世界を渡る
分からないことは増えた。
昨日まで県道だった場所には、何十年も前からそこに存在していたような杉林が広がっている。その奥に現れた裂け目は、どうやら日本とは別の場所に繋がっているらしい。
裂け目の周囲では、空間そのものが陽炎に似た揺らぎを帯びていた。日本側の杉林と、その向こうに広がる草原とが接する輪郭だけが、水面を通して見るように僅かに歪んでいる。
ただし、揺らいでいるのは境界だけだった。
内側に見える景色は鮮明で、背の低い草が風に押されて波のように傾く様子も、その上に広がる深い藍色の空も、向こう側に立つ者たちの姿もはっきりと見える。風は裂け目を越えて怜司の頬まで届き、草と土の匂いを杉林の中へ運んでいた。
それなのに、背後では相変わらず杉の葉擦れひとつ聞こえない。
向こうから吹き込んだ風が杉の枝を揺らしている。それ自体は目で見えるのに、そこから生じるはずの音だけが消えていた。
裂け目と杉林は、一つの現象なのか。
それとも別々なのか。
セレスティアも答えを知らないらしい。
分かったのは、それだけだった。
だが、その一つは大きい。
少なくとも今、この場所を意図して作った者同士が、裂け目を挟んで向かい合っているわけではない。こちらが知らないのと同じように、向こう側も何が起きているのか分からず、答えを探している。
長い銀色の髪を風に揺らす女――セレスティア=エルネシアは、しばらく裂け目を見つめたあと、手にした杖を僅かに持ち上げた。
先端に浮かぶ青い石からは、先ほどから淡い光が広がり続けている。その一部は境界を越え、細かな粒子となって怜司たちの周囲にも漂っていた。
何をしているのかは分からない。
ただ、その光が広がり始めてから、セレスティアの言葉には少しずつ意味が生まれていた。
日本語に聞こえているわけではない。
耳から入ってくる音だけなら、今も何を言っているのかさっぱり分からない。単語がどこで切れているのかさえ怪しい。
それでも声の奥から、言葉になる前の意味だけが浮かんでくる。
セレスティアが何かを言った。
怜司の中に、いくつかの概念が落ちてくる。
『待つ』
『知らせる』
少し間を置いて、最後の一つだけが妙にはっきりと形を持った。
『王』
「王?」
思わず聞き返すと、セレスティアが頷いた。
「王様おるん?」
「王国かどうかもまだ分かってへんやろ」
彰人がすぐ隣から返す。
「でも王やろ?」
「『王』に近い何かかもしれへん。皇帝とか族長とか、俺らが知らん役職を一番近い概念で受け取ってる可能性もあるやろ」
「偉い人」
「急に雑になったな」
「大体合ってるやろ?」
「大体でええならな」
怜司には、その辺りの違いは今のところ大した問題には思えなかった。
王でも皇帝でも族長でも、向こう側で立場のある者へセレスティアが何かを知らせようとしている。それくらい分かれば、次に何が起こるかを見るには十分だった。
こちらの会話が一段落したのを待っていたのか、セレスティアが自分たちの背後を指す。
草原の先。
遠くに何か人工物らしきものが見えているが、距離がありすぎて形までは分からない。そこを示しながら話す彼女の言葉から、またいくつかの意味が届いた。
『遠い』
『都』
『知らせる』
一つずつなら分かる。
だが、それをどう繋げればいいのかまでは伝わってこない。
セレスティア自身も、うまく通じていないことには気づいているらしい。一度言葉を止めると、自分を指し、遠方を示し、今度は手を口元へ寄せた。
「……向こうに連絡する?」
怜司が口にすると、彰人がセレスティアの仕草を見ながら少し考えた。
「多分。さっきの『王』と合わせるなら、その偉い人がおる場所に報告するんちゃうか」
「王都」
「まだ決めんな」
「王おって都やったら王都やろ」
「可能性は高いけどな」
「ほぼ王都」
「なんやねん、ほぼ王都って」
セレスティアには二人の言葉がどこまで届いているのか分からない。
それでも、自分の意図がおおよそ理解されたことは表情から察したらしい。小さく頷くと、杖を持っていない方の手を衣服の内側へ入れ、薄い板のようなものを取り出した。
掌より一回り大きい程度の灰白色の板で、金属とも石ともつかない表面には細かな線が幾重にも刻まれている。中央には、杖の先に浮いているものとよく似た青い石が埋め込まれていた。
セレスティアがそこへ指を触れる。
青い光が灯った。
そのまま誰かに話しかける。
今度の言葉は怜司たちへ向けられていないらしく、途中で何度も口を閉じ、何かを聞くように間を置いてから、また話し始める。
使い方を見ていれば、用途は何となく想像できた。
「電話や」
「……まあ、通信する道具っぽいな」
「スマホみたいなんあるやん」
「見た目全然ちゃうやろ」
「板やで?」
「スマホの定義を板にすんな」
「でも遠くの人と喋ってるやん」
「せやから用途は似てる言うてるやろ」
「ほら電話やん」
「もうそれでええわ」
彰人が諦めたところで、怜司はもう一度セレスティアの手元へ目を向けた。
魔法らしきものが存在する世界に、遠距離通信の手段まである。
考えてみれば、不思議ではない。
日本では電波を使って声や情報を飛ばしている。こちらに電波がある必要はないし、魔法で同じ結果へ辿り着いていてもおかしくない。
違う世界だからといって、何もかもが自分たちより不便だと考える理由もなかった。
杖からは人を傷つけられるほどの光が飛ぶ。
言葉の通じない相手とも、不完全ながら意思を伝えられる。
遠くにいる誰かとも話せる。
仕組みは何一つ分からない。それでも「何ができるか」という結果だけを見れば、日本と似たところもあるらしい。
「彰人」
「なんや?」
「こっち、思ったより便利なんちゃう?」
「通信する道具一個見ただけで世界全体を評価すんな」
「でも電話あるで?」
「それだけや!」
そう言いながらも、彰人の視線はセレスティアの手元から離れていない。
おそらく興味を持っているのは同じだ。
怜司が「便利」で済ませるものを、彰人はどういう仕組みなのかまで知りたい。
昔から、その辺りは変わらなかった。
しばらくして、セレスティアが通信具らしき板から指を離した。
青い光が弱まり、やがて石の中へ吸い込まれるように消えていく。通信が終わったらしい。
セレスティアはこちらへ向き直った。
何かを言う。
『王』
『望む』
『話す』
そして最後に、
『来る』
怜司は少し考えた。
王。
話したい。
来る。
最後の一つが誰を指しているのか分からない。
向こうから来るのか。
自分たちが行くのか。
そこは確認した方がいい。
「……呼ばれてんの、俺ら?」
自分と彰人を指す。
次に裂け目。
そして、そこからエーテリア側へ指を動かした。
「俺らが、そっち行く?」
セレスティアがすぐに頷いた。
続けて自分たちの背後を指す。
「王んとこ?」
もう一度頷く。
