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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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残された時間

 アルトリウスの言葉が途切れたあと、誰もすぐには口を開かなかった。

 窓から差し込む午後の光は、部屋へ入ったときから何も変わっていない。白い壁も、中央に置かれた大きなテーブルも、その上に並べられた水差しも、先ほどまでと同じ場所にある。

 変わったのは、それを見る側だった。

 怜司の脳裏に、王都へ向かう途中で見た景色が浮かんでいた。

 街道沿いに点在していた村。畑で作業をしていた人たち。荷物を運ぶ獣人。店先で品物を選んでいた親子。広場を走り回っていた子供たち。

 どれも、異世界という言葉から想像するほど特別なものではなかった。

 だからこそ、アルトリウスの言った「時間が残されていない」という言葉が、その景色とうまく結びつかなかった。


「時間がないって、どれくらい?」


 怜司が尋ねると、アルトリウスはすぐには答えなかった。

 答えを迷っているというより、どこから話せば二人に伝わるのかを考えているように見えた。


『正確には分からない』

「分からん?」

『明日、この国が滅びるわけではない。十日後に滅びると決まっているわけでもない。だが、一年後も今と同じように国が存在していると、私は約束できない』


 それまで椅子の背に身体を預けていた彰人が、わずかに身を起こした。

 具体的な期限があるわけではない。それなのに、一年後すら保証できないという言葉は、単純な危機の予告とは意味が違う。何かを頭の中で組み直しているのだろう。彰人の視線がテーブルへ落ち、すぐにアルトリウスへ戻った。


「それ、さっき見たやつと関係あるんですか?」


彰人はアルトリウスを見据えるような空気をまといながら尋ねる。

尋ねた内容が伝わりにくいと思ったのか、矢継ぎ早に言葉を続ける。


「街に来る途中にあった、地面ごと削れたみたいな場所」

『はい』


 答えたのはセレスティアだった。

 王国全体の状況を語るアルトリウスに代わり、ここからは自分の領分だと引き取るように、彼女が二人へ身体を向ける。


『あれは、およそ七年前に起きた星堕としの跡です』

「星堕とし?」

『空から星が落ちてくる現象を、私たちはそう呼んでいます』


 怜司は窓の向こうへ目を向けた。

 王都の屋根が並び、そのさらに向こうには青い空が広がっている。日本で見慣れたものと大して変わらない空だった。


「隕石みたいなもん?」


 その言葉に、彰人がすぐ反応した。


「兄貴、たぶんそれや。大きさにもよるけど、地面あんな削れ方するなら相当やで」

『インセキ……』


 セレスティアが、知らない概念を確かめるように繰り返す。

 こちらの世界では翻訳の魔術が十分に働いている。言葉そのものを理解しているわけではないはずなのに、怜司には彼女が単に発音を真似しているのではなく、その言葉が指すものを自分の知識の中から探しているのだと分かった。


