理解と受容
清隆は、開いた境界のすぐ手前にしゃがみ込んでいた。
昨夜まで調査を続けていた空間の異常は、今も森の中に不自然な景色を切り取っている。
向こう側に見えているのは灰色の空と、黒ずんだ大地。
そのどちらにもヴァルネシアの森から続いているものはなく、境界を挟んだだけで別の場所が隣り合っていた。
昨日までなら、そこに何があるのかを確かめること自体が目的だった。
今は違う。
あの向こうに、二度の星堕としを引き起こした何者かがいる。
怜司がそう感じているというだけで、その姿も、正体も、目的もまだ分からない。
それでも十二人の中に、ここで引き返すという選択を考えている者はいなかった。
だからこそ、清隆はすぐに境界を越えようとはしなかった。
掌に収まる程度の小さな装置を地面へ置き、側面へ指を触れる。
金属らしい光沢を持つ部分と、ヴァルネシアで使われている魔術具から流用した部品とが同居したそれは、日本の電子機器とも、この世界の道具とも言い切れない形をしている。
淡い光が一度だけ内部を走り、中央に小さな光点が灯った。
「清隆さん、それ何?」
優斗が尋ねると、清隆は装置から目を離さないまま答えた。
「中継器。向こうにも置く」
異なる世界を隔てた境界の先で、日本の通信技術がそのまま通用する保証はない。
まして、これから入ろうとしている場所がヴァルネシアとも日本とも異なるのなら、どこまで既存の仕組みが使えるのかさえ分からなかった。
その不確定な部分を補うために、清隆が使ったのがヴァルネシアの魔術だった。
隣でしゃがんだセレスティアが装置へ手をかざす。指先から生じた淡い光が表面を覆い、刻まれた小さな術式へ順番に染み込んでいく。その光が落ち着くまでを見届けてから、清隆は手元の端末へ視線を移した。
「境界を越えるところだけ、こっちの術式で補う。中ではこれを基点にして繋ぐ」
説明だけを聞けば簡単だったが、昨日から何度も二人が調整を繰り返していたことを知っている者は、それ以上詳しく尋ねなかった。
これから未知の場所へ入る十二人と、ヴァルネシア側に残る者たちを繋ぐためのもの。
今は、それが分かれば十分だった。
「映像も届いています」
セレスティアの手元には、清隆が用意した受信機がある。
映し出されているのは、今まさに彼女自身が立っている場所だった。
その映像を送っている小さな機体が、清隆の肩口から少し離れた場所に浮かんでいる。
翼も回転する羽根もなく、何かに吊られている様子もない。
彰人が頭上を見上げると、それに合わせたように機体がわずかに位置を変えた。
「これ、ずっとついてくるん?」
彰人が指を向けると、清隆も一度だけ機体を見上げた。
「その予定」
戦闘になっても同じなのかと続けて尋ねる彰人に、清隆は邪魔にならない位置を維持するよう調整してあると答えた。
もっとも、これから入る場所で想定通りに動作するかまでは試せていない。
そこを彰人に突かれると、清隆は少しも困った様子を見せずに「たぶん」と付け加えた。
「そこは断言してほしかったなあ……」
彰人が苦笑したところで、浮遊していた機体が静かに高度を上げた。
その動きを目で追っていた怜司は、ふと思いついたように機体へ近づく。
正面と思われる側へ回り込み、レンズらしき部分を覗き込んだ。
「これ、向こうから見えてんの?」
「見えてる」
返事を聞いた怜司は、それならとでもいうようにカメラへ片手を上げた。
セレスティアの手元にある受信機には、その姿がほとんど正面から映っている。
境界を越えた先で何が起きているのかを確認するための機材に、これから送り出される本人が呑気に手を振っているという光景に、セレスティアの表情がわずかに緩んだ。
「……見えていますよ」
返事が届くと、怜司は満足したらしい。
もう一度だけ軽く手を振り、何事もなかったように境界へ向き直る。
「兄貴、何してんねん」
横で見ていた彰人が笑う。
「いや、見えてる言うから」
それ以上の理由は本当になかったらしい。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
これから何がいるのかも分からない場所へ踏み込むことに変わりはない。
それでも、十二人にとって未知の場所へ向かうことと、必要以上に深刻な顔をしていることは同義ではなかった。
セレスティアも受信機から顔を上げる。
彼女の後ろでは、ガルディオとアルディウスもこちらを見ていた。
三柱のうち誰か一人ではなく、三人ともが残って状況を確認する。
それは、十二人が戻る場所をこちら側に残すという意味でもあった。
「こちらでは、三人で映像を確認しています。何かあれば、すぐに知らせてください」
先ほどまでの笑みを残しながらも、その声には送り出す側としての緊張が混じっていた。
優斗がそれを聞いて静かに頷き、洋一は一度、周囲の十一人を見渡した。
誰かに覚悟を尋ねる必要はない。
既に全員がここまで来ている。
洋一が境界へ視線を戻すのを合図にしたように、先頭にいた怜司が一歩を踏み出した。
続いて彰人、桜子、洋一、優斗。
残る者たちも、それぞれに間隔を取りながら境界を越えていった。
最後に清隆が足を踏み入れる直前、もう一台の小さな中継器を取り出した。
境界の向こう側、足をついた直後の地面へ、それを置く。
一度、光が瞬いたのを確認して、清隆が振り返る。
境界の向こうにセレスティアたちの姿が見えている。
手元の端末を確認し、浮遊する機体へ目を向ける。
「映像」
わずかな間を置いて、セレスティアが頷いた。
「届いています」
「音は?」
「大丈夫です」
それだけ確認すると、清隆は端末をしまった。
十二人が揃って、境界から離れる。
数歩、十数歩。
そこまで進んでから振り返れば、先ほどまで立っていたヴァルネシアの景色が、灰色と黒の世界の中に切り取られている。
そこだけが、ひどく鮮やかだった。
やがて距離が開けば、それも小さくなった。
足元には土らしきものがある。
ただ、踏みしめても乾いた土特有の細かな崩れ方をしない。
石ほど硬いわけではなく、靴底にはわずかな沈み込みが返ってくる。
それなのに、草の一本も見当たらなかった。
風はあった。
頬を撫でる程度の弱い流れが、一定ではない方向から吹いてくる。
その風にも、匂いらしい匂いがない。
土も、草も、水も、何かが腐った匂いさえない。
生き物がいない場所でも、普通なら何かしらの匂いは残る。
ここには、それすらなかった。
「……静かっすね」
恭平が小さく呟いた。
声は思ったより遠くまで届いた。
何かに反響したわけではない。
ただ、自分たち以外に音を出すものが存在しないため、靴が地面を踏む音も、衣服が擦れる音も、必要以上にはっきり聞こえている。
智臣が周囲を見渡した。
「静かっていうより、何もないな」
「何もない、というのも少し違うかも知れないね」
雅史が足元へ視線を落とす。
少し先には岩がある。
さらに向こうには、木のようなものも立っている。
景色を構成するものは存在している。
ただ、そのどれにも、ここで何かが続いてきたという気配がなかった。
人が暮らしていた痕跡も見つからなかった。
建物がないこと自体は、この景色の中では不自然ではない。