「行こか」
「ちょい待て」
彰人の返事は早かった。
怜司が裂け目へ足を向けるより先に、横から腕を掴まれる。
「何?」
「何ちゃうわ。なんで今のでそのまま行こうとすんねん」
「呼ばれてるやん」
「それは分かってる」
「話したいんやろ?」
「それも多分な」
「ほな行った方が早いやん」
怜司には止まる理由の方がよく分からなかった。
向こうが何者なのか分からない。
こちらが何者なのかも伝わっていない。
なら、もっと話せる場所へ行けばいい。
最初に撃ってきた者たちも、今は武器を下げている。セレスティアにはこちらを害そうとする様子もない。
話を聞いたあとで考える。
その方が早い。
彰人は怜司の顔をしばらく見ていたが、どうやら何を考えているのか察したらしい。
「兄貴」
「ん?」
「俺ら二人だけの話ちゃうねん」
「獅子もおるで」
『我を数に入れるなら最初から入れろ』
「そういう意味ちゃう!」
彰人が白金獅子へ向けた顔を、すぐに怜司へ戻す。
「十二神承や。俺らが知らん世界見つけて、そこに国みたいなんがあって、その王様みたいな人から会いたい言われてんねん。最低でもみんなに連絡くらい入れなあかんやろ」
「ああ」
「今気づいたやろ」
「ちょっとだけ」
「忘れてたんやんけ!」
彰人が大きく息を吐きながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。
その画面を見た瞬間、怜司もようやく意識をこちら側へ戻した。
目の前には知らない世界がある。
見たことのない空がある。
人とは少し違う姿をした者たちがいて、魔法らしいものまで使っている。
そんなものをずっと見ていたせいか、ここまで自分たちの知る世界ではないような気がしていた。
だが、足元はまだ日本だ。
昨日まで県道だった場所。
今は杉林になっているだけで、スマートフォンの画面には見慣れた時刻と通知が並んでいる。
「電波あるな」
彰人が画面上部を確認した。
「普通に?」
「ちょっと弱いけど繋がってる」
「杉林なっただけやもんな」
「その『だけ』で済ませるには大事件やけどな」
それでも、携帯電話が使えるというだけで、こちら側の景色が急に日常へ近づいたように思える。
彰人は十二人が普段使っているグループを開いたものの、すぐには文章を打たず、まずカメラを起動した。
裂け目と、その向こうに広がる草原。セレスティアと武装した者たち。周囲の杉林と、光弾が当たって抉れた幹。それぞれが後から何を見たのか分かるように、角度を変えながら記録していく。
「兄貴も撮っといて」
「何を?」
「俺と違う方向。向こうの景色とか、分かるもん適当に」
「はいはい」
「はいは一回」
「は~い」
「もうええわ」
怜司もスマートフォンを取り出し、裂け目へカメラを向けた。
画面の中にも、肉眼とほとんど同じ景色が映った。境界の周囲だけは僅かに像が揺れているものの、その内側は写真でも鮮明だった。
草原。
遠くに見える塔。
そして空。
巨大な青白い天体と、その傍らに浮かぶ小さな白い星。
最後の一枚を撮ってから、怜司は画面を見たまま少し止まった。
自分のスマートフォンの中に、日本ではない空がある。
誰かが描いたものでも、加工した画像でもない。
今、自分で撮った写真だ。
「これ送ったら信じるかな」
「信じへんかったら来てもらうしかないやろ」
「桜子とか絶対『何してんねん』言うで」
「俺もそう思ってる」
「彰人おるやん」
「おるから言うてんねん!」
必要な写真を選び終えた彰人が、ようやく文章を打ち始める。
県道上で空間異常。
道路が杉林へ置き換わっている。
その奥に未知の場所へ繋がる裂け目を確認。
知的生命体と接触。
当初攻撃を受けたが、現在は停止。
意思疎通は不完全ながら可能。
相手側の世界は『エーテリア』と呼ばれているらしい。
国家と思われる組織が存在し、その王との面会を求められている。
「長ない?」
「どこ削んねん」
「写真あるやん」
「写真見て全部理解できる奴おったら連れてきて」
「清隆ならなんか分かるんちゃう?」
「分かってたまるか」
位置情報を添えて送信する。
数秒後、一つ目の既読がついた。
続けて二つ、三つと増える。
最初の返信は桜子だった。
『は?』
「ほら」
「何が『ほら』や」
「予想通り」
「俺でもこれ見たらそう返すわ」
次は智臣。
『場所送って』
「もう送ってるで」
「確認したいんやろ」
その直後、洋一。
『そこから動くな』
怜司は画面から顔を上げ、裂け目の向こうを見る。
セレスティアは、こちらが何をしているのか分からないまま待っている。
「動くな言うてるで」
「そら言うやろ」
「でも王都呼ばれてんねんけど」
「それも書いた」
「ほな行ってええ?」
「なんでそうなるねん!」
通知はさらに続いた。
優斗から、
『異世界?』
清隆からは裂け目の大きさ、周囲の地面、接続部分の形状について質問が届く。
雅史は過去に似た事例がないか調べるらしい。
その間にも洋一から、
『絶対に勝手に入るな。到着まで待て』
と念を押すような文章が届いた。
「洋一、何時間かかるん?」
「そこちゃうねん」
「来るまで向こう待たせるん?」
「せやから考えてんねん」
今度は桜子。
『怜司、勝手に入ったらシバくで』
「彰人は?」
「俺は止める側やと思われてんねん」
「ずるない?」
「日頃の行いや!」
怜司としては少し納得できなかった。
その横で、彰人はスマートフォンを手にしたまま黙り込んでいる。
視線が画面と裂け目を行き来する。
洋一が言っていることは正しい。
未知の場所へ、不用意に入るべきではない。
一方で、向こう側ではセレスティアたちが武器を下げたまま待っている。こちらを急かす様子もなく、ただ話し合いを続けようとしている。
「……兄貴」
「ん?」
「向こうの王様に会うんは、俺も意味あると思う」
「せやろ?」
「まだ最後まで聞け」
「おう」
「ただ、俺らだけで勝手に行ってええ話かって言われたら、それも違う」
「でもみんな来るまで何時間かかるか分からんやろ」
「そこなんよ」
彰人がスマートフォンの地図を開く。
「全員揃うまで待ったら、それなりに時間かかる。その間ずっと向こう待たせるんが正しいんかも分からん」
「せやな」
「しかも、今は向こうが話す気になってる。ここで一回引く方が危ない可能性もある」
「せやな」
彰人が顔を上げた。
「……兄貴に二回続けて同意されると不安なるな」
「なんでやねん」
怜司も裂け目を見る。
向こう側からすれば、自分たちこそ正体不明の存在だ。
突然、知らない場所へ繋がる裂け目が現れた。
その向こうにいたのは、見たことのない人間二人と巨大な白金の獅子。
言葉も通じない。
攻撃しても傷一つつかない。
それでもセレスティアは武器を下げさせ、意思疎通を試み、自分たちの王へ報告した。
