理解の先
黒い大地の上で、刃が一度だけ光った。
怜司の正面から踏み込んできた人型の身体が、その勢いを残したまま斜めに崩れる。
足元へ落ちた身体を避けるように半歩だけ進路をずらし、怜司は刀を鞘へ戻した。
丘の上までは、まだ距離がある。
その間には、戦い続ける人型がいる。
怜司は歩き始めた。
玉座からそれを見ていた存在は、すぐには動かなかった。
先ほどまで、この人間は問い続けていた。
なぜ存在するのか。何を必要としているのか。自ら生み出したものをどう考えているのか。それ以外の存在をどう扱うのか。
一つ答えるたびに次を尋ね、答えを拒むことなく受け取りながら、その奥にあるものまで確かめようとしていた。
それが終わった。
理解できなかったからではない。
最後まで聞いたうえで、この人間は問いを止めた。
ならば、まだ続きがあるのではないか。
理解したのなら、その理解の先に自分という存在を置く場所を見つけるのではないか。
玉座に座ったまま、黒幕は近づいてくる怜司を見ていた。
その期待とは別に、先ほどまではなかったものが意識の底に残っている。
何なのかは、まだ分からない。
一体の人型が怜司の側面から走り込んだ。
刀の届く範囲へ直接入らず、一度外へ膨らむ。直前まで戦っていた個体が選ばなかった軌道だった。
怜司の足が止まる。
人型はその反応を見て、さらに角度を変えた。
鞘が使われることも知っている。身体そのものを使って崩されることも、足場を利用されることも知っている。
だから、正面には立たない。
怜司の視界から外れようとしながら、背後へ回る。
刀は抜かれなかった。
代わりに、怜司の右足が僅かに後ろへ引かれた。
人型が踏み込む。
その足が地面を離れた時には、怜司の身体は既に半身になっていた。
伸びてきた腕の内側へ入り、肩を押す。勢いの向きだけを変えられた人型の身体が前へ流れ、そこへ鞘の先端が触れた。
身体が僅かに浮く。銀色が一度だけ、その下を通った。
着地するはずだった脚が落ち、続いて胴が崩れる。
怜司はそれを見届けることもなく、刀を収めた。
また歩く。その少し先では、二体が待っていた。
一体が前へ出て、もう一体が距離を取る。
前へ出た個体は怜司の刀を警戒し、後ろにいる個体は何かを放つ準備をしている。
これまでに得た情報から組み立てたものだった。
怜司が一体目の間合いへ入る。
刀を抜こうとする動きを見た瞬間、人型が後ろへ下がった。
そこへ怜司も進む。
抜かなかった。刀へ向いていた意識が僅かに遅れる。
怜司の左手が人型の顔へ触れ、そのまま視界を塞いだ。
後方から放たれたものが、怜司ではなく前にいた人型の胸を貫く。
怜司はその身体を横へ押し退けながら刀を抜いた。
後方にいた一体が倒れるまで、ほとんど時間はかからなかった。
また、進む。
黒幕の指が、玉座の肘掛けから離れた。
学んでいる。 自らが作り出したものは、確かに学習している。
この人間が何をするのかを見て、失敗した方法を捨て、新しい方法を選んでいる。
それなのに、距離が縮まり続けている。
怜司の後ろには、倒れた身体が残されていた。
一体。二体。数える意味を失うほどに増えていく。
怜司の歩みは速くない。走ってすらいない。
時折立ち止まり、近づいてきたものを斬り、また歩き始める。
表情も変わっていなかった。
怒っているようには見えない。
先ほどまで問いを投げていた時と、ほとんど同じ顔をしている。
だからこそ、分からなかった。
『……止めろ』
それまで戦場全体へ向けられていた黒幕の意識が、一人へ集まった。
怜司の後方では、今も十一人と人型の戦闘が続いている。
既に多くが倒されているとはいえ、残っている数だけなら無視できるものではない。
それでも黒幕の視線は、次第にそちらへ向かなくなっていた。
問題なのは、こちらへ近づいてくる一人だった。
学ばせている。
怜司がどのように刀を使い、どの距離で鞘へ持ち替え、身体をどう動かして攻撃を外すのか。
それまでに失われた個体が残した情報は共有され、次の個体が別の方法を選ぶために使われている。
それでも、結果だけが変わらない。
怜司が一歩進むたび、その途中へ入ったものが動かなくなる。
倒れた身体を踏まないよう僅かに進路を変えることはあっても、その歩み自体が後ろへ戻ることはなかった。
黒幕が怜司を見たまま意識を向けると、それに応じるように黒い大地が形を変え始めた。
表面が内側から押し上げられ、いくつもの隆起が生まれる。
それまでなら人の形を整えるように膨らんでいたものが、今回は最初から違う輪郭を選んでいた。
伸びた腕には、それまでより広い間合いを取るための長さがある。
脚には複数の関節が生まれ、一方向へ踏み込むだけではなく、途中で軌道そのものを変えられる形になっていた。
胴体は細く、その外側だけが厚く覆われている。
怜司と戦うために、これまで得た情報から必要なものだけを選び直した身体だった。
一体が形を得ると、その隣でも大地が盛り上がった。さらにその先でも。
生まれたものは周囲の十一人へ一度も視線を向けなかった。
最初から何をすべきなのかを与えられているように、全てが怜司へ身体を向ける。
それを見ても、怜司の表情は変わらなかった。最初の一体が地面を蹴る。
それまでの人型より明らかに速い。一直線には来ず、刀の届く範囲へ入る直前で関節を折り、横へ大きく軌道を変えた。
怜司の右手が柄へ触れる。その動きを見た瞬間、二体目が反対側へ回った。さらに三体が時間をずらして距離を詰め、一体は地面を蹴った勢いのまま頭上へ回る。
どこへ刀を振っても、別の方向が残る。そうなるように組み立てた動きだった。
怜司は、柄に触れていた右手を離した。
最初に来た一体へ身体を向けることもなく、半歩だけ前へ出る。背後を長い腕が通り過ぎ、その腕が戻るより先に、怜司の左手がそこへ触れた。
掴んだのではない。僅かに押しただけで、伸び切っていた腕の軌道が変わる。
反対側から迫っていた個体の身体へ、それがぶつかった。
二体の動きが重なったところで、初めて銀色が見えた。刀を抜いた時には一体目が崩れ、返す刃が二体目を捉えている。
上から落ちてきた一体に対しては、振り返りもしなかった。着地点から僅かに身体を外し、黒い地面へ脚が触れた瞬間、その支えになった部分だけを斬る。
体勢を失った身体の向こうから、残る二体が来る。その動きも、途中までは正しかった。
一体が刀へ注意を向け、もう一体が鞘の側へ回る。これまで使われたものを同時に警戒し、どちらが動いても対応できる位置を選んでいる。
怜司は、そのどちらも使わなかった。
足元に倒れかけていた個体の身体を蹴る。
黒い身体が横へ滑り、二体の間へ入った。ほんの一瞬だけ互いの姿が見えなくなる。
その間に怜司が距離を詰めた。
次に黒幕が見た時には、一体が胴から崩れ、もう一体の首元を刀が通り抜けていた。
全てが倒れるまでに、長い時間はかからなかった。
怜司は刀身を一度だけ振り、付着したものを落とす。それを鞘へ収めると、先ほどまでと変わらない歩幅で再び丘へ向かった。
新しく与えた身体は機能していた。
共有された情報も使われている。選ばれた攻撃も、それまでより怜司への対策として正しい。
その一つ一つが間違っているのなら、黒幕にも次に直す場所が分かった。
だが、怜司は正しく対策された動きを見てから、それまで使っていなかった答えを選んでいる。
何かを封じれば、その何かに固執するのではなく、残っている別の方法を使う。
それも封じれば、また変える。
怜司にとっては、先ほどまで自分が何をしていたかさえ、次に同じことをする理由にはならないらしい。
黒幕の視線が、その後ろへ残された新しい人型へ向いた。
自ら作った。自ら必要な情報を与えた。自ら、この人間を止めるために変えた。
それでも、その身体は一体として怜司の歩みを後ろへ戻せていない。
黒幕は再び怜司を見る。
問いかけていた時と、同じ顔だった。
理解しようとしていた時とも、大きく変わってはいない。
怒りを見せるわけでもなく、何かを訴えるわけでもないまま、ただこちらへ近づいてくる。
先ほどまで黒幕の中にあったのは、自分を最後まで理解したこの人間なら、まだ自分を受け入れる可能性があるのではないかという期待だった。
その期待は消えていない。
それなのに、近づいてくる怜司を見ているうちに、期待とは別のものが少しずつ大きくなっていた。
何をされるのかが分からないのではない。何を考えて近づいているのかが、分からない。
理解されたはずなのに、自分の方からは、この人間を置く場所が見つからない。
怜司がまた一歩、距離を縮めた。
黒幕は無意識に身体を後ろへ引き、そこで初めて、背中が玉座へ触れていることに気づいた。
◇
「……なんか、減ったな」
彰人が呟いた。
目の前にいた人型の拳を外へ流し、そのまま懐へ入る。掌底が胸へ触れた瞬間、相手の身体が大きく後方へ飛んだ。
着地させない。踏み込んだ彰人が追いつき、倒れかけた身体へもう一撃を入れる。
地面へ落ちた人型は動かなかった。
「数?」
少し離れた場所から優斗の声が届く。
「いや、それもやけど……」
彰人は周囲を見た。
戦闘が始まってから、かなりの数を倒している。
