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十二神承   作者: 境塚 透
救えないもの
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35/37

小さな綻び

 帰宅した智希は、玄関で靴を脱ぐと、肩に掛けていたバッグをいつもの場所へ下ろした。

 昼間は賑やかだったせいか、照明を点けたばかりの部屋は妙に静かで、冷蔵庫の低い作動音まで耳につく。

 犬たちを連れて出かけ、仲間と過ごした一日は、いつもと大きく変わらない楽しいものだった。

 少なくとも、智希自身にとってはそうだったのだが、帰り際にクオンとロウガが見せた反応だけは、どうにも頭の片隅に引っ掛かっていた。


 何かが起きている。

 そこまで明確な話ではない。二体とも、危険を察知したというより、普段なら感じないものが意識に触れた、といった曖昧な表現をしていた。

 神獣と呼ばれる存在であっても、あらゆる事象を正確に把握できるわけではないし、そもそも感じ取ったものが異常であると決まったわけでもない。

 それでも、性質の異なる二体が似た違和感を覚えたという点は、少し気になった。


「んー……一回、良澄にも聞いとこっかなぁ」


 独り言をこぼしながらスマートフォンを取り出し、良澄とのやり取りを開く。

 神獣の治癒や状態の把握に詳しい彼なら、クオンたちが感じたものについて、何か別の見方ができるかもしれない。

 もっとも、今の段階では説明できることが少なすぎる。智希はしばらく文章を考えた末、結局、簡潔な連絡を送ることにした。


『クオンとロウガがちょっと気になることあるみたいでさ。明日、神獣国家に行ってみようと思うんだけど、良澄も来られる?』


 送信を済ませたところで、浴室の方へ視線を向ける。

 詳しい話は会ってからでもできるし、良澄に予定があれば無理に付き合わせる必要もない。

 そう考えると、ひとまず今夜の用事は終わったような気がした。

 シャワーを浴び、髪を乾かしているうちに、昼間の疲れがゆっくりと表面へ浮かび上がってきた。

 普段から活動的な智希ではあるものの、動物たちの世話をしながら一日を過ごせば、それなりに体力は使う。

 寝床へ入ったときには、スマートフォンの画面をもう一度確認することさえ忘れていた。


 明日、何もなければそれでいい。

 そんな気楽な考えのまま、智希は眠りについた。


     ◇


 翌朝、カーテンの隙間から差し込む陽光に目を細めながら、智希は枕元のスマートフォンを手に取った。

 画面には、昨夜届いていた良澄からの返信が表示されている。


『明日は特に予定がないから大丈夫だよ。僕も同行するね』

「お、助かるー」


 まだ少し眠気の残る声で呟き、集合場所と時間を伝える。

 続けて彰人にも連絡を入れると、ベッドから抜け出して身支度を始めた。


 神獣国家へ行くこと自体は、これまでも珍しいことではない。

 しかし、今回は単なる訪問ではなく、何が起きているのかを確かめるための外出になる。

 長期滞在を予定しているわけではないものの、現地での移動や調査を考えれば、手ぶらで出かけるわけにもいかなかった。


 智希がクローゼットから取り出したのは、黒を基調とした大きめのワンショルダーリュックだった。

 幅広いベルトを身体へ斜めに掛ける構造で、小柄な智希が背負うと少々大きく見えるものの、荷物の重さが片方の肩だけに集中しにくく、身体へ密着させれば動きやすい。

 着替えとタオルを詰め、筆記用具やメモ帳、充電器などを取り出して並べる。

 途中で、神獣国家なら筆記具くらい手に入るだろうかと考えたが、向こうの道具が日本のものと同じとは限らない。

 結局、使い慣れたものを持っていくことにした。


「こんなもんかなぁ」


 バッグを背負って重さを確かめると、鏡の前でベルトの位置を少し調整する。

 荷物を増やした割には動きを妨げず、これなら多少歩くことになっても問題はなさそうだった。

 簡単に朝食を済ませ、戸締まりを確認して外へ出る。

 駐輪場所には、智希の愛車が待っていた。

 キーを差し込み、慣れた手つきでエンジンを始動すると、朝の空気に軽快な排気音が響いた。

 今日は帰りが遅くなるかもしれない。

 場合によっては一泊することもあるだろうが、大学に停めておけば問題はない。

 智希はヘルメットを被り直し、ゆっくりと走り出した。


     ◇


 大学の駐輪場に滑り込んだ愛車は、小気味よい排気音を残して静かになった。

 ヘルメットを脱いだ智希は、朝の空気を吸い込みながら軽く首を回した。

 駐輪場には既に何台ものバイクや自転車が並び、講義棟へ向かう学生たちの姿が行き交っている。

 休日ほどではないものの、大学の構内には普段どおりの賑わいがあった。


 昨日は犬たちを連れて山のドッグランまで出掛け、戻ってからも世話や片付けに追われた。

 最後には皆で夕食まで囲んだのだから、随分と盛りだくさんな一日だったと思う。

 特に、広場を走り回っていた犬たちの姿は、今でも鮮明に思い出せた。

 恭平が犬たちに負けじと走り回り、日和と小春がそれを見て笑っていたこと。

 雅史が帰りの車内で犬たちの様子を気に掛けていたこと。

 そして、そんな賑やかな時間の中でも、クオンとロウガが感じ取った奇妙な違和感だけは、結局消えることがなかった。


 智希は肩に掛けたバッグを持ち直した。

 普段より大きな荷物が背中でわずかに揺れる。

 朝、自宅で調整したベルトはしっかり身体に馴染んでいたが、これから先、どれほど歩くことになるかは分からない。

 それでも、必要なものは揃えてきたつもりだった。


「さてさて、今日はどうなることやら」


 独り言のように呟き、智希は部室のある建物へ歩き始めた。

 昨日までと同じ大学の景色が、今日は少し違って見える。

 もっとも、それは周囲が変わったからではない。

 これから向かおうとしている場所が、普段の生活とはあまりにもかけ離れているからだろう。


 神獣国家。


 クオンたちの同胞が暮らすその国には、智希もこれまでに何度か足を運んでいた。

 クオンの子供を助けた一件もあり、決して縁の薄い場所ではない。それでも、今回はいつもの訪問とは事情が違っていた。

 何より、今回の訪問には明確な目的がある。

 クオンとロウガが感じ取った違和感の正体を探ること。

 それが単なる気のせいであれば、それに越したことはない。

 けれど、二体が揃って何かを感じたという事実を、智希は軽く扱うつもりがなかった。


 建物の入口を抜け、見慣れた廊下を進む。

 講義の合間なのか、廊下の向こうでは数人の学生が談笑していた。

 開いた教室の扉からは椅子を動かす音が聞こえ、窓の外では風に揺れた木々が葉を擦り合わせている。

 そうした日常の音を聞きながら、智希は目的の部室の前で足を止めた。

 扉の向こうから、聞き覚えのある声がする。


「……せやから、昨日のあれは恭平が張り切りすぎたんやって」

「ですが、犬たちはとても楽しそうでしたよ」

「そらそうやけどな。最後、本人が一番疲れとったやろ」


 彰人とセレスティアだ。

 どうやら昨日のドッグランの話をしているらしい。

 智希は口元を緩め、扉を開けた。


「おはよー。何だか楽しそうな話してるねぇ」


 扉を開けた智希の声に、真っ先に反応したのは彰人だった。

 椅子の背もたれに片腕を預け、セレスティアと向かい合うように座っていた彼は、話の途中だったことなど気にも留めず、いつもの調子で片手を上げる。


「おう、智希。来たか」


 机の上には飲みかけのペットボトルが置かれ、その脇には昨日のドッグランで撮ったらしい写真を表示した携帯電話が転がっていた。

 どうやら二人は、写真を見ながら昨日の出来事を振り返っていたらしい。

 セレスティアも智希に気づき、柔らかな笑みを向けた。

 その一方で、窓際の机に広げた資料を確認していた良澄は、手元の紙を揃えてから顔を上げる。

 資料の脇には小さな筆箱とメモ帳が置かれており、何かを書き留めていたようだった。


「おはようございます、智希さん」

「おはよう、智希。昨日は遅くまでお疲れさま」

「良澄もおはよ。昨日は結局、みんなで随分遅くまでいたからねぇ」


 智希は答えながら、いつも使っている椅子へ向かった。

 肩から下ろしたバッグを足元に置こうとして、少し考え直し、椅子の横へ立て掛ける。

 普段の通学用とは違う大きさのため、机の下へ押し込むには少々収まりが悪かった。

 その様子を見逃さなかった彰人が、携帯電話から視線を外して口元を緩める。


「お、ちゃんと準備してきたんやな」

「一応ね。何があるか分からないし、着替えくらいは持っておこうと思って」


 智希がバッグの肩紐を整えると、彰人はその大きさを確かめるように眺めてから、呆れたように笑った。


「昨日あんだけ犬と遊んどいて、今日は山歩きか。元気やなぁ」

「彰人に言われたくないねぇ。昨日、恭平と一緒になって走ってたじゃない」

「あれは犬らが楽しそうやったからや。俺が走りたかったわけちゃうで」


 もっともらしく答える彰人だったが、その言葉に説得力がないことは、昨日の様子を知る者なら誰でも分かるだろう。

 恭平と張り合うように犬たちを追い掛け、最後には自分たちまで息を弾ませていたのだから。

 セレスティアも同じ場面を思い出したらしい。口元へそっと手を添え、笑みを深めた。


「ふふ、そういうことにしておきましょうか」

「何や、その言い方。セレスティアまで恭平と同じ扱いするんか」

「そのようなつもりはありませんよ。ただ、昨日は皆さん、とても楽しそうでしたから」


 穏やかに返されてしまえば、彰人もそれ以上は言い返しにくい。

 肩を竦めて携帯電話を机へ戻すと、今度は智希に向かって何か言おうとしたが、先に良澄が口を開いた。

 それまで三人のやり取りを微笑ましそうに眺めていた良澄だったが、机の上の資料へ一度目を落とすと、少しだけ姿勢を正した。

 和やかな空気を無理に断ち切ることなく、それでも話題を本来の目的へ戻すような、彼らしい切り替え方だった。


「それで、クオンたちの様子はどうかな。昨日から何か変化はあった?」


 智希も椅子を引いて腰を下ろし、先ほどまでの軽い笑みを残しながら、良澄へ向き直った。


「うーん、特にはないかなぁ。朝も少し話してみたけど、やっぱり何かが引っ掛かってるみたい。ただ、それが何なのかまでは分からないって」

「ロウガも同じなのかな」

「うん。二人とも、危険が迫ってるって感じではないみたいなんだけどねぇ」


 智希は言葉を選びながら、昨日のクオンとロウガの様子を思い返した。

 二体とも、普段の振る舞いに大きな変化があったわけではない。食事も取っているし、落ち着きを失っている様子もなかった。

 それでも、ふとした瞬間に何かへ意識を向けるような仕草があり、問い掛けても明確な答えは返ってこなかった。

 彼ら自身にも、感じ取ったものの正体が分からないのだろう。


 それが厄介だった。

 クオンとロウガの感覚は、人間の五感だけでは説明できない部分がある。

 彼らにとっては確かな違和感でも、それを言葉に置き換えようとすると曖昧になってしまう。

 まして、何が原因なのかも分からないままでは、智希にも判断のしようがなかった。

 だからこそ、直接現地へ足を運ぶ意味があった。

 同じような感覚を覚えている神獣がいるのか。以前訪れたときと比べて、何か変わった出来事が起きていないか。

 あるいは、二体が知らない事情を現地の者たちが把握している可能性もある。


 良澄は智希の説明を聞きながら、手元のメモ帳へいくつか書き留めていた。

 時折、確認するように視線を上げるものの、途中で口を挟むことはない。

 話が終わると、記した内容を見直してからゆっくりと頷いた。


「それなら、やっぱり向こうで話を聞いてみるのがよさそうだね。体調の変化や行動の異常がないかも、確認しておきたいところだけど」

「そうだねぇ。良澄が一緒に来てくれるのは助かるよ」

「僕にできることがあれば、だけどね」

「いやいや、そういうところが頼りになるんだって」


 智希が笑うと、良澄は少し照れたように目を細めた。

 良澄の専門は医療に関わる分野だが、その知識は人間だけに向けられるものではない。

 少なくとも、智希が見落とすような身体の変化を見つけてくれる可能性は十分にあった。

 何より、原因が分からないからといって結論を急がず、一つずつ可能性を確かめようとする良澄の姿勢は、こういうときに頼もしい。


 一方、彰人は二人の話を聞きながら、机に置いた携帯電話を再び手に取っていた。

 画面を操作して連絡先を呼び出すと、顔を上げて智希と良澄を交互に見る。


「ほな、出発は予定どおりでええんやな。洋一さんにも連絡入れとくわ」

「うん。こっちは大丈夫だよ」


 智希が頷くと、彰人は短く返事をして、携帯電話へ視線を戻した。

 セレスティアも自分の持ち物を確認するように傍らのバッグへ手を添え、落ち着いた声で答える。


「はい。私も準備は整ってます」


 それを聞いた彰人は、連絡を打ち込みながら満足そうに頷いた。

 昨日のドッグランの話をしていたときとは違い、それぞれが自然と出発へ向けた準備に意識を移していく。

 誰かが大げさに号令を掛けるわけでもなく、必要なことを確かめ、足りないものがないかを確認する。

 その手際には、これまで共に行動してきた者同士の慣れが感じられた。


 そのときだった。


 窓の外で、何かが小さく動いた。

 智希はまだ気づいていなかったが、窓に近い位置に座っていたセレスティアが、ふと外へ目を向けた。

 視界の端に何かが映ったのだろう。けれど、そこにいた人物の姿を確かめると、声を掛ける代わりに、どこか楽しそうな笑みを浮かべた。


 ちょうど彰人が洋一への連絡を終え、携帯電話を机へ置いたところだった。

 良澄もメモ帳を閉じ、出発までに確認しておくことがないか考えている。

 智希はそんな二人の様子を眺めていたため、セレスティアの視線が窓へ向いたことには気づかなかった。


 窓ガラスの下端から、そっと何かが覗く。

 最初に見えたのは、窓枠へ掛けられた指先だった。

 続いて、慎重に様子をうかがうように頭が少しだけ持ち上がる。

 しかし、室内の誰とも目が合わなかったことを確認すると、その姿は再び窓の下へ引っ込んでしまった。

 セレスティアは思わず口元へ手を添えた。

 どうやら、何をしようとしているのか分かってしまったらしい。


 そして次の瞬間。


「わっ!」


 勢いよく顔を出した日和が、窓ガラス越しに両手を広げた。

 突然響いた声に、智希は肩を小さく跳ねさせて振り返った。窓の向こうには、してやったりと言わんばかりの笑顔がある。

 昨日、山のドッグランで犬たちと走り回り、夕食の席でも楽しそうに笑っていた少女が、今度は窓越しにこちらを覗き込んでいた。


「……日和?」


 予想外の場所に見慣れた顔を見つけ、智希が目を瞬かせる。

 その反応がよほど満足だったのか、日和は嬉しそうに笑った。


「ふふっ、びっくりした?」

「いやぁ、まさか窓から来るとは思わなかったねぇ」

「だって、普通に入ったら面白くないじゃない」


 日和は窓枠に手を掛け、悪戯を成功させた喜びを隠そうともせずに笑っていた。

 どうやら智希が部室へ入るところを見かけ、わざわざ建物の外側へ回り込んできたらしい。

 その行動力には呆れるしかないが、智希にとっては、いかにも彼女らしいと思える振る舞いでもあった。


「相変わらずだねぇ、日和は」

「それ、褒めてる?」

「もちろん。たぶんね」

「もう、そこはちゃんと褒めてよ!」


 頬を膨らませる日和に、智希は悪びれる様子もなく笑ってみせた。

 窓を一枚挟んでいるせいか、二人のやり取りは普段以上に妙な具合になっている。

 部室へ入ってくれば済む話なのに、日和はまだ窓の外にいたままで、智希もそれを指摘しようとはしない。

 そんな二人を見て、彰人が堪えきれずに笑い声を漏らした。


「何や日和ちゃん、昨日あんだけ一緒におったのに、今日も智希を驚かせに来たんか」

「違いますよ。たまたま見かけたから、ちょっと面白そうだなって思っただけです」

「それを驚かせに来た言うんちゃうんか?」

「そうとも言いますね」


 あっさり認めてしまった日和に、彰人はますます可笑しそうに笑った。

 良澄も困ったような、それでいて楽しそうな表情を浮かべている。

 セレスティアに至っては、先ほどから一部始終を見ていたこともあり、笑みを隠すつもりすらなさそうだった。


「日和さん、とても楽しそうでしたね」

「えっ、もしかして見えてました?」

「少しだけ、ですけれど」

「ええっ、だったら教えてくださいよ!」

「すみません。あまりにも楽しそうでしたので、つい」


 悪戯を見守られていたと知った日和は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 それでも、智希を驚かせるという当初の目的は達成できたのだから、特に不満はないらしい。

