その向こう
王都へ戻る頃には、空の色が変わり始めていた。
二度目の星堕としが消えたあとも、すぐに戦場を離れることはできなかった。
動かなくなった敵性体の確認、負傷者の収容、散開していた部隊の再編、王都周辺へ残っている個体がいないかの捜索。
戦っている間には後回しにするしかなかった仕事が、終わった瞬間から一斉に現実へ戻ってきた。
それでも、先ほどまでとは違う。
誰かが空を見上げても、そこから新しい黒い影が落ちてくることはなかった。
遠くで声が上がるたびに身構える必要もなく、運ばれていく負傷者の横を通っても、その後ろから新たな敵が迫ってくることはない。
終わった。少なくとも、今日の戦いは。
「……しんど」
王都へ続く道を歩きながら、彰人が何度目か分からない息を吐いた。
神装はすでに解いている。身体そのものに大きな傷はないが、それと疲れていないことはまったく別だった。
腕を上げれば重く、歩くたびに太腿の奥へ鈍い疲労が残っている。
敵性体を掴み、投げ、殴り、最後には人型まで相手にした身体が、戦闘が終わったことを理解した途端に休息を要求していた。
隣を歩く智希も似たようなものだった。
「帰ったら、俺もう何もしたくないよ…」
智希が漏らした声には、冗談にするだけの力も残っていなかった。
歩けないほどではないし、どこかを負傷したわけでもない。
それでも神装を纏い、数え切れないほどの敵性体を相手にし続けた身体は、戦いが終わったことを理解した途端、それまで後回しにしていた疲労を一度に主張し始めている。
彰人が横を見ると、普段ならもう少し軽い足取りで歩く智希も、今は王都までの距離を確かめるように前を見ていた。
「風呂は?」
「入る」
「飯は?」
「食う」
「めっちゃするやん」
「それは別だって」
返事だけは早かった。
彰人が笑うと、智希も少し遅れて口元を緩める。何もしたくないと言いながら、腹は減っているし、身体についた土や敵性体の体液も洗い流したい。
それくらいの欲求が戻ってきていることは、むしろ悪くないのかもしれない。
「俺も腹減った」
少し前を歩いていた怜司が振り返った。
その姿を見た彰人は、反射的に眉を寄せる。
「兄貴はなんで普通やねん」
「何が?」
「疲れてへんの?」
聞かれた怜司は、自分の身体を確かめるでもなく、少しだけ考えるように視線を上へ向けた。
その時点で、彰人には答えが分かった。
「別に」
「やろな」
予想どおりすぎる返事に、彰人は呆れて息を吐く。
神装を使わなかったとはいえ、怜司が何もしていなかったわけではない。
むしろ最後まで戦場を動き回り、途中からは清隆が作った刀で敵性体を斬り続け、星堕としそのものまで破壊した。
それなのに、歩き方にも呼吸にも疲労らしいものが見えない。
理由を聞いたところで、本人にも分からないのだろう。
彰人がもう一度何か言おうとしたところで、後方から人の足音が近づいてきた。
道を空ける。
負傷兵を乗せた担架だった。
それまで続いていた軽口が、誰かに止められるまでもなく途切れる。
横を通り過ぎていく兵には意識があるらしく、付き添う者から声を掛けられるたびに僅かに顔を動かしていた。
しかし、右脚には板のようなものが添えられ、布で厳重に固定されている。鎧にも大きな亀裂が入り、その周囲には乾き始めた血が残っていた。
続いて、もう一つ。
今度の担架に乗せられていたのは、十三将の一人だった。
彰人にも見覚えがある。戦闘の終盤まで前線に残り、兵たちへ指示を出していた男だ。
立っている姿を最後に見てから、それほど時間は経っていないはずなのに、今は片腕を胸の前で固定され、額にも包帯が巻かれている。
死者はいない。
その報告は、すでに何度も聞いていた。
だが、その言葉が意味するのは、誰も傷つかなかったということではない。
「……あれ、しばらく無理やな」
担架を見送りながら彰人が呟くと、近くを歩いていた良澄もそちらへ目を向けた。
「そうですね。骨折している方も、かなりいるみたいです」
「十三将だけちゃうやろ?」
「八傑の方にもいます。すぐには動けないほどではない方もいますけど……少なくとも、しばらくは安静にした方がいいでしょうね」
答える良澄自身にも、疲労ははっきりと見えていた。
広い範囲へ神律調和を使い続け、戦場全体を支えていた。
大きな怪我こそないものの、普段より歩調が僅かに遅く、声にもいつもの柔らかさとは別の重さが混じっている。それでも負傷者が近くを通るたび、自然にそちらへ視線を向けてしまうのは、良澄らしかった。
その先では、ガルディオが数人の兵と話している。
大きな身体には細かな傷がいくつも残り、鎧にも戦闘の痕跡が刻まれているが、致命的なものは見当たらない。
ただ、兵へ指示を出し終えたあとに大きく息を吐き、太い首をゆっくり回す姿には、戦場で見せていた余裕はなかった。
アルディウスも同じだった。
三柱は、負傷という意味では軽い。
その代わり、長時間にわたって戦場を支え続けた疲労までは隠せていない。
「セレスティアさんは?」
彰人は歩きながら周囲を探した。
少し後ろにいる。
魔法師たちと何かを確認しながら歩いており、目立った傷はないようだったが、いつも伸びている背筋が今は僅かに緩んでいる。
彼女もまた、戦闘中には見せなかった疲労を身体へ戻し始めているのだろう。
見ていることに気づいたのか、セレスティアが顔を上げた。
目が合った。
ほんの一瞬、それまで魔法師へ向けていた真面目な表情が柔らかくなる。
彰人が何となく片手を上げると、セレスティアも小さく手を上げて返した。
「……元気そうやな」
すぐ横から聞こえた声に、彰人は手を下ろした。
桜子がこちらを見ている。
「何が?」
「別に?」
口元だけが笑っていた。
彰人は数秒その顔を見たあと、何を言われているのか察して前を向く。
「義姉やんも元気そうやん」
「誰がや。うちも疲れとるわ」
「兄貴見てから言うて」
「比較対象がおかしいねん」
二人の視線が、ほとんど同時に前へ向いた。
当の怜司は、やはり何事もなかったように歩いている。
呼吸も乱れていない、足取りも変わらない。
腰には、清隆が戦場で急造した刀が下がっていた。
装飾のない白木の柄と鞘は、戦場で必要になったものをその場で作ったという事情を、そのまま形にしたような姿をしている。
桜子の視線が、そこで止まった。
怜司の腰にあるのは、昨日まで存在しなかった刀だった。
清隆が戦場で急造したもので、白木の柄と鞘には装飾どころか、一般的な日本刀なら当然あるはずの鍔さえない。
昨日の状況を考えれば、それで十分だったのだろう。
必要になった刀身を作り、それを握れるようにして、持ち運べる鞘へ収める。戦場でそこまで用意したこと自体がおかしいくらいだった。
ただ、桜子には別のものに見えた。
彼女自身が刀を振るうわけではない。それでも、日本刀は昔から好きだった。
刀身の姿だけを眺めるのではなく、鍔や柄、目貫、鞘を含めた拵えにも興味があり、どうしてその形になっているのかまで調べたことがある。
だからこそ、昨日だけの応急品と、これから使い続ける武器との違いが目についた。
まして、怜司はあれを気に入っている。
昨日限りで捨てるなら何も言わない。
今後も腰へ下げ、何度も抜き、あの速度と力で振るうつもりなら、白木へ刀身を収めただけの今の姿では足りなかった。
「……あれ、あとで見せてもらお」
彰人が桜子の視線を追う。
「兄貴の刀?」
「うん」
「なんかあかんの?」
すぐに答えず、桜子は歩く怜司の腰元をもう一度見る。
刀身についてなら、自分が口を出すところではない。
あれだけの敵を斬って刃こぼれ一つしていないものを作った清隆の方が、素材については遥かに詳しい。
自分が見るべきなのは、その刀身を人がどう扱うかだった。
「刀身やなくて、拵えの方やな。昨日はあれでええけど、このまま使わせるんはあかん」
彰人にはまだ違いが分からないらしく、白木の柄を見ながら首を傾げる。
「普通に使えてたで?」
「使えるんと、使い続けられるように作ってあるんは別や」
昨日の一度なら、それでいい。
だが、怜司の使い方を見たあとでは、なおさら放っておけなかった。
「清隆にも言わなあかんな」
「また仕事増えるやん」
「作った本人やろ。それに今日中に全部やれ言うてへん」
「聞こえてるぞ」
少し前から清隆の声が返ってきた。
振り返りもしない。
「ちょうどええわ。あとで怜司の刀見せて」
「構わない」
「拵え作り直すで」
そこで清隆が初めて足を少し緩め、肩越しに桜子を見る。
「必要か?」
「必要や」
迷いのない返答だった。
清隆は数秒だけ考えたあと、あっさり頷く。
「分かった」
「……そこは早いんやな」
「俺は刀の専門家じゃない」
自分が知らない分野についてまで、知っているふりをする気はないらしい。
清隆はそれだけ言うと、また前を向いた。
「素直やなぁ」
彰人が感心したように呟く。
「性能以外どうでもええだけちゃう?」
「聞こえてるぞ」
「二回目やで」
今度は何人かが笑った。
大きな声ではない。
すぐ横では今も負傷者が運ばれ、王都へ近づくほど、戦場と街を往復する兵の数も増えている。
疲労も消えたわけではなく、帰ったところで休む前に済ませなければならないことはいくらでもある。
それでも、戦うために張り詰めていたものは、少しずつ身体から抜け始めていた。
誰かがくだらないことを言い、それに誰かが返す。
昨日までなら当たり前だったやり取りが戻ってくる。
彰人は前方に見え始めた王都の城壁を眺めながら、それをようやく実感した。
今日の戦いは、本当に終わったのだ。
◇
王城へ戻った十二人を最初に待っていたのは、戦況報告でも次の会議でもなかった。
服をどうするか、という、ひどく日常的な問題だった。
戦場では気にする余裕もなかったが、明るい室内へ入って互いの姿を見れば、惨憺たる有様なのがよく分かる。
神装そのものはすでに消えていても、その下に着ていた服には土や埃が入り込み、敵性体から飛んだ体液が乾いて色を変えている。
前線へ出ていた者ほど酷く、彰人など袖を摘まんだだけで顔をしかめた。
「……これで飯食うん嫌やな」
汗と土だけならまだしも、何が付着しているのか分からない部分まである。
智希も自分の服を見下ろし、少し考えてから浴場のある方角へ視線を向けた。
「先、風呂入る?」
「やめた方がいいんじゃないかな」
優斗が答えた。
声はいつもどおり穏やかだったが、本人もかなり疲れているらしく、壁へ背を預けている。
「たぶん……今入ったら、そのまま動けなくなる人いると思う」
「俺やな」
「僕も自信ないっすね。湯船入った瞬間、終わりそうっす」
彰人は即答し、恭平が笑いながら同意する。
空腹も強いので、緊張が切れ始めた状態で温かい湯に浸かれば、そのまま眠ってしまっても不思議ではなかった。
「ほな飯先?」
「この服で?」
再び最初の問題へ戻ったところで、部屋の入口に人の気配が増えた。
王城の使用人たちだった。
数人がそれぞれ畳んだ衣服を抱えている。
『よろしければ、こちらをお使いください』
差し出されたものを見て、洋一が少し戸惑う。
「僕たちに、ですか?」
『はい。お召し物を洗っている間だけでも』
用意されていたのは、ヴァルネシアで一般的に使われている衣服だった。
王城から提供されるものだからといって、金糸や宝石で飾られているわけではない。
綿や麻に近い手触りの布を使い、動きやすさを優先したものが多い。
十二人それぞれの体格を正確に測ったわけではないため多少の余裕はあるものの、着替えとして使うには十分だった。
「いや、でも――」
洋一が遠慮しかけたところへ、後ろからアルトリウスが現れた。
王自身もすでに鎧を脱ぎ、戦場から戻った直後よりは身なりを整えている。
『その程度は、我らにさせてもらえぬか』
「洗ってもらえるだけでも十分ですよ」
『戦勝への礼でも、敗戦への対価でもない。ただ、客人へ汚れた服のまま過ごせとは言えぬ』
洋一はなおも何か言おうとしたが、アルトリウスは抱えられた衣服へ一度視線を向けた。
『国土を渡そうという話ではない。服だぞ』
「……それは、そうですね」
そこまで言われてしまえば、断る方が不自然だった。
洋一が礼を告げると、使用人たちはそれぞれの衣服を渡していく。
しばらくして着替えを終えた十二人が再び顔を合わせると、今度は別の意味で互いを見る時間が生まれた。
見慣れた日本の服ではない、誰も神装を纏っていない。
ヴァルネシアの街を歩いている住民と似た衣服を十二人が着ているだけなのに、妙に新鮮だった。
智希は自分の上着を引っ張りながら、満更でもなさそうに全身を確認する。
「俺、ちょっと旅人っぽくない?」
「モンキー乗ったら全部消えるけどな」
彰人が即座に返した。
「今ここにないやん」
「日本戻ったらあるやん」
「今の話してんねん」
そんな二人の横で、怜司は袖口を一度見ただけで、それ以上は何も気にしていなかった。
彰人が上下を眺める。
「兄貴、普通に似合うな」
「何が?」
「その服」
「着れたらええやん」
「そういうとこやぞ」
「何が?」
本人だけが分かっていなかった。
戦場から戻って一時間も経っていない。
負傷者はまだ治療を受けている。
街の被害も、すべて確認できたわけではない。
それでも、服を着替え、腹が減ったと話し、似合う似合わないで笑える。
そんな時間が戻ってきたことに、誰もわざわざ意味をつけようとはしなかった。
今は、それでよかった。
◇
食事の準備が整うまでには、まだ少し時間がかかるらしい。
その間に清隆が始めたのは、戦場から持ち帰った装具の確認だった。
神装はそれぞれ神獣の力によって形成されるため、解除してしまえば残らない。
しかし、その下で身につけていた衣服や装具、戦場へ持ち込んだ道具まで同じではない。
見た目には問題がなくても、長時間の衝撃を受け続けたものを、そのまま次に使うのは危険だった。
王城の一室を借り、机の上へ一つずつ並べていく。
清隆が最初に状態を確認し、そのあと所有者自身にも触らせる。
表面に傷があるだけのもの、留め具が緩んでいるもの、目に見えない場所へ歪みが残っているもの。
清隆は使えるか使えないかだけで判断せず、次に同じ負荷がかかったときまで考えて分けていた。
「これは交換した方がいい」
