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十二神承   作者: 境塚 透
救えないもの
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36/37

穏やかな国の、その陰で

 森の中を進む道は、集落から離れるにつれて、少しずつその様子を変えていった。

 木々の間を縫うように続いていた道は、いつの間にか二台の荷車がすれ違えるほどの幅を持つようになっている。

 足元の土はよく踏み固められ、ところどころには雨水を逃がすための浅い溝が設けられていた。

 道の両側には、背の高い木々が変わらず立ち並んでいる。

 けれど、その間隔は先ほどまでよりも広くなっていた。

 枝葉の重なりが薄くなった場所からは午後の陽光が差し込み、道端に生えた草の先を明るく照らしている。

 風が吹くたびに木々の葉が揺れ、地面に落ちた光の模様がゆっくりと形を変えた。


 日和は、その様子を眺めながら歩いていた。

 狐狸族の集落を出てから、しばらく経っている。

 昼食を囲んだ広間での会話や、帰り際に声を掛けてくれた住民たちの姿が、まだ頭の中に残っていた。


 あの集落には、日和の知らない暮らしがあった。

 人間によく似た姿の者もいれば、耳や尾に獣の特徴を残した者もいる。

 建物の造りも、使われている道具も、日本で見慣れたものとは少しずつ違っていた。

 それでも、畑を耕し、食事を作り、家族や隣人と言葉を交わす姿には、どこか親しみを覚えるものがあった。

 初めて訪れた場所なのに、思っていたほど遠い世界には感じられなかった。


 もっとも、そう思えるようになったのは、実際にあの場所を歩き、住民たちの姿を見たからなのだろう。

 日和は、少し前を歩くクオンの背中へ目を向けた。

 集落を出てからも、彼女の振る舞いは変わっていない。

 時折すれ違う住民たちがクオンに気づくと、驚いたように足を止め、丁寧に頭を下げていく。

 クオンはそのたびに歩みを緩め、柔らかな笑みを返していた。

 先ほども、荷物を積んだ荷車を引く年配の獣人が、彼女の姿を見つけて声を掛けてきた。

 クオンは足を止め、相手の近況を尋ねていた。

 短い会話だった。

 それでも、去っていく獣人の表情が嬉しそうだったことを、日和は覚えている。

 この国では、クオンはどのような存在なのだろう。

 長たちが見せた敬意や、住民たちの親しげな態度を思い出すと、単に立場が高いというだけでは説明できないように思えた。


 けれど、今はまだ、それを言葉にするだけの知識がなかった。

 日和は視線を戻し、道の先へ目を向けた。

 森の奥から、車輪が土を踏む音が聞こえてくる。

 やがて、布で覆われた大きな籠をいくつも積んだ荷車が姿を現した。

 それを引いているのは、人間に近い姿をした獣人だった。頭には短い角が二本生えており、首元から肩にかけて薄茶色の毛が見えている。

 荷車が近づくと、一行は自然に道の端へ寄った。

 獣人は軽く頭を下げ、荷車を引いたまま通り過ぎていく。

 籠の隙間からは、青々とした葉物野菜が覗いていた。


 日和は、遠ざかっていく荷車をしばらく目で追った。

 あの荷物は、どこへ運ばれるのだろう。

 狐狸族の集落から来たのか、それとも別の場所から向かってきたのか。

 この道を歩いているだけでも、先ほどまでとは違う種族の姿を見かけるようになっていた。


「ねえ、智希君」


 日和は隣を歩く智希へ顔を向けた。


「中央って、ここからどれくらいなの?」

「歩いて一時間くらいかな。中央区の入口までは、そんなに遠くないよ」

「そうなんだ」


 日和は少し意外に思った。

 狐狸族の集落は、森に囲まれた静かな場所だった。

 国の中心と呼ばれる場所は、もっと離れたところにあるものだと、何となく想像していたからだ。


「もっと遠いのかと思ってた」

「そう?」

「うん。さっきの集落って、森の奥にある感じだったでしょ? だから、ほかの場所へ行くのも大変なのかなって」


 智希は日和の言葉を聞いて、道の先へ視線を向けた。


「確かに、そう見えるかもしれないね。でも、ここは中央区に近い場所だから」

「じゃあ、ほかの領はもっと遠いんだ?」

「場所によるよ。神獣国家はかなり広いし、それぞれの種族が暮らしやすい環境も違うからね」

「……領って、さっき長たちが話してたやつ?」

「うん」


 智希は頷いた。


「この国には十二の領があるんだ。さっきまでいたところは、狐狸族が中心になって暮らしている地域だね」

「十二もあるんだ……」


 日和は、思わず指を折りかけた。

 十二という数字だけを聞けば、それほど多くは感じない。

 けれど、一つの領が先ほどの集落だけで終わるわけではないのだろう。

 森の中には、まだ日和が見ていない集落や、住民たちの暮らす場所があるはずだった。

 それが十二もあるという。

 今朝、初めて足を踏み入れたこの国の広さを、日和はまだ想像できずにいた。


「でも、どうして分かれてるの?」


 そう尋ねると、智希は少し考えるように視線を上げた。


「一番大きいのは、暮らしやすい環境が違うことかな」

「環境?」

「うん。例えば、森の中が暮らしやすい種族もいれば、水辺を好む種族もいる。広い草原が必要な種族もいるし、気温や湿度が違う方が過ごしやすい種族もいるんだ」


 日和は、先ほどの集落を思い浮かべた。

 森に囲まれた家々、畑や小さな広場。

 住民たちは、それぞれの暮らしに合わせた建物や道具を使っていた。

 あれが狐狸族にとって暮らしやすい環境なのだとすれば、ほかの種族にも、それぞれに適した場所があるのだろう。


「そっか。人間みたいに、どこでも同じように暮らせるわけじゃないんだね」

「そうだね。もちろん、環境が違っても暮らせる種族はいるけど、無理に合わせる必要もないから」


 智希の説明を聞きながら、日和は周囲を見渡した。

 今歩いている場所も、先ほどまでとは少しずつ景色が変わってきている。

 木々の密度が薄くなり、道の向こうには草地が見えるようになっていた。

 森の中に点在していた低木も減り、代わりに背の高い草が風に揺れている。

 道の脇には浅い水路が現れ、澄んだ水が静かに流れていた。

 その向こうには、石を積んで作られた低い囲いが続いている。

 自然の景色の中に、少しずつ人の手が加わった場所が増えてきていた。


「でも、それだと……」


 日和は、ふと思いついた疑問を口にした。


「違う領の人とは、あんまり会わないの?」

「そんなことはありませんよ」


 智希が答えるより先に、隣を歩いていた良澄が穏やかに口を開いた。

 日和が振り向くと、良澄は道の向こうへ目を向けた。

 荷車の通った後に車輪の跡がつき、異なる領のもの同士が移動しているのだろうことは見てとれる。


「先ほどの荷車も、別の領から来た方かもしれません。物を運ぶ方もいれば、商売をする方もいますし、ほかの領に住まいを移す方もいます」

「じゃあ、行き来は自由なんですね」

「ええ。領が分かれているからといって、別々の国というわけではありませんから」


 日和は、少し安心したように頷いた。

 領という言葉からは、どうしても境界や区切りを連想してしまう。

 日本の都道府県のようなものなのか、それとも国境に近いものなのか。

 話を聞く限り、そのどちらとも少し違うらしい。

 種族ごとに暮らしやすい土地があり、そこに集まって生活している。

 けれど、ほかの場所へ行くことを妨げるものではない。

 日和は、その仕組みを頭の中で整理しようとした。


「……なんだか、面白いね」

「何が?」


 智希が尋ねる。


「だって、みんな違う場所に住んでるのに、同じ国なんでしょ?」

「うん」

「それって、当たり前みたいだけど、結構すごいことなんじゃないかなって」


 智希は少し目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「そうかもしれないね」


 日和は、自分でもうまく説明できないまま、もう一度道の先へ目を向けた。

 日本でも、地域によって暮らし方や文化は違う。

 けれど、この国では、その違いがもっと大きいのだろう。

 体の大きさも、姿も、生活に必要な環境も違う。

 それでも、同じ道を使い、物を運び、行き来している。

 先ほどすれ違った獣人の荷車が、ふと思い出された。

 あの獣人にとっては、別の種族が暮らす場所を訪ねることも、特別な出来事ではないのかもしれない。

 日和にとっては、まだ何もかもが珍しい。

 けれど、ここに暮らす人々にとっては、それが日常なのだ。

 そう考えると、少し不思議な気持ちになった。


 道はやがて緩やかな下り坂になった。

 木々の間から、水の流れる音が聞こえてくる。

 少し進むと、小さな川に架けられた石造りの橋が見えてきた。

 欄干は低く、長い年月の間に角が丸くなっている。表面には薄い苔が残っていたが、人が触れる場所は滑らかに磨かれていた。

 橋の下を流れる水は澄んでおり、川底に沈んだ丸い石がはっきりと見える。

 水辺には背の高い草が生い茂り、その間を小さな生き物が素早く動いていた。

 日和は橋の中央で少し足を緩め、欄干越しに川を覗き込んだ。

 水面には、午後の陽光が細かく反射している。

 風が吹くと、その光がいくつにも砕け、流れに沿って揺れていた。


「……綺麗」


 思わず呟くと、隣に来たクオンが微笑んだ。


「この辺りの水は、森の奥から流れてきているのですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。少し先へ進みますと、また違った景色をご覧いただけると思います」


 日和は顔を上げてクオンのことを見る。


「違った景色?」

「はい。中央へ近づくにつれて、様々な種族の方々が行き交うようになりますから」


 クオンは橋の向こうへ目を向けた。

 その視線の先では、森が少しずつ開け、木々の間から広い草地が覗いていた。


「先ほどのお話にもございましたが、皆様がそれぞれの領だけで暮らしているわけではありません。異なる種族の方々が、同じ場所で生活していることもございます」

「そうなんですね」


 日和は、もう一度川へ視線を落とした。

 水は、森の奥から流れてきているのだという。

 今いる場所を通り、さらに別の土地へ続いていくのだろう。

 その流れを眺めていると、先ほど智希たちが話していたことが、少しだけ実感を伴って理解できるような気がした。


 それぞれの種族に暮らしやすい場所がある。

 けれど、その土地だけで世界が完結しているわけではない。

 道も、水も、人々の行き来も、どこかでつながっている。

 日和は欄干から手を離し、皆の後を追った。

 橋を渡り終えると、周囲の景色はさらに明るくなった。

 それまで頭上を覆っていた枝葉が途切れ、道の両側に広い草地が現れる。

 森は完全になくなったわけではない。

 少し離れたところには、まだ背の高い木々が立ち並んでいる。

 けれど、その手前には小さな畑や、低い柵で囲まれた土地が点在していた。


 道の向こうからは、人の話し声がかすかに聞こえてくる。

 日和は、自然とそちらへ目を向けた。

 森の縁に沿うように、いくつかの建物が並んでいる。

 屋根の高さも形も揃っておらず、木造の小さな家もあれば、石を積んだ壁を持つ建物もあった。

 建物の間には、洗濯物のような布が吊るされている。

 その下を、何人もの人影が行き来していた。

 籠を抱えた者、荷車を押している者、地面に何かを広げ、向かい合って話している者。

 その中に、日和は小さな姿を見つけた。


「……あれ?」


 思わず歩みを緩める。

 よく見ると、子供たちが何人も集まっていた。

 ある子供は大きな籠を抱え、別の子供はその中身を確かめている。

 少し離れた場所では、数人が輪になって何かを相談しているようだった。

 そのうちの一人が手を上げると、別の子供が駆け寄ってくる。

 何かを言い合ったあと、二人で籠を持ち上げ、建物の方へ運んでいった。


 その様子には、どこか慣れたものがあった。

 大人たちの姿も見える。

 けれど、子供たちは誰かの指示を待っているようには見えなかった。

 それぞれが自分の役割を分かっているかのように動き、時折立ち止まっては、仲間と言葉を交わしている。

 日和は、その光景をしばらく見つめていた。

 先ほどの集落でも、子供たちが集まって何かをしている姿を見かけた。

 けれど、目の前の場所は、それとは少し雰囲気が違うように感じられる。

 子供たちの数が多いからだろうか。

 それとも、家々の間を行き来する姿が、どこか大人たちの仕事ぶりに似ているからだろうか。

 何が違うのか、日和にはまだ分からなかった。


「……子供が、たくさんいるんですね」


 隣を歩いていたクオンが、日和の視線を追った。


「ええ」


 クオンは穏やかに頷いた。


「あの辺りには、子供たちが集まって暮らしている場所がございます」

「子供たちが……?」


 日和は思わず聞き返した。

 学校や遊び場なら、子供たちが集まっていることも不思議ではない。

 けれど、クオンは今、暮らしていると言った。

 日和はもう一度、建物の方へ目を向けた。

 小さな家々の間では、子供たちが相変わらず忙しそうに動いている。

 誰かが笑い声を上げた。

 それにつられるように、近くにいた子供たちも笑い出す。

 少し離れたところでは、年長らしい子供が何かを説明し、それを聞いていた幼い子供が何度も頷いていた。

 日和には、彼らが何をしているのかまでは分からない。

 ただ、その表情は明るく、誰もが当たり前のように自分の居場所を持っているように見えた。

 クオンは、そんな子供たちの姿を静かに見つめていた。

 日和は、その横顔へ目を向ける。

 先ほどの集落で住民たちと接していたときと同じ、柔らかな表情だった。

 この場所についても、クオンはきっと色々なことを知っているのだろう。

 日和は少し迷ってから、もう一度声を掛けた。


「……あの、クオンさん」

「はい」

「ここって、どういう場所なんですか?」


 クオンは、日和の問い掛けを受けて、道の向こうに広がる小さな集落へ視線を戻した。

 森の縁に沿って並ぶ建物の間では、子供たちが相変わらず忙しそうに動き回っている。

 先ほど二人で運んでいた大きな籠は、いつの間にか建物の軒先に置かれ、今度は別の子供がその中身を取り出していた。

 少し離れた場所では、年長らしい少年が地面に何かを描きながら、周囲に集まった子供たちへ説明している。

 その話を聞いていた幼い少女が何度も頷き、やがて別の子供の手を引いて駆け出していった。

 誰かが大きな声を上げると、それに応じる声が別の場所から返ってくる。

 日和には、彼らが何をしているのかまでは分からなかったが、そのやり取りには、遊びとも仕事ともつかない活気があった。


「ここは、子供たちが自分たちで暮らしを営んでいる場所なのですよ」


 クオンの言葉に、日和は少し驚いて顔を向けた。


「自分たちで、ですか?」

「ええ。様々な事情で親御さんと暮らせなくなった子供たちが、仲間とともに生活しているのです」


 日和は、もう一度建物の方へ目を向けた。

 子供たちの姿は、先ほどと変わらず明るい。何人かが大きな布を広げ、端を持ち上げながら笑い合っている。

 その近くでは、別の子供が小さな木箱をいくつも積み重ねていた。

 親と一緒に暮らしていない子供たち。

 そう聞いて最初に思い浮かんだのは、日本で見たことのある児童養護施設だった。

 けれど、目の前に広がる光景は、日和が想像していた施設の様子とは随分と違っている。

 建物は一つにまとまっているわけではなく、子供たちも同じ場所で同じことをしているわけではない。

 年齢もまちまちで、何かを運ぶ子供がいれば、建物の前で座り込んで話している子供もいる。

 その間を、大人たちが時折通り過ぎていた。


「でも、大人の人もいますよね?」

「はい。子供たちだけで、すべてを賄えるわけではございませんから」


 クオンは、少し先にいる一人の女性へ目を向けた。

 女性は大きな袋を抱え、建物の前に立っていた。近くにいた子供たちが集まると、袋の中から何かを取り出しながら話し始める。

 やがて、一人の少年が手を上げた。

 女性は頷き、袋を少年へ手渡すと、何かを付け加えるように言葉を掛けた。少年は仲間を二人ほど呼び寄せ、受け取った袋を持って歩き始める。

 女性はその後ろ姿を見送ると、別の建物へ向かっていった。


「ああして、仕事をお願いすることもございます。子供たちにできることを任せ、必要なものをお渡ししたり、暮らしの中で困っていることがないか、自然に確かめたりしているのです」