こちらも同じだけの意思を見せなければ、話は進まない。
「行って話した方が早いやろ」
「……結局そこに戻るんか」
「最初から言うてるやん」
「兄貴は考える過程飛ばしすぎやねん」
「同じ答えなったやろ?」
「それが腹立つねん!」
彰人が頭を掻いたあと、スマートフォンへ新しい文章を打ち込んだ。
『状況確認のため短時間だけ向こう側へ入る。接続が維持されていることを確認し、問題があればすぐ戻る。記録は継続する』
送信して、数秒。
『待て』
「早いな」
「見てたんやろ!」
「どうする?」
「……行く」
「お」
「ただし条件あるで」
彰人はスマートフォンをポケットへしまい、怜司を真っ直ぐ見た。
「まず歩いて入る。身体に異常ないか確認。向こうから裂け目がどう見えるか確認。戻れるか確認。スマホも確認。何か一個でもおかしかったら戻る」
「おう」
「勝手にどっか行かん」
「おう」
「俺が止まれ言うたら止まる」
「なるほど」
「そこ返事変わってるやん!」
「聞いてるで」
「返事!」
「は~い」
「ほんま腹立つ……」
彰人が額を押さえる横で、白金獅子が裂け目へ向き直った。
『話はまとまったのか』
「行くって」
『ならば我も行こう』
「通れる?」
『見れば分かるだろう』
裂け目は白金獅子が通るにも十分な広さがある。周囲の地面にも、巨体が近づくことを妨げるようなものは見当たらなかった。
「余裕やな」
『だから言っただろう』
「車もいけそう」
「兄貴」
「何?」
「まだ車で行く話してへん」
「後で取りに戻ったらええやん」
「もう持ってく気なん?」
「王都遠そうやし」
「まだ距離聞いてへん!」
彰人がまた何か言いかけたが、それ以上は続けなかった。
怜司は笑いながら裂け目へ近づく。
遠くからは陽炎のようにしか見えなかった揺らぎも、目の前まで来ると少し印象が違った。膜のようなものが張っているわけではなく、日本の杉林とエーテリアの草原、その二つが接している輪郭だけが絶えず揺れている。
境界のすぐ向こうには草が生えていた。
ほんの一歩。
足を出せば届く。
怜司は右手を伸ばした。
指先が揺らぎへ入る。
何もない。
冷たくもない。
熱くもない。
押し返されもしない。
手首まで入れて指を開閉してみても、感覚に違いはなかった。
「普通」
「痺れとかは?」
「ない」
「引っ張られる感じ」
「ない」
「一回戻して」
「はいはい」
「はいは一回」
「は~い」
「もうええ!」
手を引き戻しても、皮膚に変化はない。
彰人がそれを確認し、ようやく小さく頷いた。
「ほな次は――」
怜司は一歩進んだ。
「兄貴!」
背後から彰人の声が飛んできたときには、身体の半分以上がすでに境界を越えていた。
何かに包まれる感触はない。
身体を引かれることもない。
一瞬だけ視界が揺れた気もしたが、目の前にある空間の歪みを通過したせいなのか、それすらはっきりしなかった。
もう一歩。
両足が草の上へ乗る。
身体は動く。
呼吸もできる。
痛みもない。
それを一つずつ確かめるより先に、怜司は周囲の音が変わったことに気づいた。
風が草を撫でている。
葉が擦れ合う音がする。
少し離れた場所では、知らない何かが短く鳴いた。
兵士が動けば衣服や武具の擦れる音が重なる。
裂け目越しにも聞こえていたはずなのに、自分自身がこちら側へ入ると広がり方が違った。
杉林では、向こうから流れ込んでくる音を聞いていた。
今は、その音の中に立っている。
草と土の匂いも濃い。
頬を撫でる風にも、杉林の中とは違う温度がある。
怜司は振り返った。
境界の向こうには、日本側の杉林がある。
彰人が立っている。
白金獅子もいる。
少し離れたところには、自分たちの車まで見える。
景色は見える。
声も届く。
手を伸ばせば触れられるほど近い。
それなのに、そこは別の世界だった。
「普通に入れるで」
「先行くな言うてんねん!」
彰人の声も問題なく届く。
怜司が笑っていると、セレスティアがこちらへ歩いてきた。
その後ろにいた兵士たちの身体へ、僅かに緊張が戻る。
怜司たちにとって初めて世界を越えた瞬間なら、彼らにとっても同じなのだろう。
裂け目の向こうにいた未知の人間が、初めてこちら側の地面へ立った。
セレスティアは数歩手前で止まった。
怜司の顔から足元まで視線を動かし、身体に異常が起きていないことを確かめているようだった。
それから、何かを尋ねる。
耳に届いたのは、相変わらず知らない言葉だった。
なのに――。
『身体に異常はありませんか?』
意味が、そのまま届いた。
怜司は一瞬返事を忘れた。
先ほどまでなら、『身体』『異常』『ある』『確認』といったいくつもの断片を、自分の中で繋ぎ合わせる必要があった。
今は違う。
何を聞かれたのか、考える必要すらない。
「……おお」
『どうしました?』
「めっちゃ分かる」
セレスティアの目が僅かに開く。
『私の言葉が、ですか?』
「せやで。普通に喋ってるみたいに分かる」
今度はセレスティアが黙った。
怜司の返事も理解できている。
それまでなら、こちらの表情や仕草を見て意味が伝わったかどうかを探っていた。今は怜司が喋り終えるのとほとんど同時に、内容を理解した反応が返ってくる。
会話になっていた。
「彰人」
「何?」
「こっち来たら普通に喋れるで」
「は?」
「めっちゃ分かる」
彰人の顔つきが変わった。
怜司。
セレスティア。
二人の間にある境界。
順番に視線を動かし、自分も慎重に右手を差し入れる。
「兄貴、ほんまに何もないんやな?」
「ないで」
「……ほな行く」
彰人は怜司とは違い、一歩ずつ身体の状態を確かめながら境界を越えた。
両足がエーテリア側の草へ乗る。
自分の腕を確認し、足元を見て、最後にセレスティアへ視線を向ける。
『あなたにも、私の言葉が理解できますか?』
彰人の眉が僅かに動いた。
「……分かる」
『先ほどより明確に?』
「全然違う。今は普通に意味が取れる」
セレスティアはすぐには答えず、手にした杖へ目を落とした。
先端の青い石は、先ほどまでと同じ淡い光を放っている。
「何か変えました?」
『いいえ。使用している術式は同じです』
「術式」
「やっぱ魔法やったんや」
「兄貴、今そこどうでもええ」
「気になってたやん」
「気にはなってたけど!」
彰人は怜司を一度だけ睨み、すぐセレスティアへ戻った。
「同じ魔法なのに、俺らがこっちへ来たら急に効くようになった?」
『その可能性があります』
「日本側では弱くなってた?」
『おそらく。ただし、私の術そのものが境界を越えることで弱まったのか、あなた方の世界が魔術を受け入れにくいのかは、まだ判断できません』
セレスティアの視線が、境界の向こうにある杉林へ向く。
彰人も同じ場所を見る。
「世界によって、魔法の効き方が違う……?」
『現時点では、その可能性が高いとしか言えません』
