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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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28/37

降り止むまで

 彰人が王都の外へ出た頃には、東の空はもう、夜と朝のどちらとも呼びにくい色へ変わり始めていた。

 城壁の向こうには薄い青が広がり、その下には、夜の名残を残した平原が沈んでいる。

 本来ならば、あと少しもすれば山の端から朝日が差し込み、王都の屋根や城壁を順番に照らしていくはずだった。

 その景色を、空にある巨大な異物が台無しにしている。


「……ほんまに来よったな」


 走りながら見上げ、彰人は誰に聞かせるでもなく呟いた。

 昨夜から覚悟はしていた。

 正確には、怜司が「来る」と言い切った時点で、十二神承の誰もが来ることを前提に動いている。

 王都へ戻り、防衛計画を立て、住民を地下へ避難させるための場所を清隆が作り、実際に人を動かして問題を洗い出した。

 そこまでやっておいて、来なければいい。

 そう思っていた。

 準備が無駄になるくらいなら、いくらでも無駄になればいい。


 けれども、空にあるものは消えてくれなかった。

 むしろ時間が経つほど、その存在感を増している。

 最初に見たときには、遠い空に浮かぶ黒い染みのようだった。

 それが王都を出る頃には輪郭を持ち、今では前回の星堕としと同じものだと疑う余地もない。

 そして、同じではなかった。


「……でかない?」


 足を止めるほどではなかったが、彰人は眉を寄せた。

 まだ遠い。

 前回の星堕としがこの程度に見えていたとき、実際にはもっと近くまで来ていたはずだ。

 その記憶と今の見え方を重ねれば、距離に対して明らかに大きすぎる。

 少なく見積もっても、前回の倍。そのくらいはあるように見えたし、実際にはそれ以上かもしれない。

 空に浮かぶものとの距離など、地上から正確に測れるわけではない。

 それでも、前回を間近で見ているからこそ、嫌でも比較できた


「二回目で強化してくんなや……」


 文句を言ったところで、聞く相手はいない。

 彰人は視線を下ろした。

 王都の外では既にヴァルネシア軍が動き始めている。

 昨夜決めた配置へ兵が散り、前方には十三将を中心とした部隊、そのさらに先には八傑が向かっている。

 魔導部隊は城壁に近い位置へ集まり、何人かは既に杖や触媒を手に術式を確認していた。


 昨日までとは違う。

 何が来るのか分からないまま、突然戦いが始まった前回とは違う。

 来ると分かっていた。

 どこを守るかも決めてある。

 誰が前に出て、誰が後ろを支え、誰が負傷者を拾い、誰が王都そのものを守るのかまで決めてある。


 それでも。


 彰人は一度だけ後ろを振り返った。

 城壁の向こう、王都の中にも人の動きが見えた。

 避難が始まっている。

 昨日、何度も歩いた経路だった。


 清隆が地下に作った巨大な避難空間へ向けて、区画ごとに住民を誘導している。

 昨日の訓練では、最初の一度で上手くいかなかった。

 家財を持ち出そうとして列から離れる者がいた。

 子供の手を引いた家族が、思った以上にゆっくりとしか進めなかった。

 足の悪い老人が階段の前で詰まり、その後ろへ人が溜まった。

 不安になった者が前の列へ割り込もうとして、逆に流れを止めた場所もあった。


 だから、一度目に見つかった問題はすぐに修正した。

 誘導する人員を増やして経路を分け、荷物を持ち込ませないことを改めて伝えたうえで、子供や老人を先に動かす区画も作った。

 二度目には、一度目より明らかに早くなった。

 昨日はそれを確認するための訓練だったが、今は違う。


 空を見れば、本物がある。

 住民たちにも、それが見えている。

 遠目にも、落ち着いているとは言い難かった。

 何度も空を振り返る者がいる。

 子供を抱いたまま早足になる母親を兵が宥め、足を止めた老人の腕を別の兵が取っている。

 恐怖がないのではない、怖いまま、動いている。

 昨日覚えた通りに。


「……ほな、こっちもちゃんとせんとな」


 彰人は前へ向き直り、速度を上げた。

 自分たちが前で止める。

 昨日決めたことは、それだけだった。


     ◇


「ホンマ、めんどくさいなぁ……」


 彰人が前線へ向かっている頃、怜司はそこからかなり離れた場所で、同じ星堕としを見上げていた。

 言葉通りの顔をしている。

 怒ってはいない、焦ってもいない。

 ただ、面倒そうだった。

 昨日も見た、壊した。

 壊したあとで妙な敵性体を調べ、何かがおかしいという話になり、ようやく休めるかと思ったら、朝になる前からまた同じものが来た。

 しかも、昨日より大きい。


「一回来たら、もうええやん……」


 空に言っても仕方がないことを言う。


「なんで続けて来んねん」

「知らんがな」


 少し離れたところから桜子の声が返ってきた。

 怜司がそちらを見る。

 桜子は既に王都側へ意識を向けていた。

 前線へ出る者たちとは逆に、彼女の位置はかなり後ろになる。

 弱いからではない。

 むしろ、前へ出れば十二神承の中でも屈指の防御力を持つ彼女は、前線を支える壁として十分以上に働ける。

 だからこそ、後ろに置かれた。

 空から来るものに対して、地上の前線だけを守っても意味がない。

 前回の星堕としでは、敵性体の卵のようなものが広範囲へ落下した。

 今回も同じなら、前線を越えて王都へ直接落ちるものが必ず出る。

 その下には、地下へ避難している住民がいる。

 建物もある、治療班もいる、魔導部隊もいる。

 そこを守る役目を任された桜子は、空を見ながら何度か深く呼吸をしていた。


「昨日よりでかいで、あれ」

「見たら分かる」

「なんででかなんねんやろな」

「知らん言うてるやろ」

「聞いただけやん」

「今聞くことちゃうやろ」


 桜子が呆れたように振り返る。

 怜司はまだ空を見ていた。

 この男に緊張感というものはないのだろうか。

 そう思いかけて、桜子はやめた。

 ないわけではない。

 ただ、自分たちとは出方が違うだけだ。

 昨日からずっとそうだった。

 誰より先に、もう一度来ると気づいた。

 理由を説明できなくても、終わっていないと判断した。


 そして実際に来た。

 今も怜司の目は、星堕としだけを見ているわけではない。

 空、前線、王都、人の動き。

 何となく眺めているようで、必要なものは見ている。


「怜司」

「ん?」

「自分、どこ行くん?」

「まだ決めてへん」

「……昨日決めた配置、覚えてる?」

「俺、好きにしてええんやろ?」

「まあ、せやけど」

「ほな、適当に見てくるわ」


 そう言って、本当に歩き始めた。

 桜子は数秒、その背中を見送った。


「……散歩ちゃうからな!」

「分かってるー」


 振り返りもせず、片手だけ上げる。


「絶対分かってへんやろ……」


 溜息を吐きながらも、桜子は追わなかった。

 必要な場所へ行く。

 怜司については、それでいい。

 むしろ、決められた位置に立たせておく方が使いにくいことを、ここにいる全員がもう知っている。


 桜子は再び空へ顔を向けた。

 そして、表情を変えた。


「……早ない?」


 まだ星堕としは遠い。

 少なくとも、昨日なら敵性体が落ち始めていなかった距離だった。

 その周囲に、小さな黒い点が見える。


 一つ、また一つ。

 増える。

 星堕としから剥がれるように離れたものが、地上へ向かって落ちている。

 桜子の声を聞いた怜司も足を止めた。


「あー……」


 しばらく眺める。


「昨日より早いな」

「そこも強化されとんの?」

「知らん」

「役に立たんなぁ…」

「俺に聞くからやん」


 言い合っている間にも、黒点は増え続けていた。


     ◇


 彰人も、それに気づいていた。

 前線へ着く少し前だった。

 空から落ちてきた一つが、遥か遠くの平原へぶつかった。

 距離があるため、音はまだ届かない。

 それでも、土が高く跳ね上がるのは見えた。


 次、さらに次。

 昨日見た光景が、そのまま繰り返されている。

 卵のような形をしたものが落ち、地上で割れ、中から敵性体が出てくる。

 ただし、昨日よりずっと遠い場所から始まっていた。

 そして。


「……あれ?」


 彰人の足が僅かに緩む。

 最初に出てきた個体が動いた。

 遠すぎて細部までは見えない。

 それでも、走り方は分かる。


「速ないか?」


 次の個体も、その次も昨日より速い。

 地面へ落ちてから動き始めるまでの時間も短い。

 形も、昨日見たものと完全には一致していなかった。

 四肢を使って走る獣型。

 胴体の大半を口のような器官が占めるもの。

 長い脚で跳躍するもの。

 似た形はある。

 だが、一回り大きく、外殻も厚い。

 そして、それぞれが昨日より生き物らしく――いや。


「進化しとる?」


 口に出してから、彰人自身が眉を寄せた。

 進化。

 そう呼んでいいのかは分からない。

 そもそも、昨日調べた結果、この敵性体が普通の意味での生物なのかどうかすら怪しくなっている。

 それでも、他に適切な言葉が思いつかなかった。

 昨日より効率よく動くための形になっていた。


 遠くに落ちた敵性体が、一斉に王都へ向かってくる。

 最初は点だったものが次第に線になり面になる。

 空から落ちる数が増えるほど、地上を走る黒いものも増えていく。

 平原の向こう側が、ゆっくりと色を失っていった。

 草地だったはずの場所が黒くなる。

 さらに奥からも来る。

 地平線そのものが、こちらへ近づいているように見えた。


「……笑われへんな、これ」


 普段なら何か一つくらい冗談を挟む彰人の口から、それ以上は出なかった。


 前を見ると、既に八傑が出ている。

 ヴァルネシア軍も陣形を整え始めている。

 十三将たちは昨日までの負傷を抱えたままだ。

 動けない者はいない。

 だが、万全でもない。

 包帯を巻いた腕、僅かに庇っている脚、鎧の下に残っている打撲。

 それでも、誰一人として下がろうとはしていなかった。


 彰人はそこへ近づきながら、自分の手を一度握った。

 開く、痛みはない。

 昨日、神装した疲労は残っている。

 身体の芯に僅かな重さがある程度で、戦えないほどではない。

 怜司だけは朝からいつも通りだった。

 あれを基準にするのはやめよう。


「ほな」


 彰人は両肩を一度回し、胸の前で拳同士を軽くぶつけた。


「やりますか」


     ◇


 最初に敵性体とぶつかったのは、前へ出ていたヴァルネシア軍だった。


 兵たちは一人で戦おうとはしなかった。

 昨日の戦闘で、一対一では不利だということを嫌というほど理解している。

 五人を一つの単位として動く。

 正面に一人、左右に二人、残る二人が後方から隙を狙う。

 先頭を走ってきた獣型の敵性体が、速度を落とさないまま兵へ飛びかかった。

 正面の兵が盾を構える。

 受け止めるためではなく、軌道を逸らすために構える。

 衝突の瞬間、身体ごと横へ逃がしながら盾を傾ける。

 外殻と金属が擦れ、耳障りな音が鳴った。

 敵性体の身体が僅かに流れ、そこへ左右から槍が入った。

 一本目が弾かれる。

 二本目も外殻に止められた。


『硬い!』


 昨日なら、もう少し深く入っていた。

 兵が驚いた、その一瞬。

 敵性体が身体を捻った。

 太い前肢が横へ振られる。

 一人が避けきれずに盾ごと吹き飛ばされ、地面を転がる。


『代われ!』


 すぐに後ろの兵が前へ出た。

 倒れた者へ意識を向ける余裕はない。

 敵性体の身体が戻る前に、外殻の継ぎ目へ槍を差し込む。

 今度は入った。

 敵性体が暴れるところに、もう一人が槍を重ねる。

 さらに一人、三人がかりで押し込んだ。

 ようやく動きが鈍る。

 最後に首に近い部分へ剣が入った。

 敵性体が崩れた。


 一体。

 五人で。

 それでも一人は吹き飛ばされた。

 勝った、とは誰も思わなかった。

 その後ろから、既に次が来ていたからだ。


『負傷者を後ろへ! 残りは次だ!』


 指示が飛ぶ。

 別の五人が前へ出る。

 その隣でも、さらに隣でも同じことが始まっていた。

 一体を複数人で受け、動きを止め、弱い部分へ攻撃を集中させる。

 昨日より強い、だが倒せないわけではない。

 訓練された兵なら、連携すれば戦える。

 問題は、一体を倒す間に何体増えるのかだった。


     ◇


 八傑は、そのさらに前で戦っていた。

 兵たちとは違い、一人で一体を受けられる。

 武門に連なる者も多い。

 身体能力だけで選ばれた者たちでもない。

 敵が昨日より硬く、速くなっていることには、最初の数合で全員が気づいていた。

 だから、昨日と同じ戦い方には拘らない。

 正面から力で押す者もいれば、外殻の継ぎ目を狙う者もいる。

 一度攻撃を受け、どの方向へ反応するのかを見てから次を入れる者もいた。

 数発、多い者でも十数回。

 兵たちより遥かに短い時間で、一体を倒す。

 それでも、倒したところへすぐ次が入ってくる。


 八傑の一人が武器についた敵性体の体液を振り払いながら、前方へ目を向けた。

 視界は、どこまで行っても黒い。

 昨日なら、一体を倒したあとに次の標的を選ぶだけの時間があった。

 今日は探す必要すらない。目の前にも、その向こうにも必ずいる。

