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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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32/37

その先も

 長かった一日の終わりは、思っていたよりも静かだった。

 黒い世界から戻ったあと、十二人は食事を取り、身体の状態を確認し、残された映像を見ながら起きたことを整理した。

 整理した、と言っても、分かったことは多くない。

 黒幕と呼んでいた存在は消えた。

 怜司は何もしていないと言う。

 映像にも、セレスティアの目にも、何かをした痕跡は残っていない。

 それでも、消えた。

 星堕としを生み続けていた存在が失われた以上、ヴァルネシアを脅かしていた最大の問題は、少なくとも今までと同じ形では起こらないと考えられる。

 日本へ侵攻しなければ国が滅びる。

 その前提もまた、同時に失われていた。

 何度確認しても、結論だけは変わらない。

 戦争をする必要が、なくなった。

 その事実を理解することと、実感することの間には、まだ大きな隔たりがあった。


     ◇


 戦いを終えた日の夜。

 王城の露台へ出ると、昼間まで街を覆っていた騒がしさが、少し遠くなった。

 静かになったわけではない。城下では今も灯りが点々と残り、遅くまで復旧に当たっている者たちの姿が見える。

 崩れた建物の周囲には魔法灯が置かれ、荷車の軋む音や、時折誰かを呼ぶ声が夜気に乗って届いていた。

 それでも、少し前まで空から何かが降ってくるたびに響いていた警鐘はない。

 地面を揺らす衝撃もない。

 彰人は欄干へ両腕を預け、夜の王都を眺めた。


「……終わったんやなぁ」


 口にしてみても、まだ妙な感じがした。


 ヴァルネシアへ来てから、ずっと何かが続いていた。

 最初は、日本への侵攻を止めるためだった。実際に武器を向け合い、十二神承とヴァルネシアの戦力が真正面からぶつかった。

 そこから互いの事情を知り、星堕としを止め、二度目を迎え、その原因を追い、最後には世界の境界を越えて黒幕のいる場所まで踏み込んだ。

 一つ片づくたびに、その向こうから次が出てきた。

 だからこそ、何も降ってこない夜空を見ても、身体のどこかがまだ次を待っている。


『彰人さん』


 背後から声を掛けられ、彰人は振り返った。

 予想するまでもなかった。


「セレスティア……さん」


 露台へ出てきた彼女は、彰人の隣まで歩いてくると、同じように王都へ視線を向けた。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 以前にも、ここで二人並んで街を見た。

