知るために
翌朝、怜司が目を覚ましたときには、すでに洋一から連絡が入っていた。
枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、まだ完全には開ききっていない目で画面を見る。十二神承のグループに新しいスレッドが作られており、その最初に三人の名前が並んでいた。
『エーテリア再訪
八代怜司
八代彰人
水瀬雅史』
「……仕事やん」
寝起きの声で呟きながら、その下へ続く文章を読む。
前日の会議で決めた方針に従い、ヴァルネシア側との接触を継続する。そのうえで、星堕としの過去記録、発生地点と被害規模、発生後に確認された疾病や土地への影響を収集すること。
さらに、ヴァルネシア国内の人口、種族構成、主要な産業、食料事情、居住可能地域と放棄された土地の状況について、開示可能な範囲で情報を求める。
昨日の会議で出た内容を、そのまま作業単位に切り分けたような指示だった。
怜司は一度読み終えたあと、もう一度上へ戻った。
「俺と彰人は分かるけど……」
三人目の名前を見る。
水瀬雅史。
少し考えて、すぐに納得した。
昨日、自分と彰人が持ち帰ったのは、見たものと聞いたことだった。それだけでも向こうの状況を知るには十分だったが、それを国の歴史や人口の変化、過去の災害と結びつけて整理するなら雅史の方が向いている。
その下には、さらに短い追記があった。
『車は二台で行け。帰路で人数が増える可能性を考慮する』
「帰り?」
怜司はそこで少しだけ考えた。
向こうから誰かが日本へ来る可能性まで考えているらしい。
昨日の段階では、そこまで具体的な話はしていなかった。それでも洋一は、必要になるかもしれないものを先に残している。
「よう考えるなあ」
感心しながら画面を閉じかけたところで、彰人から個別にメッセージが届いた。
『起きてる?』
『今起きた』
送ると、ほとんど間を置かず返事が来る。
『十一時集合。遅れんなよ』
『余裕やん』
『その言葉が一番信用ならん』
『なんでやねん』
返事は来なかった。
怜司はスマートフォンを置き、ようやく布団から身体を起こした。
昨日まで自分たちが知っていたヴァルネシアは、ひどく大雑把なものだった。
人が暮らしている。いろいろな種族がいる。星が落ちる。病気が増える。土地が減り、このままでは国が持たない。
それだけでも事情そのものは分かる。
だが、助ける方法を探すとなれば、それだけでは足りない。
「……知らんことだらけやな」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、怜司は立ち上がった。
◇
十一時より少し前に裂け目へ続く山道へ入ると、すでに見慣れたマークXが停まっていた。
怜司はその隣へ車を滑り込ませ、エンジンを切る。
運転席から降りた彰人が腕時計を見るのが見えた。
「……ちゃんと来たな」
「来る言うたやん」
「兄貴の場合、言うたことと実際に来ることは別やから」
「信用ないなあ」
「日頃の行いや」
彰人がそう返している間に、助手席の扉が開いた。
雅史が降りてくる。
白を基調にした服の上へ薄い緑の羽織物を重ね、肩には昨日より少し大きな鞄を提げていた。
「おはよう、怜司」
「おはよう」
「時間通りなんだね」
「雅史まで?」
「彰人から聞いてたから」
「何を吹き込んでんねん」
「事実しか言うてへん」
二人のやり取りを眺めながら、雅史は笑った。
「昨日の話は、ある程度まとめておいたよ。二人から聞いた内容と、会議で出た話。それから今日確認したい項目も」
「もう?」
「来るって決まったからね」
雅史が鞄から薄いファイルを取り出す。
紙の資料とタブレットの両方を用意しているらしく、項目ごとに付箋まで貼られていた。
彰人がそれを横から覗く。
「昨日寝ました?」
「寝たよ」
「ほんまですか?」
「彰人」
「はい?」
「僕、そこまで無茶するタイプじゃないよ」
「すんません。兄貴の周りにおると基準がたまに分からんくなるんで」
「なんで俺基準やねん」
怜司が抗議すると、彰人は聞かなかったことにして車へ戻った。
後部には測定器や記録用の機材がいくつか積まれている。昨日より明らかに荷物が増えていた。
「また増えてるやん」
「何が分かるか分からへんから、一応持ってきた」
「使うん?」
「使える状況なら使う。向こうの許可取ってからやけどな」
その言葉を聞いて、雅史が頷く。
