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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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22/37

もう、始まっている

 ヴァルネシアでの調査は、その日も朝から続いていた。

 王都を離れてから、すでにいくつかの村と町を回っている。

 地図の上では小さな印と名前でしかなかった場所も、実際に足を運べば一つとして同じではなかった。

 森の中へ家々が入り込むように並ぶ集落もあれば、広い畑を囲むように道が延びる村もある。

 街道沿いに商店が集まり、周辺の村から人や荷物が集まることで大きくなった町もあった。


 そして、そのどこにも人が暮らしている。


 数日前まで敵だった日本から来た者たちを警戒する者もいれば、王都からの知らせを聞き、遠巻きに興味深そうな視線を向ける者もいた。

 子供に至ってはもう少し素直で、見慣れない服装の十二神承を見つけると、大人の陰から隠れるようにして覗き込んでくる。


 十二神承側に掛けられている翻訳の術も、そのまま機能していた。

 セレスティアたちだけではない。初めて会う住民が話す言葉も意味として理解でき、こちらの言葉も相手へ届く。

 この世界へ来た当初、言葉一つ通じなかったことを考えれば、それだけでも調査の難しさは大きく違っていた。


 この日訪れた町は、これまで回った場所の中では比較的大きかった。

 老師から聞いた情報では、かつてここは小さな村だったらしい。

 しかし、老師がどれほど長い時間を生きていたのかを考えれば、その記憶を現在の規模へそのまま当てはめることはできない。

 長い年月の中で人が増え、道が増え、建物が増えた。

 今では周辺の集落から人が集まる程度には大きな町になっている。

 中心部には石造りと木造の建物が混在し、道沿いには商店が並ぶ。

 町の外へ向かえば建物の間隔が広がり、その先には畑が続いていた。さらに遠くには森があり、反対側には水面を目で追える程度の幅を持つ川が流れている。


 馬車を降りた一行は、町の入口に近い広場へ集まった。

 雅史が地図を広げると、自然にその周囲へ人が寄る。

 十二神承だけではない。セレスティアやフィルネ、ゴルガたちも同じ地図を覗き込んでいた。

 昨日までに調べた場所には、すでにいくつもの印がある。

 今日訪れた町には、まだほとんど何もない。

 雅史はまず、町の中心部に記された建物を確認した。


「僕は町長さんに会ってみるよ。昔からここに住んでる人を紹介してもらえれば、町がどう変わったかも聞けると