 あの時は、これから何が起こるのか分からなかった。

 守れるかどうかも、星堕としを止められるかどうかも分からず、それでも終わったら街を歩こうと話した。

 今は、その街がちゃんと残っている。


『……帰るのですね』


 不意に落ちた声は、普段より少しだけ小さかった。


「うん?」

『日本へ』

「ああ」


 彰人は一度だけ瞬きをしてから、王都へ視線を戻した。


「そら、帰らなあかんからな」


 日本には日本で、十二人それぞれの生活がある。

 彰人自身もそうだ。

 こちらで戦っている間だけ、向こうの時間が止まってくれているわけではない。


「まあ、もう二度と来られへんって決まったわけちゃうし」

『……はい』

「裂け目がある間は来れるやろし、その先も何か方法あるかもしれへんし」


 言いながら、彰人自身にも、それが確約できる話ではないことは分かっていた。

 裂け目は自然にできたものではない。

 維持され続ける保証もない。

 それでも、今この場で「もう会えない」と決めてしまう理由もなかった。

 隣を見ると、セレスティアは王都を眺めたままだった。

 その横顔を見ているうちに、彰人は一つ思い出す。


「そういや」

『はい?』

「まだ残ってたな」


 セレスティアが彰人を見る。


「街」


 それだけで、意味は伝わったらしい。

 僅かに見開かれた目が、そのまま城下へ向いた。

 以前、二人で歩いた街。

 食べ物を買い、話をして、最後まで回れないまま残した場所。

 そして何度か確認した、続きを歩くという約束。


「落ち着いたら言うてたけど」


 彰人は街のあちこちに残る復旧作業の灯りを眺めた。


「これ以上待ってたら、いつ落ち着くんか分からんな」

『それは……』


 セレスティアも反論しようとして、途中で止まった。

 王都の復旧には時間が掛かる。

 それが終わるまでと言い続ければ、いつになるか分からない。

 そもそも三柱である彼女が、すべての作業へ付きっきりになるわけでもなかった。


「明日、行こか」


 彰人が何気なく言った。


『……明日、ですか?』

「うん。復旧の様子も見なあかんし。何か手伝えることあったら手伝ったらええやろ」


 そこで少し考えてから、付け加える。


「そのついでに、続き歩こか」


 セレスティアはすぐには答えなかった。

 ただ、拒む様子もない。

 むしろ、ほんの少しだけ視線を落とし、考える必要などないはずの問いに答えを探しているように見えた。


『……はい』


 やがて返ってきた声は、いつもより柔らかかった。


『明日、続きを歩きましょう』

「決まりやな」


 彰人は笑う。

 それを見たセレスティアも、小さく笑った。

 少し前まで敵同士だった二つの世界。その間で交わされた約束としては、驚くほど小さなものだった。

 けれど今の二人には、それでよかった。

 王都を守った。戦いも終わった。

 なら今度こそ、途中になっていた続きを歩けばいい。


 二人がそんな話をしているテラスから、少し離れた廊下。

 柱の陰に、人影が重なっていた。

 先頭にいる桜子が、後ろへ手を伸ばす。


「押さんといて」

『押してません』

「フィルネ、今押したやろ」

『シェリアではありませんか?』

『私も押してません』


 さらに後ろで、小さく息を呑む音がした。

 誰が最初に見つけたのかは、もう分からない。

 ただ、気づけば人数が増えていた。

 桜子はもう一度だけテラスを見る。


 ちょうどセレスティアが何かを言い、彰人が頭を掻いているところだった。


「……まあ、ええんちゃう?」


 桜子は小さく笑った。

 誰も異論を挟まなかった。


     ◇


 同じ夜。


 王城の一角に用意された休憩室は、ヴァルネシアでは珍しく、床へ直接座って過ごせるよう整えられていた。

 日本の畳とは違うが、厚手の敷物が何枚も重ねられ、靴を脱いで上がれる。

 長くヴァルネシアに滞在する十二神承のため、いつの間にか用意された場所だった。

 その中央で、怜司がうつ伏せになっている。


「痛ない?」

「全然」


 背中へ両手を置いた桜子は、その返事を聞いて眉を寄せた。


「それが信用ならん言うてんねん」

「なんでやねん」


 桜子は答えず、親指へ少し力を込めた。

 首の付け根から肩へ。そこから肩甲骨の周囲へと、筋肉の張りを確かめながらゆっくり押していく。

 見たところ、異常はない。

 触った感触にも、戦闘直後とは思えないほど大きな張りはなかった。

 それでも桜子は手を止めなかった。

 昨日までの戦いなら、それで納得したかもしれない。

 だが、最後に見たものだけは別だった。


 白を基調に、黒と金の線が走る神装。

 アルガスが光となり、怜司の身体を包むように形を変えた、あの白金の姿。

 彰人と桜子だけは、それに近いものを過去に見たことがある。だからこそ、他の者より早く身体が危険を訴えた。

 怜司本人には、その自覚がまるでない。

 そこが一番信用できなかった。


「自分、ほんまに何ともないん?」

「ないで」

「疲れは?」

「普通?」

「普通て何やねん」

「眠かったら寝るくらい」


 いつも通りだった。だから余計に困る。

 怜司は、自分が耐えられるものを負担として数えない。痛ければ痛いと言うし、疲れれば眠る。隠しているわけではない。

 ただ、その基準そのものが他人と同じとは限らなかった。

 桜子は肩甲骨の内側へ指を入れるように押した。


「おー」


 そこで初めて怜司が反応した。


「そこ気持ちええ」

「……ほんまにただのマッサージになってきたな」

「ええやん」

「うち、何してんねやろ」


 呆れながらも手は止めない。

 昔からそうだった。

 何か大きなことをしたあとほど、本人だけがいつも通りでいる。

 その「いつも通り」を信用していいのか確認するのは、いつも周りの仕事になった。

 しばらくして、入口の方で衣擦れの音がした。


『……何をしているのですか?』


 顔だけをそちらへ向けると、フィルネが立っていた。

 視線は最初に桜子へ向き、それから床へ寝転んでいる怜司へ移る。


「整備」

『整備……?』

「怜司の」

『人に使う言葉でしょうか、それは』

「こいつにはええねん」

「なんでやねん」


 うつ伏せのまま、顔だけを上げて怜司が抗議した。

 フィルネは二人を見比べる。

 桜子の手は怜司の背中へ置かれたままだった。

 何をしているかは説明を聞くまでもなく分かる。それでも、すぐ部屋へ入ってくることはせず、ほんの僅かに間を置いた。


『……身体に、何か問題が?』


 先ほどまでとは違う声だった。

 最後の戦いを思い出したのだろう。


「分からんから見てんねん」


 桜子は怜司の肩甲骨の内側を押しながら答えた。


「あんな神装して、ほんまに何の負担もないんか分からんやろ。本人に聞いても『分からん』『普通』しか言わへんし」

「何ともないからな」

『怜司さんの場合、それだけでは判断できませんね』

「ほら」

「なんでフィルネまでそっち側やねん」


 フィルネの返答に、桜子が満足そうに頷く。

 一方の怜司は不満げながら、うつぶせのままなすがままになっている。

 そのまま少し考えてから、怜司の腰の辺りを指差した。


「ちょうどええわ。フィルネ、そっちやって」

『私がですか?』

「一人で全部やんのしんどいねん」


 フィルネは怜司を見る。

 怜司は床へ頬をつけたまま、何の警戒もなくこちらを見返していた。


「俺はええで」

『……あなたが決めることなのでしょうか』

「俺の身体やで?」

『それはそうですが』


 反論しかけたフィルネが言葉を止める。

 少しして、諦めたように靴を脱いだ。

 桜子の向かいへ座り、教えられるまま怜司の背中へ手を置く。


『この辺りですか?』

「もうちょい下。そうそう」

『こうでしょうか』

「おー。ええ感じ」


 怜司が満足そうな声を出した。

 フィルネの手が一瞬止まる。


『……本当に、ただ喜んでいるだけですね』

「せやろ?」

「マッサージ好きやねん」

「知ってる」


 桜子は即答した。

 それからしばらく、部屋には必要以上の会話がなくなった。

 桜子は慣れた手つきで肩から腕をほぐし、フィルネは教えられた通り、背中から腰へ力を掛けていく。

 初めは恐る恐るだったフィルネも、怜司が痛がる様子を見せないと分かると、少しずつ力を強めた。

 その頃には怜司の身体からも、完全に力が抜けていた。

 戦場ではどれだけの敵に囲まれても緩まなかった肩が、今は床へ沈むように弛緩している。

 それを見て、桜子はようやく少しだけ安心した。

 少なくとも、身体は休むことを忘れてはいない。

 入口から再び声がしたのは、その頃だった。


『……これは、どういう状況だ?』


 今度はキリカだった。

 室内を見渡し、最後に怜司へ視線を落とす。

 左右から桜子とフィルネに身体を揉まれ、本人は完全に脱力している。


「マッサージ」

『そうか』


 キリカは一度だけ頷いた。

 それで納得したようには見えなかったが、深く追及もしなかった。


『怜司。少し聞きたいことがある』

「何?」

『お前の戦い方についてだ』


 その言葉に、桜子の手が少しだけ止まった。

 キリカがここへ来た理由は、それらしい。

 十三将として戦場に立ってきた彼女にとって、十二神承の戦い方は理解できる部分と理解できない部分が混在している。

 特に怜司は、その中でも極端だった。


『私は、お前たちの戦いを見てきた。学べるものがあるなら学びたい』

「ええけど」


 怜司はうつ伏せのまま答えた。


『では――』

「何聞きたいん?」


 キリカが僅かに黙る。

 戦い方を教えてほしい。

 言葉にすれば簡単だが、怜司へ何を尋ねればいいのかとなると難しい。

 構え、技、相手を見る方法、判断の基準。


『……まず、お前は戦っている時、何を見ている?』

「相手」

『……そうではなく』


 桜子が吹き出した。

 フィルネも口元を押さえる。

 二人とも手を動かすことも忘れ、腹を抱えて床に伏せている。


『質問を変えよう』


 二人の様子を見ながら、キリカはすぐに立て直した。


『相手が次に何をするか、どう判断している?』

「見たら分からへん?」

『分からないから聞いている』

「動いたら分かるやん」

『動く前だ』

「動く前?」


 怜司が初めて少し考えた。

 キリカは待った。桜子も待った。フィルネも待った。

 その期待に返したものは、いつも通りの怜司だった。


「……なんとなく?」

『…………』


 その場から音が消える。むしろ色まで消えたのかもしれない。

 キリカは怜司を見下ろしたまま動かない。

 大真面目に怜司を見続けていたが、やがて、大きく息を吐いた。


『酒はあるか』

「諦めるん早ない?」


 桜子が笑う。


『この男から理屈を聞こうとした私が間違っていた』

「それはそう」

「桜子までひどない?」


 そこから先は早かった。

 王城から用意された酒が持ち込まれ、いつの間にか机まで運ばれてきた。

 怜司は身体を起こし、桜子もマッサージを終える。

 フィルネは最初こそ控えめに杯を手にしていたが、二杯目を越えた辺りから笑う回数が目に見えて増えた。

 桜子は逆だった。

 飲み始めから調子が変わらないまま、時間が経つほど声量だけが少しずつ増していく。


「せやからな! 昔からこいつはそうやねん!」

「何の話やねん」

「自分の話や!」

『はははっ、怜司! 幼い頃から変わらないのか!』


 キリカは豪快だった。

 小さな杯では足りなくなったのか、途中から大きめの器へ変えている。

 対する怜司は、酒を水でも飲むような速度で口へ運んでいるのに、顔色一つ変わらない。


『……本当に、変わりませんね』


 フィルネが笑いながら怜司を見る。

 どこか少しだけ、桜子のことを羨ましそうにしたように見えた。

 怜司越しに見える桜子は、相変わらず酒をあおっていた。

 

