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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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33/37

選ばなかった道

 裂け目の周囲には、いつしか穏やかな空気が満ちていた。


 つい先ほどまで、二つの世界を隔てる境界は不安定に揺らぎ、その向こう側を見通すことさえ容易ではなかった。

 だが今、そこにあるのは、静かに空間を繋ぐ一つの通路だった。

 境界の縁には淡い光が漂っている。近づけば、向こう側の景色が確かに見えた。

 日本側に広がる山林の緑と、ヴァルネシア側の空の色。その二つが、一枚の薄い膜を隔てて隣り合っている。

 怜司はしばらくそれを眺めてから、満足そうに頷いた。


「うん。これで大丈夫やな」


 あまりにも普段どおりの口調だった。

 周囲では、魔術師たちが境界の状態を確かめ、アルディウスが何度も計測結果を確認している。

 彼らにとって、世界そのものの在り方を変えるような出来事が起きた直後だというのに、その中心にいた本人だけが、何か簡単な作業を終えたような顔をしていた。


「……兄貴」


 彰人が、半ば呆れた様子で声をかけた。


「何?」

「いや、何でもないわ。もう突っ込むんもしんどい」

「そう?」


 怜司は首を傾げたが、それ以上気にする様子もなかった。

 そのやり取りを見て、セレスティアが小さく笑った。

 彰人が顔を向けると、彼女は少しだけ視線を伏せる。

 先ほど互いの想いを確かめ合ったばかりということもあって、何気ない仕草の一つひとつが、これまでとは違って見えた。


『……本当に、繋がったのですね』

「せやな」


 彰人は境界へ視線を向けた。


「これで、もう会われへんとか、そういう心配せんでええんやろ?」

『はい』


 セレスティアは静かに頷いた。

 それから、ほんの少しだけためらい、彰人の手に自分の指先を重ねた。

 彰人は一瞬目を丸くしたが、すぐにその手を握り返した。

 周囲の視線に気づいていないわけではない。実際、桜子は少し離れたところから二人を眺め、何か言いたそうな顔をしていた。

 だが、今ばかりは何も言わなかった。

 この二人がここへ辿り着くまでに、どれほどのことがあったのかを知っているからだ。

 一方、境界の名称については、別の問題が生じていた。


『この通路にも、正式な名が必要だろう』


 アルトリウスの言葉に、アルディウスが深く頷く。


『両世界を繋ぐ、歴史的な施設となりますからな。単に「裂け目」と呼び続けるわけにも参りません』


 もっともな意見だった。

 しかし、そこから話が思いのほか長くなった。


『両界の門、というのはいかがでしょう』

『意味は分かりやすいが、少々ありきたりではないか』

『では、友好の門というのは』

『友好関係が続くことを前提に名づけるのも、いささか早計だろう』


 アルトリウスとアルディウスが真剣に意見を交わし始めると、雅史も興味を示した。


「向こうの歴史に残る名前ですからね。何を象徴するものなのか、少し考えた方がいいかもしれません」


 雅史の言葉に洋一も頷いた。


「日本側の呼称と統一する必要もあります。今後、公的な文書で扱うことになるでしょうから」


 そうして四人は、いつの間にか小さな会議を始めてしまった。

 彰人はその様子を眺め、怜司へ顔を寄せた。


「……なぁ、兄貴」

「ん?」

「名前って、そんな大事なん?」

「大事なんちゃう?」

「興味なさそうやなぁ……」


 怜司は少し考えた。


「扉でええんちゃう?」


 彰人は数秒間黙った。


「……絶対、向こうの人らには言わんといてな」

「何で?」

「何でもや!」


 結局、正式名称は後日改めて検討することになった。

 日が傾き始めた頃、一行は王城へ戻ることになった。王国側では、十二神承の帰還を前に、ささやかな宴を用意しているという。

 ささやか、という言葉を使ったのはアルトリウスだったが、その言葉を聞いた彰人は、王城へ戻る馬車の中で嫌な予感を覚えていた。


「……あの王様の『ささやか』って、信用してええんかな」

 

 隣に座るセレスティアは、微笑んだまま答えなかった。

 その反応だけで、彰人は何となく察した。

 

     ◇

 

 夜の王城は、久しぶりに祝宴の明かりで満たされていた。

 広間には長い卓が並べられ、王国各地から集められた料理が次々と運び込まれている。

 香辛料を利かせた肉料理、色鮮やかな野菜を使った煮込み、焼きたてのパン、果実をふんだんに使った菓子。

 料理の種類だけを見ても、決して「ささやか」と呼べる規模ではなかった。

 ただ、以前の王宮で開かれていたような、格式を重んじる宴とは趣が異なっていた。


 席次は緩やかで、三柱や八傑も自由に席を移動している。

 十二神承の周囲には、戦場や復興作業で顔を合わせた者たちが集まり、あちらこちらで再会を喜ぶ声が上がっていた。

 最初に大きな笑い声が響いたのは、彰人たちのいる卓だった。


「せやから、それは俺のせいやないって!」

『ですが、最後にあのようなことを仰ったのは彰人さんでしょう?』

「いや、あれは流れでやな……」


 セレスティアは楽しそうに笑っている。

 彰人は困ったように頭を掻いたが、その顔には照れくささが滲んでいた。

 少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた桜子がグラスを置く。


「彰人、あんた今日ずっとそれやな」

「何がやねん」

「セレスティアさんに何か言われるたびに、嬉しそうな顔してる」

「してへんわ!」

「してるで」


 桜子が即答すると、周囲から笑い声が上がった。

 セレスティアは少し驚いたように彰人を見たが、すぐに頬を赤らめた。

 その様子を見た彰人は、反論する相手を失ってしまったらしい。


「……もうええわ」


 そう言ってグラスの中身を一気にあおった。

 桜子は、そのグラスへ視線を向けた。

「それ、何杯目?」

「……知らん」

「知らんって何やねん」


 彰人は答えず、次のグラスを口へ運んだ。

 その隣で、セレスティアも同じように酒を飲んでいる。

 桜子は二人を交互に眺め、何か言いかけたものの、結局肩を竦めるだけに留めた。

 今日くらいは、好きにさせてやってもいいだろう。

 もっとも、翌朝どうなるかまでは責任を持てなかった。


 少し離れた卓では、恭平が大皿の肉料理を前に目を輝かせていた。


「これ、めちゃくちゃうまいっすね!」


 向かいに座るバルクが、満足そうに笑った。


『そうだろう! 王国でも腕のいい料理人に作らせたものだ!』

「いや、ほんとすごいっす。これ、どうやって味つけてるんすか?」

『そこまでは知らん!』

「知らないんすか!」


 恭平は笑いながら、もう一切れ肉を取った。

 バルクも負けじと皿へ手を伸ばす。

 どうやら二人の間では、料理を味わうことがいつの間にか競争へ変わっていたらしい。

 行人は隣で苦笑しながら、恭平の皿へ野菜を取り分けた。


「恭平、肉ばっかり食べてないで、こっちも食べなよ」

「食べてるっすよ」

「さっきから一回も見てないけど」

「……見てたんすか?」

「目の前にいるからね」


 行人の穏やかな指摘に、恭平は少し気まずそうな顔をした。

 それでも野菜を口へ運ぶと、意外そうに目を見開いた。


「……あ、これもうまい」

「でしょう?」


 行人は得意げに笑った。

 バルクはそんな二人のやり取りを見て、豪快に笑い始めた。


『お前たちは、戦場でもそんな調子だったな!』

「いや、戦場ではもっと真面目だったっすよ!」

『そうか?』

「そうっす!」


 恭平が勢いよく答えると、行人は何も言わずに微笑んだ。

 その表情を見た恭平が、慌てて彼の方を向く。


「行人! そこは否定してくれよ!」

「うーん……」

「考えるなって!」


 再び笑い声が広がった。

 その騒ぎを聞きつけ、別の卓からも何人かが顔を向けていた。

 宴は、少しずつ卓と卓の境界を失っていった。

 王国の者が日本の料理について尋ねれば、誰かが説明する。

 日本の者がヴァルネシアの習慣に興味を示せば、近くにいた者が実演してみせる。

 言葉の違いも、文化の違いも、今夜ばかりは話題を増やす理由にしかならなかった。


 洋一は、そんな広間の様子を静かに眺めていた。

 彼の隣には、ナーシャとアルネアがいた。

 二人は時折、王国側の事情について話しながら、洋一のグラスが空にならないよう気を配っている。


『日本では、このような宴は珍しいのですか?』

「いえ。形式は違いますが、皆で食事を楽しむ機会はありますよ」


 洋一は微笑んだ。

 微笑みを向けられたナーシャが、不意打ちを受けて少し赤面しそうになる。


「ただ、これほど多くの立場の人間が、身分を気にせず集まる機会は少ないかもしれません」

『そうなのですね』


 ナーシャは広間を見渡した。

 王族、貴族、軍人、研究者、そして異世界から来た十二人。

 つい少し前まで、互いに武器を向け合っていた者たちが、今は同じ卓を囲んでいる。


『……不思議なものですね』


 彼女の呟きに、洋一は静かに頷いた。

 そのまなざしは近くを見ているようで、遠くを見ているようにも見えた。


「そうですね」


 その言葉には、単なる同意以上のものがあった。

 ここへ至るまでの経緯を思えば、今夜の光景は決して当たり前ではない。

 多くの選択が重なり、誰かが踏み止まり、誰かが手を差し伸べた結果として、この場が生まれている。

 アルネアは二人の様子を眺めながら、少し楽しそうに口を開いた。


『ですが、今夜くらいは難しいお話をお休みになってもよろしいのでは?』


 洋一は苦笑した。


「……そうですね。つい、考えてしまうもので」

『それでは、まず一杯』


 アルネアがグラスを示す。

 洋一は一瞬ためらったが、やがて笑みを浮かべて受け取った。


「では、少しだけ」


 その様子を見ていた清隆が、少し離れた席から声をかけた。


「洋一」

「何でしょう?」

「少しだけ、で済むと思っているのか?」


 洋一は振り返った。

 そちらには口元にニヒルな笑みを浮かべた清隆がいる。

 清隆は自分のグラスを置き、淡々と続けた。


「さっきから何度も同じことを言っている」

「……そうでしたか?」

「そうだ」


 ナーシャとアルネアが顔を見合わせ、小さく笑った。

 洋一は珍しく困ったような表情を浮かべたが、結局、差し出された一杯を断らなかった。

 清隆はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。

 その顔には珍しく、少しの呆れと、いくらかの楽しさが浮かんでいた。

 