「宇宙から石とか岩が落ちてくるやつ」

『石……』


 セレスティアの眉がわずかに寄った。


『私たちが確認したものとは、少し違うかもしれません』

「違う?」

『星堕としによって落ちてきたものの中には、岩石に近いものもあります。しかし、すべてがそうではありません』


 それまで黙って話を聞いていたアルディウスが口を開いた。

 硬質な鱗に覆われた竜人の身体は、椅子に腰掛けていても大きい。だが、その低い声に威圧するような響きはなく、むしろ長い時間を振り返るような落ち着きがあった。


『我々が星堕としと呼ぶ現象は、古くから記録されている。私自身も、何度も見てきた』

「何度も?」


 彰人が聞き返す。


『ああ』


 その短い答えに、彰人の視線が止まった。

 怜司も同じところに引っかかった。

 七年前に一度起きた災害、という話ではない。


「……どれくらいの間隔で落ちてくんの?」

『一定ではありません』


 アルディウスから視線を受けたセレスティアが、小さく頷いて説明を引き継ぐ。


『記録上、数十年間まったく発生しなかった時期もあります。一年のうちに複数回確認された時期もあります。規模にも大きな差があります』

「予測は?」


 彰人の問いは短かった。

 その意図を理解しているセレスティアも、すぐに首を横へ振る。


『研究は続けています。しかし、発生時期を正確に予測する方法は確立できていません』

「落ちてくる場所は?」

『それも同様です』

「規則性は?」

『見つかっていません』

「落ちてくる前兆とか」

『いくつか候補はあります。ただ、確実とは言えません』


 彰人の質問が続き、セレスティアも一つずつ答えていく。

 そのやり取りを聞きながら、怜司は違和感を覚え始めていた。

 分からないことが多いからではない。


 答えが早すぎる。


 彰人が思いついた程度のことは、すでに全部調べられている。質問の意味を考える時間すら必要とせず、セレスティアは「分からない」ところまで含めて答えを持っていた。

 それだけ長く、この国は同じ問題と向き合ってきたということだった。


「迎撃は?」


 彰人が次の可能性へ意識を移し、尋ねる。


『行っている』


 今度はガルディオが答えた。

 それまで会話に加わらず、太い腕を組んでいた鬼人の男が、軍事に関わる話題になって初めて口を開く。低く太い声が、室内の空気をわずかに震わせた。


『確認できたものについては、軍と魔術院が共同で迎撃する。地上へ到達する前に破壊できた例もある』

「ほな、壊せるんや」


 怜司が言うと、ガルディオの目がこちらへ向いた。


『小さなものであればな』


 その言い方だけで、続きが分かった。


「でかいのは無理?」

『我々の力ではな』


 怜司の頭に、道中で見た大地の傷が浮かぶ。

 遠くから見ただけでも異常な大きさだった。地面を掘ったというより、そこにあったものをまとめて削り取ったような跡。

 同じ光景を思い出したらしい彰人が、ガルディオへ問いを重ねた。


「七年前のやつは?」

『迎撃した』


 ガルディオの声から、それまでわずかに残っていた柔らかさが消えた。


『三度だ』


 彰人の眉が動く。


『最初の迎撃で外殻の一部を破壊した。二度目で軌道を逸らし、三度目でさらに分断した。それでも、落ちた』

「……あれで?」


 彰人の声が低くなる。


『あれでも、だ』


 部屋が静かになった。

 怜司はもう一度、窓の外を見た。

 もし何もしなかったらどうなっていたのか。

 想像するための数字はなかったが、少なくとも道中で見た傷より大きかったのだろうということだけは分かる。


『あの場所には、かつて町があった』


 アルトリウスが言った。

 怜司の視線が戻る。


『完全な避難は間に合わなかった』

「……何人?」


 自分でも、聞く必要があったのかは分からなかった。

 アルトリウスは答えた。

 怜司の知らない単位だったが、翻訳魔術を通じて伝わってきた概念は、人の数として理解するには十分だった。


 少なくない。

 それだけだった。


 怜司は数字を覚えることをやめた。

 数字として考えるより、王都へ来る途中で見た人間を置いた方が分かりやすかった。

 店先にいた親子。荷車を引いていた獣人。畑にいた人たち。

 ああいう人間が、まとめていなくなった。


「……そら、きついな」


 口から出た言葉は、それだけだった。

 アルトリウスは頷かなかった。

 慰めを求めて話しているわけではないのだろう。


『問題は、星堕としだけではない』

「まだあるん?」


 怜司が思わず聞き返す。

 アルトリウスの表情は変わらなかった。

 だが、その横でセレスティアがほんのわずかに目を伏せた。


『星堕としが起きた地域では、その後、原因の分からない病が発生することがあります』


 今度はセレスティアだった。

 先ほどまで星堕としを研究対象として説明していた声に、わずかな重さが混じっている。その変化に気づいた彰人が、彼女へ視線を向けた。


「感染症?」

『そのように広がるものもあります。しかし、すべてではありません』


 セレスティアは説明を続ける。


『同じ地域にいた者でも発症する者としない者がいる。人から人へ移るものもあれば、そうでないものもある。治癒魔術が効くものもあれば、まったく効果を示さないものもあります』

「別々の病気ってこと?」

『そう考えています』

「原因は?」

『分かっていません』


 また、即答だった。

 彰人は次の質問を口にしかけて、やめた。

 その様子を見ていた怜司にも理由は分かった。

 これも同じだ。

 聞こうとしていることは、すでに調べている。

 目の前にいる古代エルフがどれほどの年月を生きてきたのか、怜司たちはまだ知らない。それでも、少なくとも自分たちとは比較にならないほど長い時間を生き、魔術研究を率いる人物であることは、これまでの会話から分かっている。

