あと、三日
町から人の声が減り始めたのは、日が落ちてからだった。
昼のあいだは市場を行き交う人々の声や荷車の音が絶えず、調査のために歩いていても、どこかしらから生活の気配が聞こえていた。
それが夜になると、家々の窓から漏れる明かりだけを残して、少しずつ静けさへ変わっていく。
ただし、町そのものが眠ったわけではない。
昼間から使わせてもらっている建物には、まだ多くの人が残っていた。
長い卓の上には夕食と一緒に、何枚もの地図が広げられている。
皿を置く場所を確保するため、端へ寄せられた紙もあれば、逆に食事より優先され、卓の中央を占領している地図もあった。
その場にいたのは、十二神承だけではない。
三柱と八傑の何人かも同じ卓を囲み、残りも壁際や窓辺に分かれている。
十三将はここにはいなかった。
町だけでなく周辺の村まで視野に入れて人を動かすことになれば、必要になるのは戦力だけではない。
馬車や騎獣、御者、それらを動かすための人員まで必要になる。
星堕としが実際にいつ来るのか分からない以上、使える移動手段を先に集めておく必要があるとして、彼らは各地へ散っていた。
昼間の調査で得られた情報は、すでに卓上の地図へ書き込まれている。
学校、養護院、市場、川。
過去に水が出た場所。
町から外へ抜ける道。
人家が少なくなる南東側。
さらに、森の中で確認された動物の移動経路。
朝には何も書かれていなかった紙が、一日の終わりには、この町で暮らす者たちの生活を縮めて置いたような姿になっていた。
アルディウスは、その地図よりも、それを囲む人間たちを見ていた。
洋一は食事の手を止めるたび、各所から集まった情報を聞き、それが誰の仕事に繋がるのかを整理している。
清隆はほとんど地図から目を離さない。
何かを聞くたびに書き込みを増やすのではなく、必要な情報だけを拾い、頭の中で組み合わせているようだった。
雅史の前には、昼間に町の老人たちから聞き取った記録が置かれている。
現在の地図と過去の話を照らし合わせ、町がまだ小さかったころに何がどこにあったのかを整理していた。
昨日までなら、彼らは敵だった。
正確には、敵として向かい合った時間そのものが長かったわけではない。
それでも、ヴァルネシア側から見れば、侵攻した先で待っていた理解不能なほど強い者たちであることに変わりはない。
その者たちが今は、どうすればこの国の町を守れるのかを真剣に考えている。
何かを要求されたわけでもない。
領土も、財貨も、地位も求めなかった。
侵攻しなければそれでいいと言い、その後は温泉の作り方だの、娯楽だの、ヴァルネシアにはなかったものまで持ち込み始めた。
そして今度は、空から落ちてくるものから町を守ろうとしている。
アルディウスには、いまだに彼らを完全には理解できなかった。
ただ、少なくとも一つだけは分かる。
この者たちは、戦うことだけに長けているわけではない。
『……よく、それだけ考えられるものだな』
不意に漏れた声に、洋一が顔を上げた。
「何がです?」
『いや』
アルディウスは一度、地図へ視線を落とした。
『お前たちは、戦場でも同じなのかと思ってな』
「同じ?」
『誰が何をするか。何が足りないか。どこを捨て、どこを守るか。それを考えることに慣れているように見える』
洋一は少し考えてから、隣にいる清隆を見る。
清隆は聞こえているはずなのに顔を上げない。
反対側では雅史が、老人から聞いた話の一部に印を付けていた。
「たぶん、戦いだからというより」
洋一は卓上にいる仲間たちを見回した。
「普段からこんな感じなんですよ」
『普段から?』
「何かあったら、できる人がやる。それだけです」
アルディウスの眉が僅かに動いた。
洋一の説明は簡単だったが、それが簡単なことではないのは分かる。
できる者がやるためには、互いに何ができるのかを知らなければならない。
自分ができないことを認める必要もある。
そして何より、他人へ任せることができなければ成立しない。
武門の中で長く生きてきたアルディウスには、その難しさがよく分かった。
「それより」
雅史が、広げていた記録から顔を上げた。
「もう一度、老師から聞いた話を確認したいんだけど」
その言葉で、卓の周囲に散っていた意識が一か所へ集まった。
行人も箸を置く。
「はい」
「場所について、どこまで聞いてた?」
行人はすぐには答えなかった。
記憶を探しているというより、老師の言葉と、自分たちが後から加えた解釈を分けているようだった。
「ヴァルネシア領内の小さな村、と聞きました。そこで新しい概念体が生まれる可能性が高いこと。それと、一月くらいで星堕としが来る可能性がある、と」
そこまでは、すでに全員が共有している。
問題は、その先だった。
老師にとっての時間と、現在の町の姿が一致していない。
今いる場所は、もはや小さな村ではない。
市場があり、学校があり、周辺の村々から人や物が集まってくる程度には発展している。
場所そのものが間違っているとは考えにくい。
だが、町のどこに新しい概念体がいるのかまでは分かっていなかった。
「実際に話を聞いたとき、場所について何か感じなかった?」
雅史の問いに、行人は隣を見る。
そこには怜司がいた。
食事をしながら聞いてはいたらしい。
ただし、自分が話題の中心になるとは思っていなかったのか、行人と目が合うと箸が止まった。
「……何?」
「怜司さんも聞いてましたよね」
「聞いてたで」
「場所について、何か覚えてません?」
「村」
「それは僕も覚えてます」
行人の返答に、彰人が小さく笑った。
「兄貴に聞き方間違えてんで」
「では、どう聞けばいいんです?」
「知らん」
「役に立たないですね、兄弟揃って」
「俺まで入れんなや」