五百ほどいた人型が減っていること自体は不思議ではない。
だが、それだけではなかった。
「弱なってへん?」
その言葉に答えるより早く、優斗の手から光が放たれた。
一本だったものが空中で分かれ、離れた場所にいた三体へそれぞれ向かう。
敵も避けた。避けようとはした。
一本目から逃れた先へ二本目が曲がり、さらに身体を捻ったところへ三本目が入る。
先ほどまでなら、もう一段階何かをしていた。
他の個体が射線へ入り、あるいは優斗自身へ攻撃を仕掛けて狙いを逸らす。
今は、それがない。
「……そうかも」
優斗が倒れた三体を見ながら答えた。
戦場の別の場所では、桜子の大盾が人型をまとめて押し潰していた。
正面から受け止めるための盾ではない。
展開された障壁ごと前へ進み、逃げようとしたものまで壁際へ追い込むように押していく。
抵抗が、先ほどより軽い。
桜子自身もそれには気づいていた。
「なんやろ……」
盾の向こうから伝わる力が弱い。
個体そのものが急に脆くなったわけではない。
動きの組み立てが粗くなっている。
連携に使われていた何かが、別の場所へ割かれている。
そう考えた時だった。
少し離れた場所で、見慣れない人型が地面から生まれた。
それは桜子たちを見なかった。
一直線に、一つの場所へ向かっていく。
「……怜司?」
桜子が視線を向けた先で、見慣れない人型が怜司へ殺到していた。
それまで自分たちが相手にしていたものとは、明らかに形が違う。
動きも速く、一体ごとの攻撃が怜司の刀や鞘を意識して組み立てられていることは、離れた場所からでも分かった。
それでも、怜司は止まっていない。
近づいてきた一体を斬り、別の一体の攻撃を外し、必要なら刀以外の方法も使う。全てを片付ければ、また丘へ向かって歩き始める。
何か特別なことをしているようには見えなかった。だから桜子も、最初はその光景を確認しただけだった。
怜司なら大丈夫だろう。
そう判断して、自分の前へ意識を戻そうとする。
その少し前で、彰人も同じ方向を見ていた。
新しく生まれた人型が怜司へ集中していることに気づき、何となく様子を確認しただけだった。
兄貴なら問題ない。
彰人の中にも、最初に浮かんだのはそれだった。
実際、問題は起きていない。
怜司は攻撃を受けていない。追い詰められている様子もなく、丘の上にいる存在との距離だけが少しずつ縮まっている。
それなのに、視線を戻せなかった。理由を探そうとするより先に、背中を何かが這い上がる。
身体が覚えていた。
今目の前にいる怜司とは違う。
白金の光もない。獅子の姿もない。神装すらしていない。
それでも、以前一度だけ見た光景が、彰人の意思とは関係なく記憶の奥から浮かんできた。
白金に包まれた怜司。
自分へ向けられた力ではなかった。敵意を向けられたこともない。
それどころか、怜司本人は普段と大して変わっていなかった。
なのに、その場に立っているだけで身体の奥に残った感覚だけは、今でも消えていない。
彰人は、目の前を歩いている怜司と、その記憶を重ねようとした。
まだ何も同じではない。
それなのに身体だけが、同じものの続きを見つけたように強張っている。
「……あかん」
声に出してから、自分でも何を指しているのか分からなかった。
怜司が危ないわけではない。
自分たちが襲われているわけでもない。
何が起きるのかも説明できない。
ただ、このまま悠長に戦っていてはいけないという感覚だけが、理由より先に身体を動かそうとしていた。
彰人は一度だけ唾を飲み込み、目の前に残っている人型へ向き直った。
そのまま、何かを考えるよりも前に、近くにいた二体へ向かって走りだしていた。
「ちょ、彰人?」
智希の声が飛ぶ。
返事をする暇が惜しかった。
一体目の攻撃を受けずに潜り込み、身体の中心へ拳を打ち込む。倒れる前に次へ向かい、蹴り上げた脚をそのまま回す。
踵が側頭部へ入った。
着地と同時に、もう次を探す。
「彰人!」
「全部倒すで!」
「いや、それは最初からそうだけど!」
「ええから急げ!」
智希は、突然動きを変えた彰人を目で追った。
それまでの彰人も手を抜いていたわけではない。一体ずつ確実に仕留め、次へ移る。その繰り返しは他の者と変わらなかった。
だが、今は明らかに違う。
倒した相手を確認する時間さえ惜しむように次へ入り、拳が届けば拳を、間合いが合わなければ蹴りを使う。
相手の攻撃を受けてから返すこともせず、動き出す前に間合いそのものを潰していた。
「彰人!」
智希が呼んでも、彰人は振り返らない。
「全部倒すで!」
返ってきたのは、それだけだった。
「いや、それは最初からそうだけど!」
「ええから急げ!」
いつもなら、そこへ余計な一言が続く。
智希が何か言えば彰人が返し、さらに言い返せば、戦っている最中でも二言三言は続く。
それがないことの方が、声を荒げていることより不自然だった。
桜子も、その違和感に気づいた。彰人が焦っている。
目の前の敵が強くなったからではない。むしろ、こちらを相手にしている人型は先ほどより連携が粗くなり、押し返すために必要な力も減っている。
なら、彰人が急ぐ理由は別にある。
桜子は盾を構えたまま、彰人が一度だけ見ていた方向へ視線を向けた。
そこに怜司がいた。
新しい人型を斬り、倒れた身体の脇を通り過ぎる。また別の一体が来る。
怜司はそれを避け、刀を使い、また歩く。
それだけだった。
けれど、桜子もすぐに視線を戻すことができなかった。
見覚えがある。
姿ではない。
今の怜司は、まだいつもの姿をしている。
覚えているのは、その先だった。
以前一度だけ目にした、白金を纏った怜司。その時も、自分へ何かをされたわけではない。敵意も向けられていなければ、怜司自身が自分たちを威圧しようとしていたわけでもなかった。
それでも身体は覚えていた。
大盾の取っ手を握る手に、僅かな震えが混じる。
桜子は力を入れ直した。疲れているのだと思おうとした。
五百体近い敵を相手に戦い続けている。腕に疲労が残っていても不思議ではない。
だが、握り直しても震えは消えなかった。
視線を怜司から外すと少しだけ弱まり、もう一度向ければ、指先から腕へ戻ってくる。
そこでようやく、彰人が何を見たのかを理解した。
「……彰人」
呼びかけると、彰人が戦いながら僅かにこちらを見る。
「見たん?」
「見た」
二人の間では、それ以上の説明を必要としなかった。
何を見たのか。なぜ急がなければならないのか。
二人とも、それを言葉にはできなかった。
以前の神装を知っているからこそ、その記憶と今の怜司の間に何かが繋がり始めていることだけは分かる。
だが、何が起きるのかを尋ねられても答えは持っていない。
だから、今できることを先に終わらせる。
彰人はそれ以上桜子へ言葉を返さず、次の人型へ踏み込んだ。
桜子も大盾を構え直す。
手の震えはまだ僅かに残っていたが、それを止めることへ意識を使うのをやめた。前方へ障壁を広げ、複数の人型をまとめて押し始める。
それまでより広い範囲を一度に動かしたことで、人型同士の逃げ道が消えた。押し返そうとする力は弱く、桜子が一歩進むたびに、そのまま後ろへ追いやられていく。
「はよ終わらすで!」
桜子の声に、周囲の者たちも二人の変化をはっきりと意識した。
洋一は雷を纏わせた腕で一体を弾きながら、二人の位置を確認する。
彰人も桜子も、普段から戦闘中に無意味な行動を取る人間ではない。
特に今は、既存の人型が弱くなり始めている。焦らなければ突破される状況でもなければ、誰かが追い詰められているわけでもない。
それでも二人が同時に、残っている敵を一刻も早く片付けようとしている。
「彰人さん、何がありました?」
「あと!」
彰人は一体の懐へ入りながら答えた。拳を身体の中心へ入れ、崩れた相手を横へ流して次を見る。
「説明あとや! 今は全部潰す!」
洋一はすぐには返事をしなかった。
理由を聞くことはできる。
だが、彰人の様子を見る限り、その説明自体に時間を使いたくないらしい。
桜子も否定しない。
この二人が、同じものを見て、同じ判断をしている。
それなら、詳細を聞いてから動く必要はなかった。
「分かりました」
洋一は戦場へ視線を戻した。
残っている人型の位置を確認し、それぞれと戦っている仲間の配置を見る。
何が起きるのかは分からない。
ただ、二人が急ぐだけの理由があるのなら、まずは自由に動ける状態を作るべきだった。
「了解っす!」
恭平の身体が低く沈んだ。
次の瞬間、獣のような加速で人型の間へ入る。
爪が一体を裂き、踏み込んだ足を軸に身体を回す。高く上がった脚が別の一体を捉え、そのまま回転を止めずに次へ繋げた。
行人も動く。優斗の矢が数を増やす。
良澄の力が敵の内部へ干渉し、洋一の雷と真空が空いた場所を埋める。
清隆の罠は、もう誘い込むことを待たなかった。
人型が逃げようとする先へ先回りするように展開され、動きを奪う。
雅史がそこへ踏み込む。
智臣の周囲では、空気そのものが重くなったように敵の身体が沈んでいく。
戦場の速度が変わった。
それまで一体ずつ確実に処理していた十一人が、残っている数そのものを削ることへ意識を切り替えた。
