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十二神承   作者: 境塚 透
救えないもの
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37/37

それぞれの暮らし、その向こうに

 神獣国家の中央区で迎える二度目の朝は、日和が想像していたよりも、ずっと穏やかなものだった。

 目を覚ましたときには、窓の向こうにある建物の屋根が朝日に照らされ始めていたものの、通りから聞こえてくる物音はまだ少なく、昨日の昼間に見た賑やかな街並みとは随分と印象が違っている。

 人々が行き交い、様々な姿をした神獣たちが当たり前のように言葉を交わしていた光景が強く記憶に残っているだけに、こうして静けさに包まれていると、ここが日本から遠く離れた別の世界であることさえ忘れてしまいそうだった。


 もっとも、昨日一日で見聞きしたことを思い返せば、そんな感覚も長くは続かなかった。

 この国では、人間の姿を取ることのできる神獣もいれば、動物に近い姿のまま暮らしている者もいる。

 種族によって住む場所も生活の仕方も違い、それぞれが独自の文化を持ちながら、一つの国として成り立っているのだという。

 智希たちから話を聞いていたときには、どこか物語の中に出てくるような世界を想像していたが、実際にその場所を訪れてみると、そこで暮らしている人々の営みは思っていた以上に身近なものだった。


 道端で立ち話をする者がいて、店先では客と店主が笑い合い、子供たちは種族の違いなど気にする様子もなく遊んでいる。

 自分が知っている動物の姿をした者が言葉を話すことには何度驚いても慣れなかったが、そうした光景を見ているうちに、彼らも自分たちと変わらない暮らしを送っているのだという実感が生まれていた。

 だからこそ、昨日聞いた子供たちの失踪については、ベッドに入ってからも何度か考えてしまった。


 十一もの領地で子供が姿を消しているという話は、単に数が多いというだけでも異常なものだ。

 だが、その一人ひとりに家族がいて、帰りを待っている誰かがいる。

 昨日見かけた子供たちの中にも、親の姿を見つけて駆け寄っていく子や、年下の子供の手を引いて歩く子がいた。

 ああした日常の中から突然誰かがいなくなってしまうことを考えると、胸の奥に落ち着かないものが残る。

 それでも、何が起きているのか分からない以上、今の自分にできることは限られていた。


 日和はしばらくベッドの上で考えを巡らせていたものの、再び眠れそうにはなかったため、身支度を整えて部屋を出ることにした。

 廊下にはまだ人の気配がほとんどなく、階段を下りていくと、宿の入口から流れ込んでくる朝の空気が頬に触れた。

 日本で迎える秋の朝と比べて特別に寒いというわけではなかったが、建物の中に漂う空気とは違い、どこか草木の匂いを含んでいるように感じられる。

 入口の扉が少し開いていたので、先に誰かが外へ出ているのだろうと思いながら外へ出ると、宿の前に設けられた広場の片隅で、ゆっくりと身体を動かしている良澄の姿が目に入った。


 良澄は両腕を頭上に伸ばしてから肩を回し、続いて上半身を左右へひねっていた。

 その動きには特別な力強さがあるわけではなく、むしろ一つひとつの関節の動きを確かめているような慎重さがある。

 普段から身体の状態を意識しているのだろうと感じさせる様子に、日和は少し離れたところで足を止めた。


「おはようございます、良澄さん」


 声をかけると、良澄はちょうど伸ばしていた腕を下ろし、日和の方へ身体を向けた。

 朝から誰かが出てくるとは思っていなかったのか、わずかに意外そうな表情を見せたものの、すぐにいつもの穏やかな笑顔になる。


「おはよう、日和さん。早いね。昨日はちゃんと眠れた?」

「はい。ちゃんと眠れたんですけど、なんだか早く目が覚めちゃって。良澄さんは、いつもこんなに早いんですか?」

「毎日というわけじゃないけど、朝は少し身体を動かすようにしているかな。昨日は結構歩いたし、今日も移動が多くなりそうだからね」


 そう答えた良澄は、話をしながらも足首をゆっくり回していた。

 日和はその様子を眺めながら、昨日の移動を思い返してみたものの、初めて訪れる場所への興味が勝っていたせいか、どれほど歩いたのかさえよく覚えていなかった。

 実際にはかなりの距離を移動していたはずだが、目に入るもののほとんどが珍しく、疲れを感じる暇もなかったのだろう。


 良澄の隣へ歩み寄ると、日和は改めて中央区の街並みへ視線を向けた。

 昨日は人の往来が絶えなかった通りも、今はまだ静かだった。

 少し離れた建物では店の準備が始まっているらしく、木製の扉を開ける音や、何かを運ぶような物音が聞こえてくる。

 通りの向こうを獣人が歩いていく姿も見えたが、こちらを気にする様子はなく、朝の仕事へ向かう人々の姿は日本で見慣れたものとそれほど変わらない。

 ただ、街を囲むように遠くへ広がっている森や、その向こうに見える山並みは、ここが自分の知る場所ではないことを思い出させてくれた。


 昨日、クオンたちから聞いた話では、この中央区を取り囲むように十二の領地があり、それぞれの種族が暮らしているという。

 今日はそのうちのいくつかを訪ね、子供たちが姿を消したときの状況を調べることになっていた。

 日和がそのことを思い返していると、隣で身体を動かしていた良澄が、いつの間にか手を止めていた。

 視線の先に何かがあるわけではないらしく、通りの向こうを眺めているようでいて、どこか別のことを考えているようにも見える。

 普段の良澄は、周囲の人間の様子によく気がつき、誰かが困っていれば自然に声をかける人だった。

 そんな彼が珍しく考え込んでいるように見えたので、日和は少し迷ってから声をかけた。


「良澄さん、何か気になることがあるんですか?」


 問いかけられた良澄は、一度日和の方へ視線を戻してから、少し困ったように笑った。


「そんな顔をしていたかな」

「なんとなく、ですけど。昨日のお話のことですか?」


 日和がそう尋ねると、良澄は否定することなく頷いた。

 彼自身も、昨日聞いた話をどう受け止めるべきなのか、まだ整理しきれていないのだろう。

 子供たちが姿を消したという事実だけを聞けば、誰かが連れ去ったのではないかと考えてしまうが、実際には何が起きたのか分かっていない。

 足跡が途中で途切れていたという話も、何かの手がかりにはなるのだろうが、それだけで原因を決めつけることはできないはずだった。


「十一の領地で同じようなことが起きているとなると、やっぱり気になるよね。もちろん、それぞれが別の理由でいなくなった可能性もあるんだけど、子供ばかりというのはどうしても引っかかるんだ」


 良澄はそう言ってから、日和の方へ視線を向けた。


「ただ、今の段階では何も分からないからね。今日はいろんな人から話を聞いて、まずは何が共通しているのかを確かめたいと思っているよ」


 日和は頷きながら、良澄が昨夜から考えていたことを少し理解できたような気がした。

 自分は子供たちがいなくなったことに不安を感じ、何とかしてあげたいと思っている。

 しかし良澄は、その気持ちを持ちながらも、何を確かめなければならないのかを考えているのだろう。

 智希たちが普段から何かを調べるとき、すぐに答えを出そうとしない理由も、少しだけ分かったような気がした。


「私も、何か気づけることがあればいいんですけど……」


 思わず口にした言葉に、良澄は優しく微笑んだ。


「日和さんは動物のことが好きでしょう? 僕たちとは違うところに気づくかもしれないし、そんなに難しく考えなくても大丈夫だよ」


 その言葉に日和は少し安心したものの、同時に、自分がこの国へ来た理由を改めて思い返していた。

 もともとは智希たちがどんな場所へ行き、何をしているのかを知りたいという気持ちが大きかった。

 神獣たちが暮らす国を見てみたいという好奇心も、もちろんあった。

 しかし、実際にこの国の人々と触れ合い、困っている者がいると知った今では、単に珍しいものを見て帰るだけでは済ませたくないという気持ちが生まれている。

 だからといって、自分に何か特別な力があるわけでもなかったが、せめて話を聞き、そこで暮らす者たちのことを知るくらいはできるだろう。


 そんなことを考えているうちに、宿の入口から扉の開く音が聞こえてきた。

 振り返ると、そこには身支度を整えたセレスティアが立っていた。

 昨日と同じように人間に近い姿をしているものの、その立ち居振る舞いにはどこか気品があり、朝の柔らかな光の中に立つ姿は、日和がこれまで出会ってきた誰とも違う雰囲気をまとっている。

 もっとも、本人はそうしたことを特に意識していないらしく、二人の姿を見つけると、親しみのある笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。


「おはようございます。お二人とも、随分と早いのですね」

「おはようございます、セレスティアさん」


 日和が挨拶を返すと、セレスティアはその表情を見て、昨夜はよく眠れたかと尋ねてきた。

 日和が早く目を覚ましてしまったことを話すと、彼女は楽しみなことがある前日は自分も落ち着かないことがあるのだと、少し懐かしそうに笑った。

 

「セレスティアさんも、楽しみで眠れなくなることがあるんですか?」

「ええ。初めての場所へ向かう前などは、つい色々と考えてしまいますね」


 普段の落ち着いた様子からは少し意外だったが、セレスティアは日和の驚きを楽しむように柔らかく笑っていた。


「彰人さんにも、時々考えすぎだと言われます」

「彰人君が、ですか?」

「ふふ。そういうときは、案外あの方の方が思い切りがよいのですよ」


 日和は昨夜の彰人の様子を思い出し、なるほどと頷いた。互いに違うところがあるからこそ、二人は自然に並んでいられるのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、朝の緊張も少し薄れていた。

 その様子を見ていると、日和は彼女が自分とは異なる世界で生きてきた存在であることを、つい忘れてしまいそうになる。

 ヴァルネシアでどのように暮らしていたのか、詳しいことはまだ聞いていなかったが、彰人たちと話しているときのセレスティアは、どこか遠い世界の人物というよりも、自然に輪の中へ溶け込んでいる一人の仲間に見えた。

 そうした姿を見ているうちに、日和も少しずつ緊張せずに話せるようになっていた。


 セレスティアは良澄が朝の運動をしていたことを聞くと、今日の移動について思い出したらしく、昨日よりも広い範囲を回ることになるだろうと話し始めた。

 昨夜、彰人とも少し相談したそうで、まずは有蹄領へ向かい、そこで移動に使える馬車を借りられないか確認するつもりなのだという。

 馬車という言葉を聞いた瞬間、日和の頭には、絵本や映画で見たような立派な馬車の姿が浮かんだ。

 この国に来てからというもの、見たことのない生き物や建物に驚かされてばかりだったが、馬車に乗るという経験も、日本で暮らしていればそう簡単にできるものではない。

 観光地などで見かけたことはあっても、実際に移動手段として使うとなれば、また違ったものなのだろう。


 思わず期待が膨らんだ日和とは対照的に、良澄は少し考え込むような表情を浮かべていた。

 その違いに気づいたセレスティアが不思議そうに尋ねると、良澄は馬車そのものに不安があるわけではないと前置きしてから、乗り心地が少し気になっているのだと説明した。


「昨日見た道は、場所によって結構違っていたでしょう? 日本の車みたいに衝撃を吸収する仕組みがあるのか分からないし、長時間乗るとなると、少し気になるかな」


 良澄の話を聞いて、日和は改めて昨日歩いた道を思い返した。

 中央区の大通りは比較的整えられていたものの、建物の間を抜ける道には石が敷かれている場所もあり、少し離れれば土のままの道もあった。

 徒歩で移動しているときにはそれほど気にならなかったが、車輪のついた乗り物で走れば、確かに揺れそうな気がする。

 先ほどまで思い描いていた優雅な馬車の旅が、頭の中で少しだけ違ったものに変わっていった。


「……そんなに揺れるものなんでしょうか?」

「道によると思うよ。実際に乗ってみないと、まだ分からないけどね」


 良澄の返事は慎重だったが、不安を煽ろうとしているわけではないらしい。彼はむしろ、長い移動で誰かが疲れてしまうことを気にしているようだった。


「ちょっと楽しみにしてたんですけど、心配にもなってきました」

「ごめんね。せっかくの旅なのに」

「いえ、楽しみなのは変わりません!」


 そう言い切ってから、日和は自分でも少しおかしくなった。調査に向かう緊張と、初めての景色への期待は、どうやら簡単には切り離せないらしい。

 良澄もつられるように笑い、二人は朝食の時間を確かめるため宿の方へ目を向けた。


 そんな二人の様子が面白かったのか、セレスティアは小さく笑みを浮かべていた。

 彼女の話では、この国には馬車を引くことに長けた者たちも暮らしており、ヴァルネシアで使われていた馬車とは違う工夫もあるらしい。

 ただし、移動の速さと乗り心地が必ずしも一致するわけではないようで、実際に乗ってみるまでは分からないという。

 日和は少し不安になりながらも、まだ見ぬ馬車への興味を失うことはなかった。

 むしろ、どんな馬が引いてくれるのだろうという疑問が浮かび、その姿を想像しているうちに、今度は有蹄領そのものへの期待が膨らんでくる。

 馬や鹿、羊といった動物たちが暮らす領地だと聞いていたが、実際にはどのような場所なのだろう。

 昨日見た中央区の街並みとは違い、広い草原が続いているのかもしれないし、そこでは人間の姿をした者よりも、動物に近い姿の者の方が多いのかもしれない。


 考え始めると次々に疑問が浮かんできて、日和は自分が少し浮かれていることに気づいた。

 子供たちの失踪を調べに行くのだということは、もちろん忘れていない。

 それでも、これから出会う人々や初めて見る景色を楽しみに思う気持ちまで、無理に抑える必要はないのだろう。

 良澄とセレスティアが移動について話しているのを聞きながら、日和はそう考えていた。


 そのとき、通りの向こうから、こちらへ歩いてくる二人の姿が見えた。

 朝の仕事へ向かう人々とは違い、二人は特に急いでいる様子もなく、時折何かを話しながら宿の方へ向かってくる。

 まだ少し距離があったものの、昨日から何度も顔を合わせていた日和には、それがクオンとルシェルであることがすぐに分かった。

 彼女らもまた、今日の調査に同行してくれることになっている。


 日和が二人の姿に気づいて顔を上げると、セレスティアもその視線を追い、穏やかな笑顔を浮かべた。

 中央区の街が少しずつ朝の賑わいを取り戻し始める中、宿の前にも、今日一日を共に過ごす者たちが集まり始めていた。


 宿へ向かって歩いてくるクオンとルシェルは、朝の散歩でも楽しんでいたのか、互いに言葉を交わしながらゆっくりと歩いていた。

 中央区では様々な種族が行き交っているため、二人の姿だけが特別に目立つわけではなかったが、昨日から行動を共にしていた日和にとっては、見慣れない街並みの中で知っている顔を見つけられることが、少し嬉しく感じられた。