 更に隣では、雅史がメーダとともに、王国の学術資料について話していた。

 正確には、雅史が熱心に質問を重ね、相手がそれに答えている。

 彼は戦いの最中にも多くのことを記録していたが、落ち着いて話を聞ける機会は限られていた。

 今夜はその不足を補う絶好の機会だったらしい。


「なるほど……。ということは、魔術の体系そのものが地域によって違うんですね」

『そういうことになります』

「面白いなぁ。日本の学問とも比較できそうです」


 雅史は目を輝かせていた。

 隣にいた智臣が、静かにグラスを置く。


「雅史」

「何?」

「宴会だ」

「……あ」


 雅史はそこでようやく周囲を見渡した。

 自分の前には、ほとんど手をつけていない料理が並んでいる。

 智臣はその皿を指先で示した。


「冷めるぞ」

「そうだね。ごめん」


 雅史は照れくさそうに笑い、料理へ手を伸ばした。

 智臣はそれを確認すると、何事もなかったように自分の食事を再開した。

 こういった行動も日本ではよくみられる光景だった。

 何かに集中して食事を忘れる雅史に、それを指摘する智臣。

 ここにきてようやく、普段と同じ雅史を見ることができたと、心なしか智臣に笑顔が浮かんでいるようだった。


 その少し先では、良澄が王国側の者たちと、動物や神獣について話していた。

 彼が語るのは、戦闘での能力ではなく、生き物としての性質や、日々の世話についてだった。

 その話題に智希も加わり、いつの間にか周囲には小さな輪ができていた。


「結局、相手が何を嫌がっているか分からないと、うまく接することはできないんだよね」

「そうだね。無理に慣れさせるより、安心できる距離を見つける方が大切なこともあるし」

 智希の言葉に、良澄が頷く。

 その会話を聞いていた王国の兵士が、不思議そうに尋ねた。


『神獣にも、そのようなことがあるのですか?』

「もちろん」

「力が強いからって、何でも平気なわけじゃないよ」


 智希は笑い、良澄も穏やかに続けた。


「むしろ、強い力を持っているからこそ、周囲が気をつけないといけないこともあります」


 その言葉に、兵士は深く頷いた。

 彼らが神獣を単なる武器として扱っていないことは、戦場でも感じていた。

 けれど、こうして日常の話題として語られると、その関係性がより身近に思えた。


 宴はさらに賑やかさを増していった。

 誰かが歌を披露し、別の誰かがそれに合わせて手を叩く。

 酒が進むにつれ、普段は慎重な者まで声を上げて笑うようになり、広間のあちらこちらで新しい会話が生まれていた。

 やがて、最初に卓へ突っ伏したのはバルクだった。


『……まだ、飲める……』


 そう言いながら、すでに目を閉じている。

 恭平が肩を揺すってみたが、返ってきたのは曖昧な唸り声だけだった。


「……これ、寝てるっすよね?」

「寝てるね」


 行人が笑った。

 その近くでは、ラグも椅子の背へ身体を預け、静かに眠っていた。

 フィルネはまだ起きていたが、普段よりずっと頬が赤い。エルナも少し離れた席で、誰かに支えられながら水を飲んでいる。

 彰人はその光景を眺め、楽しそうに笑った。


「みんな弱いなぁ」


 桜子がすぐに顔を向けた。


「……あんた、人のこと言えるん?」

「何が?」

「もう顔真っ赤やで」

「照明のせいやろ」

「絶対ちゃうわ」


 セレスティアが隣で笑い始めた。

 彰人もつられて笑ったが、二人とも少し足元が怪しくなっている。

 桜子は深く息を吐いた。


「……明日、知らんからな」


 その予言が正しかったことを、二人が知るのは翌朝のことだった。


     ◇


 宴の賑わいが最高潮に達した頃、怜司は静かに席を立った。


 広間の熱気から離れ、露台へ続く扉を開ける。

 夜の空気が、火照った頬へ心地よく触れた。

 眼下には王都の街並みが広がっていた。

 復興のために組まれた足場や、まだ修復の終わっていない建物も見える。

 けれど、その間には明かりが灯り、人々の暮らしが戻りつつあることを知らせていた。


 遠くから、誰かの笑い声が聞こえる。

 宴の声ではない。

 街の中で、今日という一日を終えようとしている人々の声だった。

 怜司は手すりへ肘を置き、しばらくその景色を眺めていた。


 星堕としを巡る戦い。

 王国との対立。

 黒幕の存在。

 そして、最後に選んだ結末。


 自分たちは、できる限りのことをしたつもりだった。

 少なくとも、今こうして街に明かりが灯っていることは、その結果の一つなのだろう。


 だが、そこへ至るまでに、別の道はなかったのだろうか。


 怜司は目を細めた。

 戦わずに済んだ相手もいたかもしれない。

 もっと早く誰かの考えを理解できていれば、傷つかずに済んだ人もいたかもしれない。

 それは後悔とは少し違っていた。

 選んだ道を否定したいわけではない。

 ただ、選ばなかった道の先に何があったのか、ふと気になったのだった。


『……珍しいな』


 背後から、低い声が響いた。

 怜司は振り返らずに笑った。


「何が?」

『お前が、そうして考え込んでいることだ』


 アルガスの気配が、すぐ傍に現れた。

 怜司は夜空へ視線を戻した。


「別に、考え込んでるわけちゃうで」

『そうか』

「うん」


 短いやり取りのあと、しばらく沈黙が続いた。

 街を渡る風が、露台の柱に掛けられた旗を静かに揺らしている。

 怜司はその音を聞きながら、ようやく口を開いた。


「なぁ」

『何だ』

「もっとええ方法、あったんかな」


 アルガスはすぐには答えなかった。

 怜司も返事を急かさず、眼下の街を眺め続けている。


『……分からぬ』


 やがて、アルガスが答えた。


『少なくとも、我には断言できぬ。お前たちが選んだ道の先に、今の光景がある。それは確かだ』

「うん」

『だが、別の道を選んでいたなら、何が起きたか。それを知ることはできぬ』


 怜司は静かに頷いた。

 彼自身も、同じことを考えていた。

 目の前の問題を解決することはできる。

 しかし、その解決が唯一のものだったかどうかは、別の話だった。


『……父に尋ねてみてはどうだ』


 アルガスの言葉に、怜司は少しだけ顔を上げた。


「オトン?」

『ああ』


 怜司はしばらく考えた。

 そして、何かに納得したように笑った。


「そやな。帰ったら訊いてみるわ」

『それがよかろう』


 再び沈黙が訪れた。

 今度は、先ほどよりもずっと穏やかなものだった。

 怜司は眼下の街へ視線を向けた。

 修復された家々の窓には明かりが灯り、通りを歩く人々の姿が小さく見える。

 この景色を守れたことは、間違いなくよかった。

 それだけは、今の怜司にもはっきりと分かっていた。


     ◇


 翌朝、王城の食堂には、昨夜とはまるで違う空気が漂っていた。


 窓から差し込む陽射しは明るく、焼きたてのパンと温かなスープの香りが広間を満たしている。

 庭園では小鳥が鳴き、使用人たちは普段どおりに朝食の準備を進めていた。

 そんな穏やかな朝の光景に、どうにも似つかわしくない者たちがいた。


「……あかん」


 彰人は卓へ両肘をつき、額を押さえていた。

 目の前には水の入ったグラスが置かれているが、それを持ち上げることさえ億劫らしい。

 隣のセレスティアも、普段の凛とした姿とは少々様子が違っていた。

 背筋こそ伸ばしているものの、表情には明らかな疲労が浮かんでいる。

 ときおり眉間へ指を添え、深く息を吐く姿は、昨夜の彼女を知る者には意外なものだった。


『……少し、飲みすぎたようです』

「少しちゃうやろ……」


 彰人が力なく返す。

 セレスティアは申し訳なさそうに微笑んだ。


『彰人さんも、随分と楽しそうでしたので』

「……そっちもやん」


 二人は顔を見合わせた。

 そして、ほとんど同時に笑いそうになった。


「……っ!」

『……!』


 だが、笑うと頭に響くらしい。

 彰人は途中で顔をしかめ、セレスティアも慌てて口元を押さえた。

 その様子を見ていた桜子は、呆れたように肩を落とした。


「……ほんま、昨日あんなに浮かれとるからやで」


 もっとも、彼女自身も普段より声が小さい。

 昨夜、フィルネと楽しそうに酒を酌み交わしていたことは、本人も覚えているらしい。

 いくら酒に強い桜子と言えど、彰人の倍以上の量では翌日に響く結果になっていた。

 少し離れた席にいるフィルネへ視線を向けると、彼女は温かな茶を両手で包むように持ち、静かに頭を下げた。


『昨夜は、お世話になりました』

「……ああ、うん。こちらこそな」


 桜子は曖昧に笑った。

 フィルネも顔色はあまりよくない。

 その隣では、バルクが椅子の背へ身体を預け、天井を見上げていた。


『……水を……』


 かすれた声だった。

 グランが呆れたように杯を差し出す。


『だから、飲みすぎるなと。あれほど言っただろう……』

『……お前も、飲んでいただろう……』

『私は加減を知っている』


 バルクは何か言い返そうとしたが、途中で諦めた。

 その様子を見ていた恭平が、声を抑えながら笑う。


「……昨日、あんなに元気だったのに」


 行人も苦笑した。


「恭平は凄い量を食べてたよね」

「俺は大丈夫っすよ」

「そう?」

「全然平気っす」


 そう言って胸を張った恭平だったが、直後に大きく欠伸をした。

 行人は何も言わず、彼の前へ水を置いた。


「……ありがと」


 恭平は素直に受け取った。

 少し離れた席では、エルナがレイナに支えられながら座っていた。

 ラグも朝食の皿を前にして、しばらく動く気配がない。

 昨夜の賑わいを思い出すと、何とも言えない光景だった。

 そんな中、怜司は普段と変わらない様子で食事を進めていた。


「これ、うまいなぁ」


 パンをちぎり、スープへ浸して口へ運ぶ。

 隣に座るアルトリウスも、昨夜の酒量を感じさせない落ち着きを保っていた。


『昨夜は、よく眠れたか?』

「うん。普通に」

『それは何よりだ』


 王は穏やかに笑った。

 その会話を聞いていた彰人が、恨めしそうに兄を見た。


「……兄貴、なんでそんな普通なん……」

「なんでって、寝たから?」

「そういうことちゃうねん……」


 彰人は反論しかけたが、途中で諦めた。

 そもそも、飲んだ量で言えば桜子よりもはるかに多く、彰人の三倍ではきかない。

 あまりにも理不尽だとは思ったが、今朝の自分に兄の説明不足へ突っ込むだけの元気がない。

 良澄はそんな彼の様子を見て、苦笑しながら近づいてきた。


「彰人、大丈夫?」

「……あんまり」

「水はちゃんと飲んでね。あと、無理に食べなくてもいいから」


 良澄はそう言いながら、セレスティアにも同じように声をかけた。

 彼女は丁寧に礼を述べたが、少し顔を動かしただけで辛そうに目を伏せた。

 良澄は二人の状態を確認すると、必要以上に手を出さず、しばらく休むよう勧めた。

 その様子を眺めていた清隆が、静かに口を開いた。


「……学習能力がないな」


 彰人が顔を上げる。


「……何やて?」

「昨日の時点で、こうなることは予測できただろう」

「分かっとったら飲んでへんわ!」

「なら、予測能力の問題か」

「お前なぁ……!」


 彰人は勢いよく立ち上がろうとした。

 しかし、途中で頭痛に顔をしかめ、再び椅子へ沈み込んだ。

 清隆は何事もなかったように茶を飲んでいる。

 その光景を見て、雅史が堪えきれずに笑った。


「清隆、今はそのくらいにしてあげたら?」

「事実を述べただけだ」

「それが一番効くんだと思うよ」


 雅史の言葉に、周囲から小さな笑い声が上がった。

 彰人は反論を諦め、再び水の入ったグラスへ手を伸ばした。

 セレスティアも隣で静かに微笑んでいる。

 昨夜までなら、帰還の朝を迎えること自体が、誰かにとって取り返しのつかない別れを意味していた。


 今は違う。

 また会える。


 その事実が、二日酔いに苦しむ者たちの表情にさえ、穏やかな余裕を与えていた。


     ◇


 出発の準備が整った頃、王城の前庭には複数の馬車が並んでいた。

 王国側の者たちは、十二神承を裂け目まで送り届けるために集まっている。

 三柱や八傑だけでなく、復興の現場でともに働いた者たちの姿もあった。


 別れを惜しむ者はいたが、以前のような重苦しさはない。

 また会えるという事実が、誰の表情にも穏やかな余裕を与えていた。

 彰人はセレスティアの隣を歩きながら、時折彼女の様子を気にしていた。


「まだしんどい?」

『少しだけ。でも、大丈夫です』

「無理せんときや」

『彰人さんこそ』


 二人は顔を見合わせ、また笑った。

 桜子はその後ろから、呆れ半分、微笑ましさ半分の表情で眺めていた。

 やがて馬車へ乗り込もうとした清隆が、車体の下を確認していることに気づいた。


「……清隆、何してるん?」

「確認だ」


 彼は当然のように答えた。

 馬車の車輪と車体を繋ぐ部分には、以前には存在しなかった機構が組み込まれていた。

 金属製の支持部材と、空気圧を利用して荷重を受け止める装置。

 外見こそ王国の馬車に合わせているものの、その構造は明らかに日本の車両技術に近かった。

 桜子はしばらくそれを眺め、ゆっくりと清隆へ顔を向けた。


「……これ、あんたがやったん?」

「乗り心地が悪かったからな」

「理由それだけ!?」

「十分だろう」


 清隆は平然としていた。

 良澄が隣で苦笑する。


「僕も少し手伝ったけど、清隆がほとんど作ったんだよ」


 どうやら復興作業の合間に、馬車の足回りまで改造していたらしい。

 試しに乗り込んだ彰人は、座席へ腰を下ろしたところで首を傾げた。


「……なんか、前より柔らかない?」

「揺れは減るはずだ」


 清隆の答えを聞き、彰人は車体の下を覗き込んだ。


「……いつの間にこんなん作ったん?」

「時間はあった」

「なかったやろ!」


 清隆は特に反論せず、馬車へ乗り込んだ。

 その後の移動は、驚くほど快適だった。

 石畳の継ぎ目を越えても、車体が大きく跳ねることはない。

 細かな振動が柔らかく吸収され、二日酔いの者たちにとっては、これ以上ないほどありがたい改造だった。

 彰人はしばらく窓の外を眺めたあと、小さく呟いた。


「……清隆、助かったわ」

「そうか」


 清隆は短く返したが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

 馬車の列は、静かな街を抜けていく。

 復興のために組まれた足場や、修復された建物が窓の外を流れていった。

 昨日まで作業していた場所には、すでに新しい人々が集まり、次の仕事へ取りかかっている。

