再来
解体された敵性体を前にして、怜司はまだ動かなかった。
清隆たちが調査に使っていた場所には、切り開かれた個体がいくつも残されている。
内部へ触れる必要がなくなったものについてはすでに覆いが掛けられ、病原体らしきものが付着していた可能性も考えて周囲から隔離されていたが、その中で比較的損傷の少なかった一体だけは、清隆がもう一度確認できるようそのままになっていた。
先ほどまで何人もいた場所から人が減り、外から聞こえてくる復旧作業の音の方が目立つようになっても、怜司の視線はそこから外れない。
見たところで、何か新しいものが分かるわけではなかった。
筋肉に似た組織がどれなのかも、食べたものを取り込んでいたという器官がどこまで続いているのかも、清隆に説明されればそうなのかと思う程度でしかない。
まして、日本の生物とは違う構造を見て、そこから何が不足しているのかを判断するような知識は怜司にはなかった。
それでも、気になる。
昨日、空から降ってきたときには、こんなものではなかった。
もちろん、姿が違うという意味ではない。
目の前に横たわっているものも、昨日襲ってきたものも同じだ。
それなのに、動かなくなり、中身を開かれ、どこに何があるのかを一つずつ説明されたあとでは、昨日感じていたものと何かが噛み合わない。
「兄貴、まだ見とったん?」
背後から聞こえた声に、怜司は振り返った。
彰人が入口に立っている。その隣にはセレスティアもおり、二人とも戻る途中で怜司がいないことに気づいたらしい。
「うん」
「何か分かった?」
「分からん」
「ほな何でまだおんねん」
彰人は呆れながら近づいたが、兄がいつもの調子で何かを面白がっているわけではないことにはすぐ気づいた。
怜司はもう一度、敵性体を見る。
「なんか気持ち悪いねん」
「見た目は元からやろ」
「ちゃう」
即座に否定され、彰人も口を閉じた。
何が違うのかと聞こうとして、やめる。
先ほど清隆たちと話していたときにも、兄は同じような顔をしていた。
考え込んでいるというほど難しい表情ではない。
ただ、普段なら興味を失えばすぐ別のものへ意識を向ける怜司が、いつまでも同じものを見続けている。
セレスティアも少し離れた位置から敵性体を見た。
『先ほどのお話が、気になりますか?』
「それもあるんかなぁ」
答えながらも、怜司自身が納得しているようには見えない。
「まあええわ」
やがて怜司はそう言って敵性体から離れた。
「ええんかい」
「分からんもん見ても分からんし」
「さっきからそれしか言うてへんやん」
彰人が溜息を吐く。
怜司は気にせず出口へ向かった。
分からないから、一度離れる。
それ自体は普段の怜司らしい。
ただ、外へ出る直前に一度だけ振り返ったことを、彰人は見ていた。
◇
その日の夕方には、町の空気も前日とは随分変わっていた。
住民を戻す判断こそまだ出ていないが、清隆によって直された建物は増え、道に散らばっていた瓦礫も片付けられている。
敵性体によって荒らされた農地や森まですぐ元通りになるわけではないものの、町そのものについては復旧の目処が立ち始めていた。
病原体らしきものについても、破片と残骸へ不用意に近づかないこと、症状の出た者を一時的に分けること、桜子の障壁を利用して避難先への侵入を防ぐことが決められた。
昨日は星が落ちてきた。
今日は、その後始末をしている。
時間だけを見れば一日しか経っていないのに、やることが変わるだけで町に漂う緊張の種類まで違っていた。
湯に浸かった怜司は、浴槽の縁へ背を預けたまま天井を見ていた。
隣では彰人が肩まで湯に沈み、少し離れたところでは恭平が腕を伸ばしている。
智臣や雅史もおり、昨日までなら誰かが話し始めれば、それなりに賑やかになる人数だった。
実際、最初のうちはそうだった。
「結局、町は戻せそうなんすよね?」
恭平が尋ねると、雅史が湯船の縁に腕を置いたまま頷いた。
「病気の方が落ち着けばね。建物だけなら、思っていたより早いと思うよ」
「農地は時間掛かりそうだけどな」
智臣が続ける。
「食われたとこは戻せば終わりってもんでもないし」
「土ごといかれてるとこあったもんなぁ」
彰人も昼間に見た町の外を思い出した。
すぐに元へ戻せるものと、時間を掛けなければ戻らないものがある。
それでも、昨日の戦闘直後に想像していたより状況は悪くない。
「まあ、兄貴が吹っ飛ばしたもんは清隆に直してもろたらええし」
「俺だけちゃうやろ」
「一番派手なん兄貴や」
「星落ちてくるよりマシやったやん」
「それ昨日も聞いた」
同じ答えが返ってきたことに彰人が顔をしかめ、恭平が笑う。
普段なら怜司もそこで何か言う。
ところが今日は、そのあとが続かなかった。
彰人が横を見る。
怜司は天井を見たままだった。
「……兄貴」
「ん?」
「まだ気になっとん?」
「何が?」
「昼のやつや」
聞かれて初めて思い出したように、怜司が視線を下ろした。
「ああ」
「忘れとったんかい」
「忘れてへんで」
返事はする。
ただ、どこか引っ掛かっている。
彰人にはそれ以上が分からなかった。
怜司自身にも分からないのだから、聞いたところで答えが出るとも思えない。
智臣は二人のやり取りを聞きながら、昼間に開いた敵性体を思い返していた。
「俺も、あれは気になるけどな」
「やろ?」
怜司がすぐ反応する。
「いや、お前と同じかは知らん」
「なんやねん」
「俺は構造の話だ。動いてたくせに、動きを決めるところがないってのは変だろ」
「それや」
「だから、それがお前の言ってる気持ち悪いのと同じか分からんって」
智臣が言っても、怜司は何となく納得したようだった。
何が納得できたのかは、誰にも分からない。
彰人は兄の横顔をしばらく見てから、もう一度肩まで湯へ沈んだ。
「まあ、明日また見たらええんちゃう」
「せやな」
答えだけは軽かった。
だが、風呂から上がるまで、怜司がいつものように話へ戻ることはなかった。
◇
夕食の頃には、八傑と三柱も含めて報告が一通り揃った。
復旧については、やはり明るい話の方が多い。
敵性体に食い荒らされた自然環境はすぐには戻らない。負傷者もいる。
病原体らしきものへの警戒も続けなければならない。
それでも、町を放棄する理由はなかった。
『明日には、一部の者から戻すことも検討できるだろう』
アルディウスが報告を聞き終えて言うと、洋一も地図を見ながら頷いた。
「全員を一度に戻す必要はないと思います。まず復旧に必要な人から戻ってもらって、安全が確認できた区域を広げていけばいいでしょう」
『王都からの物資も届く。足りぬものがあれば追加で送らせよう』
「ありがとうございます」
昨日まで戦っていた相手同士が、一つの地図を囲んで町の復旧について話している。
その状況を不思議に思う者も、もう少なくなっていた。
ガルディオは農地の被害について恭平たちへ確認し、ベルンは清隆が直した建物の一覧を見ている。
ナーシャとアルネアは洋一の近くで行政側の報告を整理し、ミリアは智希から家畜を戻す際の注意を聞いていた。
昨日までなら敵味方という線で分かれていた者たちが、今日は役割で分かれている。
その様子を見ていた彰人は、少しだけ肩の力を抜いた。
「意外と早よ戻れそうやな」
『はい』
隣にいたセレスティアも町の地図を見る。
『すべてが元通りになるには時間が必要でしょう。ですが、人々が戻る場所は残っています』
「昨日言うてた通りやな」
彰人が笑うと、セレスティアも僅かに表情を和らげた。
その少し向こうでは、怜司が食事をしている。
食べる量も速度も普段と変わらない。
それなのに、時折動きが止まる。
何かを思い出したように視線が宙へ向き、しばらくするとまた食事へ戻る。
桜子も気づいていたらしい。
「怜司、さっきから何やねん」
「何が?」
「ぼーっとしすぎや」
「考え事」
「珍し」
「失礼やな」
口では返すが、怒った様子もない。
桜子は怜司の顔を覗き込んだ。
「昼のアレか?」
「うん」
「まだ分からん?」
「分からん」
「ほな今日は寝ぇ。明日考えたらええ」
「そうする」
驚くほど素直に答えた。
そのせいで、逆に桜子が僅かに眉を寄せる。
怜司が本当に疲れているようには見えない。
神装して長時間戦っていた他の者と違い、昨日から今日にかけても一人だけ妙に元気だった。
だからこそ、身体ではなく頭のどこかに引っ掛かっているものがあるのだろう。
桜子はそれ以上聞かなかった。
聞いたところで、本人が分からないものを言葉にさせても仕方がない。
◇
食後、昨日と同じように談話のための部屋へ人が集まった。
全員ではない。
負傷が残る者は早めに休み、明日の復旧作業へ備える者も自室へ戻った。
それでも十二神承の多くと八傑、三柱の何人かは残り、昼間まで続いていた調査とは関係のない話を始めている。
緊張が完全に消えたわけではない。
それでも、今すぐ敵が来るわけではないと分かっている時間まで作戦の話だけを続ける理由もなかった。
智希がミリアへ日本の動物の話をしている。
恭平はゼグと何か身体の使い方について話しており、少し離れた場所では優斗がガルディオからヴァルネシアの弓について聞いていた。
洋一の左右には、なぜか今日もナーシャとアルネアがいる。
「……あれ、定位置になってへん?」
彰人が小声で言う。
優斗が視線だけそちらへ向けた。
「今日ずっとあんな感じだったよ」
「本人なんも思ってへんの?」
「たぶん」
「強いなぁ……」
何に対して強いのかは言わなかった。
その声が聞こえたのか、洋一がこちらを見る。
「何か言いました?」
「何も」
「言うてへん」
二人が同時に答えたため、余計に怪しまれた。
少し離れたところでは桜子がその様子を見て笑っている。
フィルネも隣にいた。
昨日より表情が柔らかい。
子供たちに体調不良が出ていないこと、町へ戻る目処が立ち始めたことが大きいのだろう。
その視線が一度だけ怜司へ向いたことに、桜子は気づいた。
怜司は部屋の端で壁へ背を預けている。