それよりも奇妙なのは、道らしいものさえ存在していないことだった。
岩を避けて歩いた跡もなければ、何度も同じ場所を踏んだことで地面の状態が変わった場所もない。
ところどころに立っている枯れ木のようなものにも、何かが触れた形跡は見当たらなかった。
優斗は歩きながら周囲を見渡し、やがて視線を前方へ戻した。
十二人の足跡だけが、何もなかった地面へ新しく刻まれている。
「誰かが住んでた感じもしないね」
「道もありませんね」
洋一も同じことに気づいていた。
進むべき方向を示すものは、どこにもない。
目印になる地形さえほとんどなく、少し離れれば前後左右の区別さえ曖昧になりそうな景色の中を、それでも先頭の怜司だけは迷わず歩き続けていた。
右を見ることも、左を見ることもない。
何かを探しているようにも見えない。
ただ、最初から行き先を知っている者のように一定の方向へ進んでいる。
その背中をしばらく見ていた桜子が、とうとう声を掛けた。
「怜司」
「ん?」
呼ばれて初めて、怜司が少しだけ振り返る。
「ほんまに、そっちなん?」
桜子が前方を指した。
疑っているというより、確認したいのだろう。彼女自身も周囲を何度か見ていたが、怜司が選んでいる方向に何か特別なものがあるようには見えない。
「うん」
返事だけは迷いがなかった。
だからこそ、桜子はもう一つ尋ねた。
「分かるん?」
今度は、怜司の返事までに僅かな間があった。
進む足は止めないまま、本人なりに自分の感覚を言葉へ置き換えようとしたらしい。
「分からん」
桜子の眉が上がる。
怜司はそれを見て、少しだけ前方へ顎を向けた。
「でも、こっち」
結局、それ以上の説明は出てこなかった。
彰人が苦笑しかけたものの、何も言わずに前へ向き直る。
昨日、何の根拠も説明できないまま異常の位置を示し、その先に実際に境界を見つけたのも怜司だった。
理解できないことと、信用できないことは同じではない。
誰からともなく歩調が戻り、十二人は再び怜司の後ろを進み始めた。
そのことを当の怜司だけが、特に気にしている様子はなかった。
十二人は歩き続けた。
空の明るさは変わらない。
太陽らしきものは見えないのに、暗闇でもない。
灰色の空全体が淡く光を持っているようで、影は薄かった。
時間の感覚まで曖昧になる。
十分歩いたのか、三十分なのか。
清隆が時折端末を確認しているため、実際の経過時間を知ろうと思えば知ることはできた。
それでも、誰も尋ねなかった。
やがて、景色の中に変化が現れた。
最初に気づいたのは、洋一だった。
「……あれでしょうか」
前方で、平坦だった大地が、ゆるやかに盛り上がっている。
山と呼ぶほどではない。小高い丘。その頂上に、何かがある。
遠目には岩にも見えた。
優斗が目を細めた。
距離が縮まるにつれて、岩のように見えていたものの輪郭が少しずつ人工的な形へ変わっていく。
最初に分かったのは、地面から伸びた高い背だった。
その手前には水平に近い面があり、さらに左右へ張り出した部分がある。
風雨に削られた岩が偶然そうなったというには、形が整いすぎていた。
誰かが座るために作ったもの。
そう認識したところで、その場所にあることの不自然さが際立った。
建物はない。道もない。周囲には人が暮らした跡さえない。
何もない荒野の中、小高い丘の頂上にだけ、それが置かれている。
「……椅子?」
優斗の声には、自分で口にしておきながら確信できない響きがあった。
洋一もすぐには答えなかった。
単なる椅子と呼ぶには大きく、何より置かれている場所と形が、その用途以上の意味を持たせている。
そこに誰かが座り、丘の下に広がるものを見渡すことまで想定して作られたような形だった。
「……にしては、随分と立派ですね」
洋一がそう言った時には、他の者たちもほぼ同じものを思い浮かべていた。
単なる椅子ではなく、そこに座る者の立場まで示すための――玉座。
口に出すより先に、その言葉が十二人の認識の中で形を持った。
そして、そこには、誰かが座っていた。
十二人の足が、ほぼ同時に遅くなる。
人間に見えた。少なくとも、遠目から捉えられる輪郭はそうだった。
頭がある、胴がある、二本の腕と、二本の脚。
玉座へ深く腰を預け、こちらを見ている。
男なのか女なのか、若いのか老いているのか。
距離のせいだけではない。
見えているはずなのに、印象が定まらない。
「……あれ?」
彰人の声から、先ほどまで残っていた軽さが消えた。
怜司は答えなかった。
ただ、歩みを止めた。
その視線は丘の上へ向いている。
黒幕
そう呼んでいた存在が、本当にあれなのか。
まだ確証はない。
それでも怜司は、しばらく見つめたあと、小さく頷いた。
「たぶん、あいつ」
その言葉を聞いて、全員の意識が丘の上へ集まりかけた。
だからこそ、最初の一体を見つけるのが少し遅れた。
岩の陰に人影があった。こちらを見ている。
「……いるな」
智臣が呟く。
その視線を追った先とは別の場所で、また一つ。
枯れた木のそばに、さらに二つ。
丘の斜面の窪みに三つ。
少し離れた平地には、何かに隠れるでもなく、一体が立っていた。
気づけば、そこら中にいた。
整列してはいない。
陣形を作っているようにも見えない。
岩に腰掛けているもの、地面に座っているもの。
立ったまま空を見ているもの、枯れ木に背を預けているもの。
互いに話している様子はない。
それでも、待機させられた兵士には見えなかった。
むしろ。
人がそれぞれに時間を過ごしていたところへ、十二人が入り込んでしまったように見える。
そのことが、整然と並ぶ軍勢を見るよりも不気味だった。
「前のやつらやな」
彰人が低く言った。
星堕としの中から現れた、人型の敵性体。
前回は百体ほどだった。
今回は、見えるだけでもそれを大きく上回っている。
清隆が視線を走らせる。
「五百前後」
「増えたなあ」
怜司が言う。
声だけなら、感想はそれだけだった。
「増えたなあ、やないやろ」
彰人が返したところで、丘の上に動きがあった。
玉座に座る何かが、片手を上げる。
大きな動きではなかった。命令する声もない。
ただ、軽く、指先を動かす程度に、手が上がった。
岩に座っていた一体が立つ。
枯れ木へ寄りかかっていた一体が身体を起こす。
空を見ていたものが、顔を下げる。
五百近い視線が、一斉に十二人へ向いた。
その瞬間までばらばらだったものが、一つの目的だけを共有する。
桜子の口元から笑みが消えた。
「来るで」
次の瞬間、黒い大地を蹴り、人型の群れが走り出した。
同時に、十二人のうち十一人を光が包む。
それぞれに異なる気配。異なる形。
神獣との繋がりを表す神装が、灰色の世界に次々と現れる。
彰人が拳を握り、軽く肩を回す。行人の腕に炎がまとわりつく。
智希は短刀を抜き、刃先を下げたまま身体を沈めた。
良澄の周囲では、目には見えない何かが空気を震わせ、洋一の周囲で、微かな放電音が鳴った。
恭平は両手の爪を展開し、優斗は既に最初の矢を指に挟んでいる。
清隆は一歩後ろへ下がりながら、足元へ何かを落とした。
雅史が大きく息を吐く。その後ろにいた智臣の周囲では、空気がわずかに重くなる。
最後方では桜子は盾を構え、その向こうに薄い障壁を展開した。
その中で。
怜司だけは、光に包まれなかった。