 王国は、少しずつ前へ進んでいた。


     ◇


 裂け目の前に到着すると、十二神承は馬車を降りた。


 境界は昨夜と変わらず、静かに二つの世界を繋いでいた。

 かつては不安定に揺れ、近づくだけでも警戒を要した通路が、今では何事もなかったようにそこに存在している。

 アルトリウスは一行を前に、深く頭を下げた。


『此度のこと、改めて礼を言わせてほしい』


 王の言葉に、周囲の者たちも姿勢を正した。


『そなたたちがいなければ、我々は過ちを重ね、さらに多くのものを失っていただろう』


 洋一は静かに首を振った。


「私たちも、こちらで多くのことを学びました。これからも、互いに協力できればと思います」

『もちろんだ』


 アルトリウスは力強く頷いた。

 三柱も、それぞれ十二神承へ言葉をかけた。

 もはや彼らにとって、日本から来た十二人は単なる協力者ではなかった。

 ともに戦い、悩み、国の未来を考えた盟友だった。

 彰人とセレスティアは、少し離れたところで向かい合っていた。


「……ほな、またな」

『はい。また、お会いしましょう』


 以前なら、その言葉には叶うかどうか分からない願いが混じっていただろう。

 今は違う。

 セレスティアは穏やかに微笑み、彰人も同じように笑った。


「連絡、できるようになったらええな」

『……楽しみにしています』


 二人はそれ以上、何も言わなかった。

 言葉にしなくても、互いが何を思っているか分かるようになっていた。

 その近くで、桜子が清隆を見てニヤついていたのに気づいたのは智臣くらいだった。

 やがて怜司が、アルトリウスの前へ歩み寄った。


「王様」

『何だ?』

「これからが腕の見せ所やな」


 唐突な言葉だった。

 だが、アルトリウスはすぐに笑みを消し、静かに頷いた。


『……そうだな』


 星堕としという脅威は去った。

 けれど、王国の未来が保証されたわけではない。

 復興を進め、人々の暮らしを守り、新しい世界との関係を築いていかなければならない。

 王としての仕事は、むしろこれからだった。


『期待に応えられるよう、努めよう』

「うん。頑張ってな」


 怜司はいつもの調子で笑った。

 アルトリウスも、つられるように笑みを浮かべた。

 やがて十二神承は、それぞれ最後の挨拶を交わし、裂け目へ向かった。

 振り返れば、王国の者たちが手を振っている。

 誰も、永遠の別れを告げるような顔はしていなかった。

 十二人もまた、笑顔で手を振り返した。

 そして、一人ずつ境界を越えていった。


     ◇


 日本側へ戻った瞬間、空気の匂いが変わった。

 ヴァルネシアの街に漂っていた土と石、薪の煙の匂いは薄れ、代わりに山林特有の湿った土と草木の香りが肌へ触れた。

 周囲には深い緑が広がっている。

 鳥の声と、風に揺れる葉の音。

 それ以外に聞こえるものはほとんどなかった。

 裂け目が設けられているのは、一般の人間が立ち入ることのない私有地の山中だった。

 近くに住宅や道路があるわけでもなく、異世界から戻ってきた十二人を迎えたのは、拍子抜けするほど静かな景色だった。


「……帰ってきたなぁ」


 彰人が小さく呟いた。

 智希が大きく伸びをする。


「やっぱ、日本の空気って感じするな」

「そうっすね。まず何食います?」


 恭平の問いに、行人が笑った。


「さっき朝ご飯食べたばっかりじゃない?」

「いや、日本の飯は別腹っすよ」


 そのやり取りに、周囲から笑い声が上がった。

 洋一は全員の帰還を確認すると、大学の部室へ戻ることを提案した。

 まずは今回の出来事を整理し、それぞれが今後どう動くか確認する必要がある。


 十二人は慣れた道を辿り、大学へ向かった。

 久しぶりに入る部室は、出発したときとほとんど変わっていなかった。

 机の上には資料が積まれ、壁際には使い慣れた備品が並んでいる。

 長い時間を異世界で過ごしてきたように感じるのに、ここでは何も変わっていない。

 そのことが、妙に不思議だった。


 洋一が聖域への入口を開くと、十二人は慣れた足取りで円卓のある空間へ移動した。

 そこには、出発前と変わらない景色が広がっていた。

 十二人が幾度となく顔を合わせ、意見を交わし、ときには夜が更けるまで議論を続けた場所。

 ヴァルネシアに対して防衛戦線を作ることを決断した場でもある。


 ヴァルネシアで過ごした日々を思えば、ほんの少し懐かしささえ覚える。

 彰人は円卓の椅子を引き、腰を下ろすと同時に大きく伸びをした。


「……あー、帰ってきたって感じするわぁ」

「ここへ来ると、そう感じますね」


 雅史も穏やかに笑い、見慣れた円卓へ手を添えた。

 異世界で何度も会議を重ねたせいか、同じような光景を目にしても、以前とは少し違った感覚があった。

 その一方で、怜司は円卓の向こう側を眺めていた。

 広い聖域には、まだ十分な余白がある。

 彼は少し首を傾げ、円卓と壁の位置を見比べると、何かを思いついたように歩き始めた。


「……この辺でええかな」


 彰人が顔を向ける。


「兄貴、何してんの?」

「扉」

「……扉?」


 怜司は頷き、何もない空間へ手を伸ばした。

 そこに何かが現れるまで、ほとんど時間はかからなかった。

 壁面に沿って細い輪郭が浮かび上がり、それが上下左右へ伸びていく。やがて、重厚な両開きの扉が姿を現した。

 落ち着いた色合いの木材に金属の装飾が施され、円卓のある空間へ自然に溶け込んでいる。

 初めからそこに設けられていたと言われても、不思議ではないほどだった。

 恭平が目を丸くした。


「……え、何すか、これ」

「ヴァルネシアの入口」


 怜司はごく普通のことのように答え、片方の扉へ手を掛けた。

 扉がゆっくりと開く。

 その向こうには、先ほどまでいたヴァルネシアの景色が広がっていた。

 城へ続く道と、見慣れた空の色。日本へ戻るために通った裂け目が、今度は聖域の中に設けられた扉の先へ繋がっている。

 彰人は椅子から立ち上がり、開かれた扉へ歩み寄った。


「……ちょっと待ってや、兄貴」

「ん?」

「これ、向こうと繋がってるん?」

「うん」

「ほんで、ここは洋一さんの聖域やんな?」

「そうやで」


 彰人は開いた扉と怜司を交互に見た。

 何かがおかしいことだけは分かるのに、どこから突っ込めばいいのか整理がつかない。


「……いや、もう何でもありやな……」


 結局、彰人は突っ込むことを諦め、疲れた声で呟いた。

 その様子に怜司は不思議そうに首を傾げた。


「便利やろ?」

「便利やけど、そういう話ちゃうねん!」


 そのやり取りに、周囲から笑い声が漏れた。

 清隆は笑わず、開かれた扉の周囲を観察していた。

 境界の状態を確かめるように近づき、扉の厚みや枠の構造へ視線を走らせる。

 指先で縁に触れてみても、そこには普通の建具と変わらない確かな感触があった。


「……閉めた状態でも、接続は維持されるのか?」

「いや。開けへんかったら、ただの扉やで」

「通行の制限は?」

「できるで」


 清隆は短く頷いた。

 それから円卓へ視線を戻し、聖域への入口がある方向を確認した。


「……まあ、ここなら外部から勝手に入られる心配は少ないか」


 洋一も扉へ近づき、向こう側を眺めた。

 扉の外枠に手をかけ、その扉の見た目や質感が普通の扉と同じものであることを確認する。


「管理する場所としては、悪くありませんね。ただ、実際に行き来するとなると、いくつか決めておく必要はありそうです」

「そうだな」


 清隆は扉を見たまま答えた。


「向こうの連中が、あの格好で大学から出てきたらどうなると思う?」


 清隆が続けた言葉に、彰人は少し考えた。


「……コスプレ?」

「撮影か何かと思われるかもしれませんね」


 雅史が続けると、智希も苦笑した。


「いや、あの人数で来られたら、普通に人だかりできるだろ」

「下手すりゃ動画撮られて拡散されるっすよ」


 恭平の言葉に、洋一も表情を引き締めた。

 ヴァルネシアでは自然な服装であっても、日本の街中では目立ちすぎる。

 比較的見た目の親和性が高いと思われるセレスティアであっても、単純な美しさは人を惹きつける。

 まして、三柱や八傑の一部は、外見そのものが日本人とは大きく異なる場合もある。

 清隆は皆の反応を確認すると、もう一度扉へ目を向けた。


「……対策は必要だな」


 それだけ言うと、特に説明を加えず円卓へ戻っていった。

 彰人はその背中を見送り、少し眉を寄せた。


「……あいつ、なんか考えてるやろ」

「いつものことやん」


 怜司が笑う。

 清隆は聞こえているはずだったが、振り返らなかった。

 洋一は開いた扉の向こうをもう一度確認し、静かに頷いた。


「ひとまず、こちら側の入口はここで管理しましょう。具体的な運用については、また改めて考えることにします」


 怜司は扉を閉じた。

 重厚な扉が静かに合わさると、向こう側の景色は見えなくなり、円卓の背後には落ち着いた木製の建具だけが残った。

 異世界へ繋がっているとは思えないほど、自然な佇まいだった。

 その扉の向こうには、昨日まで戦いの舞台だった世界がある。

 そして今は、いつでも再び訪れることのできる場所になっていた。


     ◇


 その日は、全員がいったん自宅へ戻ることになった。

 長い緊張から解放された身体には、思っていた以上に疲労が残っている。

 日本へ帰ってきたという安心感もあり、誰もが少し休みたいと思っていた。

 ただし、休める時間は長くなかった。


 翌日には、それぞれが動き始めていた。


 洋一が向かったのは、国内の財界に強い影響力を持つ人物のもとだった。

 以前にも一度、ヴァルネシアで起きている事態について説明している。

 その際には、まだ事態の収束が見通せず、今後の方針についても可能性を示すに留めていた。


 しかし今回は違う。


 王国との対立は解消され、星堕としも阻止された。

 さらに、二つの世界を繋ぐ通路が恒久的に維持されることまで決まっている。

 もはや、遠い世界で起きた一時的な事件として片づけられる話ではなかった。


 都心の高層ビル。その上層階に設けられた応接室へ通されると、洋一は以前と同じ席へ案内された。

 大きな窓の向こうには、無数の建物が並んでいる。そこに本社を置く企業も、窓からは見えない場所に工場や店舗を構える企業も、大小さまざまな形で日本の経済を支えていた。

 その経済活動に、異世界という新たな領域が加わる。

 考え方によっては、産業構造そのものを変えかねない出来事だった。


「思ったより早かったな」


 向かいに座った男が口を開いた。

 年齢を重ねた落ち着きと、長年にわたり経済界の中心で人を動かしてきた者特有の威圧感を併せ持っている。

 声を荒らげることはないが、その一言には、相手の反応を確かめるような響きがあった。


「もう少し時間がかかるものと思っていたが」

「私も、ここまで早く結論が出るとは予想していませんでした」


 洋一は率直に答えた。

 そう言いながらも、確認を滲ませながら言葉を続ける。


「ただ、結果としては、当初考えていた以上の形に落ち着いたと思っています」

「ほう」


 男は興味を示したように身を乗り出した。

 洋一は持参した資料を卓上へ置き、今回の経緯を順を追って説明した。

 王国との対立が解消されたこと。星堕としによる脅威が取り除かれたこと。

 そして、両世界の間に恒久的な通路が設けられ、今後は限定的ながら人の往来が可能になること。

 男は途中で質問を挟みながらも、最後まで話を聞いていた。

 やがて資料を閉じ、ゆっくりと椅子の背へ身体を預ける。


「……なるほど。つまり、向こうの世界は実在し、そこには我々の知らない文明と資源がある。そして、今後は継続的な接触が可能になるわけだ」

「はい」

「君は、その意味を理解しているのだろうな」

「もちろんです」


 洋一は静かに頷いた。

 男は指先で資料の端を軽く叩き、微かな苛立ちを隠さずに話し始める。


「新しい資源、技術、労働力、市場。どれを取っても、経済界が放っておくはずのない話だ。政府も当然、国家としての利益を考えるだろう」

「そうでしょうね」

「それを、君たち十二人が管理するというのか?」


 洋一は少しだけ間を置いた。

 自身の中でも適した言葉が見つからず、少し曖昧な表現を続ける。

 交流があるという単純な話ではない、そういう関係性が構築されているだけに言葉選びには慎重になった。


「管理、という言葉が適切かは分かりません。ただ、少なくとも現段階では、無秩序な接触を認めるつもりはありません」

「理由を聞こう」

「向こうにも国家があり、社会があり、そこに暮らす人々がいます。日本にとって利益があるからといって、相手の意思を無視してよい理由にはなりません」


 男は黙って聞いていた。

 洋一の言葉が、単なる若者の理想論ではないことは理解できた。立場を入れ替えれば、日本とて同じ主張をするだろう。

 反論はいくらでも思いつく。しかし、今それを口にしたところで、議論の本質から遠ざかるだけだった。

 男は組んでいた指を解き、洋一が続きを話すのを待った。


「それに、ヴァルネシアは現在、復興の途上にあります。こちらの経済力を背景に一方的な条件を押し付ければ、対等な関係を築くことは難しくなるでしょう」

「……理想論だな」


 男の返答は短かった。

 その言葉が暴論であることは百も承知だった。

 しかし、ビジネスというのはそれだけで成り立つものではないということも、若者に伝えるべきと考えていた。

 その言葉を受けた洋一は否定しなかった。


「そうかもしれません」

「商売は善意だけでは成り立たん。投資する者がいれば、利益を求めるのは当然だ。危険を負う以上、それに見合う見返りも必要になる」

「ええ。その点は理解しています」

「ならば、向こうが持つ資源をこちらが買い、こちらの技術を向こうへ売る。それの何が問題なのだ?」

「取引そのものには、何の問題もありません」


 洋一は穏やかに答えた。

 男の表情に微かに感心するような動きが見える。


「問題になるのは、その取引が相手にとっても利益になるかどうかです」


 男の眉が、わずかに動く。

 洋一の言葉は、問題というものに二面性を持たせていた。


「相手が納得して契約するなら、それで十分ではないかね」

「双方が条件を理解し、自由な意思で合意しているなら、そうでしょうね」

「……ずいぶん条件が多いな」

「異なる文明同士の取引ですから」


 洋一は資料の一頁を開いた。


「例えば、こちらでは一般的な技術でも、向こうでは軍事的な優位を大きく変える可能性があります。逆に、向こうでは日常的に利用されているものが、日本では厳重な管理を必要とするかもしれません」