寝ているわけではない。
話を聞いているようでもあり、聞いていないようでもある。
桜子は隣のフィルネを見る。
フィルネはすでに視線を戻していた。
昨日より少し分かりやすくなった気もする。
だからといって、今ここで触れるつもりはなかった。
代わりに少し離れた位置を見る。
セレスティアは彰人と話している。
こちらはさらに分かりやすい。
「……忙しなりそうやなぁ」
『何がでしょう?』
フィルネに聞かれ、桜子は笑った。
「こっちの話」
その夜は、戦いとは関係のない話がしばらく続いた。
誰かが笑い、それにつられて別の者が笑う。
昨日までなら同じ場所で一緒に過ごすことすら考えられなかった者たちが、明日には町を戻すため同じ仕事をする。
少なくとも、その時間だけを見れば、星堕としは終わった出来事になりつつあった。
◇
夜中に怜司は目を覚ました。
何か音がしたわけではない。
外が騒がしいわけでもない。
身体が疲れているわけでもなく、喉が渇いたわけでもなかった。
暗い天井を見たまま、しばらく動かない。
「……なんやねん」
小さく呟く。
昼間から続いていたものが、まだ残っている。
解体された敵性体。
昨日動いていた姿。
智臣から逃げたこと。
頭の中で順番に考えているわけではない。それらが一つの塊になって、どうにも収まりが悪い。
怜司は身体を起こした。
隣室から物音はしない。
外も静かだった。
昨日までなら、星堕としが終わったことに何の疑問も持たなかった。
星は砕いた、敵性体も倒した、町も直り始めている。
なら、終わりでいいはずだった。
それなのに、終わったものとして頭の中へ置こうとすると、どうしても引っ掛かる。
「……気持ち悪」
理由は分からない、答えも出ない。
怜司はしばらく座っていたが、やがて再び横になった。
今考えても分からない。
なら、明日もう一度見ればいい。
そう決めると、今度はそれ以上考えなかった。
◇
翌朝、怜司は朝食を終えると真っ先に昨日の調査場所へ向かった。
清隆が来たのは、その少しあとだった。
「何してる」
「見てる」
「それは分かる」
昨日と同じ個体を前にしゃがみ込んでいる怜司を見る。
さらに遅れて、彰人と行人もやってきた。
「やっぱり来とったんか」
「昨日からずっと気にしてましたからね」
行人も解体された個体を見る。
昨日と何も変わっていない。
隔離され、動くこともなく、清隆が調べた状態のまま残されている。
「何か分かったんですか?」
「うん」
あまりにも普通に答えたので、行人は一瞬反応が遅れた。
「……分かったんですか?」
「これ、もう一回来るで」
彰人の顔から眠気が消えた。
「何が?」
「星」
怜司は敵性体を見たまま答える。
「もう一回、星堕とし来るわ」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
昨日、終わったばかりである。
砕いた星の破片はまだ町の周囲に残り、その影響で体調を崩した者の治療も続いている。
復旧作業が始まり、ようやく住民を戻す話が出てきたところだった。
彰人が兄を見る。
「……なんで?」
「分からん」
「またそれかい!」
思わず声が大きくなった。
「分からんけど来るで」
「兄貴、それで納得できるん自分だけやからな?」
「せやろな」
怜司は特に困らない。
行人は頭を押さえそうになったが、そこで言葉を止めた。
怜司が冗談を言っているようには見えない。
何より、本人の中ではすでに疑っていない。
「可能性がある、じゃないんですね」
「来る」
「……昨日終わったばかりですよ」
「せやからやん」
怜司がようやく顔を上げた。
「続けざまに来るんかいって思ってんねん、俺も」
言い方は軽い。
だが、その内容は軽くない。
清隆はすでに敵性体へ視線を向けていた。
「理由は説明できないんだな」
「うん」
「何を見てそう思った」
「それも分からん」
「全部分からんやないか」
彰人が横から口を挟む。
怜司は少し考えた。
「昨日は、こいつ見たら気持ち悪かった」
「ああ」
「今見たら、まだ終わってへんって分かった」
それ以上の説明は出なかった。
清隆は否定しなかった。
根拠がないからといって、無視する理由にもならない。
昨日までなら、それで終わったかもしれない。
しかし、目の前にある敵性体には、すでに説明できない構造が見つかっている。
「調べ直す」
清隆が言った。
それだけで十分だった。
◇
調査へ加わる人数は、すぐに増えた。
雅史と智臣が呼び戻され、少し遅れてセレスティアも姿を見せる。
昨日の調査で使われた器具が再び並べられ、覆いを掛けられていた敵性体のうち、戦闘中に周囲とは異なる動きを見せていた個体がいくつか選び出された。
清隆が優先したのは、単に身体の大きな個体ではない。
昨日、周囲の敵性体が集まる中心にいたもの。
移動方向を変えた直後、近くにいた個体まで同じ方向へ流れたもの。
智臣がラギアを出してから、明らかに接近を避けるようになった群れの中にいたもの。
それらを並べてみると、外見だけでは大きな違いはなかった。
「こいつらが司令塔だった、っていうのもまだ仮定だけどね」
雅史は昨日の記録を広げたまま、並べられた個体を順番に見ていく。
戦闘中に見たものと、あとから聞き取った内容。
その両方を時系列へ置き直してみると、個々の敵性体が好き勝手に動いていたと考えるには、行動が揃いすぎている箇所がいくつもあった。
智臣もその記録を覗き込んだ。
「でも、こいつの近くにいたやつが一斉に向き変えたのは覚えてる」
指先が、一つの時刻を示す。
「ラギ出してからだ。俺の近くにいたやつだけじゃない。少し離れてたやつまで寄ってこなくなった」
昨日は、危険だと判断して逃げたのだと思っていた。
生き物なら珍しくもない。
だが、危険を判断する中枢が身体のどこにも見つからないとなれば、同じ行動の意味が変わってくる。
清隆は一体の頭部近くへ手を伸ばした。
「昨日は、判断する器官を探した」
切り開かれた内部を、改めて指先で追う。
「今日は逆から見る。判断が外にあると仮定する」
「外?」
彰人が眉を寄せる。
「自分で考えてへんってこと?」
「まだ決めてない」
清隆は顔を上げなかった。
「外から何かを受け取っていたと仮定した場合、受け取るための構造が必要になる。その前提で見直す」
答えを先に決めるわけではない。
昨日までとは違う問いを置き、同じ身体をもう一度見る。
その違いだけで、それまで意味を持たなかったものが候補へ変わった。
最初に声を上げたのは智臣だった。
「清隆。これ」
頭部の後方にある薄い組織を指す。
見た目だけなら、昨日も確認している場所だった。
感覚器の一部だろうと考え、それ以上は追わなかった。
だが、その根元から伸びる細い組織を辿ると、途中で一つの中枢へ集まっていない。
清隆が器具を使い、周囲を少しずつ開いていく。
一本。
さらに一本。
細い組織は身体の奥へ入り込むと枝分かれし、筋肉に似た部位や、食べたものを直接利用していたと思われる器官の近くまで伸びていた。
彰人には、それが何を意味するのかまでは分からない。
ただ、清隆の手が途中で止まったことで、昨日とは違うものを見つけたことだけは分かった。
「……中枢、通ってへんな」
「ああ」
彰人の言葉に、清隆が短く答える。
智臣は別の個体へ移った。
同じ場所を探す。
「あった」
二体目にもある。
三体目にもあった。
一方で、昨日ひたすら前へ出てきていた小型の個体を開くと、同じ場所に似た組織こそあるものの、明らかに細い。
「アンテナみたいだな」
智臣が少し離れて全体を見る。
清隆はすぐには同意しなかった。
形が似ていることと、機能が同じであることは別だからだ。
それでも、昨日までは説明できなかった差が初めて現れた。
「少なくとも、個体によって発達の程度が違う」
清隆が手袋を替えながら言う。
「偶然できた器官とは考えにくい」
「指令出す側やなくて、受ける側なん?」
彰人が聞く。
「その可能性はある」
そこで初めて、清隆は解体された個体から顔を上げた。
「ただし、何を受けていたかは分からない」
答えが一つ出たのではない。
分からないものの形が、少し変わっただけだった。
雅史は戦闘記録へ視線を落とす。
もし、この器官が何かを受け取っていたのなら、昨日の行動変化と時刻を合わせられるかもしれない。
智臣はさらに別の個体を確認する。
清隆は器官の接続先を追う。
それぞれが違うものを見始めたところで、セレスティアが静かに近づいた。
『私も確認してよろしいでしょうか』
「頼む」
清隆が場所を空ける。
セレスティアは敵性体の傍らへ膝をつくと、先ほど見つかった器官の上へ手を翳した。
すでに死んでいる。
生きていたときの魔力が、そのまま残っているわけではない。
それでも、繰り返し同じ経路へ力が流れていたのなら、周囲とは違う痕跡が残ることがある。
目を閉じたセレスティアの周囲で、僅かに空気が揺れた。
昨日、敵性体そのものを前にしていたときとは違う。
大きな魔法を使うわけでもない。残ったものを乱さないよう、ごく細い感覚だけを伸ばしていく。
しばらくして、彼女の眉が僅かに寄った。
清隆が気づく。
「何かあるか」
すぐには返事がなかった。
セレスティアは手の位置を少しずらし、同じ器官の別の場所を確かめる。
続けて二体目へ移り、同じように手を翳した。
そこでようやく目を開く。
『……ここです』
指した場所は、智臣が最初に見つけた器官だった。
『非常に薄いものですが、他の部位とは残り方が違います』
雅史も近づく。
「魔力?」
『似ています。ただ、私たちが普段使う魔術と同じものかは分かりません』
セレスティアは言葉を選びながら、もう一度器官を見る。
『身体の内側からここへ流れたのではなく、ここから内側へ入ったように感じます』
その言葉に、清隆の視線が変わった。
昨日まで見つからなかった中枢。
外から入った痕跡。
身体の各部へ直接伸びる組織。