「それでいいと思う。今日は調べさせてもらう立場だからね」
「雅史さんも結構持ってきてますやん」
「僕のはほとんど記録用だよ」
「ほな、俺の方乗る?」
「うん。そのつもりで彰人に拾ってもらったから」
それで二台の割り振りも自然に決まる。
怜司が一人で先に乗り込み、彰人の車に雅史が戻る。
エンジンを始動する前、彰人が運転席の窓を開けた。
「兄貴」
「何?」
「今日は調査やからな」
「分かってる」
「勝手にどっか行くなよ」
「行かへんって」
「勝手に何か約束すんのもなし」
「洋一より細かいで」
「誰のせいや!」
窓が閉まる。
怜司はしばらく彰人の車を見たあと、自分もエンジンをかけた。
◇
二台の車が裂け目へ入る。
視界を占めていた日本の杉林が境界の揺らぎに呑まれ、その向こうから明るい草原が現れる。空の色そのものは大きく変わらないのに、周囲を満たす匂いも、風に揺れる草の音も違っていた。
怜司にとっては二度目になる。
だが、後ろを走る車の助手席では、雅史が初めてその景色を見ているはずだった。
裂け目を完全に抜けたところで速度を落とすと、すぐにヴァルネシア側の監視所が見えてきた。
昨日より人が増えている。
簡易的に張られていた幕や物資置き場も、いくらか形を整えていた。
こちらの二台に気づいた兵士たちが動き始める。その中から、一人が大きな翼を広げて飛び上がった。
「あ」
怜司には見覚えがあった。
少し先へ降りたフィルネが、こちらへ向かってくる。
怜司は車を停め、窓を開けた。
『本当に、もう戻ってきたのですね』
「来る言うたやん」
『昨日の今日だとは思っていませんでした』
「早い方がええやろ?」
フィルネは何かを返そうとして、少しだけ口元を緩めた。
『そうかもしれません』
後ろで彰人たちも車を降りる。
雅史はまず裂け目を振り返り、その次に監視所、周囲の兵士、遠くまで続く草原へと視線を移していた。
「……本当に別の世界なんだね」
「せやろ?」
怜司が答えると、雅史は少し笑った。
「昨日も聞いたけど、実際に見るのとは違うな」
その声に気づき、フィルネが雅史を見る。
『そちらの方は?』
怜司が答えるより先に、雅史が一歩前へ出た。
「初めまして。水瀬雅史です。二人と同じ十二神承の一人です」
自然に軽く頭を下げる。
「昨日のお話は二人から聞いています。今日は、もう少し詳しくヴァルネシアのことを教えていただくために来ました」
『フィルネです。よろしくお願いいたします』
「よろしくお願いします」
フィルネが少しだけ困ったような顔をした。
『あの……』
「はい?」
『私に対しては、そこまで畏まっていただかなくても』
雅史が目を瞬く。
「そうですか?」
『はい。何と言いますか……少し、緊張します』
言われて、雅史は小さく笑った。
「分かった。じゃあ、普通に話すよ」
『ありがとうございます』
「僕の方が年上かもしれないしね」
フィルネが返事に迷ったように見えた。
年齢の基準そのものが種族によって違う可能性に、雅史も言った直後に気づいたらしい。
「…これは今度聞こうか」
『そうしてください』
フィルネも笑った。
そのやり取りを見ながら、彰人が怜司の横へ来る。
「兄貴」
「ん?」
「雅史さん、もう一個調べること増やしたで」
「まだ着いてすぐやのにな」
「兄貴らが前回聞いてへんかったことが多すぎんねん」
「しゃあないやん」
彰人が何か言い返そうとしたが、雅史がこちらを見たので口を閉じた。
「二人とも、昨日この辺りはどれくらい見た?」
「裂け目ばっかり見てましたね」
「俺、向こうも行ったで」
「兄貴は勝手に向こう行っただけやろ!」
雅史は一瞬だけ黙り、それから裂け目の向こうに見える日本側の杉林へ目を向けた。
「……その話、昨日聞いたときより現地で聞く方が怖いな」
「俺もそう思います」
「彰人まで何言うてんねん」
その会話を聞いていたフィルネが、小さく笑った。
◇
王都までは、前回と同じく車で向かうことになった。
監視を続ける兵たちは裂け目に残り、フィルネが案内役として同行する。
「また乗る?」
怜司が助手席を指すと、フィルネは一瞬だけ車と怜司を見比べた。
『……お願いします』
前回ほどの戸惑いはなかった。
翼を縮めて助手席へ収まる様子も、シートベルトを締める手つきも、すでに一度経験している分だけ早い。
「慣れたな」
『慣れたわけではありません』
「そう?」