 智希はそんな彼女を眺めながら、昨日のことを思い返していた。

 日和は犬たちと遊ぶときも、何か面白いことを見つけるとすぐに行動へ移す。

 小春を誘って犬たちを追い掛けたり、恭平の様子を見て笑ったり、思いついたことをそのまま口にしたり。

 その明るさは周囲にも伝わり、気づけば誰もが彼女の調子に巻き込まれている。


 今日の悪戯も、そんな日和の延長にあるものなのだろう。

 けれど、窓越しに言葉を交わしていた日和の視線が、ふと室内へ移った。

 良澄、彰人、セレスティア。昨日も一緒に過ごした顔ぶれが揃っている。

 彼らが部室に集まっていること自体は珍しくないが、智希の椅子の脇に置かれたバッグだけは、普段と少し違っていた。


 日和はそれを見つめ、それから智希へ視線を戻した。

 悪戯を成功させたばかりの明るい笑みは残っている。

 それでも、何かを確かめたそうな眼差しに変わったことを、智希は見逃さなかった。


「ねえ、智希。今日は何かあるの?」


 窓の向こうから投げ掛けられた問いに、智希は少しだけ首を傾げた。

 答え方を考える、そのわずかな間にも、日和はじっとこちらを見つめていた。


 先ほどまでの悪戯っぽい笑みはまだ残っているものの、視線は時折、智希の足元に置かれた大きなバッグへ向けられている。

 彼女が何を気にしているのか、智希にも何となく分かっていた。

 昨日は皆で犬たちを連れて出掛け、帰ってからも夕食まで一緒に過ごしたばかりだというのに、今日はまた別の予定があるらしい。

 しかも、普段の講義へ出るだけなら必要のない荷物まで持ってきている。

 日和はそれを見て、またどこかへ行ってしまうのではないかと考えたのだろう。


「んー、ちょっと出掛けようと思ってねぇ」

「やっぱり。そんな大きなバッグ持ってるから、そうじゃないかと思ったんだ」


 日和は窓枠に置いていた手を離し、改めて智希の荷物へ目を向けた。

 声の調子はいつもどおり明るいが、そこには単なる好奇心とは少し違う響きが混じっている。


「どこへ行くの? 昨日みたいに犬たちと遊びに行くわけじゃないんでしょ?」

「まあ、そうだねぇ。今回は……クオンの故郷、かな」

「クオン?」


 聞き慣れない名前に、日和が不思議そうな顔をした。

 智希は口を開きかけたものの、すぐには言葉が続かなかった。

 クオンが誰なのかを説明するだけなら難しくない。

 けれど、彼女がどのような存在なのかを、日和が知っている言葉だけで説明しようとすると、途端に話がややこしくなる。

 普段からクオンと接している智希にとって、その存在は特別であると同時に、あまりにも当たり前のものだった。

 姿が見えないことも、言葉を交わせることも、彼女が人間とは異なる感覚を持っていることも、今さら意識するような事柄ではない。


 だが、日和にとっては違う。


「えーっと……どう説明したらいいんだろうねぇ」

「え、そんなに説明しにくいところなの?」

「場所というより、クオンの説明が難しいかなぁ」


 珍しく歯切れの悪い智希を見て、日和はますます興味を引かれたらしい。

 窓の外から身を乗り出すようにして、彼の顔を覗き込んでくる。

 その様子を眺めていた彰人は、何か言いたそうに口元を緩めたものの、結局何も言わなかった。

 椅子の背もたれに身体を預け直し、これから智希がどう切り抜けるのかを楽しみにしているようだった。

 一方、良澄は智希の困り顔を見て、静かにメモ帳を閉じた。


「日和さん、よかったら中へ入りませんか? 窓越しだと、少し話しにくいでしょう」

「あっ、そうですね。すみません、つい」


 自分がまだ建物の外にいることを思い出した日和は、照れくさそうに笑った。

 悪戯が成功したことに満足して、すっかりそのまま話し込んでいたらしい。


「じゃあ、ちょっと待っててね!」


 そう言い残すと、日和は窓の下へ姿を消した。

 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、智希は小さく息を吐く。


「……良澄、助かったような、そうでもないような」

「何が?」

「いやぁ、何でもないよ」


 良澄は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。

 代わりに机の上の資料を端へ寄せ、日和が座れる場所を作り始める。

 セレスティアも隣の椅子を引き、日和を迎える準備を整えた。

 やがて廊下から軽い足音が近づき、扉が勢いよく開いた。


「お邪魔しまーす!」

「窓から入ってこなかっただけ、まだ普通だねぇ」

「もう! 普通に入ってきたのに、何でそういうこと言うかなぁ」


 智希の軽口に日和は笑いながら言い返し、セレスティアに勧められた椅子へ腰を下ろした。

 昨日も一緒に過ごした顔ぶれだけに、改めて遠慮するような様子はない。

 それでも、机の上に広げられた資料や、いつもより大きな荷物には興味を隠せないようで、落ち着くとすぐに智希へ向き直った。


「それで、クオンって誰なの?」


 逃がしてはくれないらしい。

 智希は困ったように笑い、良澄へ視線を向けた。

 その意図を察した良澄は、少し考えてから口を開く。


「日和さんは、幻獣という言葉をご存じですか?」

「幻獣? ドラゴンとか、ユニコーンとか、そういう?」

「ええ。日本なら龍や麒麟、九尾の狐なども、一般にはそうした存在として知られていますね」


 良澄は日和の反応を確かめながら、急がずに言葉を重ねた。

 神話や伝承に登場する生き物の中には、実際の動物が誇張されて伝わったものもあれば、象徴として生み出されたものもある。

 けれど、それだけでは説明できない存在もいるのだという。

 人間の目に映らないこともあれば、特定の条件でしか姿を現さないこともある。

 人間とは異なる知性や力を持ち、長い年月を生きているものも少なくない。


「僕たちは、そうした存在の一部を神獣と呼んでいます。一般的な言葉に置き換えるなら、幻獣に近いと考えていただければ分かりやすいと思います」

「……えっと、それって、実際にいるってことですか?」

「はい。少なくとも、僕たちが知っている範囲では」


 良澄の返答はあまりにも穏やかで、日和は一瞬、どう反応すればいいのか分からなくなったようだった。

 彼女は超常現象の存在を頭から否定するつもりはない。

 世の中には、まだ科学で説明できないこともあるだろうし、昔から伝わる話のすべてが作り話だとも思っていなかった。

 けれど、知識としてそう考えることと、目の前の人から実在すると告げられることは、やはり違う。


「じゃあ、そのクオンっていうのも……?」

「うん。九尾の狐だよ」


 智希があっさり答えると、日和はゆっくりと彼の方へ顔を向けた。


「……九尾の狐?」

「そうそう。尻尾が九本ある狐」

「いや、それは分かるけど!」


 思わず声を上げた日和に、彰人がとうとう笑いを堪えきれなくなった。


「ははっ、そらそうなるわな。智希、お前の説明、間違うてへんけど雑すぎるで」

「だから難しいって言ったじゃない」

「せやけど、もうちょい何かあるやろ」


 彰人は楽しそうに笑っているだけで、説明を引き受ける気配はまるでない。

 智希はそんな彼を横目で見てから、少し考えるように天井を仰いだ。

 日和は二人のやり取りを聞きながらも、頭の中では別のことを考えているようだった。

 九尾の狐。昔話や神話に登場する存在が、本当にいるという。

 しかも、智希たちはその存在を知っているばかりか、これから故郷を訪ねようとしているらしい。


「……ねえ、もしかして、そのクオンって子、今ここにいたりする?」


 日和が声を潜めて尋ねると、智希は少しだけ目を細めた。


「いるよ。ずっとね」

「えっ?」


 日和は反射的に周囲を見回した。机の下、窓際、部室の隅。

 もちろん、そこに狐らしい姿は見当たらない。

 良澄やセレスティアも特に驚いた様子はなく、彰人に至っては相変わらず面白そうに眺めている。


「……見えないんだけど」

「普段は見えないからねぇ。クオン、ちょっといいかな?」


 智希が何もない空間へ声を掛けた。

 日和はその視線を追ったものの、やはり何も見えない。

 けれど次の瞬間、部室の空気がわずかに変わったような気がした。

 風が吹いたわけではない。窓も閉まっている。

 それなのに、何もなかった場所に、何か大きなものが存在しているような感覚が生まれた。


 日和は思わず背筋を伸ばした。

 智希の傍らで、淡い光がゆっくりと輪郭を結んでいく。

 最初に見えたのは、柔らかな毛並みだった。

 白を基調としながら、光の加減によって淡い金色を帯びる豊かな毛。

 その奥から、すらりとした四肢と美しい顔立ちが現れ、やがて九本の長い尾が、扇を広げるようにゆったりと姿を見せた。


 狐。


 確かに狐の姿をしている。

 けれど、日和がこれまで見てきたどんな狐とも違っていた。

 その身体には野生動物特有のしなやかさがありながら、どこか人間を見下ろすような気高さが宿っている。

 長い尾は一本一本が豊かな毛に覆われ、わずかに揺れるたび、陽射しを受けて柔らかく輝いた。

 整った顔立ちと澄んだ瞳は、単に美しいという言葉だけでは言い表せないほどの存在感を放っていた。


 日和は、しばらく声を出せなかった。

 驚いているのは間違いない。

 だが、その表情には恐怖よりも、目の前の存在を少しでも理解したいという強い好奇心が浮かんでいる。


「……すごい」


 ようやく零れた声は、普段の彼女からは想像できないほど小さかった。


「本当に……九本ある……」


 日和の視線が、ゆっくりとクオンの尾を追う。

 一本、二本と数えようとして、途中で重なり合う毛並みに目を奪われ、結局数えることを忘れてしまった。

 神話の中から抜け出してきたような姿なのに、目の前にいるのは確かに生きている存在なのだと、呼吸に合わせた身体の動きが教えてくれる。

 クオンはそんな日和を静かに見つめていた。

 智希から彼女の話は聞いている。昨日も、姿を隠したままではあったが、犬たちと遊ぶ日和の様子を見ていた。

 動物へ向ける視線に打算はなく、相手が何を望んでいるのかを知ろうとする姿勢も悪くない。


 そして何より、智希が彼女をどう思っているのかも、クオンには何となく分かっていた。

 普段は飄々としている青年が、日和のこととなると妙に歯切れが悪くなる。

 その理由まで理解しているからこそ、クオンは二人の関係へ不用意に口を挟むつもりはなかった。


 ただ、少しくらい手を貸してやってもよいだろうとは思っていた。

 クオンはゆっくりと頭を下げ、日和の方へ一歩近づいた。


「……え?」


 日和は思わず小さく声を漏らし、差し出しかけていた手を止めた。

 目の前の九尾の狐が、自分の方へ歩み寄ってきたのだ。

 その動きは、日和が知っている狐のそれとは少し違っていた。

 足音をほとんど立てず、柔らかな毛並みを揺らしながら近づいてくる姿には、野生動物らしいしなやかさがある。

 けれど、こちらを見つめる瞳には、動物の警戒心とも好奇心とも異なる、何かを理解したうえで行動しているような落ち着きがあった。


 クオンは日和の手が届くところまで来ると、静かに足を止めた。

 九本の尾がゆるやかに揺れ、そのうちの一本が隣の尾へ重なる。

 白を基調とした毛並みは、窓から差し込む陽射しを受けるたび、淡い金色を帯びて見えた。

 日和はその姿を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 動物と接するとき、相手が何を考えているのかを知ろうとするのは、彼女にとって自然なことだった。