そして、戦場で同時に変化した複数の個体。
どれか一つなら、まだ偶然で済ませられた。
だが、別々の角度から見つかったものが、同じ仮説の周囲へ集まり始めている。
雅史は記録へ視線を戻した。
「昨日の動き、もう一度全部並べてみるよ」
「頼む」
「個体ごとじゃなくて、変化した時間を中心に見た方が良さそうだね」
清隆が頷く。
智臣は解体された敵性体を見ながら、腕を組んだ。
「外から指示されてたとして……じゃあ、誰がこいつらを見てたんだ?」
誰も答えなかった。
その問いに答える材料だけは、まだどこにもない。
少し離れて一連の調査を見ていた怜司だけが、妙に納得した顔をしている。
「やっぱ来るやん」
「いや兄貴」
彰人が振り返る。
「今分かったん、そこちゃうからな?」
「でも繋がったやろ?」
「何がどう繋がったか説明せぇ言うてんねん」
「それは知らん」
「そこや!」
いつもの調子で返しながらも、彰人の声に本気の苛立ちはなかった。
朝の時点では怜司一人の確信でしかなかったものに、ようやく周囲から触れられる形が出てきた。
行人は、そのやり取りを聞きながら別の方向へ視線を向けていた。
身体の外から、何かが働きかけていた。
ならば、敵性体そのものをいくら調べても、その外側までは見えない。
こちらから見えないものを、別の場所から見る方法。
思い浮かんだ存在は一つだった。
「……老師に聞いてみます」
声に出すと、優斗がすぐに行人を見る。
「向こうから観測してもらう?」
「はい」
行人は頷いた。
「星堕としそのものが終わったのか。もし終わってないなら、こっちで死体を見続けるより早いと思います」
朝から感じていた嫌な予感が、初めて調べるべき方向を持った。
行人はすぐに立ち上がった。
◇
別々に始まった調査が、一つの答えへ近づくまでには半日も掛からなかった。
老師から返ってきたのは、星堕としそのものがすでに完成しているという情報ではなかった。
ただ、前回とよく似た異常が、再び形成され始めている。
位置は違う。
前回の観測記録と比較すれば、進行もまだ初期に近い。
それでも、同じ現象である可能性は高かった。
「どれくらいですか」
戻ってきた行人の報告を聞きながら、雅史が尋ねる。
「老師にも正確な時間までは分からないそうです。ただ、前回の変化と比べると――」
卓上に置かれた記録へ視線が集まる。
前回、最初に異常を観測してから星堕としが現れるまで。
今回、現在確認されている進行。
条件が同じとは限らない。
規模も同じとは限らない。
それでも比較できる材料はある。
「二日」
雅史が小さく呟いた。
その数字だけが、卓上へ落ちたように残った。
老師から得られた観測結果と、前回の記録が並べられている。
前回、最初に異常が確認された時点。
そこから星堕としが実際に姿を現すまでの変化。
今回、老師が捉えた異常の進み方。
まったく同じ現象だと断定することはできない。
それでも、変化の段階を並べれば、現在がどの辺りに相当するのかはある程度推測できる。
雅史は数字を見直した。
簡単に口にしたくはなかった。
もし外せば、王都全体の動きを変えることになる。
だが、短く見積もるべき状況で、楽観的な数字を選ぶ理由もない。
「早ければ、そのくらいかな」
雅史が顔を上げる。
誰かが息を呑む音がした。
昨日、最初の星堕としが終わったばかりである。
町では今も瓦礫を片付け、負傷者を治療し、住民を戻す準備をしている。
その最中に、次のものがすでに形を作り始めている。
清隆は老師の観測結果をもう一度確認した。
「遅れる可能性はある」
指先が記録の一部を辿る。
「逆に、前回より進行が速ければ二日を切る」
「つまり」
桜子が組んでいた腕を解いた。
いつもの軽い調子は消えている。
「二日あると思うて動いたらあかん、ちゅうことやな」
「そうですね」
洋一が答える。
視線は卓上の記録から動かない。
「今日から準備を始める前提で考えた方がいいでしょう」
期限が見えた。
次に必要なのは場所だった。
老師が捉えた異常だけでは、落下地点までは分からない。
前回と同じ場所へ来る保証もない。
雅史は別にまとめていた記録を中央へ寄せた。
敵性体の受信器官。
そこに残った、外から内へ入ったと考えられる痕跡。
昨日の戦闘中に、複数の個体が同時に行動を変えた時刻。
老師が観測した異常の位置。
アルディウスから受け取ったヴァルネシアの地理情報。
それぞれ単独では、落下地点を決める材料にはならない。
セレスティアが地図へ手を伸ばした。
『残った流れを方向として見るなら……こちらです』
指先が地図の上を滑る。
清隆が別の記録と照合する。
行人は老師から聞いた位置関係を思い出しながら、その先を見る。
一つの情報から線を引いたのではない。
異なる方法で得られたものを重ねるたび、候補から外れていく場所が増えていった。
最後まで残った方向を見て、彰人の表情が変わる。
「……これ」
指先の先にあるものを、確認するまでもなかった。
王都。
ヴァルネシアで最も多くの人が暮らし、政治も軍事も集まる場所。
アルトリウスがいる。
三柱の本来の拠点でもある。
王国という形そのものを支えている場所だった。
セレスティアの顔から血の気が引く。
彼女にとっては地図の上の一点ではない。
長い時間を過ごし、知っている者たちが暮らしている場所だった。
『王都を……』
続く言葉がすぐには出なかった。
彰人が隣を見る。
声を掛けようとして、やめた。
代わりに地図へ視線を戻す。
「直接潰しに来る、いうことか」
「そこまではまだ言えないよ」
雅史は静かに訂正した。
敵の目的は分からない。
王都という場所を認識して狙っているのか、それとも別の理由で結果的にそこへ落ちるのかも分からない。
分からないものを、分かったことにはしない。
ただし。
「王都以外だと考えるには、情報が一致しすぎてる」
その言葉には、誰も反論しなかった。
怜司は地図の端から王都の位置を覗き込んだ。
朝、自分の中で答えになったものが、今度は周囲にも見える形になっている。
だから驚きはしなかった。
代わりに、少しだけ嫌そうな顔をする。
「昨日終わったとこやのに」
彰人が横を見る。
「兄貴、朝から来る言うてたやろ」
「それとこれとは別やん」
「何がやねん」
「続けざまに来るんかい、とは思うやろ」
怜司にしては珍しく、心底面倒そうだった。
それを見て、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
だが、洋一はすぐ地図へ視線を戻した。
二日以内。
狙われる可能性が高いのは王都。
この町の復旧へ割ける時間は、ここで終わる。
十二神承だけの問題でもない。
三柱も、八傑も、王国の兵も、王都に暮らす者も動かさなければならない。
洋一は地図を畳んだ。
「王都へ戻りましょう」
今度は、その言葉が次にやるべきことを明確に示していた。
◇
王都へ戻った十二神承たちを待っていたのは、前回とは違う緊張だった。
最初にこの城へ来たとき、彼らは侵攻してきた王国と交渉する側だった。
今度は、その王国を守るために戻ってきた。
アルトリウスへの報告は、到着してすぐに行われた。
玉座の間ではない。
地図を広げられる大きな部屋へ王と主要な将、魔法師団の指揮官、行政を担う者たちが集められた。
『二日、か』
「正確には、二日以内に来る可能性を考えて動いた方がいい、です」
洋一が訂正する。
「時間を保証できる情報ではありません」
『構わぬ。分からぬものを分かったと言われるよりはいい』
アルトリウスは地図を見る。
王都。
周囲には城壁がある、高い塔もある、軍もいる。
だが、前回の星堕としを見た者にとって、それらが安心材料にならないことは分かっていた。
「城壁は、星そのものに対しては意味がありません」
清隆が淡々と言う。
「落下物の一部を止めることはできても、上から来る以上、外周を固めても防げない」
『ならば、魔法障壁を上へ展開する』
アルディウスが地図へ手を置く。
『魔法師団を分散させる。王都全域を一枚で覆う必要はない。区画ごとに展開し、破られた箇所を周囲が補う』
「その方がいいと思います」
洋一が頷く。
前回の戦闘で、敵性体そのものは通常の兵でも倒せることが分かっている。
問題は数だった。
空から降ってくるものをすべて十二神承や八傑だけで処理する必要はない。
一般兵は地上へ降りた敵性体を担当する。
弓兵は地上だけでなく、低空にいる個体も狙う。
魔法師団は敵を倒すことより障壁の維持を優先し、その魔法師たちを守る部隊も別に置く。
十三将は兵を率いる側へ回る。
八傑と三柱は、前回と同じように十二神承と連携する。
役割が一つずつ決まっていく。
それでも、一つだけ解決できない問題があった。
『民を、王都の外へ出すか』
誰かが口にした言葉を聞き、部屋に沈黙が走った。
人口が違う。
前回の町なら、周囲へ避難させることができた。
王都ではそうはいかない。
数万人規模の人間を二日足らずで移動させる。
そのための道が必要になる。
食料が必要になる、移動先が必要になる。
老人もいる、子供もいる、病人もいる。
そして、移動している最中に星堕としが始まれば、守るための設備すらない場所で敵性体へ襲われることになる。
「無理に外へ出す方が危険だと思います」
洋一が言った。
簡単に出した答えではない。
それでも、他の選択肢と比べれば結論は変わらなかった。
「王都の中で、生き残れる場所を作りましょう」
洋一の言葉に、部屋の中からすぐ反応は返らなかった。
逃がせない。
その事実を認めた上で、次の手段を考えなければならない。
地図の上には王都を囲む城壁がある。
頑丈な建物もある。
軍もいる。
それでも、空から星そのものが落ちてくる状況では、普段なら人を守るはずのものが十分な意味を持たない。
アルトリウスは椅子へ深く座ったまま、王都の図面を見ていた。
この場所にいる者の中で、決断の結果を最後に背負うのは彼だった。