食卓に僅かな笑いが広がった。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
ただ、雅史はそこで話を終わらせなかった。
「二人とも、直接聞いたんだよね」
「はい」
「なら、明日はもう少し範囲を絞って探してみよう」
行人が頷く。
怜司は一拍遅れて、自分を指差した。
「俺も?」
「怜司さんもです」
「なんでや」
「直接聞いた二人って、今言ったじゃないですか」
「行人覚えてるやん」
「僕が覚えている内容と、怜司さんが覚えているものが同じとは限りません」
そこへ清隆が初めて顔を上げた。
「行った方がいい」
「清隆まで」
「お前は情報を言語化しない。だが、必要なところで反応することがある」
怜司が少し嫌そうな顔をした。
褒められているのか、扱いにくいと言われているのか、自分でも判断できなかったらしい。
「二人だけで行かせるのも不安ですね」
洋一が地図を見ながら言う。
「対策を考えるなら、周囲の状況も分かる人がいた方がいい」
洋一は、老師の言葉だけでは埋められない部分を地図の上で確認していた。
場所を見つけるだけなら、行人がいれば足りるかもしれない。
だが、その場所が星堕としとどう関係しているのか、周囲に何があるのかまで持ち帰らなければ、その後の対策には使えない。
「行人はちゃんと説明してくれると思いますけど」
彰人はそこで一度、怜司を見る。
「兄貴は帰ってきてから『あったで』で終わる可能性あるんで」
「そこまで雑ちゃうわ」
「ほな、何見てきたかちゃんと説明できる?」
怜司は箸を止めた。
すぐに返事をするかと思ったが、少しだけ考える。
「……見たら分かるやろ?」
「ほらな」
彰人が即座に洋一へ顔を戻した。
怜司にとって重要ではなかった途中の情報が、他の者にとっても不要とは限らない。
そのこと自体は本人も分かっているのだろうが、何を残しておくべきなのかを事前に決めるのは、あまり得意ではない。
「誰か付いてった方がええと思います」
「なんか納得いかんなぁ」
怜司はそう言いながらも、本気で反論する気はないらしい。
食事を再開したところを見る限り、自分一人で行くわけではないなら、それでいいという程度の不満だった。
その中で、智臣だけは地図を見ていた。
町の周辺、地下、川。
目に見える場所だけを探して見つからないのなら、別の可能性を考える必要がある。
「俺が行く」
智臣が口を開いた。
「空間を見る。地上にないなら、その方が早い」
「じゃあ智臣にもお願いしようか」
雅史が頷く。
自分も同行できれば、老師から聞いた話と町の歴史を照合できる。
ただ、今は洋一と清隆と一緒に残る必要があった。
星堕としがいつ来るか分からない以上、調査と並行して防衛方法を詰めなければならない。
その様子を見ていたガルディオが、地図へ目を落とした。
『俺も行こう』
行人が顔を向ける。
『この辺りの地形なら、お前たちよりは知っている。昔の道や、使われなくなった場所もある』
「助かります」
四人。
行人、怜司、智臣。
そしてガルディオ。
移動手段も検討されたが、今回は町の周辺を細かく探す必要がある。
上空を一気に移動してしまえば、地上からしか気づけないものを見落とす可能性があった。
カグラに四人で乗るのも現実的ではない。
結局、明るくなってから徒歩で出ることになった。
「決まりですね」
洋一が地図の上に一つ印を加える。
怜司だけが、まだ納得していない顔をしていた。
「俺、明日散歩するつもりやったんやけど」
「それを調査って呼ぶんや」
彰人に言われ、怜司は少し考える。
「なるほど」
「納得すんな」
また小さな笑いが起きた。
窓の外では、町の夜が静かに深くなっていた。
◇
翌朝。
町を出た四人の背中が見えなくなるまで見送ってから、残った者たちは再び地図を囲んだ。
昨日までと違うのは、すでに星堕としの兆候が確認されていることだった。
空から何かが来る。
そこまでは分かったものの、いつ到達するのかも、実際にどこへ落ちるのかも分かっていない。
大きささえ不明なのだから、具体的な迎撃方法を決められる段階でもなかった。
それでも、何も分からないことを理由に待っているわけにはいかない。
星堕としの正体が判明してからでなければ決められないことと、それ以前に準備できることを分ける。
残った者たちが地図を囲んでいるのは、そのためだった。
「町全部を桜子さんで守るのは?」
恭平が地図を見ながら尋ねた。
桜子はすぐには答えず、改めて町の範囲を目で追った。
中心部には市場や学校があり、その周囲を住宅が取り囲んでいる。
そこから外へ向かえば畑が広がり、さらに先には、町を生活の拠点としている小さな集落がいくつも点在していた。
地図の上なら手のひらほどの範囲でしかない。
だが、実際に昨日一日歩いている。
端から端までを一つの防御で包むとなれば、建物一棟を守るのとは意味が違った。
「できるかできへんかで言うたら、分からんな」
珍しく曖昧な答えだった。
桜子は自分の力を過小評価する性格ではない。
守れると思えば守れると言う。
その彼女が断言しないこと自体が、範囲の広さを示していた。
「一点なら?」
清隆が聞く。
「一点?」
「守る範囲を絞る」
清隆の指が町の中心部へ移動した。
「住民を一か所へ集める。桜子はそこだけを守る」
桜子も地図へ身を寄せる。
町全体を覆う必要がないのなら、話は変わる。
建物を一つ守る程度の範囲へ絞れるなら、外から何が来ても防げる可能性は大きく上がる。
「それやったら、だいぶ楽やな」
「なら、避難場所を作る」
清隆はすでに次を考えていた。
洋一が地図上の空き地をいくつか確認する。
「広さが必要ですね。町の人を全員入れるなら、かなり大きくないと」
「横だけでは足りない」
清隆は地図から顔を上げ、窓の外を見る。
地上に大きな建物を作れば、今度はそれ自体が飛来物を受ける。