『少しだけ、覚えました』
「一緒ちゃう?」
『違います』
どう違うのか怜司には分からなかったが、本人が違うと言うなら違うのだろう。
後ろでは、彰人の車に雅史が乗る。
二台が動き出すと、フィルネが前方を指しながら道を示した。
途中までの経路は怜司も覚えている。
前回も通った街道を走っているだけなら、景色そのものに大きな違いはなかった。
だが、後ろの車では事情が違っていた。
雅史は助手席からほとんど休まず周囲を見ていた。
畑が見えれば作物の種類を尋ね、集落を通ればそこに住む種族や人口を確認する。道を行く荷車を見れば、何をどこへ運んでいるものなのかまで気にした。
「昨日、二人はあれ見た?」
雅史が道の外れにある大きな建物を指す。
彰人も視線だけを向けた。
「見た気はしますけど、何かまでは聞いてへんですね」
「倉庫かな」
「多分」
「多分かあ」
「昨日はそこまで余裕なかったんですって」
彰人が苦笑する。
少し前を走る怜司の車が、すれ違う荷車を避けるように速度を落とした。
「向こうの二人は、何見てたんだろうね」
「兄貴は人ばっか見てた気がします」
「彰人は?」
「俺は魔術とか設備とか……」
そこまで言って、彰人も気づく。
二人とも同じ道を通った。
それでも見ていたものはかなり違う。
「なるほどね」
雅史は窓の外を見ながら頷いた。
「じゃあ、今日は僕が別のところを見るよ」
「お願いします」
「ただ、全部は無理だね」
「まだ王都着いてませんもんね」
「うん。もう増えてる」
雅史がタブレットを見せる。
昨日の段階で用意していた確認項目の下に、すでにいくつもの追記が増えていた。
「仕事やなあ……」
「言うたやろ?」
「兄貴の声が聞こえた気がする」
「幻聴です」
◇
王都が近づくにつれて、街道を行き交う者の数が増えていく。
前回と同じ場所で二台を停めると、フィルネが先に車を降りた。
『ここからは徒歩になります』
「車目立つもんな」
怜司も降りる。
少し遅れて彰人と雅史が合流すると、フィルネが周囲を見回した。
『セレスティア様から、昨日と同じ処置を行える者を同行させるよう手配されています』
後ろにいた術者が二台へ近づく。
淡い光が車体の周囲へ広がり、輪郭を一度撫でるように流れたあと、静かに消えていった。
雅史はその様子をじっと見ていた。
「これが、昨日言ってた認識を逸らす魔術?」
「そうです」
彰人の返事が早い。
「車自体が消えるわけやなくて、知らん人が見てもそこにあるって認識しにくくなるらしいです。意識して探したら見つかるんですけど――」
「彰人」
「何?」
「めっちゃ説明するやん」
「兄貴が聞かへんかった分や!」
雅史は笑いながら二台を見た。
目の前にある。
自分はそこにあることを知っているから、何も変わったようには見えない。
「面白いね。帰るとき、少し詳しく聞いてもいい?」
『もちろんです』
術者が答える。
「ありがとうございます」
雅史はそこで自然に敬語へ戻った。
相手が初対面だからなのか、単に魔術を教えてもらう側だからなのか、怜司にはよく分からなかった。
フィルネが王都の門へ向かう。
三人もその後に続いた。
車を降りて歩き始めると、雅史の見るものはさらに増えた。
種族によって違う身体の特徴だけではない。衣服、道具、店に並ぶ品物、建物の使われ方。荷物を運ぶ者がどこから来てどこへ向かうのか、通りによって人の流れがどう変わるのかまで見ている。
「フィルネ」
『はい』
「この辺りは商業区?」
『そうです。王都でも比較的大きな市場が集まっています』
「食料品も多いね」
『はい』
「王都の外から運ばれてくるものが中心?」
『多くはそうです。一部は王都周辺でも生産されていますが』
雅史が少しだけ歩調を落とした。
「輸送にかかる日数は?」
『場所によります。近い地域であれば一日から数日。遠方になると――』
フィルネが答え始める。
彰人が隣を歩きながら、その話を聞いていた。
「そこまで見るんですね」
「食料が足りないって言っても、作れないのか、運べないのか、保存できないのかで対策は変わるからね」
「ああ……」
「あと、この国は魔術があるから、その辺りを僕らの常識だけで考えない方がいいと思う」
「保存魔術とか?」
「あるかもしれないね。でも、あったとしても国中で使えるとは限らない」
彰人の目が少し変わる。
「魔術そのものの普及率も要りますね」
「うん。それも追加」
「また増えた」