 犬であれば耳や尾の動き、身体の緊張、視線の向け方から、ある程度の気持ちは読み取れる。

 猫ならまた違うし、野生動物には不用意に近づかないことも大切だと知っている。


 けれど、今目の前にいる相手には、そのどれを当てはめればいいのか分からない。

 狐の姿をしているのに、人間よりもずっと長い時間を生きてきたような眼差しをしている。

 そのことが、日和を少しだけ緊張させていた。


「……触っても、いいの?」


 問い掛けた声は、思っていたよりも小さくなった。

 クオンは日和を見つめたまま、わずかに頭を傾けた。それから、彼女の伸ばしかけた手へ自分の額を近づける。

 まるで、答えを言葉にする代わりに、触れる場所を教えているかのようだった。

 日和は驚いて智希を振り返った。


「……いいってこと?」

「そうだねぇ。クオンが嫌なら、そもそも近づいてこないと思うよ」

「そっか……」


 日和はもう一度クオンへ向き直り、今度はゆっくりと手を伸ばした。

 指先が、額の毛に触れる。

 最初は、ほんの少しだけ。

 相手が身を引かないことを確かめてから、指を揃え、毛並みに沿ってそっと撫でた。


「……わぁ」


 思わず漏れた声には、驚きと感嘆が入り混じっていた。


 柔らかい。


 けれど、ただ柔らかいというだけではなかった。

 指先が触れた表面は絹糸のようになめらかで、その下には細かな毛が幾重にも重なっている。

 少しだけ手のひらを沈めると、密度のある毛並みが指の間を満たし、離せば何事もなかったようにふわりと元へ戻った。

 日和は一度手を離し、自分の指先を見つめた。

 それから、もう一度クオンに触れる。


「……すごい。こんな毛並み、初めて……」


 今度は額から頬のあたりへ、毛の流れを確かめるように撫でていく。

 クオンは嫌がる様子を見せず、日和の手の動きに合わせて、わずかに顔の角度を変えた。

 その仕草に気づいた日和は、嬉しそうに目を細める。


「ちゃんと、こっちのこと分かってるんだね」

「まあ、クオンは人間の言葉も分かるからねぇ」

「そういう意味じゃなくて」


 日和はクオンから目を離さずに答えた。


「私がどう触ろうとしてるか、分かってくれてる気がするの。こっちが遠慮してるのも、たぶん」


 智希は少しだけ目を見開いた。

 クオンは何も答えなかったが、その瞳がわずかに細められたのを、智希は見逃さなかった。

 日和はクオンの頬から手を離すと、今度は少し離れた位置から全身を眺め始めた。


「それにしても……本当に綺麗だね」


 九本の尾がゆっくりと揺れている。

 それぞれが独立して動いているようにも見えるのに、互いにぶつかったり絡まったりすることはない。

 大きく広がったかと思えば、次の瞬間には自然に重なり、身体の周囲へ収まっていく。

 日和はその動きを追いながら、首を傾げた。


「ねえ、尻尾って、全部自分で動かせるの?」

「うん。そうみたいだねぇ」

「一本ずつ?」

「一本ずつだね」

「……すごい」


 感心しきった声に、彰人が吹き出した。


「日和ちゃん、そこが気になるんか」

「気になるよ! だって、犬でも猫でも尻尾は一本でしょ? 九本もあったら、どうやって動かしてるのかなって」

「まあ、言われてみたらそうやな」


 彰人は笑いながらクオンの尾へ目を向けた。

 それを聞いていたクオンは、何を思ったのか、九本の尾を一度ゆっくりと持ち上げた。

 日和の目が丸くなる。

 扇のように広がった尾は、少しずつ異なる方向へ動き始めた。一本は右へ、別の一本は左へ。

 上へ伸びた尾が緩やかに弧を描く一方で、足元に近い尾は床すれすれを滑るように揺れている。

 その動きは複雑なのに、どこにも無理がなかった。


「……ええっ、すごい! 本当に一本ずつ動いてる!」


 日和は思わず身を乗り出した。

 クオンはその反応を確かめるように、尾の動きを少しだけ変える。

 すると、一本の尾が日和の横へ回り込み、ふわりと彼女の腕に触れた。


「わっ!」


 驚いた日和が振り返る。

 目の前には、先ほどよりもずっと豊かな毛に覆われた尾があった。

 クオンはそれを引っ込めるでもなく、日和の傍らでゆっくりと揺らしている。


「……これも、触っていいの?」


 日和が尋ねると、クオンは静かに目を細めた。

 日和は一度だけ深呼吸してから、そっと両手を添えた。

 そして、触れた瞬間に言葉を失った。

 額や頬の毛とは、また違う。

 長く柔らかな毛が幾重にも重なり、両手で包んでもなお余るほどの豊かさがある。

 指を差し込めば奥まで沈み込んでいくのに、毛並みそのものは驚くほど軽く、ふわりとした感触が手のひらを包んだ。


「……なに、これ……」


 日和は呆然と呟いた。

 それから、堪えきれなくなったように笑顔を浮かべる。


「すっごい……! こんなの、反則だよ……!」


 思わず尾へ顔を近づけかけ、日和は途中でぴたりと止まった。


「あっ、ごめん。嫌だった?」


 クオンは逃げなかった。

 それどころか、尾をわずかに持ち上げ、日和の頬へ柔らかく触れさせる。

 日和は驚いて瞬きをしたあと、嬉しそうに笑った。


「……ありがとう」


 その声は、先ほどまでよりもずっと柔らかかった。

 日和は尾を引っ張らないように気をつけながら、両手でそっと毛並みを整えるように撫で始めた。

 夢中になっているのは間違いないが、手つきに乱暴さはない。

 毛の流れに逆らいそうになると一度手を止め、クオンの様子を確かめてから撫でる方向を変えている。


 クオンはその一つ一つを静かに受け入れていた。

 昨日、犬たちに接していたときもそうだった。

 日和は、動物が自分の思いどおりに動くことを求めない。

 相手が何を嫌がり、何を喜ぶのかを知ろうとする。

 その姿勢は、クオンにとっても好ましいものだった。


 もっとも、彼女が日和へここまで寛容なのには、もう一つ理由がある。

 智希は、自分の気持ちを隠すのが上手い。

 普段は誰に対しても飄々としていて、何を考えているのか分からないように振る舞っている。

 けれど、長く傍らにいるクオンには、その笑みの奥で何を躊躇っているのか、何となく察しがついていた。

 日和が智希を見つめる視線も、智希がそれを受け流すときのわずかな間も、クオンは見ている。

 だからといって、二人の間へ割って入るつもりはない。

 ただ、智希が大切に思っている相手なら、自分も少しくらい甘やかしてやってよいだろう。

 クオンは日和の手元を見つめながら、ゆったりと尾を揺らした。


「……クオン」


 智希が、どこか呆れたような声を掛けた。


「何だか随分、サービスがいいねぇ」


 クオンは智希へ視線を向けた。

 その瞳は穏やかだったが、どこか面白がっているようにも見える。

 智希はしばらく見つめ返していたものの、やがて小さく肩を落とした。


「……いや、いいんだけどねぇ」


 その様子を見ていた彰人が、声を押し殺して笑った。


「何や、智希。クオンが日和ちゃんに懐かれとるんが気になるんか?」

「そういうわけじゃないよ」

「ほな、ええやん」

「……彰人、面白がってるでしょ」

「そらもう」


 悪びれもせずに答える彰人を見て、セレスティアが小さく笑った。

 良澄も二人のやり取りに微笑みながら、クオンと日和へ目を向けている。

 部室の中には、先ほどまでの説明をしていたときとは違う、穏やかな空気が流れていた。

 やがて日和は、名残惜しそうに尾から手を離した。

 クオンが尾を戻そうとすると、日和はもう一度だけその毛並みを撫で、それから両手を膝の上へ戻した。


「……ありがとう、クオン」


 日和がそう告げると、クオンは静かに頭を下げた。

 その仕草は、単に声へ反応したというより、日和の言葉を理解したうえで応えているように見えた。

 長い尾がゆっくりと揺れ、豊かな毛並みが陽射しを受けて柔らかく輝く。


 日和は膝の上へ戻した手を見つめた。

 指先には、まだ柔らかな毛並みの感触が残っているようだった。

 九尾の狐。初めてその姿を見たときは、神話の中の生き物が目の前にいるという驚きでいっぱいだった。


 けれど、触れ合っているうちに、別のことが気になり始めていた。

 自分が迷えば、クオンはそっと頭を寄せてくれた。尾に興味を示せば、一本ずつ動かして見せてくれた。

 毛並みに夢中になっているときも、彼女はこちらの反応を確かめながら付き合ってくれていた。

 犬や猫と接するときにも、相手の気持ちを考えることはある。

 けれど、クオンの場合は、まるでこちらの考えを先回りしているようだった。

 日和は顔を上げ、穏やかに座っているクオンを見つめた。


「……ねえ、智希」

「ん?」

「クオンって、私が何を考えてるのか、分かってたのかな」


 智希は少しだけ首を傾げた。


「全部ってわけじゃないだろうけど、ある程度は分かってたんじゃないかなぁ」

「……やっぱり、そうなんだ」


 日和はクオンへ目を向けた。

 クオンはその視線を受け止め、静かに目を細めている。


「私ね、最初はすごく珍しい動物に会えたみたいな気持ちだったの。九尾の狐なんて、昔話の中にしかいないと思ってたし、実際に見られるだけでも信じられなかったから」


 日和は少し照れくさそうに笑った。


「でも、触ってるうちに、何だか違うなって思って。こっちが遠慮してると、クオンの方から近づいてくれたり、尻尾を見てたら動かしてくれたり……」


 そこまで言って、日和はふと口を閉じた。

 自分が何を感じたのか、上手く説明できないらしい。

 しばらく考え込んだあと、もう一度クオンを見つめた。


「……何ていうのかな。私がクオンを見てるだけじゃなくて、クオンも私を見てくれてたんだなって」


 その言葉に、智希はわずかに目を細めた。

 クオンは相変わらず穏やかな様子で座っている。

 けれど、その瞳には日和の言葉を聞いていることが、はっきりと表れていた。


「それって、普通の動物と接するときも同じじゃない?」


 智希がそう尋ねると、日和はすぐには答えず、膝の上に置いた手を見つめた。

 確かに、智希の言うとおりだった。犬も猫も、人間の言葉をすべて理解しているわけではない。

 それでも、こちらの様子を窺い、自分なりに考えて行動している。

 人間が一方的に何かをしてやるのではなく、互いに相手を見ながら距離を測っていくものなのだと、日和はこれまでの経験から知っていた。


 昨日、ドッグランで遊んだ犬たちの姿が頭に浮かぶ。

 遊びに誘うように前脚を低く構えた子もいれば、少し離れた場所から皆の様子を眺めていた子もいた。

 同じ場所にいても、何を楽しいと感じ、どのように人へ近づくかは、それぞれ違っていた。

 日和はそんな違いを見つけるのが好きだった。

 相手が何を考えているのか、すべて分かるわけではない。けれど、注意深く見ていれば、少しずつ伝わってくるものがある。

 クオンに対しても、最初はそうしようとしたのだ。


「……うん。そうだと思う」


 日和はゆっくりと頷いた。


「犬だって猫だって、ちゃんとこっちのことを見てるし、自分で考えて動いてるから」


 そう言いながら、彼女はクオンへ視線を向けた。

 クオンは変わらず穏やかな様子で座っている。九本の尾は先ほどよりも落ち着いた動きになり、豊かな毛並みを重ねるようにして身体の周囲へ収まっていた。

 日和が見つめていると、そのうちの一本がゆっくりと持ち上がる。

 まるで、こちらの視線に気づいたかのようだった。

 日和は思わず小さく笑った。


「……でも、何だか少し違うんだよね」


 自分でも上手く説明できない感覚だった。

 クオンは確かに狐の姿をしている。身体のつくりも、毛並みも、尾の動きも、動物としての特徴を持っている。

 けれど、日和が尻尾に興味を示したとき、クオンはそれを察して一本ずつ動かして見せてくれた。

 触れてもよいか迷っていると、自分から近づいてきた。夢中になって毛並みを撫でているときでさえ、こちらの反応を楽しんでいるような気配があった。

 その一つ一つを思い返すと、単に人へ慣れた動物と接しているときの感覚とは、やはりどこか違っていた。

 日和は少し考え込んだあと、クオンの目を見つめた。


「……私が何を聞きたいのか、分かってたんだよね」


 クオンは静かに目を細めた。

 その反応に、日和はふと気づく。

 自分は今、クオンに話し掛けている。

 智希や良澄へ質問するのではなく、目の前の相手へ直接、言葉を向けているのだ。

 先ほどまでは、クオンの姿や毛並みに気を取られていた。

 けれど、今はその瞳を見つめながら、相手が何を考えているのか知りたいと思っている。

 そしてクオンもまた、日和の言葉を聞き、その意味を理解したうえで応えているように見えた。


「……そっか」


 日和は小さく呟いた。


「何だか、人と話してるみたいだったんだ」


 その言葉を聞いて、智希はわずかに目を細めた。

 クオンは相変わらず穏やかな様子で日和を見つめている。けれど、その視線には、彼女の言葉を受け止めたような柔らかさがあった。

 良澄も二人の様子を見守っていたが、日和がクオンの瞳から目を離さないことに気づくと、静かに口を開いた。


「そうですね。クオンは僕たちの言葉を理解していますし、自分の意思で物事を判断していますから」


 日和は良澄へ顔を向けた。

 良澄はクオンを見ながら、少しだけ微笑んだ。


「ただ、人間と同じように考えているとは限りません。生きてきた時間も、持っている感覚も違いますから。僕たちには分からないことを、彼女たちの方がよく理解している場合もあります」


 日和はその言葉を聞きながら、再びクオンへ目を向けた。

 目の前にいる存在は、自分たちと同じように考え、判断している。けれど、だからといって、人間とまったく同じではない。

 その違いが、日和には不思議と魅力的に思えた。

 クオンがどのように世界を見ているのか。

 人間の言葉を理解するとき、どんなふうに考えているのか。

 九本の尾を動かすことは、彼女にとってどれほど自然なことなのか。

 考え始めると、知りたいことが次々と浮かんでくる。

 けれど、それをすべて尋ねるわけにもいかない。

 日和は少し照れくさそうに笑い、クオンへ向けて小さく頭を下げた。


「……何だか、いろいろ聞きたくなっちゃうね」


 クオンはその言葉を聞くと、ゆっくりと尾を揺らした。

 その仕草が、まるで日和の好奇心を面白がっているように見えて、彼女はまた笑みを零した。

 良澄はそんな二人を見ながら、穏やかな声で続けた。


「神獣たちにも、それぞれの暮らしがあります。種族によって生活の仕方は違いますが、家族や仲間と過ごし、互いに助け合いながら生きているんですよ」


 日和はその言葉に、ふと表情を変えた。


 家族。


 その響きは、目の前のクオンを、さらに身近な存在として感じさせるものだった。

 日和はクオンの顔を見つめた。

 この美しい九尾の狐にも、帰る場所があるのだろうか。

 家族と過ごす時間があり、仲間たちと交わす言葉があり、何気ない日常があるのだろうか。

 先ほどまで、九尾の狐という存在そのものに驚いていた。

 けれど今は、その向こう側にある暮らしのことが気になっていた。

 クオンがどこで生まれ、どんな場所で育ち、どのような仲間たちと過ごしてきたのか。

 想像しようとしても、分からないことばかりだった。

 それでも、目の前のクオンが自分と同じように誰かを大切に思い、誰かから大切にされているのかもしれないと考えると、不思議と胸が温かくなった。


「……ねえ、智希」

「ん?」

「クオンの故郷って、どんなところなの?」


 智希は少し考え、椅子の背もたれに身体を預けた。


「そうだねぇ……人間の街とは、ちょっと違うかな。クオンみたいな神獣たちが暮らしている国なんだけど、姿も大きさも、種族によって随分違うしねぇ」


 日和は智希の言葉を聞きながら、頭の中でその景色を思い描こうとした。

 けれど、どれほど想像しても、九尾の狐が当たり前のように暮らす国というものが、上手く形にならない。

 クオンのような狐が何体もいるのだろうか。それとも、まったく違う姿の神獣たちが、同じ場所で暮らしているのだろうか。

 人間の街と違うというなら、家や道も、彼らの身体に合わせたつくりになっているのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、日和の表情は少しずつ明るくなっていった。


「クオンみたいな子が、ほかにもいるの?」

「いるよ。もちろん、みんなが狐ってわけじゃないけど」


 智希がそう答えると、日和は再びクオンへ目を向けた。

 たった一体の神獣に出会っただけで、これほど驚き、知らなかったことを知ることができた。

 その故郷には、まだ自分が想像もできないような存在が、たくさん暮らしているのだろう。

 そう考えると、胸の奥から湧き上がってくる好奇心を抑えられなかった。


「……すごいね」


 日和は小さく呟いた。

 九尾の狐が一体いるだけでも、まだ夢を見ているような気持ちなのに、そうした存在が暮らす国まであるという。

 そこにはどんな景色が広がっているのだろう。

 どんな姿の神獣がいて、どのように暮らし、互いに関わっているのだろう。

 動物の姿をしている者もいれば、人間に近い姿の者もいるのかもしれない。

 言葉を交わすこともできるのだろうか。

 人間の街と同じように家があり、道があり、そこで暮らす者たちの日常があるのだろうか。


 知りたいことが、次々と浮かんでくる。

 日和はその一つ一つを尋ねかけたが、ふと、智希の足元に置かれたバッグが目に入った。


 そうだった。

 彼らは、これからそこへ行くのだ。

 昨日も一緒に過ごしたばかりなのに、今日の智希は、また自分の知らない場所へ向かおうとしている。

 それが特別な世界だと知った今、日和の胸には好奇心だけでなく、別の感情も湧き上がっていた。


 自分の知らない智希の一面。

 自分にはまだ見えていない、彼の日常。

 そのすべてを知りたいなどとは思わない。誰にだって、簡単には話せないことがあるのだろう。

 それでも、少しくらいは近づいてみたい。

 彼が見ているものを、自分も見てみたい。

 日和は膝の上で両手を重ね、少しだけ姿勢を正した。


「……私も、行ってみたいな」


 その言葉に、智希の笑みがわずかに止まった。


「……日和?」

「クオンの故郷。私も一緒に行ってみたい」


 今度は、はっきりと口にした。

 智希はすぐには答えなかった。

 日和が興味を持つことは、予想できなかったわけではない。

 動物が好きな彼女なら、クオンのような存在を知れば、その暮らしや仲間たちに興味を抱くのは自然なことだ。

 それでも、実際に同行を望まれると、簡単には頷けなかった。


「……うーん。今回は、遊びに行くわけじゃないんだよねぇ」

「うん。それは分かってるよ」

「向こうで、ちょっと調べたいことがあってね。何が起きてるのか、まだはっきりしてないんだ」


 日和は智希の言葉を聞き、すぐに返事をしなかった。

 先ほどまでの弾んだ表情を少しだけ落ち着かせ、机の上の資料へ目を向ける。

 良澄が広げていたものも、智希が持ってきた荷物も、ただの観光のためではないのだろう。

 それくらいは分かる。


「……危ないことなの?」


 日和の問い掛けに、智希はすぐには答えなかった。

 先ほどまでクオンの毛並みに夢中になっていた彼女は、今は机の上の資料や、壁際に置かれた荷物へ目を向けている。

 普段の大学生活では見慣れない装備が、単なる遠足ではないことを物語っていた。

 智希の大きなバッグだけでなく、良澄たちが用意している荷物も、ちょっとした外出には似つかわしくない。


 日和は、その理由を知りたがっている。

 好奇心だけでついていこうとしているわけではないのだと、智希にも分かった。


「今のところ、そういう話ではないかなぁ。ただ、何が起きているのか、まだはっきりしていないんだよねぇ」


 智希はなるべく普段と変わらない調子で答えた。

 けれど、最後の言葉を口にしたとき、ほんの少しだけ視線がクオンへ向いた。

 クオンは静かに座ったまま、二人のやり取りを見守っている。

 昨日から彼女が感じている違和感は、まだ輪郭を持たないものだった。

 危険が迫っていると断言できるほどの根拠はなく、かといって、何も起きていないと決めつけることもできない。

 だからこそ、現地へ行って確かめる必要がある。


 智希が日和へ視線を戻すと、彼女は少し考え込むように唇を結んでいた。

 危険ではないと言い切ってもらえなかったことに、不安がないわけではないのだろう。それでも、すぐに同行を諦める様子はなかった。

 日和はクオンへ目を向けた。

 つい先ほどまで触れていた九本の尾が、ゆったりと身体の周囲へ広がっている。

 初めて姿を見たときには、神話の中から抜け出してきたような美しさに圧倒された。

 けれど、触れ合い、こちらの言葉を理解してもらった今は、その姿を見ても、ただ珍しい存在だとは思わなくなっていた。


 クオンには、故郷がある。

 家族や仲間がいて、そこで暮らしてきた時間がある。

 そして今、その故郷で何かが起きているかもしれないから、智希たちは確かめに行こうとしている。

 そう考えると、先ほどまで胸を満たしていた好奇心にも、少し違う意味が生まれてきた。

 日和は膝の上で重ねていた手をほどき、もう一度智希を見た。


「……それでも、行ってみたい」


 声は小さかったが、そこに迷いはなかった。

 智希は彼女の顔を見つめた。

 日和が何かを決めるとき、普段の明るさが消えるわけではない。

 ただ、いつもの悪戯っぽい表情の奥に、簡単には引かない強さが現れる。

 昨日、犬たちと遊んでいたときにも、気になることがあれば自分から確かめようとしていたし、クオンに触れるときも、相手の反応を見ながら一歩ずつ近づいていた。

 今も、同じなのだろう。


 知らないからこそ、知りたい。

 ただし、知らないままで踏み込んでよいとは思っていない。

 その違いを、智希は彼女の表情から感じ取っていた。


「……日和」


 名前を呼んだところで、智希は一度言葉を止めた。

 何を伝えるべきなのか、頭の中ではいくつもの言葉が浮かんでいる。

 知らない土地だから、何があるか分からないから、今回は調査だから。

 どれも嘘ではないし、日和に説明する理由としては十分なはずだった。

 けれど、そのどれを口にしても、智希が本当に躊躇っている理由には届かない。

 自分たちが関わる世界には、穏やかな日常もあれば、そうではないものもある。

 昨日のように、犬たちと遊んで笑っていられる時間を、日和には大切にしてほしかった。

 自分がどこへ行き、何をしているのかを知らなくても、彼女の日常は続いていく。それでよいのではないかと、智希はどこかで考えていた。


 けれど、目の前の日和は、自分の意思でその境界へ近づこうとしている。

 彼女が何も知らないから守ってやらなければならないのか。それとも、知ろうとする彼女の意思を尊重するべきなのか。

 智希はその答えを、簡単には選べなかった。


 日和は、彼が何かを言いかけて止めたことに気づいていた。

 いつもなら、智希はもっと簡単に話を逸らしてしまう。冗談めかした言葉で煙に巻かれることもあれば、いつの間にか別の話題へ移っていることもある。

 けれど今は、そうしたいつもの調子が少しだけ崩れていた。

 日和はそれを見て、無理に答えを急がせることはしなかった。

 代わりに、ゆっくりと言葉を選んだ。


「私ね、クオンに会えて、本当に嬉しかったの」


 日和は一度クオンへ目を向け、それから智希へ視線を戻した。


「今まで、こういう存在が本当にいるなんて知らなかったし、触れることができるとも思ってなかった。でも、クオンは私のことをちゃんと見てくれたし、こっちの気持ちも分かってくれた。だから、ほかの神獣たちがどんなふうに暮らしてるのか、もっと知りたいって思ったんだ」