屋根を強くしても、衝撃がどこから来るか分からない。
上から落ちてくるものを相手にする以上、高さを持つ構造物は不利になる。
「地下に集約する」
「地下?」
恭平が聞き返した。
「必要な広さを確保しやすい。それに、桜子の防御を避難施設へ集中させるなら、地上へ大きな建物を作る必要もない」
清隆は候補地の周囲へ視線を巡らせた。
守る主体は、あくまで桜子だ。
地下へ造るのは、その力と地盤を競わせるためではない。
避難者を一か所へまとめ、桜子が守らなければならない範囲を明確にするためだった。
さらに、万が一防御を抜けた破片や衝撃があったとしても、地表との間に十分な厚さを残しておけば、それ自体がもう一段の安全策になる。
「広さを取るなら、地上より都合がいい。防御が抜かれた場合にも備えられる」
桜子も意図を理解したらしく、地図上の候補地を見直した。
「なるほどな。守るんはうちで、その下にも保険掛けとくっちゅうことか」
「ああ」
清隆は立ち上がった。
話が決まれば、確認する方が早い。
候補になったのは、学校からも市場からも極端に離れていない空き地だった。
町の中心から徒歩で到達できる。
周囲の道も比較的広い。
避難者が一度に集まっても、入口で詰まりにくい。
全員で現地へ移動すると、清隆は地面へ片膝をついた。
手のひらを土へ触れる。
すぐには何も起こらなかった。
清隆の意識は、目の前の地面よりもさらに下へ向いている。
表土。
その下にある土。
岩盤。
水分を多く含む層。
目では見えない構造を、理解できる範囲から順番に拾っていく。
ただ穴を開ければいいわけではない。
地下水へぶつかれば使えない。
地盤が弱ければ、衝撃を受けたときに天井そのものが落ちる。
人を集める以上、出入口も一つでは危険だった。
必要な容積を考える。
人が座る場所、通路、怪我人を寝かせる場所。
水、換気。
さらに、地上の一部が崩れても別方向から出られるようにする必要がある。
清隆はしばらく地面へ手を置いたままだった。
周囲も急かさない。
やがて顔を上げる。
「ここなら作れる」
「どれくらい?」
良澄が尋ねる。
「町の人口を入れても余裕がある程度」
「それ、かなり広ない?」
桜子が空き地を見る。
清隆は頷いた。
「広くする」
次の瞬間に巨大な穴が開いた、ということにはならなかった。
清隆はまず、地表から内部へ繋がる斜路を作った。
土を崩すのではない。
必要な部分だけを分解し、別の場所へ移す。
内部へ進むほど空間が広がっていく。
天井には厚い地盤を残し、荷重が集中する場所には岩盤そのものを柱として残した。
出入口は複数。
そのうち一つは、人を担架に乗せたまま運び込める幅を確保する。
良澄が中へ入り、実際に歩きながら必要な場所を伝える。
桜子は壁や天井へ触れ、どこへ力を掛ければ最も少ない負担で全体を守れるかを確認する。
作っては確認し、必要なら修正する。
その繰り返しだった。
数時間後。
最初はただの空き地だった場所の地下に、人が何百人入っても余裕のある巨大な空間が出来上がっていた。
彰人が入口から内部を見渡す。
広い。
広すぎる。
壁面は装飾こそないものの、ただ掘っただけの洞窟には見えない。
避難者が移動しやすいよう通路が分けられ、奥には救護用として使える区画まである。
「……これ避難所?」
「そうだ」
「核シェルターやん」
清隆が彰人を見る。
「核攻撃を想定した構造ではない」
「そこちゃうねん」
彰人が額を押さえる。
桜子が笑いながら壁を叩いた。
「まあ、頑丈なんはええことやろ」
「壊れたら困る」
「そらそうや」
目的は、立派な地下施設を作ることではない。
ここへ人を集め、桜子が守る。
それで町全体へ防御を広げる必要はなくなる。
だが、それは同時に、避難場所の外側を守らないということでもあった。
洋一が地上へ戻り、改めて町を見る。
家がある。
店がある。
学校がある。
人を守れても、星堕としの衝撃ですべてが失われれば、その後の生活を戻すには長い時間が掛かる。
「次は、外ですね」
再び地図が広げられた。
今度は、人を守るためではない。
町へ飛んでくるものを、どう減らすか。
優斗が町の中央付近から周囲を見渡した。
「全部見える場所があれば、ある程度はワシが落とせると思う」
弓を使えば、遠距離から飛来物を迎撃できる。
問題は数だった。
一つや二つなら難しくない。
数十。
数百。
さらに、撃ち落としたものが砕ければ、その破片が別方向へ飛ぶ。
「大きいのを優斗さんが割るとして、その後っすね」
恭平が地図上の町を見ながら言う。
「細かくなったのまで全部撃つのは無理じゃないっすか?」
「たぶん無理だね」
優斗もそこは否定しなかった。
自分の能力を過信して、できない範囲まで引き受ける方が危険だった。
なら、撃ち漏らしたものは地上で処理する。
速さを持つ者が候補になる。
「俺、走ればいけるっす」
恭平が自分を指した。
智希も町の広さを見てから頷く。
「僕もいけるかな。全部追えって言われたら無理だけど」
二人なら、広い範囲を動ける。
ただし、それでも大きな破片まで任せるのは効率が悪い。
彰人が地図へ手を伸ばした。
「デカいのは俺がやりますわ」
「壊す?」
洋一が聞く。
「いや」
彰人は首を振った。
「できるなら返す」
破壊すれば破片が増える。
なら、受けた力を利用して、人のいない方向へ返す。
町の南東側。
昨日セレスティアと歩いて確認した岩場と、その先にある地域が候補になる。
もちろん、何が飛んでくるか分からない以上、すべてを同じ方法で処理できるとは限らない。
だが、役割だけは決められる。
優斗が大きな飛来物の数を減らす。
恭平と智希が地上を走り、危険な破片を処理する。
彰人は二人では止めにくいものを受け持つ。
それでも追いつかない場所が出れば、洋一がテンレイで動く。