怜司が横から言う。
「増えるよ。まだ知らないことの方が多いからね」
「ほな、店見た方が早ない?」
怜司が通りに並ぶ店を見る。
「何が売ってるか見たら、食いもんあるか分かるやろ」
彰人が兄を見る。
「兄貴、それ観光したいだけちゃうやろな」
「ちゃうわ」
雅史は少し考えてから、怜司が見ていた市場へ目を向けた。
「いや、見ておいた方がいいと思う」
「ほら」
「なんで兄貴が勝った顔すんねん」
「知らんけど」
雅史は二人の横で笑った。
通りに並ぶ品物を一つずつ確認したところで、国全体の食料事情が分かるわけではない。
それでも、資料だけでは見えないものがある。
人が何を食べ、何を買い、何を日常としているのか。
昨日の二人が「普通に暮らしている人たち」として見たものを、今日は別の角度から知ろうとしている。
◇
王宮へ入ると、昨日と同じように行き交う者たちがフィルネへ声をかけた。
そのたびに雅史が少しだけ周囲を見る。
やがて大きな扉の前へ着くと、フィルネが足を止めた。
『こちらでお待ちください』
少しして扉が開く。
案内された部屋には、すでにアルトリウスがいた。
昨日と同じ落ち着いた佇まいのまま、若い王は入ってきた三人へ視線を向ける。
その左右にはガルディオとアルディウスがおり、少し離れた場所にはセレスティアもいた。
『戻ったか』
「戻ってきたで」
怜司が答える。
アルトリウスの口元が、ごく僅かに緩んだ。
『昨日、そう言っていたな』
「せやろ?」
『だが、翌日とは思わなかった』
「早い方がええやん」
怜司にとってはそれで終わる話だった。
彰人は一度兄を見ると、軽く息を吐いてから雅史へ身体を向ける。
「こちら、水瀬雅史です。俺らと同じ十二神承の一人です」
雅史が一歩前へ出た。
「水瀬雅史と申します。昨日のお話については、二人から伺っています。本日は改めてお時間をいただき、ありがとうございます」
相手がフィルネだったときとは明らかに違う。
声の柔らかさ自体は変わらないが、言葉を選び、王に対する礼を整えている。
アルトリウスもそれを自然に受け取った。
『アルトリウス=レグナだ。こちらこそ、再び足を運んでもらったことに礼を言おう』
「ありがとうございます」
雅史が頭を上げる。
「本日は、昨日お二人が伺った内容について、もう少し詳しく確認させていただきたいと思っています」
『星堕としについてか』
「はい。ただ、それだけではありません」
アルトリウスの目が僅かに細くなる。
「ヴァルネシアという国そのものについても、可能な範囲で教えていただきたいと思っています」
『我が国を?』
「人口や種族構成、食料の生産、産業、居住地域、それから星堕としによって失われた土地と、そこから移動した方々についてです」
雅史はそこで一度言葉を切った。
「もちろん、他国の者に開示できない情報があることは理解しています。見せていただける範囲で構いません」
アルトリウスはすぐには答えず、三人を順に見た。
『まず、一つ尋ねたい』
「はい」
『昨日の話を聞いた上で、あなた方はどのような答えを出した?』
昨日別れ際に残された問いだった。
怜司と彰人の表情が変わる。
ここへ来た目的は調査だが、その前に伝えなければならないことがある。
怜司がアルトリウスを見る。
「日本に攻めてくるんは、やっぱりあかん」
声を強めることはなかった。
「実際に来るんやったら、俺らは止める」
アルトリウスも視線を逸らさない。
『それが、十二神承の答えか』
「せやな」
怜司の隣で、彰人が続ける。
「ただ、ヴァルネシア自体を敵やと決めたわけではありません」
『どういう意味だ?』
「侵攻を止めることと、こっちの問題を放っておくことは別や、ってことです」
彰人は昨日よりも整理された言葉で答える。
「星堕としも病気も、何とかできる可能性があるなら調べる。その上で、俺らにできることがあるか考えたい。それが昨日、十二人で出した結論です」
アルトリウスは何も言わなかった。
ガルディオもアルディウスも、表情を大きく変えてはいない。
ただ、セレスティアだけが僅かに目を見開いた。
雅史がその反応を見たあと、王へ向き直る。
「私たちは、まだ助けられると約束できるほどのことを知りません」
王へ向ける言葉だけは、丁寧に整えられている。
「ですが、知らないまま不可能だと判断するつもりもありません。そのために、今日は情報を集めに来ました」