腰の刀へ手を掛ける。
白い鞘、白く巻かれた柄、鈍い金色の角張った鍔。
親指でわずかに鍔を押し、鯉口を切ると銀色の刃が、音もなく抜けた。
怜司は刃を少し傾け、眺める。
「……やっぱ、ええな」
「兄貴」
既に迫っている敵を見ながら、彰人が呆れた声を出す。
「楽しそうやな」
「使いたかってん」
「そら良かったな!」
最後は叫びになった。
敵性体の一体が、彰人の間合いへ入り、その腕が伸びるが、彰人は避けなかった。
半歩だけ内側へ入り、伸びてきた腕を自分の前腕で逸らす。
そのまま身体を沈め、相手の重心が前へ流れた瞬間に肩を当てた。
鈍い音とともに敵性体の身体が浮く。
彰人はそれを見送らず、追った。
着地するより先に懐へ入り、掌底を胴へ打ち込む。
相手の身体が折れ曲がった。
それでも止まらない。
前回、こいつらが人間に似た形を持ちながら、人間とはまるで違う構造をしていることは分かっている。
倒れたから終わりとは限らない。
彰人は崩れ落ちる身体の中心へ、もう一撃を叩き込んだところで、動きが完全に止まる。
それを確認した時には、次の二体が左右から迫っていた。
「ほんま、数多いな!」
左を躱し、右から来た腕を潜る。
低くなった姿勢から、地面を蹴って自らの身体を回す。
一体の側頭部へ踵が入った。
その勢いを殺さず、着地した足で再び地面を蹴る。逆方向へ身体を回し、もう一体の首元へ二度目の蹴りを叩き込む。
二体が別方向へ飛んだ。
彰人は着地と同時に一体へ走る。まだ動く。ならば、止める。
倒れている相手へ拳を打ち下ろし、その身体から完全に力が抜けたのを確認して、もう一体へ向かう。
その横を、炎が走った。
行人だった。
敵性体が腕を振るう。行人は身体を横へずらし、その腕を肩越しに流す。
炎をまとった拳が脇腹へ入り、そこから火が広がった。
表面を焼く炎ではない。内部へ入り込むように赤い光が走り、敵性体の輪郭が崩れる。
行人は燃え上がる相手を見ながら、最後まで足を止めない。
形が残っている。ならばまだ動くかもしれない。
もう一歩踏み込み、二撃目。
今度は胸部。炎が一気に広がった。
敵性体の身体が、灰になるより先に輪郭を失った。
その背後から別の一体が迫る。
行人が振り返った時には、その首筋へ短い刃が入っていた。
智希だった。
いつ近づいたのか、行人にも見えていなかった。
短刀が引き抜かれる。
敵性体が振り返ろうとするより先に、智希はその脇を抜けていた。
一歩。二歩。相手の死角へ回り込み、膝裏へ刃を入れる。
姿勢が崩れた。
その背へ飛び乗るように身体を預け、首の付け根へもう一度刃を沈める。
それでも、すぐには離れない。敵性体の動きが止まるまで確認してから、短刀を抜く。
行人が一瞬だけそちらを見る。
「助かった」
「ん」
智希はそれだけ返した。
次の瞬間には、もうそこにいなかった。
少し離れた場所で、別の敵性体の身体が傾くと、その背後に智希がいる。
「……どこから行った?」
行人の呟きに答える者はいなかった。
前方では、桜子の障壁へ複数の敵性体がぶつかっていた。
一体、二体、五体。数が増える。
押し込もうとしているのか、それとも突破口を探しているのか。左右へ散る個体もいる。
桜子は盾を構えたまま、足を止めていた。
受ける。衝撃を逃がす。障壁の表面を滑らせ、敵の力を散らす。
それまでだった。
前回は。
「守るだけやと思た?」
桜子の足が前へ出たのに合わせて障壁が動く。
押されたのは、桜子ではない。敵性体の方だった。
透明な壁そのものが前進し、五体をまとめて押し返す。
後方にいた個体まで巻き込み、姿勢が崩れる。
そこへ洋一の手が上がった。
空気が鳴る。落ちた雷は一本ではなかった。
障壁の向こうへ押し込まれた敵性体の間を、光が跳ねる。
一体、二体、三体。
それぞれへ雷が落ち、動きを止めたところへ、今度は目に見えない刃が走った。
空気そのものが切り裂かれたように、複数の身体へ同時に裂け目が生じる。
「桜子さん、そのままお願いします」
「分かった!」
障壁がさらに進むと、洋一はその陰から、次の攻撃を重ねた。
別方向では、恭平が敵性体の肩を踏んでいた。
爪を振るう。胸部が裂ける。それでも動こうとした相手の頭部を掴み、身体を捻る。
その背後から二体。
恭平は振り返らず、今掴んでいる敵の身体を蹴って前へ飛んだ。
空中で身体を回し、伸びた脚が一体の顔面へ入る。
さらに回り、もう一体へ、逆の脚。二体の頭部が大きく振られた。
恭平はそのまま地面へ手をつき、反動で身体を起こす。
「っし!」
着地したその足で、倒れた二体へ向かう。
一体目へ爪。二体目にも。確実に動きを止める。
派手に吹き飛ばすことより、残さないことを優先している。
その頭上を、光が何本も通過した。
優斗の矢だった。
一本ではない。敵性体一体に対し、複数。
最初の一本が脚、次が肩、三本目が胸部。
どこか一箇所を壊せば止まると決めつけない。
動きを奪いながら、最後の一本を通す。
優斗の視線は既に次へ移っていた。
矢が放たれると、その標的が、突然横へ跳んだ。
「……あれ?」
優斗の眉がわずかに動く。
一本目を避けた。偶然ではない。
二本目の射線からも身体を外している。
三本目。今度は、別の敵性体が間へ入った。
盾にした。矢がその身体へ突き刺さる。後ろにいた個体は止まらない。
「学習してる」
優斗が言った。
少し離れた場所で、彰人も同じことに気づいていた。
先ほどまで正面から間合いへ入ってきていた個体が、来ない。
彰人が拳を構える。敵性体はその外側で止まり、左右へ分かれた。
三体目が後ろへ回る。
「おー」
彰人の口元が少しだけ上がった。
「考えたな」
一体が正面から踏み込む。
彰人が迎えようとした瞬間、左右も同時に動く。
さっきまでとは違う。
それでも。
「遅いわ」
正面へ出しかけた足を止める。
彰人は後ろへ跳んだ。
三体の攻撃が、直前まで彰人のいた場所で重なる。
着地した地面をそのまま蹴り飛ばし、そこから走る。
狙ったのは正面ではない。最も外側。
三体で囲むために広がった結果、それぞれの距離が開いている。
一対三を、一対一へ戻す。
彰人の肩が一体の胸へ入った。
浮いた身体へ肘。続けて拳。最後に膝。
一体を止めた時には、残る二体が迫っている。
「せやけどな」
彰人は笑った。
残った二体が左右から距離を詰めてくる。
その動きには、先ほどまでのような単純さがない。
一体が先に入れば、もう一体は彰人がそちらへ意識を向けるのを待ち、死角へ回ろうとする。
こちらの動きを見て、失敗した方法を捨て、より有効なものへ切り替えているのは間違いなかった。
「前より賢いだけやろ」
言いながら、彰人は正面から来た一体へ踏み込んだ。
相手もそれを待っていたらしい。彰人の拳が届くより早く身体を外し、もう一体が背後から腕を伸ばす。
前回までの動きを知っているからこその連携だったが、彰人は振り返らなかった。
前へ出した足を軸に身体を沈め、背後から伸びてきた腕を頭上へ通す。
そのまま低い姿勢から身体を回し、踵を後ろの一体へ叩き込んだ。
前にいた個体が、すぐに間合いを詰め直す。
そこへ彰人の肘が入った。
前回の王都では、こんな戦い方はできなかった。