 男は視線を落とした。

 軍需産業は莫大な利益となる。それは間違いなかった。

 ただ、技術体系が違う、文化水準が違うところに、はるか未来の文化水準を持って行った場合に問題が発生することも理解していた。


「技術移転にも制限を設けると?」

「必要であれば」

「誰がその必要性を判断する?」

「私たちも協議には加わりますが、当然、ヴァルネシア側の意思も尊重します」

「それでは話が進まんぞ」


 男は苦笑した。

 文化水準が違う国家同士で、双方の意思を尊重することの難しさを直感していた。


「経済界は速度を求める。機会を逃せば、それだけ損失が生じる。君たちが一件ずつ判断していたのでは、まともな事業など成立しないだろう」

「ですから、いずれは双方が納得できる制度を整える必要があります」

「その制度を作るのは政府だろう。君たちではない」

「そのとおりです」


 あっさりと認められたことが意外だったのか、男は少しだけ目を細めた。

 洋一は続けた。


「私たちが、今後のすべてを決めようとしているわけではありません。外交や経済活動には、それぞれ専門の方々がいます。その力は必要になるでしょう」

「ならば、最初から任せればよい」

「ただし、それは両世界が正式に関係を築き、互いの権利と責任を確認してからの話です」


 洋一は男の目を見た。

 眼鏡の奥にある洋一の瞳には、揺るぎない意思が宿っていた。

 男は口を挟まず、続きを待った。


「それまでは、少なくとも一方的な介入を防ぐ必要があります」


 男はしばらく黙っていた。

 洋一の言葉を、落ち着いて、確実に咀嚼する。

 やがて、ゆっくりと口を開く。


「……ずいぶん強い立場だな」

「そうでしょうか」

「そうだとも。国家でも企業でもない君たちが、世界を一つ隔てた向こう側への入口を押さえ、誰を通すか決めると言っているのだからな」


 男はそこで言葉を切った。


「それは、見方によっては独占だ」


 男はそれきり口を閉じた。

 応接室には、空調の低い作動音だけが残った。

 卓上に置かれた茶は、いつの間にか湯気を失っている。

 窓の外では、眼下の道路を車が絶え間なく行き交っていた。

 無数の企業が利益を求め、競争し、ときには協力する。

 その仕組みの中で長年生きてきた男にとって、十二人の若者が一つの世界への入口を握っているという事実は、容易に看過できるものではなかった。


 洋一はすぐには答えなかった。

 男の指摘には、確かに一理ある。

 十二神承が入口を管理するということは、意図せずとも強大な権限を持つことになる。

 その権限を誰が監督するのかという問題は、いずれ避けて通れないだろう。

 しかし、だからといって、何の取り決めもないまま門を開放するわけにはいかなかった。


「……その懸念は理解しています」


 洋一は静かに口を開いた。


「ですから、私たちは恒久的な独占を望んでいるわけではありません。適切な制度が整うまでの間、無用な混乱を避けたいだけです」

「それがいつまで続くか、誰にも分からんのだろう?」

「ええ。現段階では」


 男は深く息を吐いた。


「君は、なかなか厄介な話を持ってきてくれたな」

「申し訳ありません」

「謝る必要はない。むしろ、早い段階で知らせてくれたことには感謝している」


 男は目を伏せ、資料を閉じた


「だが、ひとつ確認しておきたい」

「何でしょう?」

「君は先ほど、相手の意思を無視した取引や、力による介入は認めないと言ったな」

「はい」

「では、その利益や問題を、最終的に判断するのは誰だ?」


 洋一は、わずかに表情を引き締めた。

 この質問が出ることは予想していた。

 制度が整うまでの暫定的な管理。双方の利益を尊重した取引。

 どれも必要な話ではあるが、それだけでは相手が納得しないことも分かっている。

 結局、最後に問われるのは、その取り決めを誰が守らせるのかということだった。

 洋一は卓上の資料へ一度だけ視線を落とし、再び男を見た。


「……八代です」


 男の指が止まった。

 先ほどまで資料の端を叩いていた指先が、卓上で静止する。


「……八代?」

「はい」

「泰仁(たいじ)君のところかね」

「その八代です」


 男はゆっくりと椅子へ身体を預けた。

 そして、しばらく天井を見上げていた。


「……なるほどな」


 その声には、先ほどまでとは異なる響きがあった。

 洋一は何も言わず、相手の反応を待った。


「君たちが、そこまで強気に出られる理由が分かったよ」

「強気に出ているつもりはありませんが」

「分かっている。だからこそ厄介なのだ」


 男は苦笑した。


「泰仁君のところが関わっているなら、少なくとも、力ずくでどうにかしようなどとは考えない方がよさそうだ」


 洋一は否定も肯定もしなかった。

 男はその様子を見て、静かに笑った。


「……まったく。世の中には、商売の理屈だけでは動かせんものがあるということか」

「私たちが望んでいるのは、互いに利益のある関係です」


 洋一は改めて告げた。


「それを壊すようなことがなければ、問題にはならないと思いますよ」


 男はしばらく洋一を見つめていた。

 やがて、ゆっくりと頷いた。


「分かった。こちらでも話を通しておこう。ただし、今後の具体的な制度については、改めて協議が必要だ」

「もちろんです」

「それと、君には今後も何度か足を運んでもらうことになるだろうな」

「承知しています」


 洋一が答えると、男はようやく穏やかな笑みを浮かべた。


「……しかし、八代か」


 男は椅子を回し、窓の外へ視線を向けた。

 経済界には、資金を動かす力がある。政界には、制度を変える力がある。

 だが、そのどちらにも属さず、なお両者が無視できない存在もいる。

 男は、かつて泰仁と交わした会話を思い出していた。

 あの男の息子が、今度は世界を一つ繋いだという。


「……親子というのは、面白いものだな」


 その呟きの意味を、洋一は尋ねなかった。

 目的は、相手を屈服させることではない。

 これから始まる二つの世界の交流が、最初の一歩から歪んでしまわないようにすることだった。


     ◇


 清隆は研究者たちのもとへ向かっていた。

 持参した資料には、ヴァルネシアで確認した現象や、魔力を利用した技術、そして裂け目の状態についての記録がまとめられていた。

 研究者たちは興味深そうに資料を読み進め、次々と質問を投げかけた。


「この空間接続は、どういう原理で維持されているんだ?」

「分からない」


 清隆は即答した。

 相手が驚いたように顔を上げる。


「君が分からないのか?」

「分からないものは分からない」


 清隆は平然としていた。


「今回の事象で一番謎なのは、魔法でも神獣でもない。怜司だ」


 研究者たちは顔を見合わせた。

 清隆は資料の一部を指し示し、今後の調査方針を説明し始めた。

 確かに、報告書の内容を確認しても、怜司の行動については何一つ説明がつかない。

 その説明のつかない、理解できないものを、理解できないまま放置するつもりはない。

 彼の表情には、研究者としての強い興味が浮かんでいた。


     ◇


 優斗が訪れたのは、都心の一角にある古い屋敷だった。


 高い塀と手入れの行き届いた庭木に囲まれたその建物は、外から見れば、裕福な老人の住まいとしか思えない。

 しかし、政界に多少なりとも関わる者なら、この屋敷の持つ意味を知っている。

 表向きの役職を退いて久しいにもかかわらず、今なお派閥の人事や政策調整に影響力を持つ人物が、そこに暮らしていた。

 優斗は案内された和室へ入り、座布団の前で足を止めた。


「ご無沙汰しております」


 部屋の奥では、白髪の老人が茶を飲んでいた。


「おお、優斗君か。先日ぶりだな」


 老人は湯呑みを置き、ゆっくりと顔を上げた。

 年齢を重ねた穏やかな顔立ちだったが、その眼差しには、相手の言葉を一つも聞き逃さないような鋭さが残っている。


「今回は、少々厄介な話を持って参りました」

「ほう。君がそう言うとは珍しい」


 老人はニヒルに笑い、向かいの座布団を示した。


「まあ、座りなさい。茶くらいは飲んでいくだろう」

「ありがとうございます、阿宗さん」


 優斗は一礼して腰を下ろした。

 老人――阿宗は、優斗の表情をしばらく眺めていた。


「……それで? 八代のところの倅が、また何かやらかしたかね」


 優斗は、わずかに苦笑した。

 参ったなぁという言葉が顔に出ている。


「やらかした、という表現が適切かは分かりませんが……」

「ハッハッハ。そういう返事をする時点で、大方の察しはつくぞ」


 阿宗は楽しそうに笑ったが、優斗が持参した資料へ目を向けると、その表情を静かに引き締めた。


「さて、聞かせてもらおうか」


 優斗は資料を開き、ヴァルネシアで起きた出来事を説明し始めた。

 異世界との接触、王国との対立、星堕としの阻止。

 そして、両世界を繋ぐ通路が恒久的に維持されるようになったこと。

 優斗は時系列に沿って経緯を整理し、必要に応じて王国側の事情や、十二神承が取った行動についても補足した。


 阿宗は途中で口を挟まなかった。

 ただ、時折資料へ目を落とし、記載された数字や地名を確認している。

 報告の内容が荒唐無稽であることは承知しているはずだったが、その表情に疑念らしいものは見えなかった。

 以前の面会で、すでに異世界の存在そのものについては説明を受けている。

 今回、彼が確かめようとしているのは、そこから何が変わったのかという一点だった。


 優斗が説明を終えると、阿宗は資料を閉じた。

 すぐには言葉を発さず、手元の湯呑みを持ち上げる。少し冷めた茶を口へ運び、庭へ視線を向けた。

 磨き上げられた縁側の向こうでは、風に揺れた木々の影が、白い玉砂利の上をゆっくりと移動していた。

 部屋の中には、遠くで鳴く鳥の声だけが届いている。


「……なるほど。厄介どころの話ではないな」


 阿宗は湯呑みを置き、優斗へ向き直った。


「向こうの国との戦争は避けられた。脅威も取り除いた。それで、今度は二つの世界が行き来できるようになった、と」

「はい」

「結構な話じゃないか。少なくとも、戦争になったという報告よりはずっといい」


 阿宗は口元を緩めたが、その眼差しは鋭さを失っていなかった。


「ただし、政府にとっては別の問題が生まれたわけだ」

「そのとおりです」

「外交、防衛、出入国管理、経済活動。挙げればきりがないな。既存の法律で対応できるかどうかも怪しい」


 阿宗は指先で資料を軽く叩いた。

 顎をわずかに引き、伏せ気味だった視線だけを持ち上げた。

 口元には薄い笑みが残っていたが、その目は鋭く、優斗の反応を見定めるようだった。


「で、君は何をしに来た?」


 優斗は姿勢を正した。

 阿宗の言葉に含まれる意味を正しく受け取ったのだろう。


「政府としても、今後の対応を慎重に進める必要があると考えています。そのための調整をお願いしたく、参りました」

「政府、か」


 阿宗は小さく笑った。


「ずいぶん大きな主語を使うじゃないか。君は政府を代表して来たのかね?」

「いえ。今回は、あくまで私個人の判断です」

「だろうな」


 阿宗は満足そうに口元を緩めた。

 優斗が自分の立場を見誤っていないことは、その短い返答だけで十分に伝わった。

 与えられた権限と、自らの判断で動ける範囲。その違いを理解している若者は、決して多くない。

 まして、これほど大きな力を持ちながら、なお政治の仕組みを尊重しようとしている。

 阿宗は、目の前の青年がいずれどのような立場に立つのか、少しばかり楽しみにしていた。


「正式な政府の依頼なら、こんな屋敷で茶を飲みながら話すことにはならん」


 優斗もわずかに笑みを浮かべた。

 阿宗がわざわざ確認したのは、優斗の立場を疑っているからではない。

 これから行う調整が、正式な行政手続きなのか、それとも政治家たちの間で事前に認識を揃えるためのものなのか。

 その違いを明確にしておく必要があった。


「それで、どこまで話が進んでいる?」

「現段階では、両世界の正式な外交関係について、具体的な制度は整っていません。ただ、ヴァルネシア側との協議は可能です」

「入口は?」

「当面、十二神承で管理する方針です」

「……ほう」


 阿宗は興味深そうに片眉を上げた。


「政府が黙っているとは思えんな」

「ええ。今後、管理権限について議論が起きることは承知しています」

「議論だけで済めばいいがな」


 その言葉には、長年にわたり政界の駆け引きを見てきた者の実感が滲んでいた。

 新たな利権が生まれれば、それを手にしようとする者が現れる。

 国家の安全を理由に管理を求める者もいれば、経済発展を掲げて早期開放を主張する者もいるだろう。

 いずれも、それ自体は政治的な議論として成立する。

 問題は、その議論がどこへ向かうかだった。


「政府の管理下に置くべきだと言い出す者は、必ず出るぞ」

「それは自然なことだと思います」

「ならば、君たちはどうする?」


 優斗は一度、手元の資料へ目を落とした。

 自分たちがすべてを決めるつもりはない。

 だが、政治的な都合だけでヴァルネシアとの関係を変えられるわけにもいかない。

 その線引きを、優斗はすでに洋一たちとも話し合っていた。


「いずれは、双方の政府が協議することになるでしょう。ただ、現段階で一方的に管理権限を移すつもりはありません」

「その理由は?」

「向こうの世界にも、国家としての意思があります。日本政府だけで決められる問題ではありません」


 阿宗は静かに頷いた。


「まあ、そうだろうな。日本の領土でもなければ、属国でもない。向こうの王様にも言い分はあるだろう」

「はい」

「それで、十二神承が間に立つわけか」

「少なくとも、当面は」


 阿宗は腕を組み、しばらく考え込んだ。

 政治家たちが何を主張するかは、ある程度予想できる。

 だが、実際に通路を維持しているのが誰なのかを考えれば、通常の権限争いとは事情が異なっていた。


「……一つ聞くが」

「何でしょう?」

「政府が何を決めようと、向こうの世界を繋いだのは怜司君だろう?」

「そのとおりです」

「そして、あの通路をどう扱うかについても、本人の意思が無関係とは言えんわけだ」


 優斗は静かに頷いた。

 阿宗は、その反応を見て小さく息を吐いた。


「だったら、まず本人たちの意思を尊重せねばなるまいな」


 そこまで言うと、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。


「もっとも、政治家という連中は、何でも自分たちの決定で動くと思いたがるものだ。中には、相手をよく知らんまま強引なことを考える者もいるだろう」

「……その可能性を、懸念しています」

「だろうな」


 阿宗は優斗を見た。


「君がわざわざ私のところへ来た理由も、それか」

「はい」


 優斗は姿勢を正し、改めて阿宗の目を正面から見た。


「その調整を、お願いしたいのです」


 阿宗はすぐには答えなかった。

 庭へ目を向け、湯呑みを手に取る。すでに茶は冷めていたが、気にした様子もなく一口飲んだ。


「……まあ、話くらいはしておこう」


 優斗は表情を和らげた。


「ありがとうございます」

「ただし、勘違いするなよ」


 阿宗は湯呑みを置いた。


「私ができるのは、話の分かる連中に事情を伝えて、余計な騒ぎを起こさせんようにすることくらいだ。正式な制度を作るのは、今の政府の仕事だからな」


 その言葉は、決して謙遜ではなかった。

 表舞台を退いた阿宗が、今なお政界に影響力を持っていることは事実である。

 しかし、影響力があることと、正式な決定権を持つことは違う。その区別を曖昧にすれば、政治そのものが歪んでしまう。

 阿宗は、そのことを誰よりも理解していた。


「承知しています」


 優斗は静かに頷いた。

 阿宗が引き受けてくれたのは、政府に代わって何かを決定することではない。

 これから始まる議論が、余計な思惑によって混乱しないよう、事前に道筋を整えることだった。

 それだけでも、十分に大きな意味がある。


「それに、経済界も黙ってはいないだろう。そちらはどうなっている?」

「洋一が、関係者と話を進めています」

「久世君か」


 阿宗は納得したように頷いた。


「なら、そちらは任せておけばいいだろう。あの男も、なかなか面白い」


 その言葉に、優斗はわずかに笑った。

 洋一が経済界との調整を進め、優斗が政界との接点を担う。十二神承の中でも、それぞれが得意とする分野は異なっていた。

 しかし、どちらも単に相手を従わせるために動いているわけではない。

 これから始まる交流に、双方が納得できる仕組みを作る。そのためには、経済界の協力も、政府の理解も必要だった。


「……優斗君」


 阿宗が、ふと声をかけた。


「はい」

「君は、今回の件が落ち着いたらどうするつもりだ?」


 唐突な質問だった。

 優斗は少しだけ考えた。


「当面は、必要な調整を続けることになると思います」

「その先は?」

「……まだ、そこまでは考えていません」


 阿宗は小さく笑った。


「そうか」


 顎をわずかに引き、眉の下から優斗を見上げるように視線を向ける。


「君は、自分が思っているよりも、こういう仕事に向いているかもしれんな」


 優斗は思わず阿宗を見た。


「……私が、ですか?」

「少なくとも、今日の話を聞く限りではな」


 阿宗はそれ以上、具体的なことを言わなかった。

 優斗が持つ力も、その立場も、通常の政治家とは大きく異なる。

 今すぐ何かを勧めるつもりはないし、本人が望まない道へ誘導するつもりもなかった。

 ただ、目の前の青年には、力を持つ者が陥りがちな傲慢さがない。

