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十二神承   作者: 境塚 透
救えないもの
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34/37

いつもと違う、いつもの一日

 枕元に置いたスマートフォンが、設定した時刻を知らせる音を鳴らし始めた。

 最初の数秒は、それが何の音なのか理解できなかった。

 夢の続きなのか、どこかで鳴っている機械の音なのか、まだ眠りの残る意識では判別がつかず、智希は掛け布団の中で寝返りを打ちながら、枕の横へ手を伸ばした。

 指先に触れたスマートフォンを引き寄せ、薄く目を開けて画面を確認する。

 見慣れた時刻が表示されていることを認識すると、ようやく今日も大学へ行かなければならないことを思い出し、アラームを止めた。


「……んー、もう朝かぁ」


 眠気の残る声で呟いてから、もう一度枕へ頭を沈める。

 このまま二度寝してしまえば気持ちがいいだろうとは思うものの、今日は午前中に出席しておかなければならない講義がある。

 最近は大学へ顔を出せない日も続いていたため、これ以上欠席を増やすわけにはいかなかった。

 智希はしばらく天井を眺めたあと、諦めたように上半身を起こした。

 寝室のカーテンは昨夜、完全には閉めていなかったらしい。

 窓の端から入り込んだ朝の光が、床に置いた鞄の辺りまで伸びている。

 外からは車の走る音に混じって、近くの住宅で何かを片付けているらしい物音が聞こえていた。


 大学からそれほど離れていない場所に借りているアパートは、一人暮らしとしては少し余裕のある一LDKだった。

 寝室とリビングが分かれているおかげで、生活の場所と眠る場所を区別できるのはありがたい。

 もっとも、実際にはリビングのソファでうたた寝をしてしまうこともあるし、講義の資料を広げたまま寝室へ引き上げることもあるため、間取りを十分に活用できているかと問われれば、少し怪しいところだった。

 壁際にはギターが立て掛けられ、その隣の棚には教科書や専門書、動物の飼育に関する資料が並んでいる。

 大学で使うものと趣味のものが同じ空間に収まっている辺りは、いかにも学生の一人暮らしといったところだろう。

 智希はベッドから足を下ろし、床に置いていたスリッパを探した。

 片方はすぐに見つかったが、もう片方が見当たらない。


「……あれ?」


 ベッドの下を覗き込むと、昨夜脱いだ場所から少し奥へ入り込んでいた。

 寝ている間に蹴り飛ばしたのかもしれないと思いながら拾い上げ、ようやく立ち上がったところで、意識の片隅に引っ掛かるものがあった。

 何かがおかしい。

 ただし、それが部屋の中の出来事ではないことは、すぐに分かった。

 窓の外に異常があるわけでもなければ、身体の調子が悪いわけでもない。むしろ、目覚めたばかりにしては頭がすっきりしている方だった。

 それでも、普段なら意識することのない何かが、妙に気に掛かる。


「……クオン?」


 智希が呼び掛けると、少し間を置いて声が返ってきた。


『起きたか』

「うん。おはよう」

『ああ』


 それだけで会話が途切れた。

 クオンが必要以上に言葉を重ねないことは珍しくないし、朝から長々と話し掛けてくるような相手でもない。

 それでも、今の返答にはどこか意識が別の場所へ向いているような響きがあり、智希はスリッパを履きながら首を傾げた。


「何か考え事?」

『……考え事、か』

「うん。なんか、いつもと違う気がするんだけど」


 問い掛けても、すぐには返事がなかった。

 智希はそのまま寝室を出て、リビングのカーテンを開けた。

 朝の日差しが室内へ広がり、テーブルの上に置いた講義資料や、昨夜飲んだままのマグカップが目に入る。

 いつもなら、片付け忘れたものを見つけて少し面倒に感じるところだったが、今朝はクオンの沈黙の方が気になった。


『妙な感覚がある』


 しばらくして、クオンがそう答えた。


「妙な感覚?」

『うむ。何かがあるようにも思えるのだが、はっきりしない』


 智希はマグカップを手に取り、キッチンへ運びながら考えた。

 神獣が人間とは異なる感覚を持っていることは、今さら説明されるまでもない。

 自分たちが気付かないものを察知することもあれば、逆に、人間にとって当たり前のことを不思議がることもある。

 ただ、クオンが何かを感じ取ったのであれば、普通はもう少し具体的な話になる。

 それが危険なのか、どこかに異常があるのか、あるいは単に気になるだけなのか。

 少なくとも、判断するための材料を何かしら示してくれることが多かった。


「どこかで何か起きてるってこと?」

『それも分からぬ。近いのか遠いのかさえ、判然としない』

「えー、それは困るね」

『こちらも困っている』


 少し不満そうな返答に、智希は思わず笑った。

 クオン自身、説明できないことが気に入らないらしい。

 普段から物事を曖昧にしたがる相手ではないだけに、何となく落ち着かないという状態そのものが、余計に気になるのだろう。


「危ない感じはしない?」

『少なくとも、今すぐお前に何かが起こるようなものではないと思う。だが、それも確かなことは言えぬ』

「そっかぁ……」


 智希は冷蔵庫を開け、朝食に使えそうなものを確認した。

 卵と食パン、買い置きの野菜が少し残っている。冷蔵庫の中身はそれほど充実していなかったが、朝食を用意するには十分だった。

 フライパンを取り出し、卵を割り入れる。火が通るまでの間にパンを焼き、冷蔵庫から飲み物を取り出してテーブルへ並べると、ようやくいつもの朝らしい景色になった。

 それでも、クオンは何かを考えているようだった。


「クオンでも分かんないこと、あるんだね」

『知らぬことなど、いくらでもある』

「いや、そうなんだけどさ。何か感じてるのに、それが何か分かんないって珍しいなって」

『……そうだな』


 智希は焼き上がった卵を皿へ移し、椅子へ腰を下ろした。

 クオンの言葉を聞いている限り、すぐに何かをしなければならない状況ではなさそうだった。

 だからといって、何も感じていないことにするのも違う気がする。

 ただ、手掛かりがない以上、今ここで考え込んでも答えは出ない。


「じゃあ、とりあえず様子見かな」

『そうするしかあるまい』

「何か分かったら教えてよ。大学にいるときでもいいから」

『無論だ』


 智希は頷き、朝食に手を伸ばした。

 窓の外では、通勤や通学に向かう人たちの気配が少しずつ増えている。

 住宅街の一角にあるアパートから見える景色は、特別変わったところのないものだった。

 数日前まで自分たちが関わっていた出来事を考えると、こうして普通に朝食を食べていることが、少し不思議にも思える。

 異なる世界へ渡り、そこで暮らす人々と出会い、自分たちの知らなかった事情に触れた。

 あちらで経験したことを思い返せば、大学の講義やサークル活動だけを気にしていればよかった頃とは、随分違う場所まで来てしまったようにも感じられる。


 もっとも、だからといって大学生でなくなったわけではない。

 講義には出なければならないし、課題も提出しなければならない。

 サークルで世話をしている動物たちも、自分たちの都合に合わせて生活を止めてくれるわけではなかった。

 向こうで何があろうと、こちらの日常は続いている。


 智希は食べ終えた皿を片付け、洗面所へ向かった。

 鏡の前で顔を洗い、髪を整えてから、寝室へ戻って着替えを済ませる。

 講義で使う資料を鞄へ入れ、スマートフォンの充電を確認したところで、ふと壁際のギターへ視線が向いた。

 最近は、まともに触っていなかった気がする。

 時間ができたら少し弾こうかと考えたものの、今日はサークルにも顔を出したい。

 帰宅する頃には、それなりの時間になっているだろう。


「……まあ、帰ってから考えよ」


 智希はそう呟き、鞄を肩に掛けた。

 玄関で靴を履き、鍵を手に取る。出掛ける直前になってもう一度室内を見回したが、忘れ物はなさそうだった。


「じゃ、行ってきまーす」


 誰もいない部屋へ向けた挨拶に、クオンが小さく応じた。


『気を付けて行け』

「一緒にいるじゃん」

『それとこれとは別だ』


 思わず笑いながら、智希は玄関の扉を閉めた。

 階段を下りると、朝の空気が頬に触れる。

 日差しはまだ十分に暖かく、少し歩いただけで寒さを感じるような季節ではない。

 とはいえ、真夏のようなまとわりつく暑さは薄れ、外へ出たときの空気には以前よりも過ごしやすさがあった。


 駐輪スペースへ向かうと、いつもの場所にモンキーが停まっていた。

 小柄な智希にとって、この車体の大きさは妙にしっくりくるものだった。

 普通のバイクでは身体の方が少し小さく見えてしまうこともあるが、モンキーに跨がっていると、むしろ車体との釣り合いが取れて見える。友人たちからも似合っていると言われることが多く、本人もそれなりに気に入っていた。

 もっとも、停まっているモンキーは、購入したときの姿をそのまま残しているわけではない。

 後輪はロングスイングアームによって後方へ伸ばされ、純正とは異なる長めのホイールベースが、車体全体に独特の低く構えた印象を与えている。後ろにはZテールが取り付けられ、ハンドルもバーハンドルへ交換されていた。もともとの愛嬌のある車体に、智希なりの好みが加わった一台だった。