 こちらに気づいたクオンが軽く手を上げると、隣を歩いていたルシェルも顔を向け、二人はそのまま宿の前までやってきた。


「おはようございます。皆さん、もう起きていらしたのですね」


 先に声をかけてきたのはルシェルだった。

 クオンも穏やかな表情で挨拶を交わし、まだ智希と彰人の姿が見えないことに気づくと、二人は宿の中にいるのかと尋ねてきた。

 日和がまだ顔を合わせていないことを伝えると、クオンは特に気にする様子もなく、朝食までには起きてくるだろうと笑った。

 昨夜は翌日の予定についても話し合っていたため、二人とも多少は疲れているのかもしれない。

 もっとも、日和が知る限り、智希は普段からそれほど慌ただしく行動する人物ではなかった。

 大学でも、周囲が何かと忙しく動いている中で一人だけのんびりしているように見えることがあり、それでいて必要なことはいつの間にか済ませている。

 今回の調査でも、昨日は周囲の話を聞きながら時折考え込んでいたものの、無理に結論を出そうとする様子はなかった。


 その姿を思い返していると、クオンが今日の行き先について話し始めた。

 中央区から有蹄領までは、馬車を利用すればそれほど時間はかからないという。

 ちょうど朝の用事を終えて領地へ戻る馬車があるらしく、そこへ同乗させてもらえるよう手配してくれたのだそうだ。

 昨日までの移動では、神獣たちの暮らす場所をゆっくり見て回る機会が多かっただけに、今日は朝から本格的な調査が始まるのだという実感が湧いてきた。


「有蹄領って、やっぱり草原が広がっているんですか?」


 日和が尋ねると、クオンは少し考えるように視線を上げた。


「ええ。中央区とは随分と景色が違いますよ。見渡す限り草原が続いていて、木々もそれほど多くありません。あちらで暮らす者たちは、広い土地を移動しながら生活することにも慣れていますから」


 その説明を聞きながら、日和は頭の中に広大な草原を思い描いた。

 日本にも牧場や高原はあるものの、クオンの話す景色は、それらとは少し違うように思える。建物が立ち並ぶ街を離れ、視界を遮るもののない場所へ出れば、この国の広さも改めて感じられるのだろう。

 ルシェルも有蹄領には何度か足を運んだことがあるらしく、草原では季節によって見られる景色が大きく変わるのだと教えてくれた。

 日和が動物たちの暮らしについて次々に質問すると、彼女は一つひとつ丁寧に答えながらも、実際に見た方が分かりやすいことも多いと微笑んだ。

 話を聞いているうちに、日和は今日訪れる領地のことをもっと知りたくなっていた。


 ただ、クオンが今回の失踪について触れたことで、少しだけ気持ちが引き締まる。

 有蹄領でも、子供が姿を消したという報告が複数寄せられているらしい。

 種族によって暮らし方が異なるため、普段から広い範囲を移動する者もいるが、今回はそうした移動とは明らかに違う状況が確認されているという。

 詳しいことは現地で聞く必要があるものの、少なくとも、単に帰りが遅くなっているだけだと考えるのは難しいようだった。


 日和は先ほど良澄と話していたことを思い出し、クオンの説明に耳を傾けた。

 失踪した子供たちがどのような場所で暮らし、どんな状況でいなくなったのか。それを知ることが、今日の調査の最初の目的になるのだろう。

 その間、良澄はクオンの話を聞きながら、時折確認するように質問をしていた。

 子供たちが姿を消した時期や、周囲にいた者たちの証言について尋ねていたが、クオンもすべてを把握しているわけではないらしく、詳しい記録はそれぞれの領地で管理されているとのことだった。