「何が?」

『何でもありません』

「なんやねん」


 またフィルネが笑った。

 戦い方を教わるはずだったキリカが、いつの間にか桜子と杯をぶつけ合っている。

 怜司の身体を確認するはずだった桜子は、昔話を始めている。

 手伝いに入っただけのフィルネまで、その話を聞いて楽しそうに笑っている。


 結局、怜司の身体に異常があるのかどうかは分からなかった。

 少なくとも、誰より普通に酒を飲み、誰より普通にくつろいでいる。

 今夜は、それで十分なのかもしれなかった。


     ◇


 翌朝。


 会議室へ集まった者たちの前には、王都と周辺地域を記した大きな地図が広げられていた。

 昨日までとは、地図へ書き込まれているものが違う。

 敵の位置ではない。

 倒壊した建物。通行できない道路。負傷者が多く残る地区。避難所。家畜の被害が出た地域。学校や孤児院。港湾施設。

 戦うための地図が、暮らしを戻すための地図へ変わっていた。

 洋一は報告書を何枚か確認すると、卓上へ置いた。


「全部を僕たちでやる必要はありません」


 ヴァルネシア側だけでなく、十二神承の半数ほども洋一を見る。

 集まった視線へ、穏やかに続ける。


「というより、やるべきではないと思います。僕たちはいずれ日本へ帰ります。この国を直すのは、この国の人たちです」


 アルトリウスが静かに頷く。

 だから十二神承がするのは、復興そのものを肩代わりすることではない。

 最初の一歩を早めること、足りない場所へ手を貸すこと。

 そして、ヴァルネシアだけでは難しい部分へ、十二人が持つ力や知識を使うことだった。


「まず、金と人を動かさなあかんな」


 桜子の声を聞き、洋一が地図から顔を上げる。

 軽く息を吐くと、言葉をつづけた。


「僕はそっちへ行きます。王都の有力者、商人、貴族、騎士団。復興に必要なものを持っている人たちと話してきます」


 ナーシャとアルネアが、ほとんど同時にそちらを見た。

 二人ともヴァルネシアでは名の通った家と繋がりがある。

 洋一一人で訪ねるより、彼女たちが同行した方が話は遥かに早い。

 そのことを説明する必要もなかった。


『私も行く』

『私も同行しましょう』


 アルネアが先に言葉にしたところにナーシャが続く。

 どことなく、この二人が先を争うようにも見えたが、洋一はそこを気にしていなかった。

 一筋縄でいかなかった場合、この二人が頼もしい存在であることのほうが重要だった。


 その横では、桜子が地図の別の場所を見ていた。

 学校と孤児院。

 さらに、負傷者のいる家庭を示す印。


「うちは子供んとこ見てくるわ」

『では、私も同行します』


 フィルネがすぐに答えた。

 ここ数日、子供たちへ接する時には自然と二人で動くことが増えている。

 エルナとシェリアも加わった。

 子供に柔らかく接することのできるエルナに、マスコットとしても人気のシェリア。

 この二人も子供のもとに行くには適任だった。

 四人なら学校や孤児院だけでなく、親が負傷して生活に困っている家庭まで回れる。


 近くでは、智希と恭平が王都外周の報告を読んでいた。

 人が避難したことで、街の外でも生態系に変化が出ている。

 放置された家畜、飼い主を失った動物、 戦闘や星堕としの影響で、本来の生息域から移動した野生動物。


「こっちは俺らかな」


 智希の言葉に恭平も頷いた。

 動物と言葉を交わせる智希はもちろんのこと、恭平も動物を自らの群れとして行動させることができる。

 この二人だけでも十分かとも思われたが、そこへミリアとレイナが加わった。

 二人は野生動物に近いという意味ではない。

 獣人として、人間より遥かに動物の仕草や鳴き声の変化を読み取ることに慣れていた。

 完全に言葉を交わすわけではなくとも、警戒しているのか、怯えているのか、何を求めているのかを掴むことができる。

 人間だけで森へ入るより、遥かに安全だった。


 一方、負傷者については迷う余地がない。


「僕は治療を続けます」


 良澄が言った。

 その隣で優斗と行人も頷く。

 良澄が直接治療を行い、優斗が広い範囲から治療を必要とする者を見つけ、行人が回復を促す。

 そこへゼグ、ネイル、キリカが加わることになった。

 治療そのものだけではなく、動けない者を運び、身体を支え、必要なら話を聞く者もいる。

 特にゼグは、傷そのものより、その後に残った恐怖へ向き合う役割を自然に引き受けていた。

 それに対しキリカは弱いもの、弱っているものに安心感を与えることができる。

 移動に問題が出ればネイルが空から運ぶことまで考えた結果、ヴァルネシア側はこの三人を選んだ。


 建物については、清隆と智臣。

 そこへゴルガ、ベルン、ヴォルグ、バルク、ザグが加わる。

 力仕事ができる者が選ばれている。

 港では船にも被害が出ているため、水中での作業を苦にしない者たちはそちらへ回ることになる。

 建物の構造や、その空間的な問題については清隆と智臣に任せ、実際に手を動かすのをヴァルネシア側のメンバーが担う。

 実に効果的な人選だと、清隆が満足そうに目を伏せていた。

 ヴォルグとザグの二人だけは、この人選を聞いた瞬間、少し狼狽えていたが、智臣の視線を感じて背を正した。


 最後に、大量の書類を前にしていた雅史が、少し困ったように笑った。


「僕は……こっちかな」


 行政関係だった。

 復興には、建物を直すだけでは足りない。

 被害を把握し、必要な物資を数え、どこへ何を回すのか決める。そのための記録と手続きだけでも膨大になる。

 アルディウスが既に何人もの文官と古参の知識人を集めている。

 過去の記録を引き出し、必要な情報を整理する雅史なら、最も力を発揮できる場所だった。

 ただ、アルディウスと二人にすると休むことを忘れそうだという点のみ心配ではあった。

 だが、洋一が文官の中にアルディウスに説教をしている人物を見かけ、少しだけ安心していた。


 そうして役割が決まっていく中、一人だけ名前の出ていない者がいた。


「俺は?」


 怜司が聞いた。

 洋一は少し考えるような顔をした。

 実際には、最初から考えていた。


「怜司さんは、今日は何もしなくていいです」

「なんで?」

「十分働きましたから」

「みんなもやろ?」

「そうですね」


 洋一は否定しなかった。

 その上で、少し離れた場所に座るアルトリウスを見る。

 アルトリウスも手持無沙汰で少々落ち着かない様子だった。

 それを知ってか知らずか、洋一が怜司に提案する。


「ですから、王と一緒にいてください」

「アルトリウスと?」

『私とか?』


 今度はアルトリウスまで意外そうな顔をした。

 洋一にしてみれば、内心は計画通りなので、少し微笑みが零れていた。


「はい」


 洋一はそれ以上説明しなかった。

 けれど、その意図を察した者は何人かいた。

 王として、アルトリウスは休めていない。

 星堕としだけではなかった。

 国を救うために日本へ侵攻するという決断をし、その結果として十二神承と戦い、敗北した。

 そこから侵攻を止め、今度はかつての敵と手を組み、自国を襲う星堕としへ向き合い続けた。

 王都を守れても、王だからといって、そのすべてが心へ残らないわけではない。

 まして、自らが敗れた相手に、自らの国を救ってもらっているのだ。辛くないわけがなかった。


 そんな相手に、必要以上に気を遣わない人間が一人いる。


「散歩でもしてきたらどうです?」

「ええけど」


 怜司はあっさり頷いた。

 たぶん、洋一がそこまで考えて自分を割り当てたことには気づいていない。

 それでよかった。


「彰人は――」


 洋一が地図から顔を上げる。

 その視線が彰人を通り過ぎ、少し離れた場所にいるセレスティアへ向いた。


「セレスティアさんと街を見てきてください」

「……それ仕事?」

「復興状況の確認です」

「ほんまに?」

「はい」


 洋一の顔は真面目だった。

 周囲は真面目ではなかった。

 桜子が目を逸らす。

 智希も口元を押さえている。

 優斗は何も言わず、ゆっくり頷いていた。


「……絶対おかしいやろ」

「何がですか?」

「いや、もうええわ」


 彰人が諦めた。

 セレスティアは少し頬を赤くしていたが、拒否はしなかった。


     ◇


 復興は、壊れたものを直すだけではなかった。