 それどころか、考えるべきなのは次にどれを倒すかではなく、どれを先に止めなければならないかだった。

 兵へ向かう個体、横へ抜けようとする個体、跳躍しようとしている個体。

 ただ近いものを殴ればいい戦いではない。

 八傑は互いに声を掛け合いながら、前線の穴を埋めていった。

 それでも、敵の流れそのものは止まらなかった。


     ◇


「うわ、やっぱ硬いわ」


 彰人は、自分へ振り下ろされた腕を半歩だけ横へずらして躱した。

 避ける動作は小さい。

 必要以上に距離を取れば、その分だけ次の攻撃が遅れる。

 敵性体の腕が地面を叩いた瞬間には、もう懐へ入っていた。

 腹部へ拳を打ち込むと、衝撃が返ってくる。

 昨日なら、それだけでも大きく体勢を崩した。

 目の前の個体は一歩下がっただけだった。


「ホンマに強なっとるやん」


 嫌そうに言いながらも、彰人は退かない。

 もう一発、今度は外殻の継ぎ目を狙う。

 身体を捻り、腰から力を伝える。

 拳が入り、敵性体が大きく揺れる。

 その横から、別の個体が来た。

 彰人は振り返らなかった。

 視界の端で位置だけを拾い、目の前の敵性体の腕を掴む。

 殴って一体ずつ倒していてもいい。

 今なら、それでも倒せる。

 だが、前にはもう次がいる。その後ろにも。

 一体を倒すために二発、三発と使うより、もっと手っ取り早いものが目の前にあった。


「ちょい借りるで」


 誰に許可を取るでもなく、掴んだ腕を引き、巨体を前に崩す。

 彰人はその勢いを殺さず、自分の身体を軸にして回った。

 敵性体の脚が地面を離れる。

 重い。

 人間なら持ち上げることすら難しい質量が、遠心力を得て横へ振られる。

 迫っていた別の個体へ衝突し、硬いもの同士がぶつかる音が響く。

 一体、その後ろの二体、さらに巻き込む。


「お、こっちの方が早いやん」


 彰人の口元が少しだけ上がった。

 掴んでいた個体は、まだ原形を残している。

 なら、もう一回使える。

 反対へ振ると、今度は三体がまとめて弾かれた。

 最後に手を離す。

 投げ出された巨体が、後方から来ていた敵性体の列へ飛び込み、何体かを巻き込みながら地面を転がった。

 殴って倒すより効率がいい。

 敵が多いなら、その敵自身を使えばいい。

 そう理解してしまえば、彰人の戦い方はすぐに変わった。


「ほな次!」


 別の個体の腕を取る。

 敵性体にしてみれば、同胞を武器として使われるなど想定しているのかどうか。

 彰人には関係なかった。

 前にいる数を減らせればいい。

 そして何より、後ろへ通さなければいい。


     ◇


 彰人から少し離れた場所では、智臣が棍を振るっていた。


 彼は彰人ほど豪快には動かない。

 一体へ深く入り込みすぎない。

 棍の長さを利用し、敵性体が自分へ届く少し前で先に触れる。

 肩、脚、頭部。

 倒すための一撃ではない。

 動きを崩すための一撃。

 相手が踏み込もうとした脚へ棍を当て、力の方向を僅かに変える。

 巨体が傾くところに水が走る。

 足元に薄く広がっていた水が集まり、球体になる。

 智臣が棍の先を向けると水球が飛んだ。


 勢いだけなら、それほど強くは見えない。

 敵性体の胸部へ触れた瞬間、その形が変わった。

 広がるのではなく、一点へ水圧が集中する。

 外殻が内側へ凹んだ。

 硬い音のあとに、何かが潰れる湿った音が重なった。

 敵性体の脚から力が抜ける。


「……やっぱ昨日より硬いな」


 智臣は倒れた個体を一度だけ見た。

 水圧を入れた位置、潰れ方、必要だった力。

 昨日より明らかに大きい。

 なら、次から少し変える。

 一体を倒すたびに同じことを繰り返すのではなく、得た情報を次へ持っていく。

 それは昨日、敵性体側にも見られた性質だった。

 危険な相手を避ける、通りやすい場所を選ぶ。

 ならば、こちらだけが学ばない理由もない。

 智臣は次の個体へ棍を向けた。


     ◇


「メーダ」


 雅史の声は、戦場の中でも変わらず穏やかだった。

 敵性体が迫っている。

 一体ではない、その後ろにも何体もいる。

 雅史は武器を構えなかった。

 大きく踏み込むこともせず、ただ、前を見た。

 彼の背後で、何もないはずの空間が僅かに歪む。


 次の瞬間。

 先頭を走っていた敵性体の脚が沈んだ。

 地面が柔らかくなったわけではない。

 敵性体そのものへ、上から巨大な重さが加わった。

 四肢が耐えきれず、身体が落ちる。

 その後ろから来ていた個体も同じだった。

 一体、二体、さらに、一定の範囲へ入ったものが、まとめて地面へ押しつけられていく。

 外殻が軋んだ、土が沈む。

 それでも動こうとする個体がいるのを見て、雅史は少しだけ眉を下げた。


「昨日より頑丈なんだね」


 感心しているわけではない。

 必要な力を確認しただけだった。


「じゃあ、もう少し」


 重さが増し、地面がさらに沈む。

 敵性体の腹部が土へ接する、脚が広がる、外殻が耐える。

 その限界を越えた。

 鈍い破砕音が連続して響く。

 雅史はそれを見届けると、一歩前へ進んだ。

 範囲も前へ移る。


 彼の前にあるものが、順番に地面へ押し潰されていく。

 急いでいるようには見えない、走ってもいない。


 だが、雅史が歩く速度で、敵性体の前線が後ろへ押されていた。

 その姿だけを見れば、穏やかな青年が戦場を歩いているだけだった。

 彼の後方に残されていくものを見なければ。


     ◇


 行人は、自分へ迫ってくる敵性体を見ながら、一度だけ拳を握り直した。


 怖くないと言えば嘘になる。

 これまでにも戦ったし、神装も使った。敵を倒したことだってある。

 それでも、今日のように前衛として立ち、真正面から押し寄せてくる敵を止める役割は初めてだった。

 少し離れた場所では彰人が敵性体を振り回し、智臣も、雅史も、それぞれのやり方で敵を押し留めている。

 さらに向こうでは、清隆が既に地面そのものを使い始めていた。

 自分だけが場違いだとは思わない。

 それでも、目の前まで来た敵性体を見上げれば、胸の奥に残っていた緊張まで消えてくれるわけではなかった。


「……でかいなぁ」


 目の前まで来ると、やはりでかい。

 敵性体が腕を振り上げた。

 行人は息を吐いた。

 避ける、横ではなく、斜め前へ。

 振り下ろされた腕の内側へ潜り込む。

 近い。外殻の細かな凹凸まで見えるほどに。

 ここまで入れば、相手の方が大きな腕を使いにくい。

 行人は腰を落とし、右拳を引く。

 カグラの神威が体を通して、その力を拳へ集める。

 炎が生まれた。

 腕全体を派手に燃やす必要はない。

 見せるための火ではないのだ、当てた場所へ入ればいい。


「っ!」


 踏み込み放った拳が敵性体の胴へ当たった。

 足元を震えさせるような衝撃が走る。

 それと同時に、拳の周囲に集めていた炎も一緒に叩き込む。

 外へ爆発するのではない、接触した場所から、外殻の内側へ潜り込む。

 一拍。

 敵性体の身体が止まった。

 外からは何も起きていないように見える。

 次の瞬間、外殻の継ぎ目から赤い光が漏れ、内部で炎が広がる。

 敵性体の身体が大きく痙攣し、外殻を残して燃え尽きた。

 行人は慌てて横へ避ける。

 残った巨大な外殻が地面へ落ち、土埃が上がった。


「……おお」


 思わず声が出た。

 自分でやったのは分かっている。

 それでも、想像していた以上に綺麗に入った。

 拳を開く、熱はある。だが、痛くはない。

 そうしている間に、もう一体が来る。

 先ほどまで胸の奥にあった緊張が、少しだけ形を変えた。

 怖さが消えたわけではない。

 ただ、自分が何をすればいいのかは分かった。


「これなら……」


 行人は構え直した。


「いける」


 次は、自分から前へ出た。


     ◇


 清隆は戦場を見ていた。


 目の前の一体だけではない。

 地面、敵の進行方向、密度、速度、飛行型の位置、兵との距離。

 どこを通せば味方の邪魔にならず、どこを塞げば敵だけを集められるのか。

 彼にとっては、その全部が同じ問題だった。

 一体の敵性体が近づいてくるが、清隆は攻撃しなかった。


 敵性体の前脚が地面へ触れる。

 その瞬間、土が沈み、脚だけが落ちる。

 敵性体が前へつんのめった。

 抜こうとするが、地面が固まり脚が固定される。

 暴れても抜ける気配すらない。

 その腹部の真下から、細い岩の杭が伸びた。

 外殻の比較的薄い部分を貫く。

 敵性体が大きく震え、動きが止まる。

 清隆はもう見ていなかった。


 次の個体が来ている。

 先ほどの敵性体が沈んだ場所を避けた。


「……避けるか」


 昨日の時点で分かっていたことだった。

 危険な場所を認識する、同じ経路を使わない。

 それなら。


 清隆は地面を見る。

 敵性体は、そのまま残した先ほどの穴を避ける。

 右へ行けば安全に見えるように、左側の地面だけを僅かに隆起させる。

 敵性体は右へ流れた。

 その先で、地面が消えた。

 正確には、薄く残していた表層が重みに耐えられず崩れた。

 三体まとめて落ちる。

 深い穴ではない、それで十分だった。

 三体の敵性体が重なり、身動きが取りにくくなる。

 左右の地面が持ち上がり、逃げ道が塞がれる。

 穴の底から、無数の石の棘が伸びた。

 何度も、角度を変えて、外殻の隙間を探すように。

 動くものがなくなるまで。


「……清隆さん」


 少し離れた場所で戦っていた彰人が、たまたまその光景を見た。


「何?」

「いや……」


 彰人は穴を見る。

 もう何が入っていたのか分かりにくい状態になっている。


「えっぐ」

「まだ来るぞ」

「そこ否定せえへんの?」

「何を?」

「もうええわ!」


 彰人は次の敵性体を掴んだ。

 清隆も次を見る。


 地上型だけではない、上空を飛ぶ個体がいた。

 昨日にも似たものはいた。

 だが、翼が大きくなっており、速度も速い。

 地面の罠を避けるように高度を上げ、そのまま清隆の頭上を越えようとしていた。

 清隆は見上げる。

 飛んでいる。なら、飛べなくすればいい。

 空気中の水分が集まった。

 敵性体の身体全体を凍らせる必要はない。

 翼。正確には、その周囲。

 薄い氷が一瞬で広がり、翼の形が変わる。

 重量が増して、空気を掴めなくなる。

 敵性体の身体が傾いた。

 羽ばたいても高度は戻らず、翼の氷も振るい落とせない。

 高度が落ち、そのまま地面へ激突した。

 大きな音とともに土が跳ねたが、まだ動く。


 清隆は、それを見ていた。

 墜落させることが目的ではない、活動を止めることが目的だ。

 上空で水分が集まる、凍る、長い氷柱になる。

 それが落ち、敵性体の胴を貫く。

 次第に動きが小さくなる。

 それでも脚の一本が地面を掻いた。


「まだか」


 清隆の声には怒りも苛立ちもなかった。

 ただ確認しただけだった。

 地面の一部が隆起し、大きな岩塊が切り離される。

 重い音がし、岩が僅かに跳ねた。

 下にあったものは、もう見えない。


「…………」


 彰人がまた見ていた。


「清隆さん」

「何だ」

「絶対もう死んどったやろ」

「確認してない」

「氷柱刺さっとったやん」

「動いてた」

「せやからって岩まで落とす!?」

「止まっただろ」

「そら止まるわ!」


 清隆は彰人の抗議に答えず、別の場所へ視線を向けた。

 飛行型が二体。

 今度は先ほどの個体が落とされた場所を避けている。

 高度を変えた、横へ広がった。


「……学習するな」


 それなら、それでいい。

 学習することも、行動を予測するための材料になる。

 清隆の視線が、次の地形へ移った。

 彰人はそれを見て、敵性体の方へ少しだけ同情しかけた。


「……あいつんとこ行かん方がええで」


 もちろん通じるわけはない。

 敵性体は清隆の方へ向かっていった。


「あーあ……」


 彰人は見ないことにした。


     ◇


 それぞれが戦えている。

 八傑も、ヴァルネシア軍も、十二神承も。


 前線そのものは崩れていなかった。

 むしろ、最初の接触だけを見れば、想定より良かったと言ってもいい。

 昨日の経験がある、敵の特徴もある程度分かっている。

 一般兵でも、五人ほどで連携すれば一体を倒せる。

 八傑なら一人で対応できる。十二神承の前衛組なら、それ以上の速度で処理できる。

 問題は、時間が経つほど明確になっていった。


 それぞれが確実に敵を倒している。それなのに、敵が減らない。

 彰人が投げた敵性体が何体もまとめて倒れ、智臣の水圧が外殻を潰す。

 雅史の前では敵性体が次々と地面へ押しつけられ、行人も、一体目より二体目、二体目より三体目と、炎を叩き込む位置を掴み始めていた。

 清隆の周囲に至っては、既に元の平原がどんな形だったのか分からないほど地形が変わりつつある。

 それだけ倒しているにもかかわらず、前を見れば相変わらず黒かった。

 空を見上げれば、今も新たな敵性体が落ち続けている。


 星堕としは、昨日より遠い位置から敵性体を放出し始めた。

 そして今も近づいている。

 近づけば近づくほど、落下地点も王都側へ移る。

 新たに地上へ出た敵性体が、そのまま前線へ加わる。


 一万。その程度なら、まだ数えようと思えたかもしれない。

 十万。それすら、すぐに意味を失った。

 敵性体で地平線が埋め尽くされている。