「詳しい話は、それぞれの領地で聞くことになるんですね」

「ええ。中央区に届いている報告だけでは、どうしても分からないことがありますから」


 クオンの口調は穏やかだったが、手元の予定を確認する仕草には、限られた時間でできるだけ多くの話を聞こうという意志が表れていた。


「僕は、いなくなる前の体調や普段の様子も聞いておきたいです」

「分かりました。現地の者にも、確認できるよう伝えましょう」


 良澄の問いは、誰が連れ去ったのかという推測よりも、まず子供たち自身の状態へ向いていた。

 日和はその違いに気づき、自分なら何を尋ねるだろうと考えた。

 草原に暮らす種族によって行動の仕方が違うなら、同じ『失踪』という言葉でまとめる前に確かめるべきことがあるはずだった。


 そうしたやり取りを見ていると、この国の仕組みについても少しずつ理解できるような気がした。

 十二の領地は一つの国に属しているものの、それぞれが独自に暮らしを営んでいる。

 中央区に情報が集まる仕組みはあっても、すべての出来事を一か所で把握できるわけではないのだろう。

 だからこそ、実際に現地へ足を運び、そこで暮らす者たちから話を聞く必要がある。

 クオンたちが調査に同行してくれることの心強さも、改めて感じられた。


 やがて、朝の光が宿の正面にまで届くようになり、通りを行き交う者たちの数も少しずつ増えてきた。

 先ほどまで静かだった建物の向こうからは、荷車の車輪が地面を転がる音や、誰かが挨拶を交わす声が聞こえてくる。

 日和がその様子を眺めていると、宿の二階にある窓の一つが開いた。

 何気なく視線を上げると、そこから顔を出したのは智希だった。

 まだ完全に目が覚めていないのか、普段よりも少し気の抜けた表情をしていたが、宿の前に集まっている顔ぶれを見つけると、何やら面白そうに目を細めた。


「おや、皆さんお揃いで。朝から随分と賑やかだねえ」


 聞き慣れた声に、日和は思わず笑ってしまった。


 智希はいつもと変わらない調子で声をかけてきたものの、その背後では別の誰かが動いているらしく、部屋の中から小さな物音が聞こえている。

 しばらくすると彰人も窓際へ姿を現し、下にいる一同を見渡した。


「なんや、もう全員起きとるんか。早いなあ」


 彰人もまだ朝の支度を終えていないようだったが、セレスティアの姿を見つけると、軽く手を上げて挨拶をした。

 彼女もそれに応えるように笑顔を向け、二人がまだ部屋にいるのなら、そろそろ朝食の準備をした方がよいのではないかと声をかける。

 その言葉を聞いた智希は、少し考えるような仕草を見せてから、隣の彰人へ顔を向けた。


「……そういえば、朝ご飯って何時からだったっけ?」

「昨日聞いとったやろ。もう食べられる時間やで」

「じゃあ、そろそろ降りよっか。皆を待たせるのも悪いしねえ」


 そう言いながらも、智希は慌てる様子を見せなかった。

 彰人はその様子に呆れたような顔をしていたが、何かを言い返すこともなく、二人は窓を閉めて部屋の奥へ引っ込んでいった。

 そのやり取りを見ていた日和は、思わず良澄の方へ顔を向けた。

 良澄も小さく笑っていたが、二人が朝からあの調子であることに、特に驚いている様子はない。

 セレスティアに至っては、どこか楽しそうに宿の二階を眺めており、クオンとルシェルも、ようやく全員が揃いそうだと安心したようだった。


 日和は、そんな一同の様子を見ながら、少し不思議な気持ちになっていた。

 昨日聞いた子供たちの失踪は、決して軽く考えてよいものではない。

 これから向かう先では、家族を失った者や、不安を抱えながら暮らしている者たちにも出会うことになるだろう。

 それでも、智希や彰人は普段と変わらない様子で朝を迎え、良澄も必要以上に緊張することなく、今日確かめるべきことを考えている。

 クオンたちも、この国で起きている異変を気にかけながら、こうして穏やかに言葉を交わしていた。

 何か大きな問題に向き合うからといって、ずっと深刻な顔をしていなければならないわけではないのだろう。


 そう思うと、日和の中に残っていた緊張も、少しだけ和らいだように感じられた。

 やがて、宿の中から階段を下りてくる足音が聞こえてきた。

 智希と彰人が支度を終えたのだろう。入口の扉が開くと、先ほどまで二階にいた二人が、いつもと変わらない様子で姿を現した。

 智希は集まっている一同を見渡してから、クオンへ今日の移動について簡単に確認し、予定どおり有蹄領から回ることを確かめた。

 クオンもすでに馬車の手配を済ませていることを伝え、朝食を終えた頃には出発できるだろうと答える。


 彰人はその話を聞きながら、まずは腹ごしらえをしようと笑った。

 朝から何も食べずに歩き回るわけにもいかないという彼の言葉に、日和もようやく空腹を意識した。

 目を覚ましてからずっと考え事をしていたせいか、朝食のことをすっかり忘れていたらしい。

 宿の中からは、いつの間にか食事の準備が進んでいるらしく、温かな料理の香りが漂い始めていた。

 日和はもう一度、朝日に照らされた中央区の街並みへ視線を向けた。

 昨日までは、何もかもが珍しい別世界の街だった場所が、今朝は少しだけ身近に感じられる。

 ここで暮らしている者たちにとっては、今日も普段と変わらない一日が始まろうとしているのだろう。


 その日常の裏側で何が起きているのか、まだ分からない。

 けれど、これから訪れる領地で話を聞けば、少なくとも昨日よりは多くのことが見えてくるはずだった。

 そう考えながら、日和は皆とともに宿の中へ戻っていった。


 宿の中へ戻ると、先ほどまで静かだった一階の食堂には、すでに何組かの客が集まっていた。

 中央区には様々な種族が暮らしているため、宿を利用する者たちの姿も一様ではない。

 人間とほとんど変わらない姿をした者もいれば、各所に獣の特徴を残している者もおり、奥の席では身体の大きな獣人が、少し窮屈そうに椅子へ腰を下ろしていた。

 食堂の造りそのものは日本で見慣れたものとそれほど変わらなかったが、そこに集まる客の姿が違うだけで、日和にはまったく別の場所のように感じられる。

 厨房からは温かな料理の香りが漂い、食器の触れ合う音に混じって、客たちが朝の挨拶を交わす声が聞こえていた。

 昨夜も同じ食堂を利用していたものの、朝の明るい光の中で眺めると、壁や柱に施された装飾まで昨日とは違って見える。

 木材を多く使った室内には、ところどころに植物を模した彫刻があり、窓際には小さな鉢植えも並べられていた。


 日和が周囲を見渡していると、先を歩いていたクオンが食堂の奥にある大きな卓へ向かった。

 宿の者にはあらかじめ人数を伝えていたらしく、七人が揃って座れるよう席が整えられている。

 智希は空いている椅子を見つけると、特に迷う様子もなく腰を下ろし、その隣に彰人が座った。

 良澄とセレスティアもそれぞれ席につき、日和はルシェルに促されるようにして窓際の椅子へ腰を下ろした。

 食堂の窓からは、先ほどまで立っていた宿の前の広場が見えていた。

 通りを行き交う者たちの数は少しずつ増えており、荷車を引く者や、籠を抱えて歩く者の姿も見える。

 日和がその様子を眺めていると、厨房の方から料理を運ぶ者が現れ、卓の上に次々と皿が並べられていった。


 焼きたてのパンに似たものや、野菜を煮込んだ温かな料理、果物を切り分けた皿など、見た目には日本の朝食とそれほど変わらないものも多い。

 ただ、使われている食材には見覚えのないものも混じっており、鮮やかな色をした果実や、独特の香りを持つ葉物野菜などは、どのような味がするのか想像もつかなかった。

 そんな日和の様子に気づいたルシェルが、料理について簡単に説明してくれた。

 中央区では各領地から様々な食材が集まるため、食事にもそれぞれの地域の特色が取り入れられているのだという。

 肉を好む種族もいれば、植物を中心に食べる種族もいるため、宿ではなるべく多くの客が食べられるように工夫しているらしい。

 言われてみれば、卓の上に並べられた料理も、肉を使ったものと野菜を中心にしたものが分けられている。

 食堂の他の席を見ても、客によって食べているものが随分と違っていた。


「ルシェルさん、食べるものって種族によって随分違うんですか?」

「そうですね。身体の特徴もありますし、暮らしてきた土地によっても違いますよ」


 日和が見渡した食卓には、見慣れた料理に似たものもあれば、材料さえ想像できないものも並んでいた。

 隣の席から漂う香りまで違うことに気づくと、興味はますます膨らんでいった。


「じゃあ、肉食の種族は野菜を食べないんでしょうか?」

「必ずしもそうではありません。食べられるものと、好んで食べるものは別ですから」

「日和、その調子だと朝ご飯が終わるまで質問してそうだね」


 智希の言葉に日和が振り向くと、彼は自分の皿を示して楽しそうに笑った。からかわれたと分かっても、否定する気にはなれない。

 聞いてみたいことはまだいくらでもあったが、確かに料理が冷めてしまうのは惜しかった。


 動物の食性が種族ごとの暮らしにどの程度影響しているのかは、日和にとって興味深い話だった。

 肉食動物に近い種族が人間と同じように野菜を食べられるのか、草食動物に近い種族はどのような料理を好むのか。

 考え始めると次々に疑問が浮かんできたが、今は食事を楽しむことにした。

 手近な料理を皿に取り分けていると、向かいに座っていた智希が、そんな日和の様子を面白そうに眺めていた。


「日和、気になるものがあったら遠慮しないで食べてみるといいよ。僕も最初は、何が何だか分からなかったからね」

「智希君も、初めて来たときは驚いた?」

「そりゃあね。見たことのない食材も多いし、同じように見える料理でも味が違ったりするから。まあ、僕は食べられれば大体満足なんだけど」


 そう言いながら、智希は自分の皿に料理を取り分けていた。

 普段から食事に強いこだわりを見せる方ではないものの、興味のあるものには一度手を伸ばしてみるらしく、見慣れない料理も特に躊躇することなく口に運んでいる。

 その隣では、彰人が料理を一口食べてから、満足そうに頷いていた。


「これ、なかなか美味いな。日本でも普通に食べられそうや」


 彰人の言葉を聞いたセレスティアが、皿の上にある料理へ視線を向けた。

 ヴァルネシアにも似たような料理があるらしく、使われている香草の違いについて話し始めると、彰人も興味深そうに耳を傾けていた。


「ヴァルネシアでは、もう少し香りの強いものを使うことが多かったですね」

「へえ。同じような料理でも、結構変わるもんなんやな」


 彰人は皿の料理をもう一口味わい、セレスティアの説明と比べているようだった。彼女もまた、その反応を楽しみながら食事を続けている。


「今度、日本でも作ってみるか?」

「楽しそうですね。でも、彰人さんは香草の違いが分かりますか?」

「……そこは教えてもらわんとあかんな」


 あっさり認めた彰人に、セレスティアが笑った。

 日和には二人の会話が特別なことのない朝のやり取りに聞こえたが、それがかえって心地よかった。

 違う世界で暮らしてきた二人が、食卓の小さな違いを楽しそうに話している。

 その光景に目を留めてから、日和も自分の朝食へ向き直った。


 食事が進み、卓の上の料理が少しずつ減ってきた頃、クオンが今日の予定について話を切り出した。

 まず向かう有蹄領は中央区から比較的近く、馬車を利用すれば三十分ほどで到着するという。

 朝の仕事を終えて領地へ戻る者がいるため、その馬車に同乗させてもらう手配はすでに済んでいた。

 有蹄領では鹿族や羊族をはじめ、いくつかの種族の代表者から話を聞けるようにしてあるらしい。

 子供たちの失踪についてはそれぞれの種族から報告が上がっているため、まずは発生した場所や状況を確認し、共通する特徴がないかを調べることになる。


 智希は食事の手を止め、クオンの説明を聞きながら時折頷いていた。

 普段の軽い雰囲気はそのままだったが、話の内容を整理しているときには、相手の言葉を遮らず、必要なところだけを確認する。

 その様子は大学で動物について話しているときとも少し似ており、日和には、智希が何かを調べるときの姿勢が普段から変わらないのだと感じられた。


「有蹄領では、姿を消した子供たちの種族も確認したいかな。走るのが得意な種族と、そうでない種族で違いがあるのかも気になるし」


 智希の言葉に、良澄も頷いた。

 日和はその話を聞いて、昨日まで漠然と考えていた子供たちの失踪について、少し違う角度から想像してみた。

 鹿や馬のように速く走れる動物であれば、危険を感じたときに逃げることもできるだろう。

 しかし、相手が何者なのか分からない以上、速く走れることが必ずしも安全につながるとは限らない。

 そもそも、子供たちが危険を感じるような状況だったのかどうかさえ、まだ分かっていない。

 そう考えると、現地で確認しなければならないことは、思っていた以上に多そうだった。


「足の速い子でも、逃げる間もなくいなくなったのかな」

「それもまだ分からないね。逃げようとしたかどうかも、聞いてみないと」


 智希はすぐに可能性を否定せず、日和の言葉を一度受け止めてから答えた。

 その態度に促されるように、日和も頭の中で思い浮かべていた光景を整理してみた。


「でも、追いかけられたなら、何か跡が残りそうな気もするんだけど」

「うん。だから、どこまで何が確認できているのかを聞きたいかな」

「僕は、普段と違う行動がなかったかも気になるね」と良澄が付け加えた。


 それぞれが同じ出来事を考えていても、注目する場所は少しずつ違っている。

 日和はそのことを面白く感じる一方で、今は一つの考えに絞らない方がよいのだろうとも思った。

 聞き取りを重ねるうちに、思いもよらない共通点が見つかるかもしれない。そう考えると、現地での調査がいよいよ現実味を帯びてきた。


 クオンは続けて、有蹄領での調査を終えた後は猫虎領へ向かい、その後、小獣領を経由して巨獣領へ進む予定だと説明した。

 移動の途中で休憩を挟むことも考えており、各領地でどの程度時間を使うかは、実際に話を聞いてから判断するという。

 日和にとっては、どの領地も初めて訪れる場所だった。

 有蹄領には馬や鹿、猫虎領には大型の猫科動物、小獣領には兎や栗鼠のような小さな動物たちが暮らしていると聞いている。

 巨獣領に至っては、象や熊など、名前を聞くだけでもその大きさを想像できる種族が集まっているらしい。

 それらが一つの国の中で、それぞれ異なる生活を営んでいるというのだから、実際に見てみなければ分からないことも多いのだろう。

 日和が頭の中で今日の行き先を思い浮かべていると、クオンが有蹄領で馬車を借りる予定についても説明してくれた。

 中央区からの移動に使う馬車は、あくまで領地へ戻る者に同乗させてもらうだけなので、その後の調査には別の馬車が必要になる。

 幸い、有蹄領には長距離の移動に慣れた者も多く、今日一日使える馬車を借りることは難しくないだろうという話だった。


 それを聞いた良澄は、朝から気にしていた乗り心地について、改めて尋ねていた。

 クオンは少し笑いながら、少なくとも中央区と各領地を結ぶ道は整えられているので、それほど心配する必要はないだろうと答えた。

 ただし、領地の奥へ入れば道の状態も変わるため、揺れがまったくないとは言えないらしい。


 良澄はその説明に納得したようだったが、日和には、彼がまだ少し気にしているようにも見えた。

 医療を学んでいる良澄にとって、長時間の移動による身体への負担は、単なる乗り心地の問題ではないのかもしれない。

 昨日も周囲の様子を気にかけながら行動していたことを思い返すと、そうしたところまで自然に考えているのだろうと思えた。


「良澄、朝からずっと馬車のこと気にしとるなあ」

「長い時間乗ることになりそうだからね。途中で身体が痛くなったりしないかなって」


 彰人は笑っていたが、良澄の心配をからかうつもりではないらしい。

 乗り心地の話から自然に、休憩の取り方へ話題が移っていった。


「揺れがひどかったら、途中で休んだらええやろ」

「そうだね。それが一番かもしれない」

「僕はちょっと楽しみだけどね。日本じゃ、なかなか乗れないし」


 智希がそう言うと、日和も思わず頷いた。

 気になることはいくつもあるが、初めて乗る馬車への期待までなくなったわけではない。

 窓の外の景色を想像していると、移動そのものが調査の一部であることを、少しだけ忘れそうになった。


 やがて食事を終えた一同は、宿の者に礼を伝えて席を立った。

 外へ出ると、中央区の通りはすっかり朝の賑わいを取り戻していた。

 先ほどまで閉まっていた店の扉が開き、道端では荷物を並べる者や、行き交う人々に声をかける者の姿が見える。

 大きな荷車を引く獣人の横を、小柄な種族の者が器用にすり抜けていく様子などは、まだ見慣れないものだったが、そこにはこの街なりの秩序があるらしかった。


 クオンの案内で通りを進んでいくと、やがて建物の間に少し広い場所が見えてきた。

 そこには数台の馬車が停められており、荷物を積み込んでいる者や、出発の準備を整えている者たちが集まっていた。

 車体の大きさや形はそれぞれ違っていたが、どれも実際の移動や運搬に使われていることが分かる造りで、日和が想像していたような装飾の多い馬車とは随分と印象が違っている。

 木製の車輪や頑丈そうな車体、荷物を固定するための縄などを眺めていると、馬車が単なる珍しい乗り物ではなく、この国の人々にとって日常的な移動手段なのだということが実感できた。


 クオンがそのうちの一台へ向かい、御者を務める者に声をかけた。

 相手はすでに話を聞いていたらしく、クオンの姿を見ると親しげに挨拶を返し、馬車の後部を示して乗るよう促してくれた。

 荷物を運ぶための車体ではあったものの、客が座れるように腰掛けも設けられており、七人が乗るには十分な広さがあるようだった。

 日和は馬車の近くまで歩み寄り、車体を引く馬へ目を向けた。

 日本で見たことのある馬よりもひと回り大きく感じられたが、落ち着いた様子で立っており、周囲に人が集まっても特に気にする様子はない。

 よく手入れされた毛並みが朝日に照らされ、力強い脚が地面をしっかりと踏みしめていた。

 動物が好きな日和にとって、こうして間近で馬を見られることだけでも嬉しい経験だった。


 もっと近づいてみたいという気持ちはあったものの、仕事をしている最中の動物に不用意に触れるべきではないことも理解していたため、少し離れたところからその姿を眺めることにした。