 小さなバイクだからといって、特に何も考えずに乗っているわけではない。

 むしろ、こうして少しずつ手を入れ、自分の好みに仕上げていくことも楽しみの一つになっている。

 智希は車体を引き出しながら、軽く全体を見回した。

 タイヤや足回りに目立った異常がないことを確かめ、ヘルメットを被ってからエンジンを始動させる。

 聞き慣れた排気音が朝の空気に混じると、ようやく今日も一日が始まったような気がした。

 周囲の安全を確認して道路へ出る。

 大学までの道は何度も通っているため、交差点の位置も、朝に混雑しやすい場所も把握していた。

 通学する学生の自転車や、仕事へ向かう車が行き交う中を、智希はいつもの速度で走っていく。


 信号待ちで停車したとき、ふとクオンのことを思い出した。

 今朝の違和感は、まだ続いているのだろうか。

 尋ねようかとも思ったが、何か分かれば教えてくれると言っていたのだから、今は任せておけばいいだろう。

 信号が青に変わり、前の車が動き始める。

 智希もそれに合わせてアクセルを開け、大学へ向かった。


     ◇


 大学の駐輪場は、既に多くの学生で賑わっていた。

 自転車を押して歩く学生や、原付を停めてヘルメットを外している学生が行き交い、建物へ向かう通路にも人の流れができている。

 智希はいつもの場所へモンキーを停め、エンジンを切った。

 ヘルメットを外して鞄を持ち直したところで、背後から聞き慣れた声が掛かった。


「あれ、智希君?」


 振り返ると、少し離れたところに森宮日和(もりみやひより)が立っていた。

 肩に掛けた鞄を持ち直しながらこちらへ歩いてくる姿を見て、智希は片手を上げた。


「あ、日和ちゃん。おはよう」

「おはよう。……っていうか、久しぶりじゃない?」

「そうだっけ?」

「そうだよ。最近、全然来なかったでしょ」


 日和は少し呆れたような表情を浮かべたが、その声に本気で責めるような響きはなかった。

 同じ動物飼育サークルに所属している日和とは、普段なら部室や飼育施設で顔を合わせることが多い。

 講義の時間が違っても、動物たちの世話をするために立ち寄れば、自然と会う機会ができる。

 そのため、しばらく姿を見せていなかった智希のことが気になっていたのだろう。


「あー……ちょっと色々あって」

「色々?」

「うん。まあ、遠出してたっていうか」

「旅行?」

「旅行……とはちょっと違うかなぁ」


 智希は曖昧に笑った。

 実際、遠出という言葉で済ませるには、少々規模が大きすぎる出来事だった。

 行き先を説明するだけでも一苦労だし、そこで何をしていたのかまで話し始めれば、午前中の講義が終わってしまうかもしれない。

 日和はそんな事情を知る由もなく、智希の反応を見て首を傾げた。


「何それ。なんか怪しい」

「いや、怪しいことはしてないよ?」

「ほんとに?」

「ほんとほんと」


 智希が笑って答えると、日和もつられるように笑った。

 それ以上追及するつもりはなかったらしく、日和は話題を変えるように鞄を持ち直した。


「まあ、元気そうだからいいけど。サークルの方にも顔出してよね」

「うん。今日は行こうと思ってる」

「ほんと?」

「もちろん。しばらく任せっぱなしだったし」


 智希がそう答えると、日和は安心したように頷いた。

 彼らが所属しているのは、大学の動物飼育サークルだった。

 もっとも、名前から想像するような、小動物を数匹飼っているだけの活動ではない。

 大学内の飼育施設や協力先の設備を利用しながら、複数の動物を継続的に世話しており、外部の支援団体や協力者からも、飼育に必要な物資や設備面での支援を受けている。

 部員たちはそれぞれ担当する動物を持ち、日常的な給餌や清掃、健康状態の確認などを分担していた。

 智希が主に関わっているのは犬や猫を中心とした動物たちで、狐もその担当範囲に含まれている。

 施設にはほかにもタヌキやアライグマなどがいるため、単に犬猫の世話だけをしていればいいというわけではなかった。

 動物によって必要な環境も、食事も、接し方も異なる。

 人に慣れている個体もいれば、慎重に距離を取らなければならない個体もいるため、日々の作業は想像以上に細かい。


 それでも智希がこの活動を続けているのは、単純に動物が好きだからという理由だけではなかった。

 言葉を交わせない相手が何を求めているのか、どうすれば安心してくれるのかを考えることは、決して退屈ではない。

 昨日まで警戒していた動物が少しだけ近づいてきたり、普段と違う様子に気付いて早めに対処できたりすると、それだけで嬉しくなる。

 クオンとの関係とはまた違うが、相手の様子を観察して理解しようとする点では、どこか似ているところもあった。


「犬たちは元気?」


 智希が尋ねると、日和は頷いた。


「うん。みんな元気だよ。ただ、最近あんまり広場へ連れて行けてないんだよね」

「そうなの?」

「天気とか、人手とか、色々重なっちゃって。普段の散歩はしてるんだけど、思い切り走らせる機会が少なくて」


 日和は少し困ったように笑った。

 サークルでは、動物たちの運動不足を解消するため、大学から少し離れた山の広場を借りている。

 周囲を柵で囲んだ広い敷地で、犬たちを自由に走らせられるよう整備されている場所だった。

 一般的なドッグランよりも広く、多少の傾斜や自然の地形も残っているため、動物たちにとってはいい運動になる。

 ただし、大学から歩いて行ける距離ではない。

 複数の犬を連れて移動するには車が必要になるし、現地で安全に運動させるためには、それなりの人数も確保しなければならなかった。


「そっかぁ。しばらく行ってなかったもんね」

「そうなの。みんな元気が余ってる感じ」

「じゃあ、そろそろ連れて行きたいね」

「でしょ?」


 日和の表情が少し明るくなった。

 智希はその反応を見ながら、今日の午後の予定を思い返した。

 午前中の講義さえ終われば、午後は比較的自由に動ける。サークルへ顔を出すつもりだったのだから、そのまま犬たちを連れて出掛けても問題はなさそうだった。

 もっとも、車と人手の確保は別の話になる。


「今日って、みんな忙しいのかな?」

「どうだろう。午後は講義ある人もいるし……」

「そっか」


 智希は少し考えた。

 日和も同じことを考えていたらしく、二人は顔を見合わせた。


「……今日、行っちゃう?」


 日和がそう言うと、智希は笑った。


「いいねぇ。でも、車どうする?」

「そこなんだよね」


 日和は困ったように眉を寄せた。

 犬たちを連れて行くとなれば、普通の乗用車に何人かで乗って出掛けるわけにはいかない。輸

 送用の設備がある車を使い、犬たちの安全を確保したうえで、現地で面倒を見られる人数を揃える必要がある。

 智希はしばらく考えたあと、ある人物の顔を思い浮かべた。


「……まあ、何とかなるかな」

「ほんと?」

「うん。ちょっと聞いてみる」

「誰に?」

「彰人」


 日和はその名前を聞いて、少し笑った。


「また彰人君?」

「こういうとき、頼みやすいんだよね」

「頼みやすいっていうか、巻き込んでない?」

「……そうとも言うかなぁ」


 智希が笑うと、日和も声を立てて笑った。

 もっとも、今すぐ連絡を始めるには時間が少し足りない。

 周囲の学生たちが次々と講義棟へ向かい始めており、智希もそろそろ教室へ移動しなければならなかった。


「じゃあ、お昼にまた話そうか」

「うん。食堂でいい?」

「いいよ。講義終わったら連絡するね」

「了解」


 日和は片手を上げ、別の建物へ向かって歩き出した。

 智希も鞄を持ち直し、講義棟へ向かう。

 歩きながらスマートフォンを確認すると、授業開始までそれほど余裕はなかった。


「……ちょっと急がないと」


 足を速めながら、智希は今日の午後が思ったより賑やかになりそうだと考えていた。


     ◇


 日和と別れて講義棟へ向かった智希は、開始時刻の少し前に教室へ滑り込み、中ほどにある席へ腰を下ろした。

 農学部の動物科学系学科に所属する智希は、動物行動学を中心に、野生動物生態学や保全生態学にも関心を持って学んでいる。

 もともと動物が好きだったことも進路を選んだ理由の一つだが、大学に入ってからは、動物たちが示す何気ない仕草の裏側に、思っていた以上に複雑な理由があると知る機会が増えていた。

 この日の講義も、そんな興味を刺激する内容だった。


 教員がスクリーンに映し出したのは、群れで生活する動物たちの行動を記録した映像だった。

 個体同士の距離の取り方や、周囲の変化に対する反応の違いを比較しながら、同じ種であっても置かれた環境や経験によって行動が変わることを説明している。

 智希はノートに要点を書き留めながら、映像の中で群れから少し離れて周囲を見回している一頭に目を留めた。

 他の個体が食事に夢中になっている間も、その一頭だけは頻繁に頭を上げ、耳を動かしている。

 警戒しているのだろうか。それとも、単に周囲の音に敏感な個体なのだろうか。

 映像だけでは判断できないことも多いが、だからこそ観察を重ねる意味がある。智希はそんなことを考えながら、教員が説明する行動の分類をノートに追加した。


 ふと、朝のクオンの様子が頭をよぎった。

 普段なら自分の感覚に迷いを見せることの少ないクオンが、何かを感じているにもかかわらず、その正体を掴めずにいる。

 もちろん、神獣を普通の動物と同じように考えることはできないし、講義で学んでいる内容がそのまま当てはまるとも思っていない。

 それでも、いつもとは違う反応が続いていることだけは気になっていた。

 智希は一度ペンを止めたものの、すぐに意識をスクリーンへ戻した。


 今ここで考え込んでも、分からないものは分からない。クオン自身にも説明できない感覚なら、なおさらだった。

 講義が終わる頃には、窓から差し込む光の角度も変わっていた。

 智希はノートと筆記具を鞄へ収め、周囲の学生たちに混じって教室を出ると、廊下には次の講義へ向かう学生や、昼食のために移動する学生が溢れていた。

 スマートフォンを取り出して日和へ連絡すると、すぐに返事が届いた。


『食堂のいつものところにいるよ』

「早いなぁ」


 智希は笑いながら返信し、食堂へ向かった。


     ◇


 昼休みの食堂は、学生たちの話し声で賑わっていた。

 入口付近には食券を購入する学生の列ができており、料理を受け取った者たちが空いている席を探して歩いている。

 厨房の方からは調理器具の音が聞こえ、温かい料理の匂いが漂っていた。

 智希はトレーを持って列に並び、今日の定食を注文した。

 料理を受け取ってから周囲を見回すと、窓際の席で日和が手を振っているのが見えた。


「こっちこっち!」

「お待たせ」

「全然。私もさっき来たところ」


 智希は向かい側の椅子へ腰を下ろし、トレーを置いた。

 日和の前には既に昼食が並んでおり、食べ始める前にスマートフォンで何かを確認していたらしい。


「講義どうだった?」

「普通かなぁ。ちょっと久しぶりだったから、最初は頭が追いつかなかったけど」

「ちゃんと出ないとダメだよ?」

「分かってるって」


 智希が笑うと、日和も笑った。

 食堂の窓からは、昼休みを過ごす学生たちの姿が見える。

 芝生の近くで友人と話している者もいれば、ベンチに座って食事をしている者もいる。

 少し離れた場所では、サークルの勧誘らしい活動をしている学生たちが、通り掛かった人へ声を掛けていた。

 智希は定食に箸を伸ばしながら、午前中に話していたことを思い出した。


「そういえば、ドッグランの話だけど」

「うん!」


 日和はすぐに顔を上げた。


「今日、行けそう?」

「僕は大丈夫。午後は空いてるし」

「ほんと? じゃあ、あとは人数と車だね」

「そうそう」


 智希は昼食の残りを口へ運びながら、午後の予定を頭の中で組み立てていた。

 犬たちを六頭ほど連れて行くとなれば、まず必要なのは車だった。

 サークルで管理している動物輸送車を使えば移動そのものは何とかなるが、運転できる人間と犬たちの世話をする人数は、もう少し欲しい。

 何より、せっかく広い場所へ連れて行くのだから、犬たちを十分に遊ばせてやりたかった。


「彰人、今日って暇かな」


 向かいで食事をしていた日和が顔を上げる。

 智希はスマートフォンを取り出し、連絡先を探しながら、彰人なら急な誘いにも付き合ってくれるのではないかと考えていた。


「八代君? この前、一緒に来てくれた人だよね」

「そうそう。犬とも遊んでくれるし、誘ってみようかなって。あと、雅史さんにも頼めれば車を出してもらえると思うんだよね」

「それなら助かるなあ。私たちだけだと、移動も大変だし」


 日和は頷くと、飲み物を一口飲んでから、テーブルの端に置いていたスマートフォンを自分の方へ引き寄せた。

 こちらも誰かに連絡するつもりらしい。智希が尋ねるより先に、彼女は少し考えるような表情を浮かべた。


「小春(こはる)も誘ってみようかな。今日、午後は空いてるはずなんだよね」

「お、いいね。人数多い方が楽しいし」

「ただ、あの子のところに寄ってもらわないといけないけど」

「ルート次第じゃない? 雅史さんに聞いてみよう」


 日和が妹へのメッセージを打ち始めたところで、智希も彰人の連絡先を開き、発信ボタンを押した。

 食堂の賑わいに紛れるように呼び出し音が続き、数回鳴ったところで通話が繋がると、聞き慣れた彰人の声が耳に届いた。


『おう、智希。どないしたん?』

「彰人、今日の午後って予定ある?」

『午後? いや、特に何もないけど。なんや、急に』


 いつもの調子で返ってきた声に、智希は自然と頬を緩めた。

 彰人は突然の連絡に驚いた様子もなく、むしろ何か面白い話でも持ち込まれたのかと期待しているように聞こえる。


「サークルの犬たちをドッグランに連れて行こうと思ってさ。山の方にある、いつもの広いところ。よかったら一緒にどうかなって」

『ああ、あそこか。ええやん。何頭くらい連れて行くん?』

「六頭くらいかな。日和も一緒だし、あと何人か誘えたらと思ってる」


 智希が答えると、向かいの日和が指を六本立てて確認してきた。

 頷いて返すと、彼女は鞄から小さなメモ帳を取り出し、候補に挙がっている犬たちの名前を書き始める。

 連れて行く頭数が決まれば、それぞれの相性や移動中の負担も考えなければならないため、単純に元気な犬から選べばいいというものでもない。

 智希も普段の飼育当番で見ている様子を思い浮かべながら、日和の書いた名前を目で追った。

 走ることが大好きな犬もいれば、広い場所ではしゃぎすぎてしまう犬もいる。

 誰を一緒に連れて行けば落ち着いて遊ばせられるか、頭の中で組み合わせを考えていると、電話の向こうから彰人の声が聞こえてきた。


『六頭か。それやったら車いるやろ。雅史さんに声掛けとこか?』


 智希は思わず日和と顔を見合わせた。

 ちょうど頼もうとしていたことを彰人の方から口にしてくれたので、話が早い。日和も通話の内容を察したらしく、期待するようにこちらを見ている。


「お願いできる? サークルの輸送車を使いたいんだよね。雅史さんが運転してくれるなら助かるんだけど」

『分かった。聞いてみるわ。あと恭平も今日、半日で終わる言うてた気がするし、誘ってみたらええんちゃう?』


 その名前を聞いて、智希は恭平が以前、犬たちと遊んでいたときの様子を思い出した。

 身体を動かすことを面倒がらず、犬たちが走り回っても楽しそうに付き合ってくれる恭平なら、今回も頼もしい助っ人になってくれそうだった。

 智希が空いている方の手で日和に恭平の名前を示すと、彼女もすぐに頷いた。

 午後の予定を急に決めたわりには、必要な人手が思った以上に集まりそうで、智希の気持ちも少し弾んでくる。


「あ、それいいね。じゃあ恭平には僕から連絡してみるよ」


 彰人は短く了承すると、集合場所と時間を確認した。

 午後一時頃に部室の前へ集まること、犬たちの準備は智希と日和が進めておくことを伝えると、電話の向こうで何か思い出したような間が生まれた。


『ほな、また後でな。あ、俺も一人連れてってええ?』

「もちろん。誰?」

『まあ、来たら分かるわ』


 少し楽しそうな声だった。智希がさらに尋ねようとする前に、彰人は雅史へ連絡するからと言って通話を終えてしまう。

 スマートフォンの画面を見つめた智希は、思わず笑ってしまった。


「何か、もう一人連れてくるって」

「お友達?」

「たぶんね。誰かは教えてくれなかったけど」


 日和は不思議そうに首を傾げたものの、人数が増えること自体は歓迎らしく、すぐに犬たちの組み合わせを考え始めた。

 元気のいい犬ばかりを連れて行くと、遊ばせる側も相応に体力を使う。逆に、おとなしい犬たちだけではせっかくの広場を持て余すかもしれない。

 二人は普段の様子を思い浮かべながら、誰を連れて行くのがよいか相談した。

 その間に智希は恭平へ連絡を入れることにした。

 恭平は午後の予定が空いていると聞いていたが、授業が終わる時刻によっては集合に間に合わない可能性もある。智希は一度時計を確認し、ちょうど昼休みの時間帯であることを確かめてから発信した。


『もしもし、智希さん?』

「恭平、今大丈夫?」

『大丈夫っすよ。ちょうど授業終わったところなんで。何かありました?』


 背後から人の話し声が聞こえてきた。

 学校の廊下か昇降口あたりにいるのだろう。

 恭平の声は少し弾んでいて、午前中の授業を終えた解放感が伝わってくるようだった。


「今日の午後、犬たちをドッグランに連れて行くんだけど、一緒にどうかなって。彰人も来る予定だよ」

『犬っすか! いいっすね。俺も行きたいっす』


 恭平の返事は予想していた以上に早かった。

 電話越しでも声が明るくなったのが分かり、智希は思わず笑みを浮かべる。

 背後から聞こえていた人の話し声が少し遠ざかったところを見ると、恭平は通話しながら人の多い場所を離れたのかもしれない。

 智希は食堂の時計へ目を向けた。

 午後一時の集合まで、まだ少し時間はあるものの、大学までの移動を考えれば、恭平にも早めに予定を伝えておいた方がよさそうだった。

 日和はその間もメモ帳に目を落とし、必要な持ち物を確認している。


「じゃあ、一時頃に大学のサークル部室まで来られる?」


『余裕っす。帰って着替えてから向かいますよ。何か持っていった方がいいものあります?』


 恭平がすぐに参加を決めたことに、智希は少し安心した。

 犬たちと遊ぶのに慣れている人間が増えれば、それだけ目も行き届く。

 普段から身体を動かすことが苦にならない恭平なら、広い場所で思いきり走り回る犬たちにも十分付き合ってくれそうだった。


「動きやすい服装なら大丈夫かな。飲み物とかはこっちで用意するよ」

『了解っす。じゃあ、後で!』


 通話が終わると、日和はちょうど妹へのメッセージを送り終えたところだった。

 テーブルの上には食べ終わった食器が並び、周囲の席でも昼食を終えた学生たちが少しずつ立ち上がり始めている。

 食堂の混雑はまだ続いていたが、窓際の席には午後の柔らかな光が差し込み、朝から続いていた慌ただしさが一段落したようにも感じられた。


「恭平君も来られるんだ?」

「うん。午後は空いてるみたい。これでだいぶ賑やかになりそうだね」

「小春も大丈夫だって。途中で拾ってもらえれば行けるって返事が来たよ」

「じゃあ、あとは車だね」


 智希がそう言ったところで、スマートフォンが短く震えた。

 彰人からのメッセージだった。雅史に連絡がつき、午後の運転を引き受けてもらえたらしい。サークルの輸送車も使えることになり、集合時刻には部室の前へ車を回してくれるという。