小さすぎて建物にも人にも大きな被害を出さないものは、最初から追わない。
すべてを止めようとして、本当に危険なものを見失う方が悪い。
清隆は決まった役割を地図の横へ書き込んでいく。
その間、一度も議題にならなかったものがあった。
星堕とし、そのものだった。
空から落ちてくる本体を、誰が止めるのか。
誰も聞かなかった。
優斗も、彰人も、洋一も。
清隆ですら、そこを問題として口にしない。
今考えているのは、その後に町へ飛び散るものをどう処理するかだった。
誰かが意図的に避けているわけではない。
長く一緒にいる者たちにとっては、それを議題に加える必要がなかっただけだった。
◇
同じころ。
町から離れた場所を歩いていた行人は、何度目か分からない地図の確認をしていた。
現在の町を中心に、老師から聞いた「村」がどの辺りだったのかを考えている。
雅史が老人たちから聞き取った話によれば、町は長い時間をかけて外側へ広がっている。
古い中心部は現在の市場より少し北。
そこから街道沿いに家が増え、畑が広がり、今の町になった。
老師が見た時代がいつなのかは分からない。
だから、現在の町の中心だけを探しても意味がない。
「見つかりませんね」
行人が地図を畳む。
朝からかなり歩いた。
怪しい場所がなかったわけではない。
古い祠。
使われなくなった井戸。
森の中に残っていた石組み。
どれも確認したが、新しい概念体らしいものはなかった。
怜司は少し前を歩いている。
調査をしているというより、本当に散歩しているように見えた。
時々立ち止まり、木を見る。
岩を見る。
空を見る。
それで何が分かるのかは、行人には分からない。
「怜司さん」
「ん?」
「何か感じません?」
「別に」
「そうですか」
「腹減った」
「それは聞いてません」
ガルディオが僅かに口元を緩めた。
智臣は周囲へ視線を向けたまま歩いている。
地上で見える範囲だけではなく、意識を広げているのだろう。
しばらくして、行人が足を止めた。
「逆じゃないですか?」
他の三人も止まる。
「何がだ」
智臣が聞く。
「見えるところばかり探してます」
行人は周囲を見る。
町から少し離れているとはいえ、人がまったく来ない場所ではない。
薪を取りに来る者もいる。
狩人もいる。
畑へ向かう者もいる。
「新しい概念体が普通に歩いて見つかる場所にいるなら、僕たちより先に誰か見つけてませんか?」
智臣が少し考える。
「地下か」
「可能性はあると思います」
行人はガルディオを見る。
「この辺りに洞穴とかありませんか?」
ガルディオはすぐには答えなかった。
記憶の中から地形を探しているらしい。
『ある』
「近いですか?」
『ここからなら、それほど遠くない。ただ、使われていない』
「使われてない?」
『奥が深い。獣も入る。昔は水を探すために入った者もいたらしいが、今は誰も近づかん』
怜司が振り返った。
「そこ行こ」
「急にやる気出しましたね」
「洞窟おもろそうやん」
「調査ですよ」
「分かってるって」
行人には、まったく分かっているようには見えなかった。
それでも他に有力な候補はない。
四人はガルディオを先頭に、道を外れた。
洞穴の入口は、知らなければ見落とすような場所にあった。
斜面の一部が大きく窪み、その奥に黒い裂け目がある。
周囲には草木が生い茂り、遠くから見ればただの岩陰にしか見えない。
近づくにつれて、空気が変わった。
外はまだ暖かい。
洞穴の中から流れてくる空気は冷たく、湿っていた。
ガルディオが先に入る。
行人、智臣、怜司と続く。
四人が内部へ入ると、外の音が急速に遠ざかった。
最初のうちは、入口から届く光で足元が見えた。
岩肌には水が滲み、場所によっては細い流れになっている。
さらに奥へ進むと、それもなくなった。
用意していた明かりを使う。
照らせる範囲は狭い。
その外側には、光を吸い込むような暗闇が続いている。
足音が何度も反響する。
自分たちが進む音なのに、少し遅れて別の場所から誰かが歩いてくるようにも聞こえた。
ガルディオは慣れた様子で進んでいる。
ただし、彼も最深部まで入ったことがあるわけではないらしい。
『ここから先は知らん』
分岐の前で足を止めた。
一方は緩やかに下っている。
もう一方は狭く、岩の隙間へ続いていた。
智臣が目を閉じる。
視覚に頼らず、周囲の空間を捉えていく。
「下だな」
「何かあります?」
「空間が広い」
智臣が下り坂を指した。
「かなり」
四人はそちらへ進む。
地面の傾斜が少しずつ強くなる。
湿気も増した。
やがて、行人の耳に水の音が聞こえ始めた。
最初は水滴が落ちる音だと思った。
だが違う。
もっと大きい。
一定ではない。
水面がどこかで揺れているような音だった。
さらに進むと、道が突然なくなった。
「危なっ」
行人が足を止める。
目の前に穴があった。
竪穴だった。
明かりを下へ向けても、底までは届かない。
石を一つ落としてみる。
かなり待ってから、硬い音ではなく、水へ落ちた音が返ってきた。
「水?」
怜司が覗き込む。
「落ちないでくださいよ」
「落ちへんって」
「怜司さんなら普通に降りそうなので言ってます」
智臣が穴の縁へ立った。
意識を下へ伸ばす。
数秒。
眉が僅かに動いた。
「下に空間がある」
「さっき言ってましたね」
「思っていたより大きい」
智臣はさらに範囲を広げる。
「湖だ」
「湖?」
「かなり広い」
地上からは想像できない。
町の近く。
人々が暮らし、畑を作り、道を歩いているその地下に、大きな水の空間が隠れている。
竪穴を降りる方法を探す。
壁面にはいくつか足を掛けられる場所がある。
ガルディオが先に降り、行人が続く。
怜司と智臣も後から降りた。
下へ行くほど水音が大きくなる。