「……お仕事なんですね」

「ええ。もちろん、難しいことや危険なことを任せるわけではありません。子供たちにも、自分たちでできることがございますから」


 日和は、袋を受け取った少年たちを目で追った。

 三人は途中で立ち止まり、何かを相談している。やがて一人が別の方向へ走り出し、残った二人は袋を抱え直して歩き始めた。

 その様子は、誰かに細かく指示されて動いているというより、引き受けた仕事を自分たちで進めているように見えた。


「……すごいですね」


 日和は思わず呟いた。

 親と暮らしていない子供たちが集まる場所と聞けば、どうしても大人が生活を管理している光景を想像してしまう。

 食事の時間が決まっていて、寝る場所が決まっていて、外へ出るときには誰かに知らせる。

 日和が知っている施設の仕組みは、少なくともそうしたものに近かった。

 けれど、ここでは子供たち自身が何をするか考え、仲間と相談しながら動いている。

 大人たちは、その様子を遠くから見守り、必要なときに手を貸しているようだった。


「子供たちだけで、ちゃんと生活できるんですか?」


 日和の問いに、クオンは穏やかに頷いた。


「子供たちが自分たちで決めていることは多いのですが、すべてを子供たちだけに任せているわけではございませんよ。食事や休む場所については、周囲の方々も力を貸しております」