 智希は画面を日和へ向けた。彼女は内容を確かめると、ようやく予定が形になったことに安心したようで、小さく息を吐いた。


「よかった。これなら行けそうだね」

「うん。じゃあ、午後は犬たちを思いっきり遊ばせよう」


 日和は嬉しそうに頷いたが、すぐに鞄から小さなメモ帳を取り出した。

 連れて行く犬たちの名前を確認し、必要なものを一つずつ書き出し始める。

 智希も横から覗き込みながら、飲み水やタオル、遊び道具など、普段の外出で使っているものを挙げていった。

 こうした準備は地味な作業だが、犬たちを安全に遊ばせるためには欠かせない。

 広い場所へ連れて行くだけでなく、移動中の負担や帰ってからの手入れまで考えておく必要があることを、二人ともこれまでの活動でよく知っていた。

 必要なものをひと通り確認すると、日和はメモ帳を閉じ、智希と一緒に食器を返却口へ運んだ。


 二人は食堂を出て、サークルの部室へ向かった。

 昼下がりの大学構内には、午前中と変わらない学生たちの姿があった。

 講義へ向かう者、友人と話しながら歩く者、部活動の準備をしている者。

 その中を歩きながら、智希は今日の午後が賑やかになりそうだと考えていた。

 犬たちを連れて山へ行き、思い切り走らせる。

 久しぶりに、サークルらしい一日を過ごせそうだった。

 そして、その楽しみの裏側でクオンが何を感じ続けているのか、智希はまだ知らなかった。


     ◇


 動物飼育サークルの部室がある建物は、大学の主要な講義棟から少し離れた場所にあった。

 普段から多くの学生が行き交う中央の広場とは異なり、こちらは研究施設や実習用の設備が集まっている区域に近いため、昼休みが終わりかけた時間帯になると人通りも幾分少なくなる。

 建物の周囲には背の高い樹木が植えられ、舗装された通路の脇には、手入れの行き届いた植え込みが続いていた。


 智希と日和が部室の前へ到着したとき、建物の中からは何人かの部員が作業をしているらしい物音が聞こえていた。

 扉を開けると、壁際に積まれた飼育用品や、棚に並んだ記録用のファイルが目に入る。

 机の上には当番表が広げられており、ホワイトボードには動物たちの健康状態や、今週中に補充しておくべき消耗品などが書き込まれていた。

 部室そのものはそれほど広くないが、隣接する飼育施設と合わせて活動することを前提としているため、必要なものはひと通り揃っている。

 特に、犬たちを外へ連れ出す際に使うリードやハーネス、移動用のクレートなどは、取り出しやすいように種類ごとに整理されていた。


「ただいまー」


 日和が声を掛けると、奥の机で記録を整理していた女子部員が顔を上げた。


「おかえり。あれ、智希君もいるんだ」

「久しぶりー。最近ちょっと来られなくて、ごめんね」


 智希が軽く頭を下げると、女子部員は気にしていないというように笑った。

 事情を詳しく尋ねられることもなく、代わりに今日の当番について簡単な報告を受ける。

 犬たちは全頭とも体調に問題はなく、朝の食事も普段どおり済ませているらしい。

 日和は昼食中に作ったメモを取り出し、午後から六頭を山の広場へ連れて行くことを伝えた。

 急な予定ではあったが、以前から運動の機会を作りたいという話は出ていたため、部員も特に驚いた様子はなかった。


「じゃあ、戻ってきたら記録だけお願いね。夕方のご飯はこっちで準備しておくから」

「うん、ありがとう。帰ってきたら片付けもするね」


 日和が答える横で、智希は棚から必要な備品を取り出していた。

 六頭分のリードとハーネスを確認し、移動中に使うクレートの状態も一つずつ確かめる。

 留め具に不具合がないか、内部に汚れが残っていないかを見てから、出入口の近くへ運んでいった。

 久しぶりの作業だったが、手順を忘れているわけではない。

 むしろ、慣れた道具を扱っているうちに、ここ数日の非日常から少しずつ戻ってきたような感覚があった。

 智希は最後のクレートを床へ置き、軽く息を吐いた。


「よし。あとは犬たちだね」

「うん。でも、車が来てから連れてこようか。先に出しちゃうと、みんな遊びに行けると思って落ち着かなくなるし」

「それもそうだね」


 日和の言うことはもっともだった。

 犬たちは普段から部員たちの行動をよく見ている。

 外出用の道具を揃え始めただけで何かを察する個体もおり、いざ出掛けるとなれば、嬉しさのあまり周囲の様子が目に入らなくなることもあった。

 智希は用意したクレートを壁際へ寄せると、日和と一緒に飲み水やタオルの準備を進めた。

 犬たちのための水は十分な量を確保し、現地で使う容器も忘れずに積み込めるようまとめておく。

 遊び道具については、ボールとフリスビーをいくつか選び、犬たちの性格に合わせて使い分けられるようにした。


 その作業をしている間にも、時計の針は少しずつ進んでいた。

 午後一時が近づいた頃、建物の外から低いエンジン音が聞こえてきた。

 智希が窓へ目を向けると、見慣れた白い車両が建物の前へゆっくり入ってくるところだった。

 一般的な乗用車よりも一回り以上大きな箱型の車体は、大学構内でもそれなりに存在感がある。

 運転席には雅史が座っており、こちらに気付くと軽く手を上げた。


「あ、雅史さん来た」


 智希がそう言うと、日和も窓から外を覗いた。


「ほんとだ。じゃあ、荷物運んじゃおうか」


 二人は準備していた道具を手分けして持ち、部室を出た。

 建物の前に停まっていたのは、四トン級のトラックシャシーをベースに製作された、ウォークスルーバン型の動物輸送用特装車だった。

 運転席から車体後方までが一体になった構造で、外見は配送業者が使用する大型の箱型車両にも似ている。ただし、内部は一般的な配送車とは大きく異なっていた。

 前方には運転席を含めて七人分の座席が設けられ、その後方には動物を輸送するための専用区画が用意されている。

 動物用の区画には空調や換気設備が備えられ、クレートを確実に固定できるよう、床や壁面にも専用の器具が取り付けられていた。

 この車両は、サークルの活動を支援している協力者から提供されたもので、複数の動物をまとめて移動させる際や、遠方での飼育活動などに利用されている。

 一般的な乗用車では難しい輸送も可能なため、部員たちにとっては頼りになる存在だった。


 雅史はエンジンを切ると運転席から降り、車体後方の扉を開けて内部を確認した。

 犬を六頭乗せるとはいえ、専用の設備が整っているため、クレートの配置にそれほど苦労することはない。

 それでも、犬同士の相性や移動中の様子を確認しやすい位置を考えながら、積み込む順番を決める必要はあった。


「こんにちは、雅史さん。今日はありがとうございます」


 日和が挨拶すると、雅史は穏やかな笑みを浮かべた。


「こんにちは。気にしなくていいよ。今日はちょうど時間が空いていたからね」

「助かります。急にお願いしちゃってすみません」

「犬たちを遊ばせに行くんでしょう? それなら、僕も見てみたいし」


 雅史はそう答えながら、智希が持ってきたクレートを受け取った。

 まず荷室の奥へ置き、固定具の位置を確かめてから、残りをどのように並べるか考え始める。

 智希も車内へ上がり、雅史の指示に合わせてクレートを配置していった。

 雅史は普段のフィールドワークでも機材の積み込みを経験しているらしく、荷物の置き方にも無駄が少なかった。

 智希が一つ運ぶ間に、次にどこへ置けばよいかを示してくれるため、作業は思っていたよりも早く進んだ。

 日和はその間に、飲み水やタオルを入れた袋を運び、移動中に使うものと現地で取り出すものを分けて置いていた。

 ひと通り積み込みが終わったところで、雅史が車内を見回した。


「これなら大丈夫そうだね。あとは犬たちを乗せるだけかな」

「はい。出発する直前に連れてきます」


 日和が答えると、雅史は頷き、後部の扉を閉めた。

 智希は額に浮かんだ汗を軽く拭いながら、建物の方へ目を向けた。午後の日差しはまだ暖かく、荷物を運んでいるだけでも少し身体が熱くなる。

 山の広場はここより涼しいはずだが、犬たちを遊ばせる側も相応に体力を使うことになりそうだった。

 そんなことを考えていると、通路の向こうから聞き覚えのある声が響いてきた。


「智希さーん!」


 振り返ると、恭平が片手を上げながらこちらへ歩いてきていた。

 午前中の授業を終えて一度帰宅したらしく、先ほど電話で話したときとは違い、動きやすそうな服装に着替えている。

 肩には小さなバッグを掛けており、足取りも軽かった。


「お、恭平。早かったね」

「ちょうどいい時間だったんで。犬たち、もう乗せたんすか?」

「まだだよ。荷物の準備が終わったところ」

「じゃあ、俺も手伝いますよ」


 恭平はそう言うと、すぐに荷室の方へ回り込んだ。

 既に大きな荷物は積み終わっていたが、犬たちを連れてくる作業はこれからだったため、人手が増えるのはありがたい。

 日和が残りの備品を取りに部室へ戻ると、恭平も一緒についていった。

 その後ろ姿を見送りながら、智希は雅史へ視線を向けた。


「雅史さん、今日はほんとに助かりました」

「まだ出発もしていないよ」


 雅史は少しおかしそうに笑った。


「それに、彰人から聞いたときは、もう少し大人数になるのかと思っていたけどね」

「そうなんですか?」

「うん。何人か集まるとは聞いていたから。まあ、犬たちも人数に入れるなら、十分大所帯だけど」


 その言葉に智希も笑った。

 確かに、犬たちを含めれば十人を超える集団になる。もっとも、現地へ着けば犬たちの方がずっと活発に動き回るだろうから、人数だけでは賑やかさを測れないかもしれない。

 智希がそんなことを考えていると、雅史がふと建物の入口から視線を外し、駐車スペースの向こうへ目を向けた。


「ああ、来たみたいだね」


 つられて振り返った智希の視界に、二人の人影が入った。

 先を歩いているのは彰人だった。

 普段と変わらない気軽な足取りでこちらへ向かってくるが、その少し後ろには、見慣れない服装の女性がついてきている。

 智希は何気なく二人へ視線を向け、女性の顔を認めたところで思わず目を丸くした。


「……あれ? セレスティアさん?」


 名前を呼ばれた女性は、少し驚いたように顔を上げた。

 セレスティアは、あちらの世界で見ていた姿とは随分印象が違っていた。

 日本の街並みに馴染むような服装を身に着け、髪も普段より控えめに整えられている。

 何より、エルフ特有の長く尖った耳が、今は人間のものと変わらない形に見えていた。

 以前、彰人から聞いた話では、こちらの世界で目立たずに過ごせるよう、自分の耳を隠す術を使っているらしい。

 顔立ちの美しさまで変わるわけではないものの、事情を知らない人間が見れば、少し目を引く外国人女性という程度の認識で済むだろう。

 それでも、整った顔立ちや、どこか慎重に周囲を見回す仕草には見覚えがあった。

 大学の敷地を歩く学生たちや、建物の並ぶ景色が珍しいのか、セレスティアは彰人からあまり離れない位置を保ちながら、時折周囲へ視線を向けていた。


「こんにちは、智希さん」


 少し控えめな声で挨拶され、智希も慌てて笑顔を返した。


「こんにちは。びっくりしたぁ。彰人が誰か連れてくるって言ってたけど、セレスティアさんだったんだ」

「せやねん。ちょうどこっち来とったし、犬見に行くんやったら一緒にどうかな思うてな」


 彰人はいつもの調子で答えた。

 その隣で、セレスティアが小さく頷く。


「私も、少し興味がありましたので。ご迷惑でなければ、ご一緒させていただければと思いまして」

「全然! 人数多い方が楽しいし、犬たちも喜ぶと思うよ」


 智希が答えると、セレスティアは安心したように表情を和らげた。

 彼女にとって、日本の大学という場所そのものがまだ珍しいのだろう。

 周囲の学生たちは特に気にする様子もなく行き交っているが、セレスティアはその一人ひとりの服装や、建物の様子を興味深そうに眺めている。

 彰人はそんな彼女の歩調に合わせ、急かすことなく隣に立っていた。


 その様子を見ていた雅史が、何かに気付いたように口元を緩めた。

 特に何かを言うわけではない。ただ、彰人とセレスティアを交互に眺めてから、どこか楽しそうな表情を浮かべている。

 智希はその視線を追い、二人へ目を向けた。

 セレスティアは彰人の隣に立ち、大学の建物や行き交う学生たちを興味深そうに眺めている。

 彰人はそんな彼女に時折何かを説明しており、そのやり取りはごく自然なものだった。

 なるほど、と智希は思った。

 雅史が何を面白がっているのかは、何となく分かる。けれど、本人たちが楽しそうにしているのだから、それでいいのではないだろうか。

 それよりも、セレスティアが犬たちとどんなふうに触れ合うのか、そちらの方が気になった。

 智希は二人へ笑顔を向け、準備がもう少しで終わることを伝えた。


「じゃあ、ちょうど準備も終わるところだし、もう少ししたら出発できるよ」

「おう。ほな、何か手伝うことある?」

「犬たちを連れてくるところかな。今、恭平と日和ちゃんが準備してくれてる」


 彰人は頷くと、セレスティアへ何かを説明するように少し身を寄せた。

 彼女はその言葉を聞いてから、建物の入口へ目を向ける。

 犬たちがどこから出てくるのか気になっているらしく、先ほどまで周囲の景色へ向いていた意識が、すっかりそちらへ移っていた。

 やがて、部室の方から日和と恭平が戻ってきた。

 日和は手に持っていた備品を抱え直しながら、見慣れない女性の姿に気付いて足を止めた。


「あれ、こんにちは。えっと……」


 智希が紹介しようとすると、彰人が一歩前へ出た。


「こっちはセレスティア。俺の知り合いやねん。今日、一緒に行ってもええかな?」

「もちろん! 森宮日和です。よろしくお願いします」

「セレスティアです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 セレスティアは丁寧に頭を下げた。

 日和はその仕草に少し驚いたようだったが、すぐに笑顔を返す。

 名前の響きから外国の人なのだろうと思ったのかもしれないが、特に深く尋ねることはなかった。

 恭平の方は、セレスティアの姿を見つけると、少し意外そうな表情を浮かべた。


「あれ、セレスティアさんも来たんすね」

「はい。彰人さんに誘っていただきました」

「へえ。いいっすね。犬、好きなんすか?」


 問い掛けられたセレスティアは、少し考えるように視線を落とした。

 犬と間近で触れ合う機会があまりなかったという言葉どおり、セレスティアはどう接すればよいのか考えているようだった。


「嫌いではありません。ただ、あまり近くで触れ合った経験はなくて……」

「じゃあ、今日がちょうどいいっすね。みんな人に慣れてる犬たちなんで」


 恭平が明るく答えると、セレスティアも小さく微笑んだ。

 そのやり取りを聞いていた日和は、セレスティアが犬に慣れていないことを知ると、少し安心したように頷いた。


「それなら、最初はおとなしい子から紹介しますね。いきなり元気な子が飛びついてきたら、びっくりしちゃうと思うので」

「ありがとうございます」


 日和は笑顔で応じ、部室へ戻る準備を始めた。

 智希も一緒に建物へ向かい、犬たちを連れてくることにした。彰人と恭平が手伝いを申し出たため、何度も往復する必要はなさそうだった。

 飼育施設へ入ると、犬たちは既に外出の気配を察していたらしい。

 智希の姿を見つけた途端、何頭かが尻尾を大きく振り始めた。柵の向こうから身を乗り出すようにこちらを見つめる犬もいれば、落ち着かない様子で行ったり来たりしている犬もいる。