優斗へ返された部品は、一見するとまだ使えそうだった。
「もう駄目?」
「今すぐ壊れるとは思わない。ただ、次に同じ衝撃を受けたときの保証ができない」
優斗は手の中で一度裏返し、僅かな歪みを確認すると、迷わず交換する側へ置いた。
「じゃあ、そうしようかな」
「ああ。その方がいい」
清隆が次へ手を伸ばそうとしたところで、その横へ、白木の刀が置かれた。
「これも」
怜司だった。
清隆は一度だけ刀へ目を向ける。
「刀身は昨日見ただろ」
「もう一回」
「まあいい」
清隆が鞘を取り、静かに刀身を抜いた。
室内の光が、均一に近い銀色の表面を滑っていく。
一般的な日本刀に見られる刃文はなく、昨日あれだけの敵性体を斬ったとは思えないほど、刀身には使用の痕跡が残っていなかった。
清隆は刃先から棟まで角度を変えながら確認し、続いて刀身全体の歪みを見る。
刃こぼれはない、曲がりもない。
目視できる亀裂もなかった。
「刀身は問題ないな」
「ほな返して」
「待ち」
伸びてきた桜子の手に、怜司の動きが止まった。
桜子が見ているのは刀身ではない。白木を削って作られた柄と、その刀身を収めていた鞘だった。
昨日の戦場で急造したものとして考えれば、何もおかしくはない。
必要になった刀身を清隆がその場で作り、それを怜司が握れる形へ収め、持ち運ぶための鞘まで用意した。
戦闘の最中だったことを考えれば、そこまで作っただけでも十分すぎるほどだった。
だが、昨日だけ使う応急品と、これからも使い続ける刀では話が違う。
桜子自身は剣士でも刀匠でもない。
それでも日本刀は以前から好きで、刀身の姿だけではなく、鍔や柄、目貫、縁頭、鞘まで含めた拵えを見ることも多かった。
形の違いを眺めるうちに、それぞれが単なる装飾ではなく、刀を扱うための役割を持っていることも知った。
だからこそ、白木の姿を見たときから気になっていた。
「昨日だけなら、これでええよ。時間なかったんやろ?」
「ああ」
清隆が答える。
「でも、怜司、これからも使うんやろ?」
「使うで」
「ほな、このままはあかん」
桜子は柄へ視線を落とした。
白木は握れるように削られているが、それだけだ。柄巻きもなく、鍔もない。
昨日の怜司は問題なく扱っていたものの、それはこの構造で十分だという意味にはならない。
「まず柄。ちゃんと握れるようにした方がええ。あと鍔も要る」
「鍔いる?」
「いる」
怜司は今の柄を握り、自分の手を見る。
「手ぇ滑らへんで?」
「あんたが滑らせるかどうかの話ちゃうねん。滑ったときに刃の方へ手ぇ行かんようにする意味もあるし、手元を守る意味もある。道具として、そうなったときにも大丈夫なように作るんや」
刀身がどれほど強くても、それを扱う人間との接点まで同じではない。
まして怜司が使う。
昨日見せた抜刀の速度も、振るう力も、一般的な剣士を基準に考えられるものではなかった。
今後も同じ使い方をするなら、最低限の構造だけで済ませる理由はなかった。
清隆は桜子の説明を聞きながら、改めて自分が作った刀を見る。
昨日、自分が必要とした条件は単純だった。
怜司が求める強度を持つ刀身であること、握れること、安全に持ち運べること。
戦闘中に用意できること。
そこへ、継続して使用する道具としての条件までは入れていなかった。
「他には?」
「鞘もやな。保管するだけやなくて、腰に下げて動いて、そこから何回も抜いて戻すんやったら、それ前提に作った方がええ」
「分かった」
清隆はあっさり頷いた。
自分が知らない分野について、知っているふりをする理由はないらしい。
「必要な構造を教えてくれ」
「うちも刀匠ちゃうから、細かい作りまで全部同じにはできへんで?」
「構わない。必要な理由が分かれば、こいつに合わせて作れる」
桜子もそれなら、と頷いた。
伝統的な日本刀をそのまま再現する必要はない。
基本となる役割を押さえたうえで、使う本人と、この世界で手に入る素材へ合わせればいい。
問題は、その本人だった。
「見た目はどうする?」
必要な構造が決まったところで清隆が尋ねると、怜司は机の上に残された白木の柄と鞘へ目を落とした。
戦場で急造されたそれには、飾るために加えられたものが何もない。
木そのものの色と質感が残り、刀身を収めるという役割だけが形になっている。
怜司が気に入ったのも、おそらくそこだった。
「白」
答えに迷う様子はなかった。
「柄と鞘?」
「うん。このまま白がええ」
桜子も、元の姿を残すことには異論がなかった。
拵えを整えるからといって、華美にする必要はない。
握るための構造や、腰へ下げて使うための機能を加えても、柄と鞘の印象そのものは残せる。
問題になるのは、これから新しく加わる金属部品だった。
清隆が鍔の入る位置へ指を置く。柄と鞘を白で揃えるなら、そこだけ別の色が入ることになる。
「ここは?」
怜司が答えるより先に、桜子は少し考えた。
白で統一すること自体はできる。
だが、手元に都合よく白い金属があるのでなければ、塗装なり表面処理なりで色を作ることになる。
それでは、簡素な姿を残したいという話から逆に遠ざかってしまう。
「そこまで白にせんでええんちゃう?」
「なんで?」
「金属まで白くしたら、そのために塗ったり加工したりせなあかんやろ。今の感じが好きなんやったら、金属は金属の色のままでええと思うで」
怜司は白木の柄と鞘を見て、それから刀身へ目を移した。
最初から全体を白く飾りたいわけではない。戦場で渡されたときの、必要なものしか存在しない姿が気に入っただけだ。
ならば、機能のために必要になった部品まで無理に同じ色へ寄せる理由はなかった。
清隆もその意図を理解すると、使用に耐えられる素材をいくつか候補として出した。
一つは刀身にも近い銀色。もう一つは光をほとんど返さない黒。
そして最後の一つは、磨き上げなくても鈍い金色を持つ特殊金属だった。
怜司は最初に銀色を見たものの、すぐ横にある刀身と見比べる。
鍔まで同じ色にすれば境界が曖昧になり、わざわざ選ぶほどでもないらしい。黒にも目を向けたが、それも選ばなかった。
残った金色の素材を手に取り、白木の柄の根元へ寄せてみる。
華美な輝きではない。素材そのものが持つ、少しくすんだ金色だった。
「これでええんちゃう?」
格式や象徴を持たせようとして選んだ色ではない。
白くするための余計な加工をせず、刀身と同じ銀を避け、黒にも寄せなかった結果として、そこに金色が残った。
それが白木の簡素さを壊していないことを確認すると、怜司はその素材を机へ戻した。
色が決まれば、次は形だった。
清隆が選ばれた金属を確認したところ、鍔として使う分には強度にも十分な余裕がある。
厚みを増して重くする必要もなく、必要な大きさへ成形しても問題はないらしい。
日本刀の鍔といっても形は一つではない。丸いものもあれば角のあるものもあり、意匠まで含めれば種類はいくらでもある。
ただ、今回必要なのは鑑賞するための鍔ではなかった。
桜子は机の上にある刀と怜司を交互に見た。
柄を握れば、刃がどちらを向いているかは分かる。
きちんと拵えを作る以上、そのためだけに鍔へ方向性を持たせる必要はない。
それより考えるべきなのは、昨日、怜司がどう戦っていたかだった。
「形、どうする?」
清隆に尋ねられた怜司は、少しだけ考えた。
「丸より角がええな」
今度は桜子も、すぐに否定しなかった。
怜司が日本刀らしい意匠を求めているのなら、単なる好みとして聞き流してもよかった。
しかし、この刀に装飾を加えるつもりはない。ならば形そのものにも、使う上での意味を持たせられる。
鍔は手が刃側へ滑るのを防ぐだけの部品ではない。相手の武器が手元へ迫れば、それを受け、逸らし、刃から手を守る最後の境界にもなる。
円形なら、どの方向にも同じ形をしている。
一方で角のある鍔なら、辺と角を使い分けられる。
相手の武器を受けた位置を手元の感触で捉え、そのまま滑らせるにも、次の動きへ繋げるにも使いやすい。
普通の使い手なら、そこまで鍔を積極的に使うことは考えないかもしれない。
だが、怜司なら話が違った。
刀だから斬るためだけに使う、という決まりを守るような戦い方はしていない。
使えるものがあり、その瞬間に最も早く相手を処理できるなら、柄でも鞘でも使う。
その延長に鍔が入っても、何も不思議ではなかった。
「……角の方が、怜司には合うか」
桜子がそう判断すると、清隆も同じように昨日の戦いを思い返しているらしく、角型を前提に寸法を考え始めた。
ただし、完全な正方形では取り回しの邪魔になる。
衣服へ引っ掛かり、抜刀や納刀の途中で余計な抵抗を生むようでは意味がない。
「四隅は落とそか。角鍔って分かるくらいは残して、引っ掛からんように」
怜司はその形を頭の中で想像したのか、しばらく柄元を見たあとで頷いた。
「それでええよ」
形が決まると、清隆は選ばれた金属を前に、今度は鍔そのものの構造を考え始めた。
通常の使い方をするだけなら、素材の強度にはすでに余裕がある。
刀身へ迫った武器を受け、手元を守る程度なら、それ以上を求める必要はない。
それでも清隆は、外周だけを別に強化することにした。
桜子はその意図に気づき、少し眉を寄せる。
「そこまで要る?」
「普通に使うなら要らない」
清隆が見ていたのは、まだ形になっていない鍔ではなく怜司だった。
昨日、刀を渡してからの使い方は見ている。
怜司は武器の形に自分の動きを合わせない。
刀なら刀として扱いながらも、その構造の中に使えるものを見つければ、躊躇なく選択肢へ加える。
敵が間合いの内側へ入り、刃を振るより鍔を叩き込む方が早ければ、刀だからという理由でそれを避けるとは思えなかった。
「こいつなら、ここでも殴る」
清隆が指したのは、角鍔の外周だった。
桜子もそこで、昨日の怜司の動きを思い返した。
否定できない。
むしろ、鍔を打撃に使えると一度理解すれば、次からは最初からそういう部位として扱いかねない。
怜司自身も二人が見ている場所へ視線を落とし、しばらく考えた。
「使えんやったら使うやろ」
予想どおりの答えだった。
「ほらな」
「刀で斬れや」
桜子は呆れたものの、清隆の判断そのものには反対しなかった。
想定された使い方にだけ耐えるものを作っても、怜司に渡した時点で想定外の使い方をされる。
それなら最初から、実際に起こり得る負荷を構造へ含めておいた方がいい。
鍔全体を無闇に厚くすれば、今度は手元が重くなる。
そこで中心部には本来必要な剛性だけを持たせ、武器を受ける可能性が高く、場合によってはそのまま打撃面にもなる外周へ、さらに強度の高い金属を組み合わせることになった。
補強は見た目へ主張させない。
完成すれば、外から見えるのは鈍い金色をした一枚の角鍔だけだった。
だがその外周は、刀を守る部品であると同時に、怜司が必要と判断すればそのまま相手へ叩き込める強度を持つことになる。
そこから先は、桜子が役割を示し、清隆が怜司に合わせて形へ落としていく作業になった。
柄は白を基調としながら、握った手が滑りにくい構造へ変える。
目貫も必要な位置には入れるが、装飾として主張させることはしない。
鞘も白い印象を残したまま、腰へ下げて動いたときに暴れず、抜刀と納刀を繰り返しても位置が変わりにくいよう調整する。
伝統的な日本刀をそのまま再現したものではない。
それでも、なぜ日本刀がその構造を持っているのかを桜子が拾い、清隆が怜司の身体と使い方に合わせて再構成していくことで、戦場で生まれた応急品は少しずつ一つの武器へ変わっていった。
完成した刀を、怜司が受け取る。
白い鞘と、同じく白を基調に整えられた柄。その境界には、四隅を落とした鈍い金色の角鍔が収まっている。
透かしも彫刻も紋章もない。
鞘から抜けば、そこから刃文を持たない銀色の刀身が続く。
必要な機能を一つずつ足した結果として、白と金と銀だけが残った。
怜司は腰へ下げ、数歩歩いた。
昨日までの白木の鞘とは違い、身体を動かしても位置が大きくずれない。
柄へ手を掛けると、巻き直された感触が掌へ馴染み、視線を落とすことなくそのまま抜く。
銀色の刀身が、白い鞘からほとんど音を残さず滑り出た。
一度止め、手首を返す。
構えを変えてから納め、今度は身体の向きを変えた状態でもう一度抜いた。
桜子が見ていたのは、速さではない。
柄が手の中でずれないこと。鞘が抜刀に引かれないこと。鍔が手の動きを邪魔せず、それでいて必要な位置へ収まっていること。
怜司は何度か確かめたあと、最後に刀を納めた。
「どない?」
桜子に聞かれ、怜司は柄を握ったまま少し考える。
「前より使いやすい」
「そら良かった」
派手な変化はない。
むしろ、見た目だけなら戦場で渡された白木の刀に、金色の鍔が一つ増えた程度にも見える。
だが桜子が確かめたかったのはそこではなかった。
昨日はただ使えたものが、今は怜司が繰り返し使うことを前提にした道具へ変わっている。
それが確認できれば十分だった。
その横で、彰人だけが少し離れたところから兄と刀を見比べている。
「……なんで無駄に似合うねん」
白い鞘と柄、鈍い金色の鍔、銀色の刀身。
どれも怜司の服へ合わせて選んだものではない。
白は本人が元の姿を気に入ったから。金は金属を塗装せず、素材そのものの色を使った結果。
そして角鍔も、装飾ではなく、怜司の戦い方を考えた末に選ばれた形だった。
機能だけを順に選んだはずなのに――
「知らん」
当人にはどうでもいいらしい。
「なんか腹立つな」
桜子が呟く。
「なんで?」
「知らん」
怜司が少しだけ眉を寄せた。
「俺の台詞取らんといて」
それを聞いて、彰人が吹き出した。
銘はない。
派手な装飾もない。
戦場で必要に迫られて生まれた刀に、使い続けるために必要なものだけが加えられた。
結果として完成したのは、見た目こそ簡素なままなのに、他の誰かが使うことをほとんど考えていない、怜司のための刀だった。
王城を出た頃には、陽は城壁の向こうへ傾き始めていた。
戦場から戻る途中にも王都の姿は見ている。
ただ、あのときは負傷者が行き交い、誰もが自分の身体を王城まで運ぶことで精一杯だった。
こうして街そのものを見るために歩くのは、二度目の星堕としが終わってから初めてになる。