『我々を救う方法を探すために?』
「その可能性を探すために、です」
雅史は言葉を濁さなかった。
「何が原因なのかも、何が必要なのかも分からない状態で、必ず助けるとは申し上げられません。ただ、少なくとも調べる価値はあると考えています」
アルトリウスが怜司を見る。
『あなたも同じ考えか』
「俺は助けたいで」
間を置かずに返事が来る。
彰人が横を見る。
「兄貴、雅史さんの話聞いてた?」
「聞いてたで」
「今、必ず助けられるって約束はできへんって――」
「せやから、方法探すんやろ?」
「……まあ、そうやけど」
彰人は何か引っかかったような顔をしたが、それ以上は続けなかった。
アルトリウスはしばらく三人を見ていた。
やがて、静かに息を吐く。
『昨日、私は待てる限りは待つと言った』
「覚えてるで」
『その言葉を撤回するつもりはない。我々も準備を止めることはできないが、あなた方が別の道を探すというのであれば、それを拒む理由もない』
王の声は穏やかだった。
しかし、そこにある重さは昨日と変わらない。
『見せられるものは用意しよう』
「ありがとうございます」
雅史が頭を下げた。
◇
案内されたのは、昨日話をした部屋とは別の場所だった。
中央には大きなテーブルが置かれ、壁沿いには棚が並んでいる。そこには束ねられた文書や冊子、筒状に巻かれた地図らしきものが整然と収められていた。
部屋へ入った瞬間、雅史の視線が棚へ向かった。
「資料室ですか?」
『会議にも使用しますが、主に記録を扱う部屋です』
セレスティアが答える。
「それは助かります」
雅史は棚を見ながらも、勝手に近づこうとはしなかった。
「拝見してもよいものを、まず教えていただけますか」
『はい。国防に直接関わるものなど、一部はお見せできませんが、星堕としに関する記録については陛下から許可を得ています』
「ありがとうございます」
セレスティアが用意された資料へ向かうと、雅史もその後へ続いた。
最初に広げられたのは、大きな地図だった。
文字や記号の体系そのものは日本のものと異なる。それでも、翻訳魔術を介して説明を受ければ、地形や位置関係を理解することはできた。
「まず、王都はここですね」
『はい』
雅史が基準点を確認する。
「現在、人が暮らしている範囲を教えてもらえますか」
そこから質問が始まった。
主要な都市。
農業地帯。
水源。
山地。
そして、現在は人が住んでいない地域。
セレスティアが一つずつ示していくと、雅史はそれを自分の資料へ書き込んでいく。
「ここは?」
『七年前の星堕としによって、大部分が失われた地域です』
怜司と彰人にも覚えがあった。
王都へ来る途中で見た、大地を抉り取ったような場所。
「この周辺にも集落があったんですか?」
『はい』
「避難した人は、今どこに?」
雅史の問いに、セレスティアが別の資料を取り出した。
『王都周辺を含め、複数の避難区へ移っています。一部は他の都市へ移住しました』
「人数の記録は残っていますか」
『あります』
「可能であれば、発生前と現在の両方を見せてください」
柔らかな声のまま、質問の間隔が少しずつ短くなる。
資料を読み始めた雅史は、普段とは違う。
感情が消えたわけではない。
ただ、必要なものとそうでないものを切り分け、情報を一つずつ繋いでいくことに意識が集中している。
「星堕としが起きた直後に住めなくなる地域と、時間が経ってから放棄される地域がありますか?」
『あります』
「理由は同じですか?」
『いいえ』
「病気の発生時期は?」
『一定ではありません』
「種族による差は?」
『確認されています。ただし、疾病によって異なります』
「発症者の移動記録は?」
『完全ではありませんが、残っています』
「それもお願いします」
彰人も途中から資料の近くへ移動していた。
「セレスティアさん、この二か所なんですけど」
『はい』
「落ちた時期は違いますよね。それでも発生した症状が似てる」
『そのため、同じ原因を持つ可能性は以前から考えられています』
「魔力の残留量は?」
『違います』
「星堕とし自体の規模と比例してへん?」
『していません』
彰人の眉間に皺が寄る。
「ほな、何を基準に症状変わってんねやろ……」
雅史が横から資料を見る。
「位置関係も一緒に残しておこうか」
「ですね」
二人の会話は、次第に怜司には追い切れない細かさになっていった。
怜司は少し離れたところから地図を見る。