「おー、元気だった?」


 智希が声を掛けると、近くにいた犬が嬉しそうに身体を寄せてきた。

 しゃがんで頭を撫でると、犬はさらに尻尾を振り、手のひらへ鼻先を押し付けてくる。

 しばらく会えなかったことを責めているようにも、単純に再会を喜んでいるようにも見えた。

 智希はその様子に頬を緩めながら、毛並みや身体の状態を軽く確かめた。

 日和から体調に問題はないと聞いていても、自分の目で確認しておきたかった。

 普段と変わらない反応を見せていることに安心しつつ、順番にハーネスを装着していく。


 彰人と恭平も、日和の指示に従って犬たちを連れ出す準備を手伝った。

 犬たちの性格を把握している智希と日和が組み合わせを確認し、興奮しやすい個体は少し時間を置いてから移動させる。

 勢いよく外へ飛び出そうとする犬には落ち着くまで待ってもらい、無理に引っ張ることのないよう注意しながら、少しずつ車へ向かった。

 外では雅史が荷室の扉を開け、受け入れの準備を整えていた。

 セレスティアはその傍らに立ち、次々と連れてこられる犬たちを興味深そうに眺めている。

 最初に姿を見せたのは、比較的おとなしい犬だった。

 日和がリードを持って近づくと、セレスティアは少し緊張した様子で背筋を伸ばした。


「この子は人に慣れてるから、大丈夫ですよ。よかったら、手の匂いを嗅がせてあげてください」


 日和の説明を聞き、セレスティアはゆっくりと手を差し出した。

 犬は一度鼻先を近づけ、彼女の指先の匂いを確かめると、特に警戒することもなく尻尾を振った。

 その反応に、セレスティアの表情が少し明るくなる。


「……可愛らしいですね」

「でしょ? 撫でても大丈夫ですよ」


 日和に促され、セレスティアはそっと犬の首元へ手を伸ばした。

 最初は触れ方を探るような慎重な動きだったが、犬が気持ちよさそうに目を細めると、次第に緊張も薄れていった。

 その様子を見ていた彰人が、少し笑った。


「気に入ったみたいやな」

「はい。とても、おとなしい子ですね」

「今はな。広場着いたらどうなるか分からへんで」


 彰人が冗談めかして言うと、日和も笑いながら頷いた。


「この子は大丈夫だと思うけど、元気な子たちはすごいですよ。覚悟しておいてくださいね」


 セレスティアは少し驚いたように目を瞬かせたものの、すぐに楽しそうな笑みを浮かべた。

 その間にも、犬たちは順番に車へ運ばれていった。

 慣れた様子で自分からクレートへ入る犬もいれば、せっかく外へ出たのに遊ばせてもらえないことが不満なのか、入口の手前で踏ん張ってしまう犬もいる。

 智希はそんな一頭の傍らにしゃがみ、首元を軽く撫でながら声を掛けた。


「大丈夫だよ。これから広いところへ行くんだから」


 言葉が通じたのかどうかは分からない。

 それでも、智希が急かさずに待っていると、犬はしばらく鼻先を動かしたあと、ようやくクレートへ足を踏み入れた。

 その様子を見ていた恭平が、思わず笑みを浮かべる。


「やっぱ智希さん、慣れてますね。俺だったら抱えて入れちゃいそうっす」

「それでも入ってくれる子はいるけどね。でも、自分で入ってくれた方が落ち着くことも多いから」


 智希が答えると、恭平は納得したように頷いた。

 最後の一頭を乗せ終える頃には、車内から聞こえていた落ち着かない物音も少しずつ収まっていた。

 日和は全頭の様子を確かめ、智希と一緒に扉の閉まり具合を確認する。

 これで、ようやく出発の準備が整った。

 最後の扉を閉めたところで、雅史が車内を見回した。


「よし。これで六頭だね」

「はい。全員揃いました」


 日和が確認すると、智希も頷いた。

 荷物と犬たちの配置に問題がないことを確かめると、今度は人間の乗車位置を確認した。

 車両の前方には、運転席を含めて七人分の座席が設けられている。

 運転を担当する雅史の隣には、目的地までの道順をよく知っている智希が座ることになった。

 その後ろには日和と恭平、彰人とセレスティアがそれぞれ席を確保する。途中で小春を迎える予定があるため、残りの一席は空けておいた。

 乗員用の区画と犬たちの輸送区画は仕切りで分けられているものの、車内から後方の様子を確認できるようになっている。

 日和は犬たちの状態を確かめながら、移動中に何かあればすぐに対応できるよう、必要な道具を手元へまとめていた。


「これなら全員乗れるね」


 智希がそう言うと、彰人が車内を見回して笑った。


「相変わらず、えらい車やなぁ。犬六頭連れて遊びに行くんに、こんなん出てくるんやから」

「でも、これがあると助かるんだよね。移動中も安心だし」


 智希の言葉に、日和も頷いた。

 セレスティアは座席に腰を下ろすと、車内の設備を興味深そうに眺めていた。外から見た印象とは違い、内部が人と動物の双方を安全に運ぶために整えられていることが、不思議に感じられたのかもしれない。

 全員が座席に着いたところで、智希は荷物が通路にはみ出していないことを確かめた。


 智希は助手席へ座り、スマートフォンで目的地までの道順を確認した。

 大学から山の広場までは、およそ一時間ほどの距離がある。

 途中で小春を迎えることを考えれば、多少時間が延びるかもしれないが、午後のうちに十分遊ばせることはできるはずだった。

 運転席では雅史がシートベルトを締め、ミラーの位置を確認している。

 後方では、日和が犬たちの様子を確認しながら、恭平にそれぞれの性格を説明していた。

 恭平は現地でどれだけ走ることになるのかを楽しみにしているらしく、どの犬と最初に遊ぶかを真剣に考えている。

 その隣では、彰人がセレスティアに車内の設備について簡単に説明していた。セレスティアは時折頷きながら耳を傾け、後方の犬たちへ視線を向けている。

 犬たちも時折小さな声を上げていたが、車が動き出す前から騒ぎ続けるような様子はなかった。

 智希はそんな車内の様子を振り返り、思わず笑みを浮かべた。


 朝、クオンの妙な感覚について聞いたときには、今日がこんな一日になるとは思っていなかった。

 けれど、大学へ行き、友人と話し、犬たちを連れて出掛けるという予定を立てているうちに、いつの間にか普段の生活へ戻ってきたような気がしていた。

 クオンの違和感が消えたわけではない。

 ただ、今はそれを確かめる方法もなく、急いで何かをしなければならない理由も見つかっていなかった。

 ならば、まずは目の前のことを楽しめばいい。


「じゃあ、雅史さん。お願いします!」

「うん。みんな、忘れ物はないかな?」


 雅史の問い掛けに、それぞれが確認の返事をした。

 智希は改めてシートベルトを確かめ、前方へ視線を戻す。

 フロントガラスの向こうには、午後の陽射しを受けた大学の建物と、そこを行き交う学生たちの姿が広がっていた。

 大きな車体がゆっくりと動き始める。

 見慣れた大学の景色が少しずつ後方へ流れていき、車は山の広場へ向かって走り出した。


 輸送車は大学の敷地を離れると、午後の交通量が増え始めた幹線道路へゆっくりと合流した。

 四トン級の車体は、普段智希が乗り慣れているモンキーとは比べものにならないほど大きい。助手席から見下ろす道路の景色も新鮮で、隣の車線を走る乗用車の屋根が低く見えるたびに、車両の高さを改めて実感させられた。

 雅史はその大きさを意識しているのか、交差点では早めに速度を落とし、曲がる際にも十分な余裕を取っていた。

 智希が何気なく運転の様子を眺めていると、雅史は視線を前方へ向けたまま、こういう車は珍しいかと尋ねてきた。


「そうですね。僕は普段バイクですし、こんな大きな車を運転する機会もないので」

「最初は少し慣れが必要だったかな。フィールドワークで機材を運ぶこともあるから、大型まで取っておいたんだけどね」


 雅史の口調はいつもどおり穏やかだった。大きな車を扱うことを特別な技能として誇るわけでもなく、必要になりそうだったから準備しておいたという、ごく当たり前のことのように話している。

 智希はそれを聞いて、いかにも雅史らしいと思った。

 後方の座席では、日和が小春の到着予定を確認しながら、犬たちの様子にも気を配っていた。

 乗員区画と輸送区画の間には仕切りがあるものの、備え付けのモニターでクレートの状態を確認できるため、移動中に何か変化があればすぐに気付けるようになっている。

 六頭とも落ち着いているらしく、日和が慌てて立ち上がるようなこともなかった。

 恭平は今日の遊び道具について彰人と話していた。ボールやフリスビーを使うつもりらしいが、犬によって好みも運動量も違うため、全頭を同じように遊ばせるわけにはいかない。

 日和がときどき会話に加わり、それぞれの性格を説明している声が聞こえてきた。

 セレスティアはその話に耳を傾けながら、時折窓の外へ目を向けていた。

 彼女にとって、日本の道路を走る車両そのものは既に珍しいものではなくなっているのだろう。それでも、こうして大勢で移動し、動物たちを遊ばせるためだけに郊外へ向かうという行為には、まだ新鮮さがあるのかもしれない。

 智希は後方を振り返り、彼女が穏やかな表情を浮かべていることを確かめると、再び前方へ向き直った。


 途中で小春を迎えるため、車は幹線道路から少し外れた場所へ入った。

 待ち合わせに選んだのは、車体の大きな輸送車でも安全に停車できる広い駐車スペースだった。

 雅史が車を寄せると、歩道の向こうで待っていた小春がこちらへ気付き、大きく手を振ってきた。

 日和が窓越しに応えると、小春は足早に近づいてきたものの、車両の前まで来たところで少し驚いたように足を止めた。


「……これで行くの?」


 見上げるようにして車体を眺める小春へ、日和が笑いながら頷いた。


「今日は犬たちも一緒だからね。ほら、乗って乗って」


 小春は促されるまま車内へ上がり、空いていた座席へ向かおうとして、そこでセレスティアの姿に気付いた。

 日和が簡単に紹介すると、二人は互いに挨拶を交わした。小春は初対面の相手にも物怖じしない性格らしく、席に着いてからもセレスティアへ今日の予定について尋ねている。

 セレスティアは一つひとつ丁寧に答え、やがて二人の間には自然な会話が生まれていた。


 全員が揃ったところで、雅史は再び車を走らせた。

 市街地を離れるにつれて、窓の外の景色は少しずつ変わっていった。住宅や商業施設が途切れ、畑や林が目立つようになると、道路の向こうには低い山並みが姿を現した。

 午後の日差しを受けた斜面には、まだ緑の濃い場所と、季節の変化を感じさせる色づいた木々が混じっている。

 智希はその景色を眺めながら、今日の予定が急に決まったことを思い返していた。

 朝、日和と会ったときには、まさかこんな大人数で出掛けることになるとは思っていなかった。けれど、犬たちを広い場所で遊ばせたいという話から始まり、彰人や恭平、雅史が加わり、さらに小春とセレスティアまで一緒に来ることになった。


 こういう偶然の重なりは、嫌いではなかった。


 むしろ、予定していなかった出来事の方が、あとから振り返ると印象に残ることも多い。

 車内では小春が犬たちの話を聞き、恭平が時折そこへ加わっていた。

 彰人はそんな二人をからかいながらも、セレスティアが会話に入りやすいよう、さりげなく話題を振っている。

 智希はその様子を横目で眺め、今日の外出が思った以上に賑やかなものになりそうだと感じていた。


     ◇


 山の広場へ到着したのは、午後二時を少し回った頃だった。

 最後の区間は山の斜面に沿って造られた管理用道路になっており、ところどころで道幅が狭くなっていた。

 もっとも、路面はきちんと舗装され、輸送車が通れるよう整備されている。雅史は対向車や路肩との距離を確かめながら慎重に車を進め、広場の入口に設けられた駐車スペースへ車体を収めた。

 エンジンが止まると、それまで車内に響いていた低い振動が消え、代わりに外から鳥の声が聞こえてきた。

 智希は助手席から降り、軽く身体を伸ばした。

 大学の周辺よりも空気が涼しく感じられる。山の斜面を抜けてきた風には、土と草木の匂いが混じっていた。

 広場は周囲を頑丈な柵で囲まれた、かなり広い土地だった。

 完全に平坦な場所ではなく、もともとの地形を活かした緩やかな起伏が残されている。

 中央には犬たちが思い切り走れる開けた場所があり、周囲には木陰や草の深い場所もあった。奥の方には小さな林が続いているが、その手前にも柵が設けられているため、犬たちが不用意に入り込む心配はない。