 その彼女が「分からない」と言っている。

 簡単に思いつく答えが残っている段階ではなかった。


 そのとき、部屋の扉が短く叩かれた。

 アルトリウスが視線を向ける。


『入れ』


 扉が開き、兵士が一人入ってくる。

 怜司たちがいることに一瞬だけ戸惑ったようだったが、すぐにアルトリウスの前まで進み、片膝をついた。


『北部第三避難区より報告です』


 室内の空気が変わった。

 ガルディオが腕を解き、アルネアの視線が兵士へ向く。先ほどまで会談の参加者として座っていた者たちが、ほんの一瞬で国を動かす側の顔に戻った。


『続けろ』

『今朝から確認されていた発熱について、発症者が増加しています。現在までに――』


 兵士が人数を告げる。


『隔離は?』

『完了しています。ただ、受け入れ施設が不足しています』

『第二施設を開け』

『第二施設は西部からの避難民で収容限界に達しています』


 アルトリウスは迷わなかった。


『第四倉庫を空けろ。備蓄は南側へ移す。医療院から人員を追加しろ』

『陛下、第四倉庫の備蓄を動かせば、北部への冬季供給が――』

『分かっている。今死ぬ者を、冬のために放置することはできない』

『はっ』

『ガルディオ』

『すぐに手配する』


 呼ばれる前から動く準備をしていたガルディオが、そのまま兵士と短く言葉を交わす。

 判断に要した時間は、ほとんどなかった。

 兵士が退出し、扉が閉まる。

 静けさが戻ってきても、怜司には先ほどまでと同じ部屋には感じられなかった。

 今の報告は、二人に危機を説明するために用意されたものではない。

 この国では、会談をしている間にも問題が増えている。


「今のも?」


 怜司が尋ねると、セレスティアが小さく息を吐いた。


『おそらくは。ただ、まだ断定はできません』

「おそらく?」

『星堕としに関連する病なのか、通常の感染症なのか。それを確認します。原因が違えば、対応も変わりますから』

「……大変やな」


 怜司が呟く。

 今度は、その言葉が先ほどより重かった。

 アルトリウスが言った「時間がない」という意味が、ようやく形を持ち始めていた。

 何年後に国が滅びるという予言があるわけではない。

 一つずつ、使えるものが減っている。

 土地が減る。食料が減る。人が減る。

 何かを守るために、別の何かを削る。

 今の短いやり取りだけでも、病人を収容するために冬の備蓄を動かすことになった。

 そうやって今日を越えても、明日には別の問題が起きるかもしれない。


「他の国は?」


 今度は彰人が尋ねた。


「エーテリアって、ヴァルネシアだけやないんですよね?」

『もちろんです』


 アルディウスが答える。


『大小さまざまな国家が存在する』

「避難させてもらうとかは?」

『交渉はした』

「結果は?」


 アルディウスがすぐに答えなかったことで、彰人にもおおよその結果は察せられた。


『受け入れに応じた国もある。ただし、すべての民を移せるほどではない』

『星堕としは、ヴァルネシアだけに起きているわけではない』


 アルトリウスが続けた。


『程度の差はあっても、他国も同じ問題を抱えている。自国の民を守りながら、我々の民まで受け入れられる国は多くない』

「そらそうか……」


 彰人はしばらく考えたあと、また背もたれに身を預けた。

 日本で災害が起きたからといって、日本人全員を別の国へ移住させられるかと考えれば分かりやすい。

 しかも、その国にも同じ災害が起きる可能性がある。


「じゃあ、国の中で移動しながら?」

『続けている』

「街作り直したり?」

『何度も』

「星を壊す研究も?」

『続けている』

「病気も?」

『当然だ』


 彰人が口を閉じた。

 質問が尽きたわけではない。

 だが、自分が今この場で思いつくようなことは、この国の人間たちがとうの昔に考え、試し、それでも解決できなかったのだと理解し始めていた。

 怜司にも、それは伝わった。

 何もせずに追い詰められたわけではない。

 考え始めたところでもない。

 考えられることを考え、できることを試し続けた結果が、今なのだ。

 アルトリウスが二人を見た。


『そして、裂け目が現れた』


 その一言で、話が日本へ戻ってきた。

 怜司は背もたれに預けていた身体を少し起こした。


『セレスティアから最初の報告を受けたとき、新たな土地へ通じている可能性を考えた』

「エーテリアのどっか?」

『そうだ』


 そこでセレスティアが説明を引き取る。


『ですが調査を進めるほど、既知の地域とは一致しないことが分かりました。そして今日、あなた方と接触した』

「日本に繋がってた」

『はい』


 怜司には、話がどこへ向かっているのか見え始めていた。

 隣を見ると、彰人も同じところへ辿り着いたらしい。先ほどまで未知の現象を追っていた目から好奇心が消え、代わりに警戒が浮かんでいた。


「それで、日本をどうするつもりなんですか?」


 アルトリウスは答えを避けなかった。


『まず、我々の民が生きられる土地であるかを調査する』

「その先は?」

『生存可能であると判断すれば、移住先として検討する』


 彰人の眉がわずかに動いた。


「日本側が受け入れなかったら?」


 アルトリウスは黙った。

 長い沈黙ではなかった。

 それまでほとんどの問いへ迷わず答えてきた王が、初めて言葉を選ぶような間だった。