印が増えている。
星が落ちた場所。
人が住めなくなった場所。
病気が広がった場所。
それぞれは地図の上では小さい。
「ここにおった人ら、今も避難区におるん?」
怜司が聞く。
雅史と彰人が同時に顔を上げた。
セレスティアが答える。
『はい。すでに別の土地へ定住した者もいますが、帰還を望んでいる者も少なくありません』
「帰れるん?」
『現状では難しい地域が多いです』
「そっか」
怜司は地図へ視線を戻した。
そこにあった町そのものを自分は知らない。
だが、昨日見た王都や街道沿いの村と似たものが、かつてそこにもあったのだろう。
雅史がそのやり取りを聞きながら、別の資料へ目を落とした。
「人口が減っているだけじゃないですね」
今度はアルトリウスが雅史を見る。
『どういう意味だ?』
「住める土地が減ったことで、人が残った地域へ集中しています。そうなると、同じ人数でも食料や水の輸送、医療、住居にかかる負担が変わります」
『その通りだ』
「王都も人口が増えていますか?」
『増えている。地方から流入した者を受け入れ続けているためだ』
王らしい落ち着いた声で答えたあと、アルトリウスは地図の一角を指した。
『特にこの数年は、王都南部の居住区を拡張している。それでも十分とは言えない』
雅史がそこへ印をつける。
「食料生産は?」
『減少している』
「土地を失った影響が中心でしょうか」
『それもあるが、働き手を失った地域も多い。病による影響も無視できない』
話題は星堕としそのものから、徐々にヴァルネシアという国へ広がっていった。
人口と種族の構成、農業や職人の割合、食料がどこで作られ、どのように王都まで運ばれているのか。治療を担う者がどれほど存在し、魔術による治療がどこまで一般の民へ届いているのか。
雅史は一つの答えを得るたびに、次に必要な情報を探していく。
彰人はそこへ、魔術や技術という別の方向から質問を加えた。
昨日二人が知ったのは、この国が追い詰められているという事実だった。
今日調べているのは、その追い詰められ方だった。
◇
休憩を挟んだあと、雅史はフィルネにも話を聞いた。
「昨日、星堕としの現場へ行ったことがあるって聞いたけど」
『何度かあります』
「八傑として?」
その言葉に、怜司が横を向いた。
「八傑?」
雅史も怜司を見る。
「聞いてない?」
「聞いてへん」
「兄貴、昨日フィルネさんが偉い人っぽいって話してたやろ」
「偉いんは聞いた気する」
『……そこまでしかお話ししていません』
フィルネが助け舟を出す。
彰人が一度黙った。
「ほら」
「何で兄貴が勝った顔すんねん」
雅史が少し笑う。
「じゃあ、僕もちゃんと聞こうかな。八傑っていうのは?」
答えたのはアルトリウスだった。
『我が国において、特に優れた力と功績を持つ八人に与えられている呼称だ』
「八人全員が軍人、というわけではないんですね?」
『違う。軍に属する者もいるが、それぞれ役割は異なる』
「フィルネは、その一人?」
『そうだ』
怜司がフィルネを見る。
「めっちゃ偉いやん」
『だから、そのように言われると困ります』
「なんで?」
『……話しにくくなります』
「今まで普通に話してたやん」
『ですから、そのままでお願いします』
「分かった」
怜司はそれで納得した。
雅史は口元を緩めたあと、話を戻す。
「八傑の中に、星堕としの落下地点を直接調査した人は他にもいる?」
『います』
「その人たちの話も聞いてみたいな。現場でしか分からないことがあるかもしれないから」
アルトリウスが頷く。
『必要な者には声をかけよう。ただし、全員がすぐ王都へ戻れるとは限らない』
「それで十分です」
雅史は王へ向かって答えるときだけ、再び自然に敬語へ戻った。
隣では彰人が、別のことへ意識を向けていた。
「八傑が現場に行くってことは、迎撃にも参加してるんですか?」
『者による』
ガルディオが答える。
『迎撃を得意とする者もいれば、救助や索敵を担う者もいる。八傑という呼び名は、同じ役割を示すものではない』
「なるほど……」
彰人の目がまた資料へ向かう。
「迎撃したときの記録も残ってます?」
『残している』
「魔術の出力とか、命中した位置とか、できれば破壊後の変化も見たいです」
『かなり細かいな』
ガルディオの低い声に、彰人は少しだけ身を引いた。
「すんません」
『咎めているわけではない』
ガルディオの口元が僅かに緩む。