『どこまで守れる』
問いは洋一だけへ向けられたものではなかった。
清隆が先に答える。
「分かりません」
曖昧に濁さなかった。
「星そのものをどこまで止められるかは、前回と規模が同じだとしても保証できない。敵性体の数も分からない。建物の被害まで含めて、完全に防ぐのは現実的じゃない」
王国側の者たちの表情が僅かに強張る。
清隆はそれでも続けた。
「ただ、人を守ることに優先順位を絞れば、できることは増える」
良澄がその言葉を引き取った。
「怪我をしないことと、死なないことは違いますから」
普段と変わらない柔らかな声だった。
しかし、話している内容は軽くない。
「怪我人が出ることまで失敗にしてしまうと、守る側が全部を追いかけることになります。だったら、怪我をしたあとに助けられる場所を最初から用意した方がいい」
良澄自身が治療へ回る。
それだけでは足りない。
王都にいる治癒術師、薬師、医療に携わる者、負傷者を運ぶ兵、治療場所までの経路。
戦闘が始まる前だからこそ準備できるものがある。
『治癒術師については、私から集めます』
セレスティアが言った。
王都を狙われると知った直後より、表情は落ち着いている。
不安が消えたわけではない。
やるべきことが見えたことで、それを抑え込んでいるのだと彰人には分かった。
『魔法師団にも、障壁だけではなく救護区画を維持する人員を残します。すべてを前へ出すべきではありません』
『同意する』
アルディウスが地図の一角を指す。
『王都の治癒院だけでは偏る。複数箇所へ分けるべきだろう。道が塞がれば、一箇所へ集めたこと自体が弱点になる』
話が変わり始めた。
守れるか、守れないか。
その二択ではない。
何を最優先で残すのか。
どこまでなら失っても立て直せるのか。
王都という大きな場所を、一つの防壁として考えるのではなく、人が生き残るための区画として考え直していく。
洋一は、その流れを確認してからアルトリウスを見る。
「目標を一つにした方がいいと思います」
アルトリウスが顔を上げる。
「建物を一つも壊させないことでも、怪我人を一人も出さないことでもありません」
洋一は言葉を切った。
ここで曖昧にすれば、実際に戦いが始まったとき判断が割れる。
「生き延びることです」
部屋が静かになる。
「王都が壊れても、直せます。怪我をしても、治せる人がいる。でも、死んだ人は戻せません」
誰もすぐには口を挟まなかった。
アルトリウスは目の前の地図から、窓の向こうへ視線を移した。
この部屋から見えるのは王都の一部だけだ。
そこに暮らしている一人ひとりの顔まで見えるわけではない。
それでも、彼にとっては数字ではなかった。
侵攻を決めたときも、守ろうとしたのは同じものだった。
国、そこに暮らす者、生き残る場所。
敗戦したあと、十二神承は何も要求しなかった。
侵攻しなければ、それでいいと言った。
そして今、その十二人が自分たちの世界へ帰ることより先に、ヴァルネシアの王都を守る方法を考えている。
アルトリウスは長く息を吐いた。
『……皮肉なものだな』
誰に向けたともつかない言葉だった。
『我らが攻め込んだ者たちに、今度は我らの都を守る方法を教えられている』
洋一は何も返さなかった。
アルトリウスも答えを求めてはいない。
しばらくして、王は再び地図へ目を落とした。
避難路、救護所、魔法師団、兵の配置。
すでに話し合うべきものは、敗北した国と勝った者の交渉ではなくなっている。
『分かった』
アルトリウスが立ち上がった。
周囲の者たちの視線が集まる。
『王都から民は出さぬ』
言葉に迷いはなかった。
『逃がせぬから残すのではない。ここで守ると決めたから残す』
そして、十二神承を見る。
『この都で守る』
◇
「ほな、下やな」
会議を終え、王城の外へ出たところで怜司が言った。
脈絡がないように聞こえたのか、何人かが足を止める。
彰人は兄を見る。
「何が?」
「逃げるとこ」
怜司は城下へ視線を向けた。
王都には建物が密集している。
通りにはすでに兵や役人が走り、先ほどの会議で決まった内容を各所へ伝え始めていた。
「外あかんのやろ?」
「ああ」
清隆が答える。
「上から来るんやろ?」
「ああ」
「ほな下やん」
怜司の中では、それで終わっていた。
外へ逃げられない。
上から来る。
なら、下へ逃げる。
途中にある条件を一つずつ検討した様子もない。
彰人は数秒考えてから、兄の見ている地面へ視線を落とした。
「……地下?」
「せやで」
「いや、王都の人間全部やろ?」
「うん」
「どんだけ掘んねん」
「知らん」
「そこ考えてから言えや」
いつものように突っ込んだ彰人の横で、清隆だけは黙っていた。
王城前の石畳を見る。
その下にある地盤、既存の地下設備。
水路、建物の基礎、王都の規模、先ほど見た人口資料。
頭の中で別々だった情報が組み合わされていく。
「……できる」
小さな声だった。
彰人が振り返る。
「え?」
「地下避難施設なら作れる」
「全員入るやつ?」
「ああ」
「いや待って。それもう避難施設いう大きさちゃうやろ」
清隆はすでに王城へ戻ろうとしていた。
「地図をもう一度見る」
「聞いてる?」
「入口は一箇所じゃ駄目だ。人口を区画ごとに分ける。既存の水路も確認する」
「清隆?」
「換気も必要だな」
「話聞けや!」
彰人の声が背中へ飛ぶ。
清隆は止まらない。
怜司はその様子を見て、満足そうに頷いた。
「できるって」
「兄貴は何もしてへんからな?」
「言うたやん」
「一番簡単なとこだけな!」
だが、彰人もすでに笑っていた。
先ほどまで「逃がせない」で止まっていた問題が、たった一言で別の形へ変わった。
実際に作れるかどうかを決めるのは、ここからだった。
◇
その日の午後。
王都の地下に、もう一つの王都が作られ始めた。
最初に清隆が求めたのは、魔力でも人手でもなく、王都の図面だった。
建物、道路、水路、井戸、城壁、人口が集中する区画。
王国側が持っている資料を大きな卓へ並べ、アルディウスや行政官から説明を受ける。
怜司が言った「下へ逃げる」だけなら簡単だった。
問題は、どうやって下へ逃がすかだった。
入口が一箇所しかなければ、そこへ人が殺到する。
遠すぎれば、老人や子供が辿り着けない。
深くしすぎれば移動に時間が掛かり、浅すぎれば地上の衝撃を受ける。
清隆は王都をいくつもの区画へ分け、それぞれに地下への入口を置くことにした。
『ここは?』
アルディウスが一箇所を指す。
「水路に近い」
清隆が即座に外す。
『こちらなら広場がある』
「入口を広く取れる。使える」
地図へ印が増えていく。
十二神承だけで決めることはできない。
普段その場所を使っている者でなければ分からないことも多い。
王国側の役人が住民数を確認し、兵が避難経路を考える。
入口の位置が決まると、清隆は実際の場所へ移った。
石畳へ手を触れる。
大きな音はしなかった。
最初は、僅かに地面が震えただけだった。
周囲にいた兵が足元を見る。
次の瞬間、石畳の一部が形を変え、地面の下へ向かって階段が伸び始めた。
土を掘り出して積み上げるのではない。
空間そのものを組み替えるように、地下へ続く構造が形を取っていく。
初めて見る兵たちが言葉を失う。
階段の先に通路。
その向こうに広い空間。
さらに奥へ別の通路が伸びる。
恭平が入口から下を覗き込んだ。
「……これ、どこまで作るんすか?」
「必要なだけ」
「その答え怖いっすね」
清隆は気にせず奥へ進んだ。
空間を作るだけなら速い。
だが、人が生きる場所にするとなれば、それだけでは足りなかった。
照明、水、食料、寝具。
簡易的な便所、怪我人を運び込む場所。
子供や老人を休ませる区画。
火を使う場所と、使ってはいけない場所。
避難した人間が混乱しないための目印も必要になる。
清隆が壁を作り終えたそばから、王国の職人たちが入っていく。
棚を取り付ける者。
照明用の魔道具を運ぶ者。
床へ区画を示す印を付ける者。
兵は入口から内部まで実際に歩き、どこで人の流れが詰まるかを確かめる。
「清隆さん!」
別の入口から優斗が降りてくる。
「こっち、水を置く場所が足りないって」
「何人分だ」
後ろからついてきた役人が資料を開いた。
『この区画だけで、およそ――』
数字を聞いた清隆が壁の位置を変える。
通路の一部が広がり、新しい空間が生まれた。
「これで足りるか」
『……十分です』
役人は驚いていたが、立ち止まっている暇はない。
すぐに上へ戻り、人を呼びに行く。
数時間もすると、地下には絶えず人が行き交うようになった。
最初は十二神承を遠巻きに見ていた職人も、必要なことがあれば普通に清隆へ声を掛ける。
清隆も必要な寸法だけを聞き、すぐ形へ変える。
恭平は資材を運びながら、一度足を止めた。
通路の向こうまで人がいる。
左右にいくつもの区画がある。
さらに先では、新しい通路が作られている。
「……これ、もうシェルターじゃないっすよね」
隣で同じ光景を見ていた彰人が頷いた。
「地底都市やな」
「王都の下にもう一個王都作ってません?」
「清隆やし」
「説明になってないっす」
少し離れたところで怜司が聞いていた。
「地底王国でええやん」
「国増やすなや」
作業の音に混じって、短い笑いが起きた。
だが、その地下に実際に人が入るのは明日かもしれない。
誰も長くは手を止めなかった。
◇
地下の整備が進む一方で、地上では別の問題が残っていた。
十二神承が王都にいる。
その事実自体は、すでに多くの住民が知っている。
だが、知っているのは名前ではなく噂だった。
王国軍を退けた異世界人。
裂け目の向こうから来た者。
王と交渉した者。
中には、ヴァルネシアを滅ぼすこともできたのに何も要求しなかった者たちだという話まで広がっている。
どこまでが事実なのか、住民には分からない。
まして、明日か明後日には王都へ星が落ちると言われ、その異世界人と共に地下へ避難しろと言われても、すぐ納得できる者ばかりではなかった。