 その後ろにも、さらに後ろにも、空から追加される。

 倒した数より多いのか、同じくらいなのか。

 そんな比較すら難しくなっていく。

 前線にいる者たちには、全体が見えない。

 目の前の敵を倒すだけでいい。

 だが、中衛から戦場を見ていた洋一には分かった。


「……まずいですね」


 声は小さかった。

 慌ててはいない。

 だからこそ、判断を遅らせる理由もなかった。

 前線は保っている、十三将の区域も、今はまだ持っている。

 八傑も問題ない、彰人たちも余裕がある。

 負傷者は出始めているが、救護線も機能している。

 今のところ、何一つ破綻していない。

 だからといって、この状態を維持できるわけではなかった。

 人間は戦い続ければ疲れる。敵性体が疲労するのかは分からないが、少なくとも空から落ちたばかりの個体に消耗はない。

 こちらだけが、時間とともに確実に削られていく。

 一時間、二時間。この状況がどこまで続くのかも分からない。

 その頃にも同じ数が降り続けているのなら、今保っている均衡には何の意味もなかった。


 洋一は後ろを見た。

 王都、桜子、魔導部隊、良澄、優斗。

 恭平と智希も、既に負傷者の回収を始めている。

 使える力を温存する段階ではない。

 温存したまま前線が崩れる方が悪い。

 洋一は中衛から前へ出た。

 その動きを見た者がいる。

 何人かが、次に来る指示を予想した。

 洋一は一度だけ戦場全体を見渡し、声を張った。


「全員、神装してください!」


 戦場の各所で、十二神承が反応した。

 彰人が敵性体を投げ飛ばしながら振り返る。


「やっとか!」


 智臣は棍を一度引き戻し、間合いを作った。

 雅史も足を止める。

 行人は、目の前の敵性体へ炎を叩き込んでから後ろへ下がった。

 清隆だけは、自分へ向かっていた敵性体の足元を一度崩し、地面から出した壁でまとめて進路を塞いでから洋一を見る。

 後方では桜子が息を吐いた。


「来たな」


 優斗が弓へ手をかける。

 良澄も目を閉じ、これから一気に増える力の流れへ意識を向けた。

 恭平と智希は、運びかけていた負傷者を治療班へ渡してから足を止める。

 そして。


「怜司君!」


 洋一は、少し離れた場所を歩いている怜司へも声を飛ばした。

 聞こえている、間違いなく聞こえている距離だった。

 怜司は振り返らない、前を見たまま歩いている。


「怜司君! 神装してください!」


 もう一度。

 今度は、怜司が片手だけ上げた。

 了解。

 そういう意味にも見える。

 だが、神装する気配はない。


「…………」


 洋一は数秒だけ見た。

 諦めた。


「怜司君以外、神装!」

「最初からそう言うたらええねん」


 遠くから桜子の声がした。


「聞こえてるじゃないですか!」

「聞こえてるでー」

「ならしてください!」

「今はいらんかなぁ」

「……もういいです!」


 こんな状況でも、何人かが笑った。

 ほんの一瞬だった。

 それでいい。

 次の瞬間には、戦場の空気そのものが変わった。

 神力が立ち上がる。

 一か所ではない。

 戦場の各所から、異なる性質を持つ力が同時に膨れ上がった。

 それまで敵性体とヴァルネシア軍の衝突音で満たされていた平原へ、別の圧力が加わる。


 彰人の周囲では、大地そのものが重くなったように空気が沈んだ。

 智臣の足元へ水が集まり、手にしていた棍の形が変わり始める。

 雅史の背後ではメーダの存在が先ほどまでより濃くなり、前方へ掛かる圧力が一段増した。

 行人の拳に纏っていた炎は、もう一度彼の身体へ沿うように広がり、神装の形へ組み込まれていく。

 清隆の周囲では、土と空気と水分、それまで別々だったものが、最初から彼の道具であったかのように存在感を変えた。

 後方でも同じだった。

 恭平、智希、良澄、優斗。

 そして桜子。

 昨日も使った者もいれば、これまでに何度もその力を纏ってきた者もいる。

 その一方で、この世界へ来てから、本格的な戦場では初めてその姿を晒す者もいた。

 ヴァルネシア兵の中には、目の前の敵を警戒しながらも、一瞬だけ十二神承へ視線を向けた者がいた。


 昨日、王が言った。

 彼らは、この国を守るために戦う者たちだと。

 異世界から来た。

 自分たちが侵攻した先から来た。

 本来なら敵であってもおかしくなかった。

 それなのに、今は自分たちより前で戦っている。

 その十二人――正確には、一人だけ相変わらず普通の格好で歩いているので十一人が、力を解放した。

 洋一も目を閉じ、そして名を呼んだ。


「テンレイ」


 応じるものがあった。

 上空、まだ朝になりきっていない空で、雲の流れが変わった。

 最初は、風だった。

 敵性体の群れを撫でる程度のもの。

 だが、それが一方向へ流れない。

 風が巻きあげ、周囲の空気を引き込む。

 土が舞い上がった。

 その土が、その中に含まれる砂粒が、敵性体の身体へ叩きつけられる。

 一体が足を取られた。続いてもう一体、周囲にいた個体も。

 風はさらに太くなる。

 地面から空へ、巨大な柱となり、敵性体が次々と宙に浮いていく。

 一体、二体、十体、それでは終わらない。

 周囲にいたものまで引きずり込み、黒い群れの一部がまとめて空へ持ち上げられていく。

 巨大な竜巻だった。


 ヴァルネシア兵が思わず足を止める。

 その内部で、白い光が走った。

 一度、遅れて、雷鳴が平原を揺らす。

 二度目、三度目、竜巻の中へ雷が落ち続ける。

 巻き上げられた敵性体同士が衝突し、その上から雷撃を受け、外殻が砕けていく。

 洋一はそれを見ながら、さらに腕を動かした。

 竜巻の進路が変わる。

 味方のいない場所だけを選び、黒い群れの中を横へ進んだ。

 初めてだった。

 地平線まで続いていた敵性体の群れに、目で見て分かるほど大きな空白が生まれた。

 ヴァルネシア兵から歓声に近い声が上がる。

 だが。

 洋一は笑わなかった。

 空白の向こうから、もう次が来ている。

 空を見れば、まだ落ちている。

 これだけ倒しても終わらない。


「……全力で行きますよ」


 誰に聞かせるでもなく呟き、洋一は次の風を集めた。

 ここから先は、昨日までの戦い方では足りない。

 二度目の星堕としに対する、本当の総力戦が始まった。


 最初に変わったのは、音だった。

 十一人分の神装が同時に展開されたからといって、それだけで敵性体の数が減るわけではない。

 空から降り続ける黒い影も、地平線を覆う群れも、こちらの変化など意に介した様子はなかった。

 それでも、戦場を満たしていた音の比率は、明らかに変わった。

 敵性体の外殻と武器がぶつかる硬い音。兵たちが互いの位置を知らせる声。負傷者を後方へ運ぶための指示。

 そこへ、それまでとは桁の違う破砕音が混ざり始める。


「――っらぁ!」


 彰人が踏み込んだ。

 先ほどまでと同じように、正面から来た敵性体の攻撃を僅かに外へ避ける。違うのは、そのあとだった。

 懐へ入ると同時に拳を叩き込む。敵性体の身体が浮いた。

 それまでも彰人の拳は十分に効いていた。二発、三発と重ねれば外殻を砕き、その内側まで衝撃を通せる程度には。

 神装した今は、その必要がない。

 一撃で外殻が陥没し、巨体が後方へ吹き飛ぶ。さらに、その先にいた二体を巻き込み、三体まとめて地面を転がった。


「おお……」


 自分で殴っておきながら、彰人が少しだけ目を丸くする。

 昨日も神装は使っている。自分の力がどの程度まで引き上げられるのかも、知らないわけではない。

 ただ、昨日はそれを試している余裕などなかった。

 目の前にいる敵を止めること。王都へ向かわせないこと。それだけを考えていた。

 今日は違う、最初から戦うつもりでここにいる。

 ならば、この力をどう使えば一番多く止められるのかを考える余裕もあった。


「これやったら――」


 彰人は次の個体へ踏み込んだ。

 殴る、浮く、その身体が落ちる前に腕を掴む。


「もっと使えるやん!」


 今度は持ち上げる必要すらなかった。

 吹き飛びかけた勢いをそのまま横へ変え、敵性体を振り回す。

 神装前には遠心力を使っていた巨体が、今は明らかに軽い。

 もちろん、本当に軽くなったわけではない。

 彰人の側が、それを重いと感じなくなっただけだった。

 横薙ぎに振られた敵性体が群れへ突っ込み、何体もまとめて弾き飛ばす。

 そこで手を離せば、今度は巨大な弾丸になってさらに奥へ飛んでいった。


「彰人君!」

「はいよ!」


 別方向から声が飛ぶ。

 振り返れば、兵の一団が押されていた。

 彰人はすぐに進路を変えた。

 自分の前にいる敵だけを倒せばいいわけではない。どれだけ力が上がっても、一人で平原すべてを埋めることなどできない。

 ならば、崩れそうな場所へ行く、一対一なら負けない。

 今の自分なら、一対十でもそう簡単には負けない。

 ただし、敵が十万、二十万と増えていく状況では、勝てることと間に合うことは別の話だった。

 彰人は兵へ襲いかかろうとしていた敵性体へ横から身体をぶつけ、そのまま腕を回した。


「ちょっと退いといて!」


 ヴァルネシア兵が慌てて離れる。

 直後、掴まれた敵性体が横へ振り抜かれた。

 数体がまとめて宙を舞う。

 空いた場所へ兵が入り直し、崩れかけていた陣形が戻っていった。


     ◇


 智臣の手にあった棍は、既に元の形をしていなかった。

 三本に分かれた棍を鎖が繋いでいる。

 振るうたび、先端が別々の軌道を描く。

 敵性体が一本を弾いても、そこから折れ曲がった二本目が側面へ回り込み、さらに三本目が死角から外殻を打った。

 打撃そのものを決定打にするつもりはない。

 智臣が見ているのは、その瞬間に生まれる僅かな停止だった。


 動きが止まれば、水を入れられる。

 足元だけではなかった。

 空気中に散っていた水分までが集まり、智臣の周囲にいくつもの水球を作っている。

 棍を振る、一つが飛ぶ、敵性体へ触れる。

 その瞬間だけ、球体だった水が細く絞られた。

 外殻の一点へ圧力が集中し、表面が陥没する。

 そこへ次の水球が入った。

 一度目で弱くなった場所へ、今度はさらに深く。

 敵性体の身体が内側から崩れ、地面へ落ちる。


「これなら……」


 智臣は倒れた個体ではなく、その後ろを見た。

 一体ずつ相手にする必要はない。水球を増やす。

 棍を振るたび、一つではなく複数が飛んだ。

 先頭の敵性体へ当たり、その横へ、さらに奥へ。

 点だった攻撃が、少しずつ面へ変わっていく。


 それでも足りない。

 敵性体の数を見れば、すぐに分かった。

 倒した場所へ次が入る。

 水球を増やせば、その分だけ神力を使う。

 無限に撃ち続けられるわけではない。


「……まったく、どれだけいるんだ」


 智臣が珍しく小さくぼやいた。

 答える者はいない。

 代わりに、横から来た敵性体へ棍を振る。

 三本に分かれた先端が脚へ絡み、引く。

 巨体が倒れたところへ、水球が落ちた。


     ◇


 雅史の戦い方は、神装しても見た目だけなら大きく変わらなかった。


 歩いている、それだけだった。

 走らない、拳を振るわない、武器を構えることもない。

 ただし、その周囲だけ地面の形がおかしい。

 雅史の進行方向へ入った敵性体が、一体ずつではなく、まとまって沈んでいく。

 神装前より範囲が広い。

 それだけではなかった。

 敵性体が耐えようとすれば、その分だけ圧力が増す。

 外殻が軋み、四肢が地面へ埋まり、それでも動こうとした個体だけがさらに深く沈んでいく。

 メーダが何をしているのか、周囲の兵には分からない。

 見えているのは結果だけだった。


 雅史が進む。その前にいた黒い群れが低くなる。

 さらに進む。地面へ押し潰されたものが、彼の後ろへ残っていく。


「右から来るよ」


 雅史が穏やかに言った。

 近くにいた兵が反射的に右を見る。

 敵性体が一体、圧力の範囲を避けるように回り込んでいた。

 兵が武器を構えるより先に、雅史がそちらへ視線を向ける。


「そっちは駄目」


 敵性体の身体が落ちた。

 音を立てて地面へ押しつけられ、そのまま動かなくなる。


『……ありがとうございます』

「うん。無理しないでね」


 言っていることだけを聞けば、戦場とは思えない。

 兵は礼を返しながら、その足元を見ないようにした。


     ◇


 神装した行人が、敵性体の懐へ潜り込む。

 やること自体は先ほどと変わらない。

 大きな身体の内側へ入り、腕を振り切らせない距離を取る。

 腰を落とし、カグラの神威を拳へ集め、そのまま外殻へ叩き込む。

 拳が触れ、炎が入る。

 先ほどと同じなら、外殻の内側だけを焼き尽くすはずだった。


「――え?」


 行人が拳を引くより先に、敵性体の表面が黒く変わった。

 赤い亀裂が走り、内側から漏れ出した熱が外殻まで侵し、黒く染まった部分が急速に広がっていく。

 行人が一歩離れたときには、巨体全体が炭化していた。

 形だけは残っていたが、次の瞬間には自重を支えられなくなり、崩れた。


「……うわ」


 行人は自分の拳を見る。

 火傷はない、熱は感じる。

 それでも、自分を焼くものではなかった。

 カグラの神威が神装を通して身体へ巡り、それまで拳だけへ集めていたものを、もっと自然に、もっと大量に扱える。

 同じことをしたつもりだったが、結果だけが違っていた。


「これ……」


 次が来る、考えるのはあとだ。

 行人は前へ出た。

 今度は一体目より深く踏み込み、拳を打つ。