 智希は久しぶりに訪れた広場を見渡し、以前と大きく変わっていないことに安心した。


 もっとも、利用前の確認は欠かせない。

 日和と手分けして柵の状態を確かめ、地面に危険なものが落ちていないかを見て回る。

 風で運ばれてきた枝や石がないか、犬が足を取られそうな穴ができていないか。普段から動物たちの世話をしている二人にとって、こうした確認は特別な作業ではなかった。

 その間、雅史たちは車両から荷物を降ろし、休憩用の水や遊び道具を広場の入口付近へ運んでいた。

 恭平はフリスビーの入った袋を見つけると、早くも使いたそうにしていたが、日和から準備が終わるまで待つよう言われ、少し残念そうに袋を置いていた。

 彰人はそんな恭平を笑いながら手伝い、小春はセレスティアと一緒に水入れを並べていた。


 準備が整ったところで、ようやく犬たちを降ろすことになった。

 クレートの扉を開けると、最初の一頭が周囲の匂いを確かめるように鼻を動かした。

 車内では落ち着いていたものの、外の空気に触れた途端、耳を立てて広場の方へ視線を向ける。

 続いて降りてきた犬も、地面へ鼻先を近づけながら歩き始めた。

 六頭の反応は、それぞれ少しずつ違っていた。

 広場の方向へ進みたくて仕方がない犬もいれば、まず車両の周囲を確かめようとする犬もいる。人の足元から離れず、周囲の様子を見ている個体もいた。

 智希はその違いを眺めながら、無理に急がせることなく、一頭ずつ広場へ連れていった。

 犬たちが環境に慣れるまでの時間は、個体によって異なる。新しい場所へ来た途端に走り出す犬もいれば、周囲の匂いや音を確かめてから動き始める犬もいる。普段は活発な犬でも、慣れない環境では慎重になることがあった。


 今回連れてきた犬たちは、この広場へ来た経験があるものの、それでも久しぶりの場所だった。

 智希はそれぞれの様子を確かめながら、落ち着いたところで順番にリードを外していった。

 最初に走り出したのは、広場へ入る前から落ち着きなく周囲を見回していた犬だった。

 地面を蹴って一気に駆け出し、中央の開けた場所まで進むと、そこで大きく方向を変える。その動きにつられるように、別の犬も走り始めた。

 二頭は互いの距離を保ちながら追いかけっこを始め、時折速度を落としては、また勢いよく走り出す。

 残りの犬たちは、すぐにその輪へ加わるわけではなかった。

 一頭は木陰の近くで地面の匂いを確かめ、別の犬は智希の足元を離れず、広場を走る仲間たちを眺めている。少し離れた場所では、草の間へ鼻先を差し込んでいる犬もいた。


 智希はその様子を見て、自然と笑みを浮かべた。

 同じ場所へ連れてきても、楽しみ方はそれぞれ違う。

 走ることだけが運動ではない。周囲の匂いを確かめたり、ほかの犬の行動を観察したりすることも、犬たちにとっては大切な刺激になる。

 それを知っているからこそ、智希は全頭を無理に走らせようとは思わなかった。

 しばらくすると、足元にいた犬が智希の顔を見上げた。

 その視線は、智希の手元へ向けられている。

 智希は小さく笑い、持っていたボールを見せた。


「……これ?」


 犬は尻尾を振った。

 それだけで十分だった。

 智希がボールを軽く投げると、犬は待っていたように走り出した。

 ボールが地面へ落ちるより少し早く追いつき、勢いを落としてから咥え上げる。戻ってきた犬は智希の足元へボールを置き、再び顔を上げた。

 その様子に、智希は思わず笑ってしまった。

 何度も同じ遊びを繰り返しているうちに、犬は投げる方向を予測し始めた。智希が身体を少し動かしただけで、その方向へ向き直るようになる。

 智希はわざと投げる方向を変えてみた。

 犬は一瞬だけ予想を外されたように動きを止めたが、すぐにボールの軌道を追い、方向を変えて走り出した。

 その反応が面白く、智希は何度か同じことを繰り返した。


 少し離れた場所では、恭平が別の犬と遊んでいた。

 最初はボールを投げていたようだが、いつの間にか犬と一緒に走り回っている。犬が方向を変えるたびに恭平も追い掛け、広場の端まで走っては戻ってくる。

 犬の方はまだ余裕がありそうだったが、恭平は既に額に汗を浮かべていた。

 その姿を見ていた彰人が、何かを言って笑っている。

 恭平も言い返していたが、犬が再び走り出すと、結局そちらを追い掛けていった。

 智希はその様子を眺め、どちらが遊んでもらっているのか分からないと思った。


 小春は日和と一緒に、比較的おとなしい犬の相手をしていた。

 ボールを転がすと、犬は急いで追い掛けるのではなく、ゆっくりと歩いて取りに行く。

 咥えて戻ってくる途中で別の匂いが気になったらしく、立ち止まって地面を確かめ始めることもあった。

 小春は最初こそ不思議そうにしていたが、日和から説明を受けると、犬のペースに合わせて遊ぶようになった。


 セレスティアもその様子を興味深そうに眺めていた。

 彼女は最初、犬が自分のところへ近づいてくるたびに少し緊張したような表情を浮かべていたが、日和から接し方を教わるうちに、次第に落ち着いて触れられるようになっていた。

 犬が足元へ座ると、セレスティアはゆっくりとしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。

 犬はその手の匂いを確かめてから、頭を近づけた。

 セレスティアは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。

 智希はその様子を見ながら、彼女が動物との距離を少しずつ縮めていることを嬉しく思った。

 言葉が通じなくても、相手の反応を見ながら接し方を変えることはできる。

 それは、人間同士でも同じなのかもしれない。


 広場には、犬たちの足音と、人々の笑い声が途切れることなく響いていた。

 山の斜面を抜ける風が草を揺らし、木々の葉が擦れ合う音がその間に混じる。午後の日差しはまだ明るかったが、木陰に入ると空気は少しひんやりしていた。

 智希はボールを拾い上げながら、久しぶりにこうして犬たちを思い切り遊ばせてやれたことを嬉しく感じていた。

 最近は大学の講義やサークルの活動以外にも、何かと忙しい日が続いていた。

 もちろん、動物たちの世話を疎かにしていたわけではない。けれど、必要な世話をすることと、こうして十分な時間を取って遊ばせることは、やはり違う。

 犬たちの楽しそうな姿を見ていると、もう少しこういう時間を作ってやりたいと思えてくる。


 智希は手元のボールをもう一度投げた。

 犬が勢いよく駆け出す。

 その後ろ姿を見送りながら、智希は自然と笑みを浮かべていた。


     ◇


 広場で遊び始めてから、一時間ほどが過ぎていた。

 最初の勢いは少し落ち着いたものの、犬たちはまだ十分に元気だった。

 走ることに満足した個体は木陰で休み、別の犬は地面の匂いを確かめながらゆっくり歩いている。

 智希は一度全員に声を掛け、休憩を取ることにした。

 日和が用意していたスポーツドリンクを配り始めると、恭平が真っ先に手を伸ばした。


「うわ、助かるっす。思ったより走りました」

「だから飛ばしすぎないでって言ったのに」

「いや、犬が楽しそうだったんで、つい」


 恭平は苦笑いしながら飲み物を受け取り、近くのベンチへ腰を下ろした。

 彰人もその隣へ座り、額に浮かんだ汗を拭っている。


「まあ、よう走っとったな。犬も恭平も」

「彰人さんも結構動いてたじゃないっすか」

「俺はほどほどや」

「絶対嘘っすよ」


 二人のやり取りに、小春が笑い声を上げた。

 セレスティアも日和から飲み物を受け取り、木陰に置かれた椅子へ腰を下ろしている。

 犬たちには別に用意していた水を飲ませ、呼吸や足取りに問題がないかを確認した。

 特に走り回っていた個体は、落ち着くまで少し長めに休ませることにする。

 智希は水入れの傍らにしゃがみ、一頭の様子を見ていた。

 犬は水を飲み終えると、満足したように口元を舐め、智希の隣へ腰を下ろした。


「いっぱい走ったねぇ」


 頭を撫でると、犬は目を細めた。

 その穏やかな反応を見て、智希も自然と肩の力を抜いた。

 山の空気は大学の周辺より少し涼しく、木々の間を抜ける風が汗ばんだ肌に心地よい。

 遠くから鳥の鳴き声が聞こえ、風が吹くたびに枝葉が擦れ合う音が広場へ降りてくる。

 こうしていると、朝から気になっていたことも忘れてしまいそうだった。

 けれど、そのときだった。


『……智希』


 不意に意識の奥へ届いた声に、智希は犬の背を撫でていた手をわずかに緩めた。

 足元に伏せていた犬は、その変化を感じ取ったのか、顔を上げて智希を見つめた。

 水を飲み終えたばかりで、口元にはまだ小さな水滴が残っている。智希が指先で顎の下を撫でると、犬は満足したように目を細め、再び前脚の上へ顎を載せた。

 周囲では、休憩に入った面々がそれぞれ思い思いに過ごしていた。

 恭平はベンチへ腰を下ろし、日和から渡された飲み物を口にしている。少し離れたところでは、彰人が小春と何かを話しており、その隣でセレスティアが穏やかな笑みを浮かべていた。

 雅史は犬たちの水入れを確認し、減っているものへ新しい水を注ぎ足している。

 山の斜面を抜けてきた風が広場の草を揺らし、木々の葉が擦れ合う音が静かに響いていた。

 智希はその穏やかな光景を眺めながら、意識の中でクオンへ応えた。


『どうしたの?』

『今朝、話したことだ』


 その一言で、智希はクオンが何を伝えようとしているのか理解した。

 朝から続いている、正体の分からない違和感。

 クオンほどの存在が、何かを感じていながら、それが何なのか判断できないという話だった。

 智希自身には何の感覚もなかったため、広場へ到着してからはすっかり意識の外へ追いやっていた。

 犬たちの世話をしている間に、周囲で異常な出来事が起きたわけでもない。

 むしろ、こうして山の空気に触れ、犬たちが楽しそうに走り回る姿を眺めていると、朝の話がどこか現実味のないものに思えてしまうほどだった。


『まだ、続いてるの?』

『ああ。途切れることなくな』


 智希は無意識に周囲へ視線を巡らせた。

 広場の奥では、一頭の犬が木陰に寝そべり、別の犬がその近くで地面の匂いを確かめている。

 休憩に入っても落ち着かない犬は、日和の足元で尻尾を振りながら、何かを期待するように顔を上げていた。

 少なくとも、犬たちに異常な反応は見られなかった。

 動物は、人間が気付かない音や匂いに反応することがある。

 もちろん、すべての異変を動物が察知できるわけではないし、神獣の感覚と普通の動物の感覚を同じように考えることもできない。

 それでも、周囲の環境に何らかの変化が生じているのであれば、犬たちの行動に多少の違いが表れてもおかしくないはずだった。

 智希はその可能性を考えながら、足元の犬へ目を落とした。

 犬はすっかりくつろいでおり、智希の手が止まっていることに気付くと、鼻先を持ち上げて軽く押し付けてくる。

 少なくとも、目の前の一頭には何も気になることがないらしい。


『……何か分かった?』

『いや。相変わらず、捉えられぬ』


 クオンの返答には、朝と変わらない歯切れの悪さがあった。

 智希は少し考えた。

 大学からこの山の広場までは、車で一時間ほどの距離がある。単純に何かの気配を感じているのであれば、移動によって強弱が変わることもありそうだった。

 もっとも、対象がどこにあるのか分からない以上、移動した方向が近づく側だったのか、遠ざかる側だったのかさえ判断できない。


『ここへ来てから、感じ方は変わった?』

『変わらぬ。強くなったとも、弱くなったとも言えん』

『じゃあ、少なくとも近くに何かがあるってわけじゃないのかな』

『そうとも限らぬ。そもそも、距離によって変化する類いのものなのかすら分からんのだ』


 その返答に、智希は小さく頷いた。

 確かに、普段の気配を探るような感覚と同じものだと決めつけることはできない。クオンが何を感じ取っているのか分からないのであれば、距離や方向という考え方そのものが当てはまらない可能性もある。

 それに、朝から何時間も続いているという点も気になった。

 一瞬だけ感じたものであれば、何かの影響を誤って捉えた可能性も考えられる。だが、これほど長い時間、同じような違和感が途切れずに続いているのなら、何らかの原因が存在すると考えた方が自然だった。


『クオン自身は、どう思ってるの?』


 智希が尋ねると、しばらく返答がなかった。

 その間にも、広場では日和が犬たちの様子を確かめ、休憩を終えた個体から少しずつ歩かせ始めていた。

 恭平もベンチから立ち上がり、身体を伸ばしながら彰人へ何かを話し掛けている。

 智希の足元にいた犬が立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。

 智希はリードの位置を確かめながら、その動きを目で追った。


『……分からぬ』


 やがて届いたクオンの声は、いつもより慎重なものだった。


『何かがある。それだけは確かだと思う。だが、我が知るいずれの気配とも異なる。敵意も、害意も、明確な力の流れも感じられぬ。それでいて、何もないと断じることもできん』


 智希はその言葉を頭の中で整理した。

 クオンが知っているものとは違う。

 少なくとも、普段なら識別できるような神獣や神格の気配ではないらしい。

 だからといって、それ以外の存在だと決めつけることもできない。

 相手が何らかの方法で気配を隠している可能性もあれば、そもそもクオンが感じているものが生き物や意思を持つ存在ではない可能性もあった。

 考え始めれば、いくらでも可能性は広がっていく。

 けれど、そのどれを選ぶにも材料が足りなかった。


『……ほかのみんなは、何か感じてるのかな』

『それは分からぬ』

『聞いてみた方がいい?』


 智希はそう尋ねながら、少し離れたところにいる彰人や恭平へ視線を向けた。

 神獣たちが同じものを感じ取っているのであれば、複数の視点から確かめることで何か分かるかもしれない。逆に、クオンだけが感じているのであれば、それも一つの手掛かりになる。