 そんな日和の様子に気づいた御者が、馬について簡単に説明してくれた。

 この馬は普段から中央区と有蹄領の間を行き来しており、道にも慣れているのだという。

 人を乗せることにも慣れているため、多少賑やかにしていても問題はないらしい。


「この馬は、毎日ここを走っているんですか?」

「ええ。この道なら、すっかり覚えているくらいですよ」


 御者が首筋に手を添えると、馬は落ち着いた様子で耳を動かした。大きな身体に似合わず、触れられることに慣れた穏やかな反応だった。


「すごいですね。毛並みも綺麗です」

「ありがとうございます。長く一緒に働いていますからね」

「私も、少し触ってみてもいいですか?」


 御者の許しを得てから、日和はそっと手を伸ばした。

 掌に伝わる体温と、わずかに動く筋肉の感触に、思わず笑みがこぼれる。

 これから乗せてもらう相手を、ただの移動手段として見る気にはなれなかった。


 車内は想像していたよりも広かったが、腰掛けは木製で、座った感触も日本の車とはまったく違っていた。

 良澄が乗り心地を気にしていた理由が少し分かったような気がしたものの、まだ動き出していないため、実際にどれほど揺れるのかは分からない。

 続いて良澄やセレスティアたちも乗り込み、最後に智希と彰人が席についた。

 全員が揃ったことを確かめると、クオンは御者へ出発の準備ができたことを伝えた。


 馬がゆっくりと歩き始め、車輪が地面を転がる音とともに、馬車が静かに動き出す。

 最初の揺れに日和は少し身体を傾けたものの、すぐに腰掛けへ座り直し、窓の外へ視線を向けた。

 中央区の建物がゆっくりと後ろへ流れていく。

 昨日まで歩いて見て回っていた街並みも、馬車の中から眺めるとまた違った景色に見えた。

 店先で働く者たちや、通りを行き交う人々の姿が次々と視界を横切り、やがて建物の間隔が少しずつ広がっていく。

 街の中心部から離れるにつれて、周囲には草木の姿が増え始めた。

 遠くには緩やかな起伏を持つ土地が広がり、その向こうには、中央区から見えていた森とは違う、開けた景色が続いているようだった。


 日和は窓の外を眺めながら、これから訪れる有蹄領のことを思い浮かべた。

 そこには、どのような暮らしがあるのだろう。

 そして、その穏やかな日常の中で、子供たちに何が起きているのだろう。

 まだ答えのない疑問を胸に抱えながら、馬車は中央区を離れ、広い草原へと続く道を進んでいった。


 中央区を離れてしばらくすると、馬車の周囲に広がる景色は少しずつ変わり始めていた。

 街の近くでは道の両側に建物や木々が点在していたものの、進むにつれてその数は減っていき、代わりに背の低い草が地面を覆うようになっていく。

 遠くには緩やかな丘陵が連なっているものの、視界を遮るほど高いものはなく、空と大地の境界がどこまでも続いているように見えた。

 日和は馬車の窓から外を眺めながら、先ほどクオンが話していた有蹄領の景色を思い出していた。

 草原と聞いて想像していたのは、膝ほどの高さまで草が伸び、風に揺れる緑が波のように広がる光景だった。

 しかし、実際に目の前に現れたのは、それよりもずっと背の低い草が広がる土地だった。

 地面の起伏がそのまま見えるほど草丈が低く、ところどころには土の色も覗いている。

 木陰を作るような大きな樹木もほとんど見当たらず、遠くまで見渡せる開放感は、日本で見たことのある牧草地とも少し違っていた。


 馬車が緩やかな坂を上りきったところで、視界の先に小さな集落が現れた。

 いくつかの建物がまとまって建てられているものの、中央区のように家々が密集しているわけではなく、それぞれの間には十分な空間が取られている。

 建物の周囲には柵で囲まれた場所や、荷物を積んだ車が置かれた場所もあり、少し離れたところには布を張った大きな天幕のようなものも見えた。

 その周囲では、鹿や羊、馬に似た姿の神獣たちが行き交っていた。

 四本の脚で草原を歩く者もいれば、人間に近い姿で荷物を運んでいる者もいる。

 遠くでは数頭の馬が並んで駆けており、その横を小柄な鹿の子供が追いかけていた。

 誰かが特別に指示を出している様子はなく、それぞれが自分の仕事や遊びに向かって動いているらしい。


 日和がその光景に見入っていると、隣に座っていたルシェルが、集落の周囲にある建物について説明してくれた。

 有蹄領では、同じ場所に長く暮らす者もいれば、季節や草の状態に合わせて住む場所を移す者もいるという。

 草原が広いため、すべての種族が一か所に集まって暮らしているわけではなく、小さな集落が点在しているのだそうだ。


「あの天幕も、移動するためのものなんですか?」

「ええ。季節に合わせて住む場所を変える者たちもいますから」


 ルシェルの示した先には、簡素に見えてしっかりと組まれた住居があった。

 周囲には生活道具が整然と置かれ、遠くには放牧されている動物の姿も見える。


「じゃあ、住む場所を変えるときは、あれを全部運ぶんですね」

「そうですよ。もちろん、解体してからですが」

「広い草原なら、その方が都合がいいことも多そうだね」と智希が言った。


 日和は頷きながら、同じ領地の中にも定住する者と移動して暮らす者がいることを改めて意識した。

 外から見れば一面の草原でも、そこで生活する者たちにとっては、水や食べ物、季節の移り変わりに応じた細かな違いがあるのだろう。

 馬車が進むにつれ、点在する集落の姿も少しずつ変わっていった。


 やがて馬車は集落の入口に近い広場へ入り、ゆっくりと速度を落とした。

 御者が馬を止めると、クオンは窓の外を確かめてから、一同へ到着したことを告げた。

 中央区を出てから三十分ほどだったが、途中で何度も景色に目を奪われていた日和には、それほど長い時間が経ったようには感じられなかった。

 馬車から降りると、草原を渡ってきた風が頬に触れた。

 中央区で感じた朝の空気とは違い、ここでは草や土の匂いがはっきりと感じられる。

 風を遮る建物が少ないためか、衣服の裾が絶えず揺れており、遠くから聞こえてくる声や足音も、どこか広がりを持って届いてくるようだった。


 良澄は馬車を降りると、軽く肩を回していた。

 乗り心地を気にしていた割には、中央区からの道は比較的整えられていたらしく、日和自身も思っていたほどの揺れは感じなかった。

 ただ、舗装された道路を走る車とは違い、車輪が地面の凹凸を拾うたびに身体が揺れる感覚はあり、これが長時間続けば確かに疲れそうだとも思えた。

 智希と彰人も馬車から降り、周囲を見渡していた。

 彰人は遠くまで広がる草原を眺めながら、中央区とは随分と景色が違うものだと感心している。

 智希の方は、集落の周囲を歩いている神獣たちへ視線を向けており、同じ有蹄類でも種族によって身体の特徴が大きく違うことに興味を引かれているようだった。


 その間にクオンは御者へ礼を伝え、帰りの予定について簡単に言葉を交わしていた。

 今回の馬車はこの集落へ戻る途中だったため、ここから先は別の移動手段を借りる必要がある。

 クオンはその手配も含めて、これから会う代表者たちへ相談するつもりらしい。

 広場の向こうから、二人の年配の神獣が歩いてきたのは、そのときだった。


 一人は鹿族の男性で、人間に近い姿をしているものの、頭部には立派な枝角が伸びていた。

 長い年月を重ねてきたことを感じさせる落ち着いた表情をしており、歩みはゆっくりとしているが、背筋は真っ直ぐに伸びている。

 隣を歩く羊族の男性は、豊かな羊毛に覆われた頭部と穏やかな目元が印象的で、鹿族の男性よりも少し小柄だった。

 二人ともクオンの姿を見つけると足を止め、親しげに挨拶を交わした。


「クオン殿、お待ちしておりました。遠路、ようこそお越しくださいました」


 鹿族の男性がそう声をかけると、クオンも丁寧に応じ、今回の調査に協力してもらえることへの礼を述べた。

 日和はそのやり取りを聞きながら、クオンがこの国の中でどのような立場にあるのかを改めて意識していた。

 普段は気さくに話してくれるため、つい忘れそうになるが、彼女は狐族を率いる立場にあり、国の運営にも関わっている。

 こうして別の領地を訪れたときの応対を見ると、そのことが自然に伝わってくる。


 クオンは二人を一同へ紹介した。

 鹿族の長老エルヴァンと、羊族の長老メルガ。どちらも有蹄領で長く暮らし、種族間の調整や相談事を引き受けている人物なのだという。

 エルヴァンは一同を見渡し、智希たちが日本から来た者であることを確かめると、わざわざ足を運んでくれたことへの礼を述べた。

 メルガも穏やかな声で挨拶を交わし、まずは落ち着いて話せる場所へ案内したいと申し出た。


「改めまして、鹿族のエルヴァンと申します」

「羊族のメルガです。皆さん、遠いところからよくお越しくださいました」


 メルガの穏やかな声に、日和も自然と背筋を伸ばした。

 二人の長老は種族こそ違うものの、訪問者を迎える態度には共通した丁寧さがあった。


「日本という国からいらしたそうですね。このような事情でなければ、ゆっくり草原をご案内したいところですが」

「ありがとうございます。来る途中も、ずっと景色を見ていました」

「それは何よりです。季節が変わると、また違った姿になりますよ」


 話している間だけは、失踪事件のために訪れたことを忘れそうになるほど穏やかな空気が流れた。

 しかしエルヴァンが奥の部屋へ案内するため身を翻すと、その横顔には先ほどまでの柔らかさとは違う緊張が見えた。

 日和も気持ちを切り替え、皆の後に続いた。


 集落の中央にある建物へ向かう途中、日和は周囲の様子を眺めていた。

 道の脇では羊族の女性が布を広げており、その近くでは小さな子供たちが何かを運ぶ手伝いをしている。

 少し離れたところには、角の大きな牛族の男性が荷車を整えている姿もあり、彼の周囲では別の種族の者たちが荷物を受け渡していた。


 異なる種族が同じ場所で暮らしているにもかかわらず、そこには不思議なほど自然なまとまりがあった。

 しかし、建物の近くを通りかかったとき、日和は一人の鹿族の女性が、少し離れた草原へ何度も視線を向けていることに気づいた。

 女性の傍らには幼い子供が一人おり、その手をしっかりと握っている。

 子供は何かを話しかけているようだったが、女性は返事をしながらも、ときおり遠くを確かめるように顔を上げていた。

 昨日までであれば、特に気に留めなかったかもしれない光景だった。

 けれど、子供たちが姿を消しているという話を聞いた今では、その何気ない仕草にも別の意味があるように感じられる。


 日和は女性の姿を目で追いかけていたが、やがて建物の入口に差しかかったところで、そっと視線を戻した。

 案内されたのは、集落の中央に建てられた比較的大きな建物だった。

 内部には広い空間が設けられており、床には厚手の敷物が敷かれ、壁際には低い卓や腰掛けが並んでいる。

 人間に近い姿の者だけでなく、四本の脚で歩く者も利用するためなのか、出入口は大きく、室内にも十分な余裕があった。


 エルヴァンに勧められて席につくと、メルガが温かな飲み物を用意してくれた。

 草の香りに似た柔らかな匂いが漂う飲み物は、日和が普段口にするお茶とは少し違っていたが、ひと口飲むとほのかな甘みが感じられた。

 外を歩いている間に少し冷えた身体が温まり、自然と気持ちも落ち着いてくる。

 全員が席についたところで、クオンが今回の訪問について改めて説明した。

 子供たちの失踪が複数の領地で起きていること、中央区に集まった報告だけでは詳しい状況を把握しきれないこと、そして、それぞれの領地で何が起きているのかを直接確認したいと考えていること。

 エルヴァンとメルガは、その説明を静かに聞いていた。

 話が終わると、エルヴァンは一度目を伏せ、少し間を置いてから口を開いた。


「……我らも、何が起きているのか分からずにおります。これまでも、若い者が遠くへ出掛け、そのまま戻らぬことがなかったわけではありません。しかし、今回は事情が違うのです」