 クオンが示した先には、ほかの建物より少し大きな家があった。

 開け放たれた扉の向こうでは、何人かの大人が忙しそうに動いている。軒先には大きな鍋が置かれ、近くの台には野菜の入った籠が並べられていた。

 その前を、幼い子供が二人、手をつないで通り過ぎていく。

 一人が建物の中を覗き込むと、そこにいた大人が何かを言い、子供たちは笑いながら走っていった。


 日和は、そのやり取りを見つめていた。

 子供たちの生活を支える場所は、確かに存在している。

 ただ、それが子供たちの行動を一つひとつ決める場所にはなっていないらしい。


「ご飯を食べたり、寝たりする場所はあるんですね」

「はい。安心して休める場所は必要ですから」


 クオンは小さく微笑んだ。


「けれど、どこで誰と過ごすかまで、すべて決めてしまう必要はないと考えられているのです」


 日和は、その言葉を聞いて少し考え込んだ。

 日本では、子供の安全を守るために、大人が居場所を把握することは当たり前のように思われている。

 少なくとも、日和自身はそうした環境で育ってきた。

 学校へ行くにも、友達の家へ遊びに行くにも、どこへ行くのかを誰かに伝える。帰りが遅くなれば、家族が心配する。

 それは、子供を大切に思っているからこその行動なのだろう。

 けれど、この国では、その考え方が少し違うのかもしれない。


「……じゃあ、別の場所へ遊びに行ったりしてもいいんですか?」

「ええ。もちろんです」


 クオンは、道の向こうを歩いていく数人の子供たちへ目を向けた。

 彼らは荷物を持っているわけでもなく、互いに話しながら森の方へ向かっている。

 途中で一人が立ち止まり、別の道へ手を振ると、残った子供たちはそのまま歩いていった。


「ほかの仲間のところへ行く子もおりますし、別の領へ向かう子もおります。子供たちが集まる場所は、ここだけではございませんから」

「別の領まで……?」


 日和は少し驚いた。

 先ほど智希から、領の間を行き来することは自由だと聞いている。

 それでも、子供たちまで同じように移動しているとは思っていなかった。

 日和が知る日本では、幼い子供が一人で遠くへ出掛けることは、あまり考えられない。

 まして、親と暮らしていない子供なら、なおさら周囲の大人が気に掛けるのではないだろうか。


「危なくないんですか?」


 問い掛けると、クオンはすぐに答えることなく、子供たちの姿へ視線を向けた。


「危険がまったくないとは申し上げられません。けれど、子供たちがどこへ行っても、困っていれば手を差し伸べる方がいる。それが、この国では自然なことなのです」


 日和は、その言葉を静かに聞いていた。

 どこへ行っても、誰かが助けてくれる。

 それは、簡単なことのようでいて、実際にはとても難しいことなのではないだろうか。

 知らない子供が困っているとき、誰かが手を差し伸べる。

 食事を必要としていれば食べ物を渡し、休む場所がなければ眠れる場所を用意する。

 その子供がどこから来たのか、どこへ向かうのかを、必ずしも確かめるわけではない。


 ただ、目の前にいる子供が困らないようにする。

 そうしたことが、この国では特別な善意としてではなく、日々の暮らしの一部になっているのだろう。


「……なんだか、みんなで育ててるみたいですね」


 日和が呟くと、クオンは嬉しそうに目を細めた。


「ええ。そうかもしれませんね」


 その返事は、どこか懐かしいものを思い出しているようにも聞こえた。

 一行が建物の近くまで進むと、子供たちの声がはっきりと聞こえるようになった。

 先ほど地面に何かを描いていた少年は、今度は別の子供たちと一緒に木箱を運んでいる。

 少し年上に見える少女が、その様子を見ながら声を掛けていた。

 少年が何か言い返すと、少女は笑い、近くにいた子供たちもつられるように声を上げた。

 そのやり取りには、年長者が一方的に命令しているような雰囲気はなかった。

 ただ、何をするかを決める者がいて、それを手伝う者がいる。

 必要に応じて集まり、仕事が終われば、それぞれ別の場所へ向かっていく。

 日和には、そんな関係に見えた。


「あの子たちの中に、まとめ役みたいな子もいるんですか?」

「はい。年長の子供たちが中心になって、皆で相談することもございます」


 クオンは、木箱を運ぶ子供たちへ目を向けた。


「ただ、いつも同じ子供たちが集まっているわけではありません。その日に一緒にいる仲間で、できることを考えているのですよ」

「その日ごとに?」

「ええ。今日はここにいても、明日は別の場所へ行く子もおりますから」


 日和は、先ほど別の道へ向かっていった子供たちを思い出した。

 誰かが引き止める様子はなかった。

 別れるときに手を振り、そのままそれぞれの道を進んでいった。

 あれも、この場所ではごく普通のことなのだろう。

 日和が学校で経験してきた集団生活とは、随分と違っている。

 同じ教室に、同じ顔ぶれが集まる。

 誰かが休めば、先生が名前を確認する。

 その仕組みを当然のものとして育ってきた日和には、ここで暮らす子供たちの自由さが、少し眩しく感じられた。


 けれど、それは誰にも気に掛けられていないということではない。

 仕事を頼みに来る大人がいて、食事を用意する人がいて、眠る場所を整える人がいる。

 子供たちは、その中で自分たちの暮らしを作っている。

 日和は、もう一度周囲を見渡した。

 建物の間では、子供たちが笑いながら行き交っている。

 大きな籠を抱えた少年が、すれ違った少女に何かを言い、少女が笑いながら手を振った。

 その向こうでは、幼い子供が地面に座り込み、小さな石を並べて遊んでいた。

 近くを通り掛かった年長の子供が、その様子を覗き込み、何かを一言掛けてから歩いていく。

 誰もが、それぞれの時間を過ごしている。


 日和は、ふと先ほどの狐狸族の集落を思い出した。

 あそこでも、子供たちは自分たちなりに考え、何かを相談していた。

 そのときは、ただ楽しそうだと思っただけだった。

 けれど、今こうして話を聞いてみると、あの光景にも、日和が知らなかった暮らしの仕組みがあったのかもしれない。


「……私、知らないことばっかりですね」


 思わず口にすると、智希が隣で小さく笑った。


「まだ来たばっかりだからね」

「そうなんだけど……」


 日和は少し照れたように笑い返した。


「同じように見えることでも、ちゃんと話を聞くと全然違うんだなって」

「うん。そういうことは、結構あると思うよ」


 智希は、その言葉を聞いて頷いた。

 日和は、もう一度子供たちの方へ目を向けた。

 彼らにとっては、ここでの暮らしが当たり前なのだ。

 日和が珍しいと感じていることも、特別だと思っていることも、きっと彼らにとっては日常の一部に過ぎない。

 そう考えると、今まで見てきたものが、少し違った形に見えてくるような気がした。


 やがて、一行は建物の並ぶ一角を通り過ぎた。

 子供たちの声は、しばらく背後から聞こえていたが、道が緩やかに曲がるにつれて、少しずつ遠ざかっていく。

 日和は一度だけ振り返った。

 木々の間から、まだ小さな屋根がいくつか見えている。

 その手前では、子供たちが相変わらず忙しそうに動き回っていた。

 誰かが笑い、別の誰かが大きな声で応じる。

 そんな声が、午後の穏やかな風に乗って届いてくる。


 日和は、その光景をしばらく見つめてから、再び前を向いた。

 道の先では、森がさらに薄くなり、遠くに広い空が見え始めている。

 中央区へ続く道は、まだ先へと延びていた。


 森を抜けてから、道の周囲には少しずつ人の手が加わった景色が増えていった。

 木々に囲まれていた道は緩やかな丘陵地へと続き、左右には畑や草地が広がっている。

 遠くには低い石垣に囲まれた農地が点在し、その間を細い水路が縫うように流れていた。


 道そのものも、先ほどまでとは様子が違っている。

 踏み固められた土の上には細かな砂利が敷かれ、荷車が通る部分には、ところどころ平たい石が埋め込まれていた。

 長い年月をかけて整えられてきたのだろう、道の両脇には浅い排水溝が続き、雨水が畑へ流れ込まないよう工夫されている。


 日和は、足元の変化を感じながら歩いていた。

 狐狸族の集落を出た頃には、周囲に広がるのはほとんど森ばかりだった。それが今では、遠くに建物の屋根が見え、道を行き交う人々の姿も珍しくなくなっている。

 荷物を積んだ荷車が一行を追い越していったかと思えば、反対側からは、旅装束のような衣服を身に着けた二人連れが歩いてくる。

 頭に角を持つ者もいれば、背中に翼を畳んだ者もいる。

 人間に近い姿をしている者でも、耳の形や瞳の色、肌の質感が少しずつ異なっていた。

 その中には、日和には何の種族なのか見当もつかない者もいたが、行き交う人々は互いの姿を特に気にする様子もなく、道を譲り合いながら進んでいる。

 先ほどまで見ていた子供たちの暮らしもそうだったが、この国では、日和が珍しいと感じることの多くが、ごく当たり前の日常なのだろう。


 そんなことを考えながら歩いていると、道の先に大きな建造物が見え始めた。

 最初に目に入ったのは、遠くに続く石造りの壁だった。

 周囲の丘陵に沿うように緩やかな曲線を描き、その一部には、背の高い塔のようなものが立っている。

 壁の向こうには建物の屋根が幾重にも重なり、さらに奥には、ひときわ大きな建造物の上部が覗いていた。

 日和は思わず歩みを緩めた。


「……あれが、中央区?」


 隣を歩いていた智希が、日和の視線を追って頷いた。


「うん。あの壁の向こうが中央区だよ」


 日和は、改めて遠くの街並みを見つめた。

 狐狸族の集落とは、明らかに規模が違っている。

 森の中に点在する家々とは異なり、壁の向こうには数え切れないほどの屋根が並んでいた。

 遠目にも建物の高さや形が様々で、ところどころには広場らしい空間も見える。

 中央という言葉から、何となく大きな街を想像してはいた。

 けれど、実際に目にすると、その広がりは想像していた以上だった。


「……すごいね。街なんだ」

「そりゃ街やろ」


 少し後ろを歩いていた彰人が、可笑しそうに言った。

 日和は振り返り、少し困ったように笑う。


「そうなんだけど、なんていうか……もっと特別な場所なのかと思ってた」

「特別な場所?」

「うん。神様みたいな人たちがいる国の中心だから、もっとこう……神殿みたいなところなのかなって」


 彰人は一瞬考えるような顔をしたあと、肩を揺らして笑った。


「まあ、そういうの想像するんも分からんでもないけどな」


 日和は、もう一度街の方へ目を向けた。

 確かに、遠くに見える大きな建造物には、どこか荘厳な雰囲気がある。

 けれど、その手前に広がっているのは、明らかに人々が暮らすための街だった。

 建物の間には道が通り、屋根の上には煙突のようなものも見える。壁の外側にも小さな建物が並び、畑から戻ってきたらしい人々が、荷車を引きながら街へ向かっていた。

 特別な場所であることと、そこで普通の暮らしが営まれていることは、別に矛盾しないのかもしれない。


 日和がそんなことを考えているうちに、一行は中央区の入口へ近づいていった。

 石造りの壁は、近くで見るとかなりの高さがあった。

 積み重ねられた石には年月を感じさせる風合いがあり、表面のところどころには、雨風に削られたような跡が残っている。

 それでも壁全体が古びているわけではなく、補修されたらしい部分には、周囲よりも色の明るい石が使われていた。

 入口には大きな門が設けられている。

 分厚い木材を組み合わせ、金属の補強を施した扉は、左右に開かれたままになっていた。

 門の上部には装飾的な彫刻が施されていたが、近づいてみると、そこにも長い年月の間に少しずつ手が加えられてきたような痕跡が見える。


 門の前には、何人かの衛兵が立っていた。

 彼らは揃いの装備を身に着けているものの、日和が想像していたほど物々しい雰囲気ではなかった。

 荷車が近づけば道を空け、通行人に声を掛けられれば応じる。時折、門の周囲を見渡してはいたが、通る者を一人ずつ呼び止めているわけではない。

 日和は、その様子を少し不思議に思った。

 これほど大きな門があり、衛兵まで配置されているのだから、何かしらの確認があるものだと思っていた。

 けれど、前を歩いていた商人らしい一団は、荷車の速度を落とすこともなく、そのまま門を通り抜けていった。

 続いて、背の高い獣人の親子が衛兵に軽く会釈し、街の中へ入っていく。

 衛兵も笑顔で応じていた。


「……あれ?」


 日和が小さく声を漏らすと、智希が顔を向けた。


「どうしたの?」

「門があるのに、何も確認しないんだね」

「ああ、そういうことか」


 智希は門の方へ目を向け、それから日和へ視線を戻した。

 彼は少し考えてから、穏やかに答えた。


「ここは国境じゃないからね。中央区へ入るのに、特別な許可が必要なわけじゃないんだ」

「でも、衛兵さんはいるんでしょ?」

「うん。何か問題が起きたときに対応する人は必要だから」


 日和は、門の脇に立つ衛兵たちを見た。

 確かに、彼らは通行人を調べるというより、周囲の様子に気を配っているようだった。

 人々が行き交う中で、危険なことが起きないように見守っている。

 そう考えると、先ほど見た子供たちの暮らしにも、少し似ているような気がした。

 自由に動くことが認められているからといって、誰も周囲を気に掛けていないわけではない。

 ただ、その関わり方が、日和の知っているものとは少し違うのだろう。

 一行が門へ近づくと、衛兵の一人がこちらへ顔を向けた。

 人間に近い姿をした男性だったが、額の両側には小さな角があり、首元には細かな鱗のようなものが見えている。

 彼は一行を見渡し、クオンの姿に気づくと、わずかに目を見開いた。


「……クオン様?」


 驚きの混じった声に、クオンが穏やかに微笑んだ。


「こんにちは。お勤め、ご苦労様でございます」


 衛兵はすぐに姿勢を正した。


「これは……お戻りになられていたのですね」

「ええ。少し、こちらでお話を伺いたいことがございまして」

「そうでしたか」


 衛兵は丁寧に頭を下げた。

 その様子に気づいた別の衛兵も、クオンへ視線を向け、静かに礼をする。

 けれど、周囲の通行人まで足を止めるようなことはなかった。

 荷車は変わらず門を通り抜け、街から出てきた人々も、それぞれの目的地へ向かって歩いている。

 衛兵たちも、クオンを見つけたからといって、通行を止めたり、周囲に何かを命じたりすることはなかった。

 日和は、その自然なやり取りを眺めていた。

 狐狸族の集落でも、クオンは多くの住民から敬意を向けられていた。

 ここでも同じなのだろう。

 ただ、その敬意は、周囲の人々の日常を中断させるようなものではないらしい。


「皆様も、どうぞお通りください」


 衛兵が一行へ道を示した。

 日和は軽く頭を下げ、智希たちとともに門へ足を踏み入れた。

 頭上には分厚い石造りのアーチがあり、外から差し込む陽光が、門の内側に長い影を落としている。

 石壁に囲まれた短い通路を進むと、外の景色が一度狭まり、向こう側の明るさがひときわ強く感じられた。

 足元には、先ほどまでの砂利道に代わって、平たい石が敷き詰められている。

 人々の話し声に、車輪が石畳を転がる音が重なり、どこからか金属を打つような音も聞こえてきた。


 日和は、門の向こうへ目を向けた。

 そこには、これまで歩いてきた森や集落とは、まったく違う景色が広がっていた。

 石造りの建物が道の両側に並び、少し先には人々の行き交う広場が見える。店先には色とりどりの布が掛けられ、軒下には商品らしい品々が並べられていた。

 建物の上階からは、洗濯物のような布が風に揺れている。

 その下を、様々な姿の住民たちが行き交っていた。


 日和は思わず足を止めかけた。

 先ほど遠くから見たときには、ただ大きな街があるとしか分からなかった。

 けれど、門をくぐった今、その街には確かに人々の暮らしがあり、様々な音や匂いが満ちていることが分かる。

 どこかから焼きたてのパンに似た香りが漂い、別の方角からは香辛料のような匂いも混じってきた。

 通りの向こうでは、店主らしい人物が客と笑いながら話している。

 荷車を引く獣人が道を譲ると、その横を小さな子供たちが駆け抜けていった。

 日和は、ゆっくりと周囲を見渡した。


 神獣国家の中央区。


 そこは、彼女が想像していたような、神々だけが集まる特別な場所ではなかった。

 様々な種族が暮らし、働き、行き交う、一つの大きな街だった。

 日和は、その光景を目に焼き付けるように見つめながら、再び歩き始めた。


 門を抜けた一行は、石畳の敷かれた大通りを進んでいた。

 通りの両側には、煉瓦や石を組み合わせた建物が軒を連ねている。

 二階建てのものが多いようだったが、中には三階まで窓が並ぶ建物もあり、屋根の形や壁の色は一軒ごとに少しずつ違っていた。

 建物の一階部分には店が入っていることが多く、軒先には布製の日除けが張り出している。

 その下には木箱や籠が並べられ、果物や野菜、日用品らしい品々が所狭しと置かれていた。


 開け放たれた扉の奥からは、食器の触れ合う音や、人々の話し声が聞こえてくる。

 日和は、周囲の様子を眺めながら歩いていた。

 狐狸族の集落にも商店らしい建物はあったが、ここでは店の数も、行き交う人々の数も比較にならないほど多い。

 大きな荷車が通り過ぎたかと思えば、その後ろから小さな手押し車が続いてくる。

 道の端では、店主らしい女性が客と話し込み、そのすぐ隣では、背の高い獣人が荷物を肩に担いで店の中へ運び込んでいた。


 通りを歩く人々の姿も様々だった。

 人間とほとんど変わらない者もいれば、頭に角を持つ者、長い尾を揺らしながら歩く者、背中に翼を畳んだ者もいる。

 中には、日和の腰ほどの背丈しかない小柄な種族もいた。

 その者は自分の体ほどもある籠を抱えて歩いていたが、通り掛かった大柄な獣人が自然に道を譲ると、軽く頭を下げて人混みの向こうへ消えていった。


 日和は、その光景を見て小さく目を瞬かせた。

 これほど体格の違う者たちが、同じ街で暮らしている。

 考えてみれば当たり前のことなのかもしれないが、実際に目にすると、建物や道具の造り一つを取っても、色々な工夫が必要なのではないかと思えてくる。

 そう考えながら店先へ目を向けると、入口の高さが異なる扉を二つ並べた建物があった。

 大きな扉の脇に、日和の胸ほどの高さしかない小さな扉が設けられている。