 ただ、今この場で皆を集める必要があるのかと考えると、少し迷うところだった。

 犬たちを遊ばせるために来ているのだし、日和や小春まで巻き込んで騒ぎにするような話ではない。少なくとも、差し迫った危険があると分かっているわけではなかった。


『今すぐでなくともよいだろう』


 クオンも同じように考えたらしい。


『何か掴めれば、こちらから伝える。今は、目の前のことを済ませるがよい』

『うん。そうする』


 智希はその返答に頷き、意識を広場へ戻した。

 気付けば、日和が休憩を終えた犬たちを順番に遊ばせ始めていた。

 恭平は先ほどまでの疲れを忘れたようにフリスビーを手にしており、彰人から何かを言われて笑っている。

 小春はセレスティアと一緒に、木陰から出てきた犬の相手をしていた。


 何も変わっていない。


 少なくとも、智希の目に映る世界は、クオンから話を聞く前と同じだった。

 足元へ戻ってきた犬が、再び智希の手へ鼻先を押し付けてきた。

 智希はその頭を撫でながら、小さく笑った。


「ごめんごめん。もう少し遊ぼうか」


 犬はその言葉を待っていたかのように尻尾を振り、広場の方へ身体を向けた。

 智希はボールを拾い上げ、犬の様子を確かめながら歩き出した。

 クオンの違和感は、確かに気になる。

 けれど、今ここで答えの出ないことを考え続けても、何かが変わるわけではなかった。

 それなら、まずは目の前の犬たちに、今日という時間を十分に楽しんでもらう方がいい。

 智希はそう考え、少し離れた場所へボールを投げた。

 犬が勢いよく駆け出す。

 その後ろ姿を見送りながら、智希はもう一度、穏やかな午後の時間へ意識を戻していった。


     ◇


 休憩を挟んでからの犬たちは、最初のように一斉に走り出すことはなくなっていた。

 広場の環境に十分慣れたこともあるのだろう。走りたい犬は開けた場所へ向かい、ゆっくり過ごしたい犬は木陰や草の深い場所を選んでいる。

 智希はその違いを眺めながら、遊び方を少し変えることにした。

 ボールを遠くへ投げ続けるのではなく、犬たちの反応に合わせて距離を調整する。

 何度も走りたがる犬には適度に休憩を挟ませ、あまり動きたがらない犬には無理に運動させない。

 犬たちにとって大切なのは、どれだけ長く走ったかではなく、それぞれが満足できる時間を過ごせたかどうかだった。

 小春はセレスティアと一緒に、比較的おとなしい犬の相手をしていた。

 犬が足元へ持ってきたボールを小春が拾い、少し離れたところへ転がす。セレスティアはその様子を眺めていたが、やがて小春からボールを渡され、自分でも試してみることになったらしい。

 最初は慎重に転がしていたものの、犬が嬉しそうに追い掛ける姿を見ると、少しずつ距離を伸ばしていた。

 その様子を眺めていた彰人が、戻ってきた犬の頭を軽く撫でる。


「すっかり仲良うなったみたいやな」

「はい。何度も持ってきてくれるので、つい夢中になってしまいます」

「そら、向こうも楽しいんやろ」


 セレスティアは犬へ視線を落とし、その言葉を確かめるように、もう一度ボールを転がした。

 智希は少し離れたところからその様子を眺め、自然と笑みを浮かべていた。

 最初に車の前で触れ合ったときには、どう接してよいのか分からず戸惑っていたセレスティアが、今では自分から犬へ声を掛けている。

 特別なことを教えたわけではない。ただ、犬が喜ぶことを繰り返しているうちに、少しずつ距離が縮まったのだろう。

 動物と人間の関係は、案外そういうところから始まるものだった。


 やがて、日和が時計を確認した。

 午後の時間は思っていた以上に早く過ぎていた。帰りの移動と大学へ戻ってからの世話を考えると、そろそろ片付けを始める必要がある。

 日和が皆へ声を掛けると、恭平は名残惜しそうに広場を見渡したものの、すぐにボールやフリスビーを拾い集め始めた。

 智希も犬たちを順番に呼び戻し、身体の状態を確かめていく。

 走り回ったあとの犬は、見た目には元気でも、足元に小さな傷ができていることがある。

 特に今日は自然の地形が残る場所で遊んでいたため、肉球や指の間に小石や草の種が入り込んでいないかも確認しておきたかった。

 日和と手分けして一頭ずつ状態を見ていくと、六頭とも大きな問題はなさそうだった。

 まだ遊び足りないのか、広場の奥を振り返る犬もいたが、最初に到着したときほど落ち着かない様子ではない。

 むしろ、十分に身体を動かした満足感があるのか、智希の足元へ寄ってきて静かに座る犬もいた。


 輸送車へ戻ると、雅史が後部の扉を開け、クレートの状態を確認していた。

 日和と小春が犬たちの足元の汚れを軽く落とし、恭平と彰人が順番に乗せていく。

 セレスティアも手伝おうとしていたが、日和から犬たちの様子を見ていてほしいと頼まれ、傍らで静かに待っていた。

 最後の一頭を乗せ終えたところで、智希はようやく肩の力を抜いた。

 広場の方を振り返ると、先ほどまで犬たちが走り回っていた場所には、もう誰もいなかった。

 風に揺れる草と、木々の間から差し込む午後の日差しだけが残っている。

 智希はその景色を眺めながら、今日の外出が無事に終わったことに安堵していた。


 そのときだった。

 少し離れたところにいた恭平が、不意に動きを止めた。

 荷物を持ち上げようとしていた手が途中で止まり、何かを聞き取ろうとするように顔を上げている。

 智希はその様子に気付き、首を傾げた。


「恭平? どうかした?」

「あ、いや……」


 恭平は一度智希へ視線を向けたものの、すぐには答えなかった。

 その表情は、つい先ほどまで犬たちと遊んでいたときとは少し違っている。

 智希が近づこうとしたところで、恭平の意識が別の相手へ向いていることに気付いた。

 神獣と話しているときの、自分たちに特有の間だった。

 智希は足を止めた。

 少しして、恭平がこちらへ向き直る。


「智希さん、ちょっといいっすか」


 恭平は声を掛けながら、持っていた荷物を一度地面へ下ろした。

 普段なら思ったことをすぐに口にする恭平が、何かを確かめるように智希の顔を見ている。

 その様子が少し気になり、智希も手元の作業を止めて向き直った。


「うん。どうしたの?」


 恭平はすぐには答えず、輸送車の方へ視線を向けた。

 車両の後方では、雅史がクレートの固定状態を確認していた。

 日和と小春は使い終えた水入れをまとめ、セレスティアは二人から受け取った道具を整理している。

 彰人もその近くで荷物を運んでおり、片付けは順調に進んでいるようだった。

 犬たちは既に車内へ戻され、広場には先ほどまでの賑やかさがなくなっていた。風が吹くたびに木々の葉が擦れ合い、遠くから鳥の声が聞こえてくる。

 恭平は皆が作業を続けていることを確かめると、智希へ少し近づいて声を落とした。


「ロウガが、何か変な感じがするって言ってるんすよ」


 智希はその言葉を聞き、思わず恭平の顔を見つめた。

 朝からクオンが訴えていた、正体の分からない違和感。

 休憩中にも同じ話を聞いたばかりだったため、恭平の言葉はすぐにその記憶と結びついた。

 ただ、まだ同じものだと決まったわけではない。

 ロウガが感じているものは、まったく別の気配かもしれないし、単に山の中で何かを察知しただけという可能性もある。智希は先入観を持たないよう意識しながら、恭平の話を聞くことにした。


「……変な感じって、どんな?」

「それが、ロウガも上手く説明できないみたいなんすよ。何かがあるような気がするんだけど、どこにあるのか分からないし、何なのかも分からないって」


 恭平は少し困ったように眉を寄せた。

 普段のロウガであれば、何かを感じ取ったときには、もう少しはっきりした反応を示すことが多いのだろう。

 恭平自身も、その曖昧な説明をどう受け止めればよいのか迷っているようだった。

 智希は腕を組み、先ほどクオンから聞いた言葉を思い返した。

 何かがある。

 けれど、場所も分からず、距離による変化もない。敵意や害意といった明確なものを感じ取っているわけでもない。

 恭平の説明は、その内容と驚くほどよく似ていた。


「それって、ここへ来てから感じたのかな?」

「どうなんすかね……。ロウガが俺に言ってきたのは、ついさっきなんすけど」


 恭平は少し考え、それから意識を内側へ向けた。

 智希はその間、黙って待つことにした。

 恭平がロウガへ直接確認しているのだろう。傍目には何もしていないように見えるが、智希自身もクオンと話しているときには似たような状態になるため、その沈黙に違和感はなかった。