『それでも、私はこの国の民を生かさなければならない』


 誰も動かなかった。

 その言葉に怒鳴り声も威圧もない。

 だからこそ、意味だけが残った。

 怜司は、その意味を確かめるように問いかけた。


「……侵略するってこと?」

『そう呼ばれるだろう』


 答えたのはアルトリウスだった。

 彼は怜司から目を逸らさない。


『あなた方の国に住む者から見れば、我々は土地を奪いに来る侵略者だ』

「分かってるんや」

『分からないほど愚かなつもりはない』


 怜司は少し意外に思った。

 もっと理由を並べるかと思っていた。

 自分たちは被害者だとか、生きるためだから仕方がないとか、そういう言葉を。

 だが、アルトリウスは何も足さなかった。

 民を守るために、他の国へ侵入する。

 それが侵略と呼ばれることも、その結果として相手に憎まれることも分かった上で、それでもやると言っている。


「俺らと敵になるかもしれんで」


 怜司が言った。

 その瞬間、部屋の端で立っていたガルディオの視線が、はっきりと怜司へ向いた。

 声を荒らげたわけではない。椅子に座った姿勢にも力みはなく、武器すら持っていない。背は高いが、鍛え上げた戦士が纏うような威圧感があるわけでもなかった。

 見た目だけなら、今この場で最も警戒すべき人間には見えない。

 それでも、ガルディオの感覚だけが、その判断を拒んでいた。


 魔力はほとんど感じない。

 何を使うのかも分からない。

 だからこそ、測れない。

 戦場を長く知る者にとって、測れない相手を弱いと決めつけることほど危険な判断はなかった。


 さらに、壁際には白金の獅子が伏せている。

 あの獣が人間に従っているようには見えない。主従ではなく、対等な存在としてそこにいる。

 その獣が当然のように隣にいる人間を、外見だけで判断する気にはなれなかった。


『できることなら、あなた方とは敵対したくない』


 アルトリウスの声が、ガルディオの思考を切った。

 それは王としての判断だった。

 だが、その言葉に反応したのはアルトリウスだけではなかった。


 セレスティアの視線が、ごく自然に彰人へ向いた。

 王都へ来るまでの短い時間だけでも、彰人は何度も彼女の魔術について問い、理解できないものを理解できないまま放置しようとはしなかった。最初に攻撃されたことについても、攻撃そのものを許すことと、事情を理解することを切り分けて考えていた。

 未知の世界から来た人間。

 本来なら、警戒すべき相手のはずだった。

 それなのに今、セレスティアの中にあるのは、警戒だけではない。

 もっと知りたいという興味がある。

 そして、その相手と次に会うときには、互いに敵として向き合わなければならないかもしれない。

 その可能性を、彼女は素直に歓迎できなかった。


「なんで?」


 怜司が尋ねた。

 彰人が横から兄を見る。


「そこ聞くん?」

「気になるやん」


 アルトリウスの口元が、ごくわずかに緩んだ。


『あなた方は最初に、こちらから攻撃を受けた』

「撃たれたな」

『それでも報復しなかった』

「別に痛くなかったし」

「兄貴基準で話すなって」

『その後、我々の話を聞くために、この国まで来た』

「暇やったし」

「絶対それ言うと思ったわ」


 彰人が額を押さえる。

 アルトリウスは今度こそ少し笑った。

 ほんの一瞬だったが、その表情だけを見れば、国の滅亡を語っていた王ではなく、怜司たちより少し年上の青年に見えた。

 しかし、笑みはすぐに消えた。


『理由が何であれ、あなた方は話を聞くことを選んだ。私は、その相手と戦いたいとは思わない』

「俺も別に戦いたないで」


 怜司は即答した。

 その答えを聞いてから、彰人も小さく頷いた。

 王都へ来るまでに見たものがある。

 目の前の王だけなら、まだ話は簡単だったかもしれない。

 だが、その背後には、ここへ来る途中で見た無数の生活がある。

 それを全部まとめて「敵」と呼ぶには、二人はもう知りすぎていた。


「でも、日本に住んでる人追い出すとか、傷つけるんやったら止めるで」

『分かっている』

「そっちも止まられへん?」

『止まれない』

「そっか」


 それだけで、話は行き止まりになった。

 敵になりたい者は、誰もいない。

 それでも、互いに守ろうとしているものが違う。

 怜司は腕を組み、椅子へ深く身体を預けた。


「他の方法は?」

『探している』

「まだ?」

『今もだ』

「ほな――」

『だが』


 アルトリウスの声が、怜司の続きを止めた。


『それが見つかるまで待つ時間が、我々にはない』


 怜司は黙った。

 少し前なら、「探したらええやん」と言えたかもしれない。

 だが今は、第四倉庫という場所から冬の備蓄を動かしたことを知っている。

 明日、また星が落ちるかもしれない。

 来月、別の病が広がるかもしれない。

 その間にも、使える土地と食料と人間は減っていく。


「どれくらい待てへんの?」

『分からない』


 最初と同じ答えだった。

 だが、今は意味が違って聞こえた。


『だからこそ、待てない』


 期限が分かっているなら、その日まで考えればいい。

 分からないから、今日動かなければならない。

 怜司はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙を見て、彰人も兄がいつもの調子だけで返せる話ではないと察した。