夕刻。
王城前へ人が集められた。
全住民が一箇所へ来たわけではない。
各区画の代表、兵、役人、職人、伝令を担う者。
その向こうにも、何が始まるのかと様子を見る住民の姿がある。
王城の露台へアルトリウスが姿を現すと、広場に広がっていたざわめきが少しずつ小さくなった。
十二神承は、その後ろへ並ばなかった。
これは彼らが何かを宣言する場ではない。
ヴァルネシアの王が、自国の民へ伝える場だった。
アルトリウスは眼下を見渡した。
『皆に伝える』
魔法によって広げられた声が、広場だけでなく周囲の通りへ届く。
『再び、星堕としが迫っている』
ざわめきが戻る。
それを止めようとはしなかった。
恐れるなと言ったところで、恐怖がなくなるわけではない。
アルトリウスは人々が静まるのを待った。
『次に狙われるのは、この王都である可能性が高い』
今度のざわめきは大きかった。
子供を抱いた者が隣の人間と顔を見合わせる。
職人たちも表情を硬くする。
『だが、王都を捨てることはしない』
声が再び通る。
『軍は残る。三柱も、八傑も、十三将も残る。余もここにいる』
そして、一度言葉を切った。
『十二神承が我らと共に戦う』
空気が変わった。
広場の端にいた者が、城の近くにいる十二人の姿を探す。
アルトリウスは続けた。
『彼らは、我らがかつて刃を向けた相手である』
隠さなかった。
『我らは敗れた。だが彼らは、我らから何一つ奪わなかった』
十二神承の側にも、その言葉を聞く者がいた。
洋一は黙ったままアルトリウスを見る。
桜子は腕を組み、怜司は少し離れたところで城下を眺めている。
『そして今、彼らは帰ることより先に、この王都を守るためここにいる』
アルトリウスの声が広場へ落ちる。
『彼らは敵ではない』
明確な言葉だった。
『この王都を共に守る、我らの味方である』
すぐ歓声が上がったわけではない。
その方が自然だった。
昨日まで何者か分からなかった相手を、王が一言そう言ったからといって、全員が同じ気持ちになるわけではない。
それでも、人々の十二神承を見る目は少し変わった。
『恐れるなとは言わぬ』
アルトリウスは最後にそう言った。
『ただ、生き延びよ。兵の指示に従い、地下へ入れ。明日も、この都で生きるために』
それは昼間、洋一たちと決めた方針そのものだった。
建物を守るのではない。
傷一つ負わないことを目指すのでもない。
生き延びる。
王の言葉は、伝令によってさらに王都全体へ広げられていった。
変化が見えたのは、そのあとだった。
地下入口の近くで作業していた彰人へ、資材を抱えた男が近づいてくる。
少し前なら、十二神承の姿を見ただけで距離を取っていた一人だった。
『これはどこへ運ぶ』
彰人は一瞬、自分へ聞かれたのだと分からなかった。
「え、俺?」
『他に誰がいる』
「ああ……それなら向こう。優斗さんおるから、その先聞いて」
『分かった』
礼も、特別な言葉もない。
男はそのまま歩いていった。
だが、彰人はしばらく背中を見送った。
敵でも異世界人でもなく、同じ作業をしている相手として話しかけられた。
『どうかなさいましたか?』
隣で作業していたセレスティアが尋ねる。
「いや」
彰人は少し考えてから笑った。
「味方って、こういう感じなんかなって」
セレスティアも男の背中を見る。
それから王都のあちこちで動き始めた人々へ視線を移した。
『私は、良いことだと思います』
「俺も」
二人はそれ以上言葉を重ねず、再び作業へ戻った。
◇
その夜、十二神承へ用意された寝床は、完成したばかりの地下ではなかった。
作業を終えて王城へ戻った彰人は、案内された部屋の扉が開いたところで足を止めた。
「……なんで?」
今日だけで何度目か分からない疑問だった。
広い。
単に寝るための部屋として考えれば、明らかに広すぎる。
大きな寝台に厚い絨毯。
窓際には椅子と小さな卓まで置かれ、灯りに使われている魔道具も、町の宿で見たものより装飾が多い。
荷物を置く場所を探す必要すらない。
彰人は一歩入ってから、もう一度入口まで戻った。
「部屋間違えてへん?」
『いいえ』
案内役は真面目な顔で答える。
『こちらが彰人様のお部屋です』
「様いらんねんけど」
『王より、賓客として最大限お休みいただくよう申しつかっております』
「明後日ここ狙われんねんで?」
『だからこそ、とのことです』
返され、彰人は言葉に詰まった。
戦いが始まれば眠れる保証はない。
明日一日も準備が続く。
なら、休める夜に休ませる。
理屈は分かる。
ただ、つい昨日まで王国軍と戦っていた自分たちが、今度は王城で最上級の客として扱われている変化について、感覚の方が追いついていなかった。
隣の部屋から怜司が顔を出した。
「彰人」
「何?」
「ベッドでかいで」
「見たら分かるわ」
「五人くらい寝れそう」
「寝るなよ?」
「寝ぇへんわ」
そう言いながら、怜司は寝台の弾力を確かめに戻っていった。
彰人は兄の部屋を見てから、自分の部屋へ戻る。
窓辺まで歩くと、夜の王都が見えた。
昼間作った地下への入口にはまだ灯りがあり、人が出入りしている。
準備は終わっていない。
城の中でも兵の足音が続いている。
誰も明日が普通の日になるとは思っていない。
それでも今夜だけは、自分たちも眠る。
彰人は寝台へ腰を下ろした。
沈み込む。
「……ええベッドやな」
思わず声が漏れた。
身体を倒す。
昨日の戦闘。
今日の調査。
王都への移動。
地下の作業。
自分ではまだ動けるつもりだったが、横になって初めて身体に残っていた重さが分かった。
考え事をする間もなく瞼が重くなる。
廊下の向こうでは、他の者たちもそれぞれの部屋へ入っていく。
神装を使い続けた者ほど、身体は正直だった。
明日もまた、朝から動かなければならない。
そのための夜だった。
◇
星堕としが来ると予測された前日。
王都は夜が明ける前から動き始めていた。
最初に行われたのは、地下へ人を入れる訓練だった。
清隆が作った空間がどれだけ広くても、星堕としが始まってから入口で人が詰まれば意味がない。
住民は居住区ごとに分けられ、使う入口を指定された。
兵が通りへ立ち、合図とともに人を誘導する。
実際に歩かせてみれば、地図だけでは分からなかった問題が次々に出た。
道幅の狭い場所では流れが遅くなる。
老人の多い区画では、想定より移動に時間が掛かる。
子供は大人と同じ速度では歩けない。
荷物を持ち込もうとする者もいる。
『必要なものだけだ! 家財は置いていけ!』
兵の声が通りへ響く。
彰人は少し離れたところから、その様子を見ていた。
敵と戦う準備というより、大規模な祭りか災害訓練を見ているようだった。
だが、失敗すれば実際に命へ関わる。
一度目の避難が終わると、入口ごとの所要時間が集められた。
時間の掛かった区画は経路を変える。
清隆が新しい入口を追加した場所もあった。
地下では、優斗たちが避難してきた住民の動きを確認している。
「こっち、もう少し通路広げた方がいいかも」
優斗が人の流れを見ながら言う。
清隆は実際に歩いて確かめた。
人が二方向から重なる場所だった。
「変える」
壁の位置が動く。
昨日完成したはずの地底都市は、今日も形を変えていた。
別の場所では、良澄が治療区画を回っている。
王都の治癒術師だけではない。
薬師、怪我人を運ぶ兵、治療を受ける者の記録を取る役人。
それぞれの動線が重ならないよう、何度も位置を調整する。
「ここに運び込んだあと、重い人は奥へ。歩ける人は手前でいいと思う」
良澄の柔らかな声に、治癒術師たちが頷く。
本人がすべて治すつもりはなかった。
自分一人で何とかしようとすれば、どこかで必ず手が足りなくなる。
王都に元からある力を使い、その中で自分が足りない場所へ入る。
地上では、魔法師団が障壁の試験を始めていた。
王都全体を一枚の巨大な障壁で覆うのではない。
いくつもの区画に分け、それぞれを重ねる。
一箇所が破られても、隣の区画から補えるようにする。
セレスティアは上空へ展開された淡い光を見上げながら、魔力の流れを確認していた。
隣ではアルディウスが各部隊の位置を確認している。
障壁を維持する魔法師。
その魔法師へ魔力を補助する者。
周囲を守る兵。
敵性体が地上へ降りた場合の迎撃班。
一つの防御を作るだけでも、何層もの役割が必要だった。
試験で一度障壁が消える。
別の場所から新しい光が広がり、穴を塞ぐ。
セレスティアはその時間を確認してから、配置を変えさせた。
王城の上から見れば、王都全体が一つの大きな生き物のように動いていた。
地下へ入る者。
地上で守る者。
物資を運ぶ者。
治療する者。
命令を伝える者。
昨日までは十二神承の存在に警戒していた住民も、その中へ混じっている。
途中、怜司は何をしていいか分からなくなっていた。
「俺、何したらええ?」
洋一に聞く。
「邪魔しないでください」
「酷ない?」
「じゃあ避難経路の確認を」
「歩いたらええん?」
「普通に歩いてくださいね」
「普通に歩くわ」
信用されていないことだけは理解したらしい。
その怜司が地下を歩いている間にも、王都の準備は進む。
二度目の避難訓練では、一度目より明らかに人の流れが速くなった。
住民自身も、自分がどこへ向かえばいいか分かっている。
兵の声も減った。
昼が近づく頃には、地下の各区画へ水と食料が運び込まれ、救護所にも必要な物資が揃い始めた。
魔法師団の障壁展開も、最初より短い時間で行えるようになっている。
完全ではない。
明日、何が落ちてくるのかも分からない。
それでも、昨日は地図の上にしかなかった防衛計画が、人の動きとして王都へ定着し始めていた。
昼を過ぎる頃。
残された大きな仕事は、星堕としが始まったあと、誰がどこで戦うかを決めることだった。
◇
午後、王城の会議室には、十二神承、三柱、八傑、十三将が揃っていた。
前回とは人数が違う。
負傷が残る十三将もいるが、戦えない者まで前へ出す必要はない。動ける者は部隊の指揮へ回り、負傷の重い者は後方で連絡や避難誘導を担う。