「なるほど」
「せや、スマホや」
彰人が画面を確認する。
「……圏外や」
「やっぱ?」
「やっぱって何や。兄貴も見ろ」
彰人が怜司の前にスマホを持ってきた。
だが、怜司はあまり興味がないように一瞥するくらいだった。
「ホンマに、両極端やわ…」
「そやろ?」
「分かってて言うてるんかい!」
そう言いながら、彰人はスマホの画面から境界へ視線を移した。
「世界の境目で何かあるんか…?」
『私も同じ考えです。』
彰人の返事が少し低くなった。
怜司には聞き覚えがある。
気になるものを見つけたときの声だった。
「彰人、嬉しそうやで」
「兄貴に言われたないわ」
『興味深い現象ではあります』
「ほら、セレスティアも」
『はい』
「仲良くなれそうやな」
「何を基準に言うてんねん!」
セレスティアが二人を見て、僅かに笑った。
その笑みだけではない。
今は声の調子まで伝わってくる。
音そのものは、何一つ日本語に聞こえない。
何を言っているのか分からない。
それなのに、何を言っているのかは分かる。
「変な感じやな」
「せやな」
『不快でしょうか?』
「いや。便利」
「またそれか」
セレスティアは少しだけ目を丸くしたあと、確かめるようにその言葉を繰り返した。
『……便利』
「便利やろ?」
『そのように評価されたのは初めてです』
「普通は何て言うん?」
『意思疎通のために使用する術ですので、使用できること自体を評価される機会はあまりありません』
「ほら便利やん」
「何が『ほら』なん?」
彰人が呆れたところで、境界の向こうにいた白金獅子が動いた。
巨大な身体が揺らぎへ近づくと、後ろの兵士たちへ僅かな緊張が走る。
セレスティアも白金獅子へ視線を向けたが、止めようとはしなかった。
そのまま白金獅子が境界を越える。
巨体がエーテリアの草原へ出ると、兵士たちの何人かが無意識に半歩下がった。
裂け目越しに見るのと、同じ場所に立つのとでは印象が違うのだろう。
人の胸ほどまで肩がある白金の獅子が、数メートル先にいる。
怜司なら見慣れていても、初めて見る側からすれば十分に異様だった。
そんな中、セレスティアだけは好奇心を隠さず白金獅子を見ている。
『あなたの言葉も、今なら理解できるのでしょうか』
『我のことか』
セレスティアの目が僅かに開いた。
『……はい。理解できます』
「おお」
『何を感心している』
「やっと喋れる相手増えたやん」
『我にはお前たちがいる』
「俺らだけやったやん」
『何か問題があるのか』
「友達少ないみたいやん」
『怜司』
「冗談やって」
白金獅子の声に混じった苛立ちまでセレスティアには届いているらしい。
怜司と獅子を交互に見ながら、どう反応すればいいのか僅かに迷っている。
「異世界来て最初にする会話がそれか……」
彰人が額へ手を当てる。
それでも、裂け目を挟んでいたときとは空気が変わっていた。
互いに言葉が通じる。
たったそれだけで、相手が急に「知らない何か」から「話せる誰か」へ変わったように感じる。
なら、ここからは聞けばいい。
分からないものを、一つずつ。
彰人が一歩前へ出た。
「改めて確認したいんですけど、ここがエーテリアで合ってます?」
『はい。この世界を、私たちはエーテリアと呼んでいます』
「国は?」
『ここはヴァルネシア王国の領内です』
「やっぱ王国やった」
「兄貴、そこ拾わんでええ」
「王様おるんやろ?」
『居ます』
「ほら」
「何に勝ったつもりやねん」
セレスティアは少し不思議そうに二人を見たあと、話を続けた。
『先ほどお伝えしようとしていたのですが、国王陛下が、可能であればお二人と直接お話ししたいと望んでおられます』
「王様に会うん?」
『はい。ただし、無理にお願いするつもりはありません』
セレスティアの表情から笑みが消え、代わりに静かな緊張が戻った。
『あなた方にとって、私たちが未知の存在であることは理解しています。そして――こちらから、あなた方へ攻撃を行ったことも事実です』
視線が、少し離れた場所に立つ三人の術者へ向く。
先ほど怜司へ光を放った者たちだった。
セレスティアは怜司たちへ向き直ると、僅かに頭を下げた。
『改めて、お詫びします』
「別にええで」
「兄貴」
「何?」
「兄貴が平気やったんと、向こうが攻撃したことは別や」
「でも怪我してへんで」
「それは結果やろ。普通の人やったら怪我してた可能性ある」
言われて、怜司は日本側の杉へ目を向けた。
境界越しでも、光弾を逸らした場所に残った傷は見える。
自分には効かなかった。
だから弱いわけではない。
人に当たれば、少なくとも笑って済ませられるものではなかったはずだ。
『彰人さんの仰る通りです』
「二対一やん」
「当たり前や」
怜司は頭を掻いた。
怒る必要はないと思う。
だからといって、何もなかったことにしていいわけでもない。
なら、次を決めればいい。
「ほな、次から撃たんといて」
セレスティアが僅かに驚いたように怜司を見たあと、ゆっくり頷いた。
『もちろんです』
「それでええやん」
「……まあ、兄貴がそれでええなら」
彰人もそれ以上は言わなかった。
怜司は改めてエーテリア側の景色を見る。
草原の脇には道らしきものがあり、緩やかな丘を越えて遠くへ続いている。その先には森があり、さらに向こうにはいくつもの山が重なっていた。
地形だけなら、日本の山間部と大きく変わらない。
だが、空を見ればすぐに違いが分かる。
巨大な青白い天体。
その傍らに浮かぶ白い星。
ここが日本ではないという事実を、一番分かりやすく突きつけてくる。
「で、王都って遠いん?」
『ここからですと、通常の移動手段で数時間ほどです』
「数時間」
「歩き?」
『いいえ。移動には――』
そこで初めて、それまで文章として届いていた意味が崩れた。
『運ぶ』
『地面』
『生き物』
『引く』
いくつもの概念が重なり、何を指しているのかまでは分からない。
「……馬車みたいなん?」
『バシャ?』
「通じてへんな」
彰人が小さく頷いた。
「向こうにない概念は、そのまま置き換えられへんのかもしれんな」
『申し訳ありません。そのバシャというものを私は理解できません』
「こっちも今言った乗り物が分からないんで、お互い様です」
そう答えた彰人が、少し考えて境界の向こうを見る。
杉林の中には二台の黒い車が停まっていた。
「……車、持ってく?」
「そのつもりやったで」
「いつ決めたん?」
「数時間って聞いたとき」
「今聞いたとこやろ!」
「せやで?」
彰人は一度口を開き、そのまま閉じた。
歩くより車の方が早い。
裂け目を通れるなら、その方が合理的なのは間違いない。
『クルマ、というのは?』
「俺らが乗ってきた乗り物」
『あなた方の世界の?』
「せやで。あれ」
怜司が境界の向こうを指す。
セレスティアもそちらを見る。