 その声には、先ほどまでの穏やかさとは異なる重みがあった。

 有蹄領では、広い草原を移動しながら暮らす者も多い。

 そのため、子供たちが親の目を離れて遠くへ行ってしまうこともあり、帰りが遅くなったからといって、すぐに大きな騒ぎになるわけではないという。

 しかし、今回姿を消した子供たちは、そうした普段の行動とは明らかに違う状況でいなくなっていた。

 エルヴァンによれば、最初の報告が上がったのは、集落から少し離れた場所で遊んでいた鹿族の子供だった。

 その子は普段から足が速く、草原を駆け回ることを好んでいたという。

 家族もそのことをよく知っており、日が暮れる前には必ず戻るよう言い聞かせていたらしい。

 ところが、ある日を境に姿を見せなくなった。

 最初は少し遠くまで遊びに行ったのだろうと考えられていたが、夜になっても戻らなかったため、家族や近隣の者たちが捜索を始めた。

 しかし、最後に姿を見た場所から先では、足跡を追うことができなくなっていたという。


「その子は、普段から一人で遠くまで遊びに行くことがあったんですか?」

「ええ。草原を走るのが好きな子でしてな。ですが、帰る時間は守っていたそうです」


 エルヴァンは窓の向こうへ目を向けた。

 集落の外では子供たちが駆け回り、その声が開いた窓からかすかに届いている。

 彼の語る子供も、少し前まではあの中に混じっていたのだろう。


「じゃあ、ご家族も、いつもどおり帰ってくると思っていたんですね」

「そうです。日が暮れても戻らず、ようやく皆で捜し始めたと聞いております」


 日和はもう一度窓の外を見た。子供たちが遊んでいること自体は何も変わらないのに、その姿が先ほどとは違って見えた。

 帰ってくるはずの子供が帰ってこないということは、ここでは特別な事件である以前に、誰かの暮らしが途中で止まってしまったということなのだ。

 次の質問を考えながらも、すぐには口を開けなかった。


「足跡が途切れた場所には、何か変わったものはありませんでしたか? 地面が荒れていたとか、別の誰かの足跡が残っていたとか」


 智希が尋ねると、エルヴァンは首を横に振った。

 捜索に参加した者たちは、子供の足跡だけでなく、周囲に残された痕跡も確認していたらしい。

 しかし、争ったような形跡もなく、別の誰かが近づいたことを示す足跡も見つからなかったという。

 ただ、草原の地面は場所によって硬さが異なり、すべての足跡が明瞭に残るわけではない。

 そのため、何も見つからなかったからといって、誰も近づかなかったと断言することはできないのだと、エルヴァンは慎重に付け加えた。


「足跡が見つからなかったからといって、誰もいなかったとは言い切れないわけですね」

「そのとおりです。硬い地面では、足跡そのものが残りませんからな」


 智希の確認に、エルヴァンは慎重に言葉を選んで答えた。

 捜索した者たちの努力を否定したくはないのだろうが、見つからなかった痕跡を、最初から存在しなかったものとして扱うこともできないらしい。


「じゃあ、途中で突然消えたと決まったわけでもないんですね」

「ええ。ただ、その先を捜しても、再び足跡を見つけることはできませんでした」

「分かりました。そこは分けて考えた方がよさそうですね」


 日和にも、智希が何を確かめているのか少しずつ分かってきた。

 足跡が途切れたという報告は確かに不思議だが、それだけで何が起きたかを決めることはできない。

 地面の状態も、捜索が始まるまでの時間も、場所ごとに違うはずだった。

 別の領地で同じ表現が使われていても、同じ現象とは限らないのだろう。


 良澄はその説明を聞きながら、子供が姿を消した前後の様子について尋ねていた。

 体調を崩していたことはなかったか、普段と違う行動を取っていなかったか、何かを怖がっている様子はなかったか。

 エルヴァンは覚えている範囲で答えていたが、少なくとも家族からは、そうした異変について報告されていないという。


「いなくなる前に、体調を崩していたという話もなかったんですね」

「はい。少なくとも、家族からは聞いておりません」


 良澄は返事を急がず、エルヴァンの言葉を確かめるように頷いた。

 体調の変化がなかったという報告と、実際に変化がなかったということは、必ずしも同じではない。


「もし後から何か思い出されたら、教えていただけると助かります」

「承知しました。こちらでも、もう一度確認してみましょう」


 良澄の尋ね方には、答えを引き出そうと急かすところがなかった。

 日和はそれを聞きながら、家族にとっては何気ない日々の様子まで思い出すことがつらい場合もあるのだろうと考えた。

 調べなければならないことは多いが、相手の気持ちを置き去りにはできない。

 そう思うと、次に自分が質問するときの言葉も自然と慎重になった。


 続いてメルガが、羊族でも似たような出来事が起きていることを話し始めた。

 こちらは集落の近くで暮らしていた子供で、普段は同じ年頃の仲間たちと行動していたらしい。

 しかし、その日はたまたま一人で別の場所へ向かい、そのまま戻らなかったのだという。


 話を聞き終えた智希は、少し考えるように視線を落とした。

 有蹄領には偶蹄類に近い種族もいれば、奇蹄類に近い種族もいる。

 身体の構造や走る速さ、普段の生活にも違いがあるにもかかわらず、失踪の報告は特定の種族に偏っているわけではないらしい。

 日和にも、そのことが少しずつ気になり始めていた。

 もし何かの動物が子供たちを襲っているのだとすれば、獲物として選びやすい大きさや、捕まえやすい種族に偏りが出てもおかしくない。

 しかし、今聞いた話だけでは、そうした傾向は見えてこなかった。


「智希君、ちょっと気になったんだけど」

「うん、どうしたの?」


 日和は頭の中で、これまでに聞いた種族の名前を並べてみた。

 鹿と羊では体格も違い、馬や牛まで含めれば、走り方も生活の仕方も同じではない。


「身体の大きさも走る速さも違うのに、同じように子供がいなくなっているんだよね」

「そうだね。もし何かが相手を選んでいるなら、偏りがあってもおかしくない」

「でも、今の話だけだと見えてこないんだ」

「うん。だから、他の領地の話も聞いてみたいかな」


 智希は日和の疑問を否定せず、そのまま調査の視点の一つとして受け取っていた。

 日和も、動物の行動を考えるときに一つの特徴だけで判断できないことを思い出す。

 種族の違いだけでなく、子供がいた場所や時間、一緒にいた相手も確かめる必要があるだろう。

 自分にも尋ねられることがあると分かり、少しだけ気持ちが引き締まった。


 智希も同じことを考えていたのか、今度は子供たちが姿を消した場所について、もう少し詳しく尋ねた。

 エルヴァンたちは、集落の近くで起きたものもあれば、草原の奥で起きたものもあると答えた。

 特定の場所に集中しているわけではなく、移動の途中で姿を消した例もあるという。

 その説明を聞いて、彰人が腕を組んだ。


「場所も種族もバラバラっちゅうことか。せやけど、子供ばっかりってのは、やっぱり妙やな」


 彰人の言葉に、メルガは深く頷いた。

 有蹄領では、広い草原を移動する暮らしの中で、子供が一時的に姿を見せなくなること自体は珍しくない。

 しかし、これほど多くの子供が戻らず、しかも捜索を続けても手がかりが見つからないというのは、長くこの土地で暮らしてきた二人にとっても経験のないことだった。

 エルヴァンは、古くからこの草原で語られている「神隠し」という言葉にも触れた。

 昔から、理由も分からず姿を消す者が現れると、そう呼ばれることがあったという。

 実際には遠くへ移動していたり、道に迷っていたりすることも多かったが、今回の出来事については、そうした説明だけでは納得できない者が増えているらしい。


「神隠し、ですか……」

「昔から、この草原ではそう呼ばれることがありましてな。後になって事情が分かることも多いのですが」


 エルヴァンの声には、古くから使われてきた言葉への親しみと、今起きている出来事をそれで片づけることへのためらいが混じっていた。


「私は、まだ遠くへ行っているだけという可能性も捨てきれないと思っております」とメルガが言った。

「無論、そうであればよいのですがな」

「ええ。ただ、戻らない子供がこれほど続くと……私にも、どう考えればよいのか」


 メルガの言葉は最後まで続かなかった。二人は違う可能性を口にしているものの、どちらも子供たちが無事であってほしいという思いでは変わらないのだろう。

 日和はその沈黙を前に、安易な慰めの言葉を探すことをやめた。

 今できるのは、聞いたことを正確に持ち帰り、次の領地でも確かめていくことだった。


 日和はその言葉を聞きながら、先ほど集落の入口で見かけた鹿族の女性を思い出した。

 子供の手を握り、何度も草原の方へ視線を向けていた姿が、今になって少し違って見える。

 この土地で暮らす者たちにとって、草原は日々の生活を支える大切な場所なのだろう。

 子供たちが遊び、家族が仕事をし、季節に合わせて移動することもある。

 その当たり前の場所が、いつの間にか不安を感じさせるものに変わってしまっている。


 それは、日和が想像していた以上に大きな変化なのかもしれなかった。

 話が一段落したところで、良澄は失踪した子供たちの家族についても尋ねた。

 今も捜索を続けている者がいるのか、家族の体調に問題はないか、必要な支援が行き届いているのか。

 メルガはその問いに少し驚いたようだったが、すぐに穏やかな表情へ戻り、各集落で協力しながら家族を支えていることを説明した。

 子供を失った親が無理をして捜索を続けようとすることもあるため、周囲の者たちが交代で付き添い、休息を取らせるようにしているという。

 良澄はその話を聞いて安心したように頷いたものの、何か気になることがあれば遠慮なく知らせてほしいと伝えていた。


「捜索が続いていると、ご家族もなかなか休めないと思います。食事や睡眠は取れているんでしょうか?」

「周囲の者が気にかけておりますが、無理をしてしまう者はおりますな」


 メルガの表情が曇った。長老として集落全体を見守る立場にあっても、一人ひとりの不安を取り除くことまではできないのだろう。


「休んでいる間に子供が戻るかもしれないと、家を離れられない親もおります」

「……そうですよね」

「できるだけ誰かが一緒にいられるようにしていますが、それでも十分とは言えません」


 良澄はしばらく考え込んでいたが、すぐに何かを解決できるような言葉は口にしなかった。

 日和にも、待つしかない家族の時間を想像することはできても、その苦しさを知ったつもりにはなれない。

 調査の結果がすぐに出るとは限らないからこそ、今ここで暮らす人々への支えも必要なのだろう。

 良澄が最初に家族の体調を気にした理由が、少し分かったように思えた。

 日和は、そのやり取りを静かに見守っていた。

 子供たちを見つけることばかり考えていたが、帰りを待っている家族もまた、今この瞬間に苦しんでいるのだということを改めて意識させられた。


 智希たちが調べようとしているのは、単に不可解な出来事の原因だけではない。

 この国で暮らす者たちが、再び安心して日常を送れるようにすることも、その先にあるのだろう。

 やがて、クオンが今日の予定を確認し、そろそろ次の領地へ向かう必要があることを伝えた。

 エルヴァンとメルガは、まだ話しておきたいこともあるようだったが、他の領地でも調査を行うことを理解しているらしく、無理に引き止めることはなかった。

 今後新しい情報が得られた場合には、クオンを通じて知らせると約束してくれた。


「今日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました」

「いえ。こちらこそ、遠いところからお越しいただき、感謝しております」


 智希が礼を述べると、エルヴァンは深く頭を下げた。

 その仕草は丁寧だったが、話を終えたことで安心したというより、まだ伝えきれないことがあるようにも見えた。


「まだ分からないことばかりですけど、他の領地でも確かめてみます」

「どうか、よろしくお願いいたします」

「皆さんも、お気をつけて」


 と、メルガが続け、日和も二人に頭を下げた。

 来たときにはただ広く美しいと感じた草原が、今は多くの家族の暮らす場所として目に映る。

 ここで聞いたことだけで答えは出ない。それでも、次の領地へ向かう意味は、出発したときよりはっきりしていた。


 その後、クオンが移動用の馬車について相談すると、エルヴァンはすでに用意を進めていると答えた。

 集落には長距離の移動に使う馬車があり、今日はそれを貸し出せるよう手配してくれていたらしい。

 御者についても相談してくれていたが、クオンはまず実物を見てから決めたいと伝え、一同はエルヴァンたちの案内で建物を出ることになった。

 外へ出ると、草原を渡る風は朝よりも少し暖かくなっていた。


 集落の広場では、先ほどまで見かけなかった大きな馬車が用意されており、その前には堂々とした体格の馬が立っていた。

 中央区から乗ってきた馬よりもさらに大きく、筋肉のついた脚と厚い胸元が印象的だった。

 首をゆっくりと動かすたびに長いたてがみが揺れ、周囲に人が集まっても落ち着いた様子を崩さない。


 日和は思わず足を止め、その姿を見上げた。

 馬車そのものも頑丈そうな造りをしており、車体には大きな車輪が取り付けられている。

 荷物を積むための場所とは別に、複数人が座れる空間も設けられているようだった。


 智希も馬の姿に興味を引かれたらしく、近づきすぎない距離から身体つきを観察していた。

 彰人はその隣で、これほど大きな馬なら相当な力があるのだろうと感心している。

 一方、良澄は馬よりも先に車輪と車体の接続部分へ目を向けていた。

 日和はその様子に気づき、朝から何度も話題になっていた乗り心地のことを思い出した。

 この馬車であれば、今日一日をかけて複数の領地を回ることになる。

 どのような景色が待っているのかという期待と、どれほど揺れるのだろうという小さな不安が入り混じる中、日和は改めて、目の前に立つ大きな馬へ視線を向けた。


「わあ……。さっきの馬より、ずっと大きいですね!」

「ええ。長い距離を走ることにも慣れておりますし、力もありますからな」


 エルヴァンが紹介すると、馬は堂々とした姿勢のまま耳を動かした。

 太い脚と厚い胸元には、ただ大きいだけではない力強さが感じられる。


「これだけ大きかったら、馬車を引くのも楽そうやな」

「筋肉のつき方もすごいね」と智希が応じた。

「僕は車体の方もちょっと気になるかな」と良澄が言う。


 彰人が笑いながら良澄に振り向いたので、日和もつられて笑ってしまった。

 朝から何度も話題に上った乗り心地が、ここでも気になっているらしい。

 けれど日和の目は、どうしても目の前の馬へ戻ってしまう。

 あの大きな身体が動き出したら、どんな速さで草原を進むのだろう。

 次の領地への不安と期待を抱えながら、彼女は出発の準備が整うのを待った。


 有蹄領での聞き取りは、まだ分からないことばかりを残して終わった。

 けれど、子供たちが姿を消した場所や種族に明確な偏りがないこと、そして、どの集落でも手がかりを見つけられずにいることは確認できた。

 次に向かう猫虎領では、また違う暮らしを送る種族たちから話を聞くことになる。

 その違いの中に何か共通するものが見つかるのか、今はまだ分からなかった。


 日和がそんなことを考えている間にも、馬車への荷物の積み込みは進み、やがて出発の準備が整った。

 一同はエルヴァンたちに改めて礼を伝え、順番に車内へ乗り込んでいった。


 有蹄領の集落を出発した馬車は、緩やかな丘陵を越えながら、次の目的地である猫虎領へ向かっていた。