「兄貴」

「ん?」

「これ、俺らだけでどうこう言える話ちゃうで」


 怜司は彰人を見る。

 それは最初から分かっていた。

 日本という国をどうするかを、山へ遊びに来た大学生二人が決められるはずがない。それ以前に、十二神承の中ですら怜司一人が決めていい話ではない。


「せやな」


 怜司はアルトリウスへ向き直った。


「一回、帰るわ」

『仲間と話すのか』

「せやな。俺らだけで決める話ちゃうしな」

『あなた方のほかにも、同じような者がいると聞いている』

「全部で十二人」

『十二人……』

「十二神承って呼ばれてる」


 聞き慣れない言葉だったのだろう。アルトリウスだけでなく、セレスティアたちの視線も怜司へ集まった。


『ジュウニシンショウ……』


 セレスティアが、意味を確かめるようにその音を繰り返す。


「俺と彰人みたいなんが、あと十人」


 彰人の顔が即座にしかめられた。


「その説明やと全員兄貴みたいに聞こえるからやめて」

「違うん?」

「違うわ!」


 久しぶりに彰人の声が部屋へ響いた。

 フィルネが目を瞬き、セレスティアの口元がわずかに緩む。

 重くなりすぎていた空気が、一瞬だけほどけた。

 だが、アルトリウスの表情は完全には戻らなかった。


『どれほど待てばいい』


 怜司は答えようとして、やめた。

 ここで適当な期限を言えば、それは王国にとって約束になる。


「分からん」


 嘘をついても仕方がない。


「でも、なるべく早よ話す」

『その間も、我々は準備を続ける』

「……せやろな」


 彰人もその意味を考え、アルトリウスへ視線を向けた。


「裂け目から、もう人を送るつもりですか?」

『現時点では、調査以上の行動は命じていない』

「現時点では?」

『保証できるのは、そこまでだ』


 彰人の表情が硬くなる。

 それでも反論はしなかった。

 約束させたところで、この国の状況が変わるわけではない。守れない約束を取り付けても意味がない。


「じゃあ俺らも、そっちが来たら止めるで」


 怜司が言った。


『それも分かっている』


 敵対の宣言には聞こえなかった。

 だが、友好の約束でもない。

 できないことをできると言わない。待てないものを待つと言わない。

 互いに譲れないものがあることだけを確認する。

 それでも、話はできる。


「……まあ」


 怜司は頭を掻いた。


「なんか考えるわ」

「雑やなあ」


 彰人の呆れた声に、怜司は肩をすくめる。


「まだ何も分からんし」


 そう答えたあと、怜司は少しだけ考えた。

 日本のことも、エーテリアのことも、裂け目のことも、星堕としのことも。

 分からないことの方が多い。


「分からんのに、無理って決めてもしゃあないやろ」


 アルトリウスが怜司を見る。

 セレスティアも、アルディウスも、ガルディオも同じように視線を向けた。

 怜司は特に大したことを言ったつもりはなかった。


 まだ見ていないものがある。

 まだ知らないことがある。

 なら、できるかできないかを決めるには早い。


『……可能性を探すのか』


 アルトリウスが尋ねる。


「まあ、そんな感じ」

『見つからなければ?』


 怜司は少し考えてから答えた。


「そん時考える」

「兄貴、それ王様相手に言う答えちゃうで」

「まだ見つからんって決まってへんやん」


 彰人は何か言い返そうとして、やめた。

 兄がこういう人間だということを、今さら説明する必要もない。

 アルトリウスはしばらく怜司を見ていた。


『分かった』


 その声に希望があったのか、それとも単に一つの意見として受け取っただけなのか、怜司には分からなかった。


『待てる限りは待つ』

「おう」

『だが――』

「準備は止められへん」

『そうだ』

「分かってる」


 それ以上の約束はしなかった。

 できなかった。


     ◇


 王宮を出る頃には、陽はすでに西へ傾き、石造りの街並みに長い影を落としていた。

 昼間の明るさが残る一方で、店先には少しずつ灯りがともり始めている。通りには仕事を終えたらしい人々が増え、焼いた肉の香りに香辛料と煙の匂いが混じって流れてきた。