杉の間に停まる二台の黒い車は、距離があるため細部までは分からなくても、自然物でないことくらいは伝わるらしい。
『あれが……クルマ』
「持ってきてもええ?」
セレスティアは車を見たあと、裂け目の高さと幅、周囲の地面を順に確かめた。
『大きさだけであれば、問題ないと思います』
「ほな取ってこよ」
「待って。先に戻れるか確認」
「今戻るやん」
「せやけど、確認は確認や」
彰人が自分から境界へ向かった。
今度は先に日本側へ入り、身体に異常がないことを確かめてから振り返る。
「セレスティアさん、なんか喋ってみて」
セレスティアが答えた。
エーテリア側にいる怜司には文章として意味が届く。
だが、日本側に立った彰人は眉を寄せた。
「……戻った」
「片言?」
「さっきと同じ。意味は分かるけど文章にはならへん」
怜司も境界を越える。
その瞬間、セレスティアの言葉が再びばらばらになった。
『待つ』
『こちら』
『気をつける』
ほんの数秒前まで普通に話せていた相手なのに、意味の輪郭が急に薄くなる。
「ほんまや」
「場所で変わってるな」
「日本、魔法嫌いなん?」
「世界に聞け」
彰人はそう返しながらも、視線は境界へ向いたままだった。
日本では弱くなる。
エーテリアでは本来の効果を発揮する。
もしそうなら、二つの世界は単に存在する場所が違うだけではない。現象そのものが成立する条件まで違っていることになる。
「おもろいな」
「兄貴が言うと嫌な予感すんねん」
「何でや」
「実績」
「失礼やなぁ」
白金獅子も日本側へ戻った。
背後から聞こえていた風と草の音が遠ざかり、再び不自然な静けさが杉林を包む。
怜司は一度だけ振り返った。
セレスティアが向こう側からこちらを見ている。
景色は見える。
声も届く。
手を伸ばせば触れられるほど近い。
それなのに、そこは別の世界だった。
妙なものだと思いながら、怜司は車へ向かった。
少し先に二台の黒い車が並んでいる。
怜司のインプレッサと、彰人のマークX。
「車で異世界か」
「その言い方すると急に頭悪そうになるからやめて」
「でもそうやろ?」
「そうやけど」
「便利やで?」
「もうええって」
怜司は運転席へ乗り込んだ。
シートへ身体を預け、エンジンを始動する。
低い排気音が、音の消えた杉林へ広がった。
鳥も鳴かない。
風も聞こえない。
その中で、機械が発する音だけがいつも通り耳に届く。
ステアリングに触れる。
クラッチを踏む。
シフトを入れる。
ここまでは、いつもと何も変わらない。
違うのは、その先に別の世界が待っていることだけだった。
怜司はゆっくり車を発進させた。
杉林の中を進み始めると、バックミラーの中で彰人の車も動き出した。
路面だった場所がどこまで残っているのかは分かりにくい。杉が生えたことで見た目は完全に林道のようになっているが、木と木の間には車一台が通れる程度の隙間が残っていた。
怜司はできるだけ低い速度で進む。
木にぶつける理由はない。
その程度のことは怜司にも分かっている。
しばらく進むと、前方の木々の間に裂け目が見えてきた。
向こう側にいる者たちも二台の車に気づいたらしい。
何人かがこちらを指している。
セレスティアも振り返り、杉林から近づいてくる黒い物体を見ていた。
「そら知らんよな」
『何がだ』
白金獅子が車の横を歩きながら聞く。
「車」
『我も最初は知らなかった』
「そういやそうやったな」
『お前は説明もせず乗せようとしたが』
「乗ったら分かるやん」
『あれを説明と呼ぶな』
裂け目の手前まで来たところで怜司は一度車を止めた。
車幅に対して余裕はある。
高さも問題ない。
路面の段差らしいものも見当たらない。
物理的にはそのまま通れそうだった。
ただ、車という物体が世界の境界を越えたときに何が起きるかは分からない。
彰人も同じことを考えたらしく、すぐ後ろで車を停め、運転席の窓を開けた。
「兄貴、一気に行くなよ」
「ゆっくり行くって」
「フロント入れて、何か変やったら止まって」
「はいはい」
「はいは一回」
「は~い」
「もう言わん!」
怜司はクラッチを繋ぎ、ほんの少しだけ車を前へ進めた。
フロントバンパーが裂け目へ入る。
空間の揺らぎがボンネットの上を滑るように後ろへ流れていく。
抵抗はない。
車が押し返されることもない。
もう少し進む。
ボンネット。
フロントガラス。
そして運転席。
境界が自分の身体を通り過ぎた瞬間、先ほど徒歩で越えたときと同じように周囲の音が広がった。
草の音。
風。
遠くの生き物の声。
エンジン音自体は変わっていない。
だが、日本側の無音の杉林で聞いていたものとは、音の中での存在感が違った。
さらに進み、車体全体がエーテリア側へ出る。
問題はない。
警告灯もつかない。
エンジンも普通に回っている。
「普通やな」
『何がだ』
「車」
『お前の普通は信用できん』
「お前まで彰人みたいになってきたな」
怜司が少し先まで車を進め、停車する。
回転数が落ちたところで、いつもの癖で軽くアクセルをあおる。
その直後。
後方から乾いた破裂音が響いた。
普段なら気にも留めない程度の音だった。
だが、空気が変わった。
裂け目の周囲にいた兵士たちが一斉に動く。
杖が上がる。
弓が向く。
何人かは身を低くし、こちらへ攻撃を返せる姿勢を取った。
「お?」
何かしたかと考えた直後、セレスティアの声が響く。
『待ちなさい!』
兵士たちの動きが止まる。
『攻撃ではありません』
『しかし、今の音は――』
『彼らを見てください』
セレスティアの視線が怜司へ向く。
怜司は窓から顔を出したまま、何事かと兵士たちを見ている。
白金獅子も特に反応していない。
『もし彼ら自身の攻撃であれば、これほど無防備ではないでしょう』
兵士たちの視線が怜司へ集まった。
「何?」
『いえ』
セレスティアは少しだけ困ったような顔をした。
『先ほどの音を、こちらの者が攻撃と誤認しました』
「今の?」
怜司は後ろを見る。
「車やで?」
『クルマが、攻撃のような音を発するのですか?』
「たまに」
『なぜです?』
「なんでやろ」
『知らないのですか?』
「大体は知ってるけど」
そこへ彰人の車が境界を越えてきた。
「本人に聞いた方が早いで」
マークXがゆっくりエーテリア側へ入る。
彰人も慎重に周囲を確認しながら車体全体を通過させ、そのまま怜司の少し後ろで停車した。
回転数が落ちたところで、彰人も癖のように軽くアクセルをあおる。
乾いた音が一度響いた。
兵士たちの肩が同時に動いた。
今度は武器を上げる前に、何人かがセレスティアを見る。
セレスティアも彰人の車を見た。
少し間を置いてから窓へ近づく。
『……今の音も、攻撃ではないのですね?』
「え?」
彰人は一瞬何を聞かれたのか分からない顔をしたあと、先ほどの音に思い当たったらしい。
「ああ。はい。攻撃ちゃいます」