そして最後の段差を越えたところで、視界が開けた。
誰もすぐには声を出さなかった。
明かりが届く範囲を越えて、水面が続いている。
天井も高い。
地下にあるにもかかわらず、洞穴という言葉では足りないほどの空間だった。
水面はほとんど動いていない。
四人の明かりだけが映り込み、揺れている。
「……こんなんあったんや」
怜司が呟く。
ガルディオも初めて見るらしい。
『知らなかった』
行人は岸辺へ近づいた。
水は澄んでいる。
だが深い。
光を向けても、途中から色が消える。
「ここなら」
誰にも見つからなくても不思議ではない。
そう言いかけて、行人は止まった。
水面の奥に、何かがいた。
生き物なのかどうかも分からない。
形を捉えようとすると、輪郭が曖昧になる。
水の中にあるようにも見えるし水そのものの一部のようにも見える。
「智臣さん」
「ああ」
智臣も気づいている。
空間として見れば、そこには確かに何かが存在していた。
魚ではない、岩でもない、水でもない。
周囲とは別の何か。
行人はゆっくり近づいた。
「聞こえますか?」
返事はない。
「僕たちは、あなたを探しに来ました」
変化はない。
以前会った概念体とは違う。
言葉を理解していないのか。
理解していても返す方法を持っていないのか。
それすら分からない。
行人は少し距離を縮める。
「星堕としについて、何か分かりますか?」
沈黙の後に、水面が僅かに揺れた。
風はない。
四人とも動いていない。
それでも、小さな波紋が一つだけ広がっていく。
行人の中へ、言葉ではない何かが触れた。
意味として整理するには曖昧すぎる。
恐怖ではない、警戒でもない。
助けを求めているわけでもない。
ただ、一つだけ。
こちらへ向かってくるものがある。
それだけだった。
「……来てる」
行人が呟く。
ガルディオが周囲を見る。
『何が分かった』
「何かが近づいてます」
『星堕としか』
「たぶん」
断言はできない。
しかし、この場所、この存在。
老師から聞いた話。
そして、すでに地上で確認されている兆候。
すべてが同じ一点へ繋がり始めていた。
その横で、怜司は水面ではなく上を見ていた。
地下にいる。
当然、空は見えない。
それでも、何かを確かめるように天井の岩を見ている。
「近づいてるなぁ」
行人が振り返る。
「分かるんですか?」
「なんとなく」
「どっちから?」
「上?」
「距離は?」
「知らん」
「速度は?」
「知らん」
行人が黙った。
智臣が怜司を見る。
「使えないな」
「ひどない?」
声が地底湖へ反響する。
緊張感が一瞬だけ薄れた。
だが、智臣はすでに別のことを始めていた。
概念体を中心に、空間認識を広げる。
湖、洞穴、地盤、その上にある森、さらに町。
もっと上、もっと遠く。
通常なら、一度に把握する必要のないほど広い範囲。
情報量が増えるほど、細部は捨てなければならない。
必要なのは、こちらへ向かってくる異物だけだった。
しばらくして、智臣が目を開いた。
「ある」
行人の表情が変わる。
「星ですか?」
「分からない」
智臣は即座に否定した。
「ただ、こっちへ向かって動いているものがある」
「距離は?」
「今は出せない」
位置が分かるだけでは速度は分からない。
智臣は岩壁へ印を付けた。
「待つ」
「どれくらい?」
「位置の差が取れるまで」
四人は、そのまま地底湖に残ることにした。
すぐに戻ったところで、接近している何かの速度は分からない。
一度目に捉えた位置と、次に観測した位置。その差を取れるだけの時間が必要だった。
待つしかないと分かると、それまで調査のために動き続けていた空間が急に静かになった。
聞こえるのは、どこか遠くで水滴が落ちる音と、時折、岸へ届く小さな水音だけだった。
四人が持ち込んだ明かりは地底湖の一部しか照らしておらず、その向こうには、どこまで続いているのか分からない暗い水面が広がっている。
行人は、その中にいる概念体へ何度か問いかけた。
名前はあるのか。
ここで生まれたのか。
自分へ近づいているものが何なのか分かるのか。
問いを変え、間を置きながら話しかけても、言葉として返ってくるものはなかった。
完全に無反応というわけでもない。
時折、水面に小さな波紋が生まれる。
こちらの声に反応しているようにも見えるが、それが返事なのか、単に存在していることで起きている現象なのかさえ判断できなかった。
以前出会った概念体とは、明らかに違う。
少なくとも、同じように意思疎通できる存在として扱うことはできなかった。
それ以上に行人が気になったのは、概念体から恐怖らしいものを感じないことだった。
自分へ何かが近づいている。
おそらく、それは星堕としと関係している。
それでも逃げようとはしない。
助けを求める様子もない。
ただ水の中に存在し、近づいてくるものを近づいてくるものとして受け入れている。
人間と同じように生死を捉えているのか。
そもそも、自分が失われるということを恐れる存在なのか。
行人には判断できなかった。
少し離れた岩場では、怜司が座り込んでいた。
最初のうちは地底湖を眺めていたが、今は持ってきた水を飲みながら、時々天井を見上げている。
ガルディオも急かさない。
戦場で待つことには慣れているのだろう。壁へ背を預けながらも、完全に気を抜くことなく周囲へ意識を向けていた。
その中で、智臣だけが時間を気にしていた。
一度目の観測から、どれだけ経ったか。
位置の差として認識できるだけの時間が過ぎたか。
早すぎれば誤差に埋もれる。
遅すぎれば、それだけ町へ情報を持ち帰る時間を失う。
頃合いを見て、智臣は再び目を閉じた。
意識が地底湖から外へ広がっていく。
厚い地盤を越え、森を越え、町を越える。
さらにその先へ。
先ほど捉えた異物を、同じ条件でもう一度探す。
ほどなく、それは見つかった。