 ちょうどそこから、小柄な獣人が姿を現した。

 彼は手にした包みを抱え直し、大きな扉から出てきた別の客と軽く言葉を交わしてから、通りへ歩き出していった。

 日和は思わず、その建物を振り返った。

 何のための扉なのか、説明を聞かなくても分かる。

 この街では、違う姿をした者たちが一緒に暮らすための工夫が、建物のあちこちに当たり前のように取り入れられているのだろう。


「……面白いなぁ」


 小さく呟くと、隣を歩いていた智希が顔を向けた。


「何か見つけた?」

「うん。あのお店、入口が二つあるの」


 日和が振り返って示すと、智希は建物を見て頷いた。


「ああ、小さい種族の人も使いやすいようにしてるんだね」

「やっぱりそうなんだ」

「うん。建物によって色々だと思うけど、中央区は特に色んな種族が暮らしてるから」


 日和は納得したように頷き、もう一度通りへ視線を戻した。

 街の賑わいに目を奪われていると気づきにくいが、よく見ると、ほかにも様々な工夫がある。

 店先の台は高さの違うものが組み合わされており、石畳の端には、車輪が通りやすいよう滑らかに整えられた部分もあった。

 大きな荷車が行き交う道と、歩行者が通る場所も、完全に分けられているわけではないものの、自然と使い分けられているようだった。

 人々は互いの動きを見ながら道を譲り、声を掛け合っている。

 そこには、日和が日本の街で見慣れているものとは違う秩序があった。

 通りを進むにつれて、建物の間から広い空間が見えてきた。


 石畳が扇状に広がり、その中央には小さな噴水が設けられている。

 水盤の縁には腰を下ろせる場所があり、何人かの住民が談笑していた。

 噴水の周囲には花壇が並び、赤や黄色の花が午後の陽光を受けて揺れている。

 広場の一角では、小さな屋台がいくつも並んでいた。

 焼き菓子のようなものを売る店もあれば、色鮮やかな布や細工物を並べた店もある。

 香ばしい匂いに混じって、甘い果物の香りが漂ってきた。

 日和は思わずそちらへ目を向けた。

 屋台の前には、数人の子供たちが集まっている。

 店主らしい年配の女性が何かを手渡すと、子供たちは嬉しそうに笑い、受け取ったものを分け合いながら走っていった。

 その後ろ姿を見送っていた女性は、次に訪れた客へ声を掛けている。


 日和は、その光景を見て、先ほど通り過ぎた子供たちの集落を思い出した。

 あそこでは、子供たちが自分たちの生活を営み、大人たちは必要なときに手を貸していた。

 この街でも、子供たちと大人たちの関係は、どこか似ているように見える。

 もちろん、ここで暮らす子供たちが皆、同じような境遇にあるわけではないだろう。

 親と一緒に歩く子供もいれば、友達同士で遊んでいる子供もいる。

 それでも、子供たちが街の中を自由に行き来する姿は、日和の目には少し新鮮に映った。


 広場を抜けると、通りの雰囲気が少し変わった。

 商店の数が減り、代わりに大きな建物が増えてくる。

 壁面には整った窓が並び、入口には案内板のようなものが掲げられていた。

 建物の前には小さな庭や植え込みが設けられ、通りを歩く人々も、先ほどの商店街に比べると落ち着いた様子だった。

 日和は、建物の一つへ目を向けた。

 入口から出てきたのは、書類のようなものを抱えた女性だった。彼女は建物の前で待っていた男性と短く言葉を交わし、二人で通りの向こうへ歩いていく。

 別の建物では、数人の住民が入口近くに集まり、掲示板のようなものを覗き込んでいた。


「この辺りは、何があるんですか?」


 日和が尋ねると、良澄が建物の方へ目を向けた。


「公共の施設が多い場所ですね。暮らしに関わる手続きや相談を受け付けるところもあります」

「へえ……」


 日和は、もう一度建物を見た。

 神獣国家にも、こうした施設がある。

 言われてみれば、何も不思議なことではない。

 これほど多くの種族が一緒に暮らしているのだから、生活を支える仕組みが必要なのは当然だろう。

 けれど、日和はこの国へ来るまで、そうしたことをほとんど考えたことがなかった。

 神獣や精霊が暮らす国。

 その言葉から思い浮かべていたのは、神秘的な森や、壮麗な建物、そして人間とは違う力を持った存在たちだった。

 実際に訪れてみれば、そこには畑があり、商店があり、子供たちの暮らしがある。

 そして今、目の前には公共の施設まで並んでいる。

 日和は、少し可笑しくなって笑った。


「……なんだか、本当に普通の国なんですね」


 智希が、その言葉に顔を向けた。


「普通?」

「うん。もっと何もかも違うと思ってたから」


 日和は、通りの向こうへ視線を向けた。


「もちろん、知らないことばっかりだし、びっくりすることもいっぱいあるんだけど……」


 少し考えてから、言葉を続ける。


「でも、ここに住んでる人たちも、毎日ご飯を食べたり、仕事をしたり、友達と遊んだりしてるんだなって」


 智希は日和の言葉を聞き、穏やかに頷いた。


「そうだね。暮らしてるっていう意味では、僕たちと変わらないと思うよ」

「うん」


 日和は小さく笑った。

 目の前に広がる街は、日本のどこかの街と同じではない。

 建物の形も、行き交う人々の姿も、使われている道具も違っている。

 けれど、その中で営まれている暮らしには、日和が知っているものと重なる部分がいくつもあった。

 そのことが、少し嬉しかった。


 さらに歩いていくと、道の先にひときわ大きな建造物が姿を現した。

 周囲の建物よりも高く、広い敷地を持つその建物は、中央区へ入る前に遠くから見えていたものだった。

 石造りの外壁には整然と窓が並び、正面には大きな階段が設けられている。

 建物の上部には装飾的な意匠が施されており、周囲の街並みとは違った存在感があった。

 けれど、その前に広がる広場には、特別な緊張感のようなものは感じられなかった。

 住民たちは自由に行き交い、建物へ入っていく者もいれば、外へ出てくる者もいる。

 入口の近くでは、職員らしい人物が訪問者に何かを説明していた。

 日和は、その建物を見上げた。立派な外観だった。

 それでも、近づいてみると、神殿や宮殿というより、多くの人々が日常的に利用する施設のように見える。


「……あそこですか?」


 日和が尋ねると、クオンが穏やかに頷いた。


「はい。あちらが、中央の行政を担う施設でございます」


 日和は、改めて建物へ目を向けた。

 この国の中心で、様々な種族の暮らしを支える仕事が行われている場所。

 そこに、これから自分たちも入っていくのだという。

 少しだけ緊張するような気持ちと、それ以上の好奇心が胸の中に広がっていた。


 日和は一度、智希たちの顔を見渡した。

 皆は普段と変わらない様子で、建物へ向かって歩いている。

 その姿を見て、日和も小さく息を吐いた。

 今朝から何度も驚いてきたけれど、きっと、まだ知らないことがたくさんあるのだろう。

 そう思いながら、彼女は一行とともに、中央の行政施設へと続く広場を進んでいった。


 中央の行政施設へ近づくにつれて、日和はその建物の大きさを改めて実感していた。

 遠くから見たときには、周囲の街並みよりひときわ高い建物という印象だったが、正面の広場まで来ると、その横幅も相当なものだと分かる。

 左右に長く伸びた建物には整然と窓が並び、中央部分は一段高く造られていた。

 石造りの外壁には繊細な装飾が施されているものの、必要以上に華美な印象はない。

 柱や窓枠には年月を感じさせる部分もあり、古くから使われてきた建物を大切に維持しているように見えた。


 正面へ続く広い階段には、何人もの人々が行き交っている。

 書類を抱えた職員らしい者が足早に建物へ入り、別の者は入口の脇で立ち止まり、同行者と何かを確認していた。

 少し離れた場所では、年配の獣人が小柄な女性に案内されながら階段を上っている。

 日和は、そんな人々の様子を眺めながら一行についていった。

 これほど立派な建物なのだから、入口には衛兵が並び、訪問者を厳しく確認しているのではないかと思っていたが、実際にはそうした様子は見られなかった。

 人々はそれぞれの用事に応じて建物へ入り、用事を終えた者は、ほかの者とすれ違いながら街へ戻っていく。

 その光景は、日本の大きな公共施設とそれほど変わらないようにも見えた。

 やがて、一行は正面の大きな扉をくぐった。

 建物の中へ入ると、日和は思わず周囲を見渡した。

 高い天井の下には広々とした玄関ホールがあり、床には磨かれた石が敷き詰められている。壁際には案内板が並び、奥にはいくつもの通路が伸びていた。

 正面には受付らしい場所が設けられ、その向こうでは職員たちが訪問者の話を聞いている。

 建物の外観から想像していた、壮麗な広間や玉座のようなものは見当たらなかった。

 代わりに目に入るのは、書類を運ぶ者や、通路を行き交う職員たちの姿だった。


 日和は、その様子を見て、少し可笑しくなった。

 ここへ来るまで、何度も同じようなことを考えている。

 神獣国家の中心なのだから、きっと特別な場所なのだろう。

 けれど、実際に目にするのは、いつも人々の暮らしを支えるための仕組みだった。

 もちろん、建物の造りも、そこにいる人々の姿も、日本とは随分と違う。

 それでも、ここで行われていることは、日和にも少し想像できるものだった。


「……なんだか、市役所みたいですね」


 思わず口にすると、智希が隣で笑った。


「うん。役割としては近いと思うよ」

「もっと神殿みたいなところかと思ってた」

「さっきも言うてたな、それ」


 彰人が後ろから声を掛けると、日和は少し照れたように笑った。


「だって、外から見るとすごく立派なんだもん」

「まあ、建物はな。けど、ここで仕事してる連中にしたら、毎日来る場所やからなぁ」


 彰人はそう言って、受付の向こうを指先で示した。

 そこでは、職員らしい女性が机の上に広げた書類を確認しながら、訪問者へ何かを説明している。

 相手が頷くと、女性は別の紙を取り出し、いくつかの項目を指し示した。

 日和は、そのやり取りを見て頷いた。

 確かに、仕事をする場所なのだから、使いやすい方がいいのだろう。

 クオンは受付の方へ軽く会釈すると、慣れた様子で奥の通路へ向かった。

 受付にいた職員の一人が彼女に気づき、驚いたように顔を上げる。

 けれど、クオンが穏やかに微笑むと、職員は丁寧に頭を下げ、そのまま仕事へ戻っていった。


 日和は、そんな様子にも少しずつ慣れてきていた。

 クオンが特別な存在であることは、ここにいる人々も知っているのだろう。

 それでも、彼女が通るたびに全員が立ち上がったり、仕事を止めたりするわけではない。

 敬意を示しながらも、普段の仕事を続けている。

 その自然な距離感が、日和には少し心地よく感じられた。

 通路を進むと、建物の内部はさらに実務的な様子を見せ始めた。

 広い廊下の両側にはいくつもの部屋が並び、開かれた扉の向こうには机や棚が見える。

 壁には予定表らしいものが掲げられ、職員たちは書類を手に部屋を行き来していた。

 中には、日和には用途の分からない道具も置かれている。

 透明な板の上に文字のようなものが浮かんでいたり、机の上に置かれた小さな器具が淡い光を放っていたりする。

 それらを使っている職員たちは、特に不思議そうな様子もなく、手元の仕事を進めていた。


 日和は、思わず足を緩めた。

 見慣れた事務仕事のような光景の中に、時折、自分の知らない技術が混じっている。

 この国では、それも当たり前なのだろう。

 そう考えると、今まで見てきた街並みとは違った意味で、興味を引かれるものがあった。


 やがて、クオンが一つの広い部屋の前で足を止めた。

 扉は開かれており、中にはいくつもの机が並んでいる。

 机の上には書類や道具が置かれ、何人かの女性たちが、それぞれの仕事に向き合っていた。

 窓際の机では、淡い青色の髪を持つ女性が、広げた資料へ視線を落としている。

 その近くでは、柔らかな緑色の光をまとった小柄な女性が、宙に浮かぶ薄い板のようなものを確認していた。

 別の机では、赤みを帯びた髪の女性が、いくつかの書類を並べ替えている。

 奥の方には、白い衣服をまとった女性と、落ち着いた雰囲気の女性が向かい合い、何かを相談していた。

 さらに、その少し離れた場所では、白銀の髪を持つ女性が手元の資料を整理している。

 日和は、室内の様子を眺めながら、ここが何をする場所なのだろうと考えた。

 先ほどまで通ってきた部屋と大きく違うわけではない。

 けれど、そこにいる女性たちには、どこか独特の雰囲気があった。


 姿や服装が違うだけではない。

 それぞれが静かに仕事を進めているにもかかわらず、部屋全体に不思議な落ち着きが感じられる。

 クオンが室内へ足を踏み入れたのは、そのときだった。


「皆様、こんにちは」


 柔らかな声が、部屋の中へ届いた。

 最初に顔を上げたのは、奥で話をしていた白い衣服の女性だった。

 彼女はクオンの姿を認めると、驚いたように目を見開いた。


「……クオン様?」


 その声に、近くにいた女性たちも顔を上げた。

 室内に、一瞬だけ静けさが広がる。

 白い衣服の女性は、手元の資料を机へ置くと、すぐに立ち上がった。


「これは……お越しになられていたのですね」

「ええ。突然お邪魔してしまい、申し訳ございません」


 クオンは穏やかに微笑んだ。


「少し、皆様にお話を伺いたいことがございまして」

「とんでもございません。どうぞ、お気になさらず」


 女性は丁寧に頭を下げ、それから一行へ視線を向けた。

 智希、良澄、彰人、セレスティア、そして日和。

 見慣れた顔がいることに気づいたのだろう、女性の表情が少し和らいだ。


「皆様も、ご一緒だったのですね」

「うん。久しぶり」


 智希が笑顔で応じると、女性も柔らかく微笑んだ。


「お久しぶりでございます」


 日和は、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。

 どうやら、智希たちも彼女とは顔見知りらしい。

 先ほどまでの街でも感じていたことだが、智希たちはこの国の人々と自然に接している。

 自分だけが初めて訪れた場所にいるのだということを、日和は改めて実感していた。

 そのとき、良澄が隣へ視線を向けた。


「ルシェル」


 短い呼び掛けに応じるように、それまで姿を隠していたルシェルが、良澄の傍らに姿を現した。

 白を基調とした装いに、落ち着いた佇まい、先ほど森の中で姿を見せた女性だった。

 日和は、今度は声を上げなかった。

 突然現れることには、まだ慣れたとは言い難い。

 けれど、智希たちが驚く様子もなく受け入れていることを思い出し、何とか表情を保っていた。


「……ルシェル様まで?」


 白い衣服の女性が、思わず声を漏らした。

 その言葉に、ほかの女性たちも一斉に視線を向ける。

 先ほどクオンが現れたときとは、少し違う驚きが室内に広がった。


「お久しぶりです」


 ルシェルは静かに頭を下げた。

 その穏やかな声に、女性たちはそれぞれ丁寧に礼を返した。

 日和は、彼女たちの様子を見つめていた。

 クオンが現れたときにも驚いていた。

 けれど、ルシェルが姿を見せたことで、その驚きはさらに大きくなったように見える。

 何か、特別な理由があるのだろうか。

 日和がそんなことを考えていると、白い衣服の女性が、少し困ったように微笑んだ。


「クオン様とルシェル様が、お二人でいらっしゃるとは……珍しいことでございますね」

「そうでしょうか?」


 クオンが小さく首を傾げた。


「ええ。お二方とも、こちらへお越しになることはございますが……」


 女性はそこで一度言葉を切り、柔らかな笑みを浮かべた。


「こうしてご一緒にお見えになるのは、久しぶりかと存じます」


 クオンはルシェルへ目を向けた。

 ルシェルもまた、静かに微笑んでいる。


「そうかもしれませんね」


 そのやり取りを見て、周囲の女性たちの表情も少し和らいだ。

 驚きはあっても、そこに緊張や警戒のようなものは感じられない。

 むしろ、久しぶりに訪れた親しい相手を迎えるような、穏やかな空気が広がっていた。

 白い衣服の女性は、改めて一行を見渡した。


「皆様、立ったままでは何ですから、どうぞこちらへ」


 彼女は部屋の奥へ視線を向けた。

 そこには、いくつかの椅子と大きな円卓が置かれている。

 仕事の合間に打ち合わせをしたり、訪問者を迎えたりするための場所なのだろう。


「ちょうど一段落したところでございます。よろしければ、お茶でもいかがでしょうか」


 クオンは、女性の申し出に柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えさせていただきますね」


 ルシェルも静かに頷いた。

 女性たちは互いに顔を見合わせ、自然に動き始めた。

 ある者は円卓の周囲を整え、別の者は茶器を用意するために部屋の奥へ向かっていく。

 その様子には、誰か一人が指示を出しているようなところはなかった。

 それぞれが必要なことを理解し、慣れた手つきで準備を進めている。

 日和は、その光景を眺めながら、改めて室内を見渡した。

 ここにいる女性たちは、いったいどのような人々なのだろう。


 クオンとルシェルに向けられる敬意。

 智希たちとの親しげなやり取り。

 そして、先ほどまで仕事をしていたときの落ち着いた雰囲気。

 そのどれを取っても、普通の職員というだけではないように思えた。

 けれど、彼女たち自身は、特別なことをしているという様子もなく、穏やかにお茶の準備を進めている。

 日和は、隣にいた智希へ小さく顔を向けた。


「……ねえ、智希君」

「ん?」

「あの人たちって……?」


 智希は、日和の視線の先にいる女性たちを見て、小さく笑った。


「ああ。そういえば、まだ紹介してなかったね」


 その言葉を聞いて、日和はもう一度、円卓の方へ目を向けた。

 智希が女性たちへの視線を遮らないように横に移動してから、日和に言葉をかける。


「今、こちらで仕事をしているのは、秋の二十四節気を担当する代表の方たちだよ」


 智希の言葉に、日和は円卓の準備を進める女性たちへ目を向けた。

 二十四節気という言葉には聞き覚えがある。

 立春や夏至、秋分といった季節の区切りを表すもので、日本でも暦の話題などで耳にすることがあったが、それが目の前にいる女性たちとどう結びつくのかまでは分からなかった。