 そこまで話した日和は、少しだけ照れくさそうに笑った。

 自分の好奇心を、智希に説明すること自体は難しくなかった。

 けれど、それだけでは伝えきれない気持ちがあることも、彼女自身が分かっていた。

 智希は時々、何の前触れもなく遠くへ行ってしまう。

 どこで何をしているのか、聞けば答えてくれることもあるけれど、肝心なところは曖昧なままになっていることが多い。

 彼が自分に悪意を持って隠しているわけではないことも、何となく理解していた。

 だから、無理に問い詰めたことはない。

 それでも、知らない場所へ向かう彼の背中を、ただ見送ることしかできないのは、少し寂しかった。


「……それに、智希が普段どんなところへ行ってるのか、少しくらいは知りたいなって」


 日和はそう言って、彼の反応を窺った。


「全部教えてほしいわけじゃないよ。言えないこともあるんだろうし、無理に聞こうとは思ってない。でも、今日みたいに一緒に行けるなら……行ってみたい」


 言い終えたあと、日和は小さく息を吐いた。

 普段なら、もう少し軽い調子で伝えられたかもしれない。けれど、今は冗談にしてしまいたくなかった。

 智希は、しばらく何も言わなかった。

 日和が自分に向けている気持ちには、以前から気づいている。だからこそ、彼女の言葉に含まれた意味も、聞き間違えることはなかった。

 そして、その気持ちを受け取ることが嫌なわけでもない。

 むしろ、彼女が自分を知ろうとしてくれることを、嬉しく思っている自分がいる。

 そのことが、余計に智希を困らせていた。


 クオンは二人の様子を静かに見守っていた。

 日和が話している間も、智希が言葉を探している間も、彼女は何も口を挟まなかった。

 ただ、日和の傍らへ寄せていた尾をゆっくりと動かし、彼女の手元へ柔らかな毛先を触れさせた。

 日和は驚いてクオンを見たが、その穏やかな瞳に気づくと、そっと毛並みへ手を添えた。

 まるで、緊張している彼女を気遣っているかのようだった。


 智希はその様子を見て、思わず苦笑した。

 クオンが何を考えているのか、すべて分かるわけではない。けれど、今の彼女が日和に味方していることくらいは、十分に伝わってくる。

 しかも、日和をただ甘やかしているわけではない。

 自分の意思で何かを決めようとしている相手を、静かに見守っているのだ。

 智希は視線を落とし、考え込むように指先で椅子の肘掛けをなぞった。

 その様子を見ていた良澄が、ゆっくりと口を開いた。


「……僕は、日和さんに一緒に来てもらってもいいと思うよ」


 智希が顔を上げる。

 良澄はすぐに言葉を続けることはせず、机の上に置かれた資料へ目を向けた。


 今回の調査について、まだ分かっていることは少ない。

 クオンたちが感じた違和感が何に由来するのか、現地でどのような出来事が起きているのか、それを確かめることが第一の目的だった。

 もし明確な危険が予想されているのであれば、同行者を増やす判断は慎重にするべきだろう。

 けれど、現時点では、神獣国家を訪れて話を聞くこと自体に大きな危険があるとは考えにくい。


 それに、日和の様子を見ている限り、好奇心に任せて無茶をするようにも思えなかった。

 クオンに触れるときも、相手の反応を確かめながら慎重に距離を縮めていた。

 良澄が説明した神獣の性質についても、ただ驚くだけでなく、自分なりに理解しようとしていた。

 そうした姿勢は、未知の場所を訪れるうえでも大切なものだと、良澄は考えていた。


「もちろん、何も考えずに連れていっていいという意味じゃないよ」


 良澄は智希へ向き直り、穏やかな声で続けた。


「ただ、今回は戦いに行くわけじゃないし、まずは現地の人たちから話を聞くことが目的だからね。日和さんが一緒に来たとしても、最初から調査に支障が出るとは思わないんだ」


 智希は腕を組み、良澄の言葉を聞いていた。

 良澄の判断が、単に日和の希望を優先したものではないことは分かる。

 彼は普段から、感情だけで物事を決めることはしない。

 相手の意思を尊重しながらも、必要な条件を一つずつ確かめ、そのうえで判断する。

 だからこそ、智希も簡単には反論できなかった。

 良澄はそこで日和へ視線を移した。


「日和さん。向こうには、クオンのように穏やかな神獣もいれば、見た目だけでは性質の分からない種族もいます。人間とは違う習慣や考え方を持つ人たちもいるでしょう」


 日和は真剣な表情で頷いた。

 先ほどクオンに触れたときのことを思い返す。

 クオンが自分を受け入れてくれたからといって、ほかの神獣たちも同じとは限らない。

 犬や猫でさえ、それぞれに性格があり、好む距離感も違うのだ。

 まして、これから向かうのは、今まで存在すら知らなかった国なのだから。


「だから、興味があっても、勝手に近づいたり触れたりしないこと。分からないことがあれば、まず僕たちに聞いてください。それを守っていただけるなら、僕は同行してもらっても構わないと思っています」


 良澄の言葉は、日和にとって決して難しいものではなかった。

 むしろ、動物と接するときに普段から心掛けていることに近い。相手を尊重し、無理に距離を詰めず、分からないことがあれば知ろうとする。

 ただ、今回はそれを、動物だけでなく、そこに暮らす人々すべてに対して守る必要があるのだろう。

 日和は少し考えたあと、背筋を伸ばした。


「……分かりました。勝手なことはしません。分からないことがあったら、ちゃんと聞くようにします」


 良澄はその返事を聞き、穏やかに微笑んだ。

 言葉だけで約束することは簡単だ。

 けれど、日和がこれまで見せてきた態度を考えれば、その約束を守ろうとする意思は十分に感じられた。


「それなら、僕からは反対しません」


 日和の表情が少しだけ明るくなった。

 けれど、すぐに智希へ目を向ける。

 良澄が認めてくれたとしても、智希がどう考えるかは別だ。

 彼が何を心配しているのか、すべて分かるわけではないが、簡単に頷けない理由があることくらいは理解している。


 だからこそ、日和は返事を急かさなかった。

 智希はそんな彼女の様子を見ながら、考え込んでいた。

 良澄の判断は妥当だと思う。日和も、ただ好奇心に任せて同行しようとしているわけではない。

 クオンも彼女を受け入れているし、現地での行動についても、必要な注意は伝えられた。

 それでもなお残る躊躇いは、日和の問題ではなく、自分自身の問題なのだろう。

 智希はそのことを、薄々理解し始めていた。

 彼女を守りたいと思う気持ちと、彼女の意思を尊重したいと思う気持ち。

 その二つが、必ずしも同じ方向を向くとは限らない。

 日和は自分の意思で、知らない世界へ踏み出そうとしている。その選択を、智希が勝手に否定してよいのだろうか。

 智希は小さく息を吐いた。


「……困ったねぇ」

「ははっ! しゃーないわ、智希。諦めぇ」


 その呟きを聞いて、それまで黙っていた彰人が、とうとう声を上げて笑った。

 楽しそうな彰人を見て、智希はあきれたように言葉を返す。


「……彰人まで」


 彰人は椅子の背もたれから身体を起こし、笑みを浮かべたまま智希を見返した。

 先ほどから、智希が日和の言葉にどう答えるのかを面白そうに眺めていた。

 普段は何を言われても軽く受け流す智希が、ここまで真剣に考え込んでいる姿は、彰人にとっても珍しいものだった。


 けれど、単に面白がっているだけではない。

 日和が何を望んでいるのかも、智希が何を心配しているのかも、ある程度は理解している。

 だからこそ、必要以上に口を挟まず、二人が自分たちの言葉で話すのを待っていたのだ。


「いや、ここまで来たらもう決まりやろ。日和ちゃん、自分で考えて行きたい言うてるし、良澄も大丈夫やろって判断しとる。お前が何を心配しとるんかは知らんけど、いつまでも悩んどってもしゃーないで」


 彰人はそう言って、楽しそうに肩をすくめた。

 智希はしばらく彰人を見つめていたが、やがて小さく笑った。

 確かに、これ以上考え続けても、簡単に答えが出るわけではない。

 日和を連れていくことに不安がないと言えば嘘になる。けれど、その不安を理由に彼女の意思を否定することが、本当に正しいとも思えなかった。

 それに、もし何かが起きたとしても、彼女を守るためにできることはある。

 智希は日和へ向き直った。


「……本当に、行きたいんだねぇ」


 日和は迷わず頷いた。

 その表情には、先ほどまでの興奮とは違う、落ち着いた決意があった。


「うん。自分で決めたことだから」


 智希はその答えを聞き、しばらく彼女を見つめていた。

 やがて、いつもの少し掴みどころのない笑みが、ゆっくりと戻ってくる。


「……分かったよ」


 日和の顔がぱっと明るくなった。


「本当?」

「うん。ただし、約束は守ってね。勝手にどこかへ行かないことと、何かあったら必ず僕たちに言うこと。それから、向こうで状況が変わったら、予定を変更することもあるからねぇ」