同じ場所ではない。
確実に位置を変えている。
智臣は最初に記憶した位置と現在位置を重ね、経過した時間との関係を取る。
単純な距離だけでは足りない。
こちらへ向かう角度。
観測範囲から生じる誤差。
この先も同じ速度で進むという保証がないことまで含めて、どこまでなら確実に言えるのかを切り分けていく。
計算が進むにつれ、智臣の表情から、それまで残っていた僅かな余裕が消えていった。
「どうです?」
行人が聞く。
智臣はすぐには答えない。
もう一度計算し、誤差を考える。
一直線に進むとは限らない。
速度が変化する可能性もある。
それでも、現在と同じ条件が続くなら。
「三日」
行人の呼吸が止まる。
「……三日?」
「前後する可能性はある。ただ、このままなら三日程度でここへ来る」
老師から聞いていた一月。
それが、三日になった。
いや。
一月という情報が変わったのか。
最初から何か別の条件があったのか。
今は分からない。
分かるのは、待って考える時間がなくなったことだけだった。
ガルディオが地底湖を見る。
『ここへ来るのか』
「軌道が変わらなければ」
智臣は概念体を見る。
「おそらく、ここだ」
行人も水面へ目を向けた。
ほとんど意思疎通のできない、新しい概念体。
地上からは見つからない場所で生まれた存在。
そして、その存在へ向かっているもの。
老師が言っていた場所は、間違っていなかった。
「戻りましょう」
行人が立ち上がる。
「これは早く共有した方がいいです」
誰も反対しなかった。
◇
四人が町へ戻ったころには、地下避難施設の整備がかなり進んでいた。
入口付近では、良澄が救護用の物資を確認している。
桜子は内部と地上を何度も往復し、実際に人を入れた場合の動線を確認していた。
少し離れた場所では、優斗が町の屋根を見渡せる位置を探している。
行人たちの姿に最初に気づいたのは、彰人だった。
朝に送り出したときとは、四人の雰囲気が違う。
疲れているだけではない。
行人は地下施設の入口や周囲で作業している者たちへほとんど目を向けず、まっすぐこちらへ歩いてくる。
智臣も普段と変わらないように見えるが、戻ってきたというのに周囲の様子を確認するより先に、建物の中へ視線を向けていた。
「おかえり。なんかあった?」
彰人が声を掛ける。
行人は歩調を緩めただけで、足を止めなかった。
「全員集めてください」
返ってきた声に、冗談を挟める余地はなかった。
彰人もそれ以上は聞かなかった。
近くにいた者へ声を掛ける。
地下施設を確認していた桜子と良澄が戻り、優斗も迎撃地点の確認を切り上げる。
町の別の場所へ出ていた者にも連絡が回り、ほどなくして、朝まで使っていた卓の周囲へ再び人が集まった。
地図は出発前の状態からさらに書き込みが増えている。
行人はその余白へ、まず洞穴の位置を書き込んだ。
そこから先は、地上の地図には存在しない。
ガルディオから聞いた洞穴。
その奥で見つけた竪穴。
さらに下へ降りた先に広がっていた、巨大な地底湖。
説明が進むにつれ、清隆は行人ではなく地図を見るようになった。
新しい概念体がいたこと。
以前の概念体とは違い、ほとんど意思疎通ができなかったこと。
それでも、何かが自分へ近づいていることだけは伝わったこと。
そして智臣が、その周辺から空間認識を広げた結果、実際にこちらへ向かって移動している何かを捉えたこと。
そこまで聞いても、誰も話を挟まなかった。
最後に智臣が、一度目と二度目の観測から算出した時間を伝える。
「このままなら、約三日」
その数字が出たところで、部屋の空気が変わった。
一月という言葉を前提に組み立てていた時間が、一気に失われる。
驚きの声を上げる者はいなかった。
それぞれが、自分の担当へ三日という数字を当てはめていた。
地下施設の整備、避難、迎撃位置、救護、町の外にいる人間。
今までなら後回しにできたものまで、同じ時間の中へ入ってくる。
清隆が地図を引き寄せた。
「位置を出せるか」
智臣が隣へ移動する。
地上から見た洞穴の位置を基準に、内部でどの方向へ進んだのかを重ねていく。
竪穴の深さは正確には測っていないが、空間認識で捉えた地底湖の広さと概念体の位置は分かる。
二人で現在の地図へ落としていくと、印は町の中心から外れた場所に付いた。
直撃地点が市場や学校になるわけではない。
だからといって、安心できるほど離れてもいなかった。
「近いな」
清隆の言葉に、智臣が頷く。
洋一も席を立ち、地図を反対側から確認した。
昼間まで考えていた防衛計画は、町を中心に作られている。
桜子が守る避難施設も、優斗たちが迎撃する範囲も、すべてそこが基準だった。
今は、その外側まで見る必要がある。
「大きさは分かりますか?」
「そこまでは取れなかった」
智臣は分からないものを分からないまま残した。
接近方向と、おおよその到達時間。
現時点で確実に増えた情報はそこまでだった。
ガルディオは地図の印と町との距離を見比べている。
過去に星堕としを経験している彼にとって、その距離は安全を意味しなかった。
『大きいものなら、町だけでは済まん』
指が町の外側へ移る。
その先には、地図上で小さく記された村がいくつもある。
星堕としそのものがそこへ落ちなくても、衝撃で地面や落下物が砕ければ、破片がどこまで届くのかは分からない。
清隆も同じ範囲を見ていた。
迎撃によって落下物を砕けば、その時点で危険が消えるわけではない。大きな一つが、小さな多数へ変わるだけの場合もある。
建物を壊すほどではない石でも、人間に高速で当たれば十分に危険だった。
良澄が周辺の村を一つずつ目で追う。
町には、すでに避難施設がある。
桜子もいる。
飛来物へ対応する役割も決まり始めている。
だが、地図の外側に点在する村には、そのどれもない。
