どった口元とは裏腹に、ワタシの目からは、勝手に涙が溢れておりました。ずっと、不安だったのです。怖かったのです。自分の身柄が、まるで家畜のようにやり取りされる状況が。
「女将は……かぜひら亭の女将は。ワタシをそういった状況の中で、本気で守ってくれていたのだと、それもようやく理解できました。旅道具を捨てたりだとか、縁談を無理に押し付けてきたりだとか。ワタシには、到底納得できないやり方ではあったのでございますけれど、それでも」
もっと、ちゃんと話しておくべきだった。
ただ反抗するのではなく。成人になるから逃げる、ではなく。向き合って話す努力を、するべきだった。
「ダメでございますねぇ、ワタシったら。これまでの縁を、全て捨てる覚悟だ!……なんて。啖呵を切って、ここまで来たというのに」
己の肩を抱きながら、かすれた笑い声をあげた時でした。
「じゃあ、話そうか。かぜひら亭の女将と」
少女が、ぴょんとソファを飛び降りました。
「えっ」
「かぜひら亭は、伝話があるでしょ。わたし達も使ったから、覚えてるよ」
「で、でも、ワタシから連絡するなんて」
「大丈夫。かぜひら亭の女将は、わたし達とは話がついてる。それに月牙も、連絡した方が良いって、言ってたから」
視線を向けられた青年でしたが、彼は、これだけ近くで騒いでも起きる様子がございませんでした。
穏やかに上下する肩の動きに変化はなく。彼の首から頬にかけて、ぴったりと寄り添っている白鼻丸は、何か言いたげにワタシを見上げておりました。
「白鼻丸。どうかしましたか」
「……」
手を伸ばし、肩に乗るよう促しても、白鼻丸は動きません。
普段の白鼻丸はワタシの指示を素直に聞きますから、はて、と首を傾げたワタシでしたが。
「イリス。わたしだけど」
部屋の扉を叩く音に、振り返りました。
「……。何かしら」
「通伝局、行ってくるね。月牙は置いていくけど、放っておいて大丈夫だから。それだけ」
部屋から出たイリス様は、居間にまっすぐ移動し。寝息を立てる青年を見ると、眉間を押さえました。
「早く戻りなさいよ」
なぜか渋面のイリス様に、少女はにぱっと破顔してみせると。
「ね、早くいこう!」
ワタシの手を取り、跳ねるように外へと飛び出しました。
♢蓮の花
早朝に咲き、日が高く上ると花を閉じる。蓮の名所を見つけたとて、「遠いから、朝イチで行くのはちょっと大変なんだよなあ……」とか考えているうちに季節は秋に移ろいがちである。