 日和は真剣な表情で頷いた。


「分かった。約束する」


 智希はその返事を確かめてから、ようやく肩の力を抜いた。

 日和が嬉しそうに笑うのを見ていると、これでよかったのかもしれないと思えた。

 もちろん、すべての不安が消えたわけではない。

 それでも、彼女が自分の意思で選んだことを、今は尊重したかった。

 日和は智希へ礼を言うと、すぐにクオンの方へ振り返った。


「クオン、私も一緒に行けることになったよ!」


 クオンは静かに目を細め、九本の尾をゆっくりと揺らした。

 そのうちの一本が日和の方へ伸び、彼女の手元へ柔らかな毛並みを寄せる。

 日和は嬉しそうに笑い、そっとその尾へ手を添えた。

 クオンは何も言わなかったが、その仕草には、まるで最初からこうなることを分かっていたかのような余裕があった。

 智希はその様子を見て、苦笑した。


「……クオン、もしかして最初からこうなると思ってた?」


 クオンは答えなかった。

 ただ、日和を見守るように穏やかな瞳を向けている。

 その姿は、まるで子供の成長を静かに見届ける母親のようだった。

 彰人はそれを見て、また楽しそうに笑った。


「ほらな。クオンまで歓迎しとるやん」

「……まったく、みんなしてねぇ」


 智希は呆れたように言いながらも、その表情には柔らかな笑みが浮かんでいた。

 日和はそんな二人のやり取りには気づかず、クオンの尾を名残惜しそうに撫でている。

 良澄は机の上の資料をまとめ始め、セレスティアも立ち上がって、日和の荷物へ目を向けた。


「日和さん、歩きやすい靴でいらしていますか?」


 セレスティアに尋ねられ、日和は自分の足元を見下ろした。

 大学へ来るつもりで選んだ服装が、そのまま未知の国へ出掛けるための格好になるとは、朝には想像もしていなかった。


「はい。今日はスニーカーです」

「それならよかったです。向こうでは、少し歩くことになるかもしれませんから」


 日和は頷き、改めて部室の中を見回した。

 智希たちが用意している荷物も、机の上の資料も、先ほどまでとは違って見える。

 そこには、自分の知らない世界へ向かうための準備が整えられていた。

 そして今、自分もその一員として同行することになったのだ。

 胸の奥には、少しの緊張があった。

 けれど、それ以上に、これから何を見られるのだろうという期待が膨らんでいる。

 クオンの温かな毛並みの感触が、まだ手のひらに残っていた。

 日和はそっと指を握り、嬉しそうに微笑んだ。

 智希はその表情を見て、もう一度だけ小さく息を吐いた。


「……じゃあ、準備しようか。日和の分も考えないとねぇ」


 同行が決まると、出発の準備は思いのほか早く進んだ。

 良澄が部室の隅に置かれた荷物を確認している間に、セレスティアは日和の足元へ目を向け、靴の具合を確かめていた。

 幸い、日和が履いてきたスニーカーは歩きやすいものだったが、これから向かう場所には舗装された道ばかりがあるわけではない。


「念のため、こちらを使ってください」


 セレスティアが差し出したのは、恭平が用意していたトレッキングシューズだった。

 日和は礼を言って受け取り、椅子に腰掛けて履き替える。

 足首までしっかりと支える靴は普段のものより少し重かったが、立ち上がって数歩歩いてみると、思ったほど違和感はなかった。

 その間に智希は、洋一が用意した革製のバックパックから必要なものを取り分けていた。

 日和の荷物は最低限でよいと判断し、水や簡単な携行品を小さめのバッグへ移していく。


「何だか、本格的だね」


 日和が感心したように言うと、智希は荷物の留め具を確かめながら笑った。


「まあ、念のためだねぇ。使わずに済むなら、それが一番だから」


 準備を終えた一行は、部室を出ると、人目につかない場所へ移動した。

 日和には、これからどうやって神獣国家へ向かうのか、まだよく分かっていなかった。

 飛行機に乗る様子もなければ、車を用意しているわけでもない。

 智希たちは当たり前のように歩いているが、その足取りには目的地を知っている者特有の迷いのなさがあった。

 やがて良澄が足を止め、日和へ振り返った。


「ここから少し移動するけど、僕たちについてきてもらえるかな。あまり立ち止まらずに進みたいんだ」

「……うん、分かった」


 日和が頷くと、良澄は彰人へ目配せをした。

 彰人はそれを受けて先へ進み、ほどなく一行の前に扉が開かれた。

 日和は、その向こうに広がる光景を見て、思わず目を瞬かせた。

 それまでいた場所とは、明らかに様子が違っている。

 何かを確かめようと周囲へ目を向けたものの、先を歩く彰人は足を止めず、セレスティアも日和の隣に並んだまま、自然な調子で歩みを進めていた。


「日和さん、こちらへ」

「あ、はい」


 促されるままに歩き出すと、今度は智希が彼女の少し後ろへ回った。

 日和は一度だけ振り返ったが、智希はいつもの穏やかな表情を浮かべている。


「どうかした?」

「ううん……何でもない」


 本当は聞いてみたいことがあった。

 けれど、先を歩く良澄たちが迷うことなく進んでいるのを見ると、今は立ち止まる場面ではないのだろうと思えた。

 それに、何となくではあるが、彼らが自分を寄り道させないようにしていることも感じ取っていた。

 日和がもう一度前を向くと、彰人が次の扉を開いているところだった。

 その向こうには、岩肌に囲まれた通路が見えている。


「……え?」


 驚く間もなく、日和はセレスティアに続いて扉をくぐった。

 足元の感触が変わり、ひんやりとした空気が頬に触れる。

 振り返ったときには、先ほど通った扉はすでに閉じられていた。

 日和はしばらくその場所を見つめていたが、やがて隣に立つ智希へ顔を向けた。


「……今のって、何だったの?」


 智希は少し考えるように首を傾げたあと、曖昧に笑った。


「まあ、ちょっとした近道みたいなものかなぁ」

「……近道?」

「うん。便利なんだけど、説明するとなかなか難しくてねぇ」


 日和は納得したような、していないような表情を浮かべた。

 先ほどの場所が普通ではなかったことくらいは分かる。

 けれど、智希が詳しく話すつもりではないことも、その返事から何となく伝わってきた。

 日和はもう一度だけ背後へ目を向け、それから小さく息を吐いた。

 知らないことばかりだ。

 ただ、今すぐにすべてを知る必要もないのだろう。


 そう思い直して前を向くと、岩の通路の先には、すでに森の木々が見えていた。

 通路は二十メートルほどの短いもので、外から差し込む光が足元まで届いている。

 湿った土と木々の匂いを含んだ風が流れ込み、先ほどまでとは違う場所へ来たことを、肌で感じさせた。


 そこに広がっていたのは、思いのほか見慣れた景色だった。

 背の高い木々が幾重にも枝を伸ばし、重なり合った葉が空を覆っている。

 森の奥は薄暗いものの、ところどころに開いた枝葉の隙間から陽射しが差し込み、地面には不規則な光の模様が落ちていた。

 足元に広がる落ち葉や、木々の間を抜ける風にも、日本の山奥と大きく変わらない雰囲気があった。

 日和は周囲を見回し、少し不思議そうに首を傾げた。


「……普通の森、だね」

「そうだねぇ。見た目は、日本の山とあまり変わらないかな」


 智希の返事を聞きながら、日和はもう一度木々を見上げた。

 先ほどまで大学の部室にいたことを思えば、目の前の景色は十分に不思議だった。

 けれど、クオンのような神獣たちが暮らす国と聞いて想像していたものとは、随分違っている。

 その足元へ、クオンが静かに歩み寄った。

 九本の尾が木漏れ日を受け、白金の毛並みを柔らかく輝かせる。

 周囲の森はどこにでもありそうな景色なのに、その中を当たり前のように歩くクオンの姿だけが、ここが自分の知る場所ではないことを教えてくれていた。


 日和は小さく微笑み、クオンへ視線を向けた。

 ここが、彼女の故郷なのだ。

 智希たちは荷物を確かめると、森の奥へ続く道へ目を向けた。

 木々の間には人が通れる程度の道筋があり、その先は緩やかな起伏に沿って伸びている。


「さて、行こうか」


 智希の声に、日和は頷いた。

 木漏れ日の差す森の中、一行は神獣国家へ向けて歩き始めた。


 森の中を進み始めると、日和は思っていた以上に歩きやすいことに気づいた。

 木々の根が地面を這い、ところどころに落ち葉が積もっているものの、一行が辿っている場所には、緩やかな道筋が続いている。

 舗装されているわけではないが、長い間に何度も踏み固められたのだろう。周囲の地面と比べると草が少なく、足を置く場所に迷うこともほとんどなかった。

 先頭を歩く彰人は慣れた様子で足を進め、その少し後ろを良澄とセレスティアが続いている。日和は智希と並びながら、時折、周囲の木々へ目を向けていた。

 森そのものは、日本の山奥で見かけるものと大きく変わらない。

 高く伸びた幹の間には下草が茂り、枝葉の重なった場所では昼間でも薄暗さが残っている。

 けれど、木々の隙間から差し込む陽射しが足元を照らしているため、歩くのに不自由するほどではなかった。


 日和が少し意外に思ったのは、森の静けさだった。

 もちろん、まったく音がしないわけではない。

 風が枝葉を揺らす音や、どこかで鳥が鳴く声が聞こえてくる。

 けれど、人の話し声や車の音が遠くから混じってくることはなく、耳を澄ませば、足元の落ち葉を踏む音までよく分かった。


「……本当に、山の中なんだね」


 日和が呟くと、智希は隣を歩きながら頷いた。


「そうだね。もう少し行けば、暮らしてる人たちのいる場所に出るよ」

「そっか。じゃあ、この道も、みんなが普段から使ってるのかな」

「多分そうだと思うよ。僕たちも前に通った道だしね」


 日和は改めて足元へ視線を落とした。

 道の端には踏み倒された草があり、土の露出した場所には、いくつもの小さな窪みが残っている。

 雨が降ったあとにできたものもあれば、誰かが通った際についたものもあるのだろう。

 形のはっきりしない跡ばかりだったが、少なくとも、この道が使われなくなった場所ではないことは分かった。


 ふと、日和は少し前を歩くクオンへ目を向けた。

 九本の尾をゆったりと揺らしながら進む姿は、大学の部室で見たときと変わらず美しい。

 けれど、森の中では、その白金の毛並みが不思議と周囲の景色に馴染んで見えた。

 もちろん、普通の狐が九本もの尾を持っているはずはない。

 それでも、木々の間を歩くクオンには、部室にいたときとは違う自然さがあった。


 日和がその姿を眺めていると、クオンは一度だけ振り返った。

 視線が合ったことに気づいた日和は、小さく手を振る。

 するとクオンは穏やかに目を細め、再び前を向いて歩き始めた。

 その何気ないやり取りが、日和には少し嬉しかった。


 クオンにとって、ここは故郷なのだ。

 自分が生まれ育った場所へ戻ってきたときと同じように、彼女にも懐かしさや安心感があるのだろうか。

 そう考えると、森の景色まで少し違って見えてくる。

 やがて道は緩やかな下り坂へ変わり、周囲の木々にも少しずつ変化が現れ始めた。

 道を塞ぐように伸びた枝が払われ、足元の石も端へ寄せられている。

 人が通りやすいように手を入れたのだろう。先ほどまでの、踏み固められただけの道とは違い、誰かが意識して整えていることが感じられた。

 日和はその変化に気づくと、少しだけ歩調を緩めた。


「……あれ? この辺り、道がきれいになってるね」


 智希も足元へ目を向けた。


「うん。そろそろ近いんじゃないかなぁ」


 日和は顔を上げ、道の先を見つめた。

 木々の向こうには、まだ建物らしいものは見えない。

 けれど、森の奥から漂ってくる空気には、先ほどまでとは少し違う匂いが混じり始めていた。

 湿った土や木々の匂いに紛れて、かすかに煙のようなものが感じられる。

 日和が鼻を動かしていると、隣の智希がその様子に気づいた。


「何か気になる?」

「うん……何だか、ちょっと煙の匂いがしない?」


 智希は一度だけ風の流れてくる方へ顔を向け、それから小さく頷いた。


「そうだねぇ。どこかで火を使ってるのかもしれないね」


 日和はその答えを聞き、もう一度森の奥へ目を向けた。

 火を使っている。

 それは当たり前のことのはずなのに、今は少し不思議に感じられた。

 神獣たちの国と聞いて、日和は無意識のうちに、動物たちが森の中で暮らしているような景色を想像していたのかもしれない。

 けれど、クオンたちには家族があり、仲間がいて、それぞれの暮らしがあるのだと良澄は話していた。

 火を使い、道を整え、日々の生活を営んでいる。

 そうした当たり前のことが、今になって少しずつ実感を伴い始めていた。


 しばらく進むと、前方を歩いていた彰人が足を緩めた。

 それに合わせて良澄たちも歩調を落とし、日和は自然と智希の少し後ろへ回る。

 道の先では木々の間隔が広がり、森の薄暗さが少しずつ和らいでいた。

 枝葉の向こうから差し込む光が増え、風に乗って、先ほどよりもはっきりと人の暮らす気配が伝わってくる。

 やがて、木々の隙間から建物の屋根が見えた。


 日和は思わず足を止めかけた。

 そこには、木々に囲まれるようにして、いくつもの建物が並んでいた。

 木材を中心に造られた家々は周囲の景色から大きく浮き上がることもなく、森の中に自然と溶け込んでいる。

 建物の間には人が行き来できる道があり、少し離れた場所からは細い煙が立ち上っていた。

 日和が想像していた、狐たちが森の中で暮らす光景とは随分違っていた。

 けれど、不思議と違和感はなかった。

 整えられた道も、建物も、立ち上る煙も、そこに誰かが暮らしていることを静かに伝えている。

 日和は木々の向こうに広がる景色を見つめたまま、隣の智希へ小さく尋ねた。


「……ここが、クオンたちの暮らしてるところ?」


 智希は彼女の視線を追い、穏やかに頷いた。


「うん。狐狸族の人たちが暮らしてる場所だね」

「狐狸族……」


 日和はその言葉を繰り返し、もう一度、集落へ目を向けた。

 その傍らでは、クオンが静かに足を止め、木々の向こうに見える故郷を見つめていた。


 集落へ続く道を進むにつれ、森の中に漂う空気は少しずつ変わっていった。

 木々の間を縫うように続いていた道は、やがて二人が並んでも余裕を持って歩けるほどの幅になり、足元には小さな石が敷き詰められた場所も見え始めた。

 道の両脇には枝を払われた木々が並び、ところどころに積まれた薪や、編み込まれた枝で作られた柵が、近くに人の暮らしがあることを伝えている。

 日和は歩きながら、木々の向こうに見える建物へ何度も目を向けていた。


 遠くから眺めたときには、森の中に家が並んでいるという程度にしか分からなかったが、近づくにつれて、その造りにも目が留まるようになった。

 木材を組み合わせた壁や、雨を流すために傾斜をつけられた屋根。建物の周囲には人が歩くための道が整えられ、軒先には日常の暮らしに使うのだろう道具が置かれている。

 想像していた神獣たちの国とは随分違う。

 けれど、だからこそ、そこに暮らす人々がどのような生活を送っているのか、日和の興味はますます強くなっていた。


 やがて、道の先に二人の人影が見えた。

 集落へ入る道の脇に立つ彼らは、周囲の様子を確かめながら、ときおり言葉を交わしている。

 身につけている衣服は日本で見かけるものとは少し違っていたが、顔立ちも身体つきも、日和の知る人間と大きな違いはなかった。

 日和は思わず智希へ目を向けた。


「……あの人たちも、神獣なの?」


 問い掛ける声は、相手に聞こえないよう自然と小さくなっていた。

 智希は前方の二人を見てから、穏やかに頷いた。


「そうだね。狐狸族の人たちだと思うよ」

「……そうなんだ」


 日和はもう一度、二人の姿を見つめた。

 狐の耳も、尻尾も見当たらない。遠目には、普通の人間が集落の入口に立っているようにしか見えなかった。

 部室で見たクオンの姿があまりにも印象的だったせいか、日和は神獣という言葉から、無意識のうちに動物の姿を思い浮かべていたらしい。

 けれど、考えてみれば、彼らがどのような姿で暮らしているのか、まだ何も知らないのだ。

 日和がそんなことを考えている間に、先頭を歩いていた彰人が足を緩めた。


 二人の見張り役もこちらに気づいたらしく、片方が道の中央へ進み出る。

 警戒しているというより、訪問者を確かめようとする落ち着いた様子だったが、その視線は一行の顔を順に確認するように動いていた。

 智希たちが足を止めると、見張り役は一度、良澄と彰人へ目を向けた。

 何かを思い出したように、その表情がわずかに変わる。

 以前、この国を訪れた人間たちのことを覚えていたのだろう。もう一人の見張り役も姿勢を正し、二人は互いに短く視線を交わした。


 そのときだった。


「……クオン様?」


 見張り役の一人が、驚きを含んだ声を上げた。

 日和は反射的に、その視線の先を追った。

 そこには、一人の女性が立っていた。

 長く豊かな髪は、陽射しを受けると淡い金色を帯び、滑らかに肩から背へと流れている。

 整った顔立ちには穏やかな微笑が浮かび、身にまとった衣装は華美に過ぎないものの、その立ち姿には周囲の空気を自然と落ち着かせるような気品があった。


 何より印象的だったのは、その瞳だった。

 静かに相手を見つめる眼差しには、柔らかな慈愛と、簡単には揺らぐことのない確かさが同居している。

 日和は思わず息を呑んだ。

 いつの間に、こんな人が一行に加わったのだろう。


 そう考えた直後、彼女はあることに気づいた。

 先ほどまで、すぐ傍らを歩いていた九尾の狐が見当たらない。

 日和が慌てて周囲を見回す間にも、見張り役は女性へ向き直り、深く頭を下げていた。


「クオン様。お戻りになられていたのですね。お迎えもせず、失礼いたしました」


 女性はその言葉を聞くと、懐かしい相手に出会ったように目を細めた。


「ええ、久しぶりですね。突然戻ってまいりましたから、気になさらないでくださいな」


 落ち着いた声だった。

 必要以上に威厳を示すこともなく、相手の恐縮を和らげるような柔らかさがある。それでいて、言葉の端々には自然な品格が漂っていた。


「皆は息災にしておりましたか?」

「はい。おかげさまで、皆変わらず暮らしております。クオン様も、お変わりなく」

「それは何よりです。しばらく留守にしておりましたから、皆の顔を見るのが楽しみですね」


 クオンはそう言って微笑んだ。

 見張り役たちの表情にも、安堵したような笑みが浮かぶ。

 そのやり取りを見ていた日和は、ようやく目の前の女性が誰なのかを理解した。

 理解した、というより、そう考えるほかになかった。

 先ほどまで自分が撫でていた九尾の狐と、目の前に立つ美しい女性。

 姿はまるで違うのに、こちらへ向けられる穏やかな眼差しには、どこか同じものが感じられた。


「……え、クオン?」


 思わず漏れた声に、女性がゆっくりと振り返った。

 その瞳が日和を捉えると、先ほどまで見張り役へ向けていた表情が、さらに柔らかなものへ変わる。


「ふふ。驚かせてしまいましたね、日和さん」


 自分の名前を呼ばれ、日和は目を丸くした。

 声が聞こえた。

 それも、初めて会ったはずの相手からではない。部室で触れ合い、森の中を一緒に歩いてきたクオンが、今度は人の言葉で自分へ話し掛けている。

 頭では理解しようとしているのに、目の前の光景があまりにも自然だったため、かえって実感が追いつかなかった。


「……本当に、クオンなの?」

「ええ。先ほどまでとは、少し姿が違いますけれど」


 クオンはそう答えると、日和の戸惑いを面白がるでもなく、穏やかに微笑んだ。

 日和は彼女の顔を見つめ、それから思わず智希へ視線を向けた。

 智希は驚いた様子もなく、少しだけ笑っている。


「クオンたちは、人の姿にもなれるんだよ」

「……そういうの、先に教えてよ」


 日和が小さく抗議すると、智希は困ったように笑った。


「ごめん。言うタイミングがなくてね」


 そのやり取りを聞いていたクオンは、口元へそっと手を添え、楽しそうに目を細めた。


「私も、もう少し早くお話ししておけばよかったですね」