 先ほどまで集落の広場に立っていた大きな馬が、今は車体を引いて草原を進んでいる。

 日和は窓から少し身を乗り出すようにして、その力強い脚の運びを眺めていた。

 大きな身体を支える四肢は一定の歩調を保っており、車体が地面の凹凸を拾って揺れても、馬自身の動きにはほとんど乱れが見られない。

 動物の身体の構造や運動について学んでいる日和にとっては、景色だけでなく、こうして実際に働いている姿を観察できることも興味深かった。


 もっとも、いつまでも馬ばかりを見ているわけにはいかなかった。集落を離れてしばらくすると、周囲の景色が少しずつ変わり始めたからだ。

 有蹄領では地面の起伏が見えるほど短かった草が、進むにつれて丈を増していた。

 最初はところどころに背の高い草が混じる程度だったものの、やがて馬車の窓から見える範囲の大部分が、風に揺れる草の穂で覆われるようになっていく。

 草の色も一様ではなく、日差しを受けて淡い金色に見える部分があれば、少し緑を残した場所もあり、風が吹くたびに異なる色の波が草原を渡っていた。

 遠くには、枝を横へ大きく広げた樹木がまばらに立っている。

 日本で見慣れた森のように木々が密集しているわけではなく、それぞれが十分な間隔を空けて生えているため、木陰の向こうにも草原が続いているのが見えた。

 先ほどまでの開けた土地とは違い、背の高い草や樹木によって見通せない場所が増えていたが、その分だけ、どこに何がいるのだろうという好奇心も湧いてくる。


 日和はその景色を眺めながら、大学の講義で見た映像を思い出していた。

 アフリカのサバンナでは、雨季と乾季によって草の状態が大きく変わり、動物たちは水や食べ物を求めて移動する。

 草食動物の群れが草原を渡り、その周囲で肉食動物たちが獲物を探す様子は、動物行動学や生態学の資料でも繰り返し目にしてきた光景だった。

 しかし、今自分が向かっている場所では、その肉食動物たちが言葉を交わし、家を建て、社会を営んでいる。

 見た目が似ているからといって、同じような暮らしをしているとは限らない。

 そう分かっていても、これまで映像の中でしか見たことのない景色が目の前に広がっていると、どうしても知っている動物たちの生態と結びつけて考えてしまうのだった。


「……サバンナみたい」


 思わず口にすると、隣に座っていた智希も窓の外へ目を向けた。


「確かに、そんな感じだね。有蹄領とは随分違うなぁ」

「うん。さっきまで、あんなに遠くまで見えていたのに」


 日和が草原の方を指すと、智希は頷きながら、背の高い草が風に揺れる様子を眺めていた。

 二人とも動物について学んでいるため、こうした景色を見ると、そこに暮らす生き物たちのことが自然と気になってしまう。

 けれど、日和が今興味を持っているのは、単にどんな動物がいるかということだけではなかった。

 有蹄領で聞いた失踪事件のことを考えると、この草原の見通しの悪さにも、別の意味があるように思えた。

 背の低い草原であれば、少し離れた場所にいる子供の姿も見つけやすいだろう。

 しかし、ここでは草の間へ入り込んでしまえば、身体の小さな子供など簡単に見えなくなってしまいそうだった。

 もちろん、猫科の神獣たちが人間と同じように視覚だけを頼りに周囲を確かめているとは限らない。

 聴覚や嗅覚も含めて考えれば、むしろ日和たちよりも遠くの異変に気づきやすい種族がいるかもしれなかった。

 それでも、暮らしている環境が違えば、子供たちの行動や周囲の大人の見守り方にも違いが生まれるはずだった。


 日和がそんなことを考えていると、窓の外を見ていたルシェルが、前方に広がる土地を示した。


「もう少し進むと、猫虎領の集落が見えてきますよ。こちらは有蹄領と違って、木陰を利用した建物も多いんです」


 ルシェルによれば、猫虎領には獅子族や虎族のような大型の種族だけでなく、豹族や山猫族、小柄な猫族など、様々な猫科の特徴を持つ神獣たちが暮らしているという。

 種族ごとに好む環境や生活の仕方には違いがあるものの、同じ領地の中で交流する機会も多く、集落によっては複数の種族が一緒に暮らしているそうだ。


 日和は説明を聞きながら、目の前に広がる草原のどこかに、そうした種族たちの生活があるのだろうと想像した。

 ライオンや虎、豹といえば、動物園でも人気の高い動物たちだ。

 野生では生息する地域も違い、群れを作る種族もいれば、単独で生活することを基本とする種族もいる。

 けれど、この国では、それぞれの生態をそのまま当てはめることはできない。

 人間に近い姿を取る者もいれば、動物そのものに近い姿で暮らす者もいるのだから、住居や生活道具の使い方一つを取っても、日和の知っている動物たちとは違うはずだった。

 そうした違いを実際に見られると思うと、調査のために訪れていることを忘れそうになるほど興味が湧いてくる。


 そのとき、馬車の進む先で草が大きく揺れた。

 風によるものとは少し違う動きだった。周囲の草が同じ方向へ倒れる中、その一角だけが不規則に揺れ、何か大きなものが内側から押し分けているように見える。

 日和が目を凝らしていると、やがて草の間から黄褐色の背中が現れ、その上に大きな鬣を持つ頭部が姿を見せた。

 日和は思わず息を呑んだ。


 ライオンだった。


 いや、正確にはライオンに似た姿をした獅子族の神獣なのだろう。

 草の間から現れた相手は、馬車に気づくとゆっくり顔を上げ、こちらを確かめるように視線を向けてきた。

 厚い胸元と逞しい前脚、大きな鬣に覆われた頭部は、日和が知っているライオンそのものに近い。

 しかし、その落ち着いた振る舞いには、野生動物を観察しているときとは違う印象があった。

 馬車の御者が軽く片手を上げると、獅子族の神獣も頭を下げるような仕草を返した。

 それだけのやり取りを交わすと、相手は何事もなかったように草原の奥へ歩いていった。

 日和はその姿が見えなくなるまで、窓の外を眺めていた。

 動物園でライオンを見たことは何度もあるし、映像であれば野生の姿も知っている。

 けれど、今の相手は、こちらを見て警戒したわけでも、餌を求めて近づいてきたわけでもなかった。

 ただ道を行く馬車とすれ違い、御者と挨拶を交わして、自分の行き先へ戻っていっただけなのだ。

 その当たり前のような振る舞いが、かえって新鮮だった。


「……すごいね、智希君」


 日和が小さな声で言うと、智希は彼女の方を見て笑った。


「うん。ああいうのを見ると、やっぱり僕たちの知っている世界とは違うんだなって思うよ」

「そうだね。姿は知っている動物と同じなのに、普通に挨拶してるんだもん」


 日和はもう一度、獅子族の神獣が歩いていった方へ目を向けた。

 草はすでに元のように揺れており、そこを大きな身体が通ったことも、少し離れれば分からなくなってしまいそうだった。

 その様子を見ているうちに、ふと、有蹄領で聞いた足跡の話が頭をよぎった。

 あの獅子族の神獣が歩いた場所にも、何らかの痕跡は残っているのだろう。

 しかし、背の高い草に隠れた地面がどのような状態なのか、馬車の中からでは確かめようがない。

 土が柔らかければ足跡が残るかもしれないし、硬く乾いていれば、あれほど大きな身体でもはっきりした跡を残さないことがあるのかもしれなかった。

 日和は、エルヴァンが足跡について慎重に説明していた理由を、少しだけ実感したような気がした。


 やがて草原の向こうに、いくつかの建物が見え始めた。

 最初に目に入ったのは、枝を大きく広げた樹木の下に建てられた、低く横長の建物だった。

 屋根は日差しを遮るように深く張り出しており、その周囲には布を張って日陰を広げた場所もある。

 少し離れたところには石を積み上げた頑丈そうな建物が並び、それぞれの間には大きな身体でも行き来しやすいよう、十分な幅の通路が設けられていた。


 集落が近づくにつれ、そこで暮らす神獣たちの姿も少しずつ見えてきた。

 道の脇では、人間に近い姿をした豹族らしい男性が荷物を運んでおり、その傍らでは小柄な猫族の女性が何かを指示している。

 二人の体格には随分と差があったが、作業そのものは慣れた様子で進んでいた。

 別の建物の前には虎の特徴を持つ神獣が座っており、近くにいる子供へ何かを話しかけているらしい。

 子供は時折尻尾を揺らしながら話を聞いていたものの、やがて興味を引かれるものを見つけたのか、すぐ隣の木陰へ駆けていった。


 日和はその光景に目を細めた。

 大型の猫科動物が小さな子供を見守っている姿には、どこか迫力がある。

 それでも、相手が子供へ向ける視線や、子供が安心しきった様子で遊んでいる姿を見れば、そこにあるのは日和たちの世界と変わらない日常なのだと分かった。

 もう少し進んだ場所では、数人の子供たちが広場の端で遊んでいた。

 人間に近い姿の子供もいれば、四本の脚で走り回る子供もいる。

 小柄な猫族の子供が素早く方向を変えて逃げると、少し大きな山猫族らしい子供がその後を追いかけ、追いつきそうになったところで相手が急に身を翻したため、勢い余って草の中へ飛び込んでしまった。

 周囲で見ていた子供たちが笑い声を上げる。

 追いかけていた子供もすぐに起き上がり、何か言い返しているようだったが、日和にはその声までは聞き取れなかった。

 ただ、しばらくすると二人は再び走り出し、今度は追いかける側と逃げる側が入れ替わっていた。


 猫科動物の俊敏さを思わせる動きだった。

 日和は思わず身を乗り出しかけたが、窓枠に手を置いたところで踏みとどまった。

 動物の運動能力に興味を引かれるのはいつものことだが、今はそれだけを考えているわけにはいかない。

 あの子供たちも、この領地で暮らす誰かの家族であり、友人なのだ。

 有蹄領で見た子供たちの姿が、自然と重なった。

 あちらでは鹿族の女性が子供の手を握り、何度も草原の方を確かめていた。ここで遊んでいる子供たちの周囲にも、見守っている大人がいる。

 今は楽しそうに走り回っているが、子供たちが姿を消す事件がこの領地でも起きているのなら、彼らの家族もまた、同じような不安を抱えているのかもしれなかった。

 日和がそう考えていると、隣から智希の声が聞こえた。


「日和、楽しそうだねぇ」


 振り向くと、智希がいつもの少しいたずらっぽい表情でこちらを見ていた。

 どうやら、先ほどから窓の外へ夢中になっている様子を見られていたらしい。


「だって、あんなにいろんな猫科の種族が一緒に暮らしてるんだよ? 気になるに決まってるじゃない」

「うんうん。そうだろうねぇ」

「……智希君、なんか面白がってない?」

「いやぁ、日和らしいなって思っただけだよ」


 その返事があまりにも普段どおりだったので、日和は少しだけ頬を膨らませた。

 智希は相変わらず楽しそうにしていたが、彼自身も窓の外にいる神獣たちへ何度も視線を向けていた。

 日和のように驚きをそのまま口にすることは少ないものの、興味を持っていないわけではないのだろう。

 そう思うと、からかわれたこともそれほど気にならなくなった。


 馬車が集落の中央へ近づくと、周囲の建物はさらに大きくなり、人々の往来も増えてきた。

 石を敷き詰めた広場には荷車が数台停められており、建物の軒先では様々な種族の神獣たちが言葉を交わしている。

 広場の一角には水を汲むための設備もあるらしく、そこでは大柄な獅子族の男性と小柄な猫族の女性が並んで順番を待っていた。

 体格の異なる種族が同じ場所を利用するためなのか、設備の高さや通路の幅にも工夫が見られる。

 日和はそれを眺めながら、猫虎領の集落が単に猫科の神獣たちを集めた場所ではなく、それぞれの違いを前提として暮らしが成り立っている場所なのだと感じていた。


 やがて馬車は広場の奥にある大きな建物の前で速度を落とした。

 入口の近くには数人の神獣たちが集まっており、馬車が近づいてくると、そのうちの一人がゆっくりと前へ進み出た。

 大きな鬣を持つ獅子族の男性で、人間に近い姿をしているものの、その体格は周囲の者たちより一回り大きい。

 堂々とした立ち姿からは力強さが感じられたが、訪問者を迎える表情は穏やかだった。

 その傍らには虎族らしい男性と、豹族の特徴を持つ人物が立っていた。

 さらに少し離れた場所には、三毛猫を思わせる毛色と耳を持つ、小柄な女性の姿もある。

 日和は四人の姿を順に眺めながら、同じ猫科の種族でも、これほど体格や雰囲気に違いがあるのかと改めて驚いていた。


 馬車が完全に止まると、クオンは窓の外へ目を向け、迎えに出てきた者たちを確かめた。

 どうやら、こちらの到着に合わせて待っていてくれたらしい。

 御者が扉を開け、一同は順番に馬車を降りた。

 日和が地面へ足を下ろすと、草原を渡ってきた風が頬に触れた。

 有蹄領で感じた風よりも少し暖かく、草の匂いに混じって乾いた土の匂いが漂っている。

 広場の向こうからは人々の話し声や荷物を運ぶ音が聞こえ、少し離れた場所では、先ほど見かけた子供たちの笑い声も続いていた。


 ここにも、確かに日常があった。

 そのことを感じながら、日和はクオンの後ろへ歩み寄った。

 獅子族の男性が一歩前へ出て、クオンへ丁寧に頭を下げる。

 クオンもそれに応じ、二人は親しげに挨拶を交わしていた。

 続いて男性は一同へ視線を向け、日本から来た調査協力者たちを迎える言葉を述べた。


「ようこそ、猫虎領へ。獅子族のレオニスと申します。皆様のお越しをお待ちしておりました」


 低く落ち着いた声だった。

 日和はその声を聞きながら、先ほど草原ですれ違った獅子族の神獣を思い出した。

 あちらは四本の脚で歩く獅子の姿をしていたが、目の前の男性は人間に近い姿をしている。

 それでも、鬣や顔立ちには共通する特徴があり、同じ種族であることはすぐに分かった。

 クオンが日和たちを紹介すると、レオニスは一人ひとりへ丁寧に視線を向け、改めて礼を述べた。

 その後ろに控えていた三人も、それぞれ軽く頭を下げている。


 有蹄領では、エルヴァンとメルガが穏やかに迎えてくれた。

 ここでも同じように、領地を代表する者たちが自分たちを待っていてくれたのだ。

 けれど、日和はそのことを単純に喜ぶことができなかった。

 これほど丁寧に迎えられるのは、彼らもまた、子供たちの失踪について何かを知りたいと願っているからなのだろう。


 レオニスに案内されて建物へ入ると、外の強い日差しが遮られ、日和は思わずほっと息をついた。

 入口から続く通路は広く、天井も随分と高い。

 壁には石材が使われているものの、ところどころに木材が組み合わされており、窓の位置も高く取られているため、外からの光が室内の奥まで届いていた。

 開け放たれた窓からは風が通り抜け、建物の中に熱がこもらないよう工夫されているらしい。

 日和は歩きながら、壁際に並ぶ長椅子や通路の幅へ目を向けた。

 人間に近い姿の神獣だけでなく、四本の脚で歩く大型の種族でも無理なく利用できるよう、建物全体に余裕が設けられているようだった。

 先ほど広場で見た設備もそうだったが、体格の異なる種族が一緒に暮らすためには、こうした工夫が欠かせないのだろう。


 案内された部屋には、大きな卓と椅子が用意されていた。

 レオニスは一同へ席を勧めると、自らも卓の向こう側へ腰を下ろした。

 その隣には虎族の男性と豹族の男性が並び、少し離れた場所に、三毛猫の特徴を持つ小柄な女性が座っている。

 四人の体格差はかなりのものだったが、椅子や卓の高さにはそれぞれ調整が施されているらしく、誰も不自由そうにはしていなかった。

 日和たちが席に着くと、レオニスは改めて三人を紹介した。


「こちらは虎族のティグラン、豹族のセフィル、そして猫族のミネットです。今回の件については、それぞれの種族でも確認を進めておりますので、私一人からお話しするよりも、皆様に直接聞いていただいた方がよいかと考えました」