 また、黒くなる、炭化した外殻が崩れる。

 さらに次、怖さが完全になくなったわけではない。

 むしろ、自分が今使っている力の方が少し怖い。

 それでも、後ろには兵がいる。

 そのさらに後ろには王都がある。

 ならば、今は止める方が先だった。


「……カグラ、頼む」


 返事が聞こえたわけではない。

 それでも、身体を巡る熱が僅かに強くなった気がした。

 行人は次の敵性体へ向かって走った。


     ◇


 清隆の周囲だけは、神装する前から十分に酷かった。

 神装したからといって、本人の考え方が変わるわけではない。

 敵を倒す。正確には、活動できない状態にする。

 そのために必要な手段を選ぶ。

 ただ、選べる手段が増えた。

 それが問題だった。


 清隆が戦場を見渡すと、敵性体の流れが変わっていた。

 最初は真っ直ぐ王都へ向かっていた群れが、今は僅かに左右へ分かれていた。

 理由は簡単だった。清隆の前を避けている。


「……やっぱり避けるか」


 先ほどから、同じ傾向が続いている。

 地面へ沈めた場所を避ける、棘が出た場所を避ける。

 飛行型は氷で落とされた空域を避け、高度や進入方向を変える。

 敵性体にどの程度の判断能力があるのかは分からない。

 昨日解剖した個体には、それを行うための中枢らしいものがなかった。

 それでも、現実として避けている。

 ならば、その行動を利用すればいい。

 清隆は、自分の右側だけ地面の形を僅かに変えた。

 目立つほどではない。

 敵性体が通れば何かあると思える程度に、不自然な起伏を作る。

 群れが左へ流れたが、そちらには何もない。

 少なくとも、今は。


「清隆さん、そっちめっちゃ流れてんで!」


 離れた場所から彰人の声が飛んだ。


「流してる」

「流してんの!?」

「そっちに集めた方が効率がいい」

「何する気なん?」


 清隆は答えなかった。

 左へ流れた敵性体の数を見る。十、二十ではない。

 さらに後ろから来たものまで、前の個体について同じ方向へ進んでいる。

 十分だった。地面が落ちた。今度は穴ではない。

 一定の範囲そのものが一段低く沈み、そこへいた敵性体がまとめて体勢を崩す。

 直後、周囲の地面が隆起した。

 壁になる。逃げ道が消えた。


「うわ」


 彰人の声が遠くから聞こえた。

 清隆は気にせず、地面へ手を向ける。

 沈んだ範囲の中で、岩が形を変え始めた。


「待って待って待って!」


 無数の棘が伸びた。

 一本では足りない。

 敵性体が暴れれば、刺さった棘が折れる。折れれば次が出る。

 上へ逃げようとした個体には、壁の上から岩が落ちた。

 飛び出した個体がいれば、その着地点だけが沈んだ。

 清隆は、動いているものを順番に処理していく。

 やがて、範囲の中から大きな動きが消えた。


「…………」

「何?」

「いや」


 彰人は少し考えた。


「清隆さん、敵より怖ない?」

「何が?」

「何でもないです」


 聞いた自分が悪かった。

 彰人は前へ向き直る。

 その横を、敵性体の群れが通り過ぎようとした。

 いや、通り過ぎるのではない。

 清隆から離れるように流れている。


「……ホンマに避けられとるやん」


 昨日の敵性体も危険な場所を避けた。

 だが、ここまで露骨ではなかった気がする。

 敵性体が強くなっただけではない。

 判断も早くなっているのかもしれない。

 彰人は一瞬だけ考えたが、すぐに目の前へ意識を戻した。

 その理由を考えるのは、自分の役目ではない。

 少なくとも今は。


     ◇


 中衛では、恭平が走っていた。

 敵を倒すためではない、倒せないわけでもない。

 だが、今の戦場で彼が最優先にしているものは別にあった。


『負傷者! 三名!』

「行きます!」


 声が聞こえた瞬間、方向を変える。

 神装によって強化された脚力で平原を駆け、敵性体の間を抜ける。

 一人が倒れていた、その前に二人の兵が立ち、敵性体を止めている。

 間に合っていない、恭平は速度を落とさなかった。

 敵性体が兵へ腕を振り下ろす。

 その直前、横から爪が走った。

 外殻を深く裂く、倒すところまでは確認しない。


「下がってください!」


 敵性体が怯んだ隙に兵の間へ入り、倒れている者を抱えて、そのまま走った。

 背後で、残った兵たちが敵性体へ攻撃を重ねる音がするが、恭平は振り返らない。

 今、自分が連れている一人を後ろへ届ける、それが終われば、また戻る。

 何度目なのかは、もう数えていなかった。


 智希も似たような動きをしていた。

 彼の場合は、真正面から敵性体へ入らない。

 幻惑が効かない。昨日の時点で、それは分かっている。

 ならば、使えないものへ拘る理由もなかった。

 双剣を手に、敵性体の側面へ回る。

 外殻の継ぎ目へ一本。身体がそちらへ反応すれば、逆側からもう一本。

 倒すことより、向きを変える。負傷者から注意を逸らす。

 その間に兵が退けば、自分も離れる。

 普段なら相手の認識をずらし、見えているものそのものを信用できなくさせるのが智希の戦い方だった。

 それが使えない以上、今日は自分自身が囮になるしかない。


「めんどうだなぁ」


 口ではそう言いながら、足は止まらない。

 敵性体が追ってくる。


「ほら、こっちだよ」


 あと少し。

 負傷者が十分に離れたことを確認すると、智希は追ってきた個体の攻撃を避け、双剣を交差させた。

 外殻の隙間を二本が走る。

 そこで初めて、倒すための攻撃へ切り替えた。


     ◇


 良澄は戦場の中央に近い場所で、ほとんど動いていなかった。


 動けないのではない、動かない方がいい。

 目を閉じれば、周囲を流れる神力が分かる。

 彰人が大きく使う、智臣が水へ流す。

 雅史とメーダの力が広い範囲へ掛かる。

 行人の炎が急激に膨らみ、洋一が上空へ風と雷を集め続けている。


 それぞれ性質が違う。

 強さも、使い方も、消耗の仕方も違う。

 その全てが同じ戦場で同時に動いていた。

 良澄は呼吸を整える。

 自分が何かを一つ壊すより、この流れを崩さない方がいい。

 強く出すぎたものを僅かに抑え、途切れかけたところを繋ぐ。

 完全に消耗をなくすことなどできないが、乱れを減らすだけでも、それぞれが本来持っている力を長く使える。

 問題は、対象が多すぎることだった。


「……これは、ちょっと大変ですねぇ」


 額に汗が浮かぶ。まだ始まったばかりだ。

 それでも、十一人が同時に神装し、それぞれが大きな力を使い始めれば、調整する側にも相応の負荷が掛かる。

 良澄は一度だけ目を開けた。

 前線を見る、まだ持っている。なら、続ける。

 再び目を閉じた。


     ◇


 後方で桜子は空を見上げていた。


 前線とは違う。

 こちらまで敵性体が走ってきているわけではない。

 だからといって、暇なわけでもなかった。

 むしろ、前線がどれだけ敵を止めても、仕事は減らない。

 空から直接来る。

 星堕としから放出された卵のような物体は、前線だけを狙って落ちているわけではない。

 風に流されるものもあれば、最初から王都側へ向かうものもある。

 その一つが、城壁を越えようとしていた。


「――させへんで」


 桜子が片手を上げる。

 王都の上空を覆っていた薄い光が濃くなった。

 落下してきた物体が触れたところから轟音が響き、光の膜が大きく沈んだ。

 桜子の腕にも重さが返ってくる。


「っ……!」


 落下の勢いを殺し、横へ流す。

 卵状の物体は王都の外へ弾かれ、地面へ落ちた。

 そこで割れる。

 中から敵性体が出たが、待っていた兵たちがすぐに囲んだ。


「次!」


 別方向、今度は二つ。

 桜子がそちらへ意識を向ける、王都全体を覆う。

 言葉にすれば簡単だった。

 実際には、巨大な膜のどこへ何が当たるのかを見続け、そのたびに必要な場所へ力を寄せなければならない。

 均等に強くすればいいわけではない。

 そんなことをすれば、神力がいくらあっても足りない。

 何もない場所は薄く、落ちる場所だけ厚く。

 前線を抜けた飛行型が近づけば、そこへも力を回す。


「義姉やん!」


 遠くから彰人の声が飛んできた。


「何!」

「そっち大丈夫!?」

「誰に聞いとんねん!」

「ほな大丈夫やな!」

「手伝う気ないなら聞くな!」


 怒鳴り返した直後、また一つ落ちる。

 桜子は歯を食いしばり、障壁を厚くした。

 まだ大丈夫だ、肩で息をするほどではない。

 腕も上がる、頭も回っている。

 ただ、空を見れば分かる。

 これから増える、星堕としそのものが、まだ近づいている。


     ◇


 その星堕としを見上げていた者が、もう一人いた。

 セレスティアだった。

 彼女の周囲には、攻撃を得意とする魔導士たちが集まっている。

 全員が既に術式を展開していた。

 個々に撃つのではない、対象となる範囲を決め、複数人で一つの術式を支える。

 昨日より敵が強い。ならば、一体ずつ倒すために魔力を使うのは効率が悪い。


『次、前方。少し右へ寄せます』


 セレスティアの声に、魔導士たちが反応した。

 杖が上がり、空中へ複数の術式が重なった。

 光が収束し敵性体の群れへ落ちる。

 爆発ではなかった。

 一定の範囲そのものが光に呑まれ、その中にいた黒い影がまとめて消える。

 遅れて衝撃が来た。

 地面が震え、土煙が上がる。

 数十、あるいは、それ以上。

 一度の術式で敵性体の群れに大きな穴が開いた。

 魔導士の何人かが息を吐く。


『まだです』


 セレスティアは前を見たまま言った。

 穴が閉じていく。左右にいた敵性体が流れ込んだのではない。

 後ろから来たものが、そのまま空いた場所を埋めている。

 せっかく草地が見えた場所が、数十秒もしないうちに再び黒く染まった。

 セレスティアの表情から、僅かに柔らかさが消える。


『もう一度。同じ範囲ではなく、その奥を』


 術式が組み直される。

 今度は先ほどより遠い。

 光が落ちる、また穴が開く、また埋まる。


『……多すぎますね』


 誰かが漏らした。

 セレスティアも否定しなかった。

 これだけの数を一度に相手にした経験など、長い生の中にもない。

 魔物の群れなら見たことがあるし、大規模な戦いも知っている。

 だが、これは違う。

 倒されたものを惜しむ気配がない。後ろが止まらない。

 自分たちが何十、何百と消していることそのものに、意味がないかのように次が来る。

 それでも、撃つしかなかった。

 撃たなければ、その数がそのまま前線へ届く。


『次を準備してください』


 セレスティアは杖を上げた。


     ◇


 その光を、優斗も見ていた。


 遠くで大きな穴が開き、すぐに閉じる。

 前線の状況も同じだった。

 一体ずつ正確に射抜くことはできる。

 八咫標路を使えば、多少複雑な位置にいる相手でも狙える。

 だが、今必要なのは精度ではなかった。


「……数、だね」


 優斗は弓を上へ向け、一本の矢を番える。

 狙う場所は、特定の一体ではない。

 敵性体が密集している範囲。

 弦を引くと、神力が矢へ集まる。そして、それを放つ。

 矢は敵へ向かわなかった。

 空へ上がる、高く。

 そして、途中で光が分かれた。

 一つが二つ。二つが四つ。さらに増える。

 空を覆うほどではない。

 それでも、一本だった矢は数え切れない光へ変わり、その先端が一斉に地上へ向いた。


「――行って」


 光の雨が一斉に降り始める

 一つ一つの精度は、普段の優斗の射撃とは比べものにならない。

 外殻の継ぎ目だけを狙うこともできない。急所だけを選ぶこともできない。

 それでも、数がある。

 一本で止まらなければ二本、二本で足りなければ、その周囲にも落ちる。

 密集していた敵性体が次々と倒れた。

 前線の兵たちが思わず上を見る。

 光の雨は味方の手前で終わっていた。

 優斗は結果を見る。


「……うん」


 使える。

 確かに普段より無駄は多いし、自分の好む撃ち方でもない。

 それでも、この数を相手に一体ずつ狙っている方が、よほど大きな無駄だった。

 もう一本を番え、同じように空へ撃つ。

 二度目の雨が降り注いだ。

 さらに広い範囲で黒い群れが崩れる。

 セレスティアたちの術式ほど、一度に大きな穴は開かない。

 代わりに、優斗は続けられる。

 一本、もう一本。

 呼吸を合わせ、無理に最大まで引かない。

 必要な量だけを分けて落とす。

 それでも。


「……減らないな」


 優斗が小さく呟いた。


     ◇


 実際、減っていなかった。

 局所的には減っている。

 セレスティアの魔法が落ちれば大きな空白ができる。

 優斗の矢が降れば、数十体単位で敵性体が崩れる。

 洋一の竜巻は、それ以上を一度に巻き込んでいる。

 彰人たち前衛も、神装前とは比較にならない速度で処理していた。

 それでも、戦場全体で見れば黒い面積はほとんど変わらない。


 空から落ちてくる。

 遠くで地面へ着く、割れる、走る、前線へ加わる。

 その循環が止まらない。

 何万体いるのかという疑問は、とうに意味を失っていた。

 十万を越えたのか、二十万なのか、もっといるのか。

 全体を数えられる者などいない。

 ただ、王都を囲む平原の一部が、巨大な黒い生き物に覆われたように動いている。

 そして、その黒い面が少しずつ近づいていた。


 最初に変化が出たのは、十三将が受け持っていた区域だった。