黒幕が怜司へ力を集中させたことで、人型同士の連携はさらに粗くなっている。
結果は早かった。
数分も経たないうちに、黒い大地の上で動いている既存の人型はいなくなった。
最後の一体が倒れたが、誰もすぐには構えを解かなかった。
荒くなった呼吸を整えながら、十一人の視線が同じ方向へ向く。
まだ、戦っている者がいる。
「……なんやねん、あれ」
彰人が低く呟いた。
見たことのない人型が、今も生まれ続けていた。
そして、その全てが怜司だけを襲っている。
◇
黒幕は、既に玉座へ深く腰掛けてはいなかった。
身体はいつの間にか前へ傾き、肘掛けを掴む指には、それまで必要としなかった力が入っている。
新しく生み出したものも、怜司を止められなかった。
これまでに得た情報は使った。身体を変え、動きを変え、怜司が見せた方法を一つずつ封じるように戦わせた。
それでも結果として残ったのは、黒い大地へ倒れた新しい身体と、先ほどより近い場所に立つ怜司だった。
何が足りないのか。
その問いを向ける先が、少しずつ失われていく。
作ったものが弱いのなら、強くすればいい。動きが悪いのなら、より多くの情報を与えればいい。
それでも足りないのなら、自分自身の力を使えばいい。
そう考えることはできた。
なのに、そのどれかを選ぶたび、怜司との距離だけが短くなっている。
『なぜだ』
黒幕の口から漏れた声は、怜司へ答えを求めるというより、自分の中に生じた理解できないものを確かめようとする響きを帯びていた。
怜司は一度だけ丘の上を見る。聞こえてはいる。それでも、足を止めて答えることはなかった。
先ほどまでは逆だった。
問いを投げていたのは怜司だった。黒幕はそれに答え、自分が何を望み、何を必要とし、何を許容できるのかを伝えていた。
怜司は聞いた。否定せず、途中で遮ることもなく、自分の言葉を最後まで受け取った。
そして理解した。理解したはずだった。
だからこそ、黒幕には今の怜司が分からない。
理解された後に何が続くのか。その答えを自分は知っていると思っていた。
受け入れられるか、拒絶されるか。そのどちらかであるはずだった。
目の前の人間は、そのどちらにも見えない。
怜司は自分を否定していない。怒りも見せない。
自分の考えを変えろとも言わなかった。
ただ、問いを終えた。そして、こちらへ歩いている。
黒幕は立ち上がった。
身体を覆う衣の内側へ手を入れ、そこから一枚の長い布を取り出す。
黒に近い色をしたそれは、広げた時点ではただの衣にも見えた。だが、表面には細かな線が幾重にも刻まれ、その一つ一つが黒幕の手に反応して淡い光を持ち始める。
肩へ掛ける。布が身体へ触れた途端、それまで周囲へ薄く広がっていた力が一斉に黒幕へ集まった。
離れた場所で残る人型を処理していた十一人も、その変化には気づいた。
「……また何かした?」
智希が丘を見上げる。
黒幕を覆う衣の線が次々に光り、周囲の空気まで輪郭を持ったように揺れている。
先ほどまで感じていたものとは、明らかに密度が違った。
清隆も一度だけそちらを見る。
黒幕の周囲へ集まった力が、どこへ向けられるのかは確認するまでもなかった。
怜司以外を見ていない。十一人が戦っていることも、既に大半の人型が倒されていることも、黒幕の意識からは外れ始めていた。
丘の上に巨大な術式が開いた。一つではない。
最初に生じた円を中心として、その外側へ別の線が伸びる。そこへ新たな術式が重なり、さらにその外へ広がっていく。
灰色だった空が、次第にその光で埋まっていった。戦場全体を覆えるほどの規模だった。
だが、その広さに反して、術式の中心が向いている場所は一つしかない。
怜司が足を止めた。空を見上げる。それだけだった。
防ぐために刀を抜く様子もない。逃げようともしない。
黒幕の手が動いた。空を覆っていた光が、一点へ収束した。最初の一撃が黒い大地へ落ちる。
直後に、二つ目、三つ目が続いた。
一つ一つが広範囲を破壊するための力を持ちながら、それら全てが怜司一人の立つ場所へ重なっていく。
地面が捲れ上がった。
衝撃が離れた場所まで届き、十一人の服や髪を大きく揺らす。巻き上げられた黒い土が空へ広がり、怜司の姿が見えなくなった。
「怜司さん……!」
恭平が思わず一歩を踏み出しかける。
その横で、彰人は動かなかった。桜子も同じだった。
二人とも、攻撃が集中している場所だけを見ている。
助けに行くべきだと思っていないわけではない。
それより先に、身体のどこかが止めている。
やがて、連続していた光が途切れ、爆発によって巻き上げられたものが、少しずつ地面へ戻り始める。
開いた視界の中で、黒く抉れた地面の中央に、怜司がいた。
立っている場所だけが残されたわけではない。足元も周囲と同じように削られ、地形そのものが変わっている。
その中に、怜司だけが何事もなかったように立っていた。刀は鞘に収まったまま、何かを防いだ姿勢でもない。
服にも目立った乱れはなく、本人は自分の肩へ付着していた黒い土を見つけると、手で二度ほど払った。
「……何したん、あいつ」
智希の声は、問いかけというより確認に近かった。
答えられる者はいない。
怜司自身も、何かをしたようには見えなかった。
土を払い終えると、怜司は丘を見た。
ほんの僅かに眉が寄る。
それが攻撃されたことへの怒りなのか、何度も同じことをされる面倒さなのか、離れた場所からでは判別できなかった。
黒幕には、その小さな変化さえ別のものに見えた。
術式が再び開く。先ほどより速い。
黒幕が同じ結果を待てなくなっていることが、その組み立て方からも分かるほどだった。
怜司は空を見なかった。右手を刀へ添える。
丘の上までは、まだかなりの距離がある。
その距離を詰めようともせず、鞘から刀を抜いた。
振ったのは一度だった。刃が黒幕へ届いたようには見えない。衝撃が走ったわけでもなかった。
それでも、黒幕の肩を覆っていた衣の中央に細い線が生まれた。
一本だった線が枝分かれする。
表面を走っていた術式を横切り、さらに別の線へ触れる。
光が一つ消えた。その隣も消える。
黒幕が衣へ視線を落とした時には、既に全体へ細かな亀裂が広がっていた。
次の瞬間、衣は形を保てなくなった。
細かな欠片となった布が肩から零れ落ち、その一つ一つが地面へ届く前に光を失っていく。
同時に、黒幕へ集まっていた力も散り、空に作られかけていた術式が崩れる。
黒幕は、何もなくなった自分の肩へ手を触れた。
それから顔を上げる。
怜司はもう刀を鞘へ戻していた。
先ほどまでと変わらない歩幅で、また丘へ向かっている。
黒幕の足が後ろへ動いた。脹脛が玉座へ触れる。
そこでようやく、自分が怜司から距離を取ろうとしたことに気づいた。
『来るな』
黒幕の声が、初めて明確に怜司を拒んだ。
先ほどまでの問いとは違う。
理解しようとするものでも、説明するものでもない。
近づいてほしくない。その一つだけが、言葉になっていた。
怜司は歩みを止めなかった。
それを見た黒幕が、ひきつった表情のまま震える手を上げる。
それまでなら、何を作るのか、どう動かすのかを選んでから力を使っていた。
今は違った。黒い大地が、怜司の周囲で一斉に盛り上がる。
形を整える時間さえ惜しむように、そこから次々と人型が押し出された。
腕の長さも、脚の形も揃っていない。
怜司へ届くために必要な部分だけを持った身体が、生まれた直後から走り始める。
一体が斬られる。
その身体が地面へ落ちる前に、次が怜司へ組みついた。
黒幕の意識が触れる。人型の身体の内側に蓄えられていた力が、一気に膨れ上がった。
爆発が怜司を包む。その光が消える前に、別の個体が中へ飛び込む。
また爆発する。空にも術式が開き、地上で起きている爆発へ重ねるように光が落ちた。
黒幕はもう、一つの方法が通用するかどうかを確認していなかった。
人型を作る。向かわせる。爆発させる。魔法を落とす。
その全てを同時に続けている。怜司の姿が何度も光の中へ消えた。
それでも、次に見えた時には先ほどより丘へ近づいている。
走ってはいない。急いでもいない。攻撃の合間を探しているようにも見えない。
近づいたものを斬り、避けられるものは身体をずらし、避ける必要のないものはそのまま受けている。
その結果として、歩みだけが続いていた。
黒幕がさらに力を集める。自分の中に残っているものを、怜司を止めるという一つの目的へ傾けていく。
その変化に応じて、周囲の人型がさらに不安定になった。
遠くで十一人と戦っていたものは既にほとんど残っていない。
新しく生まれるものも、怜司だけへ向かっている。それでも足りない。
また人型を作る。また爆発させる。その繰り返しの中で、最初に変化へ気づいたのは怜司ではなかった。
彰人が、息を止めた。爆発の光が途切れた一瞬。
その向こうに見えた怜司の足元へ、別の色が混じっていた。
黒でも、魔法の光でもない。
淡い白金。
ほんの僅かだった。
次の爆発が起これば見失う程度の光が、怜司の靴の周囲に滲んでいる。
「……あかん」
先ほどと同じ言葉が、今度はさらに小さく漏れた。
桜子も気づいた。
大盾を握る手へ戻りかけていた震えが、逆に消える。
身体が緊張を通り越して、余計な動きを止めたようだった。