 洋一が最初に訪れた屋敷では、当主が復興への資金提供を渋った。

 理由はいくつも並べられた。

 領地にも被害がある。商売も止まっている。使用人を養わなければならない。

 どれも嘘ではない。

 洋一は最後まで聞いた。

 途中で遮らず、帳簿まで見せてもらう。


「分かりました」


 その一言に、当主の顔が緩む。

 当主の表情を見ないままに洋一はつづけた。


「では、あなたの家に対する優先的な保護も不要ですね」


 緩んだ顔が止まった。


「国全体が危機にある時、負担できる者が負担しない。その選択自体は自由です。ただし、その地位に付随する権利だけを維持するのは公平ではありません」


 声は穏やかなままだった。

 ナーシャとアルネアは口を挟まない。

 二人がそこにいること自体が、十分な意味を持っていた。

 名家に生まれた者だからこそ、地位には責任が伴うことを知っている。

 洋一が求めているのは寄付ではない。

 国を立て直す側へ立つのか、それとも自分だけを守る側へ立つのか、その確認だった。

 屋敷を出る頃には、提供される金額と物資の一覧が一枚増えていた。


『容赦がありませんね』


 アルネアが笑う。


「そうですか?」

『笑顔でした』

「怒鳴っても増えるものはないので」

『私は嫌いではないわ』


 ナーシャが怪しい微笑みを浮かべて言った。

 洋一は苦笑し、次の屋敷へ向かうことにした。


     ◇


 学校と孤児院を回るだけのつもりだった。

 だが、実際に歩き始めると、それだけでは済まなかった。


 親が負傷して仕事へ出られない家。

 避難の途中で家財を失った家。

 家そのものは無事でも、食料を買う金が尽きかけている家。

 大人なら何とかなると言ってしまうことでも、その影響は子供へ直接届く。


 桜子たちは一軒ずつ話を聞いた。

 必要なものを書き留め、すぐ用意できるものは手配する。

 最初は復旧支援の一環だったものが、何軒か回るうちに別の形を持ち始めた。


「これ、今だけやったらあかんな」


 桜子が言った。

 フィルネも同じことを考えていたらしい。


『親が怪我をした家庭を、周囲だけで支え続けるのには限界があります』


 エルナが子供の頭を撫でながら、静かに頷く。

 シェリアは聞き取った内容をまとめていた。

 四人が四人とも、子供のことに真剣だった。弱者を救うために必死だった。

 その様子を見た子供たちは、四人に英雄を重ねていた。


 結果的に桜子の発案となった、国が一定期間生活を保証する仕組み。

 さらに、平時から少しずつ皆で備え、困った家庭が出た時に支え合える仕組み。

 後に国営の相互扶助組織へ繋がっていく話は、そんな小さな訪問の積み重ねから始まった。


 次の家へ向かおうと通りへ出た時だった。

 先を歩いていた子供の一人が、不意に足を止めた。

 何かを見つけ、声を上げようとする。

 その口を、隣にいた少し年上の少女が慌てて両手で塞いだ。


 桜子は何事かと視線を追った。

 少し先に復旧作業のため人通りが減っている通りを、男女が二人で歩いている。


 彰人とセレスティアだった。


 桜子の足が止まった。フィルネも止まった。

 エルナとシェリアまで、その二人を見た。

 誰も何も言わない。

 それでも、四人の間で何かが一致した。

 桜子が道端の建物へ寄る。フィルネも続く。

 エルナとシェリアまで自然に物陰へ入った。

 そして、なぜか子供たちまでついてきた。


「いや、あんたらはええねんで?」


 声を潜めて言うと、子供たちは揃って首を振った。

 何がいいのかは分からない。

 ただ、面白そうなことが始まったとだけ理解しているらしい。

 建物の陰から、何人もの顔が少しずつ覗く。縦に六つの顔が並ぶ光景は滑稽だった。


 彰人とセレスティアは気づいていない。

 二人とも復旧中の店へ立ち寄り、店主と何か話している。

 彰人が壊れた棚を持ち上げる。

 セレスティアが魔法で歪んだ金具を直す。

 しばらく作業を手伝ったあと、店主から何かを渡された。

 焼き菓子らしい。

 二人で一つずつ持って歩き出す。

 その様子を見ていた少女が、桜子の服を小さく引いた。


「何?」


 耳元で何か囁かれる。

 桜子は一瞬だけ黙った。


「……まあ、そう見えるな」


 少女が嬉しそうに笑った。

 何と言われたのか気になったフィルネが視線を向ける。


『何と?』

「二人、結婚すんの? やって」


 フィルネの口元が僅かに緩んだ。

 エルナは耐えきれず顔を逸らし、シェリアは口元へ手を当てる。

 当の子供たちは、答えを待つように桜子を見ていた。


「それは本人らに聞いて」


 さすがに勝手に決めるわけにはいかない。

 しかし、もう一度通りを見ると、今度はセレスティアが何かを言われたらしい。

 彰人が笑っている。

 それに対してセレスティアが何か言い返し――途中で、不意にこちらへ顔を向けた。

 桜子たち全員が、一斉に壁の陰へ引っ込んだ。

 子供たちまで同時だった。


 僅かな沈黙。

 誰も動かない。

 足音が近づいてくる様子はなかった。

 桜子が慎重に顔を出すと、二人はまた歩き始めてた。

 その瞬間、後ろで小さな安堵の息がいくつも重なった。


「何してんねやろな、うちら」


 自分で言って、桜子は笑いそうになった。


『桜子さんが最初に隠れたのでは?』

「フィルネもついてきたやん」

『……それは、そうですが』


 否定できなかった。

 その横で子供たちは、まだ楽しそうに二人の背中を見送っていた。

 戦いが終わった街に、こんなことで笑える時間が戻ってきた。

 桜子は、それなら少しくらい覗き見をしても罰は当たらないだろうと思うことにした。


     ◇


 街の外では、智希がしゃがみ込んで地面を見ていた。


「こっち、増えてるね」


 土に残った足跡。

 ミリアとレイナも周囲を確認する。

 人が避難したことで、動物の行動範囲が変わっている。

 家畜が逃げた場所もある。

 飼い主を失った動物もいた。

 恭平が少し離れた茂みを見る。


「いるっすね」

「何?」

「小さいの。三匹くらい」


 近づくと、親を失ったらしい幼獣が身を寄せ合っていた。

 智希の表情が変わる。


「連れて帰ろう」

「即決っすね」

「置いてく理由ある?」

「ないっす」


 話は早かった。

 その後も似た例が見つかった。

 すべてを人が飼うことはできない。

 野生へ戻せるものは戻す。

 人に慣れすぎているもの、怪我をしているもの、まだ単独で生きられないものは保護する。

 そのための場所が必要になる。


「動物だけ集める場所作る?」


 智希が言う。


「治ったら戻すやつと、戻せないやつ分けて」

『人も来られるようにするのか?』

「それもいいね」


 動物と触れ合うことで落ち着く子供もいる。

 家族を失った者が、世話をすることで日々の役割を取り戻すこともある。

 最初は保護施設の話だった。

 そこへ少しずつ目的が足されていく。


「なんか、動物園みたいになりそうっすね」

「それはそれでよくない?」


 智希は楽しそうだった。


     ◇


 王都の別の区画では、良澄たちが朝から治療を続けていた。


 大きな怪我の多くは、既に魔法で処置されている。

 骨折も、命に関わる外傷も、昨日までに優先して治療された。

 それでも、街を回れば患者はいくらでもいた。

 軽い怪我だからと後回しにしていた者。

 家族を優先し、自分の痛みを黙っていた者。

 数日経ってから体調を崩した者。

 そして、身体には大きな傷がなくても、戦いの音を聞いた夜から眠れなくなった者。


「僕が診ます」


 良澄は老人の前へ膝をついた。

 腫れた足首へ手を添える。

 淡い光が指先から広がり、炎症を起こした部分へゆっくり浸透していく。

 その間に、優斗は周囲へ視線を巡らせていた。

 彼が見ているのは、目の前の一人だけではない。

 広い範囲から、人の動きの僅かな違和感を拾う。


「向こうの人も診た方がいい」


 少し離れた場所で荷物を運んでいる男を指した。

 歩き方がおかしい。

 本人は働けるつもりでいるが、右足を庇っている。

 キリカがすぐそちらへ向かった。


『おい。少し休め』

『いや、私はまだ――』

『歩き方を見れば分かる』


 男の腕を取る。抵抗されても力では負けない。