背後には建物があり、逃げ遅れた住民や負傷者がいて、すぐ近くでは味方も戦っていた。
敵を避けた先に何があるのか、吹き飛ばせばどこへ飛ぶのか、自分の攻撃がどこまで届くのか。
その全てを考えながら、壊してはいけないものの間で戦う必要があった。
だが、今、周囲にあるのは黒い大地と、同じように戦っている十一人だけだった。
敵性体が以前より賢くなっているのなら、こちらも以前と同じ条件で戦っているわけではない。
彰人は肘を受けた一体の身体を掴み、そのまま背後へ投げた。
先ほど蹴り飛ばした個体へ重なったところまで追い、まだ動こうとする二体へ続けて拳を落とす。
片方が止まり、もう片方も遅れて力を失う。それを確かめてから、彰人は次に迫ってくる敵性体へ身体を向けた。
良澄の前で、一体の敵性体が崩れた。
殴られたわけではない。斬られたわけでもない。
外見上、何か大きな傷が生まれたわけでもなかった。
ただ、立っているために保たれていた均衡が、突然失われた。
腕の接続がずれる。脚が身体を支えなくなる。
胴を構成していたものが、互いの位置を保てなくなる。
良澄は眉を寄せながら、それを見ていた。
普段、彼が行うのは逆だった。
乱れたものを整える。崩れたものを、本来あるべき状態へ近づける。
なら。
整っているものを、崩すこともできる。
「……あんまり気持ちいいもんじゃないね」
穏やかな声だった。
それでも手は止めない。
敵性体が人間ではないことは、既に確認されている。
少なくとも、自分たちと同じ構造を持った生物ではない。
「でも、動かなくなるまではやらないとね」
次の一体へ意識を向ける。
均衡を探り、崩す。形が失われる。
それを確認してから、次へ。
清隆の周囲だけは、別の意味で近づきにくい場所になっていた。
一体が走り込む。地面が沈む。脚を取られる。
抜こうとした瞬間、横から何かが飛び出し、身体を弾いた。
飛ばされた先に細い線がある。
それに触れた瞬間、線が締まり敵性体の身体が固定された。
次の瞬間、上から落ちてきた重量物が、そのまま押し潰す。
清隆は見ていた。動かない。
次、別の一体が、先ほどの個体が沈んだ場所を避ける。
「覚えた」
清隆が呟く。
敵性体は罠を大きく迂回した、その先で何もない地面を踏んだ。
今度は下から突き上げられた。
「そっちも罠っすか!?」
近くで見ていた恭平が思わず声を上げる。
「うん」
「性格悪っ!」
「必要だから」
清隆は悪びれない。
最初の罠を避ける。その行動そのものを、次の罠へ誘導する。
学習するなら学習した結果、何を選ぶかまで利用すればいい。
雅史のところでは、もっと単純だった。
飛びかかってくる敵性体を雅史は受け止めた。
腕を取って引く。大きな身体が、さらに大きな力で敵性体を地面へ叩きつける。
一度、地面にたたきつけたが、まだ動く。
雅史はその身体を押さえたまま、足を上げた。
「ごめんね」
踏む。鈍い音がした。
それでも確認する。まだ僅かに動いている。
もう一度踏む。今度こそ止まる。
「……うん」
顔を上げると、次が来ている。
柔らかな表情は変わらない。やっていることだけが、まるで柔らかくなかった。
智臣の周囲では、敵性体の動きが突然鈍る。
一歩。そこから先へ進めない。
空気が重いわけではない。
それでも、身体全体へ均等に巨大な圧力が掛かっている。
海。深く。さらに深く。
光さえ届かない場所で、あらゆる方向から押し潰すもの。
敵性体の身体が軋む、膝が落ちる、腕が地面へつく。それでも動こうとする。
智臣は静かに見ていた。
「まだか」
圧力が増す。形が潰れ、動きが止まる。
そこで初めて力を解いた。
「面倒だな。ちゃんと止めないと戻ってくる」
誰に言うでもない。
ただ、その確認だけは全員が共有していた。
倒したつもりで残せば、背後から起き上がるかもしれない。
だから、一体ずつ確実に。
数が多くても。時間が掛かっても。動かなくなるところまで。
そうして敵性体の数は減っていった。
同時に、戦い方が変わっていった。
恭平が空中へ出れば、着地点へ別の個体が回る。
智希が死角へ潜れば、次の個体は背後だけではなく周囲全体へ意識を向ける。
優斗が複数の矢で動きを止めれば、別の個体が射線へ割って入る。
洋一の雷が複数を巻き込めば、互いの距離を取る。
桜子の障壁が進めば、正面から受けず、左右へ散る。
清隆の罠を一つ見れば、次からは同じ地面を踏まない。
それぞれが別々に経験したことが、別の個体へ渡っている。
「やっぱり共有してますね」
洋一が言った。
雷を避けて散った三体のうち、一体へ真空の刃を飛ばすと、それも避けた。
その先へ、もう一つ飛ばす。
今度は避ける方向を読んで飛ばしたので、刃が胴を裂いた。
止めず、雷を重ねる。
完全に動かなくなるまで確認してから、次へ視線を移した。
「戦ってる最中にも更新されてるみたいです」
「せやな」
桜子が答える。
障壁の端へ回ろうとした敵性体へ、盾そのものを叩き込む。
その衝撃で吹き飛んだものを追う。
障壁を小さく展開し直し、倒れた相手を地面との間に挟み込む。
動きが止まった。
「せやけど!」
桜子は次の敵を見た。
「こっちも同じやろ!」
敵が学ぶ。十二人も見る。
敵が変える。十二人も変える。
違うのは、その速度だった。
そして。
その差が、最も露骨に現れている場所があった。
怜司の周囲だけ敵性体が残らない。
一体が間合いへ入る。銀色が動き、身体が分かれる。
次の個体は距離を取った。刀の届く範囲へ入らない。怜司が一歩出ると敵が下がる。
その判断は正しい。先ほどの攻撃を基準にするなら。
怜司の足が止まった次の瞬間には、距離を取ったはずの敵性体の身体が細かく分かれていた。
いつ詰めたのか、どこから斬ったのか。
浮遊するカメラにも、動きの全ては残っていなかった。
別の三体が来る。
今度は同時に入らない。一体が前、二体が左右。
前の一体に誘われて怜司が刀を振った。
左右が動く。先ほどまでなら、そのはずだった。
怜司は振らなかった。
鞘を持つ左手が動き、白い鞘の先端が前の一体の喉元へ入った。
その一体の姿勢が浮く。
そこへ身体を滑り込ませ、敵そのものを左右から来る二体の間へ押し込む。
三体が重なったところに銀色が一度だけ走った刹那、三体とも崩れた。
次の敵性体が鞘への警戒を加える。
刀、鞘、足運び、間合い。そこまで学ぶ。共有する。
次の個体が、その情報を使う。
怜司の右手を、左手を、足を見る。
その全部を見た上で、攻撃へ入る。
今度の怜司は何もしなかった。
身体を半歩だけずらす。
空を切った敵性体の腕を掴み、引いた勢いを利用して、別の敵へぶつける。
そうして姿勢が崩れた二体に刀を当てて終わる。
次は掴まれないようにする。
その次は、刀へ近づかないようにする。
さらに次は、怜司の視界外から入ろうとする。
敵性体の対処は、一つずつ確実に増えていた。
刀へ不用意に近づかない。鞘を持つ左手にも注意を向ける。
正面だけでなく死角から入り、掴まれる距離では身体を残さない。
先に戦った個体が得た情報は次へ渡り、そこで失敗すれば、さらにその結果まで共有される。
学習の仕方そのものは正しい。
むしろ戦うほどに精度は上がっていた。観察し、何が起きたのかを理解し、その情報を別の個体へ渡す。