十二人全員で固まって歩く必要もない。
被害を確認するだけなら人数が多すぎるため、自然といくつかの小さな集まりに分かれた。
彰人の近くには怜司と智希、それに桜子がいる。
少し離れたところを良澄と恭平が歩き、その向こうでは洋一が王都の兵から何か説明を受けていた。
街路へ入って最初に目についたのは、壊れた建物ではなかった。
人だった。
地下へ避難していた住民たちが、少しずつ地上へ戻り始めている。
家族らしい者同士で互いの無事を確かめる姿があり、店先へ積もった埃を掃き出している者がいる。
道へ転がった木箱を何人かで運び、割れた窓へ板を当てている者もいた。
日常へ戻った、とはまだ言えない。
それでも、日常へ戻ろうとする動きはもう始まっていた。
「思ったより普通やな」
彰人が周囲を見ながら言った。
言葉だけを聞けば軽くも思える。
だが、その視線は建物の上部や細い路地の奥まで動いていた。
戦場から王都を見たときには、敵性体の群れと飛び交う魔法、その向こうにある城壁しか認識する余裕がなかった。
百万近い敵がこの場所を目指していたことを考えれば、街そのものが残っていることさえ不思議に思える。
「普通ではないけどな」
桜子が、道の脇へ寄せられた瓦礫を見る。
外壁の一部が崩れた建物がある。屋根材が落ち、壁へ亀裂の入った家もある。
それでも、一棟すべてが失われたような場所は、少なくともここからは見えなかった。
「住めへんほど壊れてる家は少なそうやな」
「外側の方が酷いみたいですよ」
後ろから良澄が答えた。
先ほど兵から聞いた話では、城壁に近い区画ほど衝撃による被害が大きい。
それでも清隆が用意した防御と、王都側が事前に行った補強が効いたらしい。
何より、住民が建物の中に残っていなかった。
壊れたものは直せる。
人がいれば、そのための時間も残る。
歩いているうちに、こちらへ向けられる視線が増え始めた。
最初は、見慣れない服を着た集団が歩いているからだと思った。
だが、そうではない。
王城から借りた服へ着替えていても、顔までは変わらない。
昨日、アルトリウスが露台から民へ紹介した十二人。
そして今日、王都の外で戦っていた者たち。
気づいた住民の一人が足を止めた。
何かを言いかけ、迷った末に頭を下げる。
それを見た別の者も、同じように頭を下げた。
「……なんか増えてへん?」
「増えてるな」
彰人が小声で言い、それに返す桜子も声を落とす。
通りを進むにつれて、気づく者が増えている。
深々と頭を下げる者もいれば、軽く会釈するだけの者もいる。何もせず、ただこちらを見る者もいた。
反応は一つではない。
それでよかった。
つい昨日まで、十二人は異世界から突然現れた正体の分からない者たちだった。
一度紹介されたからといって、全員が同じように受け入れる方が不自然だろう。
ただ、以前のように露骨な警戒だけを向けられることは減っていた。
彰人はどう返せばいいのか分からず、とりあえず頭を下げ返す。
隣を見ると智希も似たようなことをしている。
桜子は慣れない様子ながらも一人ずつへ軽く会釈を返していた。
怜司だけは、少し違った。
頭を下げられる、見る。自分も下げる。次。
あまりにも機械的だった。
「兄貴」
「何?」
「もうちょい何かないん?」
「何が?」
「……もうええわ」
彰人が諦める。
怜司は理由が分からないまま、次に頭を下げてきた住民へまた頭を下げた。
その先で、小さな子供がこちらを見ていた。
親らしい女性の後ろへ半分だけ身体を隠し、それでも視線だけはこちらへ向けている。
怜司が前を通り過ぎようとすると、子供の目が腰へ移った。
白い鞘。
先ほど拵えを整えたばかりの刀だった。
怜司もその視線に気づいたらしい。
一度、自分の腰を見て、それから子供を見る。
「これ?」
子供が頷いた。
母親らしい女性が慌てて子供を引き寄せる。
怜司は気にした様子もなく、鞘へ収まった刀を少し持ち上げて見せた。
「触ったらあかんで。切れるから」
「そこなん?」
後ろで彰人が呟く。
子供は真面目な顔で、もう一度頷いた。
怜司も頷く。それで会話は終わったらしい。
歩き出した兄を追いながら、彰人は振り返る。
子供はまだこちらを見ていた。
今度は、母親の後ろへ隠れてはいなかった。
◇
王城へ戻った頃には、空の赤みもかなり薄くなっていた。
街を一周したわけではない。
被害の大きい区画へ立ち入れば復旧作業の邪魔になるため、実際に歩いたのは王城周辺と、兵から許可された範囲だけだった。
それでも十分だった。
報告書の数字では分からなかったものがある。
壊れた壁、道へ積まれた瓦礫、それを片づける人、店先を掃除する人。
帰る家が残っていることを確かめ、そこでようやく泣き始めた者。
守れた、という一言だけでは括れないものが街には残っていた。
そして、それらを見て王城へ戻った十二人を待っていたのは――。
「風呂」
彰人が言った。
「風呂だね」
智希が答えた。
「もう動けへん」
「さっき街歩いてたやん」
「あれで最後の力使った」
「俺も」
誰からともなく浴場へ向かい始める。
食事も終えた、装具も確認した、街の様子も見た。
今日中に十二人がやらなければならないことは、ひとまず残っていない。
ならば、あとは身体を洗って休むだけだった。
◇
湯気の向こうから、長い息が漏れた。
「……生き返るわぁ」
湯船の縁へ後頭部を預けた彰人が、そのまま目を閉じる。
身体を洗っている間は、まだ自分の意思で動けていた。
服を脱ぎ、傷がないことを確かめ、湯を浴びる。その程度のことなら、疲れていてもできる。
だが、肩まで湯へ沈めた瞬間、それまで身体の奥に残っていた力まで一緒に抜けた。
腕が重い。脚も重い。
痛いわけではない。ただ、もう今日は動かなくていいのだと身体が理解してしまったらしい。
背中を湯船へ預ければ、立ち上がる理由そのものが見つからなくなった。
「寝るなよ」
清隆の声が飛んでくる。
「寝てへん」
「目閉じてるぞ」
「休んでるだけや」
「そのまま寝る奴が言うやつだな」
言い返す気力までは残っていない。
彰人は片手だけ上げて返事の代わりにすると、その腕すらすぐ湯へ戻した。
周囲を見れば、似たようなものだった。
恭平は肩まで湯へ沈み、普段なら誰かの話へ自然に入ってくるところを、今は目を閉じたままほとんど動かない。
智希は湯船の縁へ両腕を載せ、その上へ顎まで預けている。
良澄はまだ姿勢を保っていたが、時折ゆっくり肩を回す様子には疲労が滲んでいた。
洋一や雅史も静かだった。
十二人は誰も大きな傷を負っていない。
それでも神装を維持し、あれだけの数を相手に戦い続けた負担まで消えるわけではない。
ヴァルネシア側は、疲労だけでは済んでいなかった。
ガルディオの身体には、治療を終えた細かな傷がいくつも残っている。
湯へ浸かる前にも薬を使ってよい傷か確認していたほどで、三柱ですら無傷ではない。
八傑に至っては、この場に来られない者もいた。
骨折や深い傷を負った者を、疲れを取るためだけに浴場まで連れてくる意味はない。
ここにいる者だけを見ても、王都の外で何があったのかは十分に分かった。
誰もが疲れている。
だからこそ、その中に一人だけ混じっている例外が目立った。
「……なあ」
彰人が目を開ける。
少し離れた場所で、怜司が普通に湯へ浸かっていた。
ぐったりするでもない。
痛む場所を確かめるでもない。
湯船へ身体を預けてはいるものの、それは疲れ果てた者の姿ではなく、単に風呂へ入っている人間の姿だった。
彰人は自分の腕を一度持ち上げる。
重い。
今日一日、神装を纏って走り、殴り、投げ続けた結果がそこに残っている。
その視線を怜司へ戻す。
兄が今日やったことを思い返してみた。
敵性体を殴っていた。
途中から刀を持った。
何十体を斬ったのかは分からない。そもそも、どう斬ったのかさえ見えなかった。
そのうえ最後には、空に浮かんでいた星堕としそのものを破壊している。
比較するほど、理屈が合わなくなった。
「やっぱおかしいやろ」
「何が?」
「なんで元気やねん」
「知らん」
怜司は自分の身体を見下ろした。
聞かれたから確認してみた、という程度の反応だった。
智希も湯船の縁から顔を上げる。
「ニイさん、ほんとに疲れてないの?」
「別に」
「筋肉痛とか、腕重いとか」
「特にないなぁ」
「眠いとか」
「それは普通に眠い」
「そこだけ普通なんだ……」
智希が再び腕の上へ顎を載せた。
彰人はなおも怜司を見る。
服を着ていれば細身に見えるが、身体そのものが華奢なわけではない。
余計な脂肪は少なく、肩や背中、腹には相応の筋肉がついている。
それでも、今の状態を説明できる身体には見えなかった。
「兄貴、あんだけ刀振ってたやん」
「振ってたな」
「その前もずっと殴ってたやん」
「殴ってたな」
「最後、星まで落としたやん」
「落としたな」
「なんで疲れてへんねん」
「知らんて」
本人にも分からない。
彰人が欲しいのは説明なのに、怜司の中には説明に使える材料そのものがないらしい。
『……以前から、そうなのか?』
低い声が加わった。
ガルディオも気になったらしく、怜司ではなく彰人へ顔を向けている。
本人へ聞いても答えが返ってこないことを、今のやり取りだけで理解したのかもしれない。
「いや……ここまでちゃうと思うけど」
彰人は記憶を辿った。
兄が体力に乏しかった覚えはない。
だからといって、持久力を鍛える競技を続けていたわけでも、格闘技で身体を作ってきたわけでもない。
自分なら説明できる。
サッカーをやっていた。今もフットサルで身体を動かす。走る、止まる、方向を変える。相手と接触しながら姿勢を保つ。
そうしたものが今の身体へ繋がっていることくらいは分かる。
怜司には、それに相当するものが――。
「車?」
「なんでやねん」
思いついた本人が言った。
彰人も反射的に否定したものの、すぐには続きを言えなかった。
幼い頃からではないにせよ、兄が車を運転してきた時間は長い。
しかも、ただ座って移動してきたわけではない。身体へ掛かる力を受け、姿勢を保ち、必要な瞬間には全身を固める。
本人が意識していないだけで、何かしら身体へ影響していてもおかしくはない。
もちろん、それだけで今日の怜司を説明できるはずもなかった。
「……いや、兄貴の場合、ちょっとありそうなん腹立つな」
「何で?」
「知らん」
怜司が首を傾げる。
結局、答えは出ない。
それでも一つだけ分かったことがあるとすれば。
この身体について一番何も考えていないのは、間違いなく本人だった。
◇
女湯では、男湯とは少し違う理由で、互いの身体へ目を向ける時間が生まれていた。
戦場から戻った直後は、誰も細かな傷まで気にしている余裕がなかった。
治療が必要なものは、すでに確認されている。骨や関節に異常があれば、そもそもここには来ていない。
それでも、服を脱いで身体を洗えば初めて気づくものはある。
擦れた跡、薄い痣、いつぶつけたのかも分からない赤み。
命に関わる傷ではないからこそ、戦っている最中には意識へ上らなかったものだった。
「ここ、赤なってるで」
桜子がセレスティアの肩へ目を留めた。
自分では見えにくい、肩の少し後ろ。薄く擦れたような跡が残っている。
セレスティアが首を傾け、指先で探ろうとした。
『どこですか?』
「もうちょい後ろ。そこやなくて……あー、触らん方がええわ」
桜子が手で制する。
戦闘中に何かが掠めたのか、それとも魔法を放った際にどこかへぶつけたのか。本人にも心当たりはないらしい。
セレスティアの指先へ魔力が集まりかける。
それを見て、今度は桜子が眉を上げた。
「こんなんまで魔法使わんでもええんちゃう?」
『ですが、残りますよ?』
「これくらいやったら薬塗っときゃ治るやろ」
浴場へ用意されていた薬を手に取り、傷へ薄く伸ばす。
指先が触れると、セレスティアが僅かに肩を竦めた。
傷が痛んだというより、くすぐったかったらしい。
『桜子さんにはありませんか?』
「ん?」
『傷です』
言われて初めて、桜子も自分の身体を見回した。
腕を返し、肩を見る。
肘の近くに、小さな擦り傷が一つだけ残っていた。
「あったわ」
『ほら』
「これ傷に入るん?」
『入ります』
即答されれば、無視する理由もない。
桜子も同じ薬を薄く塗った。
少し離れた場所では、ナーシャとアルネアが互いの背中を確認している。
フィルネの場合は、さらに事情が違った。
翼の付け根は本人からでは確認しづらい。羽毛の間へ傷が隠れていないか、ナーシャが慎重に翼を避けながら見ていた。
『こちらは大丈夫そうね』
『本当ですか?』
『ええ。少し赤くなっているだけ。傷にはなっていないわ』
フィルネが目に見えて息を抜く。
戦場では、傷の有無を確かめる余裕すらなかった。
今になって、ようやく互いの身体を見て、大したものではないと確認できる。
それだけでも、戦いが終わったのだという実感は少しずつ増していった。
セレスティアも、最初は自分の肩に残った赤みしか気にしていなかった。
薬を塗り終えた桜子が、身体に残った泡を流すために立ち上がる。
何気なく、そちらへ目を向けた。
そして、視線が止まった。
桜子は気づいていない。
髪を邪魔にならないようまとめ直し、そのまま湯を流している。
セレスティア自身、細身であることを不満に思ったことはほとんどない。
エンシェント・エルフとして見れば珍しい体格でもなく、長く生きてきた中で、その身体が不都合になった経験もない。
研究にも、魔法にも、三柱としての役目にも。
必要だったことなど、一度もなかった。
ただ、一つだけ。
本人なりに、もう少しどうにかならなかったのだろうかと思っている部分はある。
セレスティアは一度、自分の身体へ視線を落とした。
それから、もう一度桜子を見る。
背丈なら、自分の方が高い。
桜子はむしろ、人間の女性として特別大柄には見えない。
それなのに、身体の線は明らかに違っていた。
そこで比較をやめておけばよかった。
反対側で、ナーシャが立ち上がった。
セレスティアの視線が、そちらへ向いて止まる。
ほんの少しだけ長く止まった。
すぐに自分へ戻す。
桜子を見る、ナーシャを見る、そして、また自分を見る。
魔法の威力には関係しない。
知識の量にも関係しない。