「彰人」
「分かってる」
二人の声は、周囲の爆発に紛れそうなほど小さい。
怜司本人は、周りの様子に目もくれず、ただ歩いている。
白金の光は、足元から広がろうとはしなかった。強くもならない。
ただ、そこにある。
人型が怜司へ飛び込む。刀が動く。身体が崩れる。
その向こうに、先ほどまではなかったものが立っていた。
白金の獅子。
現れた瞬間は、誰にも分からなかった。
光が集まって形を作ったようにも見えない。何かが降りてきたわけでもない。
爆発によって怜司の姿が隠れ、次に視界が開いた時には、その背後にアルガスがいた。
大きな身体を黒い大地へ置き、怜司と同じ方向を見ている。
黒幕の攻撃は続いていた。
光が落ちる。人型が飛び込む。爆発が起こる。
アルガスは動かず、怜司もすぐには振り返らなかった。
『怜司』
低い声が届いた。
怜司が歩きながら僅かに顔を横へ向ける。
「ん?」
『……そうか』
何に納得したのか、怜司には分からなかった。
「何が?」
アルガスはすぐには答えない。
その間にも、人型が一体近づいた。
怜司が刀を抜き、一度振り、鞘へ戻す。
倒れた身体の脇を通りながら、もう一度尋ねた。
「どうしたん?」
『少し、出る』
「出てるやん」
『そうではない』
「何が?」
怜司がようやく振り返った。
アルガスはすぐ後ろにいる。
いつもと同じ白金の獅子に見える。
ただ、その輪郭の端から、細かな光がほどけ始めていた。
「……アルガス?」
『構わず進め』
「いや、別にええけど」
怜司は本当にそれだけで納得したらしい。前へ向き直る。
その間にも、アルガスの輪郭は少しずつ光へ変わっていた。
前脚から肩へ。鬣へ。
白金の粒子となったものが空へ散ることはなく、怜司の背へ向かって流れていく。
触れた光が、服の上へ薄く残った。
まだ装甲にはならない。次の光が重なる。
さらにその上へ別の光が重なり、いつから形になったのか分からないほど自然に、怜司の胸元へ白いものが生まれていた。
黒幕はそれを見ていた。
何が起きているのかは分からない。
だが、止めなければならないという感覚だけが強くなる。
空へ新しい術式が生まれた。完成を待たずに放ったその光が怜司へ落ちる。
直撃した。が、白金の光は消えなかった。
怜司も足を止めない。
肩へ白い装甲が増えている。腕へ黒と金の線が走っている。
腰へ形が生まれ、脚を覆うものへ繋がっていく。
一つずつ装着されたようには見えなかった。
何かが追加されているというより、そこにあるべき形が少しずつ見えるようになっていく。
アルガスの身体は、それと反対に薄くなっていた。
獅子の形を失った光が怜司へ重なるほど、外に残っている輪郭が小さくなる。
『怜司』
「ん?」
『お前は、それでよい』
怜司の足が一度だけ止まった。
振り返ろうとした時には、アルガスの顔だけがまだ輪郭を残していた。
「何の話?」
獅子の目が僅かに細くなる。
『分からぬなら、それでもよい』
「なんやねん」
怜司が眉を寄せる。
アルガスはそれ以上答えなかった。
最後に残った輪郭が白金の光へほどけ、怜司へ重なる。
何かが爆発したわけではない。力が吹き荒れたわけでもない。地面も揺れなかった。
黒幕が攻撃を止めたわけでもなく、人型はまだ怜司へ向かっている。
ただ、その攻撃の間を歩いていた怜司の姿が、いつの間にか変わっていた。
白を基調とした装甲、そこへ走る黒と金。
手には、先ほどまでと変わらない刀がある。
白い鞘。白い柄。鈍い金色を持つ角張った鍔。
神装が完成した瞬間を示すものは、何もなかった。
強いて言うなら、もうアルガスが外にはいない。
そして、先ほどまで普段の姿で歩いていたはずの怜司が、何事もなかったように白金を纏っている。
それだけだった。
彰人は、その姿を最後まで見届けなかった。
完成したと理解した瞬間には、既に身体が境界の方を向いていた。
「兄貴ぃ!」
彰人の声が、まだ戦場に残っていた爆発音を越えて響いた。
呼ばれた怜司が振り返る。けれど彰人は、怜司の返事を待っていなかった。
白金の光が収まり、そこに現れた姿を確認した時点で、もう十分だった。以前に見たものと同じなのか、それとも何かが違うのか。そんなことを確かめる気にはなれない。
怜司が何かをしようとしているようには見えなかった。
怒っているわけでもない。自分たちへ力を向けたわけでもない。
むしろ、そこだけを見ればいつもの怜司だった。
だからこそ、彰人の身体に残っている感覚は、理屈で押さえ込めるものではなかった。
「全員戻るで!」
叫びながら、彰人は既に境界へ向かっていた。
智希が目を丸くする。
「え、なんで?」
「ええから! 今すぐ戻る!」
「いや、でもニイさんが――」
「兄貴はええ!」
「よくないでしょ!」
言い返しながらも、智希は彰人の顔を見て足を止めた。
いつもの勢い任せではない。ふざけてもいない。
説明する言葉を持っていないまま、本気で急いでいる。
その横を桜子が通り過ぎた。
彼女もまた、怜司を置いていくことへの迷いがないわけではなかった。幼い頃から知っている相手を、何が起こるのかも分からない場所へ一人残す。それだけなら、むしろ逆の判断をしていたかもしれない。
けれど今は、残ることの方に意味を見つけられなかった。
怜司を助けるために残るのではない。
あの状態の怜司に、自分たちが何かをしてやれるとも思えない。
そして何より、身体の奥に残る感覚が、ここに居続けることを拒んでいる。
「洋一、はよ!」
桜子の声を受け、洋一は神装した怜司と二人を交互に見た。
理由はまだ聞いていない。それでも、戦闘中から彰人と桜子が同じものを警戒していたことは見ている。
その二人が、神装を確認した瞬間に揃って撤退を選んだ。
判断材料としては、それで十分だった。
「全員、境界へ戻ります。急いでください」
「怜司さん、残してっすか?」
恭平が戸惑いを隠さず尋ねる。
洋一が答えるより先に、彰人が振り返った。
「恭平、今はええから来い!」
「でも――」
「あとで説明する! 俺も説明できるか知らんけど!」
「説明できないんすか!?」
「できたら最初からしてるわ!」
それでも彰人は止まらない。
普段なら突っ込みを返していた智希も、今はその後を追い始めていた。
理由が分からなくても、彰人と桜子が揃ってここまで急ぐことの方が異常だった。
他の者たちも同じだった。
誰か一人の直感だけなら確認したかもしれない。だが二人が同時に同じものを見て、同じ判断をしている。
しかも二人とも、以前の怜司の神装を知っている。
それなら、確認する場所はここでなくてもいい。
雅史が境界へ向かいながら、一度だけ背後を見る。
「……怜司、本当に大丈夫なのかな」
「たぶん、心配するとこ逆やと思うで」
桜子の返事に、雅史は一瞬だけ考えた。
「……そっちなんだ」
「うちらもよう分からんねん」
それ以上は聞かなかった。
境界までの距離は長くない。
先に彰人と智希が入り、続いて桜子が抜ける。
恭平はまだ納得しきれない顔をしながら行人と並んで走り、優斗もその後へ続いた。
そこで優斗が、頭上にあるものへ気づく。
「清隆さん、カメラ」
清隆が足を緩めずに振り返った。
浮遊式のカメラは、こちらについて来ていない。
設定された撮影対象を追ったまま、神装した怜司の近くに残っている。
「置いてく?」
「そのままでいい」
「でも、回収するなら今じゃない?」
清隆がもう一度だけカメラを見る。
その視線が、すぐ下にいる怜司へ移った。
白金を纏ったまま、怜司は既に丘へ向き直っている。
清隆は一秒ほど黙った。
「今、あそこ行きたくない」
「清隆さんまで!?」
優斗が珍しく声を上げた。
「機材より俺の方が高い」
「比較するとこそこ?」
「たぶん」
「たぶんなんだ……」
会話をしながらも、二人の足は止まっていない。
最後まで残っていた洋一は、境界の手前で人数を確認した。
怜司を除く十一人。全員いる。
先ほどまでなら、自分も怜司のところへ戻るべきか考えたかもしれない。
だが今は、彰人と桜子の判断を覆すだけの材料を持っていなかった。
ならば、まず十一人を向こうへ戻す。
境界へ入る直前、洋一は一度だけ振り返った。
灰色の空。黒い大地。
その中で、白金を纏った怜司だけが妙にはっきりと見える。
アルガスの姿は、もうどこにもない。
神獣は既に怜司の内へ重なり、その姿を神装へ変えている。
怜司は十一人が退いたことを確かめようともせず、丘の上だけを見ていた。
そして、その先。
玉座の前に立つ存在もまた、神装した怜司から視線を外せずにいた。
◇
黒幕は、近づいてくる怜司を見ていた。
白金の姿へ変わった。それは分かる。
先ほどまでとは比べものにならないほど大きな力を持っていることも、理解できないわけではない。
力には大小がある。自分より強いものが存在することも、可能性としてなら考えられる。
ならば、それだけなら恐れる理由にはならなかった。
より強いものを作る。取り込む。性質を変える。数を増やす。足りなければ、さらに別の方法を選ぶ。
黒幕はそうして存在してきた。
それなのに、目の前の人間を前にすると、そのどれを選んでも答えになるようには思えなかった。