受け取った側は同じ失敗を避けるための方法を選び、それを次の接触で実行する。
彰人や優斗たちを相手に実際に成果を上げ始めている以上、その仕組みに欠陥があるわけではなかった。
ただ、その一巡が怜司に対してだけ間に合わない。
刀の間合いを学んだ個体が距離を取れば、怜司はその距離を詰めて斬るのではなく、相手が距離を保とうとする動きそのものを利用した。そこで鞘を使ったことが共有されれば、次の個体は右手の刀だけでなく左手にも注意を割く。すると怜司は、そのどちらも使わず、相手が警戒のために残した一瞬の遅れへ身体を入れた。
その方法も、次には知られる。知られれば、怜司はまた別の方法を使う。
それは、敵性体が対策を見破られているということではなかった。
一つ前の怜司を相手にするなら、どの対策も正しい。
刀を警戒することも、鞘を見ることも、間合いを変えることも、死角を使うことも、その時点で得られた情報から導かれる答えとして間違ってはいない。
しかし、敵性体がその答えへ辿り着くまでには、怜司の行動を見て、理解し、共有し、次の個体が実行できる形へ変えるという過程が必要になる。
怜司には、その時間が必要なかった。
相手が何を変えたのかを見た時には、もう次にどうするかが決まっている。
それまで使っていた方法へ固執することもなければ、刀を持っているからといって刀だけで解決しようともしない。
相手が作った対策そのものを新しい条件として受け取り、その場で別の答えへ繋げてしまう。
だから、敵性体が賢くなるほど蓄積されていく情報は正確だった。
刀を使った怜司への対策。鞘を使った怜司への対策。掴んだ怜司への対策。距離を詰めた怜司への対策。
そのどれもが確かに怜司の行動を捉えている。
ただし、それは全て、既に終わった怜司の行動だった。
また一体が、これまでに共有された情報を使って慎重に間合いへ入る。
怜司はその動きを見て、ほんの僅かに身体の向きを変えた。
次の瞬間には、敵性体の身体が崩れている。
何を対策されたから何を変えたのか、外から見ている側には、その過程さえ分からない。
敵性体は学習できている。学習した結果も、正しく次へ伝わっている。
それでも怜司への対処だけは、完成した時にはもう一つ前の答えになっていた。
そして、丘の上、玉座に座っていた何かの視線が、初めて明確に動いた。
最初は十二人を見ていたが、今は違う。
怜司だけを見ている。
怜司は気づいていないのか。
あるいは、気づいていて気にしていないのか。
新しい刀の切れ味を確かめるように、また一体を斬った。
刃にはほとんど抵抗がない。
「ええな、これ」
小さく呟く。
黒幕は、その姿を見ていた。
やがて、声がした。大きくはない。
それでも戦場の音に埋もれず、十二人のいる場所まで届いた。
『お前は』
誰へ向けられたものなのか。
問うまでもなかった。
怜司が顔を上げ、丘の上を見る。
『何者だ』
その問いが誰へ向けられたものなのか、確かめる必要はなかった。
怜司が顔を上げ、丘の上へ視線を向ける。
その間にも横から一体が迫ったが、身体を僅かにずらしただけで腕を躱し、返した刀を胴へ通した。
敵性体が崩れていくのを横目で確かめてから、少し考える。
「八代怜司」
『名を聞いているのではない』
「ほな、何?」
問い返す声に苛立ちはなかった。
黒幕はすぐには答えず、怜司も答えを急かさない。
次に近づいてきた一体へ向き直り、先ほどとは違う角度から踏み込んだ相手の腕を鞘で逸らす。
そのまま体勢を崩したところへ刃を通すまでの動きにも、丘の上から注がれる視線を意識している様子はなかった。
『なぜ、お前だけが違う』
「何が?」
『あれらは学ぶ。見て、理解し、得たものを次へ伝える。同じ失敗を繰り返さぬために』
黒幕の視線が、戦場へ向けられる。
その言葉どおり、残る敵性体の動きは戦闘開始時とは明らかに違っていた。
彰人へ近づく個体は正面から不用意に間合いへ入らず、優斗の射線へ別の個体が割り込み、清隆の周囲では既に使われた罠の位置を避けている。
学習は機能している。
それでも怜司の周囲だけは、積み上げられたはずの情報が結果へ結びついていなかった。
『だがお前には届かない』
「考えてるからちゃう?」
怜司の答えはあまりにも簡単だった。
『……考える?』
「うん」
何を不思議に思われているのか、怜司自身にはよく分かっていないらしい。
敵が変われば自分も変える。その程度のこととして受け取っているのか、説明を続けようともせず、次に来た敵性体へ視線を移した。
黒幕は、そんな怜司をしばらく見ていた。
自らが生み出し、送り込み、戦わせているものが学習しても追いつけない相手。
その理由を尋ねても、本人は特別なことをしているつもりさえない。
そこに混じり始めたものは、敵へ向ける警戒とは少し違っていた。
分からないからこそ知りたい。
初めて見るものの中身を確かめようとするように、黒幕の注意が他の十一人から怜司へ集まっていく。
『お前は、私を恐れないのか』
今度は怜司も、すぐには敵性体へ視線を戻さなかった。
丘の上に座る姿を改めて見る。
「なんで?」
恐れていないと答えるのでも、強がるのでもない。
なぜ恐れる必要があるのかを、本当に分かっていない者の問いだった。
黒幕の返答までに、僅かな間が生まれた。
『私は、あの世界を滅ぼそうとした』
怜司は一度、開いてきた境界のある方角へ視線を動かした。
「ヴァルネシアやろ?」
『同じことだ』
「ちゃうやろ。俺らの世界は日本やし、あっちはヴァルネシアや」
言い返しているようでいて、声に反発はない。
単に違うものを違うと言っているだけだった。
『ならば、なぜここへ来た』
「困ってたから」
怜司は迷わなかった。
黒幕は、その返答の続きを待った。
何を得るためなのか。何を要求するためなのか。あるいは、ヴァルネシアを自分たちの支配下へ置くためなのか。
だが、怜司はそれ以上何も言わない。
『……それだけか』
「それ以外いる?」
問い返され、黒幕の方が沈黙した。
その間にも戦いは続いている。
怜司の背後へ回ろうとした敵性体が一体。黒幕へ顔を向けたままの怜司へ近づき、あと一歩というところで踏み込んだ。
怜司の身体が僅かに沈み、振り向くより先に白い鞘が後ろへ突き出された。
敵性体の腹部へ入った。折れた姿勢の横を怜司が抜け、すれ違いざまに刀を通す。
動かなくなったことを確かめてから、再び丘を見る。
黒幕は、その一連の動きよりも、先ほどの答えを考えているようだった。
『お前たちは、あの国の者ではない』
「うん」
『守る理由がない』
「あるで」
『何だ』
そこで初めて、怜司が少し考えた。
黒幕を言い負かすための言葉を選んでいるようには見えない。
自分の中にあるものを、どう言えば相手へ伝わるのか。それを探すための僅かな沈黙だった。
「……困ってたから?」
先ほどと、ほとんど同じ答えだった。
自分でも他に言いようがなかったのか、怜司は少し首を傾けている。
黒幕にとっては、それが理由として成立していること自体が理解しにくいらしい。
『見返りもなく』
「別にいらんし」
『支配するでもなく』
「いらん」
『では、何を求める』
「何も?」
怜司は答えたあと、そこで初めて表情を僅かに変えた。