 背後では輸送車の扉が閉まる音が響き、続いて雅史が彰人へ何かを伝える声が聞こえた。

 片付けはもうすぐ終わりそうだった。

 やがて、恭平が顔を上げた。


「……前から感じてたみたいっす。ただ、いつからなのかはっきりしないって」

「そっか」


 智希は小さく頷いた。

 ロウガ自身も、違和感の始まりを明確に捉えられていないらしい。

 もし何かが突然現れたのであれば、その瞬間を覚えていてもおかしくない。

 だが、いつから感じていたのか分からないということは、少なくともロウガにとっては、明確な発生点を持つ感覚ではないのかもしれなかった。

 もちろん、それだけで何かを判断できるわけではない。

 ただ、クオンの話と照らし合わせると、共通する部分が多すぎるように思えた。


「……実はね、クオンも同じようなことを言ってるんだ」


 智希がそう告げると、恭平は驚いたように目を見開いた。


「マジっすか?」

「うん。朝からずっと、何か変な感じがするって。さっき休憩してるときにも聞いたんだけど、まだ続いてるみたいなんだよね」


 智希はクオンから聞いた内容を、できるだけ自分の解釈を加えずに伝えた。

 何かを感じていることは確からしいが、正体も場所も分からない。

 大学から山の広場へ移動しても感覚に変化はなく、危険なものなのかどうかさえ判断できないということ。

 恭平は途中で口を挟まず、真剣な表情で耳を傾けていた。

 説明を終えると、恭平は少し考え込むように視線を落とした。


「……それ、ロウガが言ってるのとほとんど同じっすね」

「やっぱり?」

「はい。少なくとも、聞いた感じだと違うところが見当たらないっす」


 智希はその返答を聞き、改めて考え込んだ。

 クオンとロウガは、それぞれ異なる性質を持つ神獣だ。得意とすることも、物事の捉え方も必ずしも同じではない。

 その二体が似たような感覚を覚えているということは、少なくともクオンだけの問題ではない可能性が高い。

 ただし、二体が同じものを感じていると断定するには、まだ情報が足りなかった。

 似たような説明になっているだけで、実際には別のものを捉えている可能性もある。


 智希は広場の奥へ視線を向けた。

 犬たちが走り回っていた場所には、今は風に揺れる草があるだけだった。遠くの木々も、空の色も、来たときと何も変わっていない。

 クオンとロウガが感じているものが、今この場所に関係しているのかどうかさえ分からない。

 それなのに、二体とも何かを感じ続けている。

 智希には、そのことが妙に気になった。


「……ほかの神獣たちは、どうなんだろうね」


 思わず口にすると、恭平も輸送車の方へ目を向けた。

 彰人が雅史と話している姿が見える。

 彰人にも神獣がいる。もし同じような感覚を覚えているのであれば、もう少し事情が分かるかもしれない。


「彰人さんにも聞いてみます?」

「うーん……」


 智希は少し迷った。

 確認すること自体は難しくない。けれど、今ここで話を始めれば、日和や小春たちにも何かあったのかと心配されるかもしれなかった。

 それに、クオンもロウガも、差し迫った危険を感じているわけではない。

 何より、犬たちを大学へ戻して世話を終えることが、今の自分たちの役目だった。


「とりあえず、帰ってからにしようか。今はまだ、何が起きてるのかも分からないし」

「そうっすね。俺も、もうちょいロウガに聞いてみます」

「うん。僕もクオンに確認してみる」


 二人はそう話して、ひとまずこの場での相談を終えることにした。

 その頃には荷物の積み込みもほとんど終わっており、日和がこちらへ手を振っていた。

 智希は返事をして歩き始めたが、輸送車へ向かう途中でも、先ほどの話が頭から離れなかった。

 クオンだけでなく、ロウガも同じような違和感を覚えている。

 それは、朝の時点では考えもしなかった情報だった。

 智希は車両の扉へ手を掛ける前に、もう一度クオンへ意識を向けた。


『……クオン、今の話、聞いてた?』

『ああ』


 短い返答が届く。

 クオンも、ロウガが同じような感覚を覚えていることを気にしているのだろうか。


『ロウガも何か感じてるみたいだね』

『そのようだな』

『……同じものだと思う?』


 智希が尋ねると、クオンはすぐには答えなかった。

 その沈黙は、考え込んでいるというよりも、確かなことを言えないことへの慎重さのように感じられた。


『我にも判断できぬ。ロウガが何を捉えているのか、直接確かめたわけではないからな』

『そっか。似たような感じでも、同じとは限らないもんね』

『ああ。だが、無関係と考えるにも、少々気になるところではある』


 智希はその言葉に頷いた。

 クオン自身も、二つの感覚の共通点を無視できないらしい。

 それでも、同じものだとは断定しない。

 智希はその慎重さに、少し安心するところもあった。

 分からないものを、無理に分かったことにしない。

 今は、それが一番大切なのかもしれなかった。


『じゃあ、帰ってからもう少し考えようか』

『そうするがよい』


 智希は車内へ乗り込み、助手席へ腰を下ろした。

 窓の外では、恭平が最後の荷物を確認し、彰人と一緒に車両へ向かっている。日和と小春も乗り込む準備を整え、セレスティアは雅史から何か説明を受けていた。

 誰も、特別な異変が起きているとは思っていないようだった。

 智希自身も、何かを感じているわけではない。

 それでも、朝から続いていたクオンの違和感は、もう一体の神獣によって裏付けられた可能性がある。

 その意味を考えながら、智希は静かに息を吐いた。


『……クオン』

『何だ』

『これって、何なんだろうね』


 答えが出ないことは、分かっていた。

 それでも、思わず尋ねずにはいられなかった。

 クオンはしばらく沈黙したあと、静かに答えた。


『……それすら、まだ分からぬ』


 クオンの返答は、やはり曖昧だった。

 智希は小さく息を吐き、輸送車へ乗り込んだ。

 楽しかった午後の終わりに、朝から続いていた違和感が、少しだけ輪郭を持ち始めたような気がしていた。


     ◇


 大学へ戻った頃には、午後五時を少し回っていた。

 山道を下り、市街地へ戻るにつれて交通量が増えていたため、行きよりも少し時間が掛かっていた。

 それでも、犬たちは移動中に大きく騒ぐこともなく、無事に飼育施設へ戻ることができた。

 輸送車が建物の前へ停まると、智希は真っ先に犬たちの様子を確認した。

 クレートの中では、すっかり疲れたらしい犬が横になっている。扉を開けると顔を上げたものの、行きのように勢いよく飛び出そうとはしなかった。

 飼育施設では、残っていた部員たちが帰りを待っていた。

 日和が今日の様子を簡単に報告すると、部員たちは犬たちの状態を確認し、手入れの準備を始めた。

 山の広場で遊んだあとは、足元や被毛に土や草が付いていることも多い。特に今日は自然の地形が残る場所で走り回っていたため、いつもより丁寧に確認しておきたかった。

 智希と日和は犬たちを洗い場へ連れていき、汚れの状態に応じて足や身体を洗っていった。

 恭平も手伝おうとしたが、最初に担当した犬が水を嫌がって身体を振ったため、思い切り水を浴びることになった。


「うわっ、ちょ、待って!」


 その声に、近くにいた小春が笑い出した。


「恭平君、びしょびしょ!」

「いや、これは予想外っす!」


 智希が笑いながらタオルを渡すと、恭平は苦笑いしながら受け取った。

 その横では、彰人が犬の身体を拭く作業を手伝っていた。

 声を掛けられた犬は、少し身体を動かしたものの、やがて落ち着いたようにその場へ座った。

 セレスティアは日和から説明を受け、乾いたタオルを渡す役目を引き受けていた。

 濡れた犬が身体を振るたびに少し驚いていたが、その様子を見ているうちに、次第にタイミングが分かってきたらしい。

 雅史も道具の片付けを手伝いながら、全体の作業が滞らないよう声を掛けていた。

 犬たちを洗い終えたあとは、十分に水分を拭き取り、必要に応じてドライヤーを使って被毛を乾かしていく。

 智希は一頭の身体をタオルで包みながら、耳の周囲や足先まで丁寧に確認した。

 大きな傷はない。肉球にも問題はなさそうだった。

 犬は少し眠そうに目を細め、智希の手に身体を預けている。

 智希は最後にもう一度頭を撫で、犬をいつもの場所へ戻した。

 六頭すべての手入れを終える頃には、窓の外も少しずつ暗くなり始めていた。

 使ったタオルや道具を片付け、輸送車の荷室を清掃して、ようやく今日の活動が終わる。

 最後の飼育記録を書き終えた日和は、ペンを置いて大きく息を吐いた。

 犬たちの健康状態や今日の運動量、帰ってからの手入れについて一通り記入し、確認のためにもう一度目を通す。

 特に問題がないことを確かめると、ようやく満足したように記録簿を閉じた。


 周囲では、智希たちが使い終えた道具を片付けていた。

 恭平と彰人は洗い場の清掃を終え、雅史も輸送車の確認を済ませて戻ってきている。

 小春とセレスティアは最後に使ったタオルをまとめており、今日の作業はほとんど終わっていた。

 日和はその様子を見渡し、改めて今日一日を振り返った。

 急に決まった外出だったにもかかわらず、車両の準備から犬たちの世話まで、皆が快く手伝ってくれた。自分たちだけでは、ここまで余裕を持って活動することは難しかったかもしれない。


「みんな、今日は本当にありがとう! おかげで犬たちも思いっきり遊べたし、すごく助かったよ」


 日和がそう言って笑顔を向けると、近くで片付けを終えた智希も笑みを返した。

「僕も楽しかったよ。犬たちも満足してくれたみたいだし、またみんなで行けるといいね」

 智希の言葉に、恭平も大きく頷いた。


「俺も楽しかったっす! また誘ってくださいよ。次はもっと体力残しておきますから!」

「いや、恭平はもうちょっと加減を覚えた方がええんちゃうか?」


 彰人が横から口を挟むと、恭平は不満そうに振り返った。

 その反応があまりにも分かりやすかったため、日和と小春が揃って笑い出し、つられるように智希も笑みをこぼした。

 セレスティアもその輪の中で穏やかな表情を浮かべていた。

 初めての場所で、初めて触れ合う犬たちに囲まれた一日だったが、今ではすっかり皆の会話にも馴染んでいる。


 智希はそんな彼女の様子を見て、今日一緒に出掛けられてよかったと改めて思った。


 皆の笑い声が落ち着いたところで、雅史が腕時計へ目を向けた。

 窓の外はすっかり夕方の色に変わっていた。犬たちの世話に思った以上の時間が掛かったこともあり、大学へ戻ってきた頃にはまだ残っていた日差しも、今では建物の向こうへ沈みかけている。

 雅史は片付けを終えた皆を見渡した。


「そういえば、みんな、このあと何か予定はあるのかな?」


 突然の問い掛けに、智希は首を傾げた。


「僕は特にないですけど……どうかしたんですか?」

「いや、せっかくこれだけ集まったんだし、よかったら夕食でもどうかなと思ってね」


 雅史は穏やかな笑みを浮かべた。


「今日はみんな随分動いたでしょ。僕もお腹が空いてきたし、どこかで食べてから帰るのもいいんじゃないかな」


 その提案に真っ先に反応したのは恭平だった。


「いいっすね! 俺、めっちゃ腹減ってます!」

「そら、あんだけ走り回っとったら腹も減るやろ」


 彰人が笑いながら返すと、恭平は少し不満そうな顔をしたものの、反論するより先に自分の腹を押さえた。

 智希も、言われてみれば空腹を感じていた。昼食を取ってから随分時間が経っているし、犬たちの世話で身体も動かしている。

 帰宅してから夕食を用意することを考えれば、ここで皆と食べていくのも悪くない。

 日和と小春も顔を見合わせ、互いの予定を確認していた。二人とも急いで帰る必要はないらしく、やがて日和が笑顔で頷いた。


「私たちも大丈夫です。せっかくだし、ご一緒したいです」

「私も!」


 小春が続くと、雅史は嬉しそうに頷いた。

 最後に彰人が隣のセレスティアへ顔を向ける。


「セレスティアもええか? もうちょい付き合ってもらうことになるけど」

「はい。私も皆さんとご一緒できれば嬉しいです」


 セレスティアはそう答え、智希たちへ柔らかな笑みを向けた。

 全員の予定が合うと分かったところで、雅史はスマートフォンを取り出した。


「じゃあ、どこか探してみようか。そうだな……この人数なら、前に行ったジンギスカンのお店がいいかもしれないね」

「ジンギスカンっすか!」


 恭平の声が一段と明るくなる。

 その反応を見て、雅史はおかしそうに笑った。


「今日は僕がご馳走するよ。みんな頑張ってくれたし、たまにはね」

「えっ、そこまでしてもらうのは……」


 日和が遠慮がちに口を開いたが、雅史は気にしなくていいというように首を振った。


「僕も一日楽しませてもらったからね。犬たちと遊ぶ機会なんて、そうそうないし。それに、こういうときくらいは年上に格好をつけさせてよ」


 冗談めかした言葉に、日和も思わず笑みを浮かべた。

 智希としても、運転から犬たちの世話まで手伝ってもらったうえに夕食までご馳走になるのは申し訳ない気がしたが、雅史の様子を見る限り、ここで遠慮を重ねる方がかえって困らせてしまいそうだった。


「じゃあ、お言葉に甘えちゃいます。ありがとうございます」

「うん。遠慮せず食べてくれると嬉しいな」


 雅史はそう答えると、店へ連絡を入れるため、少し離れた場所へ移動した。

 残された面々は、思いがけず決まった夕食の話で盛り上がり始めた。

 恭平は早くも何を注文するか考えているようで、彰人に呆れられている。

 小春は日和と何かを相談し、セレスティアはジンギスカンがどのような料理なのか、彰人から説明を受けていた。

 智希はその様子を眺めながら、今日は本当に賑やかな一日になったものだと思った。

 朝、大学へ向かったときには、こんな展開になるとは想像もしていなかった。

 それでも、こうして皆で過ごす時間が増えることは、素直に嬉しかった。

 

     ◇


 夕食に選ばれたのは、大学からそれほど離れていない場所にあるジンギスカンの店だった。

 雅史が以前利用したことのある店らしく、人数を伝えて確認すると、ちょうど席を用意してもらえることになった。

 店内へ入ると、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。

 テーブルには中央が盛り上がった専用の鍋が置かれ、周囲には野菜を焼くための場所が設けられている。

 席に着いた恭平は、早くも料理の到着を楽しみにしているようだった。

 雅史は全員の飲み物が揃ったことを確かめ、軽くグラスを持ち上げた。


「それじゃあ、今日はお疲れさま。犬たちも楽しそうだったし、無事に終わってよかったね」

「お疲れさまでしたー!」


 それぞれが飲み物を掲げ、グラスを軽く合わせた。

 運転してきた雅史を含め、今日は全員がソフトドリンクだった。

 やがて鍋の上で肉が焼け始めると、会話は自然と今日の出来事へ向かっていった。

 日和は犬たちの様子を思い返しながら、久しぶりに広場へ連れて行けたことを喜んでいる。

 小春はセレスティアと一緒に遊んだ犬の話をし、恭平は自分がどれだけ走ったかを少し大袈裟に説明していた。

 彰人がそこへ横から口を挟む。


「いや、最後の方、犬より先にへばっとったやろ」

「へばってないっすよ! ちょっと休憩してただけっす!」

「それをへばった言うんちゃうんか?」

「違いますって!」


 そのやり取りに、テーブルのあちこちから笑い声が上がった。

 智希も笑いながら、焼き上がった肉を皿へ取った。

 セレスティアは最初、鍋の使い方を興味深そうに眺めていたが、彰人から焼き方を教わると、自分でも肉や野菜を並べ始めた。

 焼け具合を確かめながら慎重に箸を動かす姿に、小春が楽しそうに声を掛ける。


「セレスティアさん、そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ」

「そうなのですか? 焦がしてしまわないか、少し心配で」

「大丈夫大丈夫。彰人君が見てくれてるし」


 小春の言葉に、彰人が少し笑った。


「まあ、焦げる前には言うわ」

「お願いしますね、彰人さん」


 セレスティアが真面目な顔で答えたため、周囲からまた笑い声が上がった。

 智希はその様子を眺めながら、昼間の大学で見せていたセレスティアの表情を思い出した。

 日本の大学も、犬たちとの触れ合いも、こうして皆で食事をする時間も、彼女にとっては新鮮な経験なのだろう。

 少なくとも、今は楽しそうだった。

 それだけで、今日誘った意味はあったのかもしれない。

 食事は思った以上に賑やかに進んだ。

 途中で追加の肉を注文し、野菜を焼きながら話を続けているうちに、店内の混雑も少しずつ落ち着いていく。

 雅史は時折会話へ加わりながら、皆の様子を穏やかに見守っていた。

 智希はその姿を見て、今日一日、雅史がほとんど休まずに動いていたことを思い出した。

 輸送車の運転から荷物の積み込み、犬たちの見守り、帰ってからの片付けまで、ずっと全体を支えてくれていた。


「雅史さん、今日は本当にありがとうございました」


 改めて声を掛けると、雅史は少し驚いたように顔を上げた。


「どうしたの、急に」

「いや、運転もしてもらったし、最後にご飯までご馳走になっちゃって」

「気にしなくていいよ。僕も楽しかったからね」


 雅史は笑いながら答えた。


「それに、たまにはこういう日があってもいいんじゃない?」

「……そうですね」


 智希も笑顔で頷いた。

 朝から続いていた妙な違和感は、まだ頭の片隅に残っている。

 けれど、今ここでそれを持ち出す理由はなかった。

 少なくとも、日和や小春たちには関係のない話だったし、今日の楽しかった時間を、正体の分からない不安で曇らせる必要もない。

 智希はそう考え、もう一度箸を手に取った。


     ◇


 店を出た頃には、すっかり夜になっていた。

 昼間は暖かかった空気も、日が落ちると少しひんやりしている。

 店の前には街灯が灯り、道路を走る車のヘッドライトが次々と通り過ぎていった。

 雅史が会計を済ませて出てくると、全員が改めて礼を伝えた。

 日和と小春が揃って頭を下げると、雅史は少し困ったように笑った。


「そんなに改まらなくてもいいよ。また機会があれば、みんなで行こう」


 その言葉に、恭平がすぐに反応した。


「次は俺も何か出しますよ!」

「じゃあ、そのときはお願いしようかな」


 雅史が笑う。

 彰人はセレスティアと並んで歩きながら、帰りの予定について話していた。日和と小春も、そろそろ帰ろうかと相談している。

 智希はそんな様子を眺めながら、恭平へ目を向けた。

 恭平もこちらに気付いたらしく、小さく頷いた。

 昼間、広場で話していたことを覚えているのだろう。


「智希さん、ちょっと話せます?」


 店の前で皆が帰り支度を始めていたところへ、恭平が声を掛けてきた。

 普段と変わらない調子ではあったものの、その視線が一度だけ周囲へ向けられたことで、智希は何の話なのかを察した。

 昼間、ドッグランでロウガが感じ取ったという違和感。あれから大学へ戻り、犬たちの世話を終え、こうして夕食まで済ませたものの、二人はまだその件について十分に話せていなかった。

 智希自身も、食事の間に何度かクオンへ意識を向けていた。

 だが、何か新しいことが分かったわけではない。クオンから伝わってくるのは、朝から続いている曖昧な感覚が、今も消えていないという事実だけだった。


「うん。僕もちょうど話したかったところ」


 智希が頷くと、恭平は少し安心したように表情を緩めた。

 二人は雅史たちへ少し待ってもらうことを伝え、店の入口から離れた場所へ移動した。

 道路沿いには街灯が等間隔に並び、車が通り過ぎるたびにヘッドライトの光が歩道を横切っていく。

 店の中からは、まだ食事を楽しんでいる客たちの声が漏れ聞こえていた。

 昼間の山とは、まったく違う景色だった。


 あの広場では、風に揺れる草や犬たちの足音が周囲を満たしていた。今は舗装された道路と建物が並び、遠くから聞こえる車の走行音が絶え間なく続いている。

 それでも、クオンの違和感は変わっていない。

 大学から山へ向かい、再び市街地へ戻ってきても、感覚の強弱に変化がないということは、少なくとも単純に距離だけで説明できるものではなさそうだった。

 智希はそんなことを考えながら、恭平の方へ向き直った。


「ロウガのことだよね?」

「はい。帰ってからも何回か聞いてみたんすけど、やっぱりよく分かんないみたいで」


 恭平は困ったように笑い、軽く頭を掻いた。


「何かあるって感じはするらしいんすよ。でも、どこにあるのかも、何なのかも分かんないって。結局、昼間に聞いたのとほとんど変わんないっすね」

「そっか。クオンも同じだよ」


 智希は頷きながら、朝からの出来事を頭の中で辿った。

 大学にいたときも、山の広場で犬たちを遊ばせていたときも、クオンの感覚に目立った変化はなかった。

 そして、こうして市街地へ戻ってきても、それは続いている。

 移動した場所によって強弱が変わるのであれば、何かを推測する手掛かりになったかもしれない。

 しかし、今のところ、そうした変化さえ確認できていなかった。

 智希は昼間の講義を思い返した。

 動物の行動を理解するには、目に見える反応だけでなく、その前後に何があったのかを確かめる必要がある。今回も考え方は同じだろう。

 ただ、クオンとロウガが何かを感じ取っていること以外に、比較できる情報がほとんどない。

 観察しようにも、肝心の対象が見えていないのだった。


「……ロウガは、危ない感じがするとか、そういうことは言ってないんだよね?」

「そうっすね。敵がいるとか、何かが近づいてるとか、そういう感じじゃないみたいっす」

「クオンも同じだなぁ」


 智希は小さく息を吐いた。

 少なくとも、今すぐ何かに備えなければならないという話ではなさそうだった。

 もちろん、危険を感じていないからといって安全だと断定できるわけではない。

 そもそも、クオンたち自身が何を感じているのか分からないのだから、危険かどうかを判断する材料もない。

 けれど、そうした不確かな状態で、むやみに周囲を不安にさせるのも違う気がした。

 智希は少し離れたところへ目を向けた。

 日和と小春は雅史へ何かを話しており、彰人とセレスティアもその近くにいる。

 夕食を終えたばかりの皆は、まだ今日の出来事を話し足りないようで、時折楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 あの時間を、根拠のない不安で曇らせる必要はない。