 もっとも、今まで見てきた神獣国家の様子を思い返せば、季節に縁のある種族が何らかの役割を担っていても、不思議ではないのかもしれない。


「日本にもある、あの二十四節気?」

「うん。こっちでは、それぞれの節気に縁の深い種族がいて、その中から代表が選ばれるんだ。今は秋だから、秋の六つを担当する人たちが集まってるってことだね」


 日和は納得したように頷いたものの、改めて室内を見渡すと、また別の疑問が浮かんできた。

 六人の女性たちは、それぞれ姿も雰囲気も大きく異なっている。

 淡い光をまとった小柄な女性もいれば、背中に透き通った翅を持つ女性もおり、角を持つ者や、人間とほとんど変わらない姿をした者もいた。

 その誰もが、つい先ほどまで机に向かって仕事をしていたのである。

 神獣や精霊が国の行政に携わっているということ自体、日和にとってはまだ不思議な感覚だった。


「じゃあ、あの人たちがずっと代表をしてるわけじゃないんだね」

「そうだね。種族は決まってるけど、誰が代表になるかはその都度違うから」


 智希が答えると、日和はもう一度女性たちへ視線を向けた。

 自分たちの社会にも代表を選ぶ仕組みはあるが、ここでは種族ごとに役割が受け継がれているらしい。

 それがどのような考え方で成り立っているのか、まだ分からないことは多い。

 けれど、今はそれを一つずつ尋ねるよりも、目の前で交わされているやり取りを見ていたいと思った。


 円卓の周囲では、白い衣服をまとった女性が椅子の配置を確かめていた。

 淡い金色の髪を背中へ流し、羽根を思わせる模様が織り込まれた衣服を身に着けたその女性は、先ほどクオンに最初に声を掛けた人物だった。

 彼女が卓上へ視線を落とすと、そこには人数分の茶器がまだ揃っていない。

 奥の棚に目を向けようとしたところで、淡い緑色の光をまとった小柄な女性が、すでにいくつかの器を宙に浮かべて運んできていた。


「ありがとう。ちょうどお願いしようと思っていたところです」

「ふふ、エレノアが気にすると思ったから、先に持ってきたの」


 軽やかな声とともに器が卓上へ並び、白い衣服の女性――エレノアは、相手へ柔らかく微笑み返した。

 日和は、その様子を興味深く見つめていた。

 器を運んできた女性は、床からわずかに浮いているように見える。彼女が動くたびに衣服の裾が揺れ、周囲の空気まで一緒に流れているかのようだった。

 手を使わずに器を運ぶことも、それを受け取る側がまったく驚いていないことも、日和には新鮮だった。


「……風?」


 思わず漏れた呟きに、智希が小さく頷いた。


「あの人は立秋を担当している、シルフのシエラさんだよ」

「ああ、シルフ……!」


 その名前なら日和も知っていた。

 物語やゲームの中では、風を司る精霊として登場することが多い。

 けれど、目の前で茶器を運んでいる姿は、日和が想像していた神秘的な精霊というより、少し手際のよい女性のようにも見える。

 シエラは、器を並べ終えると、今度は近くの机に置かれた資料へ手を伸ばした。

 指先の動きに合わせて数枚の紙が持ち上がり、綺麗に重なって彼女の手元へ収まっていく。

 その一連の動作があまりにも自然だったため、日和は思わず笑みを浮かべた。

 魔法のような力が、日々の仕事の中で当たり前に使われている。

 この国では、そうしたことも珍しくないのだろう。

 やがて、エレノアが日和の方へ歩み寄ってきた。


「改めまして、エレノアと申します。白鳥乙女(スワンメイデン)の代表を務めております」

「あ、森宮日和です。よろしくお願いします」


 慌てて姿勢を正した日和に、エレノアは穏やかに微笑んだ。

 近くで見ると、その立ち姿には不思議な美しさがあった。

 背筋を伸ばしているというだけではなく、相手へ顔を向ける仕草や、手を添える位置に至るまで、動きの一つひとつが静かで無駄がない。

 日和は、白鳥乙女という種族の名が彼女によく似合っているように感じた。


「皆様から、お話は伺っております。どうぞ、こちらでは気兼ねなくお過ごしください」

「ありがとうございます」


 エレノアの言葉に日和が頭を下げると、彼女はそのままクオンの方へ向き直った。


「クオン様も、お変わりないご様子で安心いたしました」

「ありがとうございます。エレノアも、お元気そうで何よりでございます」


 互いに微笑み合う二人の様子からは、以前から親しい間柄なのだということが自然に伝わってくる。

 日和がそのやり取りを眺めている間にも、円卓の準備は着々と進んでいた。


 奥の棚から茶葉の入った容器を取り出していたのは、淡い青色の髪を持つ女性だった。

 長い髪は光を受けるたびに水面のような輝きを見せ、衣服の裾には緩やかな波を思わせる模様が描かれている。

 彼女が水差しを手に取ると、中の水が静かに持ち上がった。

 透明な水の流れは空中で緩やかな弧を描き、用意された器へ必要な量だけ注がれていく。

 水滴が周囲へ飛び散ることもなく、最後の一滴が収まると、残った水は何事もなかったかのように水差しへ戻っていった。

 日和は、思わずその光景に見入ってしまった。

 先ほどのシエラもそうだったが、彼女たちにとっては、こうした力を使うことが特別な行為ではないらしい。

 むしろ、日和が手で器を持ち上げるのと同じくらい、自然なことなのだろう。


「ネリス、そちらは私が運びましょうか?」


 近くから声を掛けたのは、柔らかな茶色の髪を持つ女性だった。

 頭の両側には緩やかに曲がった角があり、動きやすそうな衣服を身に着けている。

 彼女は焼き菓子の入った籠を片手に持ちながら、もう一方の手をネリスと呼ばれた女性へ差し出していた。


「ありがとうございます、メリナ。では、こちらをお願いできますか」


 ネリスは小さく微笑み、整えた茶器をメリナへ手渡した。

 その様子を見ていた日和は、二人の名前を心の中で繰り返した。

 ネリスとメリナ。

 似た響きではあるが、姿も雰囲気も違うので、顔と結びつけるのは難しくなさそうだった。

 ネリスが水を扱っていたことから、彼女がウンディーネなのだろうと見当をつける。

 一方のメリナは、角の形から山羊に近い種族なのかもしれない。

 日和がそんなことを考えていると、メリナが彼女の視線に気づいた。


「初めまして。メリナと申します。アマルテイアの代表を務めています」

「森宮日和です。よろしくお願いします」


 日和が答えると、メリナは親しみやすい笑顔を浮かべた。

 その表情には、先ほどから周囲の女性たちへ自然に声を掛けていたときと同じ、柔らかな温かさがあった。


「アマルテイア……ですか?」

「ええ。山羊に縁のある種族ですよ」


 メリナはそう言って、自分の角へ軽く手を添えた。

 その仕草に日和が微笑むと、メリナも嬉しそうに笑い返した。

 彼女は焼き菓子の籠を円卓へ置き、席の間隔を確かめながら器を並べ始めた。

 途中で小柄なシエラが通り掛かると、二人は短く言葉を交わし、互いの作業を邪魔しないよう自然に位置を入れ替える。

 その様子を見ていると、彼女たちが普段から一緒に仕事をしていることがよく分かった。

 誰かが指示を出さなくても、必要なことが自然に伝わっている。

 日和には、そうした関係が少し羨ましくも感じられた。


 円卓の反対側では、赤みを帯びた髪の女性が手元の資料を整理していた。

 背中には薄く透き通った翅が畳まれており、光の加減によって細かな模様が浮かび上がる。

 その翅は、日和が知っている蜻蛉のものによく似ていた。

 彼女は資料を一枚ずつ確かめながら、隣に立つ白銀の髪の女性と何かを相談している。

 白銀の髪の女性は、ほかの代表たちより少し小柄で、髪の間から丸みを帯びた耳が覗いていた。

 赤い髪の女性が資料の一部を指し示すと、白銀の髪の女性は頷き、別の棚から一冊の帳面を取り出した。

 二人はそれを開いて何かを確認し、互いに納得したように頷いている。


「アカネ、こちらの資料も一緒にしておきましょうか?」

「ええ、エルネ。お願いできる?」


 アカネと呼ばれた女性が資料を差し出すと、エルネはそれを受け取り、帳面とともに丁寧に重ねた。

 その後、二人は机の上を片づけ、円卓へ向かって歩き始めた。

 日和は、近づいてくる二人の姿を見ながら、先ほどの会話を思い返していた。

 アカネという名前は、日本でも聞き慣れた響きだった。

 赤い髪と蜻蛉の翅。

 もしかすると、赤とんぼに縁のある種族なのだろうか。

 そんなことを考えていると、アカネが日和へ穏やかに微笑み掛けた。


「初めまして。霊蜻蛉(れいせいれい)の代表、アカネです」

「森宮日和です。よろしくお願いします」


 日和が頭を下げると、アカネも丁寧に礼を返した。

 その隣では、エルネが少し楽しそうに二人の様子を眺めている。


「私はエルネと申します。エルミンの代表です」

「エルミン……?」


 日和が首を傾げると、エルネは自分の耳へ軽く手を添えた。


「白貂、と呼ばれることもございますね」

「あ、オコジョ!」


 思わず声を上げた日和に、エルネは嬉しそうに笑った。

 日和も写真で見たことがある。小さな体に丸い耳、季節によって毛色が変わる愛らしい動物だった。

 目の前のエルネは人の姿をしているが、白銀の髪や小柄な体格、そして柔らかな表情には、確かにオコジョを思わせるところがある。


「写真で見たことがあります。すごく可愛くて……」


 そこまで言って、日和は少し慌てた。

 動物の姿を思い浮かべていたとはいえ、初対面の女性に向かって可愛いと言うのは、失礼だったかもしれない。

 けれど、エルネは気にした様子もなく、むしろ楽しそうに目を細めていた。


「ふふ。ありがとうございます」


 その笑顔に、日和もほっとしたように微笑んだ。

 こうして言葉を交わしてみると、六人はそれぞれ随分と雰囲気が違っていた。

 穏やかで優雅なエレノアに、軽やかなシエラ。落ち着いたネリスと、親しみやすいメリナ。静かな印象のアカネに、愛嬌のあるエルネ。

 姿や得意なことが違うだけでなく、話し方や人との接し方にも、それぞれの個性が感じられる。


 日和は、六人の女性たちを改めて見渡した。

 この国では、種族ごとに代表が選ばれる。

 けれど、実際にここで仕事をしているのは、種族という名前だけで区別される存在ではなく、それぞれに考え方や性格を持った一人ひとりなのだ。

 そんな当たり前のことを、日和は改めて実感していた。


 やがて、円卓の準備が整った。

 十三人が席につくと、卓上には温かな茶が注がれた器と、小さな焼き菓子が並べられた。

 日和の前に置かれた白い器からは、花に似た柔らかな香りが漂っている。

 両手でそっと包み込むと、指先に心地よい温かさが伝わり、一口含めば、ほのかな甘みとすっきりとした香りが口の中に広がった。


「……おいしい」


 思わず呟くと、近くに座っていたネリスが嬉しそうに微笑んだ。


「こちらの地方で採れる花を使っているのですよ。香りが強すぎないので、お客様にもよくお出ししております」

「そうなんですね。すごくいい香りです」


 日和はもう一度器へ視線を落とし、ゆっくりと茶を味わった。

 神獣国家へ来てから、初めて見るものや知らないことばかりだったが、こうしてお茶を飲みながら話していると、少しずつ肩の力が抜けていくような気がした。

 隣では彰人が焼き菓子を一つ手に取り、何かを言いながら笑っている。

 良澄はエレノアと穏やかに言葉を交わし、智希もまた、シエラから各地の風の様子について話を聞いていた。

 クオンとルシェルは、久しぶりに顔を合わせた相手との会話を楽しんでいるようだった。


 日和は、その光景を静かに眺めた。

 先ほどまで机に向かって仕事をしていた六人の女性たちが、今はこうして客人を迎え、和やかにお茶を楽しんでいる。

 その姿は、日和が想像していた神々の集まりとは随分と違っていた。

 けれど、だからこそ、この国で暮らす人々のことが少しずつ身近に感じられるのかもしれない。

 やがて、会話がひと段落したところで、クオンが静かに器を置いた。


「ところで、皆様。最近、各地の様子はいかがでしょうか」


 穏やかな声に、円卓の視線が自然と集まる。

 クオンは柔らかな微笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。


「しばらくこちらでお話を伺う機会がございませんでしたので、少し気になっておりまして」


 エレノアは、その問いに静かに頷いた。


「はい。各地とも、概ね落ち着いております。季節の移り変わりに伴う調整も、今のところ大きな問題はございません」


 彼女は一度、ほかの代表たちへ目を向けた。

 ネリスが頷き、メリナも穏やかな表情で応じる。

 けれど、アカネとエルネは、わずかに視線を交わしていた。

 日和は、その小さな動きに気づいた。

 先ほどまで資料を確認していた二人の姿が、ふと頭に浮かぶ。

 何か、気になることでもあるのだろうか。

 エレノアは再びクオンへ向き直り、静かに言葉を続けた。


「ただ、いくつか確認を進めている報告もございます。まだ状況を整理している段階ではありますが……」

「そうでございますか」


 クオンは穏やかに頷いた。

 その表情に大きな変化はなかったが、先ほどまでの雑談とは違い、相手の言葉を一つひとつ確かめるように聞いている。

 エレノアは、卓上の資料へ視線を落とした。

 それを見たアカネが、手元に置いていた帳面を静かに引き寄せる。


 日和は、二人の様子を見つめていた。

 先ほどまでの和やかな空気が失われたわけではない。

 ただ、円卓を囲む者たちの関心が、少しずつ各地の状況へ向けられ始めていた。


 エレノアが手元の資料を広げると、円卓の上には、いくつかの地域を色分けした地図が現れた。

 薄い板のようなものに描かれているのは、日和がまだ全体像を知らない神獣国家の姿だった。

 中央区を囲むように各領が広がり、山脈や河川、森林の位置が細かな線で示されている。

 地図の周囲には、各地から届いた報告をまとめた資料が置かれていた。

 エレノアはそれらを確かめながら、季節の移り変わりに伴う各領の状況について説明を始めた。


 山間部では気温が下がり始め、一部の種族が冬に向けた移動を進めていること。

 水辺の領では、季節による水量の変化に合わせて、生活に必要な設備の調整が行われていること。

 森林の多い地域では、収穫物の運搬が増え、中央区へ向かう商人たちの往来も活発になっていること。

 どれも、今のところ大きな問題にはなっていないらしい。


 ネリスは河川の状況について補足し、シエラは、風の流れや各地の気候について報告した。

 アカネも、上空から確認した街道や集落の様子を伝えている。

 日和は、彼女たちの話を聞きながら、地図へ目を向けていた。

 先ほど歩いてきた狐狸族の集落も、中央区も、この広い国のほんの一部に過ぎない。

 森の中を歩き、子供たちの暮らす場所を通り、大きな街へ入ってきた。

 それだけでも十分に驚くことが多かったのに、地図の上には、まだ訪れたことのない土地がいくつも広がっている。

 その一つひとつに、今日見てきたような暮らしがあるのだろう。

 日和は、そんなことを考えながら、静かに茶器へ手を伸ばした。


 一方、智希はエレノアたちの説明を聞きながら、各領の位置と報告内容を頭の中で整理していた。

 気候や収穫、住民の移動については、特に気になるところはない。

 季節が変われば、それに合わせて暮らし方も変わる。

 種族ごとに適した環境が異なる以上、移動する者が増えることも、この国では珍しいことではなかった。

 むしろ、そうした変化を中央が把握し、必要な調整を進めていることは、いつもどおりの状況だと言える。


 ただ、先ほどエレノアが口にした、確認を進めている報告という言葉が気になっていた。

 彼女たちは、何も知らないわけではない。

 少なくとも、通常とは異なる何かが起きていることには気づいているのだろう。

 智希は、エレノアが資料を整理する様子を見ながら、その話題が出るのを待っていた。


「各地の暮らしについては、今のところ大きな問題はございません」


 一通りの説明を終えたエレノアは、そう言って地図の端へ手を添えた。


「ただ、最近になって、少し気になる報告が増えております」

「先ほど仰っていた件でございますね」

「はい」


 エレノアの言葉にクオンが静かに頷き、言葉をつなげる。

 エレノアは肯定し、アカネとエルネへ目を向けた。

 二人は短く頷き合い、先ほど整理していた資料を円卓の中央へ移した。

 そこには、各領の名前とともに、いくつかの数字や記号が記されていた。


 智希は、資料へ視線を落とした。

 報告の数そのものは、決して多いとは言えない。

 けれど、記されている領の数が気になった。


「……随分、広い範囲だね」


 智希が呟くと、アカネが頷いた。


「ええ。最初は、それぞれの領で起きている別々の出来事だと考えていました」

「家畜が戻らなくなったという報告があり、その後、子供たちの姿を最近見掛けないという話も届くようになりました。ただ、どちらも、それだけでは珍しいことではありません」