 自分の意思を持ちながら、他者の役割を尊重する。必要なときには協力を求め、相手の立場も理解しようとする。

 その資質を、阿宗は以前から評価していた。


「……ありがとうございます」


 優斗は、少し戸惑いながらも頭を下げた。


「礼を言われるような話じゃない。単なる年寄りの感想だ」


 阿宗は口の端を吊り上げた。


「もっとも、私の感想も、たまには当たるがな」


 優斗は思わず笑みをこぼした。

 先ほどまでの緊張が、少しずつ和らいでいく。

 阿宗は資料をもう一度手に取り、最初の頁へ目を通した。

 異世界との恒久的な接続。

 たった数行で記されたその事実が、今後の日本にどれほど大きな変化をもたらすのか。

 政治家たちが理解するには、まだ相当な時間が必要になるだろう。

 しかし、それよりも先に、ひとつ確認しておきたいことがあった。


「……ところで、優斗君」

「はい」

「泰仁君は、この件をどこまで知っている?」


 優斗は、少し意外そうに顔を上げた。


「今回の経緯については、怜司たちから直接話を聞いているはずです」

「そうか」


 阿宗は口元を緩めた。

 その表情からは、先ほどまでの政治家としての鋭さが、すっかり影を潜めていた。


「なら、久しぶりに顔を見せてもらわんといかんな」


 その声には、個人的な親しみが混じっていた。

 優斗は、その変化に気づいた。

 阿宗が怜司の父と古くから面識を持っていることは知っている。しかし、二人が過去にどのような付き合いをしていたのか、そのすべてを聞いたことがあるわけではない。


「……泰仁さんに、お伝えしておきましょうか?」

「いや、いい」


 阿宗は楽しそうに笑った。


「そのうち、こちらから連絡するさ。あいつの息子が世界を繋いだなんて話を聞かされたら、黙っていられんだろう」


 その言葉には、政治的な計算など微塵も感じられなかった。

 優斗は苦笑した。

 政界の重鎮としてではなく、古い知人の話を楽しむ一人の老人として、阿宗は実に嬉しそうだった。

 それこそ、わくわくが止まらない子供のような表情をしていた。

 優斗はそれ以上、二人の関係について尋ねなかった。

 今日ここへ来た目的は、すでに果たしている。

 それに、阿宗があれほど楽しそうにしている理由を知るのは、今でなくてもいいだろう。


     ◇


 恭平と行人は、久しぶりに高校へ向かっていた。

 校門へ続く坂道には、制服姿の生徒たちが行き交っている。

 自転車を押しながら友人と話す者、遅刻を気にして足早に歩く者、片手に参考書を持ったまま階段を上がっていく者。

 朝の学校には、二人がいなかった間も変わらず続いていた日常があった。


「……なんか、すげえ久しぶりな気がするっすね」


 恭平が校舎を見上げながら呟いた。


「実際、久しぶりだからな」

「いや、そうなんすけど。なんつーか、もっと変わっててもおかしくない気がするっていうか」


 行人は隣を歩く恭平へ視線を向けた。


「何が変わってると思ったんだ?」

「いや、分かんないっすけど……」


 恭平は少し考え、校庭の方へ目を向けた。

 体育の授業なのだろう。グラウンドでは生徒たちが準備運動をしており、教師の笛が短く響いている。

 校舎の窓からは、誰かが笑う声も聞こえてきた。


「向こうじゃ、あんなことになってたじゃないっすか。なのに、こっちは何も変わってないんだなって」

「そりゃ、こっちでは何も起きてないからな」

「そうなんすよね」


 恭平は苦笑した。

 つい先日まで、二人はヴァルネシアの大地に立っていた。

 見知らぬ王国の人々と出会い、戦い、傷ついた者たちを助け、国の行く末を左右する出来事に関わっていた。

 そこで目にしたものは、どれも教科書の中に収まるような話ではない。

 それでも、校門をくぐれば、そこにあるのはいつもの高校だった。

 掲示板には部活動の予定が貼られ、昇降口には生徒たちの靴が並んでいる。廊下の向こうから聞こえてくる教師の声も、どこか懐かしい。


「……まあ、戻ってきたって感じはするな」

「っすね」


 行人がそう言うと、恭平も小さく頷いた。


 二人は職員室へ向かった。

 事前に優斗から連絡が入っていたこともあり、学校側は二人が登校することを把握していた。

 もっとも、連絡によって伝えられている事情は限られている。

 異世界で何が起き、二人が何をしてきたのかまで、教師たちが知っているわけではなかった。

 職員室の扉を開くと、何人かの教師が顔を上げた。

 そのうちの一人が、二人の姿に気づいて立ち上がる。


「おお、来たか」


 担任だった。

 いつもなら提出物や遅刻について小言を言うこともある教師だったが、今日ばかりは少し様子が違っていた。


「とにかく、無事でよかった」


 そう言って二人を見比べる。

 その視線は、どこか怪我をしていないか確かめるようでもあった。


「ご心配をおかけしました」

「すみませんでした」


 行人が丁寧に頭を下げ、恭平も続いて頭を下げる。

 教師はそんな二人の肩へ軽く手を添え、顔を上げるよう促した。


「いや、謝る必要はない。事情が事情だからな」


 教師はそう答えたものの、少し困ったように笑った。


「ただ、詳しい話は聞かない方がいいと言われていてな。こちらとしても、どう扱えばいいのか少々悩んだよ」

「……そうですよね」


 行人は申し訳なさそうに答えた。

 隣では、恭平がバツが悪そうに苦笑いしながら頭を搔いている。

 その様子を見て教師は、仕方ないなというような笑顔を向けてきた。


「まあ、こうして元気な顔を見せてくれたんだ。それで十分だ」


 教師は二人を促し、職員室の隅にある小さな打ち合わせ机へ案内した。

 卓上には、二人が欠席していた期間の授業予定と、配布されたプリントがまとめられていた。

 恭平はその束を見た瞬間、わずかに顔を引きつらせた。


「……先生、これ、もしかして」

「お前たちの分だ」

「全部っすか?」

「全部だ」


 教師は当然のように頷いた。

 その表情が妙に得意げだったものだから、恭平には、今にも胸を張って「エッヘン」と言い出しそうに見えた。


「欠席扱いについては学校側で調整しているが、授業の内容までなかったことにはできんからな」


 行人がプリントの束へ手を伸ばし、科目ごとに分けられた内容を確認する。

 教師だけではなく、クラスメイトの協力もあったのだろう。

 プリントの余白には、授業中に教師が強調した箇所や、試験に出ると念を押された内容が、異なる筆跡で書き込まれていた。

 誰かが二人のために時間を使ってくれたのだと分かる。

 行人はその一枚をしばらく眺めてから、丁寧に束へ戻した。


「補習などはありますか?」

「必要に応じてな。まずは授業に戻ってもらって、遅れているところを確認する。それから考えよう」

「分かりました」


 行人は素直に頷いた。

 その横で、恭平はまだプリントの厚みを見つめている。


「……行人」

「何だ?」

「俺ら、向こうで結構頑張ったっすよね」

「そうだな」

「命懸けだったっすよね」

「まあ、そうだな」

「……それでも宿題は減らないんすね」


 行人は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「残念ながら」

「何を期待してたんだ、お前は」


 行人の一言が面白かったのか、教師は笑いながら続けた。


「向こうで何をしてきたかは知らんが、数学の公式が変わったわけじゃないだろう」

「そりゃそうっすけど……」


 教師の言うことも尤もだと、行人が頷くのを見て、恭平は肩を落とした。

 職員室の近くにいた教師が、そのやり取りを聞いて小さく笑っている。いつもと変わらない光景だった。

 行人はそんな恭平の様子を見ながら、どこか安心していた。

 ヴァルネシアで過ごした時間は、決して短く感じられるものではなかった。

 戦いの最中には、明日のことすら考えられない瞬間もあった。

 それでも、こうして学校へ戻れば、目の前にあるのは授業と課題であり、教師からの小言だった。


 その当たり前が、今は少しありがたかった。

 一通りの説明を受けたあと、二人は教室へ向かった。

 廊下を歩いていると、すれ違った生徒が恭平の姿を見て足を止めた。


「あれ、真壁?」

「おっす」

「お前、戻ってきたのか!」


 声をかけた生徒が近づいてくる。

 普段から運動部のヘルプメンバーとして活躍していたこともあり、運動部の部員の覚えは良かった。


「何してたんだよ、ずっと。先生に聞いても詳しいこと教えてくれないし」

「いやー、ちょっと色々あって」

「色々って何だよ」

「説明すると長いっす」

「余計気になるだろ、それ!」


 恭平が笑ってごまかすと、相手は納得できない様子で眉を寄せた。

 そこへ、別の生徒も近づいてきた。


「暁月もいるじゃん。二人とも一緒だったの?」

「まあ、そうだな」


 行人が答える。

 その様子を見て、数人の女生徒が駆け寄ってきた。

 行人が登校してきたという話は、すでに廊下の向こうまで伝わっていたらしい。

 高校内には非公式のファンクラブまであるというのだから、その反応も不思議ではなかった。

 もっとも、当の本人はそんな話を知っているのかどうか、普段と変わらない様子で彼女たちを迎えていた。


「怪我とかしてない?」

「ああ、大丈夫だよ。心配かけたな」

「ほんとだよ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって話になってたよ」


 行人は少しだけ表情を和らげた。

 自分たちがいない間にも、心配してくれていた者がいた。そのことが、思っていた以上に嬉しかった。


「悪かった。もう大丈夫だから」


 そう答えると、相手はようやく安心したように笑った。

 教室へ入ったときも、反応は似たようなものだった。

 先に登校していた生徒たちが二人に気づき、何人かが一斉に顔を上げる。


「おい、恭平!」

「行人もいる!」

「マジで帰ってきたのか!」


 あちこちから声が飛んできた。

 恭平は片手を上げ、いつもの調子で応じた。


「おう、久しぶりっす!」

「何そのテンション」

「いや、普通だろ!」

「普通じゃねえよ。お前、ずっといなかったじゃん!」


 笑い声が広がる。

 行人も席へ向かいながら、近くの生徒たちと言葉を交わした。

 欠席中の授業について教えてくれる者もいれば、何があったのかしつこく尋ねてくる者もいる。

 恭平はそのたびに曖昧な返事を繰り返し、行人は困ったように笑いながら話題を変えた。

 やがて始業の予鈴が鳴った。

 生徒たちが自分の席へ戻り始める。

 恭平は椅子へ腰を下ろし、机の中を確認した。

 以前と変わらない教科書とノート。端に押し込まれたプリント。誰かが置いてくれたらしい配布物。

 どれも、ひどく懐かしく感じられた。


「……行人」


 少し離れた席へ向かおうとしていた行人が振り返る。


「何だ?」

「なんか、変な感じっすね」

「……そうだな」


 二人は短く笑い合った。

 異世界での出来事が夢だったとは思わない。

 あの場所で出会った人々も、交わした言葉も、戦いの中で感じた恐怖も、すべて確かに存在していた。

 それでも、今は教室にいる。

 窓から差し込む朝の光も、黒板に残った文字も、隣の席から聞こえる友人の声も、以前と何も変わっていない。

 やがて担任が教室へ入ってきた。


「ほら、席につけ。ホームルーム始めるぞ」


 ざわめきが少しずつ収まっていく。

 教師は教壇へ立つと、二人へ一度だけ視線を向けた。


「今日は久しぶりに戻ってきた奴もいるが、まあ、いつもどおりだ。特別扱いはしないからな」


 教室のあちこちから笑いが起きた。

 恭平も苦笑しながら、机の上へ教科書を出す。


「……行人」

「今度は何だ?」

「やっぱ、宿題だけはどうにもならないんすかね」

「諦めろ」


 行人が即答すると、近くの生徒たちまで笑い出した。

 恭平は大げさに肩を落としたが、その表情はどこか楽しそうだった。


「もう一つ」


 恭平が、何か思い出したように顔を上げた。


「何だ、言ってみろ」

「行人だけ女子ばっかりに声かけられるのは不公平っす!」


 思いのほか大きな声が出てしまい、教室中の視線が集まった。

 行人は困った顔をしながら吹き出した。

 近くの生徒だけでなく、ホームルームを始めようとしていた教師まで笑っている。


「真壁。その話は休み時間にしろよ」


 教師が笑いながら注意すると、恭平は頭を掻いて席に座り直した。


 世界を隔てた場所で、王国の命運を左右する戦いに身を投じていた二人。

 しかし、この教室では、ただの高校生だった。

 そして今は、それでよかった。


     ◇

 智希と良澄が向かったのは、大学の敷地内に設けられた動物たちの飼育施設だった。

 ヴァルネシアへ渡っている間も世話が滞らないよう、担当者には必要なことを引き継いでいた。

 それでも、普段から自分の目で状態を確かめていた智希にとって、しばらく様子を見られなかったことは気掛かりだったらしい。

 施設へ入るなり、飼育記録に目を通しながら、それぞれの様子を確かめ始めた。


 久しぶりに姿を見せた智希に気づいた動物たちの中には、落ち着かない様子で近づいてくるものもいた。

 智希はそんな一頭の首筋を撫で、いつもと変わらない調子で声をかける。


「ただいま。元気にしてた?」


 言葉が通じたかどうかは分からない。

 それでも、慣れた手つきで触れられるうちに、動物は安心したように身体の力を抜いた。

 良澄は少し離れたところからその様子を眺めていたが、やがて智希の隣へ歩み寄り、一緒に飼育区画を回り始めた。

 食欲や排泄の状態、歩き方、呼吸の様子など、記録と実際の状態を照らし合わせながら確認していく。


「留守の間も、ちゃんと見てもらえていたみたいだね」

「うん。ありがたいよ。僕がいない間に何かあったらって、ちょっと心配だったんだ」

「智希が普段から細かく記録を残していたから、引き継いだ人も対応しやすかったんじゃないかな」

「そうだといいんだけどね」


 智希は照れたように笑い、次の区画へと足を向けた。

 そこにいたのは、まだ身体の小さな若い個体だった。

 智希の姿を見るとすぐに近づいてきたものの、その足取りに、良澄がわずかな違和感を覚える。


「……智希。この子、少し足を気にしているね」

「え?」


 智希はすぐにしゃがみ込み、近づいてきた動物の様子を確かめた。

 確かに、右の後ろ足を地面につけるときだけ、わずかに体重を逃がしている。

 歩けないほどではないが、いつもの軽やかな動きとは明らかに違っていた。


「ほんとだ。いつもはもっと勢いよく走ってくるんだけど……」

「記録には何か書いてあった?」

「ちょっと待ってね」


 智希は手元の記録を確認し、数日前から運動量が少し落ちていたことに気づいた。

 食欲に大きな変化はなく、担当者も目立った異常としては捉えていなかったらしい。


「昨日からかなと思ったけど、もう少し前からかもしれない」

「そうだね。痛みがあるのか、ほかに原因があるのか、少し診ておこうか」


 良澄が穏やかに声をかけると、智希は動物の正面へ回り込み、落ち着かせるように首元を撫でた。

 慣れた相手がそばにいることで安心したのか、動物は逃げようともせず、その場でおとなしくしている。

 良澄は無理に足を動かすことなく、まず腫れや熱を持っている箇所がないかを確かめていった。

 智希も普段の様子を伝えながら、動物が嫌がる素振りを見せないか注意深く見守る。


「ここは大丈夫そうだね。……でも、少し気になるところがあるから、今日はあまり走らせない方がいいと思う」

「分かった。担当の人にも伝えておくよ。必要なら獣医さんにも診てもらおう」

「うん。それがいいね」


 智希がもう一度首筋を撫でると、動物は何事もなかったように顔を寄せてきた。

 その様子に安堵したのか、良澄も柔らかく表情を緩める。


「それにしても、智希がいると本当に落ち着いてくれるね」

「毎日顔を合わせてるからかな。みんな、それぞれ性格も違うし、嫌がることも違うんだよ」

「そういうところまで分かっているのは、すごいことだと思うよ」

「良澄だって、ちょっと歩いただけで異変に気づいたじゃないか」

「たまたま目に入っただけだよ」

「またまた。ほんと、良澄が一緒だと助かるなあ」


 智希はそう言って笑い、少し考えてから付け加えた。


「……便利だし」

「便利って言い方はどうなのかな」


 良澄が苦笑すると、智希も声を立てて笑った。

 その笑い声に反応したのか、近くにいた別の動物が顔を上げる。

 智希はそちらにも手を振り、今度は良澄を連れて次の区画へと向かった。

 ヴァルネシアで過ごした日々は、二人にとって決して小さな経験ではなかった。

 目にしたものも、知ったことも、以前とは比べものにならないほど増えている。

 それでも、こうして戻ってくれば、気に掛けるべき命があり、確かめなければならない小さな変化がある。

 智希が一頭ずつ名前を呼び、良澄がその隣で静かに様子を見守る。


 そこには、異世界へ渡る前と何も変わらない、二人の日常があった。


    ◇


 昼前、彰人は怜司の家を訪れていた。

 呼び鈴を鳴らしてほどなく、玄関の扉が開いた。

 顔を出した怜司は、弟の姿を認めると、特に驚くでもなく軽く片手を上げた。


「おー」

「おー、ちゃうねん。兄貴、今日なんか予定ある?」

「特にないで」

「ほな、ちょっと邪魔するわ」

「ええで」


 それだけのやり取りで、彰人は靴を脱ぎ、慣れた足取りで家へ上がった。

 何か用事があるわけでも、前もって約束をしていたわけでもない。互いの都合さえ悪くなければ、あとは適当に過ごせばいい。

 兄弟の間では、それで十分だった。


 居間へ入った彰人は、いつものように座椅子へ腰を下ろした。