『セレスティアと話が合いそうだと思っただけだ』
「それ、昨日から思ってました」
『私もです』
セレスティアが即答した。
「やっぱり?」
彰人の顔が明らかに明るくなる。
怜司はその横顔を見る。
「彰人」
「何?」
「帰る時間なくなるで」
「まだ帰らへんわ!」
フィルネが吹き出すように笑った。
怜司がそちらを見ると、今度は隠さなかった。
『昨日も、似たようなことを言っていましたね』
「せやっけ?」
『はい』
「覚えてへん」
「兄貴!」
部屋の空気が少しだけ緩む。
その中で、雅史は地図へ戻っていた。
◇
日が傾き始める頃には、テーブルの上には朝には存在しなかったほど多くの資料が広がっていた。
すべてを確認するには、到底一日では足りない。
雅史はそれを早い段階で諦め、今日見るものと次回へ回すものを分け始めていた。
「星堕としの発生記録について、複製できるものはありますか?」
アルトリウスへ向けて尋ねる。
『王国外へ持ち出すという意味か』
「はい。日本側でも整理したいと思っています。ただ、機密上難しいものまでお願いするつもりはありません。こちらで写させていただける範囲でも構いません」
アルトリウスは少し考えた。
『すべてを渡すことはできない』
「承知しています」
『だが、発生時期と場所、被害の概要については複製を用意させよう。疾病についても、個人を特定できない形であれば問題はないだろう』
「ありがとうございます」
『セレスティア』
『はい』
『開示できる範囲を確認し、まとめてくれ』
『承知しました』
そこでひとまず話がまとまる。
彰人はまだ名残惜しそうに資料を見ていたが、雅史に肩を叩かれてようやく手を止めた。
「今日はここまでにしよう」
「まだ見たいの結構あるんですけど」
「僕もあるよ。でも、一度整理しないと次に何を聞けばいいか分からなくなる」
「……確かに」
彰人が渋々頷く。
怜司はすでに席を立っていた。
「帰る?」
「兄貴は切り替え早すぎや」
「終わりなんやろ?」
「そうやけど」
雅史が笑う。
「怜司くらい切り替えられる方が、こういうときは楽かもしれないね」
「ほら」
「褒めてへんと思うで」
◇
王宮を出ると、昼間とは違う匂いが街を満たしていた。
店先では夕方の食事を求める人が増え、焼いた肉や香辛料の匂いが通りへ流れている。仕事を終えた者たちが立ち話をし、子供がその間を走り抜けていった。
雅史は朝よりも少しだけゆっくり歩いていた。
数字や資料を見たあとでは、同じ景色の意味が変わっている。
王都の人口が増えている。
避難してきた者がいる。
食料の生産地は減り、それを支える人間も減っている。
それでも、目の前の日常は今日も続いている。
「思ったより普通でしょ?」
怜司が言う。
「うん」
雅史はしばらく通りを見た。
「だから、数字だけ見るより分かりにくいね」
「何が?」
「この国が、そこまで追い詰められてるってこと」
「ああ」
怜司も昨日、似たようなことを感じていた。
壊れかけている国なら、もっと目に見えて壊れているものだと思っていた。
だが、王都では店が開き、人が働き、子供が走っている。
明日も同じ光景が続きそうに見える。
「でも、続くとは限らないんだね」
雅史が静かに言った。
それ以上、誰も返さなかった。
◇
王都の外へ出ると、二台の車は朝と変わらない場所に残っていた。
認識を逸らす魔術が解除されると、彰人がすぐ術者のところへ向かう。
帰る前に少しだけ話を聞かせてもらうつもりらしい。
「彰人、帰るで」
「五分!」
「絶対五分ちゃうやつやん」
「兄貴は先乗っといて!」
怜司が仕方なく自分の車へ向かう。
その後ろから、フィルネも自然についてきた。
助手席の近くまで来たところで、怜司が振り返る。
「乗る?」
『……お願いします』
朝と同じように翼を縮め、フィルネが助手席へ乗り込む。
少し離れたところでは、雅史が彰人の話が終わるのを待っていた。
ふと顔を上げ、怜司の車を見る。
助手席へ収まったフィルネと目が合った。
雅史は小さく会釈する。
フィルネも返した。
それだけだった。
だが、雅史の横へ戻ってきた彰人は、その視線の先を確認したあと、ほんの少し眉を上げた。
「雅史さん」
「うん?」
「何でもないです」
「そう?」
雅史は追及しなかった。
◇
裂け目まで戻るころには、空は夕方の色へ変わり始めていた。
二台を停めると、フィルネが助手席から降りる。
『次も来られますか?』