怜司が歩く。黒幕は人型を生み出した。
今までに得た情報を使い、神装する前の怜司を止められなかったものより、さらに多くの力を与える。
黒い大地から生まれた身体が走った。
怜司は刀を抜く。銀色が一度だけ通り、人型が崩れた。
それだけだった。
白金を纏ったからといって、怜司の動きが大きく変わったわけではない。
力を見せつけようともしない。何かを宣言することもない。
黒幕へ、自分がどれほど強いのかを理解させようとすらしていない。
ただ、歩いてくる。
それが、黒幕には分からなかった。
『来るな』
口から出た言葉に、自分自身が僅かに遅れて気づく。
命令ではなかった。止めるための方法を選んだ結果でもない。
ただ、近づいてほしくないと思った。
その感覚が先にあり、言葉が後から形になった。
怜司は止まらない。
『私は存在する』
返事はなかった。
黒幕は、自分でもなぜそんなことを伝えたのか分からなかった。
先ほどまでの会話で、既に伝えている。怜司も理解した。
自分が存在し続けることを望んでいることも、そのためなら他の存在を使い、失い、必要なら切り捨てることも。
全て聞いた。そのうえで怜司は、自分を否定しなかった。
『存在し続ける』
だから、もう一度伝える。
今度こそ、何か別の答えが返ってくることを期待するように。
『そのために――』
続く言葉が出なかった。
いつの間にか、怜司が丘を上りきっていた。
少し離れていたはずの白金が、目の前にある。
刀は鞘へ収まっている。柄に手を掛けてもいない。ただ立っている。
黒幕は、その顔を見上げた。
怒りを探したが見つからない、憎しみも見当たらない。
自分を消そうという明確な意思さえ、表情からは見つけられなかった。
そこで黒幕は、ようやく別の問いを持った。
なぜ…なぜ、この人間はここまで来た。
怜司は自分を理解した。理解したからこそ受け入れるのだと、黒幕はどこかで考えていた。
あるいは受け入れられないのなら、否定するのだと思っていた。
間違っている。変われ。やめろ。
そう言われるのなら分かる。その時は拒めばいい。
自分は自分のまま存在すると答えればいい。
だが怜司は、一度もそれを求めなかった。
黒幕は、先ほどまで交わしていた言葉を一つずつ思い返した。
怜司が尋ねたこと。自分が答えたこと。そのたびに怜司が考え、また次を尋ねたこと。
あれは、自分を変えるための問いではなかった。
説得するためでもない。自分という存在が、どこまでなら他と共に在れるのか。
どこまで行けば、別の存在を残せなくなるのか。
怜司は、それを最後まで確かめていた。
そして自分は答えた。譲らない。変わらない。自分が存在するためなら、他を失うことも受け入れる。
その答えまで、怜司は否定せずに受け取った。
黒幕の視線が、初めて怜司の目から外れた。
白金の装甲を見る。鞘に収められた刀を見る。また顔へ戻る。
そこでようやく、繋がった。
この人間は、自分を理解できなかったのではない。
理解したから、ここにいる。自分が譲らないことも理解した。それを変えようとしなかった。
そして同時に、自分を受け入れれば、自分によって失われるものを受け入れられなくなることも理解した。
だから、どちらかを嘘にしなかった。
自分を理解したまま。自分が自分であることを認めたまま、それでも共には在れないという答えまで、受け取った。
黒幕は、怜司を見た。
今度は、先ほどまでとは違って見えた。
分からないのではない。分かってしまった。
この人間は、自分を拒絶するために理解したのではない。
最後まで理解した結果として、自分とは相容れないという事実を、そのまま受け入れている。
自分に変われとは言わない。自分も変わらない。そこには、黒幕が差し込めるものが何もなかった。
右手の指先が、薄くなった。
黒幕は気づかなかった。視線はまだ怜司へ向いている。
ようやく理解できた目の前の人間を、理解したことで生まれた恐怖ごと見つめていた。
指先の輪郭が、もう一度揺らぐ。
そこで初めて、自分の身体へ視線を落とした。
『――』
右手の先が消えていた。
斬られてはいない。砕かれてもいない。何かが触れた感覚もない。
ただ、そこにあったはずの部分がなくなっている。
消失は指から掌へ進んだ。
黒幕が腕を引くが、消失は止まらない。
初めて、怜司ではなく自分自身へ意識を集中させる。
何が起きているのか、どこから力を受けのか。
何をされたのか、探しても、何も見つからない。
『何をした』
怜司が首を傾げた。
「何もしてへんけど」
その答えを、黒幕は疑おうとした。
だが、疑うためのものが見つからなかった。
刀は抜かれていない。触れられてもいない。何かがこちらへ向けられた形跡もない。
何より、目の前の人間は、自分が何かをしたという認識そのものを持っていない。
先ほどまで理解しようとしていたからこそ、それが分かってしまう。
怜司は、本当に何もしていない。
ならば、なぜ自分が消えているのか。そこだけが、理解できなかった。
消失は腕を越え、肩へ届く。反対の手で玉座へ触れようとするが指が届く前に、その手も輪郭を失い始めた。
黒幕は再び怜司を見る。
もう、目の前の人間が何者なのかを理解しようとはしなかった。
それについては、先ほど答えへ届いている。
分からないのは、自分に起きていることだけだった。
『私は――』
存在する。
そう続けるはずだった。
先ほどまで何度も口にした、自分自身を支える答え。
だが声になる前に、胸の一部が消えた。
言葉もそこで途切れる。
顔の端が薄くなる。
最後まで残った視線が、怜司へ向けられた。
怜司は動かなかった。
刀へ手を掛けることもなく、消えていく黒幕をただ見ている。
その表情には、勝ったという喜びもなければ、相手が消えることへの満足もなかった。
自分が最後まで理解した存在が、目の前からいなくなる。
その事実を確認するように見ていた。
やがて、視線も消え、玉座の前から気配がなくなる。
同時に、黒い大地の上に残っていた人型が動きを止めた。
途中まで形を作っていたものは崩れ、新しく大地が盛り上がることもない。
静かになった。
灰色の空も、黒い大地も変わらない。
先ほどまでここに何かが存在していた痕跡だけが、そこから抜け落ちたようだった。
怜司はしばらく、誰もいなくなった玉座を見ていた。
「……終わった?」
返事はない。
怜司は少し待った。
そこでようやく、アルガスがもう外にはいないことを思い出したように、自分の胸元へ視線を落とす。
「終わったんかな」
『おそらくな』
低い声が、神装の内側から返ってきた。
「おるんやったら返事してや」
『いる』
「いや、そういう意味ちゃうねんけど」
アルガスから、それ以上の返事はなかった。
怜司も特に追及しない。
もう一度周囲を見回し、人型が動いていないことを確認する。
その時、少し離れた場所で浮いたままになっているものが目に入った。
「あ」
カメラだった。
十一人が撤収しても、清隆が残した浮遊式カメラだけは律儀に仕事を続けている。
レンズは、怜司へ向いたままだった。
怜司はそれを見て、少し考えた。
向こうで誰が見ているのかまで思い出したらしい。
神装を解く様子もなく、片手を上げた。
二本の指を立てる。
白金を纏い、つい先ほどまで黒幕がいた場所を背にして。
怜司は、カメラへ向かって普通にVサインをした。
◇
中継室では、誰もすぐには声を出せなかった。
壁際に置かれた装置が低い音を立て、その上に展開された映像だけが動いている。
白金の神装を纏った怜司が、こちらへ二本の指を立てている。
その背後には空になった玉座があり、さらに向こうには灰色の空が広がっていた。
つい先ほどまで、そこには確かに存在がいた。
言葉を交わし、人型を生み出し、十二人へ攻撃を向けていた。
それが消えた。
何かに貫かれたわけでも、斬られたわけでもない。
怜司は触れてすらいない。
少なくとも、映像を見ていた者たちにはそうとしか見えなかった。
そして、その当人が今、何事もなかったようにVサインをしている。
『……終わった、のか?』
最初に声を出したのはガルディオだった。
確認するような問いだったが、それに答えられる者はいない。
アルディウスは映像から目を離さず、片手を顎へ添えていた。
『少なくとも、あの者はそう判断しているように見える』
『でも……』
セレスティアの声が途切れる。
彼女は、消失が始まった瞬間から何度も同じものを探していた。
魔力の流れ。術式の発動。空間への干渉。
怜司から黒幕へ向けて、何かが移動した痕跡。
どれも見つからない。
『何も、していません』
自分で口にしてから、それでも納得できないように首を振る。
『少なくとも、私には……何かをしたようには見えませんでした』
『私にも見えなかった』
アルディウスが静かに答える。
見落とした可能性は否定できない。
理解できない技術や力であれば、観測できなかっただけかもしれない。
だが、それを前提にしても奇妙だった。
あの存在自身が、怜司へ何をしたのかと尋ねていた。
そして怜司は、何もしていないと答えた。
少なくともアルディウスには、あの返答が虚偽には聞こえなかった。
『では、なぜ消えた』
ガルディオが腕を組む。