 見慣れた家具の配置も、卓上に置かれた雑誌やリモコンも、留守にしていた間に変わった様子はない。

 彰人は何気なくテレビの電源を入れ、映し出された昼前の情報番組へ目を向けた。


 怜司も冷蔵庫から飲み物を取り出して戻ってくると、その一つを弟へ渡し、隣へ腰を下ろす。

 画面の中では、出演者たちが週末の行楽地について話していた。

 紹介される観光地の映像を眺めながら、彰人は飲み物を口に運ぶ。

 時折、どちらかが番組の内容に短く反応することはあったが、会話が途切れても気まずさはなかった。


 ヴァルネシアでは、何をするにも少なからず目的があり、次に起こることを考えながら行動する日々が続いていた。

 それに比べれば、こうして何の予定もなくテレビを眺めている時間は、ひどく間延びしているようにも思える。

 けれど、彰人はその退屈さを不快には感じなかった。


 窓から差し込む陽射しが床に明るい四角形を作り、テレビの音声に混じって、壁時計の秒針が規則正しく時を刻んでいる。

 怜司はすっかりくつろいだ様子で画面を眺めており、彰人もいつの間にか座椅子の背に深く身体を預けていた。

 やがて玄関の呼び鈴が鳴ると、彰人はテレビから目を離した。


「義姉やんちゃう?」

「かもなぁ」


 怜司が立ち上がって玄関へ向かうと、扉の向こうには予想どおり桜子が立っていた。

 両手に買い物袋を提げた彼女は、怜司の顔を見るなり、持っていた袋の一つを差し出してきた。

 中には野菜や肉のパックが詰め込まれており、受け取った怜司の手にずっしりとした重みが伝わる。


「お昼、まだやろ?」

「まだやで」

「ほな、作るわ」


 桜子はそれだけ言うと、慣れた様子で家へ上がった。

 居間では彰人が相変わらずテレビを眺めていたが、桜子の姿に気づくと片手を上げた。

 彼女も笑って応じ、買い物袋をキッチンへ運んでいく。

 居間とひと続きになったキッチンには、テレビの音も、彰人が時折漏らす笑い声もそのまま届いていた。

 桜子は冷蔵庫を開けて中身を確かめ、買ってきた食材と合わせて献立を考える。

 使いかけの野菜や調味料の残り具合を確認すると、必要なものを作業台へ並べ、手際よく準備を始めた。


 怜司は空になった買い物袋を片付けると、戸棚から食器を取り出した。

 桜子に何か頼まれたわけではなかったが、彼女が料理を始めれば、自然とそのくらいは手伝うようになっている。

 彰人も二人の様子を眺めていたものの、しばらくするとテレビの音量を少し下げ、キッチンへ近づいてきた。


「なあ、俺の分もあるん?」

「あるで。最初から三人分のつもりやし」

「おお、助かるわ」


 桜子は手元の作業を続けながら笑い、彰人へ洗った野菜を入れるためのざるを渡した。

 彰人は素直にそれを受け取り、流し台の前に立つ。

 怜司も食器を並べ終えると、冷蔵庫から飲み物を取り出し、卓上へ置いていった。

 三人がそれぞれの作業を進めるうちに、包丁がまな板を叩く音や、水の流れる音が室内に重なり始めた。

 火にかけた鍋からは少しずつ湯気が立ち上り、食材の匂いが居間へ広がっていく。

 誰かが指示を出し続けているわけでもなく、特別な話題で盛り上がっているわけでもない。

 それでも、三人の間には妙に落ち着いた空気が流れていた。


 しばらくして、再び玄関の呼び鈴が鳴った。

 今度は雅史と智臣だった。

 玄関先に並んだ二人は、それぞれ菓子の箱と飲み物の入った袋を手にしていた。

 怜司が扉を開けると、雅史は少し申し訳なさそうに笑ったが、その表情には久しぶりに友人の家を訪ねた気安さも滲んでいる。


「なんや、二人とも来たんや」

「うん。特に用事があるわけじゃないんだけど、ちょっと顔を出そうと思って」


 雅史が菓子の箱を持ち上げると、智臣も軽く会釈して飲み物の袋を差し出した。

 怜司は二人を迎え入れ、手土産を受け取ると、そのまま居間へ案内した。

 先ほどまでキッチンにいた彰人は、二人の姿を見ると、少し意外そうに眉を上げた。


「なんや、雅史さんと智臣さんも来たんや」

「彰人もいたんだね」


 先ほどの怜司とほとんど同じセリフを聞いて、雅史は笑いながら菓子の箱を卓上へ置いた。

 智臣は飲み物を冷蔵庫へ運び、空いた場所へ静かに腰を下ろす。

 キッチンにいた桜子も二人に気づき、手を止めて振り返った。


「二人とも、ちょうどええところに来たなぁ。お昼食べてく?」

「いいの?」

「もちろん、ええで」


 雅史が礼を言い、智臣も穏やかに頷いた。

 桜子は用意していた食材を見直し、少し考えてから冷蔵庫へ手を伸ばした。

 予定より二人増えたものの、幸い、何も作り直さなければならないほどではない。

 料理を一品増やし、盛り付けを少し工夫すれば十分に足りそうだった。

 怜司も人数に合わせて食器を追加し、雅史は卓上の雑誌やリモコンを端へ寄せて場所を空けた。

 智臣は袋から飲み物を取り出して並べ、彰人は桜子に頼まれた追加の食材を準備する。


 先ほどまで二人で静かにテレビを眺めていた居間は、いつの間にか人の動きと生活音で満たされていた。

 それぞれが何かを相談して集まったわけではない。

 彰人が訪ねてきたのも、雅史と智臣が顔を出したのも、特別な理由があったからではなかった。

 それでも、誰かが来れば自然に迎え入れ、人数が増えれば食器を足す。

 そうした当たり前のやり取りが、この家では何の違和感もなく繰り返されていた。


 やがて料理ができあがると、五人は食卓を囲んだ。

 桜子の用意した料理は、特別に手の込んだものではなかった。

 冷蔵庫に残っていた食材と買い足したものを使った、普段の家庭料理である。

 それでも、湯気の立つ皿が並び、箸を手にした彰人が早速料理へ手を伸ばすと、雅史もつられるように食べ始めた。


 ヴァルネシアで口にした料理には、珍しい食材や、日本では馴染みのない調理法がいくつもあった。

 食文化の違いはそれだけでも興味深く、雅史などは料理の由来や地域ごとの特徴について、現地の人々に随分と質問していたものだった。

 けれど、慣れ親しんだ味付けの料理を口にすると、そんな異文化への好奇心とは別のところで、自然と気持ちが落ち着いていく。

 彰人は一口食べるなり満足そうに頷き、桜子へ礼を言った。

 雅史も料理を褒めながら、向こうで食べた料理との違いを楽しそうに話している。

 智臣は二人ほど言葉数が多くなかったが、食事の手を止めることなく、ときおり話題に応じて短く言葉を添えた。


 怜司はそんな仲間たちの様子を眺めながら、いつもどおりの調子で食事を進めていた。

 食卓で交わされる話は、次から次へと移り変わった。

 向こうで食べた料理の話から、まだ見ていない土地の話へ。

 雅史が古い遺跡や文献について触れれば、智臣も海に関する話題には少しばかり関心を示す。

 彰人は途中から話を聞く側へ回っていたが、興味を引かれることがあれば遠慮なく口を挟み、そのたびに雅史が説明を付け加えていた。


 戦いや政治の話がまったく出なかったわけではない。

 ただ、誰かがそれを持ち出しても、必要以上に話が重くなることはなかった。

 あの世界で起きたことを忘れたわけではなく、今すぐ何かを決めなければならない状況でもない。

 そんな距離感を、五人は自然に共有していた。


 昼食を終える頃には、用意した料理もほとんど残っていなかった。

 食器を片付け、卓上を整えると、今度は菓子の箱が開かれた。

 雅史の持ってきたものは小分けにされた焼き菓子で、彰人が一つ手に取ると、桜子も飲み物を用意して席へ戻ってきた。


 午後になっても、誰かが帰ろうと言い出すことはなかった。

 テレビでは昼の番組が終わり、別の番組が始まっていた。

 窓から差し込む光も少しずつ向きを変え、部屋の中には食後特有の緩やかな時間が流れている。

 やがて彰人がゲームを始めると、怜司もコントローラーを手に取った。

 二人が並んで画面へ向かう姿は、子供の頃から何度となく繰り返してきた光景と大して変わらない。

 最初のうちは静かだったものの、勝負が進むにつれて彰人の声が大きくなり始めた。

 怜司は相変わらず落ち着いた様子で操作を続け、ときおり弟の抗議に短く言葉を返している。

 雅史は二人の勝負を眺めながら菓子をつまみ、桜子は呆れたように笑っていた。

 智臣も少し離れた場所から画面へ視線を向け、勝敗が決まるたびに、わずかに表情を変えている。

 何度目かの対戦が終わったところで、彰人は座椅子へ深く腰を沈めた。

 コントローラーを膝の上へ置き、天井を見上げながら大きく息を吐く。


「……やっぱ、こういうんがええなぁ」


 誰に向けたともつかない言葉だった。

 雅史はその意味を確かめるように、しばらく彰人の方を見ていたが、やがて静かに頷いた。


「そうだね。しばらくは、こういう時間が欲しいかもしれない」


 智臣も穏やかに笑った。

 桜子は空になった菓子の袋を片付けながら、再び画面へ向き直った怜司と彰人を眺めていた。先ほどまで勝負に文句を言っていた彰人は、もう次の対戦の準備を始めている。

 怜司もそれに付き合い、何事もなかったようにコントローラーを構え直した。


 窓の外では、穏やかな昼下がりの時間が続いていた。

 大きな出来事が起こるわけでもなく、何かを成し遂げる必要もない。

 誰かが話し始めれば耳を傾け、話が途切れれば、それぞれが好きなことをして過ごす。

 怜司の家には、そんな気負いのない時間が流れていた。


     ◇


 午後の陽射しが少しずつ傾き始めた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。

 彰人との対戦を終えたばかりだった怜司は、コントローラーを卓上へ置き、玄関へ向かった。

 扉を開けると、そこには見慣れた二人の姿があった。


「おー、オトン。オカンも」

 

 泰仁は息子の顔を見るなり穏やかに微笑み、隣に立つ和葉も嬉しそうに目を細めた。

 二人とも特に改まった様子はなく、近所へ出掛けた帰りに立ち寄ったかのような気軽さだった。


「こんにちは、怜司。元気にしてたん?」

「うん。普通に」

「そう。よかったわぁ」


 和葉はそれだけで安心したようだったが、怜司の顔をもう一度確かめると、そっと肩へ手を添えた。

 普段と変わらない表情をしているとはいえ、息子が別の世界で何を経験してきたのか、まだ詳しく聞いたわけではない。

 こうして直接顔を合わせるまでは、やはり気に掛かっていたのだろう。


 怜司は二人を家へ招き入れ、居間へ戻った。

 テレビの前では彰人が次のゲームを選んでいたが、両親の姿を見るとすぐに顔を上げた。


「親父! お袋も来たん?」

「たまには二人の顔を見ておこう思てな」


 泰仁が答えると、彰人は納得したように頷き、手にしていたコントローラーを脇へ置いた。

 雅史と智臣も立ち上がり、二人へ丁寧に挨拶した。泰仁はそれぞれに声をかけ、久しぶりの再会を喜んだ。

 二人が怜司や彰人と一緒にヴァルネシアへ渡っていたことは知っていたが、こうして揃って顔を見るのは帰還してから初めてだった。

 桜子もキッチンから歩み寄り、少し姿勢を正した。


「こんにちは。お邪魔してます」

「あらあら、桜子ちゃんも来てくれてたんやねぇ」


 和葉の表情が、さらに柔らかくなった。

 桜子は普段から怜司の家へ出入りしており、和葉とも顔を合わせる機会は少なくない。

 それでも、怜司の母親を前にすると、どこか照れくささが残るらしい。

 いつもより少し控えめな笑顔で応じる彼女に、和葉は親しげに声をかけた。


「いつも怜司がお世話になってるわね。ほんまにありがとう」

「いえ、そんな……私も、いつもお世話になってますし」


 桜子が恐縮すると、和葉は小さく笑って首を振った。

 そのやり取りを聞いていた怜司は、特に口を挟むこともなく、二人の様子を眺めていた。

 彰人はそんな兄の横顔を見て、何か言いたげに笑ったが、結局そのまま飲み物へ手を伸ばした。


 和葉はひとしきり皆と挨拶を交わすと、キッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開け、棚に収められた食材を一通り確かめる。昼食に使ったものもあったのだろう。

 野菜室には使いかけの野菜がいくつか残っていたが、人数分の夕食を用意するには、少々心許ない。

 和葉は中身を見渡してから、居間にいる息子へ目を向けた。


「怜司、ちゃんとご飯食べてるん?」

「食べてるで?」

「でも、もうちょっとお野菜も食べよな」

「はーい」


 怜司は慣れた調子で返事をした。叱られているわけではないと分かっているのか、特に言い返すこともない。

 和葉もそれ以上は何も言わず、冷蔵庫の扉を閉めた。

 息子が一人で暮らすようになってから、食事のことを気に掛ける機会は以前より増えたものの、今では桜子が顔を出してくれることもある。

 必要以上に心配するつもりはなかったが、母親として気になるものは気になるらしかった。

 買い物袋を手に取りながら、和葉は室内を見渡した。


「今日はみんなもおるし、何か作ろうかな。ちょっと買い物行ってくるね」


 桜子がすぐに手伝いを申し出たが、和葉は穏やかに首を振った。


「桜子ちゃんは、みんなとゆっくりしてて。お昼も作ってくれたんやろ?」

「はい。でも……」

「ありがとう。夕飯はお母さんに任しといて」


 そう言われると、桜子もそれ以上は遠慮できなかった。

 和葉が楽しそうに買い物の準備を始めるのを見て、少し照れたように笑いながら礼を言う。

 怜司が買い物について行こうかと尋ねたものの、和葉は大丈夫だと答え、近くのスーパーへ向かった。

 桜子が慌てて和葉を追いかける。女性同士で話したいこともあるのだろう。

 走ってくる桜子を見て、和葉は足を止めて笑っていた。


 玄関の扉が閉まると、家の中には再びテレビの音が戻ってきた。

 泰仁は居間の空いている場所へ腰を下ろし、卓上に並んでいた菓子へ目を向けた。

 雅史が持ってきたものだと聞くと、礼を言って一つ手に取る。怜司もその隣へ座り、彰人はテレビの電源を切った。

 しばらくは他愛のない話が続いた。

 帰ってきてからの大学の様子や、しばらく留守にしていた間の出来事など、話題は特に決まっていない。

 やがて、泰仁が菓子を食べ終え、湯呑みを手にしたところで、ヴァルネシアの話が持ち上がった。


「向こうでは、ずいぶん色々あったみたいやね」


 泰仁の声は、いつもと変わらず穏やかだった。

 怜司は少し考えるように視線を上げ、それから何でもないことのように頷いた。


「うん。ちょっとな」

「ちょっとで済む話ちゃうやろ!」


 彰人がすかさず口を挟むと、泰仁は楽しそうに笑った。


「ほな、聞かせてもらおかな」


 怜司は父親へ身体を向け、今回の出来事を話し始めた。

 最初にヴァルネシアへ渡ったときのことから、王国との対立、星堕としの存在を知った経緯、そして戦争を避けるために動いたことまで、思い出すままに言葉を重ねていく。

 ただ、怜司の説明は、決して順序立ったものではなかった。

 本人にとって重要だった出来事と、周囲にとって説明が必要な出来事が、必ずしも一致していないのである。

 大きな判断を下した場面を簡単に済ませたかと思えば、現地で出会った人々との何気ないやり取りについては、妙に細かく覚えていることもあった。

 話が途中で飛ぶたびに、彰人が呆れながら補足を入れた。

 雅史は出来事の前後関係を整理し、智臣も自分が見聞きした事実を付け加えていく。

 泰仁は誰の話も急かさず、ときおり短く問い掛けるだけで、最後まで静かに耳を傾けていた。


 話題が星堕としに及ぶと、さすがに居間の空気も少し引き締まった。

 日本への攻撃が現実のものになりかけていたこと。王国の側にも、戦争を選ぼうとした事情があったこと。

 そして、その背後に別の思惑が存在していたこと。

 怜司たちは、そこで何を知り、何を選んだのかを、改めて一つずつ振り返っていった。

 やがて話は黒幕との戦いへ移り、最後に二つの世界を繋ぐ裂け目を固定したところで、ひとまず区切りを迎えた。


 気づけば、窓から差し込む陽射しは、先ほどよりも随分と傾いていた。

 泰仁は湯呑みを卓上へ戻し、しばらく考えるように視線を落としていた。

 何かを評価しようとしているというより、聞いた話を自分の中で整理しているような様子だった。

 怜司は卓上に置かれた湯呑みへ手を伸ばしかけ、ふと思い出したように父親へ顔を向けた。


 昼食の片付けが終わり、食卓には新しく淹れた茶が並んでいた。

 ヴァルネシアでの出来事を一通り聞き終えた泰仁は、時折質問を挟みながら、息子たちの話に耳を傾けていた。

 怜司も彰人も、父親に説明するとなると妙に遠慮がなくなるらしく、雅史や智臣が補足しなければならない場面も少なくなかった。

 やがて話が途切れたところで、怜司がふと思い出したように父親へ顔を向けた。


「なぁ、オトン」

「何や?」

「もっとええ方法、あったんかな」


 泰仁はすぐには答えなかった。

 それまで聞いていた話を頭の中で辿り直すように、しばらく視線を落とす。

 王国が日本への侵攻を決断した理由、星堕としの存在、そして最後に明らかになった黒幕の目的。

 それらを一つずつ思い返しているようだった。

 やがて、泰仁は穏やかに頷いた。


「……あったと思うで」

「……あるんかい!」


 彰人が思わず声を上げた。

 怜司自身は特に驚いた様子もなく、むしろ興味深そうに父親の顔を見ている。

 そんな兄弟の反応の違いに、雅史は小さく笑った。


「まあ、何かしらはあったやろうね。ただ、その前に一つだけ言うとこか」


 泰仁は湯呑みを置き、二人の息子へ目を向けた。


「お前らがやったことは、ちゃんと受け止めてええんよ。戦争を止めて、王国が抱えてた問題にも向き合って、黒幕まで止めた。二つの世界を繋ぐ道も残したんやろ? そこまでできたんやったら、結果としては上々やと思う」