 日和は改めてクオンへ向き直った。

 美しい女性の姿をしていることにも驚いていたが、それ以上に不思議なのは、こうして自然に会話ができていることだった。

 部室では、クオンが自分の言葉を理解しているのだと知っても、返事は仕草や眼差しから読み取るしかなかった。

 九本の尾を動かして見せてくれたときも、毛並みへ触れることを許してくれたときも、互いの気持ちを確かめるためには、少しずつ相手を観察する必要があった。

 けれど今は、言葉を交わせる。

 それでも、目の前のクオンが別の存在になったようには感じられなかった。

 日和が戸惑えば待ってくれることも、こちらの気持ちを汲み取るような眼差しも、先ほどまでと何も変わっていない。


「……何だか、不思議」


 日和は小さく笑った。

 目の前に立つ女性が、先ほどまで自分の隣を歩いていた九尾の狐なのだということは、もう理解している。

 けれど、こうして言葉を交わしていると、どうにも奇妙な感覚が残った。

 部室で出会ったときには、あの豊かな毛並みに触れることさえ躊躇われた。

 九本もの尾を持つ美しい狐は、ただそこにいるだけで人を圧倒するような存在だったのに、こちらの気持ちを察すると、驚くほど優しく応じてくれた。


 今も、その優しさは変わらない。

 ただ、目の前にいるのは、思わず見惚れてしまうほど美しい女性だった。

 華やかな装いも、豊かに流れる髪も、森の中に立つには不釣り合いなほど艶やかで、それでいて周囲の景色から浮いているようには感じられない。

 むしろ、木々の間から差し込む陽射しさえ、彼女のために用意されたもののように思えてしまう。

 日和は少し照れたように笑い、視線を下げた。


「さっきまで、あんなにふわふわだったのに……」


 自分でも、何を言っているのだろうと思った。

 もっと聞くべきことがあるはずだった。

 どうして姿を変えられるのか、どちらが本来の姿なのか、そもそも神獣という存在は何なのか。

 知りたいことを挙げれば、きりがない。

 それなのに、最初に口をついて出たのは、あの毛並みのことだった。

 クオンは一瞬だけ目を丸くし、それから楽しそうに微笑んだ。


「あら。こちらの姿では、お気に召しませんか?」


 からかうような言葉だったが、その声音には相手を困らせるような響きはない。

 むしろ、日和がどんな答えを返すのか、楽しみにしているようだった。


「そ、そんなことないです!」


 日和は慌てて顔を上げた。


「すごく綺麗ですし、その……何て言えばいいのか分からないくらいで。でも、あの尻尾も本当に綺麗だったから」


 言い終えてから、日和はますます恥ずかしくなった。

 綺麗な女性を目の前にして、尻尾の話をしている。しかも、相手はその尻尾の持ち主なのだ。

 けれどクオンは、そんな日和を笑うことなく、ゆったりと頷いた。


「ふふ。あれほど喜んでいただけたのですもの。私も嬉しく思っておりますよ」


 その微笑には、どこか人を安心させる不思議な力があった。

 美しさだけなら、日和もこれまでに何度となく目にしてきた。

 けれどクオンの場合は、それだけではない。

 向き合っていると自然に背筋を伸ばしたくなるような気高さがありながら、同時に、もう少し近づいて話してみたいと思わせる温かさがあった。


「また、触ってもいいですか?」


 日和は少しだけ迷ってから尋ねた。

 今度は、部室でそうしたときのような遠慮だけではない。

 言葉が通じるのだと分かったからこそ、きちんと本人の意思を確かめておきたかった。

 クオンは、その問いを待っていたかのように目を細めた。


「ええ、もちろん。落ち着いたら、またゆっくりとお見せしましょう」

「ありがとうございます!」


 日和の表情がぱっと明るくなる。

 その様子を見ていた智希は、思わず口元を緩めた。

 日和が動物を好きなのは知っていた。犬たちと接するときも、ただ可愛がるだけではなく、相手が何を望んでいるのかをよく見ている。

 だからこそ、クオンが普通の動物ではないと理解した今も、こうして本人の意思を尊重しようとするのだろう。

 もっとも、神獣国家へ来て最初に交わした約束が、九尾の毛並みを撫でることになるとは思っていなかったが。

 智希が小さく笑うと、日和はその気配を察したらしく、少しだけ頬を膨らませた。


「……智希くん、今、笑ったでしょ」

「うん。ちょっとだけ」

「もう……」


 言葉とは裏腹に、日和の表情も柔らかかった。

 その二人を見比べたクオンは、何かを察したように微笑んだものの、あえて何も言わなかった。

 その傍らで、見張り役の一人が静かに姿勢を正した。

 彼はクオンと日和のやり取りを、少し離れたところから見守っていた。

 狐狸族にとって、クオンの存在は特別なものだった。高い地位にあるからというだけではない。

 幼い頃からその名を聞き、姿を知り、誰もが自然に敬意を払う存在。そのクオンが、見慣れない人間の少女と親しげに言葉を交わしている。


 少女の素性は分からない。

 だが、クオンがこれほど穏やかな表情を向けている以上、少なくとも無遠慮に問いただすような相手ではないのだろう。


 見張り役は日和へ一度だけ視線を向け、それから同行する者たちへ目を移した。

 以前、この国を訪れた人間たち。

 その顔を改めて確かめると、彼は丁寧に頭を下げた。


「皆様も、お久しぶりでございます。再びお越しいただけるとは思っておりませんでした」


 良澄が穏やかに会釈を返した。


「こちらこそ、お久しぶりです。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」

「とんでもございません。皆様のお越しを、歓迎いたします」


 見張り役の言葉には、形式だけではない親しみがあった。

 良澄たちが以前この国を訪れた際のことを、彼らも覚えているのだろう。

 目の前にいる人間たちが、単なる旅人ではないことも理解しているはずだった。

 彰人も軽く片手を上げ、挨拶を返した。


「久しぶりやな。元気そうで何よりや」

「はい。おかげさまで」


 見張り役は笑みを返したが、その視線は一瞬、クオンへと向けられた。

 久しぶりに帰還したクオンと、再び訪れた十二神承。

 それだけの顔ぶれが揃っている以上、何かしらの用向きがあることは想像できた。

 だが、ここでその理由を尋ねることが自分の役目ではないことも、彼は理解していた。

 もう一人の見張り役と短く視線を交わす。

 相手が小さく頷くと、彼は改めてクオンへ向き直った。


「クオン様。皆様がお戻りになられたことを、上の者へお伝えしてまいります。少々お待ちいただけますでしょうか」

「ええ、お願いします。ですが、そう慌てることはありませんよ」


 クオンは柔らかく微笑んだ。


「久しぶりに戻ったのですもの。私も、少しばかり故郷の空気を楽しみたいと思っておりますから」


 その言葉に、見張り役の表情が和らいだ。


「承知いたしました。どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」


 深く一礼すると、彼は集落の奥へ向かって歩き出した。

 その背中が木々の間へ消えていくのを見送りながら、日和は改めて周囲を見渡した。

 森の奥からは、かすかに人々の話し声が聞こえてくる。


 どこかで木を打つような乾いた音が響き、少し遅れて、風に乗った煙の匂いが漂ってきた。

 遠くの建物の軒先には布が掛けられ、その向こうを誰かが歩いていく姿も見える。

 日和が想像していた神獣の国とは、随分違っていた。

 もっと不思議な場所なのだと思っていた。

 見たことのない建物や、奇妙な植物が生い茂り、そこかしこに神獣たちが姿を現すような場所を、どこかで思い描いていたのかもしれない。

 けれど、目の前にあるのは、人々が暮らすための場所だった。

 道があり、家があり、仕事をする人がいる。

 そして、久しぶりに帰ってきた者を迎える人がいる。


 日和は、隣に立つクオンへ目を向けた。

 先ほどまでのやり取りを思い返すと、見張り役が彼女へ向けていた敬意の深さが、少しずつ実感を伴って感じられるようになった。

 クオンは、ただ美しい九尾の狐なのではない。

 この場所に暮らす人々にとって、特別な存在なのだ。

 そのクオンが、自分にはあれほど親しく接してくれている。

 日和は少しだけ居住まいを正し、それから小さく微笑んだ。


「……改めて、よろしくお願いします。クオン」


 クオンはその言葉を聞くと、日和へ穏やかな眼差しを向けた。


「ええ。こちらこそ、よろしくお願いしますね、日和さん」


 その声音は、先ほどまでと何も変わらなかった。

 日和はほっとしたように笑い、もう一度、集落の奥へ目を向けた。

 知らないことばかりだった。

 けれど、知らないからこそ、もっと知りたいと思う。

 木々の向こうに広がる暮らしも、そこに住む人々のことも。

 そして、九本の尾を持つ美しい神獣が、この場所でどのように生きてきたのかも。

 日和の隣では、クオンが静かに故郷を眺めていた。

 森を渡る風が、彼女の豊かな髪を緩やかに揺らす。

 その横顔には、先ほどまで見張り役へ向けていた気品ある微笑とは少し違う、懐かしいものを見つめる者だけが浮かべる穏やかな表情があった。


 集落の奥へ続く道から、先ほどの見張り役が戻ってきたのは、それほど時間が経ってからではなかった。

 彼は一行の姿を認めると足を緩め、クオンの前まで進み出て丁寧に頭を下げた。


「お待たせいたしました。長たちが、ぜひお目にかかりたいと申しております」

「まあ、そうでしたか。皆も変わりなく過ごしているのでしょうね」

「はい。クオン様がお戻りになられたとお伝えしたところ、たいそう喜んでおられました」


 クオンはその返事に満足そうな微笑を浮かべた。

 見張り役が道の先へ身体を向けると、一行もそれに続いて歩き始める。日和は智希の隣に並び、木々の向こうへ広がる集落を改めて眺めた。

 先ほどまで遠くに見えていた建物は、道を進むにつれて一つひとつの輪郭を明らかにしていった。

 木造の家々は一定の間隔を空けて建てられており、その間を細い道が結んでいる。

 軒先に吊るされた籠や、日当たりのよい場所に並べられた干し物。小さな水路の傍らでは、桶を手にした女性が誰かと話していた。


 どこを見ても、日和が知る人々の暮らしと大きく違わない。

 それでも、通りすがる住人たちの視線がクオンへ向けられるたび、ここが自分の知る場所ではないことを思い知らされた。

 最初に気づいたのは、道端で荷物を整理していた年配の男性だった。

 彼は一行を何気なく見やり、クオンの姿を認めた途端、手にしていた籠を静かに下ろした。


「……クオン様?」


 その声に、近くにいた者たちも顔を上げる。

 クオンが微笑んで会釈を返すと、男性は慌てて姿勢を正した。


「お帰りになられたのですか」

「ええ。久しぶりですね。お変わりなく何よりです」

「ありがたいお言葉です。皆も喜びましょう」


 クオンは軽く頷き、足を止めることなく道を進んだ。

 男性はその背中をしばらく見送っていたが、やがて近くの住人へ何かを話し始めた。

 その声を聞いた者がさらに別の者へ伝え、クオンの帰還を知らせる言葉が、少しずつ集落の中へ広がっていく。

 日和はその様子を不思議そうに見つめていた。

 誰も大声を上げたり、慌てて駆け寄ったりはしない。

 けれど、クオンの姿を見た者は必ず足を止め、自然に敬意を示していた。

 その反応は、単に身分の高い人物を迎えるものとは少し違うように感じられた。

 長く親しまれてきた存在が帰ってきたことへの喜びと、容易には近づきがたい相手への敬意。その二つが、ごく自然に同居している。


「……クオンって、すごい人なんだね」


 日和が小さく呟くと、智希は隣で穏やかに笑った。


「そうだね。ここでは、特にね」

「みんな、クオンのこと知ってるみたい」

「狐狸族の人たちにとっては、特別な存在だから」


 日和は頷き、少し前を歩くクオンへ視線を向けた。

 先ほどまで自分に九本の尾を触らせてくれていた女性が、これほど多くの人々から敬われている。

 その事実が、少しずつ実感を伴って胸に落ちてきた。

 けれどクオン自身は、周囲の反応を当然のものとして受け流すことも、必要以上に恐縮することもなかった。

 声を掛けられれば穏やかに応じ、顔を見知った者には懐かしそうに微笑む。その振る舞いは、長くこの土地で暮らしてきた者が故郷へ帰ってきた姿そのものだった。


 やがて、一行は集落の中央に近い場所へ出た。

 そこには周囲の家々よりもひと回り大きな建物があり、広い軒先を支える太い柱には、長い年月を経た木材特有の深い色合いが浮かんでいた。

 建物の前には平らに整えられた広場があり、その一角には大きな木が立っている。

 枝を広げた樹冠が地面へ柔らかな影を落とし、根元には人が腰掛けられるよう、石がいくつか並べられていた。

 見張り役は建物の入口で足を止め、一行へ振り返った。


「こちらへどうぞ。皆、お待ちしております」


 クオンが頷くと、彼は扉を開き、道を譲った。

 建物の中には、外の明るさとは異なる、落ち着いた空気が漂っていた。

 木の香りがほのかに残る廊下を進むと、奥に広い部屋が現れる。

 床には丁寧に編まれた敷物が広げられ、壁際にはいくつかの棚が設けられていた。棚には器や巻物のようなものが並び、中央には大きな卓が置かれている。

 その卓を囲むように、数人の男女が待っていた。

 いずれも人間の姿をしており、年齢も外見から判断する限りではさまざまだった。白髪の混じる年配の男性もいれば、まだ壮年に見える女性もいる。

 だが、彼らの視線がクオンへ向けられた瞬間、室内の空気がわずかに変わった。


「クオン様」


 最も奥に座っていた年配の男性が立ち上がった。

 それに続くように、ほかの者たちも席を立つ。


「お帰りなさいませ。こうして再びお目にかかれるとは、喜ばしい限りでございます」


 クオンは彼らの姿を順に見渡し、懐かしそうに微笑んだ。


「皆、息災のようですね。こうして変わらぬ顔を見られることを、嬉しく思います」


 その言葉を受け、年配の男性は深く頭を下げた。


「ありがたいお言葉でございます。クオン様も、お変わりなくお過ごしのご様子。何よりでございます」

「ええ。少しばかり外を歩いておりましたが、やはり故郷というものはよいものですね」


 クオンの視線が、部屋の奥に設けられた窓へ向けられた。

 開け放たれた窓の向こうには、集落を囲む木々の緑が広がっている。

 枝葉の間から差し込む陽射しが床へ淡い模様を描き、風が通り抜けるたび、外で揺れる葉の音が静かに室内へ届いていた。

 クオンにとっては、幼い頃から見慣れた景色なのだろう。

 その横顔に浮かんだ穏やかな表情を見て、日和はふと、彼女にも帰る場所があるのだという当たり前のことを思い出した。

 部室で初めて出会ったとき、クオンはあまりにも美しく、神秘的な存在だった。

 人の言葉を理解し、九本もの尾を持ち、今では人間の姿で自分たちと話している。そんな彼女が、こうして故郷の景色を懐かしむ姿には、どこか不思議な親しみがあった。

 年配の男性もまた、クオンの視線の先へ目を向けていた。


「この辺りも、少しずつ姿を変えております。以前は道も細く、雨の後には足元が悪くなることもございましたが、今では随分と歩きやすくなりました」

「ええ、来る途中で気づきました。皆がよく手を掛けているのでしょうね」

「若い者たちが、力を合わせて整えてくれましてな」


 男性の声には、集落の人々への誇らしさが滲んでいた。

 隣に立つ壮年の女性も、懐かしそうに微笑む。


「クオン様がお留守の間にも、子供たちが随分と大きくなりました。以前は私の膝ほどしかなかった子が、今では薪を運ぶ手伝いまでしております」

「あら、それは楽しみですね。後ほど、皆にも会いに行きたいものです」


 クオンがそう答えると、女性の表情が一層柔らかくなった。

 そのやり取りには、格式ばった挨拶だけではない温かさがあった。

 彼らにとってクオンは、容易に肩を並べられる相手ではない。それでも、長い年月を同じ土地で過ごしてきた者同士の親しみが、言葉の端々に自然と表れている。


 日和はその様子を見ながら、クオンの持つ不思議な存在感について考えていた。

 美しい容姿や華やかな衣装だけではない。彼女が言葉を発すると、周囲の人々は自然に耳を傾ける。

 何かを命じているわけでも、声を張り上げているわけでもないのに、その場の空気が穏やかに整っていくように感じられた。

 それでいて、クオン自身は少しも気負っていない。

 人々から向けられる敬意を受け止めながら、相手の暮らしや近況へ、ごく自然に関心を寄せている。

 日和がそんなことを考えていると、年配の男性が改めて一行へ視線を向けた。


「それにしても、皆様までご一緒とは。こうして再びお目にかかれることを、嬉しく思います」


 彼の眼差しには、先ほどクオンへ向けていたものとはまた異なる、懐かしさと感謝があった。

 良澄が一歩前へ進み、丁寧に頭を下げる。


「こちらこそ、お久しぶりです。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」

「とんでもございません。皆様には、以前も大変お世話になりました」


 男性は慌てて首を横に振った。

 その仕草を見て、良澄は少しだけ笑みを深めた。


「皆さんがお元気そうで、安心しました」

「おかげさまで。こうして穏やかに暮らせておりますのも、皆様のお力添えがあってこそでございます」


 その言葉に、周囲の長たちも静かに頷いた。

 以前の訪問で何があったのか、日和は詳しく知らない。

 けれど、良澄たちへ向けられる眼差しを見れば、彼らが単なる訪問者として迎えられているわけではないことくらいは分かった。

 彰人も軽く片手を上げ、笑みを浮かべた。


「久しぶりやな。みんな元気そうでよかったわ」

「はい。彰人殿も、お変わりないようで」

「まあ、こっちは相変わらずやな」


 彰人が肩をすくめると、長たちの間にも小さな笑いが広がった。

 その気安いやり取りには、以前から互いを知っている者同士の距離感があった。

 日和は少し羨ましく思いながら、智希へ目を向けた。

 智希もまた、穏やかな表情で長たちと挨拶を交わしている。


「お久しぶりです。皆さん、お元気そうですね」

「智希殿も、お元気そうで何よりです」


 年配の男性はそう答えると、何かを思い出したように目を細めた。


「クオン様のお子様をお救いいただいたこと、今でも皆が感謝しております」


 智希は少し照れたように笑った。


「いえ、あのときは自分にできることをしただけですから」

「それでも、私どもにとっては忘れられぬことでございます」


 男性の声には、静かな重みがあった。

 智希がそれ以上謙遜しようとすると、クオンが横から穏やかに微笑んだ。


「智希さん。皆が感謝しているのですから、素直に受け取ってくださってもよろしいのですよ」

「……そうですね。ありがとうございます」


 智希が少し困ったように笑うと、クオンも満足そうに頷いた。

 日和は、そのやり取りを静かに見守っていた。

 智希がクオンの子供を助けたことは聞いていた。

 けれど、こうして集落の長たちから直接感謝の言葉を向けられている姿を見ると、その出来事が彼らにとってどれほど大きな意味を持っていたのか、少しだけ分かった気がした。

 普段の智希は、何か特別なことをした人物のようには見えない。

 穏やかで、少し控えめで、こちらが何かを尋ねれば丁寧に答えてくれる。犬たちと接するときも、部室で話しているときも、彼はいつも自然体だった。


 けれど、その彼が、自分の知らない場所で誰かの命を救っていた。

 日和は胸の奥に生まれた温かな感情を、まだうまく言葉にできずにいた。

 そんな中、年配の男性が一行の顔を改めて見渡した。

 良澄、彰人、智希。

 その後ろにはセレスティアと、見慣れない少女が一人いる。


 男性は日和へ一瞬だけ視線を向けたが、すぐにクオンの穏やかな表情を見て、何も尋ねずに頷いた。

 そして、もう一度一行を見渡したところで、その動きがわずかに止まった。