 子供を連れた親が店先で足を止める。

 荷物を抱えた獣人が、その横を避けるように歩いていく。

 行きに見たものと、大して変わらない。

 なのに怜司には、同じ景色には見えなかった。


「ほんま普通やな」


 隣を歩いていた彰人が怜司を見る。


「行きも言うてたな」

「おう」


 珍しく素直な返事だった。

 普通に暮らしている。

 だから困る。


 分かりやすい悪人ばかりが住んでいる国なら、もっと簡単だった。

 日本を奪おうとしている侵略者。

 それだけなら、来たら殴って帰せばいい。


 だが、この人たちは明日もここで暮らしたいだけなのだ。

 そして日本にいる人間も、同じだった。


「めんどいな」

「何が?」

「色々」

「まとめすぎや」


 彰人はそう言ったが、それ以上は聞かなかった。

 王都の外へ出ると、認識を逸らす魔術をかけられた場所には、二台の車がそのまま残っていた。

 怜司が意識して探せば普通に見える。

 だが、街道を歩く人々は、その一帯へわざわざ近づこうとはしない。

 彰人はその様子を見ながら、また何か聞きたそうな顔をした。

 行きに聞きそびれた疑問が残っているのだろう。

 しかし、口を開くより先にセレスティアが言った。


『帰りも私が同行します』

「王都おらんでええの?」

『裂け目の状態を確認する必要があります。それに、あなた方が戻った後も調査は続けます』

「働くなあ」

『怜司さんに言われると、なぜか複雑ですね』

「なんで?」

「兄貴、今日ほぼ遊びに来ただけやからな」

「異世界まで運転したで」

「ドライブやん」


 セレスティアが小さく笑う。

 先ほどまで、次に会うときには敵かもしれないと考えていた。

 それでも、こうして二人のやり取りを聞いていると、今日知り合ったばかりの相手だという感覚が少しずつ薄れていく。

 特に彰人は、王宮での会談を終えた今も、認識を逸らす魔術が気になって仕方がないらしい。

 その横顔へ目を向けたセレスティアは、ほんの少しだけ考えたあと、自分から声をかけた。


『彰人さん』

「はい?」

『先ほど、効果範囲について聞こうとしていましたね』

「あ、そうそう。それなんですけど――」

「今から始めるん?」


 怜司が呆れたように振り返る。


「気になるやろ!」

『私も、あなた方の技術について聞きたいことがあります』

「ほら」

「なんで意気投合してんねん」


 怜司が言うと、彰人とセレスティアが同時にこちらを見た。


「兄貴が興味なさすぎんねん」

『怜司さんが興味を持たなさすぎるのだと思います』

「なんで俺が怒られてんの?」


 二人が車へ向かって歩きながら魔術の話を始める。

 怜司はその背中を見送り、首を傾げた。


「仲ええな」

『お前が適当すぎるのだ』


 隣を歩く白金獅子が低く言った。


「そう?」

『そうだ』

「ふーん」

『聞いているのか』

「聞いてるで」

『本当か?』

「たぶん」

『怜司』

「はいはい」


 その間にフィルネも当然のように怜司の車へ向かっていた。

 助手席へ乗り込むと、シートベルトを見た瞬間、今度は言われる前に自分で装着する。

 怜司は運転席へ座りながら、それを横目で見た。


「覚えたんや」

『必要だと判断しました』

「何があったんやろな」

『怜司さんには分からないと思います』

「なんで?」


 フィルネは答えなかった。

 屋根の上から白金獅子の低い声が落ちてくる。


『出せ』

「はいはい」


 エンジンを始動する。

 その音に、行きほど驚く者はいなかった。

 セレスティアを乗せた彰人のマークXが後ろにつき、二台は夕方の街道へ戻った。


     ◇


 帰り道は、行きより静かだった。

 フィルネが道を案内する必要はほとんどない。怜司は一度走った道をおおよそ覚えていたし、分岐が近づけば助手席から短い指示が飛ぶ。

 舗装されていない街道をタイヤが蹴り、小さな振動がステアリングを通して掌へ伝わってくる。夕日に照らされた草原の向こうを鳥の群れが横切り、その影が傾いた光の中を流れていった。