 怜司はその言葉に頷いたものの、どこか消化不良な様子だった。

 自分たちの行動を後悔しているわけではないのだろう。

 ただ、もっと良い方法があったと言われれば、それが何だったのかを知りたくなるのが怜司という人間だった。


「せやけど、もっとええ方法もあったんやろ?」

「うん。結果を知ってる今やから考えられることもあるけどね。それも含めて、三つほど思いつくかな」


 泰仁は卓上にあった紙を手元へ引き寄せ、筆記具を取った。

 中央に星堕としと書き、その周囲に王国、日本、そしてヴァルネシアという誠意を文字にして配置していく。


「一つ目は、王国との戦いが始まる前に、星堕としへの対処を始めることやね」


 怜司は首を傾げた。


「それは俺らもやったで?」

「うん。ただ、お前らは王国との戦いにも備えなあかんかったやろ? もし、最初から星堕としへの対処を優先できてたら、どうなってたと思う?」


 怜司が考え込む横で、雅史は紙に描かれた三つの名称を見つめた。

 星堕としが狙っていたのは、日本でもヴァルネシアの王都でもなくヴァルネシアに存在する概念体である。

 しかし、その攻撃がどのような範囲へ影響を及ぼすのか、何を条件として成立するのかについては、当初から十分な情報があったわけではない。

 泰仁はヴァルネシアと星堕としの間に線を引き、その横にいくつかの疑問符を添えた。


「まずは直接的な話から、ちょっと離れよか」


 いくつかの疑問符の横にペンを構え、雅史に視線を向ける。

 その表情には、既に何かしらの答えに辿り着いているような、静かな確信が浮かんでいた。


「雅史君、そこまでに分かってた情報を整理してもらえる?」

「あ、はい」


 雅史は短く返事をすると、開戦前の段階で判明していた情報を順に挙げていった。

 一つ目は、落下地点が不規則であること。

 土地の特性、人口や都市の規模、戦争の有無、巨大魔術の利用など、これまで候補に挙がった条件のいずれにも、すべての事例を説明できる共通性は見つかっていなかった。

 二つ目は、過去の発生地点と時系列の関係だった。

 地理的な範囲には一定のまとまりがあるものの、発生順序には明確な規則性が見られない。ただし、何かが移動していると仮定すれば、当時の移動可能範囲に収まる事例が多かった。