『先ほど、怜司のクルマからも同じような音がしました』
「あー……」
彰人が怜司を見る。
「兄貴の鳴ったん?」
「鳴ったで」
「するやん」
「彰人のもしたやん」
「何がや!」
『……同じ現象なのですか?』
セレスティアが尋ねる。
彰人は一度エンジンの方へ目を向けた。
「完全に同じ理由かは車によるけど……まあ、ざっくり言えば似たようなもんです」
『では、今の音は何なのですか?』
「燃料を燃やして動いてるんですけど、その燃え残りが排気側で燃えたりすると、ああいう音が出ることがあります」
セレスティアは数秒黙った。
彰人の言葉を理解するためにではなく、内容そのものを考えているらしい。
『クルマの中で、燃料を燃やしている?』
「はい」
『それを繰り返すことで動くのですか?』
「大まかには」
『……爆発を繰り返しているようなものですか?』
「まあ、似たようなもんです」
セレスティアが車を見る目が変わった。
『危険では?』
「ちゃんと制御されてるんで大丈夫ですよ」
「大体は」
「兄貴、余計なこと言うな!」
『大体……』
「大丈夫です! 普通に使ってる乗り物なんで!」
「俺もそう言うたやん」
「兄貴が言うと説得力なくなるねん!」
セレスティアは再び車を見る。
最初は未知の物体に対する警戒だった。
今は違う。
明らかに観察している。
タイヤ。
車体。
フロント部分。
運転席。
排気管。
視線が順番に動いていく。
『これには魔術が使われていないのですね?』
「使ってないです」
『魔力そのものも?』
「少なくとも俺らは使ってへん」
『では、どのようにしてこれほど大きなものを精密に動かしているのでしょう』
彰人の顔が少し変わった。
怜司には分かる。
これは説明し始める顔だ。
「彰人」
「なんや?」
「王都行くんちゃう?」
「あ」
セレスティアも一瞬止まる。
『……そうでした』
「二人とも似てるやん」
「何がや」
『何がでしょうか』
「気になると止まるとこ」
「兄貴にだけは言われたない!」
セレスティアは僅かに咳払いをするような仕草をしてから、改めて周囲を見た。
『詳しい話は、移動してからにしましょう』
「車ん中でも喋れるで」
『中に入ってもよいのですか?』
「案内してもらわな王都行かれへんし」
彰人がそう言うと、セレスティアは初めてその必要に気づいたように車と道を見比べた。
『では、私が同乗した方がよいでしょう』
「兄貴んとこ乗ってもらう?」
「彰人の方がええんちゃう?」
「なんで?」
「説明できるやん」
「兄貴も運転しながら喋れるやろ」
「道分からんで?」
「俺も分からんわ!」
「セレスティア乗ってたら分かるやん」
「だからどっちでも一緒やろ!」
怜司は少し考える。
「でも彰人の方が安全やで」
「何でやねん」
「俺の車ちょっと乗りにくい」
「そこは否定せえへんけど!」
セレスティアは二人の会話を聞きながら、どちらへ乗ればいいのか判断に迷っている。
「ほな彰人んとこで」
「結局決めるん兄貴なん?」
「嫌なん?」
「嫌ちゃうけど」
『では、彰人さんのクルマへ乗せていただきます』
「はい。どうぞ」
彰人が助手席側へ回る。
ドアを開けると、セレスティアは中を覗き込んだまま動きを止めた。
見慣れないものが多すぎるのだろう。
座席。
ダッシュボード。
液晶。
スイッチ。
ドアの内張り。
どれも日本人には何でもないものだが、エーテリアの者にとっては用途の分からない物体の集合にしか見えないらしい。
『ここへ座るのですね?』
「はい」
セレスティアが慎重に助手席へ身体を入れる。
座面へ腰を下ろしたところで、彰人がシートベルトを手に取った。
『それは?』
「身体固定するやつです」
『拘束具ですか?』
「ちゃいますちゃいます」
彰人が慌てて首を横に振る。
「事故とか急に止まったときに身体飛ばされんようにするための安全装置です」
『身体が飛ばされるほどの速度で移動するのですか?』
彰人が止まった。
「……普通に使う分には大丈夫です」
「彰人」
「兄貴は黙っとけ!」
怜司は窓越しに笑った。
セレスティアはまだ少し不安そうだったが、彰人が自分にも同じものがあることを示すと納得したらしい。ベルトを受け取り、使い方を教わりながら身体へ通していく。
その間に怜司は白金獅子を見る。
「お前どうする?」
『何がだ』
「乗る?」
『どこへ』
「後ろ」
白金獅子が車を見る。
次に自分の身体を見る。
もう一度車を見る。
『無理だろう』
「やっぱ?」
『分かっていて聞いたのか』
「屋根ならいけるで」
『なぜ屋根なのだ』
「広いやん」
『我を荷物のように扱うな』
「重さ消せるんやろ?」
『重さの問題ではない』
「落ちへんやろ?」
『そういう問題でもない』
怜司は車の屋根を見る。
白金獅子も見る。
「似合うと思うで」
『何にだ』
「車に」
『嬉しくない』
「でも歩くん?」
白金獅子は王都へ続くという道を見た。
次に、すでに助手席へ収まったセレスティア。
少し離れた場所では護衛の者たちも移動の準備を始めている。
『……仕方ない』
「乗るん?」
『一時的にな』
「はいはい」
『返事は一度にしろ』
「彰人みたいなこと言うなぁ」
白金獅子が車の横へ立つ。
その巨体が地面を蹴った次の瞬間、ほとんど音も立てずに屋根へ上がった。
本来なら車体が大きく沈んでもおかしくない。
だが、何も起きない。
白金獅子が現実へ与える重さそのものを調整しているため、ルーフは巨大な獅子が乗ったとは思えないほど平然としていた。
見た目だけがおかしい。
黒い車。
その屋根に伏せる、巨大な白金の獅子。
怜司は運転席から少し身体を乗り出して眺めた。
「ええやん」
『どこがだ』
「強そう」
『我は元から強い』
「車も」
『知らん』
周囲の兵士たちが遠巻きに見ている。
車だけでも理解できていないところへ、さらに巨大な神獣が屋根へ乗った。
誰も近づいてこない。
「怖がられてるで」
『お前のせいだ』
「俺?」
『他に誰がいる』
「車?」
『お前だ』
怜司が運転席へ戻ると、セレスティアがこちらへ歩いてきた。
正確には彰人の車から一度降りて、手に薄い板状の通信具を持っている。
『怜司さん、これをお持ちください』
「電話?」
『先ほど使用したものとは少し違いますが、同じように遠距離で会話するためのものです』
「やっぱ電話やん」
『あなた方の世界にも同じものが?』
「似たようなんは」
受け取った板は、先ほどセレスティアが使っていたものより小さい。
手にするとほんの少し温かかった。
『私のものと繋いであります。道中、必要があればこれで話せます』
「便利」
『その言葉がお好きなのですね』
「便利なんはええことやで」
セレスティアが少し笑った。
彰人の車へ戻る。
数秒後、怜司の手元にある通信具から声が聞こえた。
『兄貴、聞こえる?』