その問いに、答える声はなかった。
分からないから答えられない。それだけなら、三人にとって珍しいことではない。
未知の術式も、未知の技術も、これまで幾度となく目にしてきた。
分からないものなら観察し、残されたものを調べ、必要なら仮説を立てればいい。
だが、今しがた起きたものには、その最初の足掛かりさえ見つからなかった。
何かが黒幕へ届いた形跡はない。
怜司が動いた様子もない。
黒幕自身も、何をされたのか理解していなかった。
映像に残っているのは、神装した怜司が近づき、黒幕がその顔を見上げ、言葉を交わしたあとに消え始めたという順序だけだった。
原因だけが、その間から綺麗に抜け落ちている。
アルディウスは何も言わず、もう一度映像へ目を戻した。
その先で、つい先ほどまでの出来事とはまるで関係がないように、怜司がVサインを下ろしている。
空になった玉座へ顔を戻し、周囲を確かめる。
その姿を見ていたセレスティアが、少し迷ってから口を開いた。
『……あの』
二人が彼女を見る。
『怜司さんは、どうしてあの状態でVサインを……?』
今度の沈黙は、先ほどまでとは少し種類が違った。
黒幕が消えた理由は分からない。
だが、こちらは本人へ聞けば分かるかもしれない。
そう考えたところで、今はまだ境界の向こうにいることを三人とも思い出した。
『……無事だと伝えたかったのではないか』
アルディウスが答える。
セレスティアが頬杖を突くようなポーズで、心底分からないといった表情をする。
『そういう問題でしょうか……』
セレスティアは映像の中の怜司を見る。
白金の神装を纏い、その背後には今しがた一つの存在が消えたばかりの空間がある。
それでも本人は、ただ無事を知らせる程度のつもりだったのかもしれない。
少なくとも、あの人間ならやりかねない。
『他に理由が思いつかん』
ガルディオが言う。
セレスティアも少し考えた末、小さく頷いた。
『私もです……』
結局、黒幕が消えた理由も、なぜその直後にVサインなのかも、三人の中では答えが出なかった。
ただし後者についてだけは、本人に聞いても大した答えが返ってこないような気がしていた。
その時、部屋の奥で空間が大きく揺れた。
三人の意識が一斉にそちらへ向く。
清隆とセレスティアが維持している境界。その表面が波打ち、次の瞬間、一人目が勢いよく飛び出してきた。
「っしゃあ!」
彰人だった。
境界を抜けた勢いのまま数歩進み、ようやく足を止める。
すぐ後ろから智希、桜子が続いた。
さらに恭平、行人、優斗。雅史、智臣、良澄、清隆と続き、最後に洋一が境界を越える。
十一人。洋一は振り返ると、無意識に人数を確認していた。
怜司だけがいない。
それは置いてきたのだから当然だったが、全員が揃って境界を越えたことを確認して初めて、肩から僅かに力が抜けた。
戦場にいた時には気づかなかった疲労も、戻ったことで一度に表へ出始めている。
呼吸の荒い者がいる。
神装を維持したまま長時間戦い続けた者もいる。
それでも、十一人とも自分の足で戻ってきた。
そんな彼らを見て、ガルディオが最初に抱いた疑問は、無事かどうかではなかった。
映像には、今も一人残された怜司が映っている。
『……何があった?』
彰人が顔を上げた。
「逃げてきた!」
あまりにも迷いのない返答だった。
アルディウスが「何を言っているのだ」とばかりに、僅かに目を細める。
『それは見れば分かる。なぜだと聞いている』
「兄貴が神装したからや!」
『それも見ていた』
「ほな分かるやろ!」
『分からん』
「なんでやねん!」
彰人は本気で困った顔をした。
アルディウスも、からかっているわけではない。
十一人は怜司に追われたわけではなかった。
攻撃を向けられてもいない。
それどころか、怜司自身は彼らが撤退したことに気づいているのかすら怪しい。
それなのに、十一人は一人残らずこちらへ戻ってきた。
しかも最初に動いた彰人と桜子に限っては、理由を確認してから判断した様子すらなかった。
「うちらも、ちゃんと説明せえ言われたら困んねん」
桜子が息を整えながら言う。
セレスティアは、その言葉と映像の中にいる怜司を交互に見た。
『桜子さんも、危険だと思ったんですか?』
「危険っちゅうか……」
桜子はすぐには続けなかった。
白金を纏った怜司を見る。
こちらへ何かを向けているわけではない。
あの場所にいた時も同じだった。
それでも、身体は先に答えを出した。
「前に一回見てんねん。あれ」
「俺もや」
肩で息をしながら、彰人が続ける。
「せやから、見た瞬間に思ってん。ここおったらアカンって」
『怜司殿が、あなた方へ何かするのか?』
「せえへん」
二人の声が重なった。
即答だった。
危険だから逃げた。
けれど怜司が自分たちへ危害を加えるとは、二人とも微塵も考えていない。
アルディウスの中で、その二つがどうしても繋がらなかった。
『では、なぜ逃げた』
「せやから、それが説明できへんねん!」
彰人が頭を抱える。
「兄貴はいつも通りやねん。たぶん俺らに何かする気もない。怒ってるわけでもない。せやけど、あれはアカンねん!」
「説明になってないよ」
智希が横から言う。
「俺も分かっとるわ!」
「僕、腕掴まれて連れてこられたんだけど」
「お前あそこ残りたかったんか!」
「残りたくはないけど!」
「ほなええやろ!」
「よくない!」
戻ってきた直後まで残っていた緊張が、二人のやり取りで僅かに崩れる。
それでも、彰人が冗談で逃げたわけではないことだけは、その場にいる全員が分かっていた。
洋一は二人を一度見てから、三柱へ向き直る。
「すみません。自分も正確な理由は分かっていません。ただ、彰人と桜子が同時に撤退を選んだので、それに従いました」
『それで十一人全員を?』
「はい」
洋一は頷いた。
彰人と桜子の判断を疑った様子はない。
「二人は以前、怜司の神装を実際に見ています。二人とも同じものを見て、ほぼ同時に同じ判断をしました。なら、理由を確認してから動くより先に退いた方がいいと判断しました」
アルディウスは答えず、もう一度映像を見る。
判断そのものは理解できる。
だが、その根拠になったものだけが理解できない。
映像の中にいる怜司は、相変わらず何もしていなかった。
むしろ、黒幕が消えてからの方が静かだった。
十一人を逃がすほどの何かと、映像の中で普通に立っている青年。
その差だけが埋まらない。
「まあ、実際に何が起きるかは俺も知らないけど」
清隆が映像を見ながら言う。
「でも、彰人と桜子が同時に逃げるなら、カメラより俺を優先した」
「だからカメラ置いてきたんだ……」
優斗も映像へ目を向ける。
そこには、置き去りにされた浮遊式カメラが今も律儀に送り続けている光景が映っている。
「高かったんじゃない?」
「命よりは安い」
「そこは即答なんだね」
清隆にとっては比較するまでもなかったらしい。
境界の向こうでは、怜司がようやくその場を離れようとしていた。
数歩進んだところで、自分の身体へ目を落とす。
白金の装甲を見る。
「アルガス」
その声も、置いてきたカメラが拾った。
『なんだ』
「もうええんちゃう?」
少し間があった。
『そうだな』
解除するための構えはなかった。
神装した時と同じだった。
何か大きな力が弾けることもなく、白金の装甲が少しずつ輪郭を失っていく。
光は外へ散らない。そこにあったものが、あるべき場所へ静かに戻っていくように薄れていく。
最後の白金が消えた時、そこにはいつもの怜司だけが立っていた。
アルガスが外へ姿を現すこともない。
怜司は一度だけ自分の袖を見て、それを軽く払った。
「戻ろ」
誰へ向けたのかも分からない一言を残して、境界へ歩き始める。
その姿を映像で確認した瞬間、彰人の肩から目に見えて力が抜けた。
桜子も、そこで初めて完全に身体の緊張を解いた。
理由は説明できない。
それでも二人にとっては、神装が解けたこと自体が一つの区切りになったらしい。
「……終わった」
「何が?」
智希が尋ねる。
彰人は少し考えた。
「知らんけど、終わった」
「やっぱり説明できてないじゃん」
「しゃあないやろ…」
桜子も大きく息を吐き、近くの椅子へ腰を下ろす。
「もう、ほんま……」
何に対する言葉なのかは続かなかった。
ただ、先ほどまで立ったままだった二人がようやく休む姿勢を取ったことで、他の者たちにも、少なくとも今すぐ何かが起きるわけではないという感覚が広がっていく。
しばらくして、境界が再び揺れた。今度は、誰も身構えなかった。
いつもの姿へ戻った怜司が、一人でそこから出てくる。
「ただいまー」
十一人の視線が一斉に集まった。
その反応に、怜司の方が足を止める。
「……なんでみんなこっちおるん?」
「お前が言うんか!」
彰人の声が部屋いっぱいに響いた。
怜司が僅かに眉を寄せる。
「いや、気づいたらおらんかったから」
「逃げたんや!」
「なんで?」
「兄貴が神装したからや!」
「なんでそれで逃げんねん」
「俺が聞きたいわ…」
「自分で逃げたんやろ?」
「せやけど!」
彰人が詰まった。怜司は本当に分かっていない。
さっきまで自分が何を纏っていたのかではなく、それを見た彰人たちがなぜ逃げるのかが分からないらしい。