 そのまま半ば強制的に治療場所まで連れてきた。


『……お前は強い。』


 キリカは前を向いたまま男に話しかけていた。

 男はその言葉を額面通り受け取ることができず、呆気にとられていた。


『その荷物は、弱い者を助けるものだろう?』

『いえ……これは妻や子供たちと、その友人に渡すものでして……』

『そうして自らは空腹や怪我と戦う。それを強者と言わずなんと言う』


 男の胸には熱いものがこみ上げ、さらに自らを奮い立たせる何かが生まれていた。


『だからこそ、次に備え、今は癒されろ』

『はい、その通りですね』


 その顔には決意とともに、前に向かう勇気がたたえられていた。

 その様子を見たキリカは満足そうに、男の背中をたたき、良澄のもとに向かわせた。


 行人は、治療を終えた者たちの状態を見ていた。

 良澄の魔法で傷そのものを治しても、失った体力まで一瞬で戻るわけではない。

 回復を促し、身体が本来持つ力を引き出す。

 三人の役割は似ているようで違った。

 そこへゼグたちが加わることで、治療の流れそのものが止まらなくなっていた。


 特にゼグは、いつの間にか治療とは少し違う役割を担っていた。

 壁際へ座る男の隣で、何も急かさず話を聞いている。

 男は星堕としの最中、家族を地下へ避難させ、自分だけ外に残ったらしい。

 全員無事だった。だからこそ、怖かったと言えなかった。

 ゼグは励まさない。もっと大変な者もいるとも言わない。

 ただ聞いている。

 しばらくして男が自分から立ち上がった時、その顔は来た時より少しだけ軽くなっていた。


 昼を過ぎた頃、一人の男が何度も頭を下げながら良澄たちの前へ立った。

 王都でも大きな商会を持つ人物だった。

 避難中に瓦礫の下敷きとなり、一時は片脚を失う可能性すらあったという。

 それを救われた。家族も無事だった。


『私にできることがあるなら、何でも言ってほしい』


 良澄は少し困ったように笑った。


「僕たちに返してもらわなくても大丈夫ですよ」

『しかし――』

「だったら、この街に返してください」


 男が顔を上げる。

 良澄は周囲を見渡した。

 治療を待つ人。壊れた家。まだ物資の足りない避難所。

 男に向かいなおし、笑顔のまま言葉に出す。


「困っている人、まだたくさんいますから」


 その言葉を、男はしばらく黙って聞いていた。

 後に彼が復興へ莫大な私財を投じることになるのを、この時の良澄はまだ知らなかった。


     ◇


 建物の修復は、最初から普通ではなかった。


 清隆が壊れた壁へ触れと、崩れた石材が浮き上がり、欠けた部分が元の場所へ戻っていく。

 ヴァルネシアの職人たちは、最初こそ歓声を上げていた。

 だが、三軒目に入った頃には、誰も素直に喜ばなくなっていた。


「清隆」


 智臣が呼ぶ。

 清隆は作業を続けたまま、視線だけ智臣のほうに向けた。


「そこ、戻さない方がいい」

「何故?」

「元から歪んでる」


 清隆の手が止まった。

 智臣は建物全体を見上げている。

 壁だけではない。柱、梁、床。

 それらがどの位置にあり、どこへ荷重が掛かっているのか。

 目に見える形より、その空間そのものを捉えていた。


「これは、星堕としで壊れたものじゃない。前から少し傾いてたんだろう」


 近くにいた職人へ確認すると、相手は驚いたように頷いた。

 古い建物だった。何度も修繕しながら使われ、以前から床の一部が僅かに傾いていたらしい。

 一目見ただけの智臣がそれを見抜き、作業の方向性を変える指示をした。

 よくわかっている者ほど、その歴史を知っていた者だからこそ、驚きを隠せなかった。


「じゃあ、そのまま戻したら駄目か」

「たぶん。また同じところに負担掛かる」

「面倒だな」


 そう言いながら、清隆は楽しそうだった。

 壊れる前へ戻すだけなら簡単だ。

 だが、それでは修理であって改善ではない。

 智臣が建物全体の位置関係を確認し、職人が本来の構造を説明する。

 その上で清隆が必要な部分だけを組み直す。

 結果として完成した建物は、壊れる前より明らかに丈夫になった。


『……これは、修復なのか?』


 同行していたゴルガが、完成した壁を見ながら呟いた。


「一応?」

「たぶん改築だな」


 清隆の答えを智臣が訂正する。

 ゴルガの中に修復という言葉の新しい概念が生まれ、近くでそれを見ていベルンは改築の概念を刷新していた。

 職人としての矜持もなにも、この二人には通じないということを知り、新しい世界を見た気分になっていた。


 そこから先は、さらに酷かった。

 職人たちが「ここも以前から困っていた」と言い始めたからだ。

 水が溜まりやすい場所。風が抜けない倉庫。荷物を運びにくい階段。

 一つ直すたび、次が出てくる。

 午後には修復班という名前が、ほとんど意味を失っていた。


 港ではヴォルグやザグたちが水へ入り、損傷した船底を確認する。

 智臣が水中を含めた位置関係を把握し、清隆が破損箇所を直していく。

 こちらでも同じことが起きた。

 直した船は、なぜか以前より使いやすくなっていた。


『これは……新しい港ではないのか?』


 聞いたこともないようなレベルで再開発された港を見たヴォルグの口から零れた。

 港湾部の役人から感謝されたのだが、清隆は感謝されること自体を不思議に思っていた。


     ◇


 同じ頃。

 雅史は、別の意味で戦場にいた。


 目の前に積み上がっているのは瓦礫ではない。

 書類だった。


「……これ、全部ですか?」

『まだある』


 アルディウスの返答に、雅史は一度だけ天井を見た。

 被害報告、避難者名簿、食料の残量、各地区からの要請、建築資材の在庫、負傷者の記録。

 そして、それらを処理するための過去の規則や前例。

 国を動かすということは、結局こういうことなのだろう。

 幸い、雅史にとって情報が多いこと自体は問題ではなかった。


「似た事例、過去にありませんでしたか?」


 部屋の隅にいた老人の一人が顔を上げる。

 既に政務の第一線を退いた、かつての文官だった。


『どの程度のものだ』

「王都の一部が使えなくなって、住民を別の地区へ移した事例です。災害でも戦争でも構いません」


 老人は少し考え、別の老人を見る。

 二人の間で幾つかの年代が飛び交う。

 やがて、一冊の古い記録が運ばれてきた。

 雅史は内容へ目を通す。


「これ、使えますね」

『百年以上前のものだぞ』

「全部そのまま使う必要はありません。失敗した部分も分かりますから」


 成功例だけではない。

 なぜ上手くいかなかったのか。どこで物資が滞ったのか。何が不足したのか。

 記録が残っているなら、それも答えの一部になる。

 雅史は古い事例と現在の被害状況を並べ、一つずつ必要な処理へ分けていった。

 最初は山のように見えた書類が、少しずつ種類ごとに整理されていく。

 アルディウスがそれを見て、途中から何も言わなくなった。


 夕方には、部屋にいた文官たちの動きまで変わっていた。

 誰か一人が全部を抱えるのではない。

 必要な情報を必要な場所へ渡し、過去に答えがあるものは探し、ないものだけを新しく決める。

 それだけで、処理速度は目に見えて上がった。


「これなら、明日からもっと早くできますね」


 雅史が言う。

 周囲にいた者たちは、一瞬だけ黙った。

 今日だけでも十分異常な速度だった。

 それが明日からさらに早くなるらしい。


 アルディウスは、積み上がっていた書類の高さが半分以下になった机を見ながら、初めて僅かに笑った。


     ◇


 怜司とアルトリウスは、城下を歩いていた。


 特に目的地はない。

 復旧を指揮するでもなく、視察というほど堅苦しくもない。

 ただ歩く。

 最初、アルトリウスにはそれが落ち着かなかった。

 王になってから、何もしない時間などほとんどなかった。

 まして今は復興の最中だ。

 自分が城を離れていていいのかという考えが、何度も頭をよぎる。


「アルトリウス」

『何だ』

「あれ何?」


 怜司が露店を指差した。

 復旧の合間を縫って営業を再開した店だった。

 串に刺した肉を焼いている。


『……食べ物だ』

「それは見たら分かる」

『なら何を聞いた』

「何の肉?」


 そんな会話をしているうちに、気づけば二人とも串を一本ずつ持っていた。