王国を守る力にも、研究者としての能力にも関係しない。
分かっている。
そんなことは、誰かに説明されるまでもなく分かっている。
それでも気になるものは、気になる。
「……何してんの?」
声を掛けられ、セレスティアの視線が止まった。
桜子がこちらを見ている。
『何もしていません』
「めっちゃ見てたやん」
『見ていません』
「見てたで」
『見ていません』
否定だけが妙に早かった。
桜子はまだ理由まで分かっていないらしい。訝しげにこちらを見ながら、湯船へ身体を沈める。
その横で、アルネアの視線が動いた。
セレスティアを見る、次に桜子、反対側にいるナーシャ。
そして、もう一度セレスティアへ戻った。
表情が僅かに変わる。
『ああ』
『何ですか』
『いえ』
『何ですか』
『何でもありません』
何も言っていない。
それなのに、その一言だけで何かを理解されたことは分かった。
セレスティアの目が細くなる。
今度はナーシャが二人の様子へ気づいた。
『どうしたの?』
『何でもありません』
『そう?』
ナーシャは首を傾げただけだった。
まだ分かっていない。
それが、なぜか余計にセレスティアを落ち着かなくさせた。
彼女はそのまま湯船へ入る。
肩まで沈んだ。
少し考えて、もう少し沈んだ。
「……セレスティア?」
『何ですか』
「いや、沈んでるで」
『温かいので』
「さっきまで普通に入ってたやん」
『今の方が温かいです』
「湯、一緒やで」
桜子が隣へ入ってくる。
水面が揺れ、肩同士の距離が近づいた。
セレスティアは前を向いていた。
だが、その視線が一瞬だけ横へ動く。
桜子へ。正確には、もう少し下へ。
そして、すぐ前へ戻した。
その動きを、今度は桜子が見逃さなかった。
桜子は自分を見る、セレスティアを見る、もう一度、自分を見る。
ようやく二つが繋がった。
「……ああ」
『言わないでください』
「まだ何も言うてへんやん」
『今、分かった顔をしました』
「したけど」
『なら言わないでください』
「分かった分かった」
桜子に悪気はない。
そもそも自分の体型について、普段から意識しているわけでもなかった。
生まれつきそうだった。それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、セレスティアにとっては余計にどうしようもない。
比較しているのは自分だけなのだ。
しかも、その比較に何の意味もないことまで自分で分かっている。
分かっていて気になるのだから、理屈では片づかなかった。
そこへ、最も比較したくない相手から声が飛んできた。
『セレスティア』
ナーシャだった。
セレスティアは少しだけ間を置いてから振り返る。
『何ですか』
『さっきから、こちらを見ていたでしょう?』
『見ていません』
『そう?』
『そうです』
ナーシャが不思議そうに首を傾げる。
視線が自分の身体へ落ちた。
次にセレスティア、その隣の桜子、もう一度、自分。
何かを探すように、その三つを順番に見比べる。
数秒、何かわからずに沈黙が過ぎる。
ナーシャの表情が変わった。
『……ああ』
『言わないでください』
今度は、理解された瞬間に止めた。
ナーシャの口元が僅かに緩む。
アルネアはとうとう顔を背けた。
その肩が小さく揺れている。
『アルネア』
『何でもないわ』
『笑っていますよね?』
『笑ってない』
『こちらを見てください』
『今は無理』
『笑っていますよね?』
返事はなかった。
代わりに肩の揺れが少し大きくなる。
戦場であれば、セレスティアが何を言おうと全員が真剣に耳を傾けただろう。
三柱の一人、王国でも有数の魔法使い。
八百年近い時間を生きてきたエンシェント・エルフ。
だが、湯船の中でまで、その肩書きが役に立つわけではなかった。
フィルネだけは、まだ少し事情が分かっていないらしい。
周囲の視線を追い、自分を見る、桜子を見る、セレスティアを見る。
何を比較しているのかに気づくまで、少し時間が掛かった。
やがて自分の身体へもう一度目を落とす。
『私は気になりませんけど』
悪意は一切なかった。
自分も細身であることを理解したうえで、本当に気にしていない。それだけの言葉だった。
だからこそ、セレスティアには何も返せない。
ゆっくりとフィルネを見る。
『……フィルネ』
『はい?』
『あなたは、それでいいのです』
『はい』
素直に頷かれた。
最後まで伝わっていない。
桜子が堪えきれずに吹き出した。
それにつられてナーシャも笑い、アルネアはまだこちらへ顔を向けられない。
『もう……』
セレスティアは口元まで湯へ沈んだ。
少し前までなら、こんなことで笑っている余裕はなかった。
身体に残った傷を見つければ、それが戦える傷なのかを先に考えた。誰かが倒れていれば、次に動ける者を探した。
今は違う。
小さな擦り傷へ薬を塗り、何の役にも立たない比較をして、それを見つかって笑われている。
戦いが終わったという事実は、静かになった空よりも、案外こういうところから身体へ染み込んでくるのかもしれない。
セレスティアは湯の中から顔を半分だけ出した。
笑い声は、まだ止んでいなかった。
笑いが完全に収まるまでには、もうしばらく掛かった。
セレスティアが何を言っても、桜子かアルネアのどちらかが思い出したように笑う。
そのたびに本人は不満そうな顔を見せたが、本気で怒っているわけではないことくらい、この場にいる全員に分かっていた。
やがて笑い声も少しずつ小さくなり、誰からともなく湯船の縁へ身体を預けていった。
静かになれば、今度は湯の温かさが意識へ戻ってくる。
戦場で張りつめていたものが、身体の内側から少しずつ解けていくようだった。
フィルネが翼を濡らさないよう位置を直し、ナーシャは長い髪を湯へ落とさないようまとめ直している。
アルネアはまだ時折セレスティアへ視線を向けていたが、目が合えば何事もなかったように逸らした。
その姿を眺めていた桜子の目が、ふと先ほど塗ったばかりの自分の肘へ落ちる。
小さな擦り傷だった。セレスティアの肩に残っていたものも似たようなもので、フィルネの翼にも大きな傷はなかった。
少し前まで、その程度の傷を見つけて笑っていた。
思えば、それ自体が随分と贅沢な話だった。
桜子はもう一度、湯船にいる顔ぶれを見回す。
「……でもまあ、全員こんな程度で済んでよかったな」
今度の言葉には、誰もすぐには返さなかった。
何を指しているのか、説明する必要はなかった。
ここにいる者たちは、こうして湯に浸かっている。
見つかったのも、笑って済ませられる程度の傷ばかりだった。
だが、八傑にも十三将にも、この浴場へ来られなかった者がいる。
兵の中には、今も治療を受けている者がいるはずだった。
それでも、死者はいない。
あれだけのものが王都へ押し寄せた結果としては、出来すぎていると言ってもよかった。
『……そうですね』
セレスティアも、今度は素直に頷いた。
水面へ落としていた視線を上げる。
『一度目のあと、もっと早く気づけていればと思うことはあります。でも――』
そこで言葉を切った。
もしも、という話を始めれば終わらない。
もっと早く星堕としの兆候に気づいていれば。
敵性体の仕組みが分かっていれば。
二度目そのものを防ぐ方法があれば。
考えられることはいくらでもある。
だが、起きてしまったものをなかったことにはできない。
『今回は、守れました』
「せやな」
桜子の返事は短かった。
それで十分だった。
セレスティアも、それ以上は続けなかった。
しばらくして、フィルネが小さく息を吐いた。
『……眠くなってきました』
「寝たらあかんで」
『寝ません』
「さっき男湯の方からも似たようなん聞こえた気ぃするわ」
『聞こえるのですか?』
「いや、聞こえへんけど」
『では、なぜ……?』
「たぶん彰人が言うてる」
『なぜ彰人さんなのですか?』
「言いそうやから」
根拠として成立しているのかは分からない。
だが、桜子の中では成立しているらしい。
その名前が出たところで、ナーシャの視線が僅かに動いた。
そして、セレスティアへ向く。
本人は気づいていない。
『そういえば』
ナーシャが何気ない声で切り出した。
『彰人とは、街を歩く約束をしていたのでしょう?』
セレスティアの肩が、ほんの僅かに止まった。
桜子は気づいた。アルネアも気づいた。
先ほどまで何も分かっていなかったフィルネまで、今度は二人を見比べた。
『……はい』
返事までに、ほんの少し間があった。
『以前、途中になってしまいましたから』
「今日も途中にならんかったな」
桜子が言う。
セレスティアがそちらを見る。
「街、残ったやん」
言われて、セレスティアは少し目を見開いた。
一度目の星堕としのあと。
彰人と歩いた街。
食べ物を買い、話をして、その続きを残した場所。
今日、そこが完全に無事だったわけではない。
壊れたものもある。傷ついた人もいる。
それでも街は残っている。
約束を続けられる場所も、そこに暮らす人も残った。
『……そうですね』
今度の返事は、先ほどより柔らかかった。
『落ち着いたら、続きを歩きます』
『落ち着いたら?』
アルネアがそこだけ拾った。
『何ですか』
『いいえ。随分と曖昧だと思っただけ』
『今は王都の復旧があります』
『あなたが全部直すの?』
『そういう意味ではありません』
『なら、一日くらい空くでしょう?』
セレスティアが答えに詰まった。
王都の復旧は三柱の仕事でもある。
だが、三柱が一日中瓦礫を運ぶわけではない。
魔法研究院の仕事もあるが、今日明日ですべてを片づけなければならないわけでもない。
理屈で考えれば、アルネアの言うことは間違っていなかった。
「まあ、彰人に聞いたらええんちゃう?」
桜子があっさり言う。
『私からですか?』
「約束してんねやろ?」
『していますが……』
「ほなええやん」
セレスティアは少し考え込んだ。
桜子には、何を迷っているのか分からない。
彰人なら誘われれば普通に行くだろうし、そもそも本人から「これ終わったら」と言っている。
そこに難しい話など何もない。
だが、セレスティアの中では違うらしい。
八百年近い知識でも役に立たないことが、今日は妙に多かった。
ナーシャはそんな彼女を見ながら、楽しそうに目を細めていた。
◇
浴場を出る頃には、城の中もすっかり夜になっていた。
湯で温まった身体に、廊下を流れる空気が心地いい。
彰人は借りた服の襟元を軽く引きながら、用意された部屋へ戻ろうとして――途中で足を止めた。
眠い、疲れている。
部屋へ戻れば、おそらくすぐ寝られる。
それでも、そのまま横になる気にはなれなかった。
理由を言葉にしようとしても、うまくまとまらない。
身体は休みたがっている。
頭の方が、まだ今日を終わらせていなかった。
彰人は廊下の先を見る。
昨日、アルトリウスが民へ語りかけた露台へ続く道は覚えている。
少しだけ迷ってから、部屋とは違う方向へ歩き出した。
◇
露台へ出ると、夜の王都が見えた。
昨日とは違う。灯りの数が少ない。
消えてしまったわけではなく、まだ避難先から戻っていない家もあれば、損傷した建物もある。
復旧作業のために人が集まっている場所だけ、逆に灯りが固まって見える。
その向こうには城壁がある。
さらに先は暗く、昼間まで戦場だった場所を夜の中へ隠していた。
彰人は欄干へ両腕を置く。
「……終わったんかなぁ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
星堕としは壊した。敵性体も倒した。
王都も残った。死者も出なかった。
なら、終わったと言っていいはずだった。
だが、引っかかる。
最初の星堕としが終わったときも、終わったと思った。
そのあと怜司が、もう一度来ると言った。
そして本当に来た。
今日倒した敵の中には、それまでとは違うものまでいた。
人の形をした敵。
こちらの動きを見て、考えて、弱いところを選んで狙ったもの。
あれが何だったのかは、まだ分かっていない。
終わったのは、今日の戦いだけなのかもしれない。
『彰人』
背後から名前を呼ばれた。
振り返る。
セレスティアが露台へ出てきたところだった。
「セレスティア」
『やはり、ここにいたのですね』
「なんで分かったん?」
『分かったわけではありません』
セレスティアはそう答えながら隣まで歩いてくる。
『部屋へ戻る途中で、こちらへ向かう姿が見えました』
「ああ」
それなら不思議でもない。
セレスティアも欄干の前へ立つ。
二人で同じ街を見る形になった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
昼間なら復旧作業の音が聞こえていただろう。
今も完全に静かではない。
遠くで何かを運ぶ音がする。
人の声も、ごく僅かに届く。
街が眠っているというより、まだ眠れずにいるような夜だった。
『街は残りました』
「うん」
『約束も』
彰人が横を見る。
セレスティアは王都を見たままだった。
何のことかは、すぐ分かった。
「せやな」
『……忘れていませんか?』
「忘れてへんよ」
むしろ、こんな状況で本人から確認されるとは思っていなかった。
「落ち着いたら行こ」
『また、落ち着いたら、ですか?』
「ん?」
彰人が首を傾げる。
セレスティアは一瞬だけ言葉に迷った。
浴場で言われたことを、そのまま口にするのも何か違う。
『……いえ。何でもありません』
「何やねん」
『何でもありません』
彰人は不思議そうにしていたが、それ以上は追わなかった。
セレスティアも少しだけ息を吐く。
そのまま話が途切れる。
けれど、先ほどまでとは違って、沈黙は重くなかった。
やがて彰人が、城壁の向こうへ目を向けた。
「でも、その前にあれやな」
『はい』
セレスティアも分かっていた。
「ほんまに終わったんか、調べんとな」
星堕としは消えた。敵も倒した。
それでも、なぜ二度も起きたのかは分かっていない。
敵性体がどこから来たのか。
なぜ王都を目指したのか。
そして、最後に現れた人型のものが、なぜそれまでとは違う動きをしたのか。
『明日、清隆さんたちが調べる予定です』
「人みたいなやつ?」
『はい。回収できたものがあります』
彰人の脳裏へ、最後の戦場が蘇る。
武器を避ける。仲間と動きを合わせる。こちらの弱い場所を探す。