 彼らが弱いわけではない。

 昨日までの負傷がある。

 打撲、捻挫、深くはないが、まだ塞がりきっていない傷。

 普段なら戦えないほどのものではない。

 だが、休みなく身体を動かし続ければ、それらは確実に響く。

 その影響が踏み込みを僅かに浅くし、敵性体への攻撃が届かない。

 もう一歩出ようとしたところで、傷めていた脚が遅れた。


『っ――!』


 敵性体の腕が来る。

 隣にいた兵が盾を入れた。

 轟音とともに衝撃が走り、二人まとめて下がる。

 そこへ次が来る。

 十三将の一人が横から入って止めた。

 止められる。 まだ戦える。だが、さっきまでなら一人で処理できた場所へ、二人、三人と必要になり始めていた。

 人数を寄せれば、その分だけ別の場所が薄くなる。そこへ敵が入る。

 少しずつ、本当に少しずつだった。

 前線が後ろへ動き始めた。


     ◇


「んー……」


 怜司は、それを少し離れた場所から見ていた。

 まだ神装していない。装具も持っていない。

 そもそも、前線へ急いで向かっている様子すらなかった。

 歩いている。

 桜子に言われた通り、本当に散歩をしているようにしか見えない。

 ただし、視線だけはあちこちへ動いていた。


 彰人、智臣、雅史、行人、清隆。

 少し遠くで洋一の竜巻が動いている。

 上空では優斗の矢が降る。

 セレスティアたちの魔法が地面を照らす。

 後ろには桜子の障壁がある。

 みんな戦っている、敵も減っている。

 目の前だけを見れば。


「……減ってへんなぁ」


 怜司が呟いた。

 倒しているのに、減らない。

 そのこと自体は、洋一も優斗もセレスティアも既に気づいている。

 怜司も同じだった。

 ただ、彼はそこで考え込まなかった。

 敵が多い、一体ずつ倒す、間に合わない。

 なら。


 怜司の中では、その間にあるはずのいくつもの段階が、最初から必要なかった。

 視線が十三将の方へ向く。


「……あっち、ちょっとあかんな」


 歩く方向を変えた。

 その途中、一体の敵性体が、前線を抜けてきた。

 兵の間を通ったのか、横から回り込んだのか。

 怜司へ向かってくる、足を止めずに腕を振り上げた。

 怜司はそちらを見た。


「邪魔やな」


 手を上げる。

 拳ではなかった、掌でもない。ただ、横へ払った。

 手の甲が敵性体へ触れた。

 それだけだった。

 敵性体の身体が横へ飛んだ。数メートルでは止まらない。

 地面へ一度ぶつかり、跳ね、さらに転がって、別の敵性体へ衝突する。

 怜司はもう見ていなかった。

 そのまま歩く。


 もう一体、今度は正面から来た。

 怜司は少しだけ身体をずらし、通り過ぎる瞬間に腕を振った。

 硬い外殻が砕ける音がした、砕けた外殻とともに敵性体が地面へ落ちる。


「……殴んの、めんどいな」


 その感想だった。

 倒せないわけではない。

 一体ずつなら、いくらでも倒せる。

 問題はそこではなかった。

 前を見る、黒い。横を見る、黒い。

 遠くまでいる黒い塊を、一体ずつ殴る。

 面倒だった。ただただ、面倒だと思った。


 そこで、怜司は少し考えた。

 そして、清隆を探した。


「あ、おった」


 少し離れた場所で、また地面が隆起している。

 その周囲だけ敵性体の流れがおかしいので、見つけるのは簡単だった。

 怜司はそちらへ歩き始めた。


     ◇


「清隆ー」


 呼ばれた清隆は、敵性体を穴へ落としていた。

 振り返らない。


「何だ」

「ちょっとええ?」

「待て」

「うん」


 怜司は待った。

 清隆が地面を閉じる、中で何が起きたのかは見えない。

 何度か鈍い音がして、それが止まった。


「何だ」

「刀作れる?」


 清隆が、初めて怜司を見た。


「……刀?」

「うん」

「日本刀か?」

「そう」

「何に使う」


 怜司は前を指した。

 説明する必要があるのか、という顔だった。


「斬る」

「それは分かる」

「ほなええやん」

「よくない」


 清隆が僅かに眉を寄せる。

 怜司は少し考えた。


「殴んの、めんどいねん」

「…………」

「いっぱいおるやん?」

「見れば分かる」

「一匹ずつ殴んの遅いやん」


 清隆は戦場を見る。

 怜司を見る。

 もう一度、戦場を見る。

 言っていること自体は間違っていない。

 間違ってはいないのだが。


「刀なら速いのか?」

「多分」

「多分で作らせるのか」

「作ってみたら分かるやん」


 清隆は数秒黙った。

 普通なら、ここで用途や必要強度、長さ、重量、刃の性質を確認する。

 怜司相手に、それをどこまで聞く意味があるのか。


「どの程度のものが必要だ」

「一番ええやつ」


 この状態で無邪気に笑顔を向けてくる怜司を、清隆は見据えていた。

 今までの付き合いで分かってはいる。怜司はこういう人間だ。

 だが、自分の必要な情報には足りなかった。


「条件になってない」

「今作れる一番ええやつ」

「…………」


 まだ、条件が足りないということを目で訴える。

 先ほど地面に埋める時に、大きめの穴に落としたおかげで、少しだけ時間ができていた。


「硬くて、折れへんやつ」

「硬さと折れにくさは別だ」

「ほな両方」


 清隆が息を吐いた。

 相変わらず、少年のように、無邪気に無理難題を言う。


「簡単に言うな」

「無理?」


 その一言に、清隆の目が僅かに変わった。

 清隆の中にある技術者としての矜持を、怜司の一言が余計なほど正確に刺激した。


「無理とは言ってない」

「あ、作れるんや」

「作る」


 怜司の顔が少し明るくなった。

 やっぱりできるじゃないかと言わんがばかりの笑顔。

 少し苛立たないこともないが、その笑顔に毒気を抜かれたのも事実だ。


「マジで?」

「ただし、地球の材料では無理だ」

「ここに何かあるん?」

「ある」


 清隆は昨日までに触れた、この世界の素材を思い出していた。

 ヴァルネシアで使われている特殊な金属。

 地球の金属とは性質が違う。

 硬いだけなら珍しくない。

 問題は、その硬さに対して異様なほど粘ることだった。

 通常なら硬度を上げるほど脆くなる。

 その常識が、完全には当てはまらない。


「少し待て」

「どんくらい?」

「材料を持って来させる」

「今欲しい」


 玩具を見つけた子供のように、待ちきれない様子だった。

 ただ、その待ち切れなさに、期待以外の感情が含まれていることも分かっている。


「だから待て」

「急いでな」

「分かってる」


 清隆が近くの兵へ声を掛ける。

 必要な素材を伝え、兵が走る。武器も鎧も脱ぎ捨て、全速力で駆け出していた。

 怜司はその背中を見送った。


「楽しみやなぁ」

「遊びじゃないぞ」

「分かってるって」


 どう見ても楽しそうだった。

 清隆はそれ以上言わなかった。

 代わりに、近づいてきた敵性体の足元を沈めた。

 怜司は横で待っている、清隆が敵を処理する。

 待っているところに、さらに一体来る。

 怜司が手の甲で払うと、はるか彼方まで飛んでいった。


「…………」

「何?」

「いや」


 清隆は何も言わなかった。

 刀が必要なのか。

 一瞬だけそう思ったが、本人が欲しいと言っている。

 ならば作る。

 問題は、どこまで耐えられるものを作ればいいのかだった。

 清隆は怜司の手を一度見た。

 少なくとも、普通の刀では駄目だろう。

 そんなことだけは、考えるまでもなかった。


 材料を取りに走った兵が戻るまで、戦場が待ってくれるわけではなかった。

 清隆は怜司を横に置いたまま、近づいてくる敵性体を処理し続けていた。

 足元を沈め、動きを止める。そこへ岩を伸ばし、外殻の隙間を貫く。

 飛行型が近づけば翼の周囲を凍らせて落とし、墜落してなお動くものには、今度は確認するまでもなく岩を落とした。

 そのたびに怜司は少し横へ移動する。

 手伝わないわけではない。

 清隆の処理範囲から外れた個体が近づいてくれば、手の甲で払う。正面から来れば横へ流し、別方向から来れば、その方向へ返す。

 殴っているようにも見えなかった。

 それでも触れられた敵性体は、まともな姿勢を保てないまま何体もの仲間を巻き込み、遠くへ転がっていく。


「……お前」

「ん?」

「本当に刀が必要なのか?」

「いるで」


 怜司は即答した。


「今のままでも十分倒せてるだろ」

「せやけど、一匹やん」


 清隆は返事をしなかった。

 確かに、一度に飛んでいくのは一体だった。

 飛ばされた先で何体かを巻き込んではいるが、それは結果であって、怜司自身が狙っているわけではない。


「刀やったら、もっとまとめていけるやろ」

「普通はそういう使い方をするものじゃない」

「俺、普通に使うで?」

「そういう意味じゃない」


 説明するのを諦めた。

 怜司が刀を普通に使うと言う。

 その言葉をそのまま信用していいのかどうかは、清隆にも分からなかった。


     ◇


 十三将の区域では、先ほどまで辛うじて保たれていた均衡が、さらに崩れ始めていた。


 誰か一人が倒されたわけではない。

 大きな失敗があったわけでもない。

 むしろ、それぞれは今も適切に動いていた。

 前へ出る者が敵性体を止め、その隙に後ろの兵が攻撃を重ねる。

 傷めた脚に負担を掛けすぎないよう互いに位置を入れ替え、負傷者が出ればすぐに後ろへ送る。

 昨日までの戦いを経験した者たちだからこそ、無理をして一人で抱え込もうとはしない。

 それでも、敵性体の方が多かった。


『右、抜けるぞ!』


 声が上がる。

 十三将の一人が反応し、そちらへ走った。

 正面にいた敵性体を別の兵へ任せ、右から回り込もうとしていた個体の前へ入る。

 その個体の一撃は止めたが、その直後、今度は左で兵が吹き飛ばされた。

 別の十三将が向かう。

 そこも止める、止めるたびに、別の場所が薄くなる。

 薄くなった場所へ、新しい敵性体が入る。

 一歩。また一歩。気づけば、最初に立っていた場所より明らかに王都へ近づいていた。


『下がりすぎるな! 陣形を――』


 指示の途中で声が途切れた。

 飛びかかってきた敵性体を武器で受ける。昨日負った腕の傷が、その衝撃で開いた。

 布の下から赤いものが滲む。痛みで武器を落とすほどではない。

 それでも、握る力は確実に弱くなる。


『交代を!』

『まだいける!』

『いけるかどうかじゃない! 後ろへ――』


 最後まで言えなかった。

 別の敵性体が来た。

 休む時間がない。

 交代するための数秒すら、簡単には作れなくなっていた。


     ◇


「……ちょっとまずいな」


 彰人も気づいた。

 自分の周囲にいる敵性体を一体掴み、そのまま群れへ放り込む。

 何体かが倒れる。

 そこへ踏み込み、起き上がろうとした一体へ拳を落とした。

 外殻が砕ける。それを確認するより先に、視線だけを十三将側へ向ける。

 下がっている。少しずつではあるが、間違いなく下がっていた。

 助けに行くべきか。そう考えた瞬間、自分の正面にいた敵性体が兵の方へ流れた。


「っと!」


 彰人が追う。横から拳を入れ、進路を変える。

 自分が離れれば、今度はこちらが薄くなる。

 神装してから、倒す速度そのものは明らかに上がった。

 だが、身体は一つしかない。

 どれだけ強くても、同時に二か所へ立つことはできなかった。


「兄貴どこや……?」


 戦場を見渡す。見つからない。

 いや、探す必要はない。

 さっきまで、清隆の周囲だけ敵の流れがおかしかった。

 そこを見る。


「あ、おった」


 いた。

 何をしているのかは分からない。

 清隆の横に立っている。


「……何してんねん」


 こんな時に。

 そう思った直後、彰人は考えるのをやめた。

 怜司だから。

 それだけで、妙に納得できてしまった。


     ◇


 材料を抱えた兵が戻ってきた。

 金属の塊は、地球で刀を作ることを考えれば、到底そのまま使えるような形ではない。

 怜司はそれを覗き込んだ。


「これ?」

「ああ」

「見た目は普通の鉄やなぁ」

「見た目はな」


 清隆が受け取る。

 重量を確認し、表面へ指を滑らせる。

 ヴァルネシアで武器や防具の一部に使われている特殊な金属だった。

 加工しやすいとは言えない。

 むしろ、本来なら専用の設備と相応の時間が必要になる。

 しかし、この金属は硬く、それでいて粘る。

 刃物に使うなら魅力的な性質だが、硬いものを望む形へ変えるには、それだけ大きな問題が伴う。

 清隆でなければ、この金属を刃物にしようとは考えなかっただろう。


「ちょっと離れてろ」

「なんで?」

「邪魔だから」

「はい」


 怜司が素直に数歩下がった。

 清隆は金属を地面へ置く。

 自身は刀鍛冶ではない。当然だった。

 だから、日本刀の製造工程を一から再現するつもりもない。

 必要なのは、日本刀と同じ工程で作られたものではなく、怜司が求めている形と性質を持つ武器だった。

 清隆が金属へ触れる。形を理解する。内部を見る。均一ではない。僅かな不純物がある。

 そのままでは、強い力が掛かった場所から破断する可能性があった。


「……面倒だな」

「無理?」

「黙ってろ」

「はい」


 今度は返事が早かった。

 流石の怜司も、清隆が集中しようとしているのは分かった。

 清隆の意識が金属へ集中する。

 不要なものを分ける。組成を整える。

 地球の金属加工なら炉の中で行うような工程を、別の方法で進めていく。