 三つ目には、智臣と怜司の違和感。

 特定地点の空間の連続性に智臣が違和感を唱え、怜司は何かがいることを示唆した。


「はい、そこまででええよ。その先の推論は、もう聞いてるから」


 そう言いながら先ほどの疑問符に三つの情報を書いていく。

 そしてその三つを囲むように円を描き、矢印の向こうに一つの点を書く。


「ここまで分かれば、三つ目の違和感を主体にして逆算できると思うんよ」

「……どういうことですか?」


 雅史は思わず聞き返した。

 三つの情報は既に整理できている。

 しかし、泰仁が三つ目の違和感を起点に、どのような結論へ辿り着こうとしているのかまでは、まだ見えていなかった。

 智臣、彰人も同じだ。唯一、怜司だけは何となくわかってきたという顔をしている。

 泰仁が言葉をつづける前に、怜司が口を開いた。


「違和感のあったところが目標やっちゅうこと?」

「せやね。そう考えたら、別々に見えてた三つの情報が、一つの仮説で繋がるんちゃうかな」

「でも、その仮説までは俺らも進んでたで?」


 怜司は泰仁の答えを聞いて、さらに困惑したような表情になっていた。

 それを見た泰仁は次の問いを投げかける。


「そやな、せやけど、次に何が起こるか、ちゃんと予測して行動してた?」

「そん時に防衛線を張ったりはせんかったな……」


 怜司は直感的に何を言いたいのかわかったのか、素直に答えた。

 だが、雅史は自分の中にあった情報と、泰仁の言っている内容が紐づかない。

 眉をひそめたまま、話に入っていった。


「……その時点では仮説でしかなかったんですよ?」

「そうだね、でも仮説のままでも備えることはできるんちゃう?」


 雅史だけでなく、彰人と智臣もハッと何かに気づいたようだった。

 泰仁は穏やかな口調で、情報を追加していく。


「備えて杞憂やったらええけど、備えんかって後手に回るのは問題やと思うんよ。大事にせんでも、できる備えはあるからね」


 雅史はすぐには言葉を返せなかった。

 仮説を事実として扱わないことと、仮説に備えないことは別の問題だ。

 その区別は理解していたはずなのに、当時は調査と開戦への対応を優先するあまり、そこまで考えを進められていなかった。

 手遅れになるくらいなら、過剰であっても備えて、のちに杞憂だったと笑えた方が良い。

 それと同時に、怜司は一瞬で泰仁の言葉を捉えていたことに驚いた。


「一つ目はそこやね、もう少し早くに準備することで、王様を説得できる材料になったんやないかな」

「少なくとも、次に狙われる場所と、防衛手段があれば、アルトリウス王も納得させられるか……」


 智臣が独り言のように呟く。その言葉を拾い、泰仁が補足した。


「そうとは限らんけど、少なくとも、リスクを背負ってまで、急いで侵攻する以外の選択肢はできるんちゃうかな」

「なぁ、親父」


 話を聞いているだけだった彰人が少し落ち込んだような様子で声をかけてきた。

 泰仁は彰人の様子を見て、言葉を挟まず続きを待った。


「その話ができたら、王様、侵攻を思いとどまってくれたんかな?」


 彰人の考えていることは、雅史、智臣共に分かっていた。

 十二神承との戦線が発生しなければ、セレスティアとも戦うことはなかった。

 だからこそ、泰仁の言う選択肢が、侵攻する前に分かっていればと考えていたのだ。

 それだけではなく、ヴァルネシアの兵も民も、少しでも疲弊せずに済んだと考えているのは見て取れた。


「せやね、恐らくは王様はそう言えたやろうと思う。ただ、それと実際に止まったかは別の話やね」

「……既に高まっていた民意ですか」


 雅史が言葉を引き取る。

 泰仁はそれを肯定した。国王一人の判断で、侵攻へ傾いた世論や軍の動きを覆すことは難しかっただろう。

 例え、王一人が侵攻を思いとどまったとしても、三柱迄ならまだしも、八傑、十三将までそうなるとは限らない。

 あくまで可能性のある選択肢の一つでしかなかった。


「そう。せやから単なる時間稼ぎにしかならんかった可能性も高いと思うよ」

「そうなんや……、ほな、二つ目は何なん?」


 そこまで聞くと、次にヴァルネシアと書いた横に「概念体」という文字を追加する。

 ヴァルネシアを囲む円に、一部が重なるようにして、概念体の文字も小さな円で囲った。

 二つの円は、一部が重なり合う関係として描かれていた。


「次なんやけど、概念体は移動している可能性が高かったんやね?」

「はい、当時は僕たちの推論でしかないのですが、星堕としの発生地点から、概念体が移動しているのではないかと考えました。」


 侵攻前にも仮説ではあったが、星堕としが何か移動するものを追っているのではないかと考えていた。

 結果として、概念体というものがあり、それが何かから逃れるため、ヴァルネシアから離れようとしていたことが分かっている。

 実際にその結果を得ることができたのは侵攻開始後、怜司と行人が概念体を追いかけている最中ではあったのだが。


「実際に概念体が移動していると分かったんは、侵攻が始まってからの話やから、一つ目ほど被害を小さくはできんかったと思う」


 そう言いつつ、概念体の丸から矢印を引き出す。

 ヴァルネシアから遠く離れたどこか関係のない方向に矢印の先端を置いた。


「概念体が狙われている可能性があるんやったら、それを遠くに引き離したら被害は小さなったんとちゃうかな」

「概念体を動かすん?」


 彰人が泰仁の言葉の意味をとらえきれずに、不思議そうな表情で聞き返す。

 概念体というだけあって、それが物質だという認識はしていなかった。

 なので、物質ではない、もしかすると実体としては存在していないのかもしれないものを移動させるイメージを持てなかった。

 その様子をみて、泰仁は少し楽しそうに笑い、説明を続けた。


「そう、概念体を動かすんよ。少なくとも智臣君は、その空間に違和感を感じたんやよね?」

「ええ、何か連続性が一度断たれるというか、そこだけ何かつながらない感じがしていました。」


 離れたところに、概念体を表す可愛らしい感じのアイコンを描き、その周りを雲のようなもので囲む。

 それに向けて矢印を書くと、その雲のようなものを避けるような形で、概念体の向こうにつなげた。


「恐らくやけど、そこに在る空間を避けて向こう側を認識してたんちゃうかな」

「あ、それやわ。なんか居るんやけど、そこだけ意識が向かんねん」


 泰仁の言葉に怜司が反応する。

 当時の怜司が感じていた違和感の正体を具体化したのが、今の説明だったのだろう。

 怜司はどこかすっきりしたような表情になっていた。


「なら、智臣君ならこの空間ごと移動させるか、その空間認識を別のものにすることはできたんちゃうかな」


 智臣が少し目を見開き、泰仁の言葉を咀嚼する。

 この人であれば自分の能力を理解していても不思議ではない、そういった信頼感があるのは確かだった。

 だが、その能力をどのように使用することで、今回の問題を解決すればいいかを一瞬で出されたのは驚きだった。

 言われたように空間を切り取るというのは難しかったとしても、その認識をずらしてその場にいないように見せることはできる。

 場合によっては、その存在のダミーを作って、ヴァルネシアから離れた場所に配置することもできただろう。


「ええ、いくつか方法はあると思います。一番良さそうなのだと、ダミーを作る形かと」


 泰仁は満足そうに頷く。ダミーを作れるという点が、泰仁の狙いだったらしい。


「なら、ヴァルネシアの遠くにダミーを作って、そっちへ誘導できるか試す価値はあるやろ? 上手くいけば、その間に対策もできるやろしね」

「あくまでも時間稼ぎですか?」

「いや、そもそもヴァルネシアから遠くであれば、人的被害は格段に減ることにはなるけどね」


 雅史の質問に泰仁は続ける。

 説明を続けながら、先ほどの図にあるヴァルネシアの所に「国民」と「財」という言葉を並べた。

 それが先ほど引かれた矢印の先端から遠く離れていることで、この二つが守られるということが分かった。

 財という表現にはなっていたところに、そこから吹き出しのようにして「インフラ」「衣食住」を追加する。


「財産の中には衣食住とそれに必要な生活インフラも含めて考えよか」

「なるほど、衣食住とそれに必要な生活インフラ、井戸とかに被害が無ければ、生活に困窮しないわけですね」


 今度は泰仁の説明が終わる前に、雅史がそこに対する結論を述べた。

 泰仁は先取りされてしまったことに抵抗を感じるどころか、満足そうな表情を浮かべて話を続ける。


「せやね、国民とその生活に対する被害は小さいに越したことはないやろ?」

「今回もそこまで大きな被害は出んかったと思うんやけど」


 今度は怜司ではなく、彰人が言葉を引き取った。

 確かに、甚大と言える被害はなく、生活するにあたっては大きな問題にならない程度の被害に抑えられていた。

 だが、今指摘されていた部分はそういうことではなかった。


「確かにそうやね。せやけど、清隆君あたりは無茶なことしたんちゃう?」

「あ……」


 彰人から思わず声が漏れる。

 考えてみると、思い当たることしかなかった。

 巨大な地下シェルターに、温泉施設や治療施設など、ヴァルネシアの文化水準を大きく進めかねないものだった。

 それも、半分以上は本人の趣味ではないかというレベルの精巧さだ。

 外来の文化として根付こうとしているものもある。

 だが、文化水準をちゃんと考慮していなかったことで、今後どんな影響があるかは、まだ分からなかった。


「せやから、施設を修復とか、拡張する必要のない場所が狙われるようにする方が、後々は良かったんやないかなと思ったんよ。」

「な……なるほど、それが二つ目として、最後の三つめは何なん?」


 少しぎくりとした表情のまま彰人が最後の一つを求める。

 泰仁はここで初めて、「星堕とし」の所に筆を入れる。

 重ねるようにして「黒幕」という丸を追加し、この丸を強調するように装飾する。


「三つめはな、黒幕そのものを説得してまうことやねん」


 怜司以外の三人が「は?」という声が出そうな表情で唖然としていた。

 三人は、星堕としの黒幕なんだから、何とかして排除するしかないと考えていた。

 怜司に至っては、黒幕を受容することで、他の受容すべきものを受容できなくなるという結論に達した。

 消去法で発生した選択肢を、根本から覆され、どう考えていいか分からなくなっていた。


「親父、流石にそれは難しいんちゃうの?」

「う~ん、せやなぁ、そもそもやけど、その黒幕とやらは何で星堕としをしてたん?」


 四人とも、そこを深くは考えていなかったのか、しばらく言葉が出てこなかった。

 しばらくして、怜司が最後に交わした言葉の中から、それと思われる言葉を取り出した。


「自分が存在するため、みたいなこと言うとったなぁ……」


 黒幕が残した言葉は「私は存在し続ける」というものだった。

 存在するために星堕としを行うということは分からないが、概念体を狙っていたということは確かだ。

 ということは概念体が存在すると、自らの存在を脅かすと考えたのではないだろうか、そういう仮説が雅史には浮かんだ。


「じゃあ、概念体がいることで、自分の存在が脅かされるということなのかな」

「せやね、ちょっと推論になるんやけど、説明してみよか」


 その説明は、四人の予想とは少し異なる形だった。

 恐らく、黒幕と言われるものは超常の存在であり、畏れをもってヴァルネシアのある世界に認識されていた。

 その認識されているものが、概念体という存在によって、進化を促されかねない状況になってきている。

 そう仮定すると、概念体が存在することによって、人が進化し、それによって自らの存在意義が脅かされる。

 だから、概念体を消滅させようと、極めて大きな質量を持つ星堕としという手法を取った。

 それが、泰仁の推論だった。


「であれば、一応は黒幕の行動にも説明がつくと思うねん」


 四人がしばらく黙り込む。

 その沈黙の中で、怜司が疑問を投げかけた。


「その説明の通りやったとして、どうやって説得するん?」

「そこはそんなに難しく考えんでええと思ってるねん」


 少し離れたところに、概念体、黒幕、国民と書く。

 その横に、それぞれの役割を書いていった。

 国民には、ヴァルネシアのある世界を存続させるための生命活動。

 概念体には、その国民を導くため、世界を維持するための力を持つ個体の成長を促す。

 そして、三つ目の黒幕の所で筆をいったん止めた。


「この状況になって、黒幕が自身の存在意義を見出す方法は簡単やと思うけど、なんやと思う?」


 あえて、最後の答えを四人に委ねた。

 雅史は過去の記録から、推測できそうな答えを探すが、過去の記録からでは思い当たることが無かった。

 智臣も経験や推測などから色々と考えてみるが、必要な答えにたどり着かなかった。

 彰人に至っては、そもそも考えるきっかけもなかったようで、考えることすら放棄しているように見えた。

 黒幕と実際に対峙した怜司でさえ、その答えになる可能性に悩んでいた。


「そもそもやけど、人間を進化させようって考える理由は何やと思う?」


 泰仁が考えのきっかけになる言葉を出す。

 そこでようやく、怜司にも思い当たることがあったようだった。


「もしかして、不完全やから?」


 泰仁はようやく満足そうに頷く。


「せやな、人間は不完全や。せやから、色々な答えに最初からはたどり着かん。それは進化しても変わらへんと思うねん」

「それと黒幕に何か関係あるん?」


 彰人が無邪気に尋ねる。

 先の質問から答えが分かっていなかったので、少し開き直った感じで尋ねていた。

 その様子に「仕方ないな」という感じで泰仁は答えた。


「要は、人が進化しても存在価値があればええんやと思うんよ。概念体が人をどれだけ成長させたとしても、人間が何でもできるようになるわけやないやろ?」

「……人やとできないことを、受け止められたら、かち合わんのちゃう?」


 怜司が少し小さな声で呟いた。

 その言葉を泰仁は聞き逃さずに拾っていく。


「せや、異空間みたいなものを作れるくらいやねんから、人間の常識の外におるんやろうしね」

「そうか、その存在価値を分けてしまって、どちらも成り立つということを説明できれば」


 雅史の言葉に泰仁は静かに頷く。

 怜司の意見もそうだったが、ヒントは与えたものの、若者たちが自分の想定した結果を拾い上げることができた。

 これが正解だというわけではないが、複数の選択肢を自分たちで拾い上げたことが純粋に嬉しかったのだ。


「推測でしかないけど、元々は何らかの信仰の対象やったんやろうね、黒幕も」


 その言葉を聞いたところで、彰人や智臣も何となくだが納得できるものになった。

 信仰の対象だったものが、その信仰を失い、無用となってしまうことを恐怖しても仕方ないとさえ思えた。


「ただな、黒幕も世界を壊すんが目的や無かったやろうで、別の選択肢があっても良かったと思わん?」


 その言葉に、怜司が顔を上げた。

 黒幕が犯した行為は、決して許されるものではない。

 自分が存在し続けるために、ほかの誰かの命や暮らしを犠牲にしてよい理由にはならない。

 けれど、相手が何を恐れ、何を求めていたのかを知ることができれば、別の道を示すこともできたのかもしれない。


「……あいつも、助けられたかもしれんのやな」


 怜司がそう呟くと、泰仁は静かに頷いた。

 泰仁は一息置いて、黒幕の文字へ目を落とした。


「ただ、それを受け入れてくれるかどうかは別の話やで。長い間、同じ考え方やったんやから、新しいやり方を素直に受け取れるとは限らんしな」


 その慎重な言葉に、雅史は納得したように頷いた。

 信仰は、ただ与えれば成立するものではない。

 人々がその存在を知り、何らかの意味を見出し、信じることによって初めて成り立つ。

 黒幕がそれまでの行いを改めなければ、新たな信仰を得ることも難しいだろう。

 だが、少なくとも生存と世界の破壊を切り離せる可能性はある。

 泰仁が描いた三つの可能性を、怜司は改めて反芻していた。

 星堕としの対処を早くできていれば、そもそも侵攻以外の選択肢を提示できたかもしれない。

 星堕としをヴァルネシアから遠く、人里離れた場所へ誘導できていれば、人々は考える猶予を得られたかもしれない。

 黒幕の目的を正しく理解していれば、黒幕まで含めて全てを救うこともできたかもしれない。

 いずれも、実際に選んだ道とは異なるものだった。


 ただ、今だからこそ考えられることも多い。

 星堕としの仕組みも、概念体の性質も、黒幕の目的も、当初からすべてが明らかになっていたわけではないのだ。

 彰人は図を見つめたまま、しばらく考えていた。


「……でも親父、それ全部、うまくいった場合の話やろ?」

「そうやね。途中で失敗する可能性もあるし、そもそも必要な情報を得られへんかったかもしれへん。今の話だけで、絶対にこっちの方がよかったとは言えへんよ」


 泰仁はあっさりと認めた。

 その上で、その効果についても説明を続ける。


「ただ、選択肢を増やすことはできたかもしれへんね。何か一つがうまくいかんかったときに、別の方法を試せる余裕があれば、それだけ危険も減らせるやろ?」

「……ほな、俺らのやり方は?」


 彰人はその説明に頷いたものの、まだ何か引っ掛かるものがあるようで、自分たちの選択の価値を問いかけた。

 その問いに、泰仁は息子たちへ目を向けた。


「十分よかったと思うで。お前らは、そのとき分かってたことをもとに考えて、行動したんやろ? それで戦争を止めて、王国の人たちも助けて、黒幕も止めた。そこまでできたんやったら、胸を張ってええと思うよ」


 泰仁は紙を怜司の方へ向けた。


「こうやって振り返ることには意味があるけど、別の道が見つかったからって、今まで歩いてきた道が間違いになるわけやないからね。今回の結果は、今回の結果として大事にしたらええんよ」


 怜司は紙を見つめていた。

 父親の説明を聞いて、もっと早く気づけたことがあったのではないかと思う部分もある。

 しかし、それらを考えることと、自分たちの行動を否定することは違う。

 泰仁が示した三つの方法も、次に似たような問題へ直面したときには、役に立つかもしれなかった。


「ほかにも選択肢はあった。でも、お前が選んだなら、それがお前のベストや」


 怜司は顔を上げ、いつものように笑った。


「そっか」

「うん」

「ほな、ええか」

「ええんちゃうかな」


 あまりにも簡単なやり取りに、彰人は二人の顔を交互に見比べ、呆れたように息を吐いた。


「……親父と兄貴、ほんま似てるわ」


 雅史が笑い、智臣も小さく頷いた。

 泰仁は特に否定することもなく、冷めかけた茶を口に運んだ。


     ◇


 夕方になり、二人が買い物から戻ってきた。

 玄関が開く音に気づいた智臣は、居間から立ち上がり、すぐに迎えに向かった。

 二人の両手には食材の入った袋が提げられており、予定より少し買い込んできたらしい。


「お手伝いします」

「ありがとう、智臣君」

「流石、智兄は気遣いの人やなぁ」


 智臣が重そうな袋を受け取ると、和葉は嬉しそうに笑った。

 桜子も、智臣が率先して手伝ってくれたので、少し嬉しそうににしていた。

 三人はそのままキッチンへ向かい、買ってきたものを作業台へ並べ始めた。

 野菜や肉のほかにも、人数分の料理を用意するための食材がいくつも入っている。

 和葉は一つずつ取り出しながら、冷蔵庫へ収めるものと、すぐに使うものを分けていった。

 桜子も隣で袋を開け、必要な調理器具を準備する。

 昼食のときは自分が中心になって料理を作っていたが、今度は和葉が自然に台所仕事を進めていた。

 桜子はその手元を見ながら、次に何が必要になるかを考え、邪魔にならないように動いている。

 和葉はそんな彼女の様子を見て、何度か嬉しそうに目を細めた。

 まだ若い二人が、互いに無理をせず、当たり前のように相手を気遣っている。それが何より嬉しいのだろう。


「みんな、何が好きなんかなぁ」


 和葉が食材を確認しながら尋ねると、桜子は少し考えてから笑った。


「たぶん、何でも食べると思いますよ。恭平くんがおったら、お肉が足りへんかもしれませんけど」

「あら、それは大変やねぇ」


 和葉も楽しそうに笑い、用意した肉の量を確かめた。

 居間では、彰人たちが再びゲームを始めていた。

 先ほどの父親との話が終わってから、特に何かを相談するでもなく、それぞれが思い思いに過ごしている。

 彰人は画面へ向かって熱心にコントローラーを操作し、雅史も隣で勝負の行方を見守っていた。

 智臣は荷物の仕分けが終わると居間に戻り、時折操作を代わりながら、慣れない部分を確かめるように画面へ視線を向けている。

 怜司は少し離れたところでくつろぎ、誰かが失敗するたびに短く口を挟んだ。

 その言葉に彰人が反論し、雅史が笑い、智臣もわずかに表情を緩める。

 泰仁はそんな若者たちの様子を眺めながら、静かに茶を飲んでいた。


 キッチンからは和葉と桜子の話し声が聞こえ、時折、食材を切る音や鍋を動かす音が重なってくる。

 二人の会話は料理のことばかりではなく、大学での生活や、最近の出来事にも及んでいるようだった。

 和葉が何かを尋ねるたびに、桜子が少し照れながら答える。そのやり取りを耳にして、泰仁は穏やかに微笑んだ。


 やがて、夕食の準備が進むにつれ、家の中には温かな香りが広がり始めた。

 鍋から立ち上る湯気が換気扇へ吸い込まれ、調理の音が次第に賑やかになっていく。

 桜子が食器を並べ始めると、彰人たちもゲームを中断して立ち上がった。

 雅史は卓上を片付け、智臣が人数分の飲み物を用意する。怜司も食器を運び、泰仁は空いた場所を整えた。


 昼食のときと同じように、誰かが細かく指示を出す必要はなかった。

 それぞれができることを引き受け、準備を進めていくうちに、食卓には人数分の料理が並んでいった。

 特別な祝宴ではない。

 高価な食材が使われているわけでもなく、何かを記念するために用意された食事でもなかった。

 和葉が買ってきた食材を使い、桜子と二人で作った、ごく普通の家庭料理である。

 それでも、七人が食卓を囲むと、普段よりも随分と賑やかな夕食になった。


 彰人は料理を口に運びながら、ヴァルネシアで食べたものを思い出したらしく、向こうの食文化について話し始めた。

 日本では見慣れない食材や調味料、料理の出し方の違いなど、思い返せば話題には事欠かない。

 雅史もそこへ加わり、王国の文化や制度について、現地で聞いた話を交えながら説明していった。

 歴史に関する話題になると、つい言葉が多くなるのは相変わらずだったが、和葉はその一つひとつに興味深そうに耳を傾けていた。

 智臣は自分から積極的に話題を広げることは少なかったものの、海辺の街で目にした景色について尋ねられると、ゆっくりと言葉を選びながら答えた。

 桜子も、向こうで出会った子供たちのことを思い出し、楽しそうに話していた。

 最初は警戒していた子供たちが、少しずつ心を開いてくれたこと。言葉や習慣が違っていても、一緒に過ごすうちに自然と笑い合えるようになったこと。

 和葉は誰の話にも分け隔てなく耳を傾け、ときおり驚いたり、笑ったりしながら、食事の手を進めていた。


 怜司はそんな皆の様子を眺め、時折話に加わっていた。

 自分たちが経験した出来事を、改めて誰かに聞かせる機会はそれほど多くない。

 まして、こうして家族と仲間が揃い、食卓を囲みながら話すとなれば、同じ出来事でも少し違ったものに感じられる。

 戦いの最中には気にも留めなかったことが、今になって思い出されることもあった。

 現地の人々が見せた表情や、何気なく交わした言葉。大きな事件の陰に隠れていた小さな出来事が、食事の合間に次々と話題へ上っていく。

 和葉はしばらくその話を聞いていたが、やがて箸を置き、息子たちへ目を向けた。


「ほんまに色んなことがあったんやねぇ」


 その表情には、驚きとともに、どこか安堵したような色が浮かんでいた。

 話を聞けば聞くほど、息子たちがどれほど危険な場所へ身を置いていたのかが分かる。

 本人たちはすでに終わったこととして穏やかに話しているが、親としては、簡単に聞き流せるような内容ばかりではなかった。

 それでも、目の前には無事に帰ってきた二人がいる。

 和葉は怜司へ視線を向け、静かに微笑んだ。


「無事に帰ってきてくれて、よかったわ」

「うん」


 怜司は短く答えた。

 彰人も、いつものように何かを言い返すことはなかった。

 ただ、少し照れくさそうに笑いながら、食事へ視線を戻している。

 和葉はそんな二人の様子を見て、満足したように頷いた。


 泰仁も静かにグラスを置いた。

 息子たちが自分たちの意思で選び、行動し、こうして帰ってきたこと。

 その過程にどれほどの困難があったとしても、最後に二人が笑って食卓を囲んでいることが、父親としては何より嬉しかった。

 泰仁は何かを言い掛けたようにも見えたが、結局、穏やかに微笑むだけで言葉にはしなかった。

 その代わり、和葉が皆の皿を見渡し、料理のおかわりを勧め始めた。


 食卓には再び賑やかな声が戻り、彰人が遠慮なく手を伸ばすと、桜子が笑いながら皿を差し出した。

 雅史も礼を言って料理を受け取り、智臣は空いた器を端へ寄せる。

 怜司はその様子を眺めながら、残っていた料理をゆっくりと口へ運んだ。


 夕食を終えても、誰もすぐには帰ろうとしなかった。

 食器を片付け、茶を淹れ直し、卓上には昼間に開けた菓子の残りが並べられた。

 テレビの電源は再び入れられたものの、誰かが熱心に見ているわけではない。

 画面から流れる音声を背景に、それぞれが思いついたことを話し、時には何も言わずにくつろいでいた。

 和葉と桜子も片付けを終えて席へ戻り、ようやく全員が揃って腰を落ち着けた。


 窓の外は、いつの間にかすっかり暗くなっていた。

 昼前に彰人が訪ねてきたときには、ただ二人でテレビを眺めていただけだった。

 それが、桜子が来て、雅史と智臣が加わり、さらに両親まで顔を出したことで、家の中は随分と賑やかになっている。

 誰かが集まろうと呼び掛けたわけではない。

 特別な予定があったわけでもない。

 ただ、顔を見たくなって訪ねてきた者たちが、そのまま同じ場所で時間を過ごしている。

 時折、彰人の笑い声が響き、それにつられるように雅史や桜子も笑った。

 和葉はそんな若者たちを嬉しそうに眺め、泰仁は隣で静かに茶を飲んでいる。

 智臣も穏やかな表情で皆の話を聞き、怜司はいつもどおり、くつろいだ様子でその輪の中にいた。


 ヴァルネシアでの日々は、確かに彼らの中に残っている。

 けれど、そこで得たものを、今すぐ何かに変えなければならないわけではなかった。

 この先、また別の出来事が待っているのかもしれない。それでも今は、そんなことを考える必要もない。

 テレビの音と、時折上がる笑い声。

 夜の静けさが深まっていく中、怜司の家には、穏やかな時間が流れ続けていた。


     ◇


 夜が深まり、家の中が少し落ち着いた頃。

 智希は自宅で、久しぶりにゆっくりと身体を休めていた。

 ヴァルネシアから戻って以来、慌ただしい時間が続いていたが、ようやく一息つくことができた。

 窓の外には、見慣れた日本の夜景が広がっている。

 智希は椅子へ深く腰を下ろし、何気なく窓の方へ視線を向けた。

 そのときだった。


『……?』


 クオンが、わずかに反応した。

 智希は首を傾げた。


「どうした?」

『……いや』


 クオンはすぐには答えなかった。

 何かを確かめるように、遠くへ意識を向けている。

 智希には、その視線の先に何があるのか分からなかった。


「なんかあった?」

『……分からぬ』


 クオンの声には、ほんの少しだけ迷いがあった。


『ただ……』


 そこで言葉が途切れた。

 智希はしばらく待ったが、クオンはそれ以上何も言わなかった。

 やがて、いつもの落ち着きを取り戻したように、静かに目を閉じる。


『……気のせいかもしれぬ』

「そっか」


 智希は深く追及しなかった。

 窓の外では、車のライトが道路を流れ、遠くの建物にはまだ明かりが残っている。

 いつもと変わらない夜だった。

 少なくとも、今の智希にはそう見えた。

 ヴァルネシアでの戦いは終わった。

 日本と王国の間には、新しい道が残された。

 十二神承は、それぞれの日常へ戻っていく。

 そして、その日常の向こう側で何が起きているのかを、まだ誰も知らなかった。

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