困惑でも警戒でもない。
これまで一方的に問われていたことへ、ようやく別の疑問が生まれたらしい。
黒幕が、自分たちの行動を理解できない。
ならば逆に、この相手は何を基準に動いているのか。
怜司の視線が、先ほどまでより少しだけ丘の上へ留まった。
「お前は何が欲しいん?」
問いを向けられた黒幕は、すぐには答えなかった。
それまで問い続けていた側と、答えていた側が初めて入れ替わる。
戦場では、まだ敵性体の数が減り続けていた。
五百近くあったはずの姿は既に大きく数を減らし、黒い大地のあちこちに動かなくなったものが残されている。
それでも黒幕は、いつの間にか戦況より怜司を見ていた。
やがて、短い答えが返る。
『存続』
怜司はその言葉を聞き、少しだけ首を傾けた。
「誰の?」
『私だ』
「ふうん」
笑うことも、責めることもなかった。
消えたくない。存在し続けたい。
それだけなら、怜司にとって理解しにくい話ではなかった。
黒幕の方は、その反応を別の意味で受け取ったらしい。
玉座へ深く預けていた身体が、ほんの僅かに前へ傾く。
『お前には分かるのか。存在し続けようとすることが』
「そら、分かるやろ。消えたくないんやろ?」
『そうだ』
「なら、それはええんちゃう?」
怜司は何でもないことのように言った。
その言葉を聞いた黒幕の背が、今度ははっきりと玉座から離れた。
拒絶されなかった。自らが存在し続けることを望む。その最も根にあるものを、この人間は否定しなかった。
これまで黒幕が相対してきた者が、自分をどう見ていたのかは分からない。
ただ、少なくとも今ここにいる怜司は、敵だからという理由だけでその願いまで間違っているとは言わなかった。
『お前は、理解するのか』
「しようとはしてるで」
怜司にとって、それは特別なことではなかった。
黒幕が何をしたのかは、既に分かっている。
ヴァルネシアへ星を落とし、そこから現れた敵性体によって王都を襲わせた。
二度目には、それまでとは違う、人間に近い姿を持ったものまで送り込んできた。
その結果だけを見れば、好意を持つ理由などない。
けれど、それと相手がそうした理由を知ろうとすることは、怜司の中では別だった。
黒幕が存在し続けたいと思っている。
消えたくないから、そのための力を必要としている。
そこまでは分かる。自分が消えることを望まないという感覚まで、敵だからという理由で否定する必要もない。
だから、その先を聞こうとしているだけだった。
黒幕には、そんな怜司の考え方までは見えていない。
ただ、自らの存続を望むことを否定されず、その理由まで理解しようとしている人間が目の前にいる。
その事実だけが、先ほどまで玉座へ深く身体を預けていた黒幕を、僅かに前へ引き出していた。
『私は存続しなければならない。そのためには力が要る』
「うん」
怜司は頷いた。
存続するために力が必要になる。それも、まだ分からない話ではない。
『力を得るためには、存在するものを取り込まなければならない』
今度は、すぐには返事をしなかった。
黒幕が存在し続けるために、外から何かを得なければならない。
そういう仕組みの存在なのだと考えれば、その言葉自体は受け取れる。
ただ、何を取り込むのかによって意味は変わる。
怜司の視線が、戦場へ移った。
少し離れたところで、優斗へ向かった敵性体が矢の軌道を見て身体を外している。
その先では、清隆が先ほど使った罠を避けた個体が、別の進路を選び直していた。
「何を?」
『存在するものを』
その答えと、目の前で動いているものが怜司の中で繋がる。
「こいつらも?」
『必要ならば』
敵性体が一体、怜司へ向かってくる。
それまでに共有された情報があるのか、刀の間合いへ不用意には踏み込まない。
怜司が右手を僅かに動かすと、それにも反応して距離を変えた。
ただ命令された通りに動いているだけではない。こちらを見ている。
それまでに得たものを使い、その場でどうするかを選んでいる。
怜司は相手が踏み込むより先に間合いを変え、刀を一度だけ通した。
崩れた身体が完全に動かなくなるまで見てから、再び丘の上へ顔を向ける。
「こいつら、自分で考えてんねやろ?」
『そうだ』
怜司は目の前の敵性体だけでなく、戦場のあちこちへ視線を動かした。
戦い始めた時とは、もう動きが違っている。
彰人を囲もうとして失敗した個体がいれば、次は同じ距離を取らない。
優斗の矢を正面から避けられなければ、別の個体が射線へ入る。
清隆の罠を一つ知れば、次はそこを避け、その結果として別の罠へ誘導される。
失敗したものを覚えている。覚えたものを他へ渡している。
そのうえで、次にどうするかを自分で選んでいる。
黒幕から目的を与えられていることと、目の前にいるものが考えて動いていることは、怜司の中ではまだ同じ意味にならなかった。
「なら、自分でやりたいこととかないん?」
『必要がない。私が目的を与えている』
怜司はその言葉を、一度そのまま受け取った。
目的を与える。
それ自体なら分からなくもない。自分たちだって誰かに頼まれて動くことはあるし、やるべきことを決められることもある。
けれど、目の前の敵性体は命令された一つの動作だけを繰り返しているわけではなかった。
目的へ辿り着くための方法は、自分で考えている。
なら、その思考が与えられた目的とは別のところへ向くこともあるのではないか。
「その目的、こいつらが決めたん?」
『決める必要がない』
返ってきた言葉に、怜司の視線がもう一度敵性体へ向いた。
一体が桜子の障壁を正面から避け、回り込もうとしている。
別の一体は智希を見失ったあと、背後だけではなく周囲全体を警戒していた。
決める必要がない。
その言葉と、目の前で自分なりの答えを選び続けている姿が、まだうまく重ならない。
怜司は黒幕の考えを否定する代わりに、重ならない理由を探した。
「なんで決める必要ないん?」
『私が決めるからだ』
「なんでお前が決めんの?」
『私が上位にある』
上位。怜司はその言葉にも、すぐ反論しなかった。
上下があること自体は珍しくない。人間の社会にも立場があり、命令する者と従う者がいる。
それだけなら、黒幕の言っていることと似た形はいくらでもある。
ただ、それだけでは先ほどの答えには届かない。
「何が上なん?」
『存在としてだ』
「どうやって決まったん?」
黒幕が僅かに黙る。怜司は待った。
問い詰めている意識はない。答えを聞く前から間違っていると決めるつもりもない。
黒幕がそう考えるなら、そう考えるだけの何かがあるのだろう。それを知れば、自分にも分かるかもしれない。
『私が生み出した』
「こいつらを?」
『そうだ』
そこでようやく、上位という言葉が怜司の中で一つの形を持った。
作った側と、作られた側。黒幕にとっては、それが上下を決める理由になるらしい。
「ほな、生んだら好きにしてええの?」
『私の一部だ』
その答えにも、怜司はすぐには反論しなかった。
黒幕から見れば一部なのだろう。けれど、怜司から見えているものは少し違う。
また一体の敵性体がこちらへ近づき、先ほどまでとは違う間合いで足を止めた。
怜司が刀へ手を掛けても飛び込まず、こちらが動くのを待っている。