「聞こえるで」
『それ、適当に置いて切ったりすんなよ』
「インカムあるやん」
『こっちでどれくらい届くか分からんやろ』
「そんな離れへんって」
通信具の向こうが一瞬静かになった。
「何?」
『……とりあえず繋いどいて』
「信用ないなぁ」
『あるから言うてんねん』
「どっちやねん」
護衛の者たちも準備を終えたようだった。
全員が徒歩というわけではない。
四本脚の生き物に跨っている者もいれば、荷物を積んだ大きな獣を連れている者もいる。怜司には馬に近いものにも見えたが、頭部や脚の形が微妙に違う。
車ほど速くはなさそうだった。
ただし、こちらの道に慣れている分、移動に困ることはないのだろう。
セレスティアから進行方向を教えてもらい、怜司が先頭へ出る。
彰人の車がその後ろ。
さらにヴァルネシアの護衛が続いた。
「行くで」
『分かっています』
屋根の上から白金獅子が答える。
「落ちんなよ」
『落ちるか』
「横になってた方がええんちゃう?」
『お前は普通に走れ』
「普通に走るで?」
『……今の言葉が妙に不安だな』
「失礼やな」
怜司はアクセルを踏んだ。
車がゆっくり動き出す。
最初のうちは後ろの一行を確認しながら、かなり低い速度で走った。
道は思っていたより整っている。
日本の舗装道路とは違い、石と土を固めたような路面だったが、大きな穴や深い轍は少ない。幅も二台がすれ違えるほどではないものの、一台で進むには十分だった。
しばらく進むと、草原だった周囲に低い木々が増え始める。
遠くに見えていた山も少しずつ大きくなり、地形には緩やかな高低差が現れた。
景色だけなら、日本のどこかを走っていると言われても納得できそうだった。
だが、空を見れば違う。
巨大な青白い天体が、地平に近い位置へ浮かんでいる。
その横には、もっと小さな白い星。
怜司は前を見たまま、視界の端で何度かそれを確認した。
「彰人」
『なんや?』
「空すごいな」
『運転中に上見るな』
「前見てるで」
『兄貴の「見てる」は信用できん』
そこへセレスティアの声も重なる。
『あの天体が気になりますか?』
「気になる」
『エーテリアでは珍しいものではありませんが、あなた方の世界には存在しないのですね』
「少なくとも、あんなでかいのはないな」
『では、後ほど説明しましょう』
「今でもええで」
『少し長くなります』
「ほな後で」
『兄貴!』
「何?」
『自分から聞いたんやろ!』
「運転中やで?」
『それ言うたん俺や!』
通信具の向こうでセレスティアが小さく笑った。
声だけでも、それが分かる。
裂け目越しでは意味を拾うだけで精一杯だった。
今は言葉の意味だけでなく、相手がどういう調子で話しているのかまで自然に理解できる。
魔術というものが何なのかはまだ分からないが、この術だけなら確かに便利だった。
道が少しずつ下りへ変わる。
前方に緩いカーブが続いている。
路面の状態は悪くない。
怜司は自然に速度を上げた。
わざわざ意識したわけではない。
道路の形。
車の動き。
次の曲がり。
その先。
見えているものに合わせて走っているだけだった。
しばらくして通信具から彰人の声が聞こえた。
『兄貴』
「おん?」
『ちょっと速度落として』
「なんで?」
『後ろ見て』
怜司はルームミラーを見る。
すぐ後ろに彰人の車がいる。
「おるで?」
『俺ちゃう! もっと後ろ!』
視線をさらに奥へ向ける。
彰人の車の向こう。
小さく見えるヴァルネシアの一行。
思っていたより距離が開いていた。
「……遅れたな」
『兄貴が離したんや!』
「普通に走ってただけやで?」
『その普通をやめろ!』
セレスティアの声が入る。
『申し訳ありません。私たちの通常の移動手段では、その速度を維持することは難しいようです』
「ああ、そうなん?」
『兄貴、セレスティアさんとこの人ら、めっちゃ後ろやで』
「彰人おるやん」
『俺の話ちゃう!』
「ほな落とすわ」
『最初からそうして!』
「は~い」
『その返事やめい!』
怜司はアクセルを戻した。
速度が落ちる。
しばらくすると、後方に離れていた一行が少しずつ近づいてくる。
その間、セレスティアは窓の外を何度も見ていた。
『怜司さん』
「何?」
『先ほどの速度は、日本では一般的なのですか?』
「普通ちゃう?」
『兄貴!』
「何やねん」
『日本人全員あんな走り方するみたいに言うな』
『……一般的ではないのですね』
「いや、普通の道ならもっと出してる車もおるで」
『そういう話ちゃう!』
セレスティアが少し考える。
『日本という国の移動速度は、かなり速いのですね』
『セレスティアさん』
『はい?』
『兄貴の基準は一回忘れてください』
「何でやねん」
『分かりました』
「分かるん?」
『彰人さんの反応を見る限り、その方がよさそうです』
「もう信用されてへんやん」
『最初から運転に関しては信用してへんわ』
彰人の声に迷いがなかった。
「失礼やなぁ」
そんなやり取りをしながら進んでいるうちに、周囲の景色が少しずつ変わっていく。
草原は途切れ、低い森が近づいてきた。
道も緩やかに山沿いへ入り始める。
場所が変われば、空気の匂いも変わる。
草の匂いより土と木の匂いが強くなり、日陰へ入るたびに風の温度が少し下がった。
日本と似ている。
だが、同じではない。
見覚えがあるようで、どこにも見覚えがない。
怜司はその感覚を面白いと思った。
『怜司』
今度は屋根の上から声が聞こえた。
「何?」
『上だ』
声の調子が少し違う。
怜司は視線だけを動かした。
空。
最初は鳥だと思った。
高い位置を、翼を広げた何かが旋回している。
ただ、かなり大きい。
鳥というには形も違って見える。
「彰人」
『何?』
「上、何かおる」
『運転中に上見るな言うたやろ!』
「獅子も言うてるで」
『なら獅子に見てもらえ!』
『我は見ている』
「何なん?」
『人だ』
「鳥人間?」
『言い方を選べ』
旋回していた影が高度を下げる。
近づくにつれて輪郭がはっきりした。
人の身体。
その背中から伸びる大きな翼。
髪や衣服が風に流れながら、こちらの車列を追うように飛んでいる。
『……フィルネ?』
セレスティアの声が聞こえた。
「知り合い?」
『はい。王都からこちらへ向かっているとは聞いていませんでしたが』
翼を持つ者が高度を落とし、車列の横へ回り込んでくる。
怜司の車を見る。
次に屋根。
白金獅子。
もう一度、車。
表情まではまだ見えにくいが、動きだけでも困惑していることは分かった。
『セレスティア様』
通信具から、初めて聞く声が流れた。
『フィルネですね』
『はい。先ほどの報告を受け、王都より状況確認を命じられました』
翼の女性が、怜司の車と並ぶ位置まで近づいてくる。
怜司も横を見る。
鳥のような翼以外は、ほとんど人間と変わらない。
ただ、飛びながらこちらの速度へ合わせている。