 アカネが資料の一部を指し示し、智希は説明を聞きながら頷く。

 家畜が戻らないことには、様々な理由が考えられる。

 森の奥へ入り込んでしまったのかもしれないし、別の場所へ移動した可能性もある。

 子供たちについても、先ほど日和が見ていたように、仲間を訪ねて別の地域へ向かうことは珍しくない。

 それだけなら、特に問題にはならないだろう。

 しかし、アカネは資料を一枚めくり、別の記録を示した。


「それぞれの報告を整理してみたところ、同じ時期に似たような話が増えていることが分かりました」


 エルネが、その横へ別の資料を並べた。

 そこには、領ごとに報告が届いた時期と、おおよその状況がまとめられている。

 智希は、二つの資料を見比べた。

 家畜が戻らなくなった場所と、子供たちの姿を見掛けなくなった場所は、必ずしも一致していない。

 時期についても多少の違いがある。

 それでも、報告が広がっている範囲には、無視できないものがあった。


「……十一領?」


 智希が数を確かめると、エルネが静かに頷いた。


「はい。現在までに、十一の領から何らかの報告が届いております」

「残っているのは、龍蛇領だけか」

「ええ。そちらからは、今のところ同様の報告はございません」


 智希は地図へ目を向けた。

 十二の領のうち、十一。

 それぞれの領で暮らす種族も、環境も異なっている。

 偶然にしては範囲が広い。

 ただし、報告されている出来事が、すべて同じ原因によるものだと決まったわけではなかった。


「子供たちについては、どこまで確認できているの?」


 智希が尋ねると、メリナが手元の資料を引き寄せた。

 先ほどまで日和へ親しげに微笑んでいた彼女だったが、今は落ち着いた表情で記録を確かめている。


「姿を見掛けなくなった子供たちについて、最後に確認された場所や、その前後の様子を調べています。ただ、なかなか難しいところがありまして」


 メリナは、資料に記された一つの集落を示した。


「例えば、こちらでは、数日前から姿を見掛けない子がいるという話がありました。けれど、別の集落へ遊びに行ったのか、仕事を頼まれて移動したのか、はっきりとは分かっていないのです」


 智希は、その説明を聞いて、森の中で見た子供たちの姿を思い出した。

 彼らは、その日に集まった仲間で仕事を分担し、必要に応じて別の場所へ向かっていた。

 大人たちは食事や休む場所を用意し、子供たちが困っていれば手を貸す。

 けれど、誰がどこへ向かったのかを、常に把握しているわけではない。

 それは、子供たちの自由な暮らしを尊重するための仕組みでもあった。

 普段なら、それで何の問題もない。

 ただ、誰かの行方を確かめようとしたときには、別の難しさが生まれる。


「最後に会った人が分からないこともあるんだね」

「はい。子供たち同士でも、いつも同じ仲間と行動しているわけではございませんから」


 メリナは静かに頷いた。


「別の場所へ向かった子がいても、珍しいことではありません。ですから、姿を見掛けなくなったこと自体を、すぐに問題と考える方は少ないのです」


 智希は、地図に記された集落の位置を確かめた。

 そこから別の領へ向かう道はいくつもある。

 商人の荷車に同乗した可能性もあれば、仲間と歩いて移動した可能性もあるだろう。

 この国では、領を越えるための特別な許可は必要ない。

 行き先を記録する仕組みも、日常的には求められていない。

 移動の自由が広く認められているからこそ、誰かの足取りを後から追うことは容易ではないのだ。


「商人たちには確認している?」

「はい。ただ、決まった経路を毎回通る方ばかりではありませんので、すべての往来を確かめることはできておりません」


 エレノアの返答に、智希は頷いた。

 商人たちは、必要な品物や依頼に応じて行き先を変えることもある。

 数日おきに別の領へ向かう者もいれば、途中の集落に立ち寄る者もいるだろう。

 その一人ひとりへ確認したとしても、すべての移動を把握することは難しい。

 まして、子供たちがいつ、誰と、どこへ向かったのかという情報が曖昧であれば、なおさらだった。


 智希は、しばらく資料へ目を落としていた。

 今の段階では、事件だと断定できる材料はない。

 ただ、何も起きていないと考えるには、報告が広がりすぎている。

 それが、中央の代表たちが抱いている違和感なのだろう。


「……調査は、もう始めてるんだよね?」


 智希が顔を上げると、アカネが頷いた。


「はい。各地へ眷族を向かわせ、確認を進めています」


 彼女は資料の一部を示しながら、これまでの調査について説明した。

 最後に姿を見掛けた場所を確かめ、その周辺で何か変わったことがなかったかを尋ねる。

 子供たちが仕事を引き受けていた場合には依頼した者へ話を聞き、移動した可能性がある場合には近隣の集落や街道も調べているという。

 眷族たちは、各地で得られた情報を代表たちへ伝えており、中央ではそれをまとめながら、報告同士に関係がないかを確かめていた。

 その説明を聞きながら、智希は資料の内容を追っていた。

 調査の進め方に、大きな問題はないように思える。

 むしろ、最初の段階から広い範囲の情報を集めていることは、適切な対応だと言えるだろう。


 ただ、そこまで調べてもなお、はっきりしないことが多い。

 その点が気になった。


「何か、共通していることは見つかった?」


 智希が尋ねると、アカネは少し考えるように資料へ視線を落とした。


「今のところ、はっきりとした共通点は確認できておりません。ただ……」


 彼女はそこで言葉を切り、エルネへ目を向けた。

 エルネは静かに頷くと、別の記録を取り出した。


「いくつか、気になることがございます」


 円卓の上に、新たな資料が並べられる。

 智希は、それを見て目を細めた。

 そこには、眷族たちが調べた子供たちの足取りが、場所ごとに整理されていた。

 最後に姿を確認された場所、その前に立ち寄っていた集落。

 仕事を頼まれた相手や、移動した可能性のある道。

 情報の量には差があったものの、いくつかの記録には、似たような特徴が見られた。

 足取りが、ある場所を境にプツリと途切れている。

 そこから先へ向かったという話も、別の場所で見掛けたという報告もない。

 智希は、一つの記録を指先で示した。


「……ここから先が、分からない?」

「はい」


 エルネが頷いた。


「確認できた範囲では、いくつかの子供たちについて、足取りが途中で途切れております」


 智希は、別の記録へ目を移した。

 そこにも、同じような記載がある。

 さらに別の領の記録にも、似たようなものが見つかった。

 場所は違う、周囲の環境も違う。

 けれど、いずれも人目につきにくい場所を最後に、その先の情報が得られていなかった。

 もちろん、それだけで何かが起きたと決まったわけではない。

 人通りの少ない道を通れば、目撃者がいないこともあるだろう。

 森の中では足跡が残らない場所もあるし、時間が経てば痕跡そのものが失われることもある。

 それでも、複数の領で似たような状況が見つかっていることは、気に掛かる。


「……家畜の方は?」


 智希が尋ねると、アカネが別の資料を示した。


「そちらも調べておりますが、子供たちの場合とは少し状況が違います。移動した痕跡が残っているものもありますし、自然に戻らなくなった可能性が高いものもございます」


 智希は頷いた。

 家畜の件まで、すべて同じ原因によるものだと考えるのは早い。

 むしろ、子供たちの消息と家畜の行方は、一度分けて考えた方がよいのかもしれない。

 ただ、どちらも広い範囲で報告が増えていることは確かだった。

 その関連を否定する材料も、まだない。


「……なるほどね」


 智希は小さく呟き、円卓の上に広げられた地図へ視線を戻した。

 十二の領のうち、十一。

 その広い範囲で、子供たちの姿を見掛けなくなったという報告が増えている。

 しかも、調べられた範囲では、足取りが途中で途切れている例が複数ある。

 それが偶然なのか、何か一つの原因によるものなのか。

 今の情報だけでは、まだ判断できない。

 けれど、もし誰かが意図的に子供たちを連れ去っているのだとすれば、これほど広い範囲で同じようなことが起きている理由も、説明できなくはない。

 智希は、しばらく考えてから顔を上げた。


「……誰かが、連れ去っている可能性もあるね」


 その言葉に、円卓の空気がわずかに変わった。

 日和は思わず智希へ目を向けた。

 先ほどまで、各地の暮らしについて穏やかに話していたはずだった。

 けれど、今の言葉は、それまでとは明らかに違う意味を持っている。


 連れ去る。


 それは、子供たちが自分の意思で別の場所へ向かったのではないということだ。

 日和の頭に、森の中で見た子供たちの姿が浮かんだ。

 仲間と相談しながら仕事をしていた少年。

 手をつないで歩いていた幼い子供たち。

 笑いながら別の道へ向かっていった子供たち。

 あの子たちのように、自由に暮らしている誰かが、もし自分の意思とは関係なく連れていかれているのだとしたら。

 日和は、思わず茶器を持つ手へ力を込めた。

 その様子に気づいたのか、クオンが静かに口を開いた。


「……その可能性は、私も考えておりました」


 穏やかな声だった。

 けれど、その言葉には、先ほどまでとは違う慎重さが感じられた。


「ただ、まだ決めつけることはできませんね」

「うん。今のところは、可能性の一つだと思う」


 智希は頷いた。

 誰かが連れ去っているのだとすれば、相手はどのような者なのか。

 なぜ子供たちなのか、家畜の件と関係があるのか。

 そして、なぜ龍蛇領では同じような報告が出ていないのか。

 考えるべきことはいくつもあるが、今はまだ、そのどれにも答えがない。

 智希は、改めてエレノアたちへ視線を向けた。


「調査は、このまま続けてもらえる?」

「もちろんでございます」


 エレノアは静かに頷いた。


「私たちも、何か見落としていることがないか、引き続き確認してまいります」


 円卓の上には、各領から寄せられた報告書と、神獣国家の全域を描いた地図が広げられたままになっていた。

 窓から差し込む午後の光が紙面を照らし、細かく書き込まれた地名や街道の線を浮かび上がらせている。

 先ほどまで報告を説明していたアカネとエルネは、資料を片づけることなく、智希が地図を眺める様子を静かに待っていた。


 子供たちの足取りが、ある地点を境にプツリと途切れている。

 それも、一つの領だけではない。

 その事実が気にならないはずはなかったが、智希はすぐに結論を出そうとはしなかった。

 現時点で分かっているのは、複数の領で似たような報告が増えていることと、調査を進めても消息を確かめられない子供たちがいるということだけだ。

 誰かが連れ去った可能性はある。しかし、それを裏付けるものは、まだ何も見つかっていない。


 智希は地図の上に指を置き、中央区から伸びる街道を目で追った。

 途中で山間部を抜ける道もあれば、森を大きく迂回する道もあり、各領の位置関係を眺めているだけでも、その土地ごとに移動の事情が異なることが分かる。

 報告書に書かれた内容だけでは、実際の暮らしまでは見えてこない。

 そう考えたところで、智希は顔を上げた。


「クオン。明日から少し、各領を見て回らない?」


 問い掛けられたクオンは、手元の茶器を静かに置いた。

 その視線が地図へ向けられる。智希の指が置かれている場所を確かめた彼女は、すぐに意図を察したらしく、穏やかな微笑みを浮かべた。


「ええ、よろしいかと存じます。智希様にも、まだご覧いただいていない場所が多くございますから」

「うん。各地の様子も知っておきたいし、今回の件についても、実際に行ってみれば何か分かるかもしれない」


 智希は地図の端に置かれていた資料を少し寄せ、中央区から近隣の領へ向かう道筋を確かめた。

 神獣国家では、領によって住民の種族も生活環境も大きく異なる。

 森の中で暮らす者たちと、水辺に集落を構える者たちでは、移動の仕方も、他者との関わり方も違うだろう。

 まして、今日見てきた子供たちのように、決まった場所に留まらず生活している者もいる。

 そうした違いを知ることは、今回の報告を考える上でも無駄にはならないはずだった。


「二日か三日くらいかな。全部を細かく見て回るのは難しいと思うけど、いくつかの領を訪ねてみたいんだ」

「承知いたしました。それでしたら、各領の特色をご覧いただけるよう、経路を考えてみましょう」


 クオンが答えると、隣に座っていたルシェルも地図を覗き込んだ。

 彼女はしばらく街道の位置を確かめてから、少し離れた場所に記された領へ視線を移した。

 そこには、日和にはまだ読み慣れない地名がいくつも並んでいる。


「せっかくでございますから、異なる環境の領を幾つか訪ねるのがよろしいかもしれませんね。日和様にも、楽しんでいただけるかと存じます」


 不意に自分の名前が出てきたことで、日和は顔を上げた。

 先ほどから智希たちの話を聞いてはいたものの、自分も当然のように同行者へ含まれているとは思っていなかったらしい。

 目の前に広がる地図へ視線を落とす。

 そこには、今日歩いてきた狐狸族の集落や中央区よりも、ずっと多くの土地が描かれていた。

 森や山、水辺に広がる集落。それぞれの場所に、まだ見たことのない種族が暮らしているのだろう。

 行ってみたい、という気持ちはすぐに湧いてきた。

 けれど、その一方で、先ほど聞いた子供たちの話も頭に残っていた。


「あの……私も、一緒に行っていいんですか?」


 日和が尋ねると、ルシェルは彼女へ向き直り、柔らかく微笑んだ。


「もちろんでございます。日和様がよろしければ、ぜひご一緒くださいませ」


 その返事に、日和の表情がぱっと明るくなる。

 しかし、すぐに何かを考えるように口元を引き結ぶと、今度は智希の方へ目を向けた。

 今日だけでも、日和にとっては驚くことの連続だった。

 森の中で子供たちが自分たちの暮らしを支えていたこと。

 中央区では様々な種族が行き交い、人間の街と変わらない賑わいを見せていたこと。

 そして、目の前にいる代表たちが、神獣や精霊でありながら、日々の仕事に追われ、互いに協力しながら国を支えていること。

 知らなかった世界を一つ知るたびに、また別のことが気になってくる。


 もっと見てみたい。もっと話を聞いてみたい。


 そう思う気持ちは確かにあった。

 けれど、今から向かおうとしている場所には、消息の分からない子供たちがいるかもしれない。

 自分が珍しい景色を楽しみにしていることが、どこか場違いなようにも感じられた。


「……行ってみたいです。でも、さっきの子供たちの話が、ちょっと気になってて」


 日和はそう言いながら、膝の上で重ねていた手を握り直した。


「私が一緒に行ったところで、何かできるわけじゃないと思うんですけど……。それでも、どうなってるのか、知りたいなって」


 言い終えてから、日和は少し困ったように笑った。

 自分でも、何を言いたいのか上手くまとめられていない気がした。

 事件かどうかも分からない出来事に、何の力も持たない自分が関わろうとしている。

 そんなふうに聞こえてしまったのではないかと考え、もう少し説明しようとしたところで、智希が穏やかに口を開いた。


「うん。いいと思うよ」


 あまりにも自然な返事だったため、日和は思わず瞬きをした。

 智希は地図から手を離し、彼女へ身体を向けた。


「僕たちだって、まだ何が起きてるのか分からないんだ。だから、最初から何かを解決しようと思わなくてもいいんじゃないかな」


 その言葉に、日和は黙って耳を傾けた。


「まずは、その土地に行ってみようと思ってる。どんな人たちが暮らしていて、普段はどんなことをしてるのか。話を聞いて、実際に見てみれば、今の資料だけじゃ分からないこともあると思うんだ」