 金属の塊がゆっくりと形を変え始めた。

 細く。長く。反りを持つ。


 怜司が覗き込もうとして、清隆に睨まれ、また一歩下がった。

 刃の形ができる。ただ鋭くすればいいわけではない。

 怜司がどの程度の力で振るうのか分からない。

 本人に聞いても、おそらく参考になる答えは返ってこない。

 ならば、想定できる最大に寄せるしかなかった。


 硬度を上げる。それだけでは折れる。

 内部へ異なる性質を持たせる。

 刃は硬く。芯は粘る。

 それでも足りない気がした。


「清隆」

「黙ってろ」

「まだ何も言うてへんやん」

「顔がうるさい」

「ひどない?」


 怜司は笑っていた。

 清隆は無視した。

 だが、その笑顔が、煮詰まっていた清隆の胸の内を軽くした。

 刀身を見る。もっといける。怜司が言った。

 一番いいもの。その条件は曖昧だった。

 だからこそ、清隆自身がどこで止めるかを決めなければならない。

 そして先ほど、無理なのかと聞かれた。


「……」


 もう少し。

 金属の内部構造を整える。

 衝撃が一点へ集中しないようにする。

 刀身全体で受け、流し、それでも刃先だけは変形しにくい形へ寄せていく。

 自分が今できる範囲で、可能な限り。

 そこまで考えて、清隆は僅かに手を止めた。

 怜司が求めたのは、今作れる一番いいものだった。ならば、最初からここまでと決めてしまう理由もない。

 まだ変えられる。まだ強くできる。

 今までなら十分だと判断したところから、もう一つ先へ手を伸ばす。

 限界は置いていく。


「……清隆?」

「何だ」

「なんか楽しなってへん?」

「なってない」

「ホンマ?」

「黙れ」

「はいはい」


 怜司の笑みが少し深くなった。

 どう見ても、清隆も人のことを言えなかった。


     ◇


 刀が形を持っていく間にも、前線では負傷者が増えていた。

 恭平が一人を抱えて走る。

 今度の兵は、自分で歩けなかった。

 片脚が不自然な方向へ曲がっている。

 意識はある。それでも、痛みで顔から血の気が引いていた。


「すぐ着きますから!」

『すま……ない……』

「喋らなくていいっす!」


 治療班へ渡す。

 その横では別の兵が運び込まれていた。

 肩から胸へ深い傷が走っている。

 さらに奥には、意識のない者。

 腹部を押さえたまま動けない者。

 昨日までより明らかに重い。

 それでも、治療班は混乱していなかった。


 場所を分けてある。

 歩ける者、処置を急ぐ者、意識がない者。

 良澄が事前に考え、ヴァルネシア側と決めた通りに運ばれていく。

 負傷者が増えることは、失敗ではない。想定していた。

 問題は、それを想定していた以上の速度で埋められるかどうかだった。

 恭平は一度だけ治療所を見た。

 まだ余裕はある、ならば戻る。

 踵を返したところで、遠くから大きな音がした。

 十三将側。

 敵性体の一体が兵の列へ突っ込み、何人かがまとめて吹き飛ばされている。


「っ!」


 恭平が走った。


     ◇

 十三将の一人が地面へ膝をついた。

 立とうとする。脚に力が入らない。

 昨日傷めた箇所を庇いながら戦い続けた結果、反対側まで限界に近づいていた。

 目の前には敵性体がいる。

 武器を持ち上げるが間に合わず、横から別の兵が盾で受けることになる。

 その盾ごと押され、もう一人が加わって、ようやく三人で止める。

 その間にも、横を別の敵性体が抜けていく。


『抜けた!』


 声が飛び、後ろの兵が向かう。

 さらに一体、もう一体。

 敵性体が急に強くなったわけではない。

 こちらが遅くなっていた。

 最初なら間に合った距離に、今は間に合わない。

 最初なら一人で埋められた穴へ、二人が必要になる。

 その差が積み重なっていた。


 アルディウスは後方から、その区域を見ていた。

 全体を見れば、まだ崩壊ではない。

 前線は存在している、兵も戦っている。

 十三将も誰一人として戦意を失ってはいない。

 だからこそ危険だった。

 戦える者は、自分が戦えるうちは下がらない。

 その結果、本当に動けなくなるまでそこへ残る。


『十三将の区域、二列下げよ! 交代を入れろ!』


 命令を飛ばす。


『しかし――』

『命令だ! 退け!』


 兵が動き始める。

 十三将の何人かが悔しそうに顔を歪めた。

 それでも従う。

 問題は、下がるためにも敵を止めなければならないことだった。

 前列が一斉に退けば、その瞬間に敵が流れ込む。

 誰かが残る必要がある。

 アルディウスが次の指示を出そうとした、その時だった。


     ◇


「できた」


 清隆が言った。


「おお!」


 怜司がすぐに寄ってくる。

 刀身には、地球の日本刀に近い反りがある。

 装飾はなく、鍔さえ存在しない。白鞘のような風体をしていた。

 刀身にも刃文はない。ただ、何かを斬るためだけに存在するような、ひどく無機質な一振りだった。

 今必要なのは美術品ではなく武器だった。

 それでも、清隆が形を雑にしたわけではない。

 握り、柄の太さ、鞘の滑らかさ、全体の重心。

 怜司が使うことを前提に、必要なものは整えてある。


「持ってみろ」


 差し出す。

 怜司が受け取った。


「おー……」


 片手で持ち上げる。

 少し振る。何の音もしない。

 普通は空気を割く音がするものなのだが、まったくの無音だった。

 清隆の眉が動いた。


「ここで振るな」

「まだ振ってへんやん」

「今のは何だ」

「持ってみただけ」

「振るな」

「はいはい」


 怜司は刀身を見る。

 角度を変えると、朝の光が刃を滑った。

 嬉しそうだった。明らかに嬉しそうだった。


「ええやん」

「まだ分からない」

「何が?」

「実際にお前が使って耐えるかどうかだ」


 怜司は全く考える間も持たずに答えた。

 あらかじめ準備されていたかのように。


「大丈夫ちゃう?」

「根拠は」

「清隆が作ったし」

「……」


 清隆が黙った。

 その答えを期待していたわけではない。

 ただ、悪い気もしなかった。


「折るなよ」

「折れへんの作ったんちゃうん?」

「物には限度がある」

「ほな試してくるわ」

「待て」


 止める前に、怜司は十三将の方を見た。

 先ほどより明らかに押されている。

 下がろうとしている。

 その前へ敵性体が集まり始めていた。


「……あっちやな」


 刀を腰へ寄せる。

 白木の、何の装飾もない、ただ無機質な鞘に刀を収める。


「怜司」

「ん?」

「味方を斬るなよ」

「斬らへんよ」

「地面もできれば――」


 そこまで言ったところで、清隆は言葉を止めた。

 怜司がいない。


「……?」


 さっきまでいた。

 目の前に、刀を持って会話をしていた。

 清隆は十三将側を見る。

 まだ遠い。少なくとも、普通に走ればすぐ着くような距離ではない。

 そこにも、怜司はいない。


「……どこ行った?」


     ◇


 彰人は敵性体の腕を掴んだところで、妙な感覚を覚えた。


 風ではない。音でもない。

 何かが、自分の近くを通った。

 そうとしか表現できなかった。


「……ん?」


 振り返る。何もない。

 敵性体が腕を振る。


「おっと」


 避けて、そのまま投げる。

 もう一度、さっき何かを感じた方向を見る。

 やはり何もない。


「なんや今の……」


 気のせいか。

 そう思いかけたところで、少し離れた場所にいたアルディウスが声を上げた。


『何だ!?』


 彼も何かを感じたらしい。

 彰人がそちらを見る。

 アルディウスも周囲を見ている。

 視線が合った。互いに何も言わない。

 言えることがない。

 何があったのか分からないのだから。

 その直後。


『……怜司?』


 アルディウスの視線が、十三将の前へ向いた。

 彰人も見る。


「……は?」


 居た。

 いつからそこにいたのか分からない。

 少なくとも、歩いてくるところは見ていない。

 走ってくるところも見えなかった。神装すらしていないのに。

 ただ、見覚えのない刀を持って、十三将と敵性体の群れの間に立っていた。


「兄貴、いつ行ったん……?」


 答える者はいなかった。


     ◇


『怜司殿!?』


 十三将の一人が声を上げた。

 怜司が振り返る。


「お疲れー」

『な、何故ここに――』

「ちょっと代わるわ」

『しかし――』

「怪我しとるやろ?」


 十三将が言葉を止めた。

 怜司は刀を持ったまま、前を見る。

 敵性体が来る、十三将たちが押されていた場所だけあって、密度が高い。

 何十体という単位ではない。その後ろにも、さらに続いている。

 怜司は少し嬉しそうに刀を見る。


「これ、今作ってもろてん」

『……は?』

「試したいねん」


 十三将は返事ができなかった。

 状況と発言が噛み合っていない。

 怜司にとっては噛み合っていた。

 敵が多い、殴るのが面倒、刀を作ってもらった、だから使う。

 それだけだった。


「ここ、俺やっとくから下がってええで」

『ですが、この数を一人で――』

「大丈夫やろ」


 怜司は前を見たまま答えた。

 その声には、気負いもなかった。

 強がっているようにも聞こえない。

 本当に、問題だと思っていない。

 十三将の一人が何かを言おうとした。

 その前に。


『退け!』


 遠くから、アルディウスの声が響いた。

 十三将たちが振り返る。


『その区域の兵は全員退け! 怜司殿の前から離れろ!』


 命令の意味が分からない。

 だが、声の強さだけで従うべきものだと分かった。

 兵たちが下がり始める。


「もっと!」


 今度は彰人だった。

 神装したまま、こちらへ向かって怒鳴っている。


「そこおったらアカン! もっと離れて!」

『しかし、ヤシロ殿――』

「ええから! 兄貴がなんかする時は近くおったらアカンねん!」


 説明になっていない。

 だが、彰人の顔は笑っていなかった。

 怜司が敵に負けることを心配している顔でもない。

 別のものを警戒している。


「義姉やん! そっちからも人寄せんといて!」


 遠くで桜子が何かを怒鳴り返した。

 内容までは聞こえない。

 それでも、障壁の一部が僅かに形を変えた。

 怜司の正面。そこだけを避けるように。

 ヴァルネシア兵たちが慌てて退いていく。十三将も下がる。

 誰も理由を理解していない。


「全速力や!止まんな!!」


 ただ、八代彰人とアルディウスの二人が同時に離れろと言っている。

 それだけで十分だった。


     ◇


「こんくらい?」


 怜司が後ろを見ると、味方の軍勢はかなり遠くまで離れていた。

 まだ彰人が手を振っている。

 遠くまで離れているのだが、それでは足りないということを訴えているようだった。


「もっと?」

「もうちょい!」

「遠ない?」

「ええから!」

「しゃあないなぁ」


 怜司は待った。

 味方が離れる。敵性体は待たない。

 前から来る。十体、二十体、その後ろにもいる。

 味方が退いたことで、むしろ怜司の前へ流れ込む数が増えていた。


 それを見て、怜司は刀の柄へ手を掛ける。

 試す。

 ただ、それだけだった。

 技を使うつもりはない、神装すらしていない。

 刀を作ってもらったから、斬ってみる。

 どのくらい斬れるのか、それを確かめる。


「ほな」


 僅かに腰を落とした。

 敵性体が迫る。

 最初の一体が、もう数歩の距離まで来ていた。

 怜司の手が動いた。少なくとも、離れた場所から見ていた彰人には、そう見えた。

 刀身が一度だけ光を横へ反射した。それだけだった。

 音が遅れて届いた。

 金属を叩いた音でも、何かが爆発した音でもない。

 もっと低い、地面の奥から響いてくるような音だった。


「……は?」


 彰人の口から声が漏れた。

 怜司の前にいた敵性体が崩れていく。

 一体ではない、最前列、その後ろ、さらに奥。

 同じ高さにあった外殻が、一斉にずれた。

 一体、二体という数ではない。

 怜司の正面、十数メートルを超える幅で敵性体がまとめて断たれ、その奥まで黒い群れに長い空白が生まれていた。

 場所によっては、その幅は数十メートルにも及んでいる。

 その中にいた敵性体が、まとめて断たれている。

 そして。


「……兄貴」


 彰人は敵ではなく、その下を見た。

 地面にも線が走っていた。

 草地が裂けている。土が露出している。

 さらに奥では、地面そのものが僅かにずれていた。


「地面まで斬っとるやん……」


 怜司本人も見た。


「……あ」


 刀を見る。

 地面を見る。

 もう一度、刀を見る。


「斬れたな」

「斬れたな、ちゃうわ!」


 彰人の声が平原へ響いた。


「だから離れろ言うたやろ!」

「離れたやん」

「そういう話ちゃうねん!」


 怜司は首を傾げた。

 手にした刀を見る。刃こぼれはない。曲がってもいない。


「清隆、すごいな」

「そっち!?」


 彰人が頭を抱えそうになる。

 だが、怜司の感想自体は間違っていなかった。

 今の一撃を受けても、刀は壊れていない。

 むしろ、怜司は少し笑った。


「これ、ええやん」


 楽しそうだった。

 非常に、嫌なほどに。

 そして、空白になった場所へ。

 また敵性体が流れ込んできた。

 黒い群れが、怜司の作った長い空間を埋め始める。

 