桜子はしばらく二人を見ていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
怜司の肩を一度だけ叩く。
「もうええ。怜司に聞いたうちがアホやった」
「なんで?」
「それももうええ」
「なんやねん」
納得はしていない。
けれど、それ以上追及するほどのことでもないらしい。
怜司は桜子から視線を外し、そこで初めて部屋全体を見回した。
彰人、智希、桜子。
そこから順に、戻ってきた者たちへ視線を移していく。
洋一まで見たところで、その目が止まった。
「みんな無事?」
先ほどまでのやり取りとは関係がないような問いだった。
一瞬だけ、誰も答えなかった。
自分たちが逃げた理由を、当の本人だけが最後まで理解していない。
それなのに怜司が確認したのは、その理由でも、黒幕が消えたことでもなかった。
十一人が揃っていることだった。
彰人が何か言おうとして口を開く。
洋一はそれを見て、僅かに笑いを堪えるように息を吐いた。
「はい。全員無事です」
「そっか」
怜司は、それだけ確認すると頷いた。
まるで、それが一番確かめたかったことであるかのように。
◇
その日の夕食は、予定していた時刻を大きく過ぎてから始まった。
戻った時点で、まず確認しなければならないことが多すぎた。
向こう側から退いた十一人については、一人ずつ怪我の有無を確かめた。
神装を維持したまま長時間戦った影響も見たが、幸いなことに、目立った負傷はない。
疲労の程度には差があったものの、それも休息を必要とする範囲に収まっていた。
最後に戻ってきた怜司も同じだった。
正確には、同じと言っていいのかは分からない。疲れているようには見えなかった。
身体に異常がある様子もなく、本人に尋ねても何もないと言う。
あれだけの数を相手にして、最後には神装までしていた人間の状態として、それをどう判断すればいいのかが分からなかっただけだった。
それでも全員が無事なら、まずは食事を取る。
結局、十二人は揃って席についた。
料理が並び始めると、戦闘中には意識の外へ追いやられていた空腹が一気に戻ってきた。
特に前線で動き続けていた者たちは分かりやすかった。
恭平は最初こそ普段通りに食べ始めたものの、途中から明らかに速度が上がり、行人もそれにつられるように箸を進めている。
優斗は二人ほどではないにしても、いつもより口数が少ない。
戦っている最中には感じなかった重さが、座ったことで身体へ戻ってきていた。
神装を解いた今になって、腕や脚が自分の重さを思い出している。
そんな中で、怜司だけは普段とほとんど変わらなかった。
急いで食べるでもない。疲れて手が止まるでもない。
目の前にある料理を、いつもの速度で食べている。
彰人は自分の皿へ向けていた視線を上げた。
少し離れたところにいる怜司を見る。
食べている。
しばらく見ていたが、何も起きない。
「……兄貴」
「ん?」
怜司が顔を上げた。
それもいつも通りだった。
何かわからないといった表情までいつも通りだった。
「いや、なんでもない」
「なんやねん」
怪訝そうに見られ、彰人は自分の皿へ視線を戻した。
おかしいところを探したかったわけではない。むしろ逆だった。
何も変わっていないことを確認したかったのだと、自分でも少し遅れて気づく。
白金の神装を纏った怜司。
近づいていくだけで、あの黒幕を怯えさせた姿。
そして、何もしていないと言いながら戻ってきた男が、今は目の前で普通に飯を食っている。
その二つが、彰人の中ではまだ綺麗に重ならなかった。
だから、しばらくするとまた見てしまう。
「……兄貴」
「今度はなんやねん」
「ほんまに何ともない?」
「何が?」
怜司は箸を止めて、自分の身体を一度見た。
袖を見る。手を握る。
特に何も見つからなかったらしく、彰人へ視線を戻した。
「なんともないで?」
「……ほなええわ」
「さっきからなんやねん」
怜司が首を傾げたが、彰人は答えなかった。
向かい側にいる桜子と目が合う。
桜子も何も言わず、僅かに肩を竦めた。
以前にも見た。二人とも、あの神装を知っている。
それでも慣れたわけではない。
むしろ知っていたからこそ、今回も身体が先に動いた。
そして今回も、当の本人だけがその理由を理解していない。
「彰人」
横から声を掛けられた。
智希が箸を持ったまま、こちらを見ている。
「何や」
「三回目」
「何が」
「ニイさん見るの」
「数えんなや!」
思わず声が大きくなった。
何人かがこちらを見る。
彰人は一瞬だけ黙り、それから小さく舌打ちするように息を吐いた。
「お前も見てるやろ」
「僕は普通に見てる」
「何が違うねん」
今度は小さな笑いが起きた。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
戦場から戻ってきた直後にはなかった空気だった。
食事が進むにつれて、会話も少しずつ普段のものへ戻っていった。
料理の話。疲れたという愚痴。
途中で誰がどこにいたのかという、戦闘そのものとはあまり関係のない話。
それらが交じるたびに、つい先ほどまでいた黒い大地が遠ざかっていく。
けれど、完全に消えることはなかった。
誰もが一度は、あの最後を見ている。
自分たちが退いたあと、映像の向こうで起きたことも見た。
黒幕は消えた。
怜司は何もしていないと言った。
その二つだけが事実として残り、その間を埋めるものが何もない。
食事が一段落した頃、自然と会話が途切れた。
誰かが意図して作った沈黙ではなかった。
それでも、その空白を待っていたようにアルディウスが口を開く。
『怜司殿。改めて確認しておきたい』
怜司がそちらを見る。
『あの者が消えた時、本当に何もしていないのだな?』
「してへんで」
返答は早かった。考える必要すらないらしい。
アルディウスはすぐに次を尋ねなかった。
怜司の表情を見たが、誤魔化しているようには見えない。隠しているとも思えない。
本人の中では、本当に「何もしていない」で完結している。
『力を向けた、ということもないですか?』
今度はセレスティアだった。
少しだけ、怜司を覗き込むように尋ねる。
「ないと思う」
『思う、ですか?』
「自分で何かしよ思ってやったんは、ないで」
両手に食器を持ったまま、怜司は少しだけ考えた。
視線を宙に置き、思い返すようにしている。
「神装も、気づいたらなってたし」
「そこや!」
彰人の声が飛んだ。
全員の視線が集まる。
彰人はそれにも構わず怜司を指した。
「そこが怖いねん!」
「なんで?」
「なんで分からへんねん!」
「分からんから聞いてんねんけど」
彰人が言葉を探し始めたところで、桜子が横から止めた。
やや興奮気味な彰人に対し、桜子は静かに言う。
「彰人、無理や」
「義姉やんまで諦めんなや!」
「怜司やで?」
彰人が怜司を見る。
怜司も彰人を見る。
少し考え、熱くなっていた自分がばからしいとばかりに声を落とした。
「……せやな」
「納得すんなや」
怜司が突っ込んだのを見て、また小さく笑いが起こる。
だが、今度はそのまま話題が流れることはなかった。
セレスティアは、先ほどのやり取りの間も考え続けていた。
映像で見たものを、自分が知っている現象のどこかへ当てはめようとしている。
魔力、空間、境界、術式。
どれを順に思い返しても、黒幕が消え始める直前に怜司から何かが発せられた記憶はない。
『私が見た限りでは、怜司さんからあの方へ、魔力が流れた形跡はありませんでした』
その言葉に、怜司が小さく頷く。
「俺も、なんか出した覚えないで」
『空間そのものが作用した可能性はないのか?』
アルディウスが尋ねる。セレスティアはすぐには答えなかった。
目を伏せ、指先を重ねる。可能性だけなら否定できない。
あの場所は、もともと自分たちが暮らす世界とは異なる。
境界そのものも、完全に理解できているわけではない。
未知の現象が起きたとしても不思議ではなかった。
だが、それでは説明できないことが残る。
『……分かりません』
セレスティアは、考えた末にそう答えた。
『空間が関係している可能性はあります。でも、それなら……どうして、あの時だったのでしょう』
その疑問に、誰もすぐには答えられなかった。
怜司が向こう側へ入った時ではない。
戦い始めた時でもない、神装した瞬間でもなかった。
黒幕が怜司を見ていた。
それまでとは明らかに違う目で、何かに気づいたように。
その後で、指先が消え始めた。
順序だけを見れば、そこに意味があるように思える。
しかし、意味がありそうだということと、原因を説明できることは違う。
雅史はしばらく考えてから、慎重に口を開いた。
「俺には……消されたっていうより、自分を保てなくなったようにも見えたかな」
断定はしない。
自分が見た印象と、事実を分けるように言葉を選ぶ。
「もちろん、本当にそうだったのかは分からないけど。外から何かを受けて壊れた感じとは、少し違ったと思う」
「俺も近いな」
智臣が続いた。
フォークを持ったままの手の甲を顎に当て、あの瞬間を思い返すように、僅かに目を細める。