それまでの敵性体にも学習しているような動きはあった。
だが、あれは違った。
戦っている最中には、考える暇などなかった。
今になって思い返せば、敵というより――誰かと戦っている感覚に近かった。
「……あいつら、何やったんやろな」
『分かりません』
セレスティアは答えを濁さなかった。
『ですが、これまでのものと同じだとは思えません』
「やんな」
それ以上は、明日にならなければ分からない。
彰人は欄干から身体を起こした。
「ほな、寝よか」
『はい』
二人で露台を離れようとして、彰人が一度だけ足を止める。
「セレスティア」
『はい?』
「街の続き」
セレスティアが振り返る。
「ちゃんと行くから」
それだけ言う。
いつ行くのかは決めていない。
何をするのかも決めていない。
けれど、戦いが終わったから消えてしまう約束ではない。
セレスティアは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
『はい』
今度は、それだけで十分だった。
◇
夜は深くなっていた。
王城の大半から、人の動く気配が消えている。
今日ばかりは、誰も夜更かしをしようとは思わなかった。
それでも、怜司はまだ寝ていなかった。
眠くないわけではない。
風呂でも言った通り、普通に眠い。
部屋へ戻り、横になれば眠れるだろう。
なのに、窓から見えた空が気になった。
理由は分からない。何かが見えたわけでもない。
星堕としはもうない。空から敵が降りてくる気配もない。
それでも一度気になると、そのまま寝る気にはなれなかった。
怜司は王城の上部へ出た。
昼間までとは違い、空は静かだった。
星がある。雲もある。
それだけだった。
「……何やろ」
自分でも分からない。
二度目が来ると気づいたときとは違う。
あのときは、見れば終わっていないと分かった。
今は、そこまで明確ではない。
終わっていない、とも思わない。
もう一度星が落ちてくる、とも思わない。
ただ――
何か一つ、まだ残っている。
そんな気がした。
怜司は空を見たまま、しばらく動かなかった。
星を一つずつ見ているわけではない。
雲の形を調べているわけでもない。
空全体を見ていた。
どこがおかしいのかと問われても、答えられない。
そもそも、おかしい場所が空にあるのかさえ分からない。
「……まあ、明日でええか」
考えても分からないものは、考えても分からない。
怜司は踵を返し、数歩進んでから、一度だけ振り返る。
静かな空は、やはり何も答えなかった。
それでも。
気になったという事実だけは、消えなかった。
◇
翌朝。
王都は、昨日より早く動き始めていた。
王城から見下ろせば、まだ夜の色を残した街路を人が行き交っている。
崩れた壁の前にはすでに資材が積まれ、城壁に近い区画では兵と住民が一緒になって瓦礫を運んでいた。
二度目の星堕としが終わって、まだ一日も経っていない。
それでも、王都に暮らす者たちにとっては、立ち止まっている時間そのものが惜しいのだろう。
壊れたものを直す。使えなくなった道を空ける。避難先から家へ戻る。
昨日まで守る対象だった街が、今日は自分たちの手で元へ戻され始めていた。
王城の一角では、それとは別の作業が始まっていた。
用意された部屋の中央に、二つの台が並んでいる。
一方に載せられているのは、これまでにも調べた敵性体。
もう一方は、昨日の戦いの最後に現れた人型の個体だった。
完全な状態のものではない。
戦場から回収できた中でも、内部構造を確認できる程度に損傷の少なかったものが選ばれている。
ほかにも部位ごとに回収されたものがいくつかあり、それぞれ別の台へ置かれていた。
清隆はその一つを前に、しばらく黙っていた。
「……やっぱ違うな」
隣にいた雅史が、開いていた記録へ視線を落とす。
「どこから?」
「順番に見た方がいい」
清隆は人型ではなく、先に通常の敵性体へ向かった。
前回の調査で分かったことを、もう一度確認する。
筋肉に近い組織がある。身体を動かすための構造がある。
外から取り込んだものを分解し、各部へ回すための器官もある。
生物として見れば奇妙ではあるが、それぞれが何をするために存在するのかは、ある程度推測できるようになっていた。
問題は、やはりその先だった。
身体のどこを探しても、全体を統括する器官が見つからない。
人間でいう脳。あるいは、それに相当する何か。
個々の部位を動かすための構造はあるのに、その動きを一つの行動へまとめる場所がない。
以前の調査で見つかった、頭部付近の細い構造だけが例外だった。
「こっちは変わらない」
清隆が、その部分を指す。
智臣が少し身を寄せた。
頭部に近い位置から内部へ入り込み、そこから細かく枝分かれしている。
前回、セレスティアが外から内へ向かう微かな流れを感じ取った場所でもある。
指揮型では、これがより発達していた。
外から何かを受け取るためのものではないか。
そこまでは、すでに出ていた推測だった。
「受け取ったもんを、そのまま各部に流してる?」
智臣が訊く。
「可能性はある。ただ、それだけだと説明できないところが残る」
清隆は通常型の身体から手を離した。
昨日までなら、その答えを探すためにさらに内部を調べていただろう。
今日は比較する相手がある。
隣の台へ移る。
人型の個体。外見だけなら、人間に似せて作られた何かに見える。
頭部があり、胴があり、二本の腕と二本の脚を持つ。
だが、皮膚に相当する外側を開けば、人間との違いはいくらでも見つかった。
「ここ」
清隆が頭部を示した。
雅史が隣へ移動し、智臣も覗き込んだ。
通常型にも存在した細い構造が、人型にもある。
位置も似ている。内部へ入って枝分かれしている点も同じだった。
ただ、その先が違った。
通常型では、そこから各部へ直接広がっていた。
人型では、一度別の組織へ集まっている。
清隆は周囲を傷つけないよう、その部分を露出させていった。
昨日の時点で一度確認している。
それでも、改めて見れば違和感は大きかった。
「脳……?」
雅史が呟いた。
「同じものとは言えない」
清隆はすぐに否定した。
「構造が違う。人間の脳を小さくしたものでもないし、こいつらが人間に近づいたって意味でもない」
似ているのは、存在する場所ではない。役割だった。
受け取ったものが、直接身体へ流れていない。
一度ここへ集まり、そこから複数の経路へ分かれている。
さらに、その組織自体から別の経路も伸びていた。
手足、感覚器らしい場所、身体の各所。
昨日の戦場で見たものが、清隆の頭の中で構造と繋がっていく。
攻撃を避け、相手を選び、複数で位置を変えた。
一度失敗した方法を繰り返さず、別の手段へ切り替えた。
通常型にも、危険な相手を避ける程度の変化はあった。
だが、人型は違う。
与えられた動きを繰り返していたのではない。
状況を見て、次の行動を変えていた。
「……考えるための場所か」
清隆の声が少し低くなった。
断定するにはまだ早い。
だが、少なくとも昨日まで存在しなかった説明が、一つ成立する。
人型には、受け取った情報をそのまま身体へ流すのではなく、一度まとめ、別の行動へ変換する構造がある。
それならば、戦場で見せた動きにも説明がつく。
「でも」
雅史が、通常型の方を見る。
「こっちと同じものも残ってる」
「ああ」
清隆もそこを見ていた。
それが問題だった。
自分で判断できる構造を持つようになったのなら、外部から何かを受け取るための構造は何のために残っているのか。
人型も、何かを受け取っていた。そのうえで、自分で考えていた。
「命令と、やり方が別なんじゃないかな」
雅史が言った。
清隆はすぐには答えなかった。
人型の内部へ視線を戻す。
「続けて」
「例えば――」
雅史は言葉を選ぶ。
「何をするかだけ決められてる。そこへどう辿り着くかは、自分で決める」
清隆の視線が止まった。昨日の動きへ当てはめる。
王都へ向かう、人を襲う、こちらが防げば、それを突破する。
突破できなければ、別の場所を探す。
強い相手がいれば避ける。弱い場所を見つければ、そこへ集中する。
細かな行動まで外から一つずつ与える必要はない。
目的だけを与える。達成する方法は、その場で判断させる。
「……あり得る」
清隆が言った。
だが、それでもまだ推測だった。
構造から役割を考えることはできる。昨日の行動と照らし合わせることもできる。
それだけで、この敵が何を受け取っていたのかまでは分からない。
「智臣」
「ん、何だ?」
「これ見て何か分からない?」
突然振られ、智臣が眉を上げる。
「俺?」
「前のとき、セレスティアさんが流れを見つけたよね。智臣も空間の方から見れるだろ」
「……やってみよう」
智臣が台へ近づいた。
手を触れるわけではない。人型の内部を見るでもない。
少し離れた位置で立ち、意識を向ける。
部屋の中にある空気、魔力。その間にある、ごく僅かな違和感。
生きて動いていたときと、今では条件が違う。
完全に同じものを感じ取れる保証もない。
しばらく何も起きなかった。
清隆も雅史も急かさない。
やがて、智臣の表情が僅かに変わった。
「……これ」
「何かある?」
「ある、と思う」
歯切れが悪い。
智臣自身、まだそれが何なのか掴めていない。
だが、その感覚が、本能的に何かがあるという警鐘を鳴らしていた。
「こいつの中じゃない」
その言葉に、清隆が顔を上げる。
「どういう意味?」
「残ってる感じがする。でも、ここから出てるんじゃない」
智臣は人型ではなく、その周囲へ視線を動かした。
何もない空間を見る。
右、左、少し上。
位置を変えても、表情から違和感は消えなかった。
「何かが、こいつに向かってた」
清隆は黙って聞く。
「魔力……とも違う。少なくとも、俺が知ってる流れ方じゃない」
「方向は?」
「それが変なんだ」
智臣が眉を寄せた。
指を向けようとして、途中で円を描いて止まる。
何らかの方向を指そうとして、迷ったまま止まったように見える。
「向こう、とかじゃない」
「……向こうじゃない?」
「ああ」
言葉にしようとしても、適切なものが見つからない。
遠くから来ているなら、方向がある。
上からなら上。城の外からなら、その方角。
だが、今感じているものは違った。
「ここに来てる。でも、どっちから来たのかがない」
雅史が記録していた手を止めた。
清隆もすぐには質問を重ねなかった。
まだ、答えに形を与える段階ではない。
ただ、昨日まで分からなかったものが、一つ分かった。
敵性体は、自分たちだけで完結していない。
人型になっても、それは同じだった。
自分で考えるための構造を持ちながら、なお外から何かを受け取っている。
ならば、何を受け取っていたのか。
そして――誰が、それを送っていたのか。
清隆が人型へ視線を戻した。
昨日までとは、問いの形が変わっていた。
◇
「行人も呼ぼう」
しばらく人型を見つめていた清隆が言った。
智臣が感じ取ったものは無視できない。
だが、それだけを根拠に結論を出すにはまだ足りなかった。
空間を捉える智臣だからこそ気づけたものなのか。
それとも、別の方法でも同じ異常へ辿り着けるのか。
確かめられる相手はいる。
「俺と同じものが分かるとは限らないぞ」
智臣が念を押すように言った。
自分自身、先ほど感じたものをまだ言葉にしきれていない。
空間のどこかに違和感が残っている。
それだけは確かでも、それが何なのかを説明できる段階にはなかった。
「同じじゃない方がいい」
清隆はすぐに答えた。
求めているのは智臣の感覚を再現できる人間ではない。別の方法で調べた結果、同じ異常へ辿り着けるかどうかだった。
「違う見方でも引っかかるなら、その方がいい」
智臣は人型へ目を戻した。
自分にしか分からないものなら、能力に由来する特殊な感覚という可能性も残る。
別の人間が別の方法で異常を拾えば、少なくともここに何かがあるという根拠は一つ増える。
「なるほどな」
雅史も二人の意図を理解したらしい。記録へ一行を書き加えたあと、ふと思いついたように顔を上げる。
「先に詳しく話さない方がよさそうだね」
「何を?」
「智臣が感じたもの。先に聞いたら、行人も同じものを探しちゃうかもしれないから」
答えを知った状態で探せば、無意識にそこへ意識を向けてしまうかもしれない。
確かめたいのは、同じ答えを見つけられるかではなく、何も知らない状態でも異常そのものに気づけるかだった。
「それもそうだな」
智臣が頷き、それ以上は自分が感じたものについて触れなかった。
ほどなくして、呼ばれた行人が部屋へ入ってきた。
昨日の疲労は当然残っている。眠ったことで多少は戻っているものの、身体の芯に残った重さまでは消えていなかった。
「何か分かったんですか?」
行人は室内へ入りながら、二つの台へ目を向ける。通常型と人型。
さらに清隆たちが揃っているのを見れば、朝から呼ばれた理由が調査に関係していることくらいは察せられた。
「まだ。確認したいことがある」
清隆は通常型と人型の違いを簡単に説明した。
外部から何かを受け取っていると考えられる構造は、どちらにも存在する。
だが、人型にはその情報を一度集め、自身の行動へ変換しているように見える組織があった。
昨日の戦場で見せた動きまで含めれば、自ら判断していた可能性は高い。
それでも、外部との繋がりは失っていない。
「それで、俺が妙なものを感じた」
説明が一段落したところで、智臣が人型へ視線を向けた。
先ほどから引っかかっている感覚は、まだ消えていない。
人型そのものを見ても、その周囲へ意識を広げても、何かがあるという感覚だけが残り続けている。
「妙なもの?」
行人が訊き返す。
だが、智臣はそこで説明を続けなかった。
「ああ。ただ、何を感じたかはまだ言わない」
理由が分からず、行人の視線が清隆と雅史の間を動く。
「先に聞かない方がいいと思うよ」
その疑問を拾った雅史が補った。
「行人が何を感じるのか、まずそっちを見た方がいいから」
そこで行人にも意図が伝わった。
智臣の感覚を確かめるのではない。
自分が何も知らない状態で、この人型から何を拾えるのか。
それ自体が調査になる。
「ああ、なるほど」
改めて台の上を見る。