考えている。
黒幕の一部であるという説明を聞いても、その事実だけは変わらない。
「でも、自分で考えてんねやろ?」
『思考を与えたのも私だ』
「その思考で、お前と違うこと考えたら?」
『修正する』
怜司の目が、僅かに細くなった。怒ったわけではない。
ただ、ここまで聞いてきたものの中で、初めて別のものが引っ掛かった。
考えることは許されている。
けれど、黒幕と違う答えへ辿り着くことは許されていない。
ならば、何のために考えるのか。
「嫌やって言ったら?」
『その必要がない』
「……言ったら?」
『排除する』
怜司は返事をせず、しばらく黒幕を見た。
そこまで聞いても、まだ否定する言葉は出てこなかった。
黒幕にとっては、それが当然なのだろう。
自分が生み出した。思考を与えた。目的を与えた。
だから、その目的から外れれば直し、それでも外れるなら取り除く。
一つずつを黒幕の側から辿れば、何を考えているのかは分かってくる。分かってはくる。
それでも、目の前で自分なりに方法を選び続けている敵性体と、その説明を同じ場所へ置こうとすると、どこかが余った。
怜司はその余った部分を捨てず、もう一度黒幕の言葉を受け取った。
「そっか」
その一言に、黒幕の中で何かが緩んだ。
自分の考えを話しても、この人間は拒まない。
自らが存在し続けたいという願いだけでなく、そのために作ったものへ目的を与えることも、まずはそういうものとして聞いている。
ならば、もっと話せば理解されるのかもしれない。
そんな期待が生まれたところで、怜司が続けた。
「なんで決める必要ないん?」
『私が決めるからだ』
「なんでお前が決めんの?」
『私が上位にある』
怜司は少し眉を動かした。
「何が上なん?」
『存在としてだ』
「どうやって決まったん?」
返答までに、それまでより長い間があった。
怜司は待った。
答えを急かすことも、自分の考えを先に押しつけることもしない。
黒幕が何を理由にそう考えているのか、本当に知ろうとしているようだった。
『私が生み出した』
「こいつらを?」
『そうだ』
「ほな、生んだら好きにしてええの?」
『私の一部だ』
怜司は敵性体を見る。
先ほどまでとは違う入り方で、また一体がこちらへ近づいている。
自分で考え、前の個体が失敗した方法を避け、より成功する可能性が高い行動を選んでいる。
「でも、自分で考えてんねやろ?」
『思考を与えたのも私だ』
「その思考で、お前と違うこと考えたら?」
『修正する』
「嫌やって言ったら?」
『その必要がない』
「言ったら?」
『排除する』
怜司は、そこで一度頷いた。
怒った様子はない。
何かを否定する言葉も出てこなかった。
ただ、その答えを一つ受け取ったうえで、次の疑問を探している。
「なんで?」
黒幕は答えた。
自分が生み出したものなのだから、自分の存続へ使うことに問題はない。与えた思考も、目的も、力も、すべて自分に由来する。それが自分の目的から外れるのであれば、修正するか、不要なものとして取り除けばいい。
怜司は、その説明にも口を挟まなかった。
理解できるところと、まだ分からないところを分けるように聞き、やがて別の場所へ視線を移した。
「ヴァルネシアの人らは?」
『障害となるなら排除する』
「逃げたら?」
『追う必要がなければ追わない』
「でも、戻ってきたら?」
『排除する』
「話したら?」
『必要がない』
「なんで?」
『私の存続を妨げる可能性がある』
「可能性だけで?」
『十分だ』
怜司はまた頷いた。
「そっか」
その反応を見るたびに、黒幕の中では期待が強くなっていった。
拒絶されない。
自分が存在したいと願うことも、そのために力を求めることも、作り出したものを使うことも、障害となり得る存在を排除することも、怜司は聞いた瞬間に善悪へ分けようとはしない。
黒幕にとって、それは理解されているように見えた。
だから答えた。
答えれば、怜司はその言葉を受け取る。
だが、そこで終わることはなかった。
一つの答えを理解すると、それまで分からなかった部分が一つ減り、その先に残ったものへ新しい問いが向けられる。
同じ場所を何度も尋ねているようで、少しずつ違う。
自分が生み出したから決める。
なら、なぜ生み出した者には決める権利があるのか。
自分が上位だから決める。
なら、何をもって上位とするのか。
存続するために排除する。
なら、なぜ相手が存続しようとすることは考えなくていいのか。
黒幕が一つ答えるたび、怜司はその答えを否定するのではなく、前提として受け取ったうえで次へ進んだ。
そのことが、次第に奇妙な感覚を生み始める。
本来なら、理解されるほど距離は縮まるはずだった。
自分が何を望み、なぜそれを必要とし、どのような基準で行動しているのか。その一つ一つを知るほど、この人間は自分という存在へ近づいてくるはずだった。
ところが、実際には逆だった。
怜司が理解を重ねるほど、黒幕には目の前の男が遠くなっていくように感じられた。
怒りが増しているわけではない。
敵意を向けられているわけでもない。
声も、表情も、最初からほとんど変わっていない。
変わっているのは、問いの位置だけだった。
答えるたびに、それまで見られていなかった場所へ視線が移る。
そこを答えれば、さらにその奥へ進む。
追い詰めようとしているのなら、まだ理解できた。
自分の矛盾を暴き、言葉に詰まらせ、屈服させようとしているのなら、敵対行為として処理できる。
怜司には、そのどちらもなかった。
ただ知ろうとしている。
理解したうえで、自分の中のどこへ置けばいいのかを探している。
だから止まらない。
『なぜ、そこまで問う』
初めて、黒幕の方から会話を止めた。
怜司は少し考えた。
「分からんから」
『何が』
「お前が」
『私は説明している』
「うん」
怜司は素直に頷いた。
「だから、分かってきてる」
それは、黒幕が望んでいたはずの言葉だった。
理解されている。
少なくとも、先ほどまでならそう受け取っていた。
それなのに、その言葉を聞いた瞬間、黒幕の指先が僅かに動いた。
理由は分からない。
『ならば、お前は私を受け入れるのか』
怜司はすぐには答えなかった。
受け入れる。その言葉を、自分の中で一度考えているようだった。
黒幕が存在し続けたいと思っていることは分かる。
そのために力を必要としていることも、そういう存在なのだと言われれば理解はできる。
自分が生み出したものへ目的を与え、それを自分のために使うという考え方も、黒幕がそう考える理由までは見えてきた。
まだ、そこで黒幕そのものを否定する理由にはならない。
ただ、先ほどから一つだけ、どうしても余るものがあった。
怜司の視線が戦場へ向く。敵性体はまだ戦っている。
数は大きく減っているが、それでも諦めることなく十二人の動きを見て、少しでも有効な方法を探し続けていた。
優斗の矢を避ける。彰人の間合いを外す。桜子の障壁を回り込み、清隆の罠を警戒する。
失敗すれば次は変える。
同じ目的を与えられていても、そこへ至る方法は一体ごとに選んでいる。
その思考が黒幕の意図と違う方向へ向けば、修正される。それでも違えば、排除される。
自分で考えられるのに、自分で選べる範囲は黒幕が決める。