 怜司はそれを見た。

 刀を見る、また前を見る。


「……まだいっぱいおるなぁ」


 今度は、少し嬉しそうだった。


 怜司が再び刀へ手を掛ける。

 先ほどと同じように腰を僅かに落としたが、構えと呼べるほど大仰なものではない。

 剣術を修めた者が見れば、むしろ何をしようとしているのか分からなかっただろう。

 本人にも、型を使っているという意識はない。

 前に敵がいる。手には、よく斬れる刀がある。ならば斬る。

 怜司にとっては、それだけだった。

 刀身が光を返す。

 今度は彰人も見ていた。

 見ていたはずだった。


「……また分からん」


 いつ抜いたのか。どこまで振ったのか。刀がどの軌道を通ったのか。

 最初の一度を見たあとなら分かると思っていたが、結果は変わらなかった。

 白木の柄へ置かれていたはずの手が動き、光が横へ走ったと認識した次の瞬間には、怜司の前から敵性体が消えている。

 遅れて、地面の奥から低い音が届いた。また一本、平原へ長い線が刻まれる。


「……もうええわ」


 彰人は理解することを諦めた。

 兄が敵性体をまとめて斬った。

 それだけ分かれば十分だった。

 問題は別にある。

 怜司が作った空白へ、また黒い影が流れ込んでいる。


「兄貴!」

「んー?」

「右! そっち多い!」

「こっち?」

「もうちょい右!」

「これ?」

「そう!」


 怜司が向きを変える。

 彰人は周囲を見る。


「そこ全員退いて! 兄貴そっち向いたから!」


 理由として成立しているのか分からない声に、ヴァルネシア兵たちが反応した。

 先ほどの一撃を見ていた者は早かった。

 見ていなかった者も、周囲が走り出したのを見て続く。

 早々に退避が終わる。


「ええで!」

「はいよー」


 光が走った。黒い群れが切れた。

 また地面が裂けた。


「……もうちょい上だけ斬られへん?」

「やってみるわ」

「できるん!?」

「分からん」

「分からんのにやるな!」


 言ったときには、怜司はもう次を見ていた。

 彰人は慌てて周囲へ声を飛ばす。

 いつの間にか、自分の仕事が兄の射線管理になっている。

 それでも悪くはなかった。自分が一体を殴る。二体を巻き込む。

 敵そのものを投げれば、さらに何体かを倒せる。

 それに対して怜司は、一度刀を振るだけで、そこにいた数そのものをまとめて処理する。

 一対一なら彰人にもいくらでもやりようがある。

 相手が十体になったところで、簡単に負けるつもりもない。

 だが、この戦場で必要とされているものは、その強さではなかった。

 百、千、その先。

 数える意味すら失われるほど押し寄せてくる敵を、どれだけ短い時間で減らせるか。

 兄は昔からおかしい。

 彰人にとっては、今さら確認するようなことでもなかった。


「兄貴! 次あっち!」

「彰人、なんか楽しなってへん?」

「なってへんわ!」


 少しだけなっていたが、それを怜司に悟られるのは癪だった。


     ◇


 戦場の一角だけを見れば、状況は劇的に変わっていた。


 十三将は後方へ下がり、ようやく負傷者の交代が始まっている。

 空いた区域を怜司が一人で受け持つ。

 正確には、一人で受け持つという表現すら適切ではなかった。

 そこへ敵性体が集まる、怜司が刀を振る。

 いなくなる、また集まる、またいなくなる。

 その繰り返しだった。

 遠くから見ていたアルディウスは、何度目かの斬撃で言葉を失った。


『……あれは、本当に武器なのか?』

「一応、刀ですね」


 近くにいた優斗が答えた。

 本人も自信がなさそうだった。


『刀とは、あのような範囲を斬るものなのか』

「普通は斬りません」

『そうか』

「はい」


 少し間が空いた。


『では、レイ――』


 アルディウスが言いかけて、止める。


『……怜司殿が、おかしいのだな』

「そこは、まあ」


 優斗が困ったように笑った。


「昔からなので」

『……そうか』


 理解したわけではない。

 これ以上聞いても答えが出ないことだけは理解した。

 優斗は再び弓を上げる。

 怜司のいる場所だけが戦場ではない。

 光の矢を空へ放つ。

 分かれた光が雨となって降り、別の区域にいる敵性体をまとめて射抜いていく。

 黒い面が崩れる。

 その向こうへ視線を移した優斗の表情が、僅かに曇った。


「……やっぱり」

『どうした』

「変わってないです」


 怜司の周囲では、確かに敵が減っている。

 セレスティアたちの魔法も続いている。

 洋一の竜巻と雷は、今も平原の一角を削り続けていた。

 前衛の処理速度も落ちていない。

 それなのに。


「全体では、ほとんど減ってない」


     ◇


 洋一も、同じものを見ていた。

 神装した身体の周囲を風が巡る。

 天雷が上空を回り、その動きに合わせるように黒雲の中で雷光が走っていた。

 敵性体が密集している場所へ風を落とす。

 巨大な渦が地面を舐め、黒い影をまとめて巻き上げた。その中へ雷が落ちる。

 何十体、それ以上、一度に消える。だが、穴は閉じる。


 少し離れた場所では、セレスティアたちの術式がまた敵性体を消した。

 そこも閉じる。優斗の光が降る。

 怜司のいる区域では、先ほどまで黒かった平原が何度も草地へ戻っている。

 それでも、閉じる。


 洋一は上を見る。

 星堕としは、先ほどより近い。

 そこから今も卵状の物体が放出され続けている。

 落ちる、割れる、中から出る、前へ来る。

 自分たちは、その最後だけを処理していた。


「……これでは」


 倒す速度を上げればいい。

 そう考えていた時間は、もう終わっていた。

 今までより十倍速く倒せたとしても、供給がそれを上回れば意味がない。

 百倍ならどうか。千倍なら。

 そこまで考えて、洋一は視線を戻した。

 違う、考える場所がそこではない。

 地上にいる敵を、どれだけ速く倒せるかではない。

 増えている原因を止めなければならない。


「怜司さん!」


 戦場の音に負けないよう声を張る。

 遠い。当然、そのままでは届かない。

 通信を繋ぐ。


「怜司さん、聞こえますか!」

『聞こえとるでー』


 妙に呑気な声が返ってきた。

 直後、遠くでまた黒い群れが切れた。


「星堕としを破壊できますか」


 返事はすぐには来なかった。

 洋一は空を見た。

 昨日と違う、大きさが違う、距離も違う。

 そして昨日、怜司が砕いた星堕としは、大きな破片を地上へ残した。

 あれがなければ、その後の被害はもっと小さかった。


『壊すだけやったら、いけるんちゃう?』

「破片もです」

『ん?』

「昨日のような大きな破片を、できるだけ残したくありません」


 少し間が空いた。


『あー』


 怜司も思い出したらしい。


『あれ、めんどかったな』

「はい」

『細かくしたらええんやろ?』

「可能なら」

『やってみるわ』


 軽い。あまりにも軽い。

 だが、洋一は止めなかった。

 昨日、それを実際にやった人間が言っている。

 ならば任せる。


「周囲への影響は?」

『分からん』

「……分かりました」


 洋一は即座に通信先を切り替えた。


「全軍へ。怜司さんが星堕としを攻撃します。衝撃に備えてください!」

『待ってください洋一さん!』


 行人の声が入る。

 その声は明らかに動揺していた。

 洋一もその気持ちは分からなくもない。


『今の「分からん」を聞いて、その判断なんですか!?』

「聞いたからです!」

『余計駄目じゃないですか!?』

「だから備えるんです!」


 行人から返事がなくなった。

 納得したわけではない。

 反論している時間が惜しいだけだった。


     ◇


「星かぁ」


 怜司が刀を見た。

 気に入っている。もう少し使いたい。

 だが、洋一の言っていることも分かった。

 下にいる敵を斬る。また来る。斬る。また来る。

 面倒だった。


「先、あっちやな」


 空を見る。

 近づいてくる星堕とし。

 昨日より大きい。

 刀で斬れるか、一瞬考えた。


「……届かんな」


 少なくとも、普通に振って届く距離ではない。

 先ほどまでの感触からすれば、もっと力を込めれば届く可能性はある。

 だが、それで今作ってもらったばかりの刀がどうなるかまでは分からなかった。

 気に入っている。わざわざ壊すような使い方をする理由もない。

 怜司は刀を白木の鞘へ収めた。


 周囲にいた兵たちが、僅かに安堵した。


 その反応には気づかず、怜司は右手を空へ向ける。

 昨日と同じ、掌を向ける。

 ただし、昨日と同じでは駄目だった。

 大きく壊す、それだけならできる。

 昨日もでき、問題は、そのあと。

 砕けたものが大きければ、それが地上へ落ちる。

 なら。


「……当たってからやな」


 怜司が呟いた。

 彰人が聞きつけた。


「何が?」

「昨日、当たったとこでドンってなったやん」

「なったな」

「今日はそこで、こう……」


 怜司が右手を開く。

 指を広げる。


「バーってしたらええんちゃう?」

「全然分からん」

「俺は分かった」

「それが一番怖いねん!」


 怜司は空を見たまま笑った。

 頭の中では、もう終わっている。

 届く、当たる、壊れる、その瞬間に、広げる。

 大きな破片が残るなら、その破片まで壊せばいい。

 説明するための言葉は必要なかった。


「彰人」

「何?」

「ちょっと離れといて」


 彰人の顔が変わった。


「全員! 伏せるかなんかに掴まれ! 兄貴がまたなんかする!」

「なんかってなんやねん」

「俺が聞きたいわ!」


 怜司は右手を向けたまま、僅かに目を細めた。

 狙う、昨日より大きい。

 だが、大きさそのものは問題ではなかった。

 当てる場所、入れる量、そのあと、どこへ広げるか。

 昨日は考えなかった部分だけを考える。

 それ以外は、いつもと同じだった。


「義姉やん!フルパワーや!!」

「何で、ちゃんと管理してへんねん!!」


 理不尽極まりない返答だったが、彰人には反論している暇もない。

 桜子も本気で責任を問うているわけではなく、怒鳴り返すのと同時に障壁へ注ぐ力を一気に引き上げた。

 それを確認した怜司が息を吸い込んだ。


「んじゃ」


 光が集まる。

 周囲の空気が震え始めた。

 ヴァルネシア兵たちが身を伏せる。

 十三将も、彰人も。

 遠くでは桜子が脂汗を流しながら、障壁へさらに力を込めている。


「いけ」


 光が消えた。そう見えた。

 次に見えたときには、空に線があった。

 王都から星堕としへ向かって、白い光が一直線に伸びている。

 到達までの時間を感じることすらなかった。

 星堕としの表面へ光が触れる。

 そこまでは昨日と同じだった。

 違ったのは、その直後。

 光が広がった。

 星堕としの内部へ食い込んだ一点から、幾筋もの白い亀裂が走る。

 一つが二つ、二つがさらに枝分かれする。

 表面だけではない、巨大な塊の内側を、光が走っている。


「……うわ」


 彰人が漏らした。

 星堕とし全体が白く光った。

 次の瞬間、その星が砕けた。

 昨日のように、いくつかの巨大な塊へ分かれたのではない。

 数えられないほどの破片へ。

 そして、それでも大きいものへ、内部からさらに光が入る。

 割れる、また割れる、砕ける。

 空を覆っていた巨大な塊が、急速に形を失っていく。

 遅れて、音が来た。

 空そのものが破裂したような轟音だった。

 桜子の障壁が大きく撓む。


「っ――!」


 両腕へ重さが掛かり、手足の血管が破れるのではないかと思うくらいに踏ん張る。

 光の膜が王都を覆ったまま沈み、それでも破れない。


「こんなん聞いてへんで……!」


 歯を食いしばる。肩が上下する。

 ここまで何度も落下物を弾き続けてきた疲労が、一気に表へ出た。

 それでも腕は下げない。


「絶対、通さんからな……!」


 衝撃が抜け、障壁が戻る。

 桜子は大きく息を吸った。


「あいつ、後で覚えとけ…」


 怜司への恨み言を呟いたが、すぐに切り替える。

 まだ終わっていない。


     ◇


 空から破片が降った。

 昨日より小さい、遥かに小さい。

 それでも、すべてが消えたわけではない。

 拳ほどのもの、頭ほどのもの、人間の身体ほどのもの。

 さらに大きなものも、僅かには残っている。


 魔法師団が迎撃を始めた。

 優斗が空へ矢を放つ。

 飛行可能な者たちも動く。

 桜子は障壁を維持したまま、落下位置へ力を寄せていく。

 破片が光へ当たる、砕ける、逸れる、地面へ落ちる。

 土煙が上がった。

 その間にも、地上では戦闘が続いている。

 だが。


「……あれ?」


 彰人が最初に気づいた。

 何かが違う、敵はいる、目の前にもいる。

 少し離れた場所では兵がまだ戦っている。

 黒い群れも残っている。

 それなのに。


「落ちてきてへん」


 空を見ると、卵状の物体がない。

 星堕としから次々と放出されていた黒い影。

 それが途絶えていた。


「止まった!」


 誰かが叫んだ。

 声が戦場へ伝わる。


『増援が止まったぞ!』

『空から来ない!』

『残っているものを片付けろ!』


 兵たちの動きが変わった。

 それまでの敵は、倒しても次が来た。

 今は違う。

 一体倒せば、一体減る。二体倒せば、二体減る。

 当たり前のことが、ようやく当たり前になった。

 洋一は空を見上げた。

 星堕としは、もう形を保っていない。


「……止まりましたね」


 誰に向けるでもなく呟く。

 それから、前を見る。


「残存敵を掃討! 無理に前へ出ないでください! もう増えません!」


 声が広がっていく。

 疲労していた兵たちの表情が変わった。

 終わりが見える。

 それだけで、身体はもう一度動いた。


     ◇


 敵性体の数は、目に見えて減り始めた。

 セレスティアたちの魔法が落ちる。今度は、開いた穴が閉じない。

 優斗の光の雨が降る。倒れた分だけ、黒い面積が減る。

 洋一の竜巻が一帯を巻き上げれば、その下から草地が現れた。

 前衛も進む。

 十三将は交代を終え、動ける者だけが戻った。

 八傑も、三柱も、兵たちも、誰も楽ではない。

 傷もある、疲労もある。

 それでも、先ほどまでとは違う。

 勝てるからではなかった。

 終わるからだった。


「よっしゃ!」


 彰人が敵性体を一体殴り飛ばす。

 その先にいた二体を巻き込み、まとめて倒れた。


「兄貴! もう刀いらんのちゃう!?」

「なんで?」

「もう減るやん!」

「せっかく作ってもろたのに」

「そういう問題!?」


 怜司は再び刀へ手を掛ける。

 彰人が慌てる。


「待って! 味方近い!」

「あ、そっか」

「絶対一人で使わせたらあかんやつやん……」


 彰人がぼやく。

 怜司は残念そうに柄から手を離した。


「ほな殴るか」

「それはそれで敵がかわいそうやな……」

「なんでやねん」


 少しだけ。

 本当に少しだけ、戦場に余裕が戻り始めていた。

 だから。

 最初、それに気づいた者は少なかった。


     ◇


 砕かれた星堕としの破片が、平原のあちこちへ落ちている。

 ほとんどは小さい。

 魔法や矢で迎撃されたものも多い。