 智希はそこで一度、円卓に広げられた地図へ視線を戻した。

 いくつもの領を結ぶ線の上には、集落や街の位置が細かく記されている。しかし、そこに暮らす人々の顔までは描かれていない。

 今日、日和が森の中で出会った子供たちについても、地図や報告書を眺めているだけでは、あの暮らしぶりを知ることはできなかっただろう。


「日和さんが見て、感じたことも、僕たちとは違うかもしれないしね。気になったことがあったら、教えてくれればいいと思うよ」


 日和は、しばらく智希の顔を見つめていた。

 何か役に立たなければいけない。

 そんなふうに考えていたわけではないつもりだったが、言われてみれば、自分が同行する理由を探していたのかもしれない。

 智希たちは、この国のことをよく知っている。クオンやルシェルに至っては、国を導く立場にある存在だ。

 そんな人たちに混じって、自分だけが何も知らないまま歩いていてよいのだろうかという気持ちが、どこかにあった。


 けれど、知らないからこそ気づくこともあるのだと、智希は言ってくれている。

 日和は膝の上の手を緩め、もう一度地図を見た。

 知らない土地へ行くことへの期待も、子供たちのことが気になる気持ちも、どちらも消えたわけではない。

 それでも、その二つを無理に分けて考える必要はないのだと思えた。


「……はい。じゃあ、私も行きたいです」


 顔を上げた日和がはっきりと答えると、智希は嬉しそうに頷いた。


「うん。一緒に行こう」

「ほな、明日からちょっとした旅行やな」


 そのやり取りを見ていた彰人が、椅子の背へ身体を預けながら、楽しそうに口を開いた。

 それまで静かに話を聞いていた日和は、思わず彰人の方を振り向いた。

 彼は片手に焼き菓子を持ち、もう片方の手で地図を指しながら、どこへ行こうかと考えているようだった。

 その様子があまりにも普段どおりだったため、日和は一瞬、何と返せばよいのか迷ってしまう。


「彰人、旅行って……」

「いや、せっかく知らんとこ行くんやろ? 楽しまな損やん。難しい顔して歩いとったら、見えるもんまで見えへんようになるで」


 彰人はそう言って笑い、手にしていた焼き菓子を口へ運んだ。

 日和は苦笑したものの、その言葉をすぐに否定する気にはなれなかった。

 今まで見てきたものの中にも、楽しいと思ったことや、綺麗だと感じた景色はたくさんあった。

 中央区の市場で見掛けた品物も、森の中で出会った子供たちの笑顔も、日和にとっては大切な発見だった。

 子供たちの消息が気になるからといって、そうしたものまで見ないようにする必要はないのだろう。

 隣に座っていた良澄が、彰人へ穏やかな視線を向けた。


「言ってることは分かるけど、彰人。遊びに行くわけじゃないからね」

「分かっとるって。ちゃんと見るとこは見るわ」

「そう言いながら、さっきからお菓子ばかり食べてるけど」

「今は休憩中やろ。出されたもん残す方が失礼やんか」


 もっともらしい顔で答える彰人に、良澄は呆れたような、それでいてどこか楽しそうな笑みを浮かべた。

 その表情を見た日和は、二人が普段からこんなやり取りを繰り返しているのだろうと感じた。

 良澄の言葉には本気で彰人を咎めるような響きはなく、彰人もまた、それを分かった上で軽口を返している。


 隣の席から小さな笑い声が聞こえた。

 視線を向けると、メリナが口元へ手を添え、二人のやり取りを楽しそうに眺めていた。

 ネリスも微笑んでおり、エルネは彰人の前に置かれた菓子皿を見て、残りが少なくなっていることに気づいたらしい。


「お口に合いましたか?」

「めっちゃうまいですわ。これ、何使うてるんです?」


 彰人がすぐに尋ねると、エルネは嬉しそうに焼き菓子の材料について話し始めた。

 その隣では、アカネが何かを思い出したように資料へ手を伸ばしている。

 賑やかな会話が交わされる一方で、代表たちは必要な仕事も忘れていないらしい。

 日和はそんな様子を見渡し、自然と笑みを浮かべた。

 先ほどまで、子供たちが連れ去られているかもしれないという話をしていた。

 そのことが解決したわけではないし、誰も忘れてはいないはずだ。

 けれど、だからといって、ここにいる全員が暗い顔をしていなければならないわけではない。

 普段の暮らしを続けながら、必要なことを考え、できることを進めていく。

 目の前の人たちは、そうやってこの国を支えているのだろう。

 やがて、彰人とエルネの菓子談義がひと段落したところで、エレノアが資料を揃えながら智希へ声を掛けた。


「それでしたら、こちらでも各領の最新の状況を確認しておきましょう。皆様が訪問されることを、必要な方々へお伝えすることもできますが」

「ありがとう、エレノア。でも、あまり大げさにしなくていいよ」


 智希は地図から顔を上げ、彼女へ微笑み掛けた。


「普段の様子を見たいから、特別な準備は必要ないと思う。何か気になることがあれば、そのときに話を聞かせてもらうよ」

「かしこまりました。では、各領への連絡は必要な範囲に留めておきます」


 エレノアは頷き、手元の資料をアカネへ渡した。

 アカネはそれを受け取ると、地図の上に記された街道や集落の位置を確かめ始めた。

 隣ではエルネが帳面を開き、現在進めている調査の状況を整理している。

 六人の代表たちにとって、各領から届く報告を確認することも、必要な連絡を行うことも、日常の仕事の一部なのだろう。

 視察の話が決まったからといって、特別に慌ただしくなる様子はなかった。

 クオンはそんな彼女たちの様子を見守ってから、静かに口を開いた。


「皆様には、引き続き中央をお願いいたします。私たちが各領を巡る間も、こちらのお仕事を進めていただければ幸いでございます」

「もちろんでございます、クオン様」


 エレノアが答えると、ほかの代表たちもそれぞれ頷いた。

 中央区には、各領から日々様々な情報が集まってくる。季節に伴う調整もあれば、住民同士の相談や、各地で必要となる物資の手配もある。

 代表たちが揃って中央を離れてしまえば、それらの仕事に支障が出ることになるだろう。

 何より、子供たちの消息については、今も眷族たちが調査を続けている。

 智希たちが現地を訪ねることと、中央で情報を集め続けることは、別々に進めた方がよいはずだった。


「こちらで新たなことが分かりましたら、すぐにお知らせいたします」


 アカネがそう告げると、智希は頷いた。


「うん、お願い。僕たちも何か分かったら連絡するよ」


 視察の日程は、ひとまず二日から三日。

 訪問する領については、クオンとルシェルが移動の順序を考え、智希たちと相談しながら決めることになった。

 中央の代表たちは、それぞれの仕事を続けながら、必要な情報を届けてくれるという。

 大まかな方針がまとまると、円卓に広げられていた資料も少しずつ片づけられ始めた。


 日和は、クオンとルシェルが地図を指し示しながら相談している様子を、興味深そうに眺めていた。

 聞き慣れない領の名前が出るたびに、そこにはどんな景色が広がっているのだろうと想像が膨らんでいく。

 その隣で、良澄がふと日和へ目を向けた。


「そういえば、日和さん。二、三日ってことだけど、家の方は大丈夫?」

「え?」


 思いがけない問い掛けに、日和は良澄を振り向いた。

 何のことだろうと一瞬考え、それから、明日以降もこちらに滞在するということは、当然ながら家に帰らないということなのだと気づいた。


「あっ……そうでした!」


 慌てたように声を上げた日和に、良澄は小さく笑みを浮かべた。


「行くのはいいけど、連絡はしておいた方がいいんじゃないかな」

「はい。すっかり忘れてました……」


 日和は少し恥ずかしそうに笑った。

 大学のサークル活動で外出する機会は増えていたし、泊まり掛けになること自体も、それほど珍しい話ではない。

 家族も日和の行動をある程度信頼してくれているため、二、三日程度であれば、特に問題はないだろう。

 とはいえ、何も伝えずに帰らなければ、さすがに心配を掛けてしまう。

 目の前に広がる未知の世界に気を取られて、そんな当たり前のことを忘れていた自分がおかしくなり、日和は思わず苦笑した。


「ふふ。日和様は、随分と楽しみにしてくださっているのですね」


 その様子を見ていたルシェルが、口元に柔らかな笑みを浮かべた。


「えっ、あ、はい……!」


 日和は少し頬を赤らめた。

 子供たちの消息について気になることはある。それでも、まだ見たことのない場所へ行けるのが楽しみなのも確かだった。

 その気持ちを見透かされたようで、何となく気恥ずかしい。

 ルシェルはそんな日和の反応を楽しむように微笑んでいたが、やがて穏やかな声で言葉を続けた。


「それは何よりでございます。ですが、ご家族を心配させてしまっては、せっかくの視察も落ち着きませんものね」

「はい。ちゃんと連絡しておきます」


 日和が頷くと、今度はクオンが静かに口を開いた。


「もし、ご都合が合わないようでしたら、遠慮なく仰ってくださいませ。日和様のご予定を優先していただいて構いませんので」


 その言葉に、日和は顔を上げた。

 クオンの表情はいつもどおり穏やかで、無理に同行を勧める様子はない。先ほどの智希もそうだったが、ここにいる人たちは、日和自身がどうしたいのかを大切にしてくれているのだと感じた。


「ありがとうございます。でも、たぶん大丈夫です。家にも連絡しておきますね」


 そこまで聞いて、智希が頭を掻きながら少々あきれた様子で顔を上げる。


「ごめんクオン、雅史さんあたりに連絡してもらえるように伝えられる?」


 智希の言葉を聞いて日和が不思議そうな顔をする。

 一方のクオンは、思った通りだという感じで、微笑みながら頷く。

 一人取り残された日和が不満そうに声を上げる。


「智希君、どういうこと?」

「いや、どうやって連絡するつもりだったの……?」

「あっ!」


 そこまで聞いて初めて思い出した。

 携帯電話の電波は届かず、こちらに来た入口は少々遠い。

 そう考えると、簡単な連絡方法は使えないということを。言われるまで気が付かなかったことに赤面した。


「メーダさんから、雅史さんを通して日和さんのご実家には連絡させていただきますね」


 クオンが穏やかに告げると、日和は申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません、ありがとうございます。そこまで考えてませんでした……」

「ふふ。お気になさらないでくださいませ」


 そのやり取りを見ていた良澄が、小さく笑みを浮かべた。


「まあ、気づいてよかったね」

「はい……。本当に」


 日和は少し恥ずかしそうに笑いながらも、ようやく安心したように息をついた。

 それを確認すると、日和は改めて円卓の上の地図へ視線を向けた。

 先ほどまでは、ただ知らない地名が並んでいるように見えていた場所が、今は少し違って感じられる。

 明日になれば、そのうちのいくつかを実際に訪ねることになるのだ。

 そこにはどんな景色が広がっているのだろう。

 どんな種族が暮らし、どんな日常を送っているのだろう。

 今日出会った子供たちのように、日和が想像もしていなかった暮らし方をしている人々がいるかもしれない。

 その一方で、消息の分からない子供たちについて、何か新しいことが分かる可能性もある。


 期待と不安のどちらも胸に抱えたまま、日和は地図に描かれた領の名前を目で追った。

 窓の外では、中央区の街並みが夕暮れの光に包まれ始めていた。

 昼間の賑わいはまだ残っているものの、建物の影は少しずつ長くなり、遠くの通りでは店先の灯りが一つ、また一つと点り始めている。

 室内では、エレノアたちが資料を片づけ、智希とクオン、ルシェルが明日以降の経路について話を続けていた。

 彰人はエルネから焼き菓子の作り方を聞き出そうとしており、良澄はその様子を見ながら、時折呆れたように笑っている。


 日和はそんな光景を眺め、残っていた茶をゆっくりと口へ運んだ。

 少し冷めた茶からは、先ほどよりも穏やかな花の香りが漂っていた。

 今日一日で、随分と遠くまで来たような気がする。

 けれど、明日からは、さらに知らない場所へ向かうことになる。

 日和は茶器をそっと置くと、窓の向こうに広がる街並みへ、もう一度目を向けた。


      ◇


 窓の外に広がる街並みが、ゆっくりと夕暮れの色に染まり始めていた。

 中央区の通りには、昼間とは違った賑わいが生まれている。市場では店じまいの準備を進める商人たちが声を掛け合い、荷車を引く者たちが最後の荷物を運んでいた。

 通り沿いの建物には少しずつ灯りが点り始め、石畳の上には、窓から漏れる橙色の光が細長く伸びている。

 行政庁舎の中でも、一日の仕事を終える者たちの姿が増えていた。

 資料を抱えて廊下を歩く者や、明日の予定を確認しながら言葉を交わす者たちが、次々と執務室を後にしていく。

 昼間は書類を運ぶ足音や話し声が絶えなかった建物も、夕刻を迎えるにつれて、少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。