「……ところで」


 男性は、何かを確かめるように口を開いた。


「本日は、皆様だけでお越しになられたのでしょうか」


 良澄が頷く。


「はい。今回は、この顔ぶれで来ています」

「左様でございますか」


 男性は一度頷いたものの、まだ何か気になることがあるらしかった。

 その視線が、部屋の入口へと向けられる。

 日和は、彼が誰かを探しているのだと気づいた。

 隣に立っていた壮年の女性も同じことを考えたのか、男性へ小さく顔を寄せた。

 何かを囁かれた男性は、ほんのわずかに眉を動かした。


「……失礼ながら、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「はい。何でしょう?」


 良澄が穏やかに応じる。

 男性は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、それから慎重に尋ねた。


「怜司殿は……今回は、ご同行なされておられないのでしょうか」


 その名前が出た瞬間、室内に小さな変化が生まれた。

 卓の傍らに立っていた別の長が、手にしていた書類から顔を上げる。先ほどまで穏やかに微笑んでいた女性は、わずかに口元を引き締めた。

 さらに奥にいた男性は、何かを思い出したように目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

 誰も大きな反応を示したわけではない。

 けれど、それまで自然に流れていた会話が、ほんの一瞬だけ途切れた。

 日和はその変化を不思議に思った。

 名前を聞いただけで、これほど空気が変わるものなのだろうか。

 良澄は、長たちの反応に気づいていたのか、少しだけ笑みを浮かべた。


「怜司さんは、今回は来ていませんよ」

「……そうでしたか」


 年配の男性は静かに頷いた。

 その声は落ち着いていたが、先ほどまでの緊張が少し和らいだようにも見える。

 隣の女性が小さく息をつき、別の長は何事もなかったかのように姿勢を戻した。

 日和には、それが安堵の反応であるように思えてならなかった。

 クオンもまた、彼らの様子を見ていた。

 先ほどまでの柔らかな微笑はそのままだったが、その瞳には、どこか呆れにも似た色が浮かんでいる。


「……皆、随分と気に掛けているのですね」


 穏やかな声だった。

 けれど、その一言に、長たちの何人かが少しだけ姿勢を正した。


「い、いえ。決して、怜司殿を歓迎していないというわけではございません」


 年配の男性が慌てて答える。


「ただ、その……以前のこともございますゆえ」


 最後の言葉は、少しばかり歯切れが悪かった。

 クオンはその様子を見て、静かに息をついた。


「お気持ちは分かりますけれど……」


 そこで一度言葉を切り、彼女はわずかに目を伏せた。

 何かを思い返しているようにも見える。


「……あの方のことは、私にも分からないことが多いのです」


 その言葉には、普段のクオンからは想像しにくい、率直な困惑が含まれていた。

 長たちの間に、何とも言えない沈黙が落ちる。

 やがて、奥にいた一人の男性が小さく頷いた。


「……まことに」


 その短い同意をきっかけに、室内へ控えめな笑いが広がった。

 日和はますます訳が分からなくなった。

 クオンほどの存在ですら、理解できないと言う人物。

 しかも、誰も彼を悪く言っているわけではない。むしろ、敬意や感謝があることは、彼らの言葉から十分に伝わってくる。

 それなのに、なぜか全員が少し困ったような顔をしている。

 日和は智希の傍らへそっと近づき、小声で尋ねた。


「……怜司さんって、何かしたの?」


 智希は日和の顔を見ると、少しだけ困ったように笑った。


「うーん……いろいろ、かな」

「いろいろ?」

「うん。まあ、ニイさんだからね」


 それは説明になっているのだろうか。

 日和は思わず智希を見つめた。

 けれど、智希はそれ以上何も言わず、ただ穏やかに笑っている。

 少し離れたところでは、彰人が口元を押さえ、肩を小さく揺らしていた。


「……兄貴、ここでも警戒されとるんかいな」


 誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉には、呆れと面白がる気持ちが半分ずつ混ざっていた。

 セレスティアもまた、どこか納得したような表情を浮かべている。

 日和は彼らを順に見渡した。

 誰も、怜司という人物を嫌っているようには見えない。

 ただ、彼が何かをしでかしたときのことを、全員が当たり前のように想像できてしまうらしい。

 それが、日和には何より不思議だった。

 いったい、どんな人なのだろう。

 そう考えたところで、年配の男性が軽く咳払いをした。


「……失礼いたしました。立ち話も何でございます。どうぞ、お掛けください」


 長たちが席を勧めると、良澄が礼を述べ、一行も卓を囲むように腰を下ろした。

 日和は智希の隣へ座り、周囲をそっと見渡した。

 広い部屋の中には、木材の落ち着いた香りが漂っている。

 開け放たれた窓から入る風が敷物の端をわずかに揺らし、外からは人々の話し声がかすかに聞こえてきた。

 その穏やかな空気の中で、日和は自分が今、どれほど不思議な場所にいるのかを改めて実感していた。

 目の前に座るのは、神獣たちの集落をまとめる人々。

 見た目は人間と変わらない。けれど、彼らもまた、クオンと同じように別の姿を持っているのかもしれない。

 そして、その人々が敬意を払うクオンは、今、自分のすぐ近くに座っている。

 クオンは日和の様子に気づくと、穏やかな微笑を向けた。


「日和さん。どうぞ、楽になさってくださいね」

「あ、はい。ありがとうございます」


 日和は少し照れたように笑った。

 それでも、すぐには肩の力を抜けなかった。

 知らないことばかりの場所で、知らない人々に囲まれている。それなのに、不思議と怖さは感じなかった。

 智希たちがいることも、クオンが親しく接してくれていることも、その理由の一つなのだろう。


 日和は小さく息を吐き、改めて室内へ目を向けた。

 長たちはそれぞれ席に着き、卓の上には温かな飲み物が用意され始めていた。

 器から立ち上る湯気が、窓から差し込む光の中で淡く揺れる。

 その様子を見ていると、ここが神獣の国であることを、つい忘れてしまいそうだった。

 けれど、穏やかな時間がいつまでも続くわけではなかった。


 クオンが、静かに長たちへ視線を向けた。

 その表情には先ほどまでと変わらぬ柔らかさがあったが、眼差しの奥には、どこか確かな意思が宿っている。

 年配の男性も、それを感じ取ったのだろう。

 手元の器へ伸ばしかけていた手を止め、ゆっくりと姿勢を正した。

 ほかの長たちも、自然と会話を収めていく。

 誰かが合図をしたわけではない。

 それでも、室内の空気は少しずつ変わり始めていた。


「……さて、クオン様」


 年配の男性が、穏やかな声で口を開いた。


「本日は、どのようなご用向きでございましょうか」


 クオンはすぐには答えなかった。

 窓の向こうから、子供たちの笑い声が聞こえてくる。

 その声に一度だけ耳を傾け、彼女は静かに目を細めた。

 故郷へ戻ってきた喜びと、ここへ足を運んだ理由。

 その二つが、彼女の中で静かに重なっているようだった。


「少し、確かめておきたいことがあります」


 クオンの声は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。

 けれど、その言葉を聞いた長たちの表情には、わずかな緊張が浮かんだ。


「このところ、何か普段と変わったことはございませんか」


 年配の男性は、すぐには答えなかった。

 彼の視線が、卓の上に置かれた器へと落ちる。

 ほかの長たちも、互いに短く目を合わせていた。

 その沈黙には、先ほど怜司の名前が出たときとは異なる、重苦しいものが含まれていた。

 日和は、その変化を敏感に感じ取った。

 先ほどまで笑みを交わしていた人々が、今は何かを慎重に考えている。

 クオンもまた、彼らの返事を急かすことなく、静かに待っていた。

 やがて、年配の男性がゆっくりと顔を上げた。

 その表情には、先ほどまでの懐かしさや喜びとは違う、憂慮が浮かんでいた。


「……やはり、お感じになられているのですね」


 年配の男性は、そう呟いてから口を閉じた。

 卓の上には、客人のために用意された茶が並んでいる。

 湯気はすでに薄くなっていたが、器を手に取る者はなく、開け放たれた窓から流れ込む風が、そのわずかな白い筋をゆっくりと崩していた。

 外では、いつもと変わらない集落の営みが続いている。

 荷車の軋む音が近づいては遠ざかり、通りを挟んだ向こう側から、何かを売り買いする声が聞こえた。

 時折混じる笑い声には、先ほどから話題になっている異変を恐れるような響きはない。


 日和は、男性の表情と窓の外とを交互に見た。

 あの言葉を聞いたときには、何か深刻な出来事が起きているのかと思った。

 けれど、目の前の長たちは、何かを隠しているというより、どこから説明したものか困っているように見える。

 やがて男性は、少しばかり照れたように笑った。


「実のところ、皆様にお話しするほどのことなのか、私どもにも判断がついておりませぬ」


 良澄は、その言葉を聞いても表情を変えなかった。


「構いません。今のところ、僕たちも何かが起きていると決めているわけではありませんから」

「それならば、少し気が楽になりますな」


 男性は頷き、ようやく茶器に手を伸ばした。口を湿らせてから、ゆっくりと話し始める。

 最初に話題になったのは、羊のことだった。

 狐狸族の集落では、畑仕事と並んで家畜の飼育も行われている。耕作や荷運びには牛を使い、鶏は家々の近くで飼われていた。

 羊は集落の外側に広がる草地へ放され、毛を刈り、時には食用にもされる。

 そうした仕事は、特別なものではない。

 朝になれば羊を放牧地へ連れていき、日が傾けば戻す。頭数を確かめ、具合の悪いものがいないか見て、必要なら柵を直す。

 長年繰り返されてきた、ごくありふれた暮らしの一部だった。


「羊が一頭、戻らぬことなど、珍しい話ではございません」


 男性は、卓の向こうに座る長たちを見渡した。

 特に止められるような様子がないことを確認してから言葉を続ける。


「森に入り込むこともありますし、柵の隙間から抜け出すこともございます。見つからぬままになることも、昔からありました」


 その言葉に、隣の長が頷く。

 そうだそうだと言っているようにも見える。

 その勢いに任せて、男性は次の言葉を紡ぐ。


「探しに出た者が、翌朝になってひょっこり連れ帰ることもあります。羊というものは、こちらの都合など考えてくれませぬからな」


 少しばかり笑いが起きた。

 彰人も口元を緩めたが、話の続きを促すように視線を戻した。


「ところが、今年はどうにも、その数が多いようでして」


 男性はそこで、わずかに眉を寄せた。

 最初の一頭が戻らなかったとき、誰も気に留めなかった。

 何日か探して見つからなければ、仕方のないこととして日々の仕事に戻る。

 それが別の放牧地でも起きた。

 さらに、また別のところでも羊が足りなくなった。

 どれも、それだけを取り上げれば不思議な話ではない。

 放牧地の管理を任されている者たちも、当初は例年と変わらないものと考えていたという。


 ただ、ある日、羊飼いたちが集まって話しているうちに、誰かが首を傾げた。

 今年は、少し多くないか。

 その一言から、以前の出来事を思い返す者が増えたのだそうだ。


「もっとも、正確に例年と比べたわけではございません。たまたま続いたということもありましょう」

「でも、複数の放牧地で起きているんですね」


 良澄が確認すると、男性は頷いた。


「はい。ただ、いずれも、戻すときに数が合わぬと分かったものでございます。いつ、どこでいなくなったのかまでは……」


 良澄は卓の上に置かれた器を少し脇へ寄せ、長たちから聞いた放牧地の位置関係を確かめた。

 集落を囲むように農地が広がり、その先に草地がある。森との境が近い場所もあれば、比較的見通しのよい場所もあるらしい。

 同じ場所から続けて羊がいなくなったわけではない。

 それを聞いた彰人は、しばらく考えてから口を開いた。


「見回りは増やしとるんか?」

「ええ。念のために。柵も確かめております」

「それで、何か変わったことは?」

「今のところは、特に」


 彰人は小さく頷き、それ以上は問い詰めなかった。

 見張っている目の前で羊が消えたわけでも、説明のつかない痕跡が見つかったわけでもない。

 少なくとも、今聞いた話から分かるのは、羊の数が合わないことが例年より多いらしい、というところまでだった。


 智希も同じように考えていた。

 ただ、長たちの言葉の端々に、日常の仕事を預かる者ならではの戸惑いが感じられる。

 何かが起きていると騒ぐほどではない。

 けれど、何も気にしなくてよいと言い切るには、少しばかり引っ掛かる。

 そういう曖昧なところに、彼らは立っているのだろう。


「それだけでしたら、私どもも、もう少し様子を見ようという話で済ませていたと思います」


 男性はそう言い、いったん言葉を切った。

 別の長が、何かを思い出したように視線を上げる。


「……子供たちのことも、ございましたな」


 その一言で、日和は自然と背筋を伸ばした。

 男性は頷いたものの、すぐには説明を始めなかった。

 むしろ、羊の話以上に言葉を選んでいるようだった。


「こちらは、なおさら曖昧な話なのですが……」


 集落の端には、身寄りのない子供たちが集まりやすい一角があるという。

 人や荷物が頻繁に行き交う通りからは少し離れているが、集落の外ではない。

 住民たちが普段の暮らしを営む場所の一部であり、子供たちもそこから仕事を探しに出たり、食べ物を分けてもらったりして生活している。

 誰かが使わなくなった道具を持ち寄り、壊れたものを直し、手に入った食べ物を分け合う。

 年長の子が小さな子の面倒を見て、できる仕事を見つければ何人かで手伝いに行く。

 大人たちも、彼らを見て見ぬふりをしているわけではなかった。

 食事を分ける者もいれば、畑仕事や荷運びを頼んで対価を渡す者もいる。寒い時期には寝る場所を融通することもあるという。


 ただ、集落の暮らしそのものに、十分な余裕があるわけではない。

 すべての子供が決まった家に引き取られているわけではなく、子供たちも自分たちなりのつながりを頼りに暮らしていた。

 そして、そのつながりは一つの集落の中だけで完結するものでもない。


「よその土地にも、同じような子らが集まる場所がございます」


 男性は静かに続けた。


「向こうで仕事が見つかったと聞けば、出掛ける者もおります。知り合いを頼って移ることもありますし、そのまま戻らぬこともございます」


 それは、特別な出来事ではなかった。

 少しでも暮らしやすい場所を見つけたのなら、むしろ喜ばしいことだと、大人たちは考える。

 最近姿を見かけない子供がいても、どこかでよい仕事を見つけたのだろうと受け止める。

 仲のよかった子供たちが別の土地へ移ったのかもしれないと考える。


 日和は、窓の外へ目を向けた。

 先ほど通ってきた集落の道を思い出す。

 荷物を運ぶ大人たちの間を、小さな子供が駆け抜けていった。

 家の前で立ち話をしていた女性が、その子へ何か声を掛けていたことも覚えている。

 ここでは、子供たちも自分たちの生活を持っている。

 日本で当たり前のように使われている学校や住所の仕組みが、そのままあるわけではないのだ。

 だから、誰かの姿が見えなくなっても、すぐに何かが起きたとは考えない。


「それで、最近は……」

「姿を見かけぬ子が、幾人かおるようなのです」


 智希が穏やかに尋ねると、男性は少し困ったように笑って続ける。

 ただし、何人なのかは分からない。

 いつから姿を見せなくなったのかも、はっきりしない。

 そもそも、別の集落へ移っただけなのかもしれず、今頃は元気に暮らしている可能性も十分にある。

 誰かがいなくなったと訴え出たわけではなかった。

 ただ、羊の話をしていた折に、そういえば最近あの子を見かけない、こちらの子もどうしているだろう、といった話が重なったのだという。


「それで、少々気になりましてな」


 男性はそう言うと、困ったように笑った。

 自分でも、どこまでを心配すべきこととして扱えばよいのか、判断がついていないのだろう。

 羊が戻らなかったことも、子供たちが姿を見せなくなったことも、それぞれに珍しくない理由が考えられる。

 長年この土地で暮らしてきた彼らにとって、どちらも初めて耳にする話ではないはずだった。

 ただ、何気ない会話の中で別々の出来事が並んだとき、それまで気に留めていなかったものが、ふと引っ掛かり始めた。

 男性の表情には、そんな戸惑いが浮かんでいた。


「羊のことと、子供たちのこと。関わりがあるなどとは、到底申せませぬ。ですが、どちらも普段なら気に留めぬことですから……」


 そこで言葉を止め、卓の上へ視線を落とした。

 器の中には、薄い色の茶が残っている。窓から入る風が水面をわずかに揺らし、男性はその揺れを眺めるように、しばらく黙っていた。

 隣に座る長たちも、すぐには言葉を継がなかった。

 羊がいなくなれば、飼い主は困る。子供の姿が見えなくなれば、顔見知りの大人はその行く先を気に掛ける。

 けれど、それらは集落の暮らしの中で、これまでも起きてきたことだった。

 今になって二つを結び付けて考えることに、彼ら自身、どこかためらいがあるようだった。


「こうして並べてみると、何やら落ち着かぬ気持ちになるのです」


 良澄は、その言葉を聞いてもすぐには答えなかった。

 長たちが伝えようとしているのは、何かを目撃したという報告ではない。日々の暮らしの中で積み重なった、いくつかの小さな違和感だ。

 羊については、放牧地で頭数が合わなかった日をある程度確かめられる。

 だが、子供たちについては、いつから姿を見せなくなったのかさえ曖昧だった。

 よその集落へ移っただけかもしれず、今もどこかで元気に暮らしている可能性は十分にある。


 発生した時期が近いとも、場所に共通点があるとも言えない。

 それでも、長たちが気に掛け始めた経緯は理解できた。

 良澄が考えを整理している間、日和は、卓を囲む人々の顔を順に見ていた。

 誰も、差し迫った危険を訴えているわけではない。何かを恐れて声を潜めているわけでもなかった。

 むしろ、こんな曖昧な話を客人たちに聞かせてよいものかと、遠慮しているように見える。


 日和は、その様子に少し意外なものを感じていた。

 神獣の暮らす国で起きている異変と聞けば、もっと特別な出来事を想像してしまう。

 けれど、今聞いているのは、普段の生活の中で誰かが首を傾げたという、ごく小さな話だった。

 それが、かえって現実味を持って感じられた。

 しばらくして、別の長が静かに口を開いた。


「ほかの地域でも、似た話があると耳にしたことはございます」


 その声に、皆の視線が集まる。

 長は少し姿勢を正したものの、続ける言葉には慎重さがあった。


「ただ、それも風の噂でして。誰が、どこで、何を見たという話なのかまでは分かりませぬ」


 集落の外へ出る者は少なくない。

 荷を運ぶ者もいれば、仕事を求めて別の土地へ向かう者もいる。

 そうした人々が持ち帰る話の中には、遠くの土地の出来事も混じっている。

 しかし、伝わるうちに細かな事情が抜け落ちたり、別の話と混ざったりすることもある。

 長たちは、それをよく理解しているのだろう。

 曖昧な噂を、確かな報告として扱おうとはしていなかった。

 彰人は腕を組んだまま、少し考えていた。

 羊がいなくなったという話なのか、子供の話なのか。

 あるいは、まったく別のことなのか。それすら分からないのであれば、今ここで推測を重ねても仕方がない。


「……その噂も、詳しいところは分からんのやな」

「はい。誰かがいなくなったらしい、と。その程度の話でございます」