 ティグランは大柄で、肩幅の広い男性だった。

 人間に近い姿をしているものの、顔や腕には虎特有の縞模様が残っており、落ち着いた表情の中にも力強さが感じられる。

 セフィルは彼らより幾分細身で、しなやかな体つきと鋭い眼差しが印象的だった。

 一方のミネットは、三人と比べると随分と小柄で、三毛猫を思わせる耳と尻尾を持っている。

 柔らかな表情をしていたが、日和たちを見る目には、どこか慎重な様子も感じられた。

 四人が並ぶ姿を見ていると、同じ猫科の種族といっても、それぞれの身体的な特徴や雰囲気が大きく異なることがよく分かった。


 日和はその違いに興味を引かれながらも、今は調査のために訪れているのだと、自分に言い聞かせるように姿勢を正した。

 クオンが有蹄領での聞き取りについて簡単に説明すると、レオニスは静かに頷いた。


「こちらでも、子供たちが姿を消す事案が起きています。最初はそれぞれの集落で捜索を行っていたのですが、他の種族でも同じようなことが起きていると分かり、現在は情報を共有するようにしております」


 レオニスの声は落ち着いていたが、その言葉には重みがあった。

 日和は、有蹄領でエルヴァンたちが話していたことを思い出した。

 あちらでも、最初から領地全体の事件として認識されていたわけではなかった。

 子供が帰ってこないという一つひとつの出来事が、後になって同じような状況で起きていると分かったのだ。

 レオニスの説明によれば、猫虎領でも失踪した子供たちの年齢や種族は一様ではなかった。

 獅子族や虎族のような大型の種族だけでなく、豹族や小柄な猫族の子供にも行方の分からなくなった者がいるという。


 日和は、その話を聞いて思わず顔を上げた。

 大型猫科の神獣であれば、子供であっても相応の力を持っているはずだった。

 もちろん、人間の子供と同じように考えることはできないし、神獣としての能力についても日和が理解していることは限られている。

 それでも、身体の大きさや力だけを考えれば、有蹄領の小柄な種族とは条件が大きく違うように思えた。


「獅子族や虎族の子供も、ですか?」


 日和が尋ねると、レオニスは頷いた。


「ええ。まだ十分に成長していないとはいえ、身を守る力を持つ子供たちです。それでも、行方が分からなくなっています」


 その答えを聞いて、日和は言葉を失った。

 有蹄領では、子供たちが草原で遊んでいたことや、見守っていた大人の目が届かなくなったことが話題になっていた。

 しかし、猫虎領では、身体能力の高い種族の子供たちまで姿を消している。

 単純に、力の弱い子供が狙われていると考えることは難しそうだった。

 ティグランは腕を組んだまま、少し低い声で話し始めた。


「我々の子供は、幼い頃から身体を動かすことに慣れています。遊びの中で力を競うこともありますし、周囲の気配に気づくことも覚えていきます。もちろん、大人と同じように戦えるわけではありませんが、簡単に連れ去られるとは考えにくいのです」


 日和はその言葉を聞きながら、先ほど広場で見かけた子供たちの姿を思い出していた。

 素早く方向を変えて走り回る小柄な猫族の子供と、その後を追いかけていた山猫族らしい子供。

 あの動きは、人間の子供と比べても随分と俊敏だった。大型の種族であれば、さらに大きな身体を使って遊ぶこともあるのだろう。


 しかし、そうした能力を持っているからといって、危険に遭わないとは限らない。

 相手が何者なのかも分からない以上、身体能力だけで安全を判断することはできなかった。

 智希が、ティグランへ視線を向けた。


「子供たちがいなくなったとき、周囲に争ったような痕跡はありましたか?」


 その問いに、ティグランは少し考えてから首を横に振った。


「少なくとも、我々が確認した場所では見つかっていません。大きく草が踏み荒らされていたり、何かを引きずったような跡が残っていたりすることもありませんでした。ただ、全ての場所を同じ条件で調べられたわけではありませんので、何もなかったと断言することはできません」


 日和はその説明を聞きながら、窓の外で見た背の高い草原を思い浮かべた。

 草が密集している場所では、誰かが通れば茎が折れたり、倒れたりすることもあるだろう。

 しかし、風で揺れた草が元の位置へ戻ることもあるし、地面の状態によっては足跡が残りにくい場合もある。

 どの程度の痕跡が残るのかは、実際の場所を見なければ分からない。

 そのため、痕跡が見つからなかったという話を聞いても、何も起きなかったと考えることはできなかった。

 続いて、セフィルが静かに口を開いた。


「豹族の場合は、少し事情が異なります。我々は獅子族のように大勢で行動することばかりではありませんし、子供たちも成長するにつれて、一人で過ごす時間が増えていきます。もちろん、幼い子供を放っておくわけではありませんが、常に誰かがそばにいるとは限りません」


 日和は、その話を聞いて少し胸が苦しくなった。

 慣れた場所であれば、子供も家族も安心してしまうことがある。

 けれど、いつもと同じ道を歩いていた子供が帰ってこなくなったのだとすれば、残された家族は、その道を見るたびに子供の姿を思い出すのではないだろうか。

 そう考えると、失踪した場所がどこなのかという情報も、単なる調査記録として受け取ることはできなかった。

 良澄はセフィルの話を聞き終えると、子供たちが姿を消す前に、体調や行動に変化が見られなかったかを尋ねた。

 セフィルは、家族から聞き取った範囲では、目立った異常は確認されていないと答えた。

 ただし、全ての子供について詳しい記録が残っているわけではなく、失踪後に家族が思い返して気づいたこともあるため、情報にはばらつきがあるという。

 良澄はその説明を丁寧に聞き、気になった点をいくつか確認していた。

 日和は、彼が身体の状態だけでなく、普段の生活や行動の変化についても尋ねていることに気づいた。

 医療を学ぶ良澄にとっては、失踪そのものだけでなく、その前に何らかの兆候がなかったかを確かめることも重要なのだろう。

 やがて、ミネットが小さく手を上げた。


「猫族の子供たちについても、お話ししてよろしいでしょうか」


 それまで静かに聞いていた彼女の声は柔らかかったが、表情には少し緊張が見られた。

 レオニスが頷くと、ミネットは一度日和たちを見渡してから、ゆっくりと話し始めた。


「私たちの子供は、獅子族や虎族の子供たちほど身体が大きくありません。身軽で、狭い場所へ入り込むのも得意ですが、その分、周囲の大人が気づかないうちに姿が見えなくなることもあります。ですから、最初に子供が帰ってこなくなったときも、どこかで遊びに夢中になっているのではないかと考えた者が多かったんです」


 日和はその言葉に、先ほど見かけた小柄な猫族の子供を思い出した。

 素早く草の中へ飛び込み、追いかけてきた子供をかわしていた姿は、確かに身軽だった。

 人間の子供であれば通れないような場所でも、猫族の子供なら簡単に入り込めるのかもしれない。

 ミネットは、そんな子供たちの普段の様子を説明しながら、少しずつ声を落としていった。


「でも、いつまで待っても帰ってこなくて……。家族も、近所の者たちも、思いつく場所は全部探しました。いつも遊んでいた場所も、隠れそうなところも、何度も確かめたんです。それでも見つからなかったんです」


 その言葉を聞いて、日和は胸の奥が重くなるのを感じた。

 有蹄領でも、家族が子供を探し続けているという話を聞いた。

 けれど、ミネットが語る様子には、子供の行動をよく知っているからこその苦しさが滲んでいた。

 普段ならどこに隠れるのか、どんな場所を好むのか。家族であれば、そうしたことを誰よりも知っているはずだった。

 それでも見つけられないのだとすれば、探している間にどれほど不安が大きくなっていったのだろう。

 日和は、ミネットの方へ身体を向けた。


「……その子たちが、いつもと違う場所へ行こうとしていたとか、誰かについていこうとしていたような話はありませんでしたか?」


 尋ねながら、日和は自分の質問が少し曖昧だったかもしれないと思った。

 子供が普段と違う行動を取る理由はいくらでもある。

 興味を引かれるものを見つけたのかもしれないし、友達に誘われたのかもしれない。

 それだけで事件との関係を考えることはできないが、子供の行動を知る手がかりにはなるかもしれなかった。

 ミネットは少し考え込んでから、静かに首を横に振った。


「少なくとも、私が聞いている範囲では、そのような話はありません。ただ……」


 そこで言葉を止めた彼女は、卓の上へ視線を落とした。


「誰かに連れていかれたのではないか、と考えている家族はいます。子供が自分から遠くへ行くとは思えない、と……」


 部屋の空気が、わずかに重くなったように感じられた。

 日和はミネットの言葉を聞きながら、すぐには返事ができなかった。

 いつもと変わらない場所で遊んでいた子供が、何の前触れもなく姿を消してしまった。

 家族が誰かに連れていかれたのではないかと考えるのも、無理はないだろう。

 それが事実なのかどうかを確かめる手段さえ、今は見つかっていない。

 そのことが、残された家族にとって何よりも苦しいのかもしれなかった。


 クオンが、ミネットへ穏やかに声をかけた。


「そのように考えておられるご家族がいることは、こちらでも承知しています。ただ、現段階では何が起きたのか分かっておりません。ですからこそ、こうして皆さんのお話を伺っているのです」


 ミネットは小さく頷いた。


「はい。分かっています。私たちも、何か一つでも手がかりが見つかればと思っているんです」


 その言葉に、日和は胸が締めつけられるような思いがした。

 手がかりが欲しいという願いは、調査をしている自分たちだけのものではない。

 子供たちを待っている家族にとっては、どれほど小さな情報であっても、何かを知ることができれば希望につながるのかもしれなかった。

 智希はしばらく黙って話を聞いていたが、やがてレオニスへ視線を向けた。


「失踪した子供たちについて、種族ごとに情報をまとめているということでしたよね。可能であれば、後でその記録を見せてもらえますか?」


 レオニスは頷いた。


「もちろんです。こちらで把握している情報については、できる限りお渡しするつもりです。ただ、全ての事案について同じ程度の記録が残っているわけではありませんので、その点はご理解ください」

「ありがとうございます。まずは、今分かっていることを確認したいので」


 智希はそう答えると、それ以上は問いを重ねなかった。

 日和は、彼が記録を求めた理由を考えていた。

 有蹄領でも、エルヴァンたちから聞いた話だけでは分からないことが多かった。

 猫虎領ではさらに種族が多く、子供たちの生活習慣も違う。

 個々の話を聞くだけでは見えてこないものが、記録を並べることで分かる可能性はあるのかもしれない。


 けれど、その記録の一つひとつが、誰かの子供が帰ってこなくなった出来事なのだ。

 そう考えると、ただ情報を集めればよいというものでもない気がした。


 レオニスは卓の上に置かれた資料へ目を向け、少し間を置いてから口を開いた。


「我々としても、子供たちを見つけるためにできることは続けていくつもりです。ただ、これまでの捜索では、はっきりした手がかりを得られておりません。もし皆様の調査で何か分かりましたら、どうかお知らせいただきたい」