洋一が全員を見渡した。
卓上には、王都とその周辺を描いた大きな地図が広げられていた。
昨日まで使っていたものより細かい。
地下への入口、魔法障壁の区画、救護所、兵の集結地点。
それぞれが新しく書き加えられている。
十二神承、三柱、八傑、十三将。
人数が多いだけに、全員を同じ場所へ置けばいいわけではない。
洋一は一度全体を見渡してから、地図へ手を置いた。
「今回は、前みたいに敵を誘導する必要はありません」
前回は町から敵を離し、被害を広げないことが重要だった。
今回は最初から王都そのものが狙われている。
敵性体を別の場所へ引きつけたとしても、星堕としそのものが王都へ向かうなら意味がない。
「守る場所を決めて、そこで迎えます」
洋一が地図の外周から中心へ指を動かす。
最初に敵性体と接触する者。
突破された場合に追う者。
魔法師団を守る者。
空から来るものを減らす者。
前回の戦いで、それぞれが何を得意としているのかはかなり分かっている。
その情報を前提に、役割を組み直していく。
前衛には、直接敵性体へ触れても押し負けない者が集められた。
彰人、雅史、智臣、行人。
そして清隆。
「……清隆、前なん?」
彰人が地図から顔を上げる。
清隆は特に気にした様子もなく頷いた。
「ああ」
「戦えたん?」
「戦える」
あまりにも普通に返されたため、彰人は数秒黙った。
昨日まで清隆がやっていたのは、解体、分析、建物の修復、地下都市の建設である。
その印象が強すぎて、本人が前へ出て殴り合う姿が結びつかない。
「初めて聞いたわ」
「聞かれてない」
「そういう問題なん?」
清隆はすでに地図へ視線を戻していた。
ガルディオがその横顔を見て、僅かに口元を上げる。
武を扱う者には、立ち方だけでも分かるものがあるらしい。
『面白い』
「何がです?」
『いや。明日見れば分かる』
清隆は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
八傑からはガルディオ、ゼグ、ゴルガ、ヴォルグ、ベルン。
十三将も、動ける者を中心に前へ置く。
負傷が残る者については無理に前へ出さない。
本人が戦えると言っても、二日前に受けた打撲や捻挫が消えたわけではない。
前へ出ることだけが役割ではなかった。
中衛には、広い範囲を動ける者が集められる。
恭平、智希、良澄、洋一。
セレスティア、ナーシャ、フィルネ、アルネア、ミリア。
前衛の穴が開けば埋める。
負傷者が出れば救護へ繋ぐ。
魔法師団へ敵が近づけば迎撃する。
固定された場所を守るのではなく、状況に応じて動くための層だった。
そして後衛。
地図上の印を見た桜子が、少しだけ姿勢を正した。
桜子、優斗、アルディウス。
今回、最も崩してはいけない場所だった。
魔法師団が障壁を維持する。
その前へ桜子が立つ。
空から落ちてくる敵性体や破片を優斗が減らす。
アルディウスは全体を見ながら、障壁の薄くなった区画へ人員を回す。
敵を多く倒すことより、魔法師団を止めないことが優先される。
桜子は地図を見ながら、自分の位置と地下入口の位置を確かめた。
守る対象がはっきりしているなら、自分がやることも分かりやすい。
「ここ抜かれたらあかんのやな」
「お願いします」
洋一が答える。
「任しとき」
軽く言ったが、その声に迷いはなかった。
最後に一人だけ、まだ地図上へ置かれていない者が残った。
彰人が気づく。
「で、兄貴は?」
視線が一斉に怜司へ向いた。
本人は少し離れたところから地図を見ていた。
「俺?」
「他に誰がおんねん」
怜司は自分の名前が書かれた札を探す。
どこにもない。
「俺だけないやん」
「置いても、そこにいないでしょう」
洋一が言った。
「そんなことないで?」
即答した怜司へ、行人が無言で視線を向ける。
彰人も見る。
桜子まで見る。
「……なんやねん」
「前回、どこおった?」
彰人が聞く。
怜司は少し考えた。
「色々」
「答え出たやん」
固定した位置を守らせるより、必要な場所へ動かした方がいい。
そもそも、星そのものへ対応する必要が出た場合、怜司を地上の一箇所へ縛る意味は薄い。
洋一は地図上へ札を置かず、そのまま手元へ残した。
「怜司君は状況を見て動いてください」
「自由?」
「その言い方をすると遊びそうなので嫌なんですよ」
「遊ばへんわ」
怜司が眉を寄せる。
「星落ちてくんねんで?」
今度は誰も突っ込まなかった。
普段どれだけ掴みどころがなくても、怜司が危険そのものを軽く見ているわけではない。
昨日から誰より早く、次が来ると確信していたのも本人だった。
その顔を見て、洋一は小さく頷いた。
配置が決まる、連絡方法を確認する。
魔法障壁が破られた場合。
地下入口付近へ敵性体が集中した場合。
治療区画が使えなくなった場合。
想定できるものを一つずつ潰していく。
すべてに答えがあるわけではない。
それでも、何も決めずに明日を迎えるよりはいい。
最後の確認が終わった頃には、窓から入る光がかなり傾いていた。
何時間座っていたのか、立ち上がった者の何人かが肩や腰を動かす。
作戦そのものは決まった。
これ以上同じ場所に座り続けても、明日の動きが良くなるわけではない。
桜子は椅子の背へ預けていた身体を起こすと、大きく伸びをした。
「よっし」
その声に彰人が見る。
「何?」
「風呂」
あまりにも迷いのない答えだった。
「この流れで?」
「この流れやからやろ」
桜子は肩を回した。
「朝から歩き回って、昼からずっと会議して、明日戦うんやで。今からまた作戦会議して何が増えんねん」
「まあ……」
「飯食うて、風呂入って、寝る」
指を一本ずつ立てる。
「明日身体動かんかったら、作戦決めた意味ないやろ」
彰人は反論しようとして、やめた。
正論だった。
ガルディオも大きく頷いている。
『戦の前に身体を休めるのは当然だ』
「ほら」
「義姉やんとガルディオが同じ理屈なん、なんか嫌やな」
「何が嫌やねん」
桜子の手が伸びる。
彰人は椅子ごと少し離れた。
会議中には張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ。
明日の配置は決まった。
なら、今夜まで戦う必要はない。
◇
食事を終えた一行が案内された先には、見覚えのない通路があった。
彰人は歩きながら周囲を見る。
最初に王城へ来たときにも、この辺りは通っている。
少なくとも、そのときにはこんな場所はなかった。
やがて案内役が大きな扉の前で止まった。
『こちらです』
扉が開く。
その向こうから、暖かな湿気が流れてきた。
彰人は止まった。
「……なんで?」
奥には脱衣のための空間があり、そのさらに先から湯気が見えている。
見間違える余地がない。
「温泉?」
『はい』
「昨日なかったやん」
『昨日、造られました』
「誰が?」
嫌な予感がして横を見る。
清隆がいた。
「作った」
「お前かい!」
王城側から正式に依頼されたらしい。
町で十二神承が入浴していたものを王や側近も試し、その使い方と効能――というより、単純に気持ち良かったことが発端だった。
王城にも同じものを作れないか。
そう相談された清隆が、地下都市建設の合間に場所を確認した。
水を引く、湯を作る、排水を通す、浴槽を作る。
結果、一日も経たず完成した。
「優先順位おかしない?」
「地下は予定通り終わってた」
「そういう問題かなぁ」
彰人は浴場の奥を見る。
石造りの浴槽は、町で使ったものより明らかに広い。
王城らしく装飾まで施されている。
「これもう新設いうレベルちゃうやろ」
「新設だ」
「せやけど」
後ろから桜子が覗き込んだ。
「ええやん。広いし」
「義姉やん適応早いな」
「風呂に適応も何もあるかいな」
すでに入る気しかない。
セレスティアたちヴァルネシア側の女性陣も、町で一度経験しているため、最初ほど戸惑ってはいなかった。
むしろナーシャは浴場を見回しながら感心している。
『王城へ持ち帰るとは聞いていたが、本当に翌日出来るとは思わなかった』
「文化侵略やな」
彰人が呟く。
「平和な方のな」
桜子が笑った。
戦争で奪ったものではない。
十二神承が持ち込んだものを、ヴァルネシア側が勝手に気に入り、勝手に増やしている。
明日には王都へ星が落ちてくる。
その前夜に、新しく出来た温泉へ皆で入ろうとしている。
妙な状況ではあったが、誰もやめようとは言わなかった。
◇
女湯では、湯気の向こうに昼間とはまるで違う空気が広がっていた。
鎧も神装もない、武器もない。
明日の配置を示す地図もない。
広い湯船へ身体を沈めると、朝から張っていた身体がようやく緩む。
桜子は肩まで浸かって大きく息を吐いた。
「生き返るわぁ……」
その声にミリアが笑う。
『昨日も入っていたでしょう』
「昨日と今日の疲れは別もんや」
王城側が用意した酒も、湯船の縁へ置かれている。
もちろん手を伸ばしているのは成人している者だけだった。
ナーシャは器を持ったまま、酒と湯を交互に見る。
『未だに不思議だな』
「何が?」
『湯に浸かりながら酒を飲む』
「別に日本人全員やるわけちゃうで」
『だが、桜子は迷いがなかった』
「うちはやる側や」
即答だった。
アルネアが小さく笑う。
戦いの前夜だというのに、昼間の会議室よりずっと表情が柔らかい。
桜子は一口飲んでから、そのアルネアを見る。
続いてナーシャを見る。
二人とも、昼間から何度も同じ男の近くにいた。
「そういや」
桜子が器を傾けながら、向かいにいる二人へ視線を向けた。
「二人とも、洋一の横おること多ない?」
ナーシャは器を口元へ運びかけたまま、桜子を見る。
一瞬だけ間があった。
だが、動揺した様子はない。
『ああ。その話か』
「……慣れとるな?」
『何の話を始めたいのかくらい分かる』
むしろ桜子の方が少し拍子抜けした。
ナーシャはそのまま酒を一口飲む。
『悪い男ではないと思っているぞ』