 やがて、行きにも通った村が見えてくる。

 畑から戻る人。

 家の前で何かを洗っている人。

 道端を走る子供。

 その一つ一つを、怜司は今度は意識して見ていた。


『先ほどから静かですね』


 フィルネが言った。


「そう?」

『はい』

「運転してるし」

『行きも運転していました』


 怜司は一瞬だけ考えた。


「……ああ」


 珍しく、誤魔化さない返事だった。


「考えてんねん」

『何をですか?』

「どうしたらええんかなって」


 フィルネはしばらく黙っていた。


『私たちを、止める方法ですか?』

「それも」

『それも?』

「そっちも何とかせなあかんやろ」


 フィルネが怜司を見る。

 視線を感じたが、怜司は前を見たまま運転を続けた。


「日本に来て暴れるんやったら止める。でも、止めたらそっち困るやん」

『……はい』

「ほな、そっちも何とかせな終わらんやろ」

『私たちは、あなた方の国を奪おうとしているのですよ』

「まだ奪ってへんやん」


 怜司には、その違いは大きかった。

 やると決めたことと、もうやったことは同じではない。

 まだ何も始まっていないなら、変わる余地もある。


『もし、他の方法が見つからなければ?』

「そん時は止める」


 迷わず答えた。


「日本に住んでる人関係ないしな」


 フィルネは前を向いた。


『……そうですね』

「でも、まだ分からん」


 怜司はアクセルを少し戻した。

 村の近くを通るためだった。

 速度が落ち、窓の外の景色がゆっくり流れていく。


「分からんうちは、考えたらええやろ」


 フィルネは何も言わなかった。

 屋根の上の白金獅子も、珍しく口を挟まなかった。


     ◇


 裂け目へ戻った頃には、草原の向こうへ沈みかけた夕日が空の端を赤く染め、その上には青紫色の夜が広がり始めていた。

 ヴァルネシア側には、行きに残してきた兵士たちがまだいた。

 交代した者もいるらしく顔ぶれは少し変わっていたが、裂け目を中心に一定の距離を取り、周囲を警戒している。

 セレスティアが車を降りると、すぐに数人が集まってきた。

 短い報告を受け、彼女は青白く揺らぐ裂け目の縁へ近づく。


『大きな変化はありません』

「広がってない?」

『はい。少なくとも、あなた方が王都へ向かってから現在まで、目立った変化は確認されていません』


 彰人も車を降り、裂け目を眺める。

 内側には、日本側の杉林が見えていた。

 朝に見たときと同じように、青白く歪む縁の向こうに暗い杉の幹が並んでいる。

 たった数時間しか経っていないはずなのに、妙に懐かしく感じた。


「帰るか」


 怜司が言う。

 彰人も裂け目から視線を戻した。


「せやな」


 怜司が運転席へ戻ろうとすると、フィルネはその場に残った。


「来んの?」

『今回はここまでです』

「そっか」

『次に会うときは――』


 フィルネはそこで言葉を止めた。

 怜司は続きを待ったが、なかなか出てこない。


「何?」

『……いえ』

「気になるやん」

『何でもありません』

「なんやねん」


 セレスティアが小さく笑った。


『また、お会いできることを願っています』


 その言葉を聞いて、彰人が彼女へ視線を向ける。

 今日一日だけで、聞きたいことはいくつも増えた。


 裂け目のこと。

 翻訳魔術のこと。

 認識を逸らす魔術のこと。

 エーテリアそのものについても、まだ何一つ分かったとは言えない。


「俺も、まだ聞きたいこといっぱいあるんで」

『私もです』


 セレスティアはそう答えて、ほんの少し笑った。

 そのやり取りを横で聞いていた怜司が口を挟む。


「ほな、また会えるやろ」


 セレスティアが怜司を見る。


『そうでしょうか』

「ゲートあるし」

『そういう意味ではありません』

「?」

「兄貴、もうええから帰るで」

「はいはい」


 怜司は運転席へ座り直した。

 白金獅子は当然のように屋根へ飛び乗る。


『怜司』

「ん?」

『進め』

「分かってるって」


 ゆっくりとアクセルを踏む。

 車体が裂け目へ近づく。

 境界を越える瞬間にも、物理的な抵抗は何もなかった。

 フロント部分が青白い縁を抜け、続いて運転席が境界を通過する。

 その瞬間、世界の音が変わった。

 草原を渡っていた風の音が背後へ遠ざかり、代わりに杉林を満たす不自然な静けさが車内へ入り込んでくる。

 背後から聞こえたセレスティアの声も、途中から意味を失った。

 音としては聞こえる。

 だが、言葉にならない。

 意味の断片だけが、遅れて頭の中へ落ちてくる。


「戻ったな」


 怜司が呟く。

 スマートフォンを見る。

 画面上部にアンテナが戻っていた。

 その直後、止まっていた時間を取り戻すように通知が次々と表示され始めた。


「うわ」


 メッセージが増える。

 着信履歴が並ぶ。

 さらにグループチャットの通知が重なる。

 後ろから裂け目を越えてきたマークXが停車し、彰人が降りてきた。


「兄貴」

「おう」

「スマホ見た?」

「今見てる」

「何件?」

「いっぱい」

「俺もや」


 二人で画面を見る。