怜司は、それを黒幕の考え方として理解しようとしていた。
だが、受け入れるというのなら、その先まで考えなければならない。
敵性体が一体、怜司へ近づいてきた。
これまでの情報を使っているのか、刀にも鞘にも警戒を向け、すぐには踏み込んでこない。
怜司も動かなかった。僅かな時間、互いに相手を見る。
先に敵性体が動いた。
刀を避けるために大きく外へ回り、そこから一気に距離を詰めようとする。
怜司は刀を抜かなかった。
相手が踏み込んだ方向へ半歩だけ身体をずらし、伸びてきた腕を取る。その勢いを殺さず横へ流し、体勢を崩したところで初めて刀を抜いた。
一度だけ銀色が走る。動かなくなった敵性体を見下ろしてから、怜司は丘の上へ視線を戻した。
「なあ」
『……何だ』
「お前が生きるためやったら、こいつら死んでもええん?」
黒幕の答えは変わらない。
『必要ならば』
怜司はその返答を聞き、足元に倒れた敵性体をもう一度見た。
考えることを与えられ、学ぶことを与えられ、それでも最後に何をしていいのかを決める権利だけは持たされていない。
黒幕にとって、それは自分の一部だから問題にならない。
そこまでは聞いた。
なら、その考え方がどこまで及ぶのか。
怜司の中で、次にヴァルネシアが浮かんだ。
初めて向こうへ渡った時には、知らない世界だった。
今は違う。王都には人がいる。壊れた場所を直す者がいて、食事を作る者がいて、負傷した者を運ぶ者がいる。
温泉ができれば入りに来るし、町へ出れば店があり、そこで働いている者もいる。
怜司にとっては既に、「世界」という一つの言葉だけでまとめられる場所ではなくなっていた。
「ヴァルネシアの人も?」
『必要ならば』
黒幕にとっては、同じだった。
敵性体とは違う。黒幕が生み出したものでもない。
それぞれが勝手に生まれ、暮らし、自分のことを自分で決めている。
それでも黒幕自身の存続に必要なら、消して構わない。
怜司は、その答えもすぐには否定しなかった。
黒幕がそう考える理由は、もう分かり始めている。
自分が存在し続けることが最も上にあり、それを妨げるものは、その相手が何を考えているかにかかわらず取り除く。
ならば。
「俺らも?」
『妨げるならば』
それも同じだった。
日本から来たかどうかは関係ない。
ヴァルネシアを助けた理由も、ここへ来た理由も、黒幕にとっては意味を持たない。
自分の存続を妨げるか。基準は、それだけだった。
怜司の中で、それまで別々に聞いていた答えが少しずつ繋がっていく。
敵性体だからではない。ヴァルネシアだからでもない。自分たちが敵だからでもない。
黒幕以外の存在そのものが、黒幕の存続より下に置かれている。
なら、今ここにいないものはどうなのか。
黒幕と出会ったこともなく、その存在さえ知らない誰かなら。
「他のやつも?」
『同じだ』
返答まで迷いはなかった。
怜司は黒幕を見た。
この相手が何を考えているのか、ようやく全体が見え始めていた。
自分が生きたい。そのために力が欲しい。必要なら他の存在を取り込む。
自分が作ったものは自分の目的へ使う。それが別のことを考えれば直す。直らなければ消す。
自分が作ったものでなくても、自分の存続を妨げるなら排除する。
それぞれの答えだけを見ていた時には、まだ別々の話として受け取ることができた。
今は違う。全部が一つの基準から出ている。
怜司は、最後にその範囲だけを確かめた。
「全部?」
『私の存続を妨げるのであれば』
それでも、まだ僅かな余地を残した答えに聞こえた。
妨げなければいい。関わらなければいい。そういう意味にも取れる。
けれど、ヴァルネシアへ星を落とした理由は、既に聞いている。
今、黒幕自身が口にしたのも、実際に妨げたかどうかではない。
可能性があるだけで十分だと言った。
なら、その余地も黒幕が決める。
怜司はそこまで確認してから、もう一度だけ尋ねた。
声に怒りはない。責める響きもなかった。
本当に、それで黒幕の考え方を最後まで理解できるのかを確かめるための問いだった。
「全部なん?」
黒幕は怜司を見返した。
ここまで聞いても、この人間は自分を否定しなかった。
自分が存在したいという願いを認め、そのために必要なものを一つずつ確かめ、それぞれについて理解しようとしてきた。
ならば、最後も同じなのではないか。自分という存在を、そのまま受け入れるのではないか。
先ほどまでなら、そう思えた。
今は、その期待と一緒に別の感覚がある。
なぜこの人間は、ここまで確かめるのか。なぜ一つ理解するだけでは終わらず、その先まで見ようとするのか。
答えれば理解されるはずなのに、答えるほど自分だけが見られている。
黒幕の指先が、玉座の肘掛けへ僅かに触れた。
それでも答えは変わらない。
『そうだ』
怜司は黙った。
黒幕が存在したいと願うことそのものを、怜司は否定していなかった。
消えたくない。存在し続けたい。そのために必要なものがある。
そこまでなら理解できるし、一つずつを切り離して考えれば、そういうものなのだと受け取ることもできる。
けれど、それらを全て繋げた時、同じようには考えられなかった。
視線の先では、敵性体が今も戦っている。
自分で考え、学び、失敗した方法を捨て、次の方法を選んでいる。それだけの思考を与えられながら、黒幕が不要だと判断すれば、その思考も選択も意味を持たないまま消される。
境界の向こうにはヴァルネシアがある。
そこには人が暮らしている。笑う者がいて、怒る者がいて、飯を食い、風呂に入り、明日のことを考えている。
その一つ一つを怜司は既に見てきた。
彼らもまた、自分たちと同じように存在し続けようとしている。
それでも黒幕にとっては、自分の存続を妨げる可能性があるというだけで、失われても構わないものになる。
ヴァルネシアだけではない。
自分たちも、その先にいるまだ知らない誰かも、同じ基準で扱われる。
怜司は、それでも黒幕がそう考えること自体を否定しようとはしなかった。
そういう存在なのだと理解し、その考え方まで含めて、自分の中で受け取れる場所を探していた。
けれど、そこまで受け取った先で残るものがある。
黒幕をそのまま受け入れるのなら、黒幕によって選択を奪われるものも、消されるものも、自分で考えることを与えられながら自分で選ぶことだけを許されないものも、同じように「それでいい」と扱わなければならない。
黒幕一人を受け入れるために、それ以外を受け入れられなくなる。
そこまで繋がったところで、怜司の中に残っていた疑問が消えた。
黒幕は、その変化を見ていた。何が変わったのかは分からない。
怜司の表情は変わっていない。姿勢も、手にした刀も、纏っている力も先ほどまでと同じだった。
それなのに、それまで自分へ向けられていたものだけがなくなった。
答えを待つ時間がない。次の問いもない。
自分の言葉を受け取り、その奥にあるものまで理解しようとしていた視線が、もうどこにも残っていない。
拒絶されたのとは違う。憎まれたのでもない。
ただ、自分を理解しようとすることをやめた。
その事実を認識した瞬間、黒幕の指が初めて明確に玉座の肘掛けを掴んだ。
怜司が口を開く。
声は、最後まで静かだった。
「……わかった、もうええわ」