 智希はそう思い、改めて恭平へ視線を戻した。


「……で、恭平は何か気になることがあるんだよね?」


 そう尋ねると、恭平は少し驚いたように目を上げた。


「分かります?」

「何となく。さっきから、まだ何か言いたそうだったから」


 恭平は照れくさそうに笑ったが、すぐに真面目な表情へ戻った。


「実は、前にも似たようなことがあった気がするんすよ」

「前?」

「神獣国家の方から接触してきたときっす。あのときも、最初は何か変な感じがするって話になってませんでしたっけ」


 その言葉を聞いて、智希はすぐには答えられなかった。

 神獣国家。

 その名を聞いたことで、これまでの出来事が少しずつ頭の中へ浮かび上がってきた。

 初めて接触があったとき、自分たちは相手が何者なのか、何を目的としているのかを十分に理解していなかった。

 神獣たちが感じ取ったものを手掛かりにしながら、情報を集め、相手と向き合うことで、ようやく事情が分かっていった。

 確かに、最初からすべてが明らかだったわけではない。


 ただ、今回とまったく同じだったかと問われると、そこまでは言い切れなかった。

 智希は記憶を辿りながら、当時の感覚と今の状況を比べてみた。

 あのときは、少なくとも神獣たちが何かを捉えているという手応えがあった。

 相手の存在が分からなくとも、そこへつながる手掛かりが少しずつ増えていったように思う。

 けれど今回は、クオンもロウガも、何を感じているのかさえ説明できない。

 似ている部分はある。

 しかし、違う部分もある。

 智希はようやく口を開いた。


「……そういえば、そんなこともあったね」


 恭平の指摘を受けて改めて思い返してみると、確かに似たような状況を経験したことがあった。

 もっとも、当時と今回では分かっていることが違うため、単純に同じ出来事だと考えるわけにはいかない。

 それでも、何かを感じ取っている神獣が複数いるという点は気になった。


「ですよね。俺も、まったく同じだとは思ってないんすけど、何となく引っ掛かってて」

「うん。僕も気になるかな」


 智希は少し考えながら、街灯の下へ視線を落とした。

 神獣国家が関係しているという確証はない。だが、以前の接触で得た知識や経験が、今回の違和感を理解する手掛かりになる可能性はある。

 それに、クオンやロウガとは異なる性質を持つ神獣たちなら、同じものを別の形で捉えられるかもしれない。

 何より、こちらで考え続けていても、今ある情報だけでは判断できそうになかった。


「……明日、神獣国家へ行ってみようと思うんだ」


 智希がそう告げると、恭平は顔を上げた。


「お、いいっすね。俺も――」


 言い掛けた恭平は、そこで言葉を止めた。

 智希はその反応に小さく笑った。


「恭平は明日、学校でしょ? 今回は僕たちで行ってくるよ」

「いや、でも……」


 恭平は少し不満そうに眉を寄せたものの、智希の表情を見ると、それ以上は強く言わなかった。

 智希としても、恭平が同行してくれれば心強いとは思っている。

 ただ、今日の活動でも随分と身体を動かしていたし、違和感の正体が分からないからといって、皆を次々に連れ回す必要はなかった。

 そもそも、明日は調査というよりも、まず話を聞きに行くつもりだったし、何度も高校を休ませるわけにもいかない。


「何かあったら連絡するから。恭平には、こっちでロウガの様子を見ていてもらえると助かるかな」

「……分かりました。じゃあ、何か分かったらすぐ連絡します!」


 少し残念そうではあったが、恭平は頷いた。

 智希はその返答に安心し、今度は少し離れたところにいる彰人へ目を向けた。

 彰人はセレスティアと並び、雅史たちの会話に加わっていた。今日一日、犬たちと触れ合い、大学での活動にも付き合ってくれた二人だったが、明日の予定まではまだ聞いていない。

 もっとも、彰人なら事情を説明すれば、少なくとも話は聞いてくれるだろう。


「……彰人にも聞いてみようかな」


 智希が呟くと、恭平は少し楽しそうに笑った。


「彰人さんっすか。確かに、頼みやすそうっすね」

「うん。それに、セレスティアさんも一緒に来てくれるなら、向こうで話を聞くときに助かるかもしれないし」


 セレスティアはヴァルネシアの出身であり、神獣国家とは異なる立場の存在だ。

 彼女が今回の違和感について何か知っているとは限らないが、異なる世界の知識や感覚が役立つ可能性はある。

 ただ、彼女にも予定があるだろうし、無理に同行を求めるつもりはなかった。


「とりあえず、二人に相談してみようか」

「了解っす。俺も一緒に話しますよ」


 恭平がそう言って歩き出そうとしたところで、智希はもう一度、店の前にいる皆へ視線を向けた。

 日和と小春は、まだ雅史と楽しそうに話している。

 犬たちとの外出から始まった今日の出来事が、明日には神獣国家への訪問につながろうとしている。

 何とも不思議な流れだった。

 智希はそんなことを考えながら、恭平とともに彰人たちの方へ歩き始めた。


「なんや、二人で内緒話か?」


 戻ってきた智希と恭平に気付いた彰人が、冗談めかして声を掛けた。

 セレスティアと並んで雅史の話を聞いていたところだったらしく、身体はそちらへ向けたまま、顔だけを二人の方へ向けている。

 智希は小さく笑いながら、その隣に立つセレスティアへも目を向けた。

 彼女は彰人の言葉に少し首を傾げていたが、恭平が普段ほど大きな声で返事をしなかったことに気付いたのか、静かに二人の様子を見比べていた。


「まあ、ちょっと相談っすね」


 恭平が曖昧に答えると、彰人は片方の眉を上げた。

 その反応を見て、智希はどう切り出すべきか少し考えた。

 クオンとロウガが感じている違和感については、まだ何も分かっていない。

 危険が迫っていると決まったわけでもなければ、神獣国家が関係しているという確証もない。

 ここで大袈裟に話せば、事情を知らない日和や小春まで心配させてしまうかもしれなかった。

 少し離れたところでは、日和と小春が雅史へ今日の礼を伝えていた。

 犬たちの話で盛り上がっているらしく、小春が身振りを交えて何かを説明し、それを聞いた日和が笑っている。

 せっかく楽しい一日を過ごしたのだから、その余韻を壊すようなことはしたくなかった。

 智希は彰人へ少し近づき、声を落とした。


「実はさ、明日ちょっと時間あるかなと思って」


 彰人はその言葉を聞き、智希の表情を確かめるように見つめた。


「明日? まあ、予定次第やけど。何するん?」


 普段どおりの軽い口調だったが、先ほどまでの冗談めいた雰囲気は少し薄れていた。

 智希がわざわざ声を落としたことで、単なる遊びの誘いではないと察したのかもしれない。


「神獣国家の方へ、一度行ってみようと思ってるんだ」


 智希がそう告げると、彰人はわずかに目を細めた。

 すぐに何かを言うのではなく、智希と恭平の顔を順番に見つめる。その視線は、二人が先ほどまで何を相談していたのかを考えているようだった。

 隣にいたセレスティアも、神獣国家という言葉に反応した。

 彼女にとっても無関係な場所ではない。彰人と智希の間に生まれたわずかな緊張を感じ取ったのか、先ほどまでの穏やかな表情を残しながらも、静かに話の続きを待っていた。


「……何かあったんか?」


 彰人の問い掛けに、智希は小さく頷いた。


「うん。ただ、まだ何が起きてるのか分からないんだ。クオンとロウガが、朝から少し気になることを感じてるみたいで」


 智希は、朝からの経緯と恭平から聞いた話を、必要なところだけ選んで説明した。

 途中、恭平がロウガの反応について補足すると、彰人は一度だけ小さく頷いた。だが、それ以上は口を挟まず、二人の話を最後まで聞いている。

 智希は、彰人が驚く様子を見せないことに少し安心した。

 これまでにも予想外の出来事を何度も経験してきた相手だけに、まだ正体も分からない違和感を伝えたところで、必要以上に騒ぎ立てることはなかった。


 説明を終えると、彰人は少し考えるように腕を組んだ。

 普段なら、気になることがあればすぐに口にする彰人だったが、今回はそうしなかった。智希たち自身がまだ状況を把握できていないことを理解したのだろう。

 しばらくして、彰人は周囲へ視線を向けた。

 日和と小春はまだ雅史と話している。こちらの会話には気付いていないようだった。


「……なるほどな。せやったら、ここで詳しゅう話すより、あとでちゃんと聞いた方がよさそうやな」

「うん。僕もそう思う」


 智希が頷くと、彰人は隣のセレスティアへ顔を向けた。


「セレスティア、明日って何か予定あったっけ?」


 突然話を振られたセレスティアは、少し驚いたように瞬きをした。

 だが、すぐに考えるような表情を浮かべ、首を横に振った。


「いえ、特に決まった予定はありませんが……私もご一緒するのでしょうか?」

「まあ、智希が何か調べたいみたいやしな。せっかくやから、一緒に行ってみるか?」


 彰人は軽い調子で答えたものの、智希にはその言葉が単なる思いつきではないように感じられた。

 セレスティアはヴァルネシアの出身であり、神獣国家の神獣たちとは異なる知識や経験を持っている。

 今回の違和感に直接関係しているかは分からないが、彼女の視点が何かの手掛かりになる可能性もある。

 それに、彰人とセレスティアは今日一日を通して、自然に行動を共にしていた。

 彰人としても、彼女だけを残して出掛けるより、一緒に連れて行く方が都合がいいのかもしれない。

 セレスティアは少しだけ智希へ視線を向けた。


「私がお役に立てるかどうかは分かりませんが、ご迷惑でなければ」

「もちろん。来てもらえるなら助かるよ」


 智希が答えると、セレスティアは安心したように微笑んだ。


「では、私もご一緒させてください」


 その返答を聞いた彰人は満足そうに頷き、改めて智希へ向き直った。


「ほな、俺らも行く方向で考えとくわ。詳しい話はあとで聞かせてや」

「うん。ありがとう」

「明日の予定も、確認しとくわ」


 彰人がそう言って笑うと、智希もようやく肩の力を抜いた。

 まだ何かが分かったわけではない。

 それでも、クオンとロウガの違和感について、明日確かめに行くための準備は少しずつ整い始めていた。


 やがて、雅史が皆へ声を掛けた。

 そろそろ帰る時間だった。

 日和と小春は改めて今日の礼を伝え、雅史も笑顔で応えている。

 恭平は小春と何かを話していたが、途中で彰人から声を掛けられ、振り返って笑った。

 セレスティアは日和へ丁寧に頭を下げ、また犬たちに会いたいと話していた。

 日和が嬉しそうに頷くと、セレスティアも柔らかな笑みを浮かべた。


『……クオン』


 智希は意識の中で呼び掛けた。


『何だ』

『明日、神獣国家へ行ってみようと思うんだけど』

『ああ。聞いていた』

『向こうの神獣たちなら、何か分かるかな』


 クオンはすぐには答えなかった。

 その沈黙の間にも、道路を走る車の音が聞こえ、少し離れたところでは恭平と彰人が何かを話していた。

 智希は皆の方へ視線を戻しながら、返答を待った。


『……分からぬ。だが、確かめてみる価値はあるだろう』

『うん。僕もそう思う』


 智希は小さく頷いた。

 クオンの返答は、いつもどおり慎重だった。

 何かを感じていることは確かでも、その正体を掴めていない以上、無理に結論を出そうとはしない。

 智希も、それでいいと思った。

 明日、神獣国家へ行ったところで、すぐに答えが見つかるとは限らない。

 それでも、向こうの神獣たちが同じような感覚を覚えているのか、それとも何も感じていないのか。確かめられることはあるはずだった。


 ふと、少し離れたところから笑い声が聞こえてきた。

 視線を向けると、恭平が何かを話し、それに彰人が笑いながら応じていた。セレスティアも二人のやり取りを楽しそうに眺めている。

 雅史は車の鍵を手に、日和と小春へ帰り道の確認をしていた。

 今日一日、犬たちの世話を手伝い、夕食まで共にした七人も、そろそろそれぞれの場所へ帰る時間だった。


 智希はそんな皆の姿を見つめながら、今日のことを思い返した。

 朝、大学へ向かったときには、ただ久しぶりに講義とサークル活動へ参加するつもりだった。

 それが、日和との何気ない会話をきっかけに犬たちを連れて出掛けることになり、気が付けばこんな時間まで皆と過ごしている。

 思いがけず賑やかな一日になったものだと、智希は小さく笑った。


 その一方で、朝からクオンが感じていたものは、まだ消えていない。

 けれど、それが今日の楽しさを損なう理由にはならなかった。

 犬たちが元気に走り回っていたことも、皆で笑いながら食事をしたことも、確かに今日という一日の中にあった出来事なのだから。


 智希はもう一度、夜空へ目を向けた。

 街灯の明かりが届かないところには、いくつかの星が見えている。

 昼間、山の広場で見上げた空とは随分違う景色だったが、頭上に広がる空そのものが変わったわけではない。

 今のところ、智希の目には何も変わっていないように映っていた。

 それでも、クオンとロウガは何かを感じている。

 智希は夜の空気をゆっくりと吸い込み、皆の方へ歩き始めた。


 明日になれば、少しは事情が分かるかもしれない。

 少なくとも、今はそう考えておくことにした。


 振り返った彰人が、こちらへ軽く手を上げる。

 智希も笑顔で応え、その輪の中へ戻っていった。

 いつもと変わらない夜が、静かに更けていく。


 その穏やかな時間の向こうに、まだ誰も知らない何かが待っているのかもしれなかった。


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