何を探すのか決められていないことは、やりにくさでもある。
だが、今はそれでいいのだろう。
「俺は何をすれば?」
「こいつを見て、何か感じないか調べて」
清隆が示したのは、それだけだった。
見る場所も方法も指定しない。
行人は一度だけ頷いた。
「分かりました」
そのまま台へ近づいていく。
手を触れるわけではない。人型の内部を直接見るわけでもない。
少し離れた位置で足を止め、意識を向ける。
部屋の中にある空気。魔力。その間に残っているかもしれない、ごく僅かな流れ。
生きて動いていたときと、今では条件が違う。完全に同じものを感じ取れる保証もない。
それでも、行人は急がなかった。
目を閉じ、自分の内側にあるものと外にあるものを分けていく。
昨日まで何度も感じてきた、力が動くときの流れ。
どこから始まり、どこへ向かったのか。
その痕跡を辿るように意識を広げる。
しばらくして、眉が僅かに寄った。
「……何かあります」
閉じていた目を開いても、行人の意識はまだ人型へ向いたままだった。
何かがある。それ自体には気づけた。
だが、最初に探っていた人型の内部だけへ意識を向けると、感覚が僅かにずれる。
「どこ?」
「こいつに……」
答えかけたところで、行人の眉が寄った。
違う。
人型の中に何かが留まっているのなら、そこへ意識を絞った方が明瞭になるはずだった。
実際には逆で、周囲まで含めて捉えたときの方が、その痕跡は分かりやすい。
「いや、違うな」
人型だけに向けていた意識を、その周囲へ広げる。
「こいつの中に残ってるんじゃないです」
清隆の視線が、人型から行人へ移った。
「じゃあ?」
行人はすぐに答えず、もう一度感覚を辿った。
今そこに力が存在しているわけではない。
何かが通り過ぎたあとだけが、薄く残っている。
「流れた跡……みたいな感じです」
人型の頭部付近へ手を近づける。
触れずに止まった指先の先には、先ほど清隆たちが確認していた細い構造がある。
「何かがここに入って、そのあと中へ広がった。そんな感じがします」
「こいつが作ったものじゃない?」
清隆の問いに、行人はすぐ断定しなかった。
自分が感じ取っているものをもう一度確かめ、それから小さく頷く。
「たぶん。外から来たものだと思います」
そこで初めて、清隆の視線が智臣へ向いた。
「俺が感じたものとは違うな」
智臣も同じことを考えていたらしい。
行人が捉えているのは、何かが移動した痕跡。
自分が感じていたのは、もっと周囲を含めた空間そのものの不自然さだった。
「俺は流れそのものまでは分からなかった。ただ、空間の方がおかしい」
雅史は二人を見比べる。
同じ能力で同じ現象を確認したわけではない。
それでも、二人とも人型だけを見て終わっていない。
「二人とも、これだけで完結してないと思ってるんだね」
智臣が頷き、行人も人型の周囲へ目を向けたまま答えた。
「ああ」
「そうですね」
感じ取ったものは違う。
智臣は空間の異常を捉え、行人は人型へ入った何かの痕跡を捉えている。
それでも、二人の感覚が示した先には共通するものがあった。
人型の内部だけでは説明できない。
「行人。どこから来たかは分かる?」
清隆が訊く。
行人は人型から視線を外し、部屋の中を見る。
壁の向こう、天井、床。
流れを逆に辿ろうとするように意識を広げていったが、やがて首を横に振った。
「分からないです」
流れ込んだ痕跡までは追える。
だが、それを逆向きに辿ろうとした途端、手掛かりが途切れる。
「遠すぎる?」
「それも……ちょっと違うと思います」
距離の問題なのかと考えてみる。
遠くから届いた力なら、その間にも何らかの繋がりがあるはずだった。
弱くなっていくにしても、どちらへ辿ればいいのかくらいは残る。
だが、今感じているものには、それがない。
「遠いなら、遠いなりの流れがあると思うんです。でも、これはそれがないというか……」
「距離が分からない?」
清隆の言葉に、行人は少し考えてから頷いた。
「それが近いです」
その答えを聞いた智臣が、小さく息を吐く。
感じ取ったもの自体は違う。
それでも、自分が説明できずにいた部分とよく似ていた。
「やっぱりそこか」
「智臣も?」
「ああ」
ここまでなら、先に伝えても行人の認識を引っ張ることはない。
智臣は先ほど自分が試したことを説明した。
人型へ向かっていた何かの痕跡は感じる。
だが、その起点を探そうとしても方向が定まらない。
位置を変えても、右にも左にも、上にも下にも、辿るべき先が現れなかった。
「俺の場合は、遠いって感じでもない。そもそも、どっちにあるのかが分からない」
行人はその説明を聞きながら、自分の感覚と重ねていく。
智臣は空間から見ている。
自分は流れを追っている。入口は違うのに、どちらも途中で同じ壁に突き当たっていた。
「俺が感じたのとは違いますけど……似てますね」
「そうだな」
雅史は記録していた手を止めた。
二人の証言を並べて見る。
完全に一致しているわけではないからこそ意味があった。
片方の思い込みを、もう片方がなぞった結果ではない。
「見えてるものは違うけど、同じところを指してるのかもしれないね」
智臣には空間として異常が見える。
行人には、外部から何かが入った痕跡として感じられる。
そのどちらから辿っても、起点だけが見つからない。
清隆は二人の話を聞き終えると、再び台の上の人型へ目を向けた。
「一回、全員に共有しよう」
少人数だけで推測を重ねる段階ではなくなっていた。
◇
十二人が揃うまでには、少し時間が掛かった。
王城に滞在しているとはいえ、全員が同じ場所にいたわけではない。
朝食を終えた者もいれば、まだ部屋で休んでいた者もいる。
昨日あれだけ動いた直後なのだから、予定がなければ身体を休めていていいと伝えられていた。
だからこそ、清隆から呼び出しが掛かった時点で、それぞれ何か見つかったのだろうとは察していた。
最後に部屋へ入ってきたのは怜司だった。
「悪い、遅れた」
「何してたん?」
彰人が訊く。
「朝飯食ってた」
「俺らも食ったわ」
「二回目」
「なんでやねん」
「腹減ったから」
彰人が何か言おうとして、やめた。
昨日あれだけ動いて、なお一人だけ平然としていた人間に、普通の基準を当てはめること自体が間違っている気がした。
怜司は空いている場所へ向かおうとして、途中で台の上にあるものを見る。
「ああ、昨日のやつ?」
「そう」
清隆が答えた。
怜司はそのまま人型の近くまで歩いていく。
開かれた頭部。露出した内部組織。そこから伸びる細い構造。
「……ふうん」
声は普段と変わらない。
それでも、彰人が怜司を見る。
桜子も僅かに視線を動かした。
何が違うのかと訊かれれば、説明できるほどではない。
ただ、興味を持って何かを見るときの怜司とは、少し違って見えた。
「揃ったね」
清隆が全員へ向き直る。
まず、通常型についてこれまで分かっていたことを確認する。
身体を動かす構造はある。食べたものを利用する仕組みもある。危険を避けるような行動も見せる。
だが、身体全体の行動を決定する、脳に相当する器官が見つからない。
その代わり、外部から何かを受け取っている可能性のある構造が存在している。
そこまでは、以前にも共有されていた。
「違ったのはこっち」
清隆が人型の頭部を示す。
通常型では、受信構造から伸びたものがそのまま身体の各部へ広がっていた。
人型では違う。一度、頭部にある別の組織へ集まり、そこから改めて手足や感覚器に近い場所へ分岐している。
清隆は露出させた部分を指で追いながら、その違いを一つずつ示した。
「受け取ったものを、一度ここに集めてる。脳と同じとは言えないけど、自分で状況を判断するためのものだった可能性は高い」
彰人の脳裏に、昨日の人型の動きが蘇る。
こちらの攻撃を避けるだけではなかった。
相手を見て、進む場所を変え、通れないと分かれば別の手段を選んだ。決められた動作を繰り返すものとは、明らかに違っていた。
「だから、こっちの動き見て変えてきたんか」
「たぶん」
清隆はそこで、人型に残るもう一つの構造へ指を移した。
自分で判断するためのものが加わった。
ならば、通常型に必要だった受信構造は失われてもおかしくない。
だが、実際には残っている。
「でも、通常型と同じ受信構造も残ってる」
自分で考えられるようになったことと、外から何かを受け取らなくなったことは、同じではなかった。
続いて、智臣と行人が調べたことを共有する。
二人が感じ取ったものは同じではない。
智臣は空間そのものに残った異常。
行人は外部から何かが流れ込んだ痕跡。
違うものを捉えているにもかかわらず、どちらもその起点を辿ることができなかった。
「それで」
清隆は昨日の人型の行動について、雅史と整理した内容へ話を移した。
「こいつらは、細かい動きまで外から決められてたわけじゃないと思う」
「大きい目的だけ、ってこと?」
優斗の問いに、清隆は雅史を見る。
「たぶん」
雅史が答えを引き取った。
昨日の戦場で人型が取った行動は、一つではない。
正面から進んだ個体もいれば、守りの薄い場所へ回ったものもいた。
攻撃が通じなければ方法を変え、危険な相手から距離を取ることもあった。
「昨日の動きを見る限り、自分で考えて行動を変えてる。強い相手を避けたり、別の場所から王都へ入ろうとしたりね」
だが、その選択には一つだけ変わらないものがあった。
王都へ向かうこと。
突破を諦めても、王都そのものを諦めた個体はいなかった。
「でも、どこへ向かうかまでは変えてない。だから、何をするかだけ外から与えられて、その方法は自分で考えていた可能性があると思う」
洋一は昨日の戦場を思い返した。
敵の動きが複雑になっても、その目的地だけは一度も変わっていない。
「何をするか……」
その言葉が指しているものは、すでにかなり絞られていた。
人型は王都から離れようとはしなかった。
戦力の強い場所を避けても、そのまま逃走したわけではない。
別の経路を探し、また街へ入ろうとした。
「王都を攻撃すること自体が、外から与えられていた可能性があるということですか」
洋一の問いに、雅史はすぐ断定を返さなかった。
確認できた構造。昨日の行動。智臣と行人がそれぞれ別の方法で拾った外部との繋がり。
それらを合わせれば、一つの仮説としてはかなり形になっている。
「そう考えると、動きには合うと思う」
そこで清隆が補足する。
「ただ、まだ推測」
王都を攻撃せよという情報そのものを見つけたわけではない。
人型の内部に言葉や記録として残されていたわけでもなかった。
「『王都を壊せ』って情報を直接見つけたわけじゃない。構造と昨日の動きから考えてるだけ」
断定できるのは、人型にも外部から何かを受け取る構造があったこと。
そして、受け取ったものとは別に、自分で行動を選べる構造も持っていたこと。
その二つが、同時に存在している。
「……なるほどな」
それまで黙っていた怜司が呟いた。
視線はずっと、台の上にある人型へ向いている。
「何か分かったん?」
彰人が訊くと、怜司は一度だけ首を横に振った。
「いや」
分かったというより、今まで別々だったものが怜司の中で一つに繋がった。
王都へ向かってきたこと。
弱い場所を選んだこと。
こちらを見て、自分で戦い方を変えていたこと。
その判断をしていたのは、この人型自身だった。
けれど、そもそも王都へ向かうという最初の部分まで、自分で選んだとは限らない。
「こいつら、自分で王都来たかったんちゃうんやなって」
部屋の空気が僅かに変わった。
「その可能性はある」
清隆の答えを聞いても、怜司は人型から目を離さなかった。
「でも、自分では考えてたんやろ?」
「たぶん」
そこで怜司の眉が、ほんの僅かに動いた。
桜子がそれに気づく。
彰人も、少し遅れて兄の横顔を見た。
「ほな……」
考えることはできる。
目の前の状況を見て、次にどう動くかを選ぶこともできる。
そこまで与えておきながら、その力を何に使うのかという一番大きな部分だけは、別の何かが決めていた。
「考えられるようにしといて、やることだけ決められてたんか」
声は静かだった。
だが、彰人と桜子には、その静かさが先ほどまでと同じには聞こえなかった。
「誰かおるんやな」
怜司が呟く。
問い掛けというより、自分の中で形になり始めたものを確かめるような声だった。
清隆はすぐには頷かなかった。
人型が外部と繋がっていた可能性は高い。
だが、その先に意思を持った存在がいるところまでは、まだ確認できていない。
「何かがある可能性は高いと思う」
怜司はその留保を否定しなかった。
人なのか、生き物なのか。そもそも自分たちが相手を誰かと呼べるものなのか。今の段階では何も分からない。
それでも、一つだけ変わった。
昨日まで怜司が見ていたのは、王都へ押し寄せてくる敵だった。
今は、そのさらに向こうを見ようとしている。
「誰かでも、何かでもええけど」
台の上にある人型へ、もう一度視線を落とす。
昨日、自分が切り刻んだもの。
弱い者を狙う動きを見て、不快だと思った相手。
それが自分で考えていたことは変わらない。
だが、その考える力を何のために使うのかまで、自分で選べていたとは限らない。
怜司の視線が、ゆっくりと人型から外れた。
「こいつらにやらせたやつ」
声は変わらず静かだった。
けれど、彰人は何も言わなかった。
桜子も同じだった。
二人とも、怜司の興味がもう台の上にはないことに気づいていた。
昨日まで、彼らが追っていたのは敵性体だった。
どこから来たのか、どう動いているのか、なぜ食べるのか、どうすれば止められるのか。
だが、問いはもう一つ先へ移っている。
敵性体を倒しても終わらなかった。
星堕としを壊しても、それが二度起きた理由は残った。
そして今、その向こうにあるものが初めて輪郭を持ち始めている。
「……どこにおるんやろな」
怜司が呟いた。
昨夜、空を見上げたときに残っていた違和感が、ようやく一つの方向を持った。
何かが、まだ残っている。
それは空に浮かぶ星ではなかった。星堕としそのものでもなかった。
あれを落とし、敵性体を王都へ向かわせたもの。
まだ姿も場所も分からない何かが、どこかにいる。
怜司はもう一度だけ人型を見る。
「探そか」
怜司の言葉に、すぐ答える者はいなかった。
探す。言葉にすれば簡単だったが、何を探せばいいのかすらまだ分かっていない。
人型へ何かを送った存在。あるいは、その仕組み。
それが人なのか、生き物なのかさえ分からず、智臣と行人が拾った痕跡には、辿るための方向すら存在していなかった。
それでも、探す対象があるというところまでは来た。
「陛下たちにも伝えた方がいいですね」
洋一が言った。
王都が二度襲われた理由に関わる話だった。
十二神承だけで抱えておくものではない。
「そうだね」
雅史が頷く。
「まだ推測の部分が多いことも含めて、今分かってるところまで伝えた方がいいと思う」
「俺らだけで探すにしても、勝手に動く話ちゃうしな」
彰人も同意する。
敵性体の調査だけなら、十二神承の中で進めても大きな問題はなかった。
だが、その先に別の存在がいる可能性が出てきた。
それがヴァルネシアを狙っているのなら、この国自身が知らないままというわけにはいかない。
洋一が連絡のために部屋を出る。
残った者たちも、もう一度台の上へ視線を戻した。
見つかったものは多い。
分からないことは、それ以上に増えていた。
◇
話を聞いたアルトリウスは、すぐに三柱を集めた。
ガルディオ、セレスティア、アルディウス。
三人とも昨日の戦闘に参加している。
疲労がないわけではないが、八傑や十三将に比べれば状態はいい。
八傑には骨折を含む負傷者がいる。十三将に至っては、しばらく前線へ戻れない者も少なくない。
今、ヴァルネシア側で大きく動ける戦力は限られていた。
十二神承からは洋一、清隆、雅史、智臣が説明の中心になり、他の者も同じ部屋に集まっている。
アルトリウスは最後まで口を挟まずに聞いた。
通常型には、自ら判断するための中枢が見つからないこと。
人型には、それに近い働きをしている可能性のある組織があること。
その一方で、どちらにも外部から何かを受け取っていたと考えられる構造が存在していること。
そして、異なる方法で調べた智臣と行人が、ともに敵性体の外側へ続く何かを感じ取ったこと。
『つまり――』
アルディウスはすぐに続きを口にせず、今聞いた内容を一度頭の中で組み直した。
これまで敵性体は、王都へ押し寄せてくる脅威として扱われてきた。
何を目的としているのかも分からず、星堕としによって現れ、食べ、増え、こちらを襲う。
だが、人型だけは違った。
相手の強さを見て戦い方を変え、突破できなければ別の経路を選ぶ。
それほどの判断能力を持ちながら、王都を目指すことだけは一度も変えなかった。
『あの者たちは、自ら考えて王都を襲ったわけではない可能性がある、と』
「そこは分けた方がいいと思う」
清隆は、アルディウスの言葉を否定するのではなく、その中に混ざっている二つの要素を切り分けた。
「人型は自分で考えてた可能性が高い。でも、何をするかまで自分で決めてたかは分からない」
人型が判断していなかったわけではない。
むしろ、昨日の動きを見れば、自ら状況を捉え、手段を選択していたと考える方が自然だった。
問題は、その判断が何を達成するために使われていたのかという部分にある。
アルディウスは僅かに目を細めた。
『目的と、手段か』
「たぶん」
その言葉を受け、雅史も昨日までの記録へ視線を落とした。
「王都へ向かうこと自体が外から与えられていたと考えると、昨日の動きには合うと思う。ただ、それを確認できたわけではないけどね」
あくまで、構造と行動から組み立てた仮説だった。
人型の中から命令そのものが見つかったわけではない。
それでも、外部から何かを受け取る構造があり、その痕跡まで残っていたことは無視できない。
それまで黙って聞いていたアルトリウスが、そこで初めて口を開いた。
『ならば、その外側に何かが存在している可能性は高くなった、ということか』
清隆はすぐには頷かなかった。
何者か、と言い切れば、意思を持つ存在を前提にすることになる。今ある情報は、まだそこまでは届いていない。
「何かがある可能性は高いと思う」
『何者か、ではなく?』
「そこまではまだ分からない」
人なのか、生き物なのか。
あるいは、そうした言葉では表せない仕組みなのか。
外部から何かが与えられていた可能性が高まっただけで、その送り手の姿まで見えたわけではない。
アルトリウスも、その違いを急いで埋めようとはしなかった。
『分かった。ならば、現時点ではそうしておこう』
結論を急がないまま、分かったところまでを共有する。
その中で、セレスティアだけは別の部分へ意識を向けていた。
人型が何を受け取ったのかではない。
その起点を探しても、方向が見つからなかったという智臣の感覚。
話を聞いたときから、そこだけが引っかかっていた。
『智臣さんが感じたものを、もう一度聞かせていただけますか?』
「ああ」
智臣は調査室で試したことを説明する。
何かが人型へ向かっていた。
だが、どこから来たのかが分からない。
遠いのではない。方向が存在しない。右にも左にも、上にも下にも、その起点を置けない。
話を聞くうち、セレスティアの表情から僅かに柔らかさが消えていった。
『それは……』
途中まで口にして、止まる。
視線が宙へ向いた。
何かを思い出しているようだった。
「心当たりある?」
『似たものなら』
智臣が訊いた質問にセレスティアは慎重に答えた。
その顔には普段の柔らかなものはなかった。
『ですが、同じものかは分かりません』
「裂け目?」
怜司が訊いた。
セレスティアが彼を見て目を丸くする。
『……はい』
今度は全員の意識が集まった。
『日本とエーテリアを繋いでいるあの裂け目も、初めから今の姿だったわけではありません』
それは怜司たちも聞いている。
最初に見つかったのは、もっと小さな異常だった。
セレスティアが調べるうちに広がり、やがて人が通れるほどの境界になった。
『あれも、距離だけで考えることが難しいものです』
日本がエーテリアのどちら側にあるのか。
どれだけ離れているのか。
その問いには、今も答えがない。
ただ、裂け目のこちら側に立ち、境界を越えれば向こうへ出る。
長い距離を進んだ感覚はない。
それでも、空気も空も、そこにある世界そのものも変わっている。
「似てるな」
智臣は、調査室で感じたものをもう一度思い返した。
人型へ向かって何かが届いていた。
その痕跡は確かにあるのに、どこから来たのかを探そうとすると方向そのものが消える。
遠すぎて見えないのではない。
そもそも、自分が普段使っている距離や方向という考え方では辿れない。
日本とエーテリアを繋ぐ裂け目も、境界を越えるだけで別の世界へ出る。二つの世界がどれだけ離れているのかを考えても、今のところ意味のある答えは出ていない。
『はい。ただし、裂け目と同じだとはまだ言えません』
セレスティアは、似ているというだけで二つを同じものとして扱うことはしなかった。
既存の裂け目も、最初から今のような境界だったわけではない。
小さな空間の異常として見つかり、調べるうちに広がっている。
今回も同じ過程を辿るとは限らなかった。
『まず、確かめる必要があります』
「ほな探そ」
話を聞き終えるのを待っていたように、怜司が立ち上がった。
彰人は反射的に兄を見る。
「今から?」
「探す言うたやん」
「いや、そうやけど。どこ行くねん」
そこで怜司の動きが止まった。
場所は分からない。
智臣にも行人にも方向が分からなかったのだから、当然といえば当然だった。
「……分からん」
「探す場所から探すんかい」
「そうなるな」
彰人が額を押さえる。
けれど、雅史にはそれほど無茶な話にも思えなかった。
昨夜の時点で怜司は、まだ何も分かっていない空を見上げていた。
そして今、人型を見たことで、その違和感を敵性体のさらに向こうへ結びつけている。
理屈から場所を絞れないのなら、先に怜司が何へ引っかかるのかを見る方法もある。
「怜司なら、その方がいいかもしれないね」
「なんで?」
「場所を決めて探したら、そこしか見なくなるから」
目的地を決めず、怜司が気になる方へ歩かせる。
何も見つからなければ、それも結果になる。逆に何かへ引っかかったなら、その場所を別の方法で調べればいい。
「僕も行こうかな」
記録しておけば、怜司がどこで足を止め、何を見たのかを後から比較できる。
その意図を察した智臣も、席を立った。
「なら俺も行く」
怜司が拾った違和感を、自分の感覚でも確認する。
三人が同じものを見る必要はない。
むしろ、違う方法で同じ場所へ引っかかるかどうかが、ここでも重要だった。
智臣が立ち上がった。
自分が感じた空間の異常と繋がるなら、現地で確かめられる。
三人で十分だった。
全員が疲れている中、手掛かりがあるかも分からない探索へ十二人全員で出る必要はない。
「ほな行こか」
怜司が先に歩き出す。
「どこへ?」
彰人が最後に訊いた。
怜司は扉の前で止まった。
「その辺?」
「広いわ!」
◇
王城を出たあとも、怜司は特に目的地を決めなかった。
王都の大通りを歩く。
昨日まで敵性体が押し寄せていた場所には、すでに人が戻り始めていた。
壊れたものを運ぶ者、道路を塞いでいた瓦礫を退ける者、店先を掃除する者。
兵士の姿も多いが、戦うためではなく復旧を手伝っている。
怜司は時々足を止め周囲を見る。また歩く。
雅史は何も訊かなかった。智臣も同じだった。
どこへ向かっているのかと聞いたところで、本人にも分からないことはすでに分かっている。
王都の中心から少し外れた。
昨日、敵性体が侵入しようとした区画を通る。
さらに歩く。城壁の外へ出る頃には、周囲に建物も少なくなっていた。
「怜司」
「ん?」
「何見てる?」
智臣が初めて訊いた。
「分からん」
「そうか」
それだけで会話が終わる。
怜司はまた歩いた。
空を見ることもある。地面を見ることもある。
遠くの山、王都。昨日、星堕としがあった方向。
どれか一つを探しているようには見えない。
雅史は少し後ろを歩きながら、その動きを記録していた。
城壁からの距離。怜司が止まった位置。視線を向けた方向。
何も起きなかった場所も含めて残していく。
しばらくして、怜司の歩みが止まった。
何もない場所だった。
王都から少し離れた平地。
昨日の戦闘で地面はところどころ荒れているが、敵性体の死骸もすでに回収されている。
「ここ?」
「いや、この辺」
雅史に訊かれた質問に行動をもって答える。
数歩進み、戻る。今度は横へ。また止まった。
「何かあるのか?」
智臣も足を止め、怜司が見ている方へ意識を向けた。
目に見える範囲には、特別なものはない。
昨日の戦闘で荒れた地面。その向こうに続く平地。振り返れば王都の城壁がある。
怜司は答えず、数歩だけ横へ動いた。
そこで止まり、今度は元の場所へ戻る。
「分からんけど」
もう一度、少し前へ。
何かを探しているというより、自分の中に生じる違いがどこで変化するのかを確かめているようだった。
「ここらへん、変やねん」
「どう変?」
訊かれて、怜司は周囲を見渡した。
見えている景色におかしなところはない。
風も吹いている。地面も続いている。王都も遠くの山も、そこにあるべき場所にある。
なのに、それだけでは全部になっていない。
昨夜、空を見上げたときに感じたものとも少し似ていた。
何かが見えるのではない。
むしろ、見えているものだけでは足りない。
「繋がってへん感じ?」
自分で口にしてから、怜司は首を傾げた。
それでは少し違う。
「いや、違うな」
繋がっていないのなら、そこで終わっているはずだった。
怜司が感じているのは、むしろその逆だった。
何かへ繋がっている。
ただ、その先が今見えている景色の中にはない。
「ここにあるのに、ここちゃう感じ」
雅史の手が止まった。
意味が分かったわけではない。
だが、智臣はすぐに怜司が立っている場所へ近づいた。
「少し動くな」
「うん」
智臣が意識を広げる。
人型を調べたときとは条件が違う。
あのときは死骸に残った痕跡を探していた。
今は何もない空間そのものを見る。
風がある。地面がある。遠くには王都がある。
それらは普通に繋がっている。
少なくとも、目で見る限りは。
智臣は位置を変えた。
怜司の右。左。少し離れる。戻る。
それを何度か繰り返す。
「……あるな」
何度目かに位置を変えたところで、智臣の動きが止まった。
怜司と同じものを感じたわけではない。
だが、周囲の空間を一つの繋がりとして捉えたとき、そこだけが僅かに収まりきらない。
目で見れば連続している。
歩こうと思えば、そのまま通り抜けることもできる。
それでも、空間として見れば、周囲と同じ位置関係の中に置かれていない部分がある。
雅史は記録していた手を止めた。
「何が?」
「昨日感じたのと似てる」
智臣は怜司が立っていた場所から少し外れ、もう一度同じ範囲を捉え直した。
離れれば薄くなる。
近づけば、また引っかかる。
人型を調べたときより、境界が分かりやすい。
「ここだけ、位置が変だ」
「位置?」
雅史が聞き返す。
智臣はすぐに答えなかった。
位置がずれている、と言えば、単純に右や左へ動いているようにも聞こえる。
だが、そうではない。
そこにあることは分かるのに、その場所を周囲と同じ座標の延長として捉えようとすると、どこかで辻褄が合わなくなる。
「言い方が難しいな」
智臣はもう一度、何もない空間を見る。
「向こうに何かある感じはする。でも、その向こうがどこなのか分からない」
智臣自身、感覚を言葉へ置き換えるのに時間が掛かった。
目の前には何もない。
手を伸ばしても触れられるものはない。
それでも、空間として捉えると、そこだけが周囲と同じように収まっていない。
「人型のときと同じ?」
「近い。ただ、こっちの方が分かりやすい」
雅史は二人の位置を記録する。
怜司が最初に違和感を覚えた場所。
智臣が異常を捉えた範囲。
重なっている。
「王城へ戻ろう」
雅史は記録した位置と、二人が立っている場所を見比べた。
怜司が最初に足を止めた範囲と、智臣が空間の異常を捉えた範囲は重なっている。
それだけでも、怜司一人の感覚として片づける理由はなくなった。
「ここで触るより、先にセレスティアさんに見てもらった方がいいと思う」
日本とエーテリアを繋ぐ裂け目を最初に調べたのはセレスティアだった。
今見つけたものが本当にそれと似た性質を持つのなら、比較できる者を連れてくる方が早い。
智臣も異論はなかった。
怜司だけは、もう少し周囲を見回していた。
昨夜から引っかかっていたものの正体が分かったわけではない。
それでも、どこを見ればいいのか分からなかった状態からは、一つ進んだ。
「せやな」
怜司がようやく王都の方へ身体を向ける。
「場所分かったし」
探していたものではなく、探すべき場所が見つかった。
今は、それで十分だった。
◇
セレスティアがその場所へ来たのは、それから間もなくのことだった。
清隆も同行している。
場所を示されても、最初は何も見えなかった。
セレスティアは魔力を広げ、何度か位置を変える。
智臣が異常を感じた範囲、その外側、内側。
比較するように繰り返した。
『……あります』
何度か位置を変えたあと、セレスティアが足を止めた。
目の前にあるのは、智臣たちが見ていたものと同じ、何もない空間だった。
だが、魔力を周囲へ広げていくと、その一部だけ返ってくる感覚が違う。
遮られているわけではない。
消えているわけでもない。
そこから先へ続こうとした魔力が、周囲とは異なる繋がり方をしている。
「裂け目?」
怜司が訊く。セレスティアはすぐには頷かなかった。
日本とエーテリアを繋ぐ裂け目を見つけたときの感覚を思い返しながら、もう一度同じ場所を調べる。
似ている。だが、同じではない。
『まだ、そうとは言えません』
今度は範囲の外から内へ魔力を通す。
周囲ではそのまま広がるものが、ある位置だけで僅かに挙動を変えた。
小さな空間異常だった頃の裂け目にも、周囲とは異なる繋がり方があった。
目の前のものにも、それがある。
『ですが……似ています』
断定には足りない。
それでも、比較する理由としては十分だった。
「それや」
『はい?』
「俺が変やと思ったやつ」
ここにあるのに、ここではない。
怜司が言葉にできなかった感覚を、セレスティアの説明が少しだけ形にした。
清隆は周囲を見ながら考える。
「広げられる?」
清隆が訊いた。
日本とエーテリアを繋ぐ裂け目は、最初に見つかった小さな異常をセレスティアが調べるうちに広がっている。
目の前のものにも同じ性質があるのなら、人が通れる状態まで変化させられる可能性はある。
だが、セレスティアはすぐに試そうとはしなかった。
似ているだけで、同じものとは限らない。
何より、その先に何があるのか分からなかった。
『試すことはできると思います』
「危ない?」
その問いには、さらに長い間があった。
『分かりません』
安全だと言える材料が一つもない。
もしこれが本当にどこかへ繋がっているのなら、こちらから通れるようにすることは、向こうからも通れる入口を作ることになるかもしれない。
王都では、昨日の戦いで負傷した者たちがまだ治療を受けている。十三将にも長く戦列を離れる者が出ていた。
清隆は目の前の異常を見たまま判断した。
「なら、今日は広げない方がいい」
今必要なのは、勢いで答えを確かめることではない。
位置は分かった。
智臣とセレスティアの二人が、別の方法で異常の存在も確認した。
それだけでも、持ち帰る情報としては十分だった。
「持って帰ろ」
怜司が言った。
清隆が一瞬だけ彼を見る。
「何を?」
「情報」
怜司は何でもないことのように答えた。
「それは持って帰れる」
「ほな帰ろ」
セレスティアの口元が僅かに緩んだ。
目の前にあるものへ今すぐ手を伸ばさない。
怜司にしては珍しく見えるが、本人にとっては単純だった。
場所が分かった。
なら、次はどう触るかを決めればいい。
◇
王城へ戻ると、再び話し合いが行われた。
今度は推測の材料が一つ増えている。
人型に残った外部からの痕跡。
智臣が感じた、方向を持たない空間の異常。
行人が感じた、起点を辿れない流れ。
そして王都の外で見つかった、日本とエーテリアを繋ぐ裂け目に似た異常。
それらがすべて同じものだとは、まだ言えない。
だが、無関係と考えるには重なりすぎていた。
『もし、あれが裂け目と同じ性質を持つものであるなら』
セレスティアは机の上に描かれた簡単な図へ指を置いた。
王都。その外側に、今日見つけた異常の位置。
さらに横には、比較するため日本とエーテリアを繋ぐ裂け目が描かれている。
『この先にも、別の場所が存在している可能性があります』
彰人は二つの印を見比べた。
日本へ続く裂け目なら、もう何度も通っている。
境界を越えれば、空気も景色も変わる。そこに長い通路があるわけでも、どこかを移動している感覚があるわけでもない。
ただ境界の向こう側に、別の世界が続いている。
「日本みたいに、向こう側があるかもしれへんってこと?」
『はい』
セレスティアは頷いたものの、すぐに言葉を続けた。
『ですが、今見つかっているものは、人が通れる状態ではありません』
異常そのものは存在する。
智臣も捉え、セレスティアも確認した。
それでも、今そこへ歩いていけば普通に通り過ぎるだけだった。
日本へ続く裂け目のような、目に見える境界にはなっていない。
「最初の裂け目も、こんな感じやったん?」
怜司の問いに、セレスティアは少し考える。
『同じではありません。ただ、似ている部分はあります』
最初に見つかった異常も、現在のような大きさではなかった。
調べる過程で変化し、やがて人が越えられる境界にまで広がった。
ならば今回も、同じように接続を広げられる可能性はある。
可能性があるからこそ、清隆は別の問題を考えていた。
「通れるようにできたとして、向こうからも来られる?」
部屋の空気が少し変わった。
行く方法ばかりを考えていた者たちの意識が、逆方向へ向く。
王都の外とはいえ、異常が見つかった場所は遠くない。
昨日まで二度の星堕としを受け、ようやく敵性体を排除したばかりの場所へ、新しい入口を作ることになる。
『その可能性はあります』
セレスティアも否定しなかった。
『日本との裂け目と同じであれば、境界は双方から越えられます』
「ほな、開けっぱなしはあかんな」
彰人が図へ目を落とす。
向こうに何がいるのか分からない。
敵性体を送り出した何かが本当に存在するなら、自分たちから王都近くへの道を作ってしまうことにもなり得る。
「閉じられるかも確認しないと使えないね」
雅史が記録へ新しい項目を加えた。
開くこと。越えられること。
そして、必要になれば閉じられること。
少なくとも、その三つを確かめなければ実際の移動には使えない。
「智臣」
清隆が呼ぶ。
「セレスティアがあれに触ったとき、空間がどう変わるか見られる?」
智臣は少し考えた。
今日の調査では、何もしていない状態の異常を捉えることはできた。
そこへセレスティアが干渉したとき、同じ感覚で変化を追えるかはまだ分からない。
「やってみないと分からない。でも、今より広がるなら多分分かる」
『私からもお願いします』
セレスティアが智臣へ向き直った。
『以前は、私自身が調べながら変化を確認していました。今回は別の視点から見ていただけるなら、その方が安全です』
一人が触り、一人が外から見る。
さらに清隆が、位置や範囲の変化を記録する。
何が起きるか分からない以上、同じ現象を一人の感覚だけで追うよりはいい。
「明日やろう」
清隆が結論を出した。
今日中に試すこともできる。
だが、王都では復旧作業が続き、負傷者の治療も終わっていない。十二神承にも昨日の疲労が残っている。
手掛かりを失いそうな状況でもなかった。
異常の位置は特定した。
今は急ぐより、未知の接続を広げたときに何が起きても対応できる状態を作る方がいい。
怜司も机の上の図を見たまま、特に反対しなかった。
「明日でええよ」
その返事に、彰人が兄を見る。
「珍しいな」
「何が?」
「今から行く言うかと思った」
怜司は少し考えた。
「風呂入りたいし」
「そっちかい」
張っていた空気が僅かに緩んだ。
それでも怜司の視線は、一度だけ図の上にある小さな印へ戻る。
そこに何があるのかは分からない。
だが、昨夜までとは違う。
今はもう、どこを探せばいいのか分からない状態ではなかった。
◇
翌朝。
王都の外には、昨日何もなかった場所を囲むように十二神承が集まっていた。
少し離れた位置には、ガルディオとアルディウスもいる。
八傑と十三将の姿はない。
負傷している者を、何が起きるか分からない場所へ連れてくる必要はなかった。
アルトリウスも王城に残っている。
国王まで未知の接続先の前へ出る意味はない。
清隆は昨日記録した位置を確認し、地面へ置いた目印と照らし合わせる。
何も知らずに見れば、そこには本当に何もない。
昨日と同じ平地が続いているだけだった。
「位置はここで合ってる」
その言葉を受け、智臣が先に異常の状態を確かめた。
周囲へ意識を広げる。
すぐに、昨日と同じ引っかかりへ触れた。
「残ってる。昨日と変わってないと思う」
それを聞いてから、セレスティアが前へ出た。
昨日は存在を確かめるところで止めた。
今日は、その先へ進む。
『始めます』
周囲へ魔力が広がった。
敵を攻撃するときのように、一気に力を放つわけではない。
目の前にある異常の輪郭を探り、その形に沿わせるように、少しずつ魔力を触れさせていく。
智臣はセレスティアではなく、その先の空間を見ていた。
最初は変わらない。
だが、魔力が異常の中心へ触れたところで、昨日まで固定されていた感覚が僅かに動いた。
「……今、変わった」
セレスティアは手を止めない。
智臣が数歩横へ動き、別の角度から捉え直す。
異常そのものが移動したわけではない。
周囲との境目が、少しずつ外側へ広がっている。
「右側の方が先に広がってる」
その言葉に合わせ、セレスティアが魔力の流し方を僅かに変えた。
清隆は二人のやり取りを聞きながら、変化した範囲を記録していく。
一度に大きく変えない。
広がるたびに止まり、状態を確認する。
何か異常が起きれば、その時点で中断できるように。
何度目かの調整のあと、怜司が目を細めた。
「今なんか変わった?」
「見えたん?」
隣にいた彰人も同じ場所へ目を凝らす。
景色そのものは変わっていない。
だが、地面と空の境目に近い一部だけが、僅かに揺れて見えた。
陽炎とも違う。
光が歪んだというより、そこに映っている景色だけが周囲から一瞬遅れたような、不自然なずれだった。
次の瞬間には戻る。
そして、もう一度。今度は消えなかった。
細い線のような違和感が、何もなかった空間に残る。
智臣が息を吐いた。
「繋がり方が変わった」
セレスティアもそれを感じ取っていた。
魔力を強くするのではなく、今できた繋がりが崩れないように輪郭へ沿わせていく。
細かった線が、ゆっくりと縦へ伸びた。
やがて僅かな幅を持つ。
その瞬間、向こう側にあったはずの平地が、一部だけ消えた。
代わりに見えたのは、灰色だった。
誰もすぐには声を出さなかった。
境界のこちらには、朝の王都がある。
空には光があり、背後では復旧を続ける人々の気配も遠く聞こえている。
だが、細く開いた境界の向こうだけは、そのどれとも違った。
黒に近い地面。光の弱い灰色の空。草木らしいものは見えない。
さらに遠くには、岩とも人工物とも判別できない大きな影がいくつも立っている。
「……知らんとこやな」
最初に口を開いたのは怜司だった。
彰人は裂け目の向こうを見たまま、僅かに眉を寄せる。
「知ってたら怖いわ」
「それもそうやな」
いつものやり取りだった。
それでも、二人とも境界から視線を外さない。
セレスティアは広げる作業を止め、その状態を維持することへ集中した。
『これ以上は、一度確認してからにします』
智臣も同意する。
今できた境界は、日本へ続く裂け目ほど安定していない。
縁が僅かに揺れ、周囲との繋がりも一定ではなかった。
「向こうには繋がってる。でも、このままずっと保つ感じじゃないな」
『はい。力を止めれば、閉じる可能性が高いと思います』
昨日確認しようとしていたことの一つに、答えが見えた。
少なくとも今は、セレスティアが干渉を続けることで境界が開いている。
逆に言えば、こちらから維持しなければ閉じられる可能性が高い。
清隆はそれを記録したあと、境界の向こうへ目を向けた。
見える範囲に、動くものはない。敵性体もいない。
それでも、何もない場所とは思えなかった。
遠く、灰色の空と黒い地面の間に、一つだけ周囲とは違う輪郭がある。
塔にも見える。巨大な柱にも見える。
距離がありすぎて、それ以上は分からない。
「あれ、何だろう」
優斗の言葉に、何人かが同じ方向を見る。
答えられる者はいなかった。
怜司も目を細めた。
昨夜、王城から空を見上げたときに残っていた違和感。
人型の構造を知り、その向こうに何かがあると考えたとき。
そして、王都の外で何もない空間へ足を止めたとき。
そのどれも、まだ答えではなかった。
けれど今は、その先に実際の景色がある。
「ここやな」
彰人が兄を見る。
「分かるん?」
「分からん」
怜司はすぐに答えた。
「分からんのかい」
「でも、ここやと思う」
星堕としを落としたものがいるのか。
敵性体へ目的を与えたものがいるのか。
まだ何一つ確認できていない。
だから、怜司もそれを答えだとは言わなかった。
ただ、昨日まで辿れなかった痕跡が、この境界の向こうへ続いている。
それだけは、もう無視する理由がなかった。
怜司が一歩だけ境界へ近づく。
「兄貴」
彰人の声が飛ぶより先に、怜司は止まった。
「まだ行かへんよ」
「……分かってるならええわ」
「準備いるやろ」
怜司はそう言って、境界の向こうをもう一度見る。
灰色の空。黒い大地。遠くに立つ、正体の分からない影。
二度の星堕としを止めても残っていたものが、ようやく景色として目の前に現れた。
何がいるのか。なぜ王都を狙ったのか。
そもそも、そこに意思を持つ何かが本当に存在するのか。
確かめなければならないことは、まだ何一つ減っていない。
ただ一つ、今度は、向かう先がある。
怜司は遠くに見える影へ視線を合わせた。
「ほな」
声に怒気はなかった。
けれど、昨日まで敵性体へ向いていた興味とも違っていた。
「会いに行こか」