 円卓の上に広げられていた地図や報告書も、すでに片づけられている。

 智希たちは、明日からの視察について大まかな予定を決めたところで、ようやく席を立つことになった。


「さて、そろそろ夕食にいたしましょうか」


 エレノアが穏やかに声を掛けると、彰人が待っていたとばかりに顔を上げた。


「お、ええ時間やな。そういや、結構歩いたし腹減ってきたわ」

「さっき、あれだけお菓子を食べてたのに?」


 良澄が呆れたように笑うと、彰人は当然とでも言いたげに肩をすくめた。


「あれはお茶請けやろ。晩飯とは別やって」


 その返事に、近くにいたメリナが楽しそうに笑った。


「それでしたら、きっとご満足いただけると思いますよ。今日は少し賑やかな食事になりそうですから」


 彼女の言葉を聞いて、日和は思わず首を傾げた。

 賑やかな食事というのは、どういうことだろう。

 行政庁舎の中で仕事をしていた代表たちが、これからどこかへ案内してくれるのだろうか。

 そんなことを考えていると、エルネが近くの棚から上着を取り出しながら、日和へ微笑み掛けた。


「中央区には、美味しいお料理を出してくださるお店がたくさんあるんですよ。せっかくですから、皆様にも楽しんでいただきたいです」

「あ、お店に行くんですね」

「ええ。私たちも、仕事の後によく利用しているんです」


 日和は、その答えに少し驚いた。

 神獣国家の代表たちという立場から、もっと特別な場所で食事をするものだと思っていたのだが、どうやらそういうわけではないらしい。

 考えてみれば、彼女たちも日々ここで仕事をしているのだ。仕事を終えた後に食事へ出掛けることくらい、何も不思議ではない。

 そう思うと、少し親しみが湧いてくる。

 エレノアたちは、それぞれ机の上を片づけ、必要な書類を所定の場所へ戻していた。

 アカネは最後に届いた報告を確かめてから帳面を閉じ、ネリスは使用していた茶器を片づけている。

 シエラが窓際に置かれていた資料を風に乗せて運ぶと、エルネがそれを受け取り、棚へ収めた。


 その一連の動作には、昼間のような忙しさはない。

 今日の仕事を終え、明日へ備えるための、慣れた手順なのだろう。

 やがて準備が整うと、一行はエレノアたちに案内され、行政庁舎を後にした。

 外へ出ると、昼間よりも少し冷たい風が頬を撫でた。

 通りの両側には、店先から漏れる灯りが連なっている。石造りの建物の壁面は夕暮れの光を受けて柔らかな色合いを見せ、窓辺には花を飾った家もあった。

 街を行き交う者たちの姿も、昼間とは少し違っていた。

 買い物を終えて家路を急ぐ者もいれば、仕事仲間らしい数人で連れ立ち、楽しそうに話しながら歩いている者もいる。

 通りの角では、小さな子供が大人の手を引いて何かをねだり、その様子を見た周囲の者たちが微笑んでいた。


 日和は、そんな光景を眺めながら歩いた。

 昼間は初めて見る建物や種族の姿に気を取られていたが、こうして夕暮れの街を歩いていると、人々の暮らしがより身近に感じられる。

 仕事を終えて帰る人がいて、夕食の買い物をする人がいて、友人と食事へ向かう人がいる。

 姿や文化は違っていても、一日の終わりを迎える様子には、自分たちの世界とよく似たところがあった。


「日和さん、どうしたの?」


 隣を歩いていた智希に声を掛けられ、日和は顔を上げた。


「あ、いえ……。何だか、普通の街なんだなって思って」


 言ってから、少し失礼な表現だったかもしれないと気づき、日和は慌てて言葉を続けた。


「もちろん、私の知ってる街とは全然違うんですけど。でも、こうして見てると、みんな普通に暮らしてるんだなって」


 智希は日和の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「うん。そうだね」


 それ以上、特別な説明を加えることはなかった。

 日和も、今はそれで十分な気がした。

 やがて一行は、大通りから少し入った場所にある建物の前で足を止めた。

 石造りの二階建てで、入口の上には木製の看板が掲げられている。

 窓からは温かな灯りが漏れ、開いた扉の向こうからは、楽しそうな話し声と食器の触れ合う音が聞こえてきた。

 それに混じって漂ってくるのは、焼いた肉や香草、煮込み料理の食欲をそそる香りだった。


「こちらでございます」


 エレノアが微笑みながら扉を開くと、店内にいた数人がこちらへ顔を向けた。

 その中の一人がエレノアに気づき、親しげに手を上げる。


「おや、今日は随分と大勢だね」

「ええ。お客様をご案内しているんです。お席は空いておりますか?」

「もちろん。奥の大きな卓を使っておくれ」


 気さくなやり取りを交わす二人の様子から、エレノアたちが普段からこの店を利用していることが分かった。

 店内には大小の卓が並び、仕事帰りらしい者たちが食事を楽しんでいた。

 人に近い姿をした者もいれば、獣の耳や角を持つ者、背中に翅を備えた者もいる。

 その誰もが、周囲の姿を特別気にすることなく、料理を囲んで笑い合っていた。

 案内された奥の卓は、十三人が座っても十分な広さがあった。

 日和が席に着くと、すぐに店の者が水差しと器を運んできた。続いて、焼きたてのパンや香草を添えた野菜、温かなスープが卓上へ並べられていく。

 料理は大皿に盛られており、好きなものを取り分ける形式らしい。

 中央には、香ばしく焼き上げられた肉料理が置かれ、その周囲には色鮮やかな野菜や、豆を使った煮込み料理が並んだ。

 どれも見慣れない調理法ではあったが、漂ってくる香りはどこか懐かしく、日和の食欲を刺激した。


「わぁ……美味しそう」


 思わず声を漏らすと、隣に座ったメリナが嬉しそうに微笑んだ。


「こちらのお料理は、中央区でも評判がよろしいんですよ。いろいろな種族の方が利用されるので、種類も豊富なんです」

「そうなんですね」


 日和は卓上の料理を見渡した。

 肉料理だけでなく、野菜や穀物を中心にしたものも多い。香辛料の使い方も様々で、同じ材料でも味付けが大きく違っているようだった。

 それぞれの種族に食べられるものや好みの違いがあるのだろう。だからこそ、これほど多くの料理が用意されているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、向かい側に座った彰人が早速パンを手に取っていた。


「これ、うまそうやな。いただきますわ」

「彰人、まだ全員揃ってないから」


 良澄が声を掛けると、彰人はパンを持ったまま周囲を見渡した。


「ん? もう座っとるやろ?」

「料理がまだ来てる途中だよ」

「ああ、そういうことか」


 彰人は素直にパンを皿へ戻したが、その視線はすでに中央の肉料理へ向けられていた。

 日和は、その様子を見て小さく笑った。

 しばらくすると、最後の料理が運ばれ、一行はそれぞれ食事を始めた。

 温かなスープを一口飲むと、野菜の甘みと香草の香りが口いっぱいに広がった。日和は思わず目を細め、続いてパンを小さくちぎって口へ運ぶ。

 外側は香ばしく、中は柔らかい。

 噛むほどに穀物の甘みが感じられ、先ほどのスープともよく合っていた。

 その隣では、ネリスが料理の取り分け方を教えてくれていた。


「こちらは少し香りが強いので、最初は少なめにしてみてください。お好みに合えば、後から足していただけますから」

「ありがとうございます」


 日和は勧められた料理を皿へ取り、慎重に口へ運んだ。

 香草の風味が思ったよりも強く、一瞬驚いたものの、後から広がる柔らかな甘みがそれを包み込んでいく。


「……あ、美味しい!」


 その反応を見て、ネリスは嬉しそうに微笑んだ。

 卓の反対側では、彰人が店の料理についてエルネと話し込んでいた。

 どうやら、先ほどの焼き菓子に続いて、こちらの料理にも興味を持ったらしい。

 良澄はその様子を眺めながら、時折会話に加わっている。

 クオンとルシェルも、エレノアたちと穏やかに言葉を交わしていた。

 その内容は、昼間のような各領の報告ではなく、最近の出来事や、以前に訪れた場所の話など、気軽なものが多い。

 エレノアが何かを話すと、クオンが楽しそうに微笑み、ルシェルがそれに言葉を添える。

 メリナが笑い声を上げると、シエラも身を乗り出すようにして会話へ加わった。

 日和は、そんな光景を眺めながら食事を続けた。


 神獣国家の代表たちという立場から、もっと厳格な雰囲気を想像していたのだが、今ここにいる彼女たちは、仕事を終えた仲間同士で食事を楽しんでいるように見える。

 もちろん、彼女たちが担っている役割は決して軽いものではない。

 今日聞いた報告の中には、気になるものもあった。

 それでも、こうして笑い合いながら食事をする時間があることに、日和は少し安心していた。

 食事が進むにつれて、卓上の料理は少しずつ減っていった。

 店内の賑わいも次第に落ち着き、窓の外にはすっかり夜の景色が広がっている。

 通り沿いに並ぶ灯りが石畳を照らし、時折通り過ぎる人々の影が窓辺を横切っていた。

 やがて、食後の温かな飲み物が運ばれてくると、一行はそれぞれ器を手に取り、しばらくゆったりとした時間を過ごした。


 日和は、椅子の背へ少し身体を預けた。

 朝から随分と多くのことがあった。

 森の中を歩き、中央区へ入り、神獣国家の代表たちと話をして、明日からはさらに各領を巡ることになった。

 一日で経験したことを思い返すだけでも、頭の中がいっぱいになりそうだった。

 けれど、不思議と疲れよりも充実感の方が大きい。

 知らなかったことを知り、見たことのないものを見る。

 その楽しさを、日和は改めて感じていた。

 食事を終えた一行は、店の者たちへ礼を告げ、再び夜の街へ出た。

 外の空気は昼間よりも冷たくなっていたが、通りにはまだ人の姿があり、建物の窓から漏れる灯りが街を柔らかく照らしている。

 エレノアたちに案内され、一行は行政庁舎からほど近い宿泊施設へ向かった。

 そこは中央区を訪れる者たちが利用する建物で、落ち着いた雰囲気の客室がいくつも用意されていた。

 廊下には柔らかな灯りが点り、窓辺には小さな花が飾られている。


 日和が案内された部屋には、寝台と小さな机、椅子が置かれていた。

 豪華というほどではないが、清潔で居心地のよさそうな部屋だった。

 窓を開けると、中央区の夜景が見えた。

 昼間は人々の声で賑わっていた通りも、今は静かになりつつある。

 遠くには行政庁舎の大きな建物が見え、その周囲には、家々の灯りが星のように散らばっていた。


 日和は、しばらく窓辺に立っていた。

 今日見たものの中で、特に印象に残っているのは何だろう。

 森の中で暮らしていた子供たちだろうか。

 中央区の賑やかな街並みだろうか。

 それとも、国の代表たちが普通に仕事をし、笑いながら食事をしていたことだろうか。


 どれか一つを選ぶことはできなかった。

 それぞれが、日和にとって初めて知る世界の一部だった。

 ふと、円卓で聞いた子供たちの話が頭をよぎった。

 消息が分からなくなっている子供たち。

 その足取りが、途中でプツリと途切れているという報告。

 昼間は、何が起きているのか分からないということばかりが気になっていた。

 けれど、夕食の席で見た人々の笑顔や、街を行き交う家族連れの姿を思い返すと、その出来事が、どこか遠い場所の話ではないように感じられた。


 この国にも、毎日の暮らしがある。

 誰かを待っている人がいて、帰ってくることを当たり前だと思っている人がいる。

 もし、その日常の中から誰かが突然いなくなっているのだとしたら。

 日和は、窓の外に広がる街並みを静かに見つめた。

 今はまだ、何も分からない。

 けれど、明日から各領を巡れば、少しは何かが見えてくるかもしれない。

 そう思いながら、日和は窓を閉めた。

 柔らかな寝具へ身体を預けると、一日の疲れがゆっくりと押し寄せてきた。

 目を閉じれば、森の木々や中央区の街並み、今日出会った人々の顔が次々と思い浮かぶ。


 明日は、どんな場所へ行くのだろう。

 そんなことを考えているうちに、日和の意識は少しずつ遠のいていった。

 中央区の夜は、穏やかに更けていく。

 その街のどこかでは、まだ仕事を続けている者もいるのだろう。

 各地へ向かった眷族たちも、今なお調査を進めているはずだった。


      ◇


 宿泊施設の屋上には、夜風に吹かれながら街並みを見下ろす智希の姿があった。

 隣にはクオンが立ち、二人とも、しばらく言葉を交わすことなく夜空を眺めていた。

 眼下には中央区の灯りが広がり、遠くの通りを行き交う人々の姿が、時折その光の中を横切っていく。

 智希は、昼間に見た子供たちの姿を思い返していた。

 自分たちで仕事を引き受け、仲間と笑い合いながら暮らしていた子供たち。

 あの場所にいた彼らと、消息が分からなくなっている子供たちとの間に、どれほどの違いがあるのだろう。

 もし本当に誰かが連れ去られているのだとしたら、すでに助けを必要としている子供がいることになる。

 そう考えると、今こうしている時間さえ惜しく感じられた。

 けれど、何が起きているのかも分からないまま動いたところで、救えるものまで見失ってしまうかもしれない。

 智希は小さく息を吐き、夜空へ視線を戻した。


「智希、まだこれからです」


 クオンの言葉に顔を向ける。

 優しそうだが、どこか厳しさを含んだ表情で智希の方を見つめていた。


「分かってるんだけどね、どうしてもさ……」


 まだ誘拐と確定したわけではない。

 もしかすると、待遇のいい国があって、そちらに移動しただけかもしれない。

 はたまた、十二の領のどこかで入れ替わり続けているのかもしれない。

 不安ではあるが、杞憂である可能性もある。むしろそうであって欲しいと願ってさえいる。


 今のところ、確認できている事実を積み重ねると、失踪や普段の生活と同じ移動というには不安要素が多い。

 だからこそ、明日からはいくつかの領を回って話を聞くことにした。

 クオンの言う通り、これからはっきりしていくはずだ。

 そう思い直すと、智希は立ち上がった。


「そうだね、明日からまた頑張らないとね!」


 その様子を見て、クオンも少し安心したのか、同じように立ち上がり智希とともに部屋に戻っていく。


 今夜の中央区には、いつもと変わらない静かな時間が流れていた。

 そして翌朝、一行は新たな土地へ向けて旅立つことになる。

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