「お」
否定すらしなかった。
セレスティアが僅かに目を見開き、フィルネも二人を見る。
『判断が早い。相手の話も聞く。立場が違っても、それだけで態度を変えることもない』
「結構ちゃんと見とるやん」
『共に行動しているのだから、それくらいは見る』
ナーシャにとって、異性の話題そのものは特別なものではないらしい。
好意があるかと問われて慌てるほど幼くもなく、かといって必要以上に含みを持たせることもない。
気に入っている部分があるなら、そのまま口にする。
桜子は少し面白そうに頷いた。
「ほな、男としては?」
『それも悪くない』
「強いなぁ」
『何がだ?』
「いや、こっちの話」
そこで桜子はアルネアへ顔を向けた。
「アルネアは?」
『私ですか?』
こちらも驚かなかった。
むしろ僅かに笑ったことで、桜子の方が眉を上げる。
「なんや。その顔」
『いえ。いつ聞かれるのかと思っていました』
「こっちはもっと慣れとるやん」
アルネアは湯船の縁へ背を預けた。
ナーシャとは少し違う。
聞かれたから答えるというより、何を聞かれているのか最初から分かった上で、どこまで答えるかを選んでいるように見えた。
『洋一様は、かなり好条件の男性だと思います』
「好条件」
桜子が繰り返す。
『強い。頭も回る。周囲を見ることもできる。十二神承の中で発言力もある。それでいて、自分の力を誇示する様子もない』
「めっちゃ見とるやん」
『見るでしょう?』
あまりに自然に返され、桜子の方が一瞬黙った。
『将来を考えるのであれば、相手を見るのは当然ではありませんか?』
「いやまあ、せやけど」
アルネアは酒の入った器を手に取る。
『本人にその気があるなら、私は候補に入っても構いません』
「候補て」
『正妻でなければならないとも思いませんし』
今度こそ桜子の手が止まった。
「ちょい待ち」
『はい?』
「それ、どこまで本気?」
『かなり』
即答だった。
ナーシャが横で吹き出す。
『お前、そこまで考えていたのか』
『可能性の話です』
『十分だろう』
「側室でもええとか、本人に言うたん?」
『まだです』
「まだ、なんや」
桜子が笑う。
否定ではなく、時期の問題らしい。
「ちなみに日本、基本一人やで」
『一人?』
「結婚相手」
今度はアルネアが僅かに眉を寄せた。
『複数は認められていないのですか?』
「少なくとも結婚はな」
アルネアは少し考える。
『なるほど』
「諦める?」
『なぜです?』
「強いなぁ!」
湯船に笑い声が響いた。
『制度が違うのであれば、その制度を知ってから考えればよいでしょう』
「攻略する気満々やん」
『何もしなければ、何も起きませんから』
アルネアは平然としている。
桜子は完全に面白くなってきた。
「ナーシャ、ライバル強いで」
『なぜ私まで競争に参加していることになっている』
「男として悪くない言うたやん」
『悪くないとは言った』
「ほら」
『だが、今すぐどうこうするつもりはない』
「今すぐは」
『桜子』
「はいはい」
ナーシャは呆れたように息を吐いたが、本気で嫌がっている様子もない。
一方のアルネアは、もう別のことを考えているようだった。
『しかし、一人だけというのは難しいですね』
「まだ考えとる!」
『重要なことでしょう?』
また笑いが起きる。
その中でセレスティアだけが、二人のやり取りを妙に真剣な顔で聞いていた。
桜子はそれに気づく。
ナーシャは慣れている。
アルネアに至っては、自分から相手を選ぶことさえ自然に考えている。
ならば。
次に弄る相手は決まった。
「で」
『はい?』
セレスティアが桜子を見る。
「彰人」
今度は、目に見えて動きが止まった。
分かりやすい。
ナーシャとアルネアまで、今度は完全に聞く側へ回った。
『彰人さんが、どうかなさいましたか?』
「なんで毎回そこからなん?」
『何のお話なのか分かりませんので』
「最近ずっと一緒におるやん」
『調査でもご一緒しました』
「仕事以外でも歩いとったやろ」
セレスティアが僅かに視線を逸らした。
町を歩いた時間を思い出したのだろう。
桜子は追い詰めるようには聞かなかった。
面白がってはいる。
だが、本人がまだ名前を付けていないものへ、周囲が勝手に答えを付けるつもりもない。
「一緒におるん、嫌?」
『いいえ』
返事だけは早かった。
「楽しい?」
今度は少し間があった。
セレスティアは湯の表面を見る。
町を歩いたこと。
話をしたこと。
途中で戻らなければならなくなったこと。
もう一度、最後まで歩こうと言われたこと。
『……楽しい、と思います』
「ほな、また二人で行きたい?」
セレスティアはしばらく考えたあと、ゆっくり頷いた。
『はい』
ナーシャが何も言わず酒へ口をつける。
アルネアは微かに笑っている。
「ええやん」
桜子はそれだけ言った。
『……それだけですか?』
「何期待してんねん」
『いえ、何かまだ聞かれるのかと』
「聞いてほしいん?」
『違います』
今度は返事が早すぎた。
また笑いが起きる。
その笑いが収まったところで、桜子の視線がさらに横へ動いた。
フィルネ。
目が合った瞬間、フィルネの表情が固まった。
『……何でしょう』
「まだ何も言うてへんで」
『ですが』
「怜司」
『なぜですか!』
名前だけで返事が来た。
桜子は器を置いた。
「分かりやすすぎやろ」
『違います』
「何が?」
『……何が、とは』
自分でも何を否定したのか分からなくなったらしい。
フィルネは困ったように湯へ視線を落とした。
桜子は昼間までの様子を思い出す。
怜司を見る視線。
話しかけられたときの反応。
ただ、それが恋愛感情なのか、強い興味なのか、本人にもまだ分かっていないのだろう。
「まあ、ええわ」
意外にもそこで引いた。
フィルネが顔を上げる。
「まだ自分でも分かってへんやろ?」
返事はなかった。
それで十分だった。
「そのうちな」
『そのうち、何でしょう』
「聞く」
『桜子様』
「逃がさへんで」
困ったフィルネの横で、今度はセレスティアまで笑った。
『先ほど私も同じことをされた気がします』
「仲間増えたな」
『嬉しくありません』
湯船にまた笑いが広がる。
明日には、王都へ星が落ちてくる。
それを忘れた者はいない。
忘れていないからこそ、今だけは別の話をしていた。
誰が誰を気にしている。
誰と一緒にいると楽しい。
誰が何も気づいていない。
戦いが終わったあとにも続く話をしていること自体が、明日を生きる前提になっていた。
◇
男湯では、女湯とはまったく別の方向から人間観察が始まっていた。
きっかけはガルディオだった。
大きな身体を湯船へ沈めながら、向かいにいる彰人をじっと見ている。
最初は気にしなかった彰人も、さすがに長くなると落ち着かない。
「……何?」
『彰人』
「うん」
『お前は、何を鍛えている』
「急やな」
彰人は自分の腕を見る。
特別太いわけではない。
ガルディオと比べれば、そもそも比較すること自体がおかしい。
『細いから弱い、という意味ではない』
ガルディオは先に断った。
『だが、お前の動きと身体の見た目が合わん』
戦場で彰人が見せた動きを思い出しているらしい。
重い攻撃を受け流し、相手の力を利用し、それでも必要な場面では自分から前へ出る。
武を積み重ねてきたガルディオにとって、どういう鍛え方をすればあの身体になるのか純粋に興味があるようだった。
「普通に運動はするで」
『何をする』
「フットサルとか」
『ふっと……?』
「サッカーの小さいやつ」
説明しながら、彰人は足元を指す。
「走るし、止まるし、切り返すし。ずっと同じ速度で走る感じちゃうから、足は結構使うかな」
ガルディオは納得したように頷いた。
『なるほど。方向を変える動きは、それか』
「神装してからは別もんやと思うけどな」
『何もないところから動きが生まれるわけではない』
ガルディオにとっては、力そのものより身体の使い方の方が興味深いらしい。
その視線が次に怜司へ向いた。
怜司は湯船の縁へ背を預けていた。
『では、怜司は』
「何もしてへんで」
本人が先に答える。
彰人が即座に横を見る。
「兄貴、何もしてへんは言いすぎやろ」
「筋トレとかしてへんで?」
「そういう話ちゃう」
恭平も怜司を見る。
「でも怜司さん、体幹おかしいっすよね」
「そう?」
「自覚ないんすか」
恭平は戦場で見た怜司を思い出す。
大きく踏ん張っているようには見えない。
力を溜めている様子もない。
それなのに、ぶつかられても姿勢が崩れない。
攻撃を払うときも、身体の軸だけは妙に安定している。
「車ちゃう?」
彰人が言った。
怜司が見る。
「何が?」
「兄貴、ずっと運転してるやん」
「ああ」
「普通に走るだけちゃうし」
山道、高速道路、長時間の移動。
車の動きを感じながら姿勢を保ち、必要なら瞬間的に身体へ力を入れる。
本人に鍛えている意識はなくても、長年繰り返していれば身体の使い方には残る。
まして怜司は、車を単なる移動手段として扱うタイプではない。
「運転で身体作るやつ初めて聞いたっす」
恭平が笑う。
「俺も知らん」
怜司本人が言った。
「せやから兄貴が一番分かってへんねん」
彰人が呆れる。
ガルディオは怜司の身体をもう一度見る。
『だが、それだけではないだろう』
「知らんって」
『そこが一番理解できん』
「俺も」
ガルディオほどの武人と彰人の意見が一致した。
湯船に笑いが起きる。
ヴォルグたちも会話へ加わり、それぞれが普段どのように身体を作っているかという話へ広がっていく。
武器を振る、走る、山を歩く、競技をする。
日常生活そのものが鍛錬になっている者もいる。
十二神承とヴァルネシア側では、力の由来も身体の作り方も違う。
それでも、強くなるために身体を動かすという部分は共通していた。
明日の敵について話しているわけではない。
作戦の確認もしていない。
ただ男たちが、自分たちの身体や鍛え方について話している。
決戦前夜だからといって、すべての会話が重くなる必要はなかった。