「斬られたわけでも、押し潰されたわけでもない。何かをぶつけられて壊れたようには見えなかった。ただ、それ以上は分からない」
清隆は二人の言葉を聞きながら、記録された映像のことを考えていた。
観測できた範囲、記録として残ったもの。
そこから言えることだけを切り分ける。
「映像にも、明確な外力は残ってない」
短く言った。
自身が確認した事実だけを切り取って話していた。
「怜司から何かが飛んだ形跡もない。少なくとも、今ある記録では」
「じゃあ、結局……」
優斗が話をまとめるように、三人を順に見る。
そこから一呼吸おいて、言葉を続ける。
「分からない、ってこと?」
「今のところは」
清隆が答えた。
それで話が一度止まった。
分からない。いつもなら、それは次に調べるべき課題になる。
情報を集め、仮説を立て、確かめる。
だが今回に限っては、何を調べれば答えへ近づくのかさえ曖昧だった。
映像はある。目撃者もいる。その場にいた本人までいる。
それでも、原因だけが抜け落ちている。
良澄はしばらく沈黙してから、怜司へ目を向けた。
「少なくとも、怜司君が意図して何かをした、と決めてしまうのは違いそうですね」
「せやで。俺なんもしてへんし」
「兄貴、それ言うたら余計怖いねん」
彰人がぼそりと言う。
その一言を聞き逃さなかった怜司が突っ込んだ。
「なんでやねん」
「今日何回目や、このやり取り……」
彰人は額を押さえた。
今度は笑う者もいたが、その笑いは先ほどより穏やかだった。
答えは出ていない。
それでも、少なくとも今夜のうちに答えを出さなければならないものではないと、全員が少しずつ認識し始めていた。
黒幕は消え、人型は止まり、新たな攻撃も起きていない。
ならば今できることは、残ったものを確認することだった。
「向こう、もう一回見に行くんすか?」
恭平が尋ねた。疲労は顔に出ているが、それでも必要なら行くつもりなのだろう。
アルディウスは少し考えてから首を振った。
『確認は必要だ。だが、今日である必要はない』
境界はまだこちら側で管理できている。
向こうに変化があれば監視している者が気づける。
今のところ、動くものも確認されていない。
『こちらで監視を続けよう。変化があれば、すぐに知らせる』
『私も境界を調べてみます』
セレスティアも頷いた。
二人とも、疲れは見えるものの、その瞳にははっきりとした意思が宿っていた。
『向こう側そのものと、こちらを繋いでいる部分。何か変化が残っているかもしれません』
洋一は二人の言葉を聞きながら、席にいる十二人を見回した。
全員揃っている。怪我もない。
けれど、食事を終えたことで逆に疲れが目立ち始めていた。
恭平は先ほどから何度か肩を回している。
行人も背もたれへ身体を預ける時間が長くなった。
彰人に至っては、怜司を気にするのにも疲れてきたらしい。
今日ここで、これ以上考え続ける意味は薄い。
「では、今日はここまでにしましょう」
洋一が両手に持ったフォークとナイフをいったん置いてから言葉に出した。
「映像と記録はこちらでも整理します。続きは、明日確認してからでいいと思います」
反対する者はいなかった。
分からないことを残したまま終える。
それは少し気持ちが悪い。
けれど今は、その気持ち悪さごと明日へ持っていくしかなかった。
その空気を知ってか知らずか、怜司が立ち上がった。
「風呂行こ」
彰人が顔を上げる。
唖然というのか、呆れているというのか、難しい表情で口を開く。
「兄貴、切り替え早ない?」
「入りたないん?」
「入るけどやぁ…」
「ほな行こや」
「行くけど!」
答えだけは早かった。
今度こそ、場にいた何人かが声を出して笑った。
◇
湯へ身体を沈めた瞬間、それまで意識の外へ押し出されていたものが一気に戻ってきた。
熱が足先から上がる。
脹脛、膝、腰、肩まで浸かったところで、強張っていた筋肉がようやく自分のものへ戻っていく。
誰か一人ではなかった。
あちらこちらから長い息が漏れ、湯船の縁へ身体を預ける音が続く。
戦っている最中には、疲れたなどと言っている暇はなかった。
敵は途切れない、一体倒せば次が来る。
数を減らしているはずなのに、視界のどこかには常に動くものがいた。
それが終わり、食事を取り、ようやく何もしなくていい場所まで戻ってきたことで、身体の方が遅れて今日一日の長さを思い出していた。
「あ゛ぁぁぁ……」
彰人が湯船の縁へ後頭部を預けた。
声というより、身体の中に残っていた空気がそのまま漏れたようだった。
「生き返るわ……」
「さっきまで元気だったじゃん」
智希の声が少し離れたところから返ってくる。
彰人は目を閉じたまま答えた。
「精神的に疲れとんねん……」
「逃げただけなのに?」
彰人の目が開いた。
「誰のせいやと思てんねん!」
「ニイさん?」
「そうや」
即答したあとで、彰人は湯気の向こうを見る。
怜司は肩まで湯に浸かり、気持ちよさそうにしていた。
少し恨めしそうな視線に気づき、こちらを見る。
「なんで俺なん?」
「ほら、これや」
「何がやねん」
彰人は再び天井を仰いだ。
説明する気力がなくなったらしい。
そのやり取りを最後に、しばらく会話が途切れた。
湯が揺れる音だけが残る。
戦場では、静かになることがなかった。
人型が走る音、何かが砕ける音、神装同士が動く気配、黒幕が生み出すものと、それを迎え撃つ音。
今は、そのどれもない。
聞こえるのは湯が縁へ触れる小さな音と、ときどき誰かが身体を動かす気配だけだった。
その静けさの中で、今日起きたことが少しずつ一日の出来事へ変わっていく。
五百を超える人型と戦った。
こちらの動きを見て、学び、対策してくる敵だった。
それでも十二人は押し切った。
途中から敵の多くが怜司へ集中し、他の者たちへの圧力が目に見えて弱くなった。
その時は好都合だと受け取る余裕すらなかったが、今になって思えば、それ自体が黒幕の追い詰められ方を示していたのかもしれない。
そして最後には、十一人で逃げた。
誰も、それを格好悪いとは思っていなかった。
理由をきちんと説明できる者すらいないのに、今ここで振り返っても、あの判断を間違いだったと言える者はいなかった。
彰人は、そんなことを思い出していると、少し笑いが込み上げてきた。
声に出さずに笑い、にやけたような表情のまま天井を仰ぎ続ける。
「でも、今日はさすがに疲れたっすね」
恭平が湯の中で肩を回した。
腕を上げると、ようやくそこに重さがあることを実感する。
「数、多すぎっすよ。途中から何体倒したか全然分かんなかったっす」
「最初から数えてないだろ」
体を洗いながら、行人が笑う。
「数える余裕あった?」
「ないっす」
「俺もない」
短いやり取りのあと、また静かになる。
それが不自然ではなくなっていた。
優斗は湯船の縁へ腕を乗せながら、戦闘の後半を思い返していた。
「途中から、急に楽になったよね」
「怜司さんに偏ってからだな」
行人が答える。
「その時は助かったと思ったけど」
優斗はそこで一度言葉を止める。
「今考えると、あんまり喜べないね」
誰も否定しなかった。
自分たちへの敵が減った分だけ、怜司の周囲へ集まっていた。
それでも怜司は普段と大きく変わらず、一体ずつ処理して前へ進んでいた。
そして黒幕がさらに怜司へ力を集中させた末に、あの神装が現れた。
「それで最後、アレやろ……」
そこまで聞いた彰人が再び身体を沈めた。
鼻の下まで湯につかる。
少しして顔を出した。
「俺、しばらく兄貴の神装見たないわ」
「自分のも?」
智希が尋ねる。
「兄貴のや!」
「僕はもう一回ちゃんと見たいけど」
「ほな次、お前だけ残れ」
「嫌だよ」
「見たいんちゃうんかい!」
「安全なところから見たい」
「俺かてそうやわ!」
それに湯船の隅の方に体を預けたまま聞いていた清隆が反応する。
「動画なら残ってるぞ」
笑い声が湯気の中へ広がった。
戦いが終わったのか。
その問いには、まだ誰も完全には答えられない。
黒幕がなぜ消えたのかも分からない。
向こう側には、まだ確認しなければならないものが残っている。
ヴァルネシアの街にも被害は残り、負傷した者もいる。
明日になれば、やるべきことはいくらでも出てくる。
けれど、それは明日のことだった。
今日ここへ向かった十二人は、一人も欠けずに戻った。
大きな怪我をした者もいない。
敵を止め、街への新たな被害も防いだ。
最後に何が起きたのかだけは、誰にも分からないままだったけれど。
少なくとも今夜、もう一度武器を持って立ち上がらなければならない気配はない。
その事実が、湯の熱と一緒に少しずつ身体へ染み込んでいく。
彰人は湯船の縁へ背を預け、目を閉じる。
戦場へ入ってから今まで、どこかに残っていた力がようやく抜けた。
長く、深く息を吐く。
「……終わったぁ……」
隣から声がした。
「何が?」
彰人の目が開いた。
怜司が、純粋に分からないという顔でこちらを見ている。
数秒、見つめ合った。
彰人は今日一日の全部を思い出した。
黒い大地、大量の敵、神装、逃走、消えた黒幕。
最後のVサイン。
そして、今この顔である。
「兄貴が話すとややこしいなぁ」
「なんでやねん!」
湯気の向こうで、また笑い声が上がった。