「そぉか……」


 彰人は短く答え、視線を落とした。


 日和は、彰人がそれ以上尋ねないことを少し意外に思った。

 昨日のドッグランでも、先ほどまでの道中でも、彼は冗談を交えながら場を和ませていた。

 その彰人が、今は長たちの答えを聞いて静かに頷いている。


 智希も良澄も同じだった。

 話を聞く前と比べれば、分かったことは確かに増えている。

 羊の数が例年より少し多く減っていること。最近見かけなくなった子供たちがいること。

 そして、ほかの地域にも似た話があるらしいこと。


 けれど、それらが繋がっているのかどうかは、誰にも分からない。

 日和は卓の上に並ぶ茶器へ目を落とした。

 長たちが口にしたのは、普段の暮らしの中で感じた、ごく小さな引っ掛かりに過ぎなかった。

 それでも、智希たちはこうして話を聞きに来たのだ。


「お話を聞かせていただいて、ありがとうございます」


 その声は、会談が始まったときと変わらず穏やかだった。


「今の段階では、何かが起きているとは言い切れません。ただ、普段と違うかもしれないと感じたことには、きちんと意味があると思います」


 長たちは、互いに顔を見合わせた。

 それまで、どこか申し訳なさそうに話していた男性の表情が、少しだけ和らぐ。

 彼らも、何か大きな出来事が起きていると主張したかったわけではない。

 ただ、日々の暮らしの中で気に掛かることがあり、それをクオンたちにも知っておいてほしかったのだろう。

 良澄の言葉は、そんな彼らの気持ちを受け止めるものだった。


 クオンは、そのやり取りを静かに見守っていた。

 長たちが話している間も、彼女はほとんど口を挟まなかった。時折、話し手へ視線を向け、わずかに頷く。

 それだけで、相手が落ち着いて話せるような、不思議な柔らかさがあった。

 日和は、そんなクオンの横顔を見つめた。

 初めて会ったときには、ただ美しく、神々しい存在だと思った。


 けれど、今は少し違う。

 長たちの話を遮らず、曖昧な言葉を急いで確かめようともせず、最後まで耳を傾けている。

 その姿には、この土地の人々の暮らしをよく知る者ならではの落ち着きが感じられた。

 クオンは、長たちの言葉がすべて出尽くしたのを確かめるように、ゆっくりと微笑んだ。


「皆が日々の暮らしに心を配っていること、よく分かりました」


 その声には、相手を労わるような温かさがあった。

 羊のことも、子供たちのことも、長たちは決して放っておいたわけではない。

 羊飼いたちは頭数を確かめ、柵を見直し、見回りを増やしている。子供たちについても、集落の大人たちはできる範囲で手を差し伸べ、暮らしを気に掛けてきた。

 ただ、すべてを把握できるわけではない。

 クオンは、そのことを責めるつもりなどないのだろう。


「羊のことも、子供たちのことも、これまでどおり気に掛けてあげてください。どうか、無理をなさらずに」


 年配の男性は、深く頭を下げた。

 ほかの長たちも、それに倣う。

 彼らの表情からは、先ほどまでの遠慮が薄れていた。

 クオンが話を聞いてくれたこと、そして自分たちの日々の営みを認めてくれたことが、何より嬉しかったのかもしれない。


「はい。もちろんでございます」


 クオンは微笑み、ゆっくりと頷いた。

 窓の外からは、変わらず集落の物音が聞こえていた。

 荷車の車輪が石畳を踏み、遠くで誰かが子供を呼んでいる。穏やかな陽の光が室内へ差し込み、卓の上の器に柔らかな影を落としていた。


 クオンはその音へ、ほんの一瞬だけ耳を傾けた。

 それから長たちへ視線を戻し、いつもと変わらない優雅な笑みを浮かべる。


「何か分かりましたら、またお知らせくださいね」


 長たちは深く頭を下げた。

 クオンはそれ以上、推測を口にしなかった。

 日和には、彼女が何も考えていないようには見えなかった。

 むしろ、長たちの話を聞いている間、時折その瞳に浮かんだ思案の色が気になっていた。

 けれど、クオンは穏やかな笑みを崩さない。

 日和も、今は何も尋ねなかった。


     ◇


 会談を終えた頃には、窓から差し込む陽の光が、部屋の奥まで伸びていた。

 長たちが昼食を勧めてくれたのは、その少し後のことだった。

 遠方から訪れた客人を、何も食べさせずに帰すわけにはいかない。

 そう言って笑う長たちに、クオンは懐かしそうな表情を浮かべた。


「では、お言葉に甘えましょうか」


 その返事を聞いた長たちは、どこか嬉しそうだった。

 案内された食事の間は、先ほどの広間よりも少し明るかった。

 窓が大きく取られ、外には小さな庭が見える。

 木々の間に張られた縄には布が干され、軒先には乾燥させているらしい山菜が束ねられていた。

 室内には使い込まれた木の卓が並び、棚には大きさの異なる器が整然と収められている。

 日和は、案内されるまま席に着きながら、何気なくその光景を眺めていた。


 神獣の暮らす国。

 そう聞いたとき、どこか現実離れした場所を想像していた。

 けれど、目の前にあるのは、人が暮らしているときに生まれる、ごく当たり前の風景だった。

 使い込まれた家具も、干された布も、棚の端に重ねられた器も、誰かが毎日ここで生活していることを物語っている。

 そのうち、廊下の向こうから香ばしい匂いが漂ってきた。

 日和が顔を上げると、料理を載せた盆を手に、何人かの住民が入ってくる。

 卓の中央に置かれた大皿を見て、日和は思わず目を丸くした。


「わあ……天ぷらだ」


 薄い衣をまとったキノコや山菜が、こんもりと盛られている。

 傘の大きなキノコを切り分けたものもあれば、小ぶりなものをそのまま揚げたものもあった。

 葉の形を残した山菜は、端が軽く反り返り、衣の隙間から鮮やかな緑が覗いている。

 揚げたての熱が、皿の上にまだ残っていた。

 続いて、温かな汁物とご飯、漬物が運ばれてくる。

 日和は料理を見渡し、それから智希の方へ顔を向けた。


「なんか、すごく馴染みのあるご飯だね」

「うん。ここの料理は、僕たちにも食べやすいものが多いよ」

「でも、キノコの種類は全然分からないかも」


 日和が大皿を覗き込むと、給仕をしていた女性が楽しそうに笑った。


「森で採れるものばかりですからね。季節によっても変わりますよ」

「そうなんですね。これ、全部食べられるキノコなんですか?」

「もちろんです。食べられないものもありますから、採るときにはよく見分けないといけませんけれど」


 その言葉に、日和は感心したように頷いた。

 同じキノコでも、形も色も違う。森の中でそれらを見分け、料理に使うことが、ここでは日常の知恵なのだろう。

 そんな会話を聞きながら、クオンは大皿へ視線を落としていた。

 その表情が、ふっと和らぐ。


「……懐かしい香りですね」


 小さな呟きだったが、近くにいた長には聞こえたらしい。


「クオン様がお好きだったものを、用意させていただきました」

「まあ」


 クオンは目を細めた。


「覚えていてくださったのですね」

「忘れるはずがございません」


 長の返事には、敬意と親しみが自然に混じっていた。

 クオンは少し嬉しそうに笑い、丁寧に礼を述べた。

 日和は、そのやり取りを見つめた。

 クオンが特別な存在であることは、集落へ入ったときから十分に伝わってきている。

 けれど、住民たちにとっての彼女は、ただ遠くから敬うだけの相手ではないらしい。

 好きな料理を覚えていて、帰ってきたら食べさせたいと思う。

 クオンもまた、それを心から喜んでいる。

 そんな関係が、日和には温かく感じられた。


「さあ、冷めないうちに召し上がってください」


 勧められて、皆が箸を取った。

 日和は、まず小さなキノコの天ぷらを選んだ。

 口に入れると、衣が軽く砕け、続いてキノコの香りがふわりと広がる。噛むほどに旨味が増し、思わず目を見開いた。


「……美味しい!」


 隣の智希が、彼女の反応を見て笑った。


「気に入った?」

「うん! これ、すごく香りがいいね」

「種類によって味も違うよ」

「じゃあ、ほかのも食べてみようかな」


 日和は大皿を眺め、今度は少し平たい形のキノコを取った。

 先ほどのものとは違う歯応えがあり、衣の内側に閉じ込められていた香りも異なる。

 一口ごとに新しい発見があるのが楽しくて、自然と笑みが浮かんだ。

 クオンはそんな彼女を、穏やかに見守っていた。


「日和さんは、キノコがお好きなのですね」

「はい。こんなに種類があると、食べ比べるのも楽しいです」

「ふふ。でしたら、ここへいらした甲斐がありましたね」

「本当にそう思います」


 日和が笑うと、クオンも嬉しそうに微笑んだ。

 少し離れた席では、彰人が料理に使われている山菜について尋ねていた。

 見慣れたものに似ていても、味や香りが違うらしく、何度か首を傾げては面白そうに箸を伸ばしている。

 セレスティアは汁物の味付けに興味を持ったようで、使われている材料を尋ねていた。

 教えられた名前を一つずつ確かめる姿に、給仕の女性も楽しそうに応じている。


 良澄は、料理を作ってくれた女性たちと静かに食事を楽しんでいた。

 柔らかな微笑みを向けたまま、料理の作り方や味付けを褒め続ける。

 女性の喜ぶポイントを押さえているのだろう、彼女たちは大層嬉しそうだ。


 会談の席で感じられた慎重な空気は、いつの間にか薄れていた。

 誰も無理に話題を変えたわけではない。

 ただ、温かな料理が運ばれ、食事を勧め合い、味について言葉を交わすうちに、普段の時間が戻ってきたのだった。


 窓の外では、子供たちの声が聞こえていた。

 庭の向こうを小さな影が駆け抜け、少し遅れて別の子供が追い掛けていく。

 どこかの家から呼び掛ける声がすると、二人は足を止め、揃って振り返った。

 その何気ない光景を、日和はしばらく眺めていた。

 先ほど聞いた、身寄りのない子供たちの話が頭をよぎる。

 今、窓の向こうで遊んでいる子供たちが、どんな暮らしをしているのかは分からない。

 けれど、笑い声は明るかった。

 この集落には、確かに人々の日常がある。

 何かが起きているのかもしれないという曖昧な話だけで、その日常のすべてを不安なものとして見てしまうのは、きっと違うのだろう。


「日和?」


 智希に呼ばれ、彼女は振り返った。


「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 日和は微笑み、手元の器へ視線を落とした。


「……こういう場所なんだなって、思って」


 智希は、少しだけ不思議そうな顔をした。

 けれど、日和が窓の外へ目を向けたのを見ると、その言葉の意味を何となく理解したらしい。


「そうだね」


 短く答え、彼もまた庭の方を見た。

 日和は温かな汁物を口にした。

 初めて訪れた土地なのに、食卓を囲んでいるうちに、不思議と緊張が薄れていく。

 神獣たちの国だからといって、何もかもが自分の知る世界と違うわけではない。

 暮らしがあり、食事があり、誰かを気遣う言葉がある。

 そのことが、日和には何より印象深かった。


     ◇


 昼食を終えた一行が集落を出たのは、陽が少し西へ傾き始めた頃だった。

 長たちは、帰り際まで丁寧に見送ってくれた。

 クオンが再び姿を見せたことが嬉しかったのだろう。

 広間を出てから集落の入口へ向かうまでにも、道行く住民たちが何度も足を止め、声を掛けてきた。

 クオンは、そのたびに穏やかに応じた。

 年配の者には懐かしそうに言葉を交わし、若い者には近況を尋ねる。子供が遠巻きにこちらを見ていれば、優しく微笑み掛けた。

 その姿には、長たちの前で見せた気品が変わらず備わっている。


 けれど日和には、初めて会ったときほど近寄り難くは感じられなかった。

 クオンがどれほど大切にされているのか。

 そして、クオン自身がどれほどこの場所を大切に思っているのか。

 短い滞在の間に、その両方を見た気がしていた。


 集落の端に近づくと、家々の間隔が少しずつ広がり始めた。

 畑の向こうに森が見え、道端には薪を積んだ小屋や、農具を立て掛けた壁が続いている。

 通りを行き交う荷車も、中心部に比べれば少なくなっていた。

 日和は、少し離れたところに小さな家々が寄り添うように並んでいるのを見つけた。


 建物は古く、屋根の形も揃っていない。

 軒先には使い込まれた道具が置かれ、戸口の近くでは、何人かの子供が何かを相談しているようだった。

 そのうちの一人が、抱えていた籠を別の子へ渡す。

 受け取った子供は、少し大きな声で何かを言い、皆で笑った。


 日和は、あの一角が長たちの話していた場所なのだろうかと思った。

 確かめることはしなかった。

 ただ、子供たちの姿を見つめながら、彼らにも彼らなりの毎日があるのだと感じていた。

 やがて集落の入口を越えると、道の両側に木々が増えていった。


 人の声は次第に遠ざかり、代わりに葉擦れの音が耳に届くようになる。

 森の中は、来たときと変わらず穏やかだった。

 足元には踏み固められた道が続き、木々の隙間から差し込む光が、地面に不規則な模様を描いている。

 湿った土の匂いに、どこか青い草の香りが混じっていた。


 日和は、時折振り返りながら歩いた。

 少し前まで聞こえていた集落の物音は、もうほとんど届かない。

 クオンが足を緩めたのは、その頃だった。


「……皆様」


 静かな声に、一行の歩みが止まった。

 クオンは一度、来た道の方へ目を向けた。

 木々の向こうに集落の姿は見えない。風が枝を揺らし、葉の間から落ちた光が、彼女の髪の上をゆっくりと移っていった。


「先ほどのお話ですが……少し、気になることがございます」


 その言葉を聞いて、良澄はすぐにクオンへ向き直った。

 会談の席では、彼女がほとんど自分の考えを口にしなかったことを覚えていたのだろう。


「何か、感じることがありましたか?」

「確かなことではありません」


 クオンは、そう前置きした。


「長たちのお話は、どれも日々の暮らしの中で起こり得ることです。羊が迷い込むことも、子供たちが別の土地へ移ることも、それ自体は珍しくありません」


 その声は、長たちと話していたときと同じように落ち着いていた。

 ただ、言葉の間には、何かを慎重に確かめるような思案があった。


「けれど……あの辺りだけの話とも、思えないのです」


 良澄は、その言葉をすぐには受け取らなかった。

 頭の中で、先ほど聞いた話をもう一度並べ直す。

 羊の数が合わないという、比較的確かな事実。

 最近姿を見かけない子供がいるという、曖昧な話。

 ほかの地域でも何かが起きているらしいという、出どころの分からない噂。

 どれも、それだけでは判断の材料にならない。

 しかし、今いる場所だけで考えていても、確かめられることには限りがある。


「……中央で、何か情報を得ているかもしれませんね」


 クオンが続けた。


「ほかの地域のことも含めて、一度、確かめてみてはいかがでしょう」


 その提案には、何かを断定する響きはなかった。

 ただ、分からないことがあるなら、分かる場所で確かめてみよう。

 それだけの、穏やかな提案だった。

 良澄は頷いた。


「そうですね。今聞いた話だけでは、何かが起きているのかどうかも分かりませんし」

「せやな」


 彰人が応じる。

 彼は道の脇に視線を向け、しばらく考えていた。


「ここだけ見とっても分からんことはあるやろ。ほかで何も起きてへんのやったら、それも分かるしな」

「うん。僕も中央で確認するのがいいと思う」


 智希も同意した。

 日和は、皆の言葉を聞きながら、クオンの横顔を見ていた。

 長たちの前では、彼女はこうした懸念を口にしなかった。

 今になって初めて話したのは、集落の人々を余計に心配させないためなのだろうか。

 日和には、そう思えた。


 長たちはすでに、自分たちの暮らしの中で起きていることを気に掛けている。

 そこへクオンほどの存在が、ほかの地域にも関わるかもしれないと告げれば、まだ何も確かめられていなくても、その言葉は大きな意味を持ってしまう。

 だから、必要な話を聞き終えるまでは、静かにしていたのかもしれない。


 日和は何も言わなかった。

 ただ、クオンが住民たちへ向けていた柔らかな笑みを思い出し、その気遣いに少し胸が温かくなった。

 良澄は、クオンの言葉を受けてしばらく考えていたが、やがて傍らへ視線を向けた。


「……ルシェル。君は、どう思う?」


 その声に応じるように、良澄の隣に一人の女性が姿を現した。

 白を基調とした装いに、落ち着いた佇まい。

 森の木漏れ日を受けて立つその姿には、どこか清らかな雰囲気があった。


「……えっ?」


 日和は思わず声を漏らした。

 つい先ほどまで、そこには誰もいなかったはずだった。

 女性は驚く日和をよそに、良澄へ静かに視線を向ける。


「……私も、中央で確かめるのがよいと思います」


 その返事は穏やかだったが、すぐに続きを口にすることはなかった。

 彼女は一度、周囲の木々へ目を向けた。

 葉擦れの音が、短い沈黙を埋める。


「何かが起きていると、申し上げられるわけではありません。ただ、この土地で聞いたお話だけでは、まだ足りないように感じます」

「分かった。ありがとう」


 良澄は静かに頷いた。


 日和はルシェルを見つめ、それから智希へ視線を戻した。

 何か言おうとして、やめる。

 もう一度ルシェルを見る。


「……ねえ、智希君」

「ん?」

「もしかして、こういうのって普通なの?」


 智希は少し考えてから笑った。


「僕たちにとっては、かな」

「……そっかぁ」


 日和は小さく息を吐いた。

 どうやら、驚いているのは自分だけらしい。


「次は中央ですね」


 セレスティアが皆を見渡した。

 彼女もまた、これまでの話を静かに聞いていた。

 神獣国家で暮らす者として、地域ごとに事情が異なることも、伝わってくる情報に偏りがあることも理解しているのだろう。


「うん。そうしよう」


 智希が答える。

 彰人も頷き、一行の間で次の行き先が決まった。

 日和は、森の奥へ続く道を見つめた。

 今日、初めて足を踏み入れた神獣国家。

 クオンの故郷を訪れ、そこに暮らす人々と言葉を交わし、同じ食卓を囲んだ。

 それだけでも、自分の知らなかった世界が大きく広がったように感じている。


 けれど、この国には、まだほかにも多くの種族が暮らしているのだという。

 それぞれに集落があり、暮らしがあり、考え方がある。

 今見てきた場所は、そのほんの一部に過ぎない。


「……まだ、知らないことばっかりだね」


 思わず呟くと、隣にいた智希が顔を向けた。


「そうだね」


 日和は少し笑った。


「でも、来てよかった」


 智希は、彼女の言葉を聞いて目を瞬かせた。


「そう?」

「うん。クオンさんのことも、ここに住んでる人たちのことも、少しは知れたから」


 日和は、来た道の方を振り返った。

 もう集落は見えない。

 それでも、あの広間で交わされた言葉や、昼食の香り、住民たちの笑顔は、まだ鮮明に思い出せた。


「何か気になることがあるなら、ちゃんと分かるといいね」


 その言葉に、智希は穏やかに頷いた。


「うん。そうだね」


 少し前を歩いていたクオンが、二人の会話を聞いて微笑んだ。

 森には、相変わらず柔らかな陽の光が差し込んでいた。

 木々の葉が風に揺れ、足元にはまだらな影が落ちている。

 どこかで鳥が鳴き、その声が遠くの木立へ吸い込まれていった。


 何かが起きていると決まったわけではない。

 羊が戻らなかったことにも、子供たちが姿を見せなくなったことにも、それぞれ何でもない理由があるのかもしれない。

 長たちが口にしたのも、ただ、日常の中で少し気になっていたことだった。


 けれど、普段なら見過ごしてしまうような小さな話も、いくつか重ねてみると、別の形に見えることがある。

 その形が何を意味するのか。

 あるいは、そもそも意味などないのか。


 今はまだ、誰にも分からなかった。

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