同じものを今からすべての村へ用意する時間もなかった。
「村の人は、ここに残さない方がいいですね」
洋一が静かに結論を出した。
守る設備を増やすより、人を危険の外へ移す。
残された時間が三日なら、その方が確実だった。
王都まで運ぶには相当な数の馬車が必要になる。
老人や子供、病人のように自力で長距離を移動できない者もいる。
家畜や生活物資まで含めれば、一度ですべてを動かすことなどできない。
洋一は町と周辺の村を見比べた。
優先すべき場所は明確だった。
「町より、まず村から動かしましょう」
町には十二神承が残る。
地下避難施設もある。
なら、限られた輸送力は、自分たちが守れない場所から先に使うべきだった。
その方針が固まりかけたところで、建物の外から馬の足音が近づいてきた。
十三将からの使者だった。
各地へ散っていた彼らは、すでに馬車や騎獣、御者を集め始めている。
十分な数が揃ったわけではない。
それでも、最初の避難を始めることはできる。
アルディウスも報告を聞き、すぐに王都へ連絡を回すことを決めた。
アルトリウスには星堕としについて、すでに状況が共有されている。
王都側が政治的な理由で住民の受け入れを拒む可能性は低い。
国として動かすべき部分については、むしろ話は早かった。
問題になるとすれば、その決定が一人ひとりの生活へ届いたあとだった。
◇
避難は、命令を出せば終わるものではなかった。
最初の村では、話を聞いた者の多くが素直に準備を始めた。
星堕としについて知らない者もいた。
それでも、王都からの命令だけではなく、八傑や十三将が直接説明に来ている。
さらに、少し前まで敵だった十二神承まで避難を手伝っている。
何もないとは考えにくかった。
問題は、何を持っていくかだった。
「牛はどうするんだ」
農家の男が、納屋の前から動かなかった。
「置いていったら死んじまうかもしれん」
それは財産の話でもあった。
同時に、長く世話をしてきた生き物の話でもある。
智希は牛を見た。
怯えてはいない。
ただ、いつもと違う人の動きに落ち着かない様子だった。
「全部は無理でも、逃がす場所考えよう」
人間と同じ馬車へ載せる必要はない。
星堕としの予想地点から離れる方向へ追うだけでも、生存率は変わる。
クオンにも協力してもらう。
男はそれでようやく家へ戻り、必要なものをまとめ始めた。
別の家では、老人が動こうとしなかった。
「わしはここでいい」
生まれてから一度も村を離れたことがないという。
王都へ行ったこともない。
自分だけ助かって、家がなくなるくらいなら残ると言う。
良澄は急かさなかった。
隣へ座り、話を聞いた。
家、亡くなった妻、息子が直した屋根、孫が傷を付けた柱。
老人が守りたいのは建物そのものではなかった。
そこに積み重なった時間だった。
「戻ってきましょう」
良澄がそう言った。
家を捨てろとは言わなかった。
「三日だけ、ここを空けましょう。それで、終わったら戻ってきましょう」
老人はすぐには答えなかった。
長い時間、家を見ていた。
やがて立ち上がる。
「……戻れるんだな」
「戻れるように、僕たちが残ります」
それで老人は荷物をまとめ始めた。
説得に時間は掛かった。
だが、そういう時間なら使う価値があった。
すべてが同じように進んだわけではない。
馬車が集められ始めると、自分の荷物を先に積もうとする者も現れた。
村の中でも大きな土地を持つ男だった。
使用人たちに命じ、箱を何個も運ばせている。
衣類ではない、食料でもない。
どう見ても、人が生きるために必要な量を超えていた。
十三将の一人が止める。
『それは置いていけ』
「何を言っている。これは私の財産だ」
『人を運ぶ』
「次の馬車を使えばいいだろう」
『次も人を運ぶ』
男の顔が険しくなる。
「私はこの村にどれだけ税を納めていると思っている!」
周囲の者たちが手を止めた。
少し離れたところでは、子供たちが先に馬車へ乗せられている。
足腰の弱い老人もいる。
十三将は男の前に立ったまま動かなかった。
『だから何だ』
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも、男が一歩下がる。
『その箱一つで、何人乗れる』
「これは――」
『何人だ』
答えは出なかった。
『降ろせ』
男はなおも何か言おうとした。
だが、十三将の後ろには八傑もいる。
さらにその向こうには、ヴァルネシア軍を一度止めた十二神承までいる。
力で争えばどうなるかなど、考える必要もない。
箱は馬車から降ろされた。
その一方で、別の村では正反対の者もいた。
地域をまとめる立場にある女性が、自分の家で使っていた馬車をすべて出した。
荷台に積んでいた私物まで降ろしている。
「私は最後で構いません」
洋一が彼女を見る。
「でも、あなたも避難対象ですよ」
「歩けます。それに、この辺りの家を回って、残っている者がいないか確認しなければ」
自分の立場を、先に逃げる理由には使わない。
最後まで残るために使っている。
洋一は名前を聞いた。
今すぐ何かを返せるわけではない。
それでも覚えておく必要があると思った。
非常時に何を選ぶかは、その人間をよく表す。
「分かりました。ただし、本当に最後まで残らないでください」
「もちろんです」
「約束ですよ」
女性は笑って頷いた。
輸送の順番は、途中で明確に決められた。
子供、高齢者、病人や怪我人、妊婦や乳幼児を連れた者、自力で長距離を移動することが難しい者。
そこから、残った者たちを順番に運ぶ。
身分は関係ない、金も関係ない。
歩ける者は後、自分で動ける者は、動けない者へ場所を譲る。
反発がなかったわけではない。
それでも、多くの者は理解した。
目の前で、自分より弱い者が馬車へ乗せられていく。