◇
風呂を出たあとも、すぐに全員が部屋へ戻ったわけではなかった。
王城の談話室へ自然と人が集まる。
女性陣の一部が妙に楽しそうなのを見て、彰人は嫌な予感を覚えた。
「……なんかあった?」
「何も」
桜子が答える。
「絶対なんかあったやろ」
「何もないって」
セレスティアを見る。
目が合った。
『……何も、ありません』
「なんでちょっと間あったん?」
『ありません』
「あるやん」
桜子が横で笑っている。
「義姉やん、何言うたん」
「なんも?」
「顔がなんもちゃうねん」
彰人が追及しても、桜子は答えない。
少し離れたところでは、フィルネも何となく落ち着かない。
怜司は気づいていなかった。
用意された菓子を食べている。
フィルネが一度そちらを見て、すぐ視線を逸らす。
桜子はそれも見ていた。
やることが増えた。
そう思ったが、明日ではない。
明日はまず、全員生き残らなければならない。
談話室では遅くまで話が続いた。
日本へ戻ったら何をするか。
ヴァルネシアの料理で気に入ったもの。
日本へ持って帰れそうなもの。
逆にこちらへ持ち込んだら流行りそうなもの。
温泉はもう手遅れだという話になり、彰人が笑った。
「でもこれ、王都に普通に残るんやろな」
彰人が言う。
王城の温泉だけではない。
町でもすでに好評だった。
使い方を覚えた者が王都へ戻れば、同じものを欲しがる者は増えるだろう。
「そのうち銭湯できるんちゃう?」
桜子が言うと、清隆が少し考えた。
「公衆浴場なら作れる」
「お前が言うたら明日出来そうやからやめぇ」
「明日は無理だ」
「そういう意味ちゃうねん」
笑いが起きる。
少し離れたところでは、ナーシャとアルネアがまた洋一の左右に座っていた。
女湯で話題にされたことを知る由もない洋一は、二人からヴァルネシアの別地域について聞いている。
桜子がそれを見つけた。
「ほら」
小声でセレスティアへ言う。
セレスティアも見る。
続いてフィルネまで視線を向ける。
三人の視線に気づかないまま、洋一は真面目に話を聞いている。
「ほんまに気づいてへんな」
『……そうですね』
セレスティアが小さく笑った。
彰人がその様子に気づく。
「何?」
「何も」
桜子が即答する。
「今日それ多ない?」
「気のせいや」
「絶対なんかあるやろ」
追及しようとした彰人の隣で、怜司が菓子を取る。
「これうまいで」
「兄貴は平和やな!」
「明日戦うから今食ってんねん」
言っていることだけなら間違っていない。
彰人は何も返せなくなった。
そのやり取りを見て、また誰かが笑った。
星堕としの話をしない時間が続く。
誰も忘れてはいない。
忘れていないからこそ、話さなくてもよかった。
やがて一人ずつ部屋へ戻っていく。
明日の朝が、いつ来るのかは分からない。
◇
まだ空が暗いうちに、彰人は目を覚ました。
何か音がしたわけではない。
警鐘も鳴っていない。
窓の外にも、異常を知らせる光はない。
寝返りを打ち、もう一度目を閉じる。
眠れない。
昨夜はすぐ眠れたのに、今日は身体の方が先に時間を知っているようだった。
彰人は諦めて起き上がった。
窓辺へ歩く。
王都は暗い。
普段なら朝の支度を始める者がいる時間だろうが、地上に見える人影はほとんどなかった。
多くの住民は、すでに地下へ移っている。
魔法師団の配置場所にだけ灯りが残り、城壁の上にも小さな光が並んでいる。
いつ来るのか分からないものを、全員が待っている。
「……まだか」
自分で呟いてから、彰人は小さく息を吐いた。
来ない方がいいに決まっている。
それでも、来ると分かっているものを待ち続けるのは落ち着かなかった。
部屋にいても眠れそうにない。
上着を羽織り、廊下へ出る。
王城の中も静かだった。
ただし、眠っている静けさではない。
兵が音を抑えて歩き、必要な場所へ人を送っている。
誰かが声を上げれば、すぐ全体が動き出せる。
彰人はその間を抜け、昨日アルトリウスが民へ語りかけた露台へ出た。
夜明け前の空気が肌へ触れる。
湯上がりの暖かさが残っていた昨夜とは違い、少し冷えた空気が眠気を完全に消した。
手すりへ腕を置く。
眼下には王都。
昨日一日かけて守る準備をした場所だった。
通り、建物、広場。
その下には、清隆が作ったもう一つの都市がある。
見えていないだけで、そこには大勢の人がいる。
「星堕としって、時間守らへんのかな」
誰に聞くでもなく呟く。
そもそも約束して来るものではない。
自分で言っておいて少し可笑しくなった。
そのとき、背後で扉が開いた。
兵かと思って振り返ると、セレスティアだった。
「……起きたん?」
『はい』
彼女も露台へ出てくる。
薄暗い中でも、まだ眠そうな様子はなかった。
「早ない?」
『彰人さんもです』
「俺はなんか目ぇ覚めてん」
『私も似たようなものです』
そう言いながら、セレスティアは彰人の隣まで来た。
少しだけ間を空け、同じように王都を見る。
「俺おらんかったから来た?」
半分は冗談だった。
昨日の女湯で何があったかなど知らない。
いつものように否定されると思っていた。
だが、セレスティアは一度彰人を見たあと、小さく頷いた。
『……はい』
「え」
彰人の方が言葉に詰まった。
セレスティアも、自分で答えてから少し恥ずかしくなったらしい。
視線が王都へ戻る。
『お部屋の扉が開いていましたので』
「ああ」
『どちらへ行かれたのかと思いました』
「そっか」
それ以上は続かなかった。
けれど、気まずくはない。
二人で同じ王都を見る。
昼間は人が走り回っていた通りも、今は静かだった。
『怖いでしょうね』
セレスティアが言った。
「地下の人?」
『はい』
自分たちは外にいる。
何が来たのかを見ることができる。
自分の判断で動くこともできる。
地下へ避難した者たちは違う。
上で何が起きているのか分からないまま、音と振動だけを聞くことになる。
「そら怖いやろな」
彰人は手すりの向こうを見る。
「ちゃんと守らんとな」
『はい』
セレスティアの返事は小さい。
昨日までいた町のことも思い出す。
まだ住民を完全には戻せていない。
復旧も途中だ。
歩きかけた町も、最後まで回れていない。
「これ終わったら、あっちも戻らなあかんな」
セレスティアが彰人を見る。
「約束したやろ」
言われて、意味が分かったらしい。
表情が少し和らぐ。
『今度は、最後まで』
「せやな」
そこで会話が途切れた。
急いで何かを続ける必要はなかった。
夜明け前の王都を二人で見ている。
それだけで、不思議と落ち着いた。
しばらくして、セレスティアが口を開く。
『昨日』
「うん?」
『桜子さんに、聞かれました』
「義姉やんに?」
彰人の声に少し警戒が混じる。
昨日、風呂上がりから女性陣の様子がおかしかった理由にようやく繋がった。
「何聞かれたん」
セレスティアはすぐには答えなかった。
手すりへ置いた指先が、僅かに動く。
『彰人さんと、また町を歩きたいか、と』
「……義姉やん」
思わず額へ手を当てる。
やっぱり余計なことをしていた。
だが、すぐ別のことが気になった。
「なんて答えたん?」
聞いたあとで、自分の方が緊張していることに気づく。
セレスティアは彰人ではなく、王都を見たまま答えた。
『歩きたい、と』
彰人はすぐ返事ができなかった。
大げさな答えではない。
好きだと言われたわけでもない。
ただ、また一緒に歩きたい。
それだけなのに、思ったより嬉しかった。
「……そっか」
『はい』
彰人は少しだけ笑った。
「ほな行こ」
セレスティアが見る。
「これ終わったら」
先の約束を、もう一度確認する。
セレスティアも笑った。
『はい』
それ以上は必要なかった。
今決めるべきことでもない。
今日を終えてからでいい。
王都を守って。
町へ戻って。
そのあと、続きを歩けばいい。
そんな話をしていたときだった。
彰人の視界の端で、空の色が変わった。
最初は夜明けだと思った。
何気なくそちらへ顔を向ける。
すぐに違和感を覚えた。
方角が違う。
空全体が白み始めたのではない。
一点だけが、周囲の暗さを押し退けるように明るくなっている。
しかも、その光はゆっくりではなかった。
「……セレスティア」
声の調子だけで伝わったのか、彼女も同じ方向を見る。
先ほどまで柔らかかった表情が消える。
『はい』
短い返事だった。
空の一点。
まだ星そのものは見えない。
だが、暗かった空に、そこだけ別の光が生まれている。
前にも見た。
忘れるはずがない。
「来よった」
彰人は露台から離れた。
ほぼ同時に、セレスティアも動く。
城内へ戻った瞬間、彰人は声を上げた。
「起きろ! 来たで!」
静かだった廊下に声が響く。
近くにいた兵が走り出す。
鐘を鳴らすための指示が飛ぶ。
一つ目の警鐘が王城から響いた。
続いて、王都の別の場所からも音が返ってくる。
眠っていた者が部屋から出てくる。
彰人は走りながら扉を叩いた。
「兄貴! 来た!」
扉が開く。
怜司が顔を出した。
「朝から元気やな」
「星や!」
「ああ」
それだけで目が覚めたらしい。
廊下の反対側では桜子がすでに出てきている。
優斗もいる。
洋一の声が聞こえる。
昨日決めた配置へ向けて、人が動き始める。
王都の地下では、警鐘を聞いた者たちがさらに奥へ集まっていく。
魔法師団が地上へ展開する。
城壁では弓兵が空を見る。
十三将が兵を動かす。
八傑が武器を取る。
三柱がそれぞれの持ち場へ向かう。
十二神承もまた、王城から外へ出た。
空はもう、夜明けとは呼べないほど明るくなっている。
光の中心に、黒いものが見え始めていた。
昨日、砕いたはずのもの。
終わったと思っていたもの。
それが再び、王都の上空へ姿を現そうとしている。
怜司は空を見上げた。
「ほんまに続けざまやん」
隣で彰人が息を吐く。
「兄貴が言うた通りやろ」
「当たってほしくなかったわ」
珍しく、怜司がそんなことを言った。
次の瞬間。
王都上空へ、最初の魔法障壁が展開された。