 その言葉には、領地を代表する者としての責任だけでなく、子供たちを案じる気持ちが込められているように感じられた。

 日和はレオニスの表情を見つめながら、静かに頷いた。

 有蹄領では、草原で遊んでいた子供たちが姿を消していた。猫虎領でも、身体の大きさや暮らし方の異なる子供たちが、同じように帰ってこなくなっている。

 今のところ、その理由を説明できるものは見つかっていない。

 それでも、こうして一つずつ話を聞いていくことで、少なくとも、子供たちがどのような場所で暮らし、どのように過ごしていたのかは少しずつ分かってきた。


 日和は、先ほど広場で見かけた子供たちの姿を思い出していた。

 楽しそうに走り回り、追いかけっこをしていた子供たち。大人たちはそれを見守り、誰もが普段どおりの一日を過ごしているように見えた。

 あの子供たちが、明日も同じように遊べるとは限らない。

 そんなことを考えてしまう自分に気づき、日和は小さく息を吐いた。

 まだ分からないことばかりだった。

 けれど、ここで暮らす子供たちの日常が、これからも当たり前に続いてほしいという気持ちだけは、はっきりしていた。


 猫虎領での聞き取りを終えた一行は、レオニスたちに見送られながら、再び馬車へ乗り込んだ。

 集落を離れる際、日和は窓の外へ目を向けていた。

 広場では、先ほど見かけた子供たちがまだ遊んでおり、その近くでは大人たちが仕事を続けている。

 大きな身体を持つ獅子族の男性が荷物を運び、小柄な猫族の女性がその行き先を指示している光景も、訪れたときと変わっていなかった。

 ただ、日和がその景色を受け取る気持ちは、来たときとは少し違っていた。

 あの子供たちと同じように遊んでいたはずの子供が、ある日突然、帰ってこなくなった。

 獅子族や虎族のように身体の大きな種族でも、豹族や猫族のように身軽な種族でも、それは起きている。

 レオニスたちは冷静に話してくれたが、ミネットが子供を探し続ける家族のことを語ったときの表情は、今も日和の頭に残っていた。


 馬車が集落の外へ出ると、建物の間から聞こえていた人々の声は少しずつ遠ざかり、代わりに車輪の音と、風に揺れる草の音が耳に届くようになった。


 日和は膝の上で手を重ね、窓の外を流れていく草原を眺めていた。

 朝から多くの話を聞いてきたせいか、馬車の揺れに身を任せていると、少しずつ疲れが表に出てくるようだった。

 有蹄領のエルヴァンやメルガ、猫虎領のレオニスたちの表情が、次々と頭に浮かんでくる。

 話を聞いている間は、何か一つでも覚えておこうと夢中だった。

 けれど、こうして静かな時間ができると、彼らがどのような思いで自分たちを迎えてくれたのか、改めて考えずにはいられなかった。

 そんな彼女の様子に気づいたのか、向かいに座っていたセレスティアが、穏やかな声で話しかけてきた。


「日和さん、少しお疲れではありませんか?」


 顔を上げると、セレスティアが心配そうにこちらを見ていた。


「えっ……あ、いえ。大丈夫です。ただ、さっきのお話を考えていて」

「そうでしたか。皆さん、つらい思いをされているのでしょうね」


 セレスティアはそれ以上問いかけることなく、静かに窓の外へ視線を向けた。

 日和もその横顔を見ながら、彼女が自分たちとは違う世界で暮らしてきたことを思い出していた。

 セレスティアはヴァルネシアから来た人であり、日和が知らない出来事も、きっと数多く経験してきたのだろう。

 普段は穏やかに微笑んでいることが多いが、こうした場面で見せる落ち着いた態度には、どこか安心させられるものがあった。


 馬車はしばらく草原を進んだ後、緩やかな丘を越えて、少しずつ木々の多い土地へ入っていった。

 猫虎領では背の高い草とまばらな樹木が広がっていたが、こちらでは低木や背の高い木が混じるようになり、地面を覆う草も柔らかそうなものへ変わっている。

 木々の間には小さな花が咲いており、枝の上では鳥に似た姿の生き物が飛び交っていた。

 日和はその景色を眺めながら、自然と顔を上げた。

 草原の開放感とは違い、こちらは木陰が多く、風が通るたびに葉が擦れ合う音が聞こえてくる。

 地面には落ち葉が積もっている場所もあり、木の根元には小さな穴のようなものがいくつも見えた。

 やがて、ルシェルが前方を示した。


「この先が小獣領です。今日はここで少し休憩を取ってから、巨獣領に向かう予定になっています」


 その説明に、日和は思わず窓の外へ身を寄せた。

 小獣領という名前から、身体の小さな神獣たちが暮らしていることは想像できたが、実際にどのような種族がいるのかまでは知らなかった。

 先ほどの猫虎領でも随分と驚かされたのだから、ここでもまた、見たことのない光景が待っているのかもしれない。

 馬車が木々の間を抜けると、視界が開け、小さな建物が集まる場所が見えてきた。

 猫虎領の集落とは異なり、こちらの建物は全体的に背が低く、木材を使ったものが多かった。

 屋根の形も様々で、地面に近い位置に入口が設けられた家もあれば、木の幹に沿うように作られた小さな建物もある。

 中には、枝の上へ渡された板を通路として利用している場所もあり、日和はそれを見つけるたびに目を輝かせた。


 集落の中には、人間に近い姿をした神獣たちのほか、兎や栗鼠、鼬に似た姿の者たちが行き交っていた。

 小さな身体で荷物を運ぶ者もいれば、木の枝を伝って移動する者もいる。

 地面の上では、長い耳を持つ兎族の子供が跳ねるように走り、その後を小柄な栗鼠族の子供が追いかけていた。

 少し離れたところでは、鼬族らしい神獣が細長い身体を器用に使い、建物の隙間から顔を覗かせている。


 日和は、思わず口元を緩めた。

 どこを見ても、大学で学んできた動物たちに似た姿がある。しかも、それぞれが自分たちの生活を営んでいるのだから、興味を引かれないはずがなかった。

 馬車が集落の広場へ入ると、近くにいた子供たちがこちらへ顔を向けた。

 大きな馬車が珍しいのか、それともクオンたちが訪れたことに気づいたのか、何人かが興味深そうに近づいてくる。

 大人たちもその様子を見ていたが、慌てて止めるようなことはなく、子供たちが道を塞がないよう声をかける程度だった。

 馬車が止まり、一同が降りると、日和は改めて周囲を見渡した。

 建物の大きさも、通路の幅も、先ほどの猫虎領とは随分と違う。

 小柄な種族が暮らしやすいように作られているためか、日和たちが歩くには少し狭く感じる場所もあったが、広場には来訪者が休めるよう、背の高い椅子や卓も用意されていた。

 そのとき、足元から小さな声が聞こえた。


「お姉ちゃん、どこから来たの?」


 日和が視線を落とすと、そこには兎族の女の子が立っていた。

 人間の子供に近い姿をしているものの、頭には長い耳があり、背後には丸い尻尾が見える。

 日和を見上げる大きな瞳には警戒よりも好奇心が強く表れており、少し離れたところでは、同じくらいの年頃らしい栗鼠族の子供がこちらの様子を窺っていた。

 日和は思わずしゃがみ込み、女の子と目線を合わせた。


「日本っていう、別の世界から来たんだよ」

「にほん?」

「うん。ここからだと、すごく遠いところかな」


 女の子は不思議そうに首を傾げたが、すぐに日和の服へ目を向け、今度は何をしているのかと尋ねてきた。

 日和が動物について勉強していることを話すと、女の子は嬉しそうに自分の耳を動かしてみせた。

 左右の耳が少し違う方向へ動く様子が面白く、日和は思わず笑ってしまった。

 それを見ていた栗鼠族の子供も近づいてきて、自分は木登りが得意なのだと話し始めた。


 気がつくと、日和の周囲には何人もの子供たちが集まっていた。

 兎族や栗鼠族だけでなく、小柄な鼬族の子供も混じっており、それぞれが自分の得意なことや、普段どんな遊びをしているのかを話してくれる。

 日和は一人ひとりの話を聞きながら、時折質問を返し、そのたびに子供たちが嬉しそうに答える様子を楽しんでいた。

 少し離れたところでは、智希がそんな日和を眺めていた。


「……すっかり人気者だねぇ」


 その声に顔を上げると、智希が楽しそうに笑っている。


「だって、みんな色々教えてくれるんだもん」

「うん。日和も楽しそうだし、いいんじゃない?」


 智希はそう答えると、日和の近くにいた栗鼠族の子供へ目を向けた。

 子供は少し緊張した様子で智希を見上げていたが、彼が穏やかに声をかけると、すぐに笑顔を見せた。

 その様子を見ていた日和は、智希もまた、こうした小さな神獣たちとの触れ合いを楽しんでいるのだろうと思った。

 やがて、子供たちの一人が日和の手を引き、広場の端にある大きな木を指さした。

 そこには枝を利用して作られた小さな通路があり、栗鼠族の子供たちが器用に行き来していた。

 木の幹には足場となる突起が設けられており、人間に近い姿の子供でも登れるようになっているらしい。


 日和は子供たちに案内されながら、その造りを興味深く眺めていた。

 木の上で暮らす種族と、地面で暮らす種族が同じ集落にいるのだから、建物の構造もそれに合わせて工夫されている。

 こうした環境の違いが、子供たちの遊び方や身体の使い方にどのような影響を与えているのか、考え始めると興味が尽きなかった。


 しばらくすると、近くにいた大人が子供たちへ声をかけた。

 どうやら、そろそろ家へ戻る時間らしい。

 子供たちは少し名残惜しそうにしていたが、日和がまた会えたらいいねと声をかけると、嬉しそうに手を振りながら、それぞれの家族のもとへ走っていった。

 日和はその後ろ姿を見送りながら、自然と笑みを浮かべていた。

 短い時間だったが、子供たちの好奇心や元気な様子に触れたことで、猫虎領を出てから胸の奥に残っていた重苦しさが、少しだけ和らいだような気がした。

 けれど、子供たちが家族のもとへ帰っていく姿を見ているうちに、ふと、有蹄領や猫虎領で聞いた話が思い出された。

 あの子供たちにも、こうして帰る場所があったはずだった。

 遊び疲れて家へ戻り、家族に今日あったことを話し、また次の日には友達と遊ぶ。

 そんな当たり前の日々が、ある日を境に途切れてしまったのだ。


 日和は、先ほど手を引いてくれた兎族の女の子の姿を思い浮かべた。

 もし、あの子が突然帰ってこなくなったら。

 そう考えた途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 もちろん、ここで暮らす子供たちが同じ事件に巻き込まれると決まったわけではない。

 けれど、今まで話を聞いてきた家族たちも、事件が起きる前はそんなことを考えもしなかったのではないだろうか。


 日和は小さく息を吐き、子供たちが消えていった通路を見つめていた。

 そのとき、背後から穏やかな声が聞こえた。


「日和さん、楽しめましたか?」


 振り向くと、セレスティアが微笑みながら立っていた。


「はい。みんな、すごく可愛くて……。それに、暮らし方も面白かったです」

「そうですか。それはよかったです」


 セレスティアは日和の隣へ並び、子供たちが遊んでいた大きな木へ目を向けた。

 その表情はどこか懐かしそうで、日和は少し気になった。


「セレスティアさん、どうかしましたか?」

「いえ。以前、ヴァルネシアで出会った子のことを思い出していたんです」


 セレスティアはそう言って、ミリア=ルシェという少女の話をしてくれた。

 日和はその名前を初めて聞いたが、セレスティアの話し方から、その少女が彼女にとって印象深い存在なのだろうと感じた。

 詳しい事情までは聞かなかったものの、セレスティアが遠い世界で出会った人々のことを大切に思っている様子が伝わってきて、日和も自然と耳を傾けていた。

 同じ世界に暮らしていなくても、出会った相手のことを思い出し、気にかけることがある。

 そんな当たり前のことが、今は少し不思議に感じられた。


 日和がセレスティアの話を聞き終えた頃、広場の方からクオンたちが戻ってきた。

 休憩の間に、次の移動について確認をしていたらしい。ルシェルが馬車の準備が整ったことを告げると、一同は再び広場へ向かった。

 日和は歩きながら、もう一度だけ大きな木を振り返った。

 枝の上には、先ほどの栗鼠族の子供が一人だけ残っており、こちらに気づくと小さく手を振ってくれた。

 日和も手を振り返す。

 子供は嬉しそうに笑うと、軽やかな動きで枝の向こうへ駆けていった。

 その姿が見えなくなるまで見送ってから、日和は馬車へ向かった。


 有蹄領から猫虎領、そして小獣領へと進む中で、日和は多くの神獣たちと出会い、それぞれの暮らしに触れてきた。

 姿も身体の特徴も異なる彼らが、互いの違いを受け入れながら生活している様子は、大学で学んできた知識だけでは想像できないことばかりだった。

 それでも、先ほどの子供たちが家族のもとへ駆けていく姿には、どこか見慣れたものがあった。

 姿や暮らす世界が違っていても、遊び疲れた子供が家へ帰り、それを迎える者がいるという光景は、日和の知る日常と何も変わらない。

 日和はそんなことを考えながら馬車へ乗り込み、窓際の席へ腰を下ろした。


 やがて車体がゆっくりと動き始めると、小獣領の小さな家々は木々の間へ隠れ、先ほどまで賑やかだった集落の声も少しずつ遠ざかっていった。

 窓の向こうでは、木々の枝が風に揺れ、その隙間から差し込む陽光が地面に淡い模様を描いている。

 次に向かうのは巨獣領だった。

 有蹄領や猫虎領とはまた違う種族が暮らす場所で、どのような話を聞くことになるのか、今は想像することも難しい。

 ただ、これまで訪れた領地の人々が、それぞれの暮らしの中で子供たちの帰りを待っていることだけは、忘れずにいたかった。

 日和は膝の上に置いた手をゆっくりと重ね、窓の外へ視線を向けた。

 先ほどまで一緒に遊んでいた兎族の女の子や、木の上から手を振ってくれた栗鼠族の子供の姿が、ふと頭に浮かぶ。

 あの子たちも、今頃は家族のもとへ戻っているのだろう。

 そう思うと、自然と頬が緩んだ。

 馬車は木々の間を抜け、次の領地へと続く道を進んでいった。

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