その光景を見ながら、自分だけ先に乗せろと言える者は多くなかった。
◇
二日目の夜には、周辺の村からかなりの人数が消えていた。
王都へ向かう馬車の列が街道を埋める。
空になった馬車は戻り、また人を乗せる。
十三将はほとんど休まず、その流れを維持していた。
八傑も各地へ散っている。
兵士たちは荷物を運び、老人を支え、子供を抱き上げた。
昨日まで戦うために使われていた力が、今は人を逃がすために使われている。
町でも避難が始まった。
こちらは王都へ全員を送るわけではない。
十二神承が防衛する。
ただし、戦いに必要のない者を地上へ残す理由もなかった。
地下避難施設へ入る者、王都へ向かう者。
状況に応じて分けられていく。
市場の店も、一つずつ閉じていった。
商品を片付ける時間は最低限しかない。
腐るもの、持ち出せるもの、置いていくしかないもの。
それぞれの店主が判断し、最後に戸を閉める。
彰人は、その中に見覚えのある店を見つけた。
串焼きの店だった。
昨日は肉の焼ける匂いが漂い、人が並んでいた。
今は火が落とされている。
店主が最後の荷物を抱えて外へ出てきた。
彰人は少し離れたところで、その様子を見ていた。
隣にはセレスティアがいる。
彼女も同じ店を見ていた。
昨日、二人で食べた場所。
ほんの一日前のことなのに、今はまったく違う景色に見える。
『……静かですね』
「ですね」
彰人はそれ以上言わなかった。
守る。
言葉にするのは簡単だった。
だが、本当に守りたいものは建物だけではない。
あの店主が戻ってきて、また火を起こす。
市場に人が戻る。
昨日と同じように、誰かが串焼きを買う。
そこまで戻って、初めて守れたと言える。
セレスティアが歩き出す。
彰人も隣へ並んだ。
昨日のような軽い会話はなかった。
必要がないだけだった。
最後の馬車が町を離れたのは、さらに時間が経ってからだった。
残っている者を確認する。
家、学校、市場、養護院。
何度も見回った。
取り残された者はいない。
地下施設にも、必要な物資が運び込まれている。
良澄は救護場所を最終確認した。
優斗は迎撃位置を決めた。
恭平と智希は町の中を実際に走り、どこを通れば最短で移動できるか確認した。
彰人は南東側の岩場までの距離をもう一度測った。
洋一はテンレイで町の外周を回り、地上からでは見落とす場所を確認した。
清隆は地下施設の構造を再点検する。
雅史は避難者名簿と、王都へ向かった者たちの記録を照合した。
行人は地底湖で得た情報を整理し続けた。
智臣は時間を置いて何度か観測し、接近するものの位置を追った。
誤差はある。
だが、止まってはいない。
確実に近づいている。
そして怜司は。
町の端に立って、空を見ていた。
まだ何も見えない。
青い空、雲。
いつもと変わらない景色だった。
「兄貴」
彰人が後ろから声を掛ける。
「ん?」
「何見てんの?」
「空」
「それは見たら分かるわ」
彰人も隣へ立った。
同じ方向を見る。
何もない。
「来てる?」
「来てるんちゃう?」
「適当やな」
「智臣が三日言うてたやん」
「兄貴が感じてるか聞いてんねん」
怜司は少し考えた。
考える必要があることなのか、自分でもよく分かっていない顔だった。
「近くなってる気はする」
「止められそう?」
彰人は軽い調子で聞いた。
そこに、切迫した響きはなかった。
怜司も空を見たまま答える。
「見てみんと分からんなぁ」
「そらそうか」
「うん」
それで会話は終わった。
どうやって止めるのか、何を使うのか。
どれほど大きければ危険なのか。
彰人は聞かなかった。
怜司も考えていなかった。
必要になれば、そのとき考える。
二人にとっては、それで十分だった。
◇
町の夕暮れは、昨日までとは違っていた。
煙突から上がる煙が少ない。
市場から声が聞こえない。
学校にも子供はいない。
家々の窓に明かりは灯らず、街路を歩く者もほとんどいない。
生活だけが、一時的に町から抜け落ちている。
それでも、捨てられた町ではなかった。
戻るために空けた町だった。
王都へ避難した者も。
地下で待つ者も。
誰も、ここを失うために離れたわけではない。
町の中央に十二神承が集まる。
ヴァルネシア側にも、防衛に必要な者だけが残った。
三柱。
八傑。
必要最低限の兵。
それぞれが最後の確認を終えている。
地図には、もう新しく書き込む余白がほとんどなかった。
避難経路。
防御地点。
迎撃位置。
地底湖。
予想される落下地点。
周辺村。
すべてが一枚の上で繋がっている。
洋一はそれを見渡した。
完璧ではない。
何が落ちてくるのか、まだ分からない。
どれほど大きいのかも分からない。
星堕としが落ちたあと、何が起きるのかも分からない。
それでも、人は逃がした。
守る場所も決めた。
破片への対応も決めた。
救護の準備もした。
今できることは、ほとんどやった。
「これで、一旦ですね」
洋一の言葉に、何人かが頷いた。
清隆は最後まで地図を見ていた。
優斗は外へ目を向ける。
桜子は地下施設の入口を確認した。
彰人の視線は、一瞬だけ閉じた市場へ向いた。
セレスティアも同じ方向を見ている。
行人は地底湖で見た存在を思い出していた。
恐れもせず、逃げようともせず、ただそこにいた新しい概念体。
あれを目指して、何かが来ている。
残された時間は、およそ三日。
それ以上短くなる可能性もある。
誰も楽観はしていなかった。
だが、焦ってもいなかった。
やるべきことが見えている間は、それを一つずつ終わらせればいい。
あとは、来たものを見てから決める。
町の向こうへ日が沈んでいく。
人のいなくなった家々が、長い影を落とす。
昨日まで日常だった場所に、これから何が起こるのか。
まだ誰にも分からない。
ただ、その日常をもう一度ここへ戻すための準備だけは終わっていた。