「すごいな」
『兄貴、運転中!』
「前も見てるって」
『だからその返事が信用できへんねん!』
フィルネの視線が再び車へ向く。
どう見ても、何なのか理解できていない。
『セレスティア様』
『何でしょう』
『その黒いものは……』
言葉が止まる。
どう表現すればいいのか分からないらしい。
『日本で使用されている移動手段だそうです』
『これが?』
『クルマ、と呼ぶそうです』
フィルネが少し近づく。
窓越しに怜司を見る。
次に屋根の白金獅子。
そこでまた動きが止まった。
『では、あの白金色の獣も、クルマの一部なのですか?』
『違う!』
屋根から白金獅子の声が響いた。
フィルネが反射的に翼を広げ、一気に距離を取った。
「びっくりしてるで」
『お前のせいだ!』
「俺何もしてへんやん」
『誰が我をここへ乗せた!』
「自分で乗ったやん」
『お前が勧めただろう!』
「断ってもよかったで?」
『数時間歩けと言うのか!』
「ほら便利やん」
『その言葉で全て済ませるな!』
通信具の向こうから彰人の笑い声が聞こえた。
『兄貴ら何してんねん』
「普通に移動してるだけやで」
『どこが普通や』
少し離れていたフィルネが、警戒しながら再び距離を詰めてくる。
今度は白金獅子から少し離れた位置を維持したまま、車の横を飛んだ。
『……意思疎通が可能なのですね』
『ああ』
白金獅子が答える。
フィルネの翼が一瞬だけ乱れた。
「まだ慣れてへんな」
『お前は黙って運転しろ』
「はいはい」
『一度!』
「は~い」
『彰人と同じ扱いをするな!』
『兄貴、聞こえてるで!』
「知ってる」
セレスティアが小さく息を吐いたような声がした。
『フィルネ。詳しい報告は王都へ戻ってから行います。ひとまず我々と同行してください』
『承知しました』
フィルネが頷く。
そのまま周囲を確認するように高度を少し上げた。
そして後方を見る。
『……セレスティア様』
『はい』
『護衛の者たちは?』
怜司もミラーを見る。
彰人の車はいる。
その後ろ。
ヴァルネシアの一行は、また少し離れていた。
「また遅れたな」
『兄貴!』
「今そんな出してへんで?」
『下りで勝手に速度上がってんねん!』
「ブレーキ踏んだ方がええ?」
『踏め!』
「燃費悪なるで?」
『知らんわ!』
フィルネが後方と車を何度か見比べる。
『……かなり離れておりますが』
『ええ』
セレスティアの返事に、僅かな疲れが混じっていた。
『少々、問題になっています』
「問題?」
『兄貴のことや!』
「何で?」
『何でやない!』
怜司は速度を少し落とした。
だが、道はさらに山沿いへ入っていく。
前方に大きな右カーブが見えた。
片側は岩壁。
反対側は斜面。
見通しは悪くない。
路面も乾いている。
怜司はカーブを見る。
速度を見る。
車の動きを考える。
特に問題はない。
『兄貴』
「おん?」
『ちょい待て』
「何?」
『壁が近づいて――』
ブレーキを踏む。
前へ荷重が移る。
ステアリングを入れる。
車体が向きを変えた。
僅かに後ろが外へ出る。
『おい!』
屋根から白金獅子の声が落ちてくる。
「なんや?」
『なぜ横を向いている!』
「曲がってるから」
『そういう曲がり方をする必要があるのか!』
岩壁がフロントガラスの端へ近づく。
『兄貴! 壁!』
「当たらへんって」
アクセルを踏む。
四輪が路面を掴み、車体を前へ押し出した。
岩壁が視界の端から後ろへ流れていく。
距離が開く。
『……壁が離れてく~……』
「せやろ?」
『何が「せやろ」や!』
車体がまっすぐに戻る。
怜司はそのまま道の中央へ車を戻した。
特に何も起きていない。
壁にも当たっていない。
車も普通に走っている。
問題ない。
そう思っていると、屋根の上で白金獅子が立ち上がった気配がした。
『怜司!』
「落ちへんやろ?」
『そういう問題ではない!』
「重さ消してるし」
『我が落ちる心配をしているのではない!』
「ほな何?」
『なぜ突然横を向いた!』
「曲がるため」
『普通に曲がれ!』
横を見る。
さっきまで近くを飛んでいたフィルネが、かなり離れた位置にいた。
「フィルネ?」
『……はい』
「離れたな」
『今の動きを見て、近くを飛行するのは危険だと判断しました』
「当たらへんで?」
『そういう問題ではないと思います』
『ほら!』
白金獅子が屋根から言う。
「二対一やん」
『兄貴』
「何?」
『俺もそっち側や』
「三対一」
『セレスティアさんも入れたら四対一や』
「セレスティア?」
しばらく返事がなかった。
「セレスティア?」
『……はい』
「大丈夫?」
『今のは』
「曲がっただけ」
『あれが通常の走行方法なのですか?』
「せやで」
『違います!』
彰人の声が即座に被った。
『セレスティアさん、兄貴の言うこと真に受けたらあきません!』
「普通に曲がったやん」
『普通の車は横向いて曲がらへん!』
「曲がるで?」
『曲げてんのは兄貴や!』
フィルネが少し離れた位置から、こちらを見ている。
理解できないものを見る目だった。
『セレスティア様』
『何でしょう』
『日本の移動手段は、全てあのような動きをするのでしょうか』
『しません!』
彰人が答えた。
『……彰人さん?』
「すみません。とりあえず、今のは日本の標準ではないです」
『兄貴個人の問題です』
「問題扱いされてるで」
『兄貴のことや!』
セレスティアが短く息を吐いた。
『……日本について、確認したいことが増えました』
「何で?」
『兄貴のせいや!』
怜司には、そこまで騒ぐ理由がよく分からなかった。
壁には当たっていない。
車にも問題はない。
予定している道からも外れていない。
彰人も後ろにいる。
白金獅子も屋根から落ちていない。
なら、別に問題はないはずだった。
そう考えながら、怜司は前へ視線を戻す。
道はまだ山の向こうへ続いていた。
王都は見えない。
エーテリアへ入ってから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも分からないものは、すでに山ほど増えている。
裂け目。
杉林。
魔術。
ヴァルネシア。
そして今、新しく現れた翼を持つ女。
フィルネと呼ばれた彼女は、少し離れた空から今もこちらを警戒するように見ている。
怜司はその姿をミラー越しに確認した。
「一人増えたな」
『何が?』
彰人が聞く。
「知り合い」
『もう知り合い扱いなん?』
「喋ったやん」
『兄貴の知り合い判定軽すぎるやろ』
「ええやん別に」
通信具の向こうで、セレスティアがまた小さく笑った。
知らない世界へ来ても。
どうやら、自分の周りが騒がしいことだけは変わらないらしい。
「まあ、ぼちぼち行こか」
『だから速度落とせ言うてるやろ!』
彰人の声を聞きながら、怜司は少しだけアクセルを戻した。