「来ると思うで」
『怜司さんも?』
「必要やったら」
『……そうですか』
返事までに、ほんの僅かな間があった。
「何?」
『いいえ。何でもありません』
「ほな、またな」
『はい。また』
怜司が運転席へ戻る。
少し離れたところで、彰人が雅史を見る。
「……今の」
「彰人」
「はい?」
「本人が何でもないって言ってるんだから、今は何でもないんじゃないかな」
「その言い方、絶対何か思ってますやん」
「どうだろうね」
雅史が笑う。
怜司が窓を開けた。
「何してんの?」
「何でもない!」
「早よ帰ろや」
「兄貴待ちやったやろが!」
彰人が車へ戻り、雅史も助手席へ乗り込む。
二台が順に裂け目へ入った。
◇
日本側へ戻ると、景色は一瞬で見慣れたものへ変わった。
杉林。
舗装された道路。
道路標識。
それまで別の世界を走っていたことの方が、急に現実味を失ったように感じる。
帰路では彰人の車が前を走った。
雅史は助手席で、持ち帰ることを許された簡易資料と、自分が記録した内容を見比べていた。
「雅史さん」
「うん?」
「今日ので、何か分かりそうです?」
「まだ何とも言えないね」
彰人は前を見たまま頷く。
「ですよね」
「でも、前よりは調べ方が見えてきたかな」
雅史は資料を一枚めくった。
「星堕としだけを見ても足りない。発生した後の人口移動や疾病も重ねたいし、土地が使えなくなった時期も合わせたい」
「智臣さんにも見てもらいます?」
「位置情報が揃ったらね。僕たちとは違う見方をすると思う」
「洋一には今日中に報告?」
「そのつもり。たぶん、それを見て次の担当を決めるんじゃないかな」
「ほんま会社みたいやな……」
雅史が笑う。
「昨日から言ってるね」
「言いたくもなりますって」
信号で車が止まる。
雅史はその間に、星堕としの発生年を入力していった。
古いものから順番に。
場所。
規模。
被害。
分かっている範囲での前兆。
彰人も横目で画面を見る。
「結構バラバラですね」
「そうだね」
「セレスティアさんも規則性ないって言うてたし」
「うん」
雅史は答えながら、もう一つ数字を入力した。
そこで指が止まった。
彰人は前の信号を見ていたが、しばらく操作音がしないことに気づいて助手席へ視線を向ける。
「どうしました?」
「……ちょっと待って」
雅史が少し前の記録へ戻る。
もう一度、発生年を確認する。
次に、場所。
さらにその前。
「雅史さん?」
「いや」
すぐに否定するように首を振った。
「まだ分からない。たぶん、偶然かもしれない」
「何が?」
信号が青に変わる。
彰人が車を発進させると、雅史は画面を見たまま言った。
「帰ったら、全部の記録を年代順に並べよう」
「それは元々やるつもりでしたけど」
「場所も一緒に」
「位置関係?」
「うん。それから、分かるなら前兆が確認された時期も」
雅史の声から、それまであった柔らかさが少しだけ薄れていた。
何かを断定したわけではない。
答えを見つけたわけでもない。
ただ、確認するべきものを見つけたときの声だった。
「何か気になるんです?」
彰人がもう一度尋ねる。
雅史は少し迷ったあと、画面を閉じた。
「ばらばらにしては、少しだけ引っかかる」
「どこがです?」
「今はまだ言わない方がいいかな。先入観になるから」
「余計気になるやつやん……」
「だから、彰人にも同じ資料を渡すよ。僕が何を気にしたかは言わないから、一度自分で見てみて」
「なるほど」
彰人の表情が変わる。
今度は完全に分析する側の顔だった。
「兄貴にも?」
「怜司には――」
雅史が前方を見る。
少し離れたところをインプレッサが走っている。
「一応送るよ」
「一応なんや」
「見方が僕らと違うからね」
「それはまあ……」
二人とも、それ以上は言わなかった。
今日分かったことは多い。
それでも、星堕としそのものについては、昨日とほとんど変わっていない。
いつ落ちるのか分からない。
どこへ落ちるのか分からない。
何が落ちてくるのかさえ一定ではない。
ヴァルネシアは長い時間をかけて調べ、それでも規則性を見つけられなかった。
だからこそ。
もし、そこに本当に何かがあるのなら。
星が落ちた後ではなく、落ちる前に動ける可能性が生まれる。
雅史は閉じたタブレットへもう一度目を落とした。
今はまだ、ただの違和感にすぎない。
それが何を意味するのかを確かめるのは、これからだった。