 十二神承のグループチャットには、最後に確認したときから大量のメッセージが増えていた。


 洋一。

 桜子。

 清隆。

 雅史。

 優斗。

 そのほかにも何人か。


「怒られるかな」

「怒られるに決まってるやろ」

「ちゃんと帰ってきたのに?」

「そこちゃうねん」


 彰人が深いため息をつく。

 そのとき、杉林の奥から足音が聞こえた。

 日本側の杉林では、少し前まで葉擦れの音すらまともに聞こえていなかった。

 だからこそ、その音は妙にはっきりと耳に届いた。


 二人分。


 怜司が顔を上げる。

 木々の間から、二人の人影が現れた。

 久世洋一と、土屋桜子だった。


 桜子の視線が最初に捉えたのは、裂け目の前に立っている怜司だった。

 一瞬だけ、その目が頭から足元まで動く。

 服に血はついていない。

 立ち方もいつも通り。

 車もある。

 白金獅子も屋根の上で平然としている。

 それを確認した直後、桜子の視線が後ろのマークXへ移った。


「彰人!」

「……あ」


 桜子が足を速める。


「何時間行っとんねん!」

「いや、色々あってん」

「連絡つかんし!」

「異世界やからしゃあないやん!」

「分かっとるわ!」


 彰人の前まで来た桜子が、今度は隠そうともせず頭から足元まで確認する。


「怪我してへん?」

「してへんって」

「ほんまに?」

「ほんまほんま」

「ならええけど……」


 その様子を横から見ていた怜司が、少しだけ首を傾げる。


「ただいま」


 桜子が振り返った。


「おかえり」

「俺の心配は?」

「してへん」

「即答やん」

「見たら分かるやろ。ピンピンしとるやん」

「まあ、せやけど」


 桜子はそう言ってから、もう一度だけ怜司を見る。

 確認する必要などないという顔をしていたが、その視線が先ほどと同じところを見ていることに、怜司は気づかなかった。

 白金獅子だけが、屋根の上からその様子を見下ろしている。


『お前は心配されていないのか』

「信用されてんねん」

「都合ええ解釈すんな!」


 桜子の声が杉林に響く。

 その少し後ろで、洋一は駆け寄ってこなかった。

 怜司が帰ってくるかどうかを確かめるために、ここへ来たわけではない。


 裂け目から戻った二台の車。

 怜司と彰人。

 白金獅子。

 そして境界の向こうに残る、セレスティアたち。

 洋一は順番にそれらを見て、最後に二人の顔へ視線を戻した。


 怪我はない。

 追われてもいない。

 だが、出ていったときとは明らかに違うものを持ち帰ってきている。


「……面倒なの持って帰ってきたな」


 怜司が洋一を見る。


「なんで分かんねん」

「お前の顔だ」

「どんな顔?」

「自分で分かってないならいい。」

「なんやそれ」


 怜司は納得していなかったが、洋一は説明する気がないらしい。

 その様子を見て、彰人が小さく息を吐いた。


「長なるで」

「構わない」


 洋一は即答した。


「ここで話す?」


 怜司が聞く。


「いや」


 洋一はスマートフォンを取り出す。


「全員集める」

「今日?」

「今からだ」

「マジで?」

「お前ら二人だけで持ち帰った話じゃないんだろ」


 怜司は答えなかった。

 その沈黙だけで十分だったらしい。

 洋一が画面を操作する。


「なら、明日じゃ遅い」


 その言葉に、怜司は少しだけ目を細めた。

 ついさっき、同じようなことを聞いた気がした。

 時間がない。

 向こうも。

 こちらも。


「……そっか」


 怜司はもう一度、裂け目を見る。

 青白く揺らぐ境界の向こうでは、セレスティアがこちらを見ていた。

 声はもう、まともには届かない。

 それでも彼女が何かを待っていることだけは分かった。

 怜司は片手を上げる。

 セレスティアも、小さく手を上げた。

 その隣で、彰人も手を上げる。

 セレスティアの視線がそちらへ移り、今度は先ほどより少しだけ大きく手を振った。

 怜司が横を見る。


「俺より反応ええやん」

「知らんがな」

「仲ええな」

「今日会ったばっかりや!」

「そうやったっけ」

「兄貴ぃ!」


 桜子が二人を見比べる。


「何の話?」

「彰人がエル――」

「兄貴、余計なこと言わんでええ!」

「なんでやねん」


 彰人に遮られ、怜司は首を傾げた。

 少しだけ戻ったいつもの空気の向こうで、裂け目は変わらず揺らいでいる。

 まだ敵ではない。

 だが、味方でもない。

 次に会うとき、どちらになっているのかも分からない。

 ただ一つだけ確かなのは、答えを出すために使える時間が、思っていたよりずっと少ないということだった。


「ほな、行こか」


 怜司が言う。


「会議だ」


 洋一が歩き出す。


「腹減ったんやけど」

「知らん」

「飯食いながらでもええ?」

「話が先だ」

「えー」

「兄貴」

「はいはい」


 四人が杉林の中を歩き始める。

 その背後では、二つの世界を繋ぐ裂け目が、何も答えを示さないまま青白く揺らいでいた。

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