 その中に、人間より少し大きい程度の破片がいくつかあった。

 一つ、二つ、十、それ以上。

 黒とも灰色ともつかない表面。

 昨日回収した星の破片と、大きくは変わらない。

 兵たちは警戒していた。

 だから、すぐには近づかなかった。

 正しい判断だった。


『……動いたぞ』


 一人が言った。

 破片の表面に線が入り、割れる。

 中から出てきたものを見て、兵が息を呑む。

 人の形をしていた。

 頭、胴、二本の腕、二本の脚。

 ただし、人間ではない。

 表面はこれまでの敵性体と似た外殻に覆われ、顔に当たる場所にも、人間らしい表情はなかった。

 それが立つ、周囲を見る。

 別の破片も割れた。

 また一体、さらに、平原のあちこちで、同じものが立ち上がっていく。


「……なんやあれ」


 彰人が動きを止めた。

 百に届くか、その程度。

 先ほどまでの数と比べれば、あまりにも少ない。

 だからこそ。


「兄貴」

「おう」

「なんか違うな」

「せやな…」


 怜司も見ていた。

 人型の一体が、近くにいた兵へ向かう。

 兵が武器を構えた、人型も腕を上げる。

 そこまでは、これまでと大きく変わらない。

 兵が斬りかかる、人型は避けた。

 ただ身体を引いたのではない。

 刃の軌道から半歩だけ外れ、そのまま兵の武器を持つ腕へ手を伸ばした。


「……避けた?」


 彰人の目が細くなる。

 別の兵が横から入る。

 人型はそちらを見る。

 一人目を押し出す。

 押された兵の身体が、二人目の進路を塞いだ。


「……いや」


 彰人の表情が変わった。


「今、使ったやろ」


 偶然ではない。

 目の前にいる一人だけを見ているのでもない。

 二人いることを理解して、その位置を使った。

 別の場所でも同じことが起きていた。

 一体の人型へ三人の兵が向かう。

 人型は正面へ行かない。

 最も遅れている一人の側へ寄る。

 三人が同時に攻撃できない位置を選ぶ。


「こいつら……」


 彰人が拳を握る。


「戦い方、分かっとる」


     ◇


 人型が動き始めた。

 百体。

 数だけなら、先ほどまでと比べることすら馬鹿らしい。

 だが、一体が違った。

 速い、強い、それ以上に、考えている。

 少なくとも、そう見える。

 兵の攻撃を避ける、囲まれれば抜ける。

 複数が近づけば、互いの位置を使う。

 そして何体かは、最初から兵を見ていなかった。

 前線の隙間、その向こう、治療所。

 負傷者が運ばれている方向へ顔を向ける。

 彰人はそれを見た。


「……おい」


 人型が走る。

 その進路へ彰人が入った。


「そっちは行かせへんで」


 人型は止まらない。

 腕が来る、彰人は避けた。

 反撃する、拳が外殻へ入る。

 硬い、これまでの敵性体より明らかに。

 一撃で倒れない、人型が踏み込む、彰人の顔の横へ拳。

 避ける、直後、脇腹へ別の腕が来た。


「っ!」


 身体を捻ったが、浅く触れた。

 神装の表面で衝撃が散る。

 彰人が笑った。


「……なるほどな」


 一体が正面から来る。

 その後ろから、もう一体、さらに横、三方向。

 先ほどまでの敵性体なら、ただ同時に来るだけだった。

 こいつらは違う。

 一体目が彰人の視線を取る、二体目が逃げ道を塞ぐ、三体目が、そこへ攻撃を重ねる。

 連携している。


「……あ」


 彰人の肩から、僅かに力が抜けた。


「こいつらの方がやりやすいわ」


 三方向から攻撃が来るのが見える。

 一つ、二つ、三つ。

 全部、意味がある。

 ならば。


「そこやな」


 一体目の腕へ触れる、力の向きを変える。

 正面から来ていた拳が横へ流れ、二体目の外殻へぶつかった。

 その衝撃で二体目の姿勢が崩れる。

 そこに三体目の攻撃が来る、半歩ずれる。

 拳は倒れかけた二体目へ入った。

 硬い外殻同士が衝突する。

 彰人自身は、まだ一度もまともに殴っていない。


「ちゃんと攻撃してくれる方が、楽やわ」


 口元が上がった。

 もう一体が入る。四つ。今度は四方向。


「ええで」


 彰人が腰を落とした。


「全部返したる」


 神装の表面を光が走った。

 【三相鑑撃(トリア・レヴェルシオ)】

 複数の攻撃を受け、見て、合わせる。

 自分へ向けられた力を、自分だけのものとして終わらせない。

 拳、腕、身体、敵同士の位置。

 入ってくるものすべてが、次の一体を壊すための材料へ変わる。

 人型の一体が宙を舞った、別の一体へ衝突する。

 さらに、その身体を押し込むように三体目の攻撃が重なる。

 外殻が砕けた。


「次!」


 彰人が前へ出た。


     ◇


 人型への対応は、他の場所でも始まっていた。

 智臣、雅史、行人、清隆。

 四人の前にも、合わせて三十体近い人型が流れている。

 楽ではないが、一人で倒す必要はない分、対処は簡単だった。

 智臣が水で動きを止める、雅史が圧力を掛ける。

 逃れようとしたものを行人が迎え、拳とともに炎を内部へ叩き込む。

 炭化した外殻が崩れる。

 別方向へ逃げた一体の足元が沈んだ。


「清隆さん!」

「見えてる」


 地面が固まる、脚が抜けない。

 人型はすぐに自分の脚を切り離そうとした。

 清隆の目が僅かに細くなる。


「……そこまでやるか」


 判断が早い、今までの敵性体とは違う。

 観察したい。

 何を基準に選んでいるのか。どこまで自律しているのか。

 だが、拘束を諦めた人型の視線が、後方へ向いた。

 負傷者がいる。

 それを確認して、清隆は観察をやめた。


「そっちは駄目だ」


 地面が閉じる。

 人型の身体が腰まで埋まる。その上から岩が落ちた。

 動きが止まる。


「……清隆さん」


 行人が横目で見る。


「何だ」

「いえ」


 何も聞かなかった。

 いや、聞けなかった。


     ◇


 八傑の前にも、一体がいた。

 一体だけだった。

 それでも、簡単には倒せていない。

 ゼグが正面から受ける。衝撃を蓄え、返す。

 人型は真正面から受けなかった。

 身体をずらす、そこにナーシャが横から入る。

 それをも避けたので、フィルネが進路を塞ぐ。

 しかし、方向を変え、新しい進路を作る。


『こいつ……!』


 ゼグが唸る。

 今までなら、力で押せば終わった。

 人型は力そのものを避ける。

 八人と一体。

 数だけなら圧倒している。

 それでも、攻撃が噛み合わない。


『囲め! 逃げ道を消す!』


 誰かが叫び、ようやく位置を詰める。

 人型が逃げる方向を限定する。

 そこへゼグが入った。

 今度は避ける場所がない。

 衝撃が入る、外殻が割れた。そこへ残りが重なる。

 人型が地面へ倒れた。八傑の誰も喜ばなかった。

 たった一体。それだけで、ここまで掛かった。


     ◇


 三柱の前には、十体近い人型がいた。

 ガルディオが正面を受ける。

 セレスティアが動きを縛る。

 アルディウスが全体を見る。

 こちらも余裕はない。

 人型は最初からセレスティアを狙った。

 魔法を使う者、遠距離から拘束する者。

 そこを先に落とせばいいと理解しているかのように。


『させん!』


 ガルディオが割り込む。

 一体を殴り飛ばす。

 その隙に別の二体が左右へ分かれた。


『右!』


 アルディウスが叫ぶ。

 セレスティアが術式を変える。

 空間が歪み、人型の進路が僅かにずれる。

 ガルディオがそこへ入り、人型を遠くまで弾き飛ばす。

 一体、また一体。

 時間を掛けながら減らしていく。

 それでも十体。

 三柱にとってさえ、無視できない数だった。


     ◇


 怜司は刀を使っていた。

 楽しそうに。

 一体、二体、十体。

 人型は避ける。

 普通なら、それで意味がある。

 刀が来る場所を見て、そこから外れる。

 しかし、怜司が刀を振ると、避けたはずの人型が切れた。


「ん?」


 別の一体が距離を取る。

 怜司が刀を見る。

 先ほどまでの斬撃が届いた距離を見ているらしく、その外側まで大きく退いていた。


「頭ええなぁ」


 感心していた。

 人型が左右へ分かれる。

 一度に斬られないように。


「へぇ」


 怜司が少し笑う。

 刀身が光る。

 左右にいた二体が同時に崩れた。

 どう振ったのかは、やはり分からない。

 近くにいた兵が呆然としている。

 怜司は気にしない。

 次、また次。

 人型は学ぶように動きを変える。

 距離を取る、散る、死角へ回る、別の個体を囮にする。

 そのたびに怜司は少しだけ楽しそうになった。


「おもろいな、こいつら」


 四十体近くいた人型が、急速に減っていく。

 それでも、一体が怜司から離れた。

 戦うためではない、逃げた。

 怜司は追わなかった、その先には兵がいる。

 さらに後ろには、治療所へ負傷者を運んでいる者たちがいた。

 人型はそちらを見て進路を変えた。

 戦える兵ではない、負傷者を抱えている者。動けない者。

 そちらへ向かう。

 怜司の表情から、笑みが消えた。


「……あ?」


 声は大きくなかった。

 怒鳴りもしない。

 人型が走ってくるのに負傷した兵が気づく。

 護衛が前へ出ようとするが間に合わない。

 人型が腕を上げた。その次だった。

 誰も、何も見ていなかった。

 怜司が動いたところを見た者はいない。

 刀を抜いたところも、振ったところも。

 人型の姿が消えたわけでもなかった。

 ただ。

 そこに立っていたはずの人型が、崩れた。

 音を立てて、小さな塊になって、地面へ…。


『……え?』


 負傷者を支えていた兵が声を漏らした。

 何が起きたのか分からない。

 人型だったものが、もう人型ではない。

 外殻も、腕も、脚も。

 すべてが、ほとんど同じ大きさに切り分けられていた。

 一辺、一センチほど。

 無数の小さな塊が、地面へ積み重なっている。

 少し離れた場所に、怜司がいた。

 さっきまでいた場所に。

 白木の鞘へ、刀が収まっている。

 表情も大きくは変わっていない。


「弱いとこ狙うんは、ちゃうやろ」


 それだけ言った。

 誰も返事をしなかった。

 彰人だけが、遠くからその場所を見ていた。


「……兄貴、何したん?」


 答えはなかった。

 怜司自身、説明する必要があるとは思っていなかった。


     ◇


 最後の人型が倒れたのは、それからしばらくしてからだった。

 戦場に残っていた通常の敵性体も、ほぼ同じ頃に掃討された。

 音が減っていく、武器のぶつかる音、魔法の炸裂、怒鳴り声、敵性体が地面を走る振動。

 一つずつ消えていく。

 誰もすぐには歓声を上げなかった。

 本当に終わったのか。

 空を見る。平原を見る。

 また落ちてこないか、動くものが残っていないか確認する。

 それでも、何も来ない。星堕としはない。

 卵状の物体も落ちてこず、人型も立ち上がらない。

 やがて。


『……終わった、のか』


 誰かが呟いた。

 答える代わりに、兵の一人がその場へ座り込んだ。

 別の者も武器を地面へ置き息を吐く。

 それを見て、ようやく戦場全体から力が抜け始めた。

 死者はいなかった。

 だが、無傷だったわけではない。

 骨折、深い裂傷、強い打撲、意識を失った者。

 内側を傷めた可能性があり、すぐに運ばれた者もいる。

 軽傷者まで含めれば、数えるのも難しい。

 

 それでも、生きている。

 

 昨日決めた避難経路、治療区画。

 負傷者を運ぶ者、前線を支える者、地下へ避難した住民。

 誰か一人の力だけで得た結果ではなかった。

 王都の建物にも、大きな被害はない。

 外へ出したままだった軽い設備や仮設の天幕は、衝撃と風で飛ばされている。

 平原は……誰も見なかったことにした。

 特に、一本だけ妙に長く切れている場所については。


     ◇


 怜司が白木の鞘へ刀を収める。


「ええな、これ」


 清隆が近づいてきた。

 最初に見たのは怜司ではない。

 刀だった。


「見せろ」

「はい」


 清隆が渡された刀の刀身を確認する。

 刃こぼれ、歪み、亀裂、どれもない。


「……」

「すごいやろ?」

「何でお前が得意そうなんだ」

「俺が使ったし」

「作ったのは俺だ」

「ほな二人ともすごいな」

「そういう話じゃ――」


 清隆が止まる。

 もういい。


「で?」

「何?」

「地面まで斬っただろ」

「あー」

「できれば地面は、と言おうとした途中でお前が消えた」

「聞いてへんかったわ」

「知ってる」

「次から気ぃつける」

「次があるのか?」

「刀もろてええんやろ?」

「……」


 清隆は刀を見る。

 怜司を見る。

 もう一度刀を見る。


「あとで調整する」

「やった」


 怜司が笑った。

 清隆は小さく息を吐いた。

 少なくとも。

 作ったものが壊れなかったことについては、少しだけ満足していた。


 清隆から刀を受け取ると、怜司はもう一度それを腰へ寄せた。

 白木の鞘は、戦場の中では妙に目立つ。

 装飾らしい装飾もなく、今しがた作られたばかりの簡素な刀だったが、その周囲に刻まれたものを知っている者にとっては、とてもそうは見えなかった。


 怜司は気にすることなく、辺りを見回した。

 静かになっていた、完全な静寂ではない。

 負傷者を運ぶ声がする。治療班を呼ぶ声も、部隊ごとに人数を確認する声も聞こえている。

 遠くでは、倒れた敵性体が本当に動かないのかを確認して回る兵たちの姿もあった。

 それでも、つい先ほどまでとは違う。

 空から何かが落ちてくる音はない。

 地面を埋め尽くしていた黒い群れも、もう動いてはいなかった。

 武器を構えたまま空を見上げていた兵が、ゆっくりと腕を下ろす。

 別の兵が、その場へ座り込む。

 それを咎める者はいなかった。


「……終わったんやな」


 彰人が近くまで戻ってきていた。


「たぶんな」

「たぶん言うなや」

「もう降ってきてへんし」

「そこはせめて終わったって言い切ってくれへん?」


 怜司は空を見る。

 星堕としがあった場所には、もう何もない。

 細かな破片が光を受けながら遠くへ落ちていくのが見えるだけだった。


「ほな、終わりでええんちゃう?」

「軽いなぁ……」


 彰人が息を吐いた。

 神装が解ける。

 途端に身体の重さを思い出したように肩を落とし、その場で大きく伸びをした。


「俺もう風呂入りたい」

「俺も」

「兄貴、全然疲れてへんやろ」

「汚れた」

「理由そこ?」


 遠くから、まだ指示を飛ばしている洋一の声が聞こえる。

 すぐに城へ戻れるわけではないだろう。

 負傷者の確認も、各部隊の被害確認も残っている。王都の状況も確かめなければならない。

 やることはいくらでもあった。

 

 それでも。

 

 もう、戦うためのものではなかった。

 怜司は腰の白木へ一度だけ手を触れた。

 それから、もう一度だけ空を見る。

 何も落ちてこない。


「……帰ったら風呂やな」

「せやな」


 今度は彰人も否定しなかった。

 二度目の星堕としは、そこでようやく終わった。

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