 怜司は普通に食べる。アルトリウスも食べる。

 王の顔を知らない店主など王都にはほとんどいない。

 最初こそ店主は硬直していたが、怜司が値段を聞き、アルトリウスが支払いをしようとした辺りで、どう反応すればいいのか分からなくなったらしい。


 そこからさらに歩いた。

 途中で盤上遊戯をしている老人たちを見つけた。

 怜司が興味を示す。

 気づけばアルトリウスまで座っていた。

 ヴァルネシアの盤上遊戯は日本のチェスに近い。

 駒の動きを一度説明されると、怜司はすぐ理解した。


『お前は、王に遠慮というものをしないのだな』


 盤面を見ながらアルトリウスが言った。


「した方がええ?」

『……いや』

「ほなええやん」


 怜司が駒を動かす。

 アルトリウスは少し遅れて、自分の駒へ手を伸ばした。

 国を救うためとはいえ、他国へ侵攻する決断をした。

 十二神承と戦い敗北した。

 それでも国の危機は終わらず、星堕としと向き合い、その原因が消えるまで王として立ち続けた。

 まして、その危機を救ってくれたのは、自らが敗北した相手だというのだ。

 一つだけでも、軽い出来事ではない。

 理解の及ばないこともたくさんあった。

 それらが短い期間へ重なり、受け止めて判断を続ける必要があった。

 いつ、このヴァルネシアがなくならないとも限らない。

 そんな不安を抱えていても、王である以上、弱音を吐く場所はほとんどなかった。


 怜司は、それを慰めようとはしなかった。

 王として扱わないわけでもない。

 ただ、アルトリウスが王であることを理由に、必要以上に何かを変えようとしない。


『……負けた』

「もう一回する?」

『ああ』


 次の盤面が並べられる。

 その頃には、アルトリウスの顔から、王として人前へ立つ時の硬さが少しだけ消えていた。


     ◇


 彰人とセレスティアも、王都を歩いていた。


 名目は復興状況の確認だった。

 実際、それは嘘ではない。

 壊れた建物があれば足を止め、運べるものがあれば彰人が運ぶ。

 魔法で直せるものならセレスティアが手を貸した。


 途中、避難していた住民が戻ってくる場面にも何度か出会った。

 家が残っていたことを喜ぶ者。壊れた壁を見て肩を落とす者。

 それでも、誰も空を見上げて怯えてはいなかった。


「前来た時と、全然ちゃうな」

『はい』


 二人が以前歩いた時、街にはまだ見えない期限があった。

 いつ星堕としが来るか分からない。

 日本への侵攻も決まっていた。

 互いが敵になる可能性すら残っていた。

 今は違う。

 傷は残っている。

 だが、直せばいい傷になった。

 歩いている途中、以前にも立ち寄った店を見つけた。


「ここ、残ってたんや」


 彰人が足を止める。

 店先の一部は壊れているが、営業は再開していた。

 店主も二人を覚えていたらしい。

 何か言いながら笑い、以前とは違う菓子を二つ差し出した。

 代金を払おうとすると断られた。


「いや、それはあかんって」


 彰人が押し問答を始める。

 結局、セレスティアまで加わり、半ば強引に代金を置いて店を離れることになった。

 二人の手には菓子が残った。

 歩きながら食べる。


「これも美味いな」

『前のものとは違いますね』

「そやな」


 そこで彰人は、ふと気づいた。

 復旧の確認、店へ寄る、二人で食べ物を買う。

 特に目的もなく街を歩く。

 以前とほとんど同じだった。


「……なあ」

『何でしょう』

「これ」


 言いかけて、彰人が少し困る。


「普通にデートちゃう?」


 セレスティアの足が止まった。

 彰人も止まる。

 互いに顔を見る。

 しばらく二人とも硬直する。

 先に変化したのはセレスティアだった。

 頬へ赤みが差す。

 そこから逃げるように視線を逸らしたものの、長い耳までは隠せない。

 先端近くまで、分かりやすく赤くなっていく。


「……耳まで赤なってるで」

『言わないでください』

「ごめん」


 謝りながら彰人も顔を逸らした。

 自分から言っておいて、意識すると急に恥ずかしくなる。

 最初に交わしたのは、ただ「街の続きを歩く」という約束だった。

 いつの間にか、それが違う意味を持つようになっていた。


『……嫌なのですか?』


 小さな声だった。


「何が?」

『デート、なのが』


 彰人は少しだけ目を見開いた。

 すぐに首を振る。


「いや。全然」


 むしろ、その逆だった。


「ほな今日はデートってことでええんちゃう?」


 セレスティアはすぐには答えなかった。

 耳はまだ赤い。

 それでも、少しして彰人へ視線を戻した。


『……はい』


 今度は、二人とも少しだけ笑った。

 そこから何かが劇的に変わったわけではない。

 同じように街を歩いた。

 同じように復旧を手伝った。

 ただ、それまで何気なく並んでいた距離を、互いに少しだけ意識するようになった。


 それだけだった。


     ◇


 その夜。


 王城では、久しぶりに大勢が一つの席へ集まっていた。

 アルトリウス、三柱、八傑、十三将。

 そして十二神承。

 本来なら、同じ部屋へ揃うだけでも国の一大事になりかねない顔ぶれだった。

 だが今夜に限っては、細かな席次も形式もなかった。


 無礼講。

 そう決めたのはアルトリウスだった。

 復興初日の報告を兼ねてはいる。

 それでも、卓上へ並ぶ料理と酒の量を見れば、会議だけをするつもりではないことは明らかだった。


 各班の報告は、最初こそ真面目に進んだ。

 学校や孤児院の支援。

 負傷者への治療。

 野生動物と家畜の保護。

 建物や港湾施設の修復。

 行政手続きの整理。

 そして、有力者たちから復興資金と人員を出させるための交渉。


『出させる、なのですね』

「協力していただいた、でもいいですよ」


 セレスティアが確認すると、洋一は笑って返した。

 ナーシャが横で静かに杯へ口をつける。

 アルネアは小さく笑っていた。

 何があったのかを詳しく聞かない方がいいと判断した者が何人かいた。


 話題は、そこから今後へ移った。

 特に長く話されたのは技術協力だった。

 清隆たちが行った修復をそのまま再現することは難しい。

 だが、考え方は残せる。

 日本の建築技術、上下水道、防災、通信。

 考え方は何も技術だけの話ではない。品質管理、生産管理など通信の上に成り立つ技術も多かった。

 だから、まずは通信をどのようにするか、そこに注力することにしていた。

 ヴァルネシアの魔法技術と組み合わせれば、日本の携帯電話に近いものすら作れる可能性がある。


「そこは一回、日本帰ってからやな」


 清隆が言った。


「必要な資料とか持ってきた方が早い」

『また来ることが前提なのだな』


 アルトリウスの言葉に、清隆が少し首を傾げた。


「来られない可能性がある?」


 そこで、卓上の空気が僅かに変わった。

 今まで意識して避けていたわけではない。

 ただ、復興の話をしている間は必要なかった。

 裂け目と呼ばれている、二つの世界を繋いでいる唯一の道。


『それについて、話しておかなければならないことがあります』


 セレスティアが杯を置いた。

 自然と声が小さくなる。

 声も、その手も小さく震えていた。


『裂け目は、現在も縮小を続けています』


 何人かが表情を変えた。

 彰人もセレスティアを見る。


「閉じるん?」

『はい』


 答えたのは、三柱としてのセレスティアだった。

 気丈に振舞っている、無理をしているのは一目瞭然だった。

 だが、三柱としての責任を果たそうと、精一杯言葉を続けていた。


『現在の魔力消費量と縮小速度から推測すれば、一月は持たないでしょう』


 宴席から、少しずつ音が消えていった。

 裂け目が永遠に残る保証など、最初からなかった。

 むしろ、黒幕が消えた以上、維持され続ける方がおかしい。

 分かっていたはずの話だった。

 それでも、具体的な期限として聞かされると意味が変わる。


『ですから、閉じる前に正式な記録を残す必要があります』


 アルディウスが続ける。


『二つの世界を繋いだ場所だ。後世へ残す名も必要になる』


 そこから裂け目の呼称について幾つか案が出た。

 学術的なもの、歴史的なもの、二つの世界を繋ぐ門としてのもの。

 だが、話し合いはどこか上滑りしていた。

 理由は、誰もが分かっていた。

 裂け目に名前を付ける。

 それは、いずれ閉じるものとして記録へ残すということだった。


 桜子が彰人を見る。

 その視線を追うように、何人かの目が同じ場所へ向いた。

 彰人は気づいていない。あるいは、気づかないふりをしていた。

 その隣に座るセレスティアも、先ほどから杯へほとんど手をつけていない。


 昼間。

 二人はようやく、自分たちがしていたことをデートだと認めたばかりだった。

 その日の夜に、残された時間が一月にも満たないと知らされた。

 だからといって、彰人がヴァルネシアへ残ればいいという話でもない。

 彰人には日本での生活がある。家族もいる。学校もある。

 十二神承としての役割もある。

 セレスティアを日本へ連れていけばいいという話でもなかった。

 彼女は三柱の一人だ。

 八百年近くこの国を支え、魔法研究院を預かり、これから始まる復興にも必要とされている。

 どちらかが、どちらかの世界を捨てれば済む。

 そんな簡単な話ではなかった。


『彰人』


 ナーシャが静かに呼んだ。


「……うん」

『あなたは、どうするつもりですか?』


 彰人は答えなかった。答えられなかった。

 少し前なら、考える必要すらなかった問いだった。

 帰る。それだけだ。

 けれど今は、その答えの先に何があるのか知っている。

 日本へ戻る。裂け目が閉じる。

 そのあと、セレスティアとは二度と会えないかもしれない。

 今日一日、並んで歩いた街を思い出す。

 赤くなった耳。小さく返された「はい」。

 たった数時間前の出来事だった。


「……帰らなあかんとは、思ってる」


 彰人はようやく言った。

 セレスティアは何も言わない。


「でも……」


 その先が続かなかった。

 桜子も口を挟めなかった。

 普段なら何か言う。背中を押すこともできる。茶化すこともできる。

 けれど、これは気持ちだけでどうにかできる話ではない。

 フィルネも同じだった。

 セレスティアの気持ちは知っている。

 だからこそ、軽々しく「一緒に行けばいい」とは言えなかった。

 三柱も、八傑も、十三将も、十二神承も。

 誰も答えを持っていない。


 しばらくの間、宴席とは思えない静けさが続いた。

 その中で一人だけ、少し前から不思議そうな顔をしている者がいた。


 怜司だった。


 右を見る。左を見る。最後にセレスティアを見る。


「……それ」


 いつも通りの口調を続ける怜司に、全員の視線が集まる。

 それでも、本人は何を見られているか、わからないかのように言葉を続ける。


「閉じなあかんの?」


 何を言われたのか、一瞬分からなかった。

 セレスティアが怜司を見る。


『……はい?』

「裂け目」


 怜司は普通に続けた。


「そのままにしたらええんちゃう?」


 誰も答えない。

 彰人まで、何を言われているのか理解するのに少し時間が掛かった。


『怜司さん』


 セレスティアが慎重に口を開く。

 いつも通り、怜司が何を言っているのかが分からない。

 しかし、ことが事だけに、怪訝な表情を隠すことすらできなかった。


『先ほど説明した通り、裂け目は魔力を消費し続けています。現在は供給源を失い、縮小している状態です』

「うん」

『ですから、このままでは閉じます』

「せやから」


 怜司は首を傾げた。

 だから言っているじゃないかとでも言いたげに、首を傾げたまま続ける。


「閉じんようにしたらええんちゃうの?」


 今度こそ、全員が黙った。

 清隆が持っていた杯を卓上へ置く。

 雅史も怜司を見る。

 智臣は何も言わず、その先を待った。


『……可能なら、そうしていると思います』


 セレスティアの声には困惑が混じっていた。

 自らも断腸の思いでこの結論を受け入れた。

 今にも泣きそうなくらい辛い、それでも受け入れるしかなかったのだ。


『二つの世界の境界を固定するなど、通常の魔法では――』

「いけるで?」


 セレスティアの言葉が止まった。

 驚愕の表情とともに、疑問、悲壮感、期待、色々な感情が表情を分からないものにする。


「……兄貴」


 彰人が恐る恐る呼ぶ。

 兄はいつもこうだ、どんな時も空気を読まないし、必要なことも伝えない。

 今回だけは、その必要なことを意地でも聞き出す必要があった。


「何が?」

「何がちゃうわ」


 怜司は、本当に分かっていない顔をしていた。

 そもそも、なぜできないと思っているかさえ分かっていない様子だ。


「いや、できるで」

『なぜ、そう思うのですか?』


 今度はアルディウスが聞いた。

 怜司は少し考えた。どう説明すればいいのかを探しているらしい。

 やがて、極めて単純な答えへ辿り着いた。


「黒幕のアイツ、やってたやん」

「……何を?」


 怜司の言葉に沈黙が訪れ、それを破るように清隆が尋ねる。


「裂け目作って、維持してたやろ?」

「……してた、だが……」

「ほな同じことしたらええやん」


 清隆の表情が固まった。雅史も同じだった。

 セレスティアに至っては、何から説明すればいいのか分からない顔をしている。

 少なくとも、この場にいる全員が、常識的に不可能だと思っていた。

 だから、魔術に精通しているセレスティアにとっては夢物語よりも遠いものだった。


『怜司さん。それは、見たからできるという種類のものでは――』

「そうなん?」

『そうです』

「でも分かるで?」

『何がですか?』

「どうやってたか」


 その言葉で、今度は別の静けさが生まれた。

 黒幕と向き合っていた時、怜司は何を見ていたのか、何を理解していたのか。

 最後まで誰にも分からなかった。

 魔力の流れは観測されなかった。攻撃した様子もなかった。

 それでも黒幕は、自分自身を維持できなくなるように消えた。


 そして今。


 怜司は、その黒幕が裂け目をどう扱っていたのかも「分かる」と言った。


「……兄貴」


 彰人の声が低くなる。


「まさか、今からやるとか言わへんよな?」

「やったらあかん?」

「いや、そういう話ちゃう!」


 焦りを隠せないまま、彰人の声が上がった。

 だが、怜司は既に立ち上がっていた。

 宴席の空気が一斉に動く。

 セレスティアも立つ。

 何が起こるかわからない、今ならまだ一月、整理する時間がある。

 もしかすると、その時間さえ無くなってしまう危険性を否定しきれなかった。


『待ってください。少なくとも、裂け目の状態を確認してから――』

「ほな見に行こ」


 あまりにも普通だった。

 重大な決断をした人間の顔ではない。

 できることを、必要だからやる。

 怜司にとっては、それだけらしかった。


     ◇


 夜の王都を離れ、裂け目へ向かった頃には、周囲はすっかり暗くなっていた。

 十三将の一部が交代で警備に当たっている。

 青白い光を放つ裂け目は、夜の中では昼間以上に存在感があった。


 二つの世界の境界。

 その向こうには、日本の杉林が見える。

 初めて怜司と彰人がここを通った時と比べれば、確かに小さくなっていた。

 縁の揺らぎも以前より不安定だ。

 セレスティアが裂け目の前へ立つ。


『今も縮小しています』


 周囲の魔力を確認しながら言った。

 そこから導き出される結論が分かるだけに、言葉に出すのがつらかった。


『閉鎖を遅らせるだけなら、外部から魔力を供給する方法も考えられます。しかし、それでは恒久的な維持にはなりません』

「うん」


 怜司は裂け目を見ていた。

 何事もないかのように近づく。

 誰かが止めようとして、やめた。

 あの白金の神装を見た者たちほど、下手に触れない方がいいと知っている。


 怜司が裂け目の縁へ手を伸ばす。

 触れたわけではない。

 指先が青白い光へ届く、その少し前で止まった。

 何も起きない。少なくとも、最初はそう見えた。

 魔力の光はない。魔法陣も出ない。神装すらしていない。


 セレスティアが目を凝らす。

 清隆も、雅史も、智臣も。

 それぞれ違う方法で、怜司の周囲に起きていることを捉えようとする。

 誰にも、何も見つけられなかった。

 それなのに。


『……待ってください』


 セレスティアが最初に気づいた。

 裂け目の縁。先ほどまで絶えず揺らいでいた青白い輪郭が、少しずつ静かになっている。

 縮小も止まっていた。

 その輪郭は安定し、揺らぐことさえなくなっていた。


『魔力の消費が……』


 声が途切れ、掠れたような声で続ける。

 あまりのことに、声の出し方を忘れそうになっていた。


『減っています』

「減った?」


 セレスティアの言葉を確認するように清隆が声をかける。

 それに応えてか、裂け目から目を離さないまま続ける。


『違います』


 セレスティアは裂け目を見たまま、さらに集中していく。

 彼女自身の魔力を注ぎ込むような集中力だった。

 次第にその瞳が見開かれていく。


『……これは……』


 もう一度確認する。

 何度確認しても同じだった。


『ほとんど、消費していません』

「いや、それおかしいだろ」


 清隆が思わず言った。

 自身の経験上、何かの事象が発生するにはエネルギーが必要だと認識していた。

 目の前の事象が、エネルギーを不要とするとは、到底思えなかった。


「空間を繋いでるんだな?」

『はい』

「維持に何も使わないとは、どういうことだ」

『私にも分かりません』


 怜司だけが、何を騒いでいるのか分からないように振り返った。


「できたで?」

「できたで、ちゃうねん!」


 彰人の声が夜の草原へ響いた。

 その隣で、セレスティアはまだ裂け目を見ている。

 閉じない。消えない。日本へ繋がる景色が、そこに残っている。


『……本当に』


 声が震えた。


『本当に、残るのですか?』

「たぶん?」

「そこで疑問形にすな!」


 胸がいっぱいになって、声が震えているセレスティアを余所に、怜司はいつも通りだった。

 叫んだ彰人も、なぜかいつもよりもうれしそうに見えた。

 目の前の裂け目を見て、怜司は少し考えた。


「でも、誰でも通れんのはあかんな」

「そうですね」


 今度は洋一が反応した。

 固定できたこと自体が異常すぎて忘れかけていたが、むしろ重要なのはこちらだった。

 二つの世界を恒久的に繋ぐ。

 それは便利な道を作るだけではない。

 軍も通れる、犯罪者も通れる。

 誰かが勝手に利用できる状態では、いずれ必ず問題になる。


「ヴァルネシア側からは、勝手に開けない方がいいですね」

『必要な者だけを通すということですか?』


 アルトリウスが聞く。


「怜司さん、できますか?」

「できると思うで」


 洋一は少し考えた。

 王だけでは危険だ。三柱だけでも同じ。

 一人の意思だけで異世界への門を開けられるようにすべきではない。

 お互いを諫めるような環境が必要だと判断した。


「こちら側は、アルトリウス王と三柱。四人全員が揃った時だけ通れるようにできますか?」

「四人?」

「はい。国として開くと決めた時だけです」


 怜司はアルトリウスを見る。

 次にガルディオ、アルディウス、最後にセレスティア。

 全員の顔を見て、異論はなさそうであることだけは確認した。


「分かった」


 再び裂け目へ向き直る。

 今度も、何をしたのか誰にも分からなかった。

 ただ、青白い光の性質が僅かに変わる。

 セレスティアが触れようとすると、表面が水面のように揺れた。

 だが、通れない。

 ガルディオ、アルディウス、アルトリウスも同じだった。

 四人が揃い、意思を向けた時だけ、青白い膜の向こうに日本側の景色が鮮明に戻った。


『……本当に』


 アルトリウスが呟く。

 王ですら、何を見ているのか理解できていない。

 それは長くを生きてきたアルディウスであっても例外ではなかった。

 先ほどから言葉を失っているセレスティアも同じだ。


「日本側は?」


 洋一が聞いた。


「同じように政府の許可が必要になるよう――」

「十二神承おったら開くようにしたで」


 洋一の言葉が止まった。


「……十二人全員ですか?」

「いや」


 怜司は普通に首を振った。


「誰か一人おったらええで」

「政府関係者だけでは?」

「開かへん」

「自衛隊だけでも?」

「開かへんで」

「……なるほど」


 洋一は裂け目を見る。

 ヴァルネシア側では、王と三柱。

 四人全員の意思が揃わなければ開かない。

 日本側では、十二神承の誰か。

 政府が単独で開くことはできない。

 どちらの国家も、一方的にこの道を軍事利用できない。


 ヴァルネシアが再び日本へ侵攻しようとしても、王と三柱の誰か一人が拒めば開かない。

 日本政府がヴァルネシアへ軍を送り込もうとしても、十二神承の誰かが協力しなければ通れない。


 意図したのか。と、洋一は怜司を見る。


「怜司さん」

「何?」

「そこまで考えて、この条件にしたんですか?」

「何が?」


 考えていなかった。

 洋一は小さく息を吐いた。

 よく考えれば、怜司がそこまで考えているわけがなかった。

 考えず、今できる最良の結論を出す。それが怜司であることは十二神承の誰もが知っている事だった。


「いえ。いいです」

「なんやねん」


 そのやり取りの横で、セレスティアはまだ裂け目を見ていた。

 青白い光。その向こうにある日本。消えるはずだった道。

 一月もしないうちに失われるはずだったもの。

 それが、残っている。彰人が隣へ来た。


「セレスティア」


 呼ばれて振り返る。

 その瞬間、彰人が言葉を止めた。

 セレスティアの目から涙が落ちていた。

 本人も気づいていなかったらしい。

 指先で頬へ触れ、濡れていることを知って、僅かに目を見開く。


『……すみません』

「なんで謝んねん」

『分かりません』


 もう一滴、落ちた。

 悲しいわけではない。

 むしろ逆だった。

 昼間、一緒に街を歩いた。

 デートだと認めた。

 その日の夜には、一月もせず会えなくなるかもしれないと知らされた。

 受け入れるしかないと思った。

 どちらかが世界を捨てることもできない。

 なら、別れるしかない。

 それ以外の答えなどないと思っていた。


 その前提を。

 怜司は、最初から共有していなかった。

 

「彰人、女の子泣かしたらあかんで」


 セレスティアの涙が止まらないのを見ながら、怜司が彰人に言う。

 彰人が慌て、同じように慌てたセレスティアが弁明する。

 いたずらっぽく笑う怜司を見て、からかわれたのだと気が付いたのは、そのすぐ後だった。


「あと、これ一個サービスしといたるわ」


 そう言って、もう一度裂け目に触れる。

 そこから一対のイヤリングが引き出された。

 水鏡のような裂け目の断面から、やや青みがかった銀色のイヤリングが現れる。


「これ持って、彰人に連絡したら開くようにしといた。」


 最初は何を言っているのか分からなかったが、いつの間にか二人の関係性は怜司まで理解していた。

 兄は、そういった事に疎いと思っていただけに、彰人の顔まで真っ赤に染まっていた。

 それを見る桜子が、安心したかのように微笑んでいる。

 怜司はそんなことは気にも留めず、清隆に向かって「責任重大やな」とだけ伝えていた。

 清隆はその言葉を受け取り、ニヒルな笑いを浮かべた。


「兄貴」


 彰人が怜司を見る。


「ん?」

「俺、一生兄貴に足向けて寝られへんかもしれん」

「なんで?」

「分からんでええわ」

「なんやねん」


 彰人は笑った。

 隣では、セレスティアも涙を拭いながら笑っている。

 少し離れたところで桜子が大きく息を吐いた。

 フィルネも、ナーシャも、アルネアも。

 誰もが同じように、張り詰めていたものをようやく手放していく。


 世界が違うことは変わらない。

 彰人は日本へ帰る。

 セレスティアはヴァルネシアに残る。

 互いに、それぞれの場所で生きていく。

 その事実を、どちらかが捨てる必要はなかった。

 違う世界なら、違うままでいい。

 帰る場所が別でもいい。

 それでも、会いたい時に会える道くらいはあってもいい。

 そんな当たり前のようで、少し前まで誰にも考えられなかった答えが、青白い光となって二つの世界の間に残っていた。


 怜司だけは、その光をしばらく眺めたあと、不思議そうに首を傾げた。


「これ、名前どうすんの?」


 誰もすぐには答えなかった。

 少しして。

 最初に笑ったのは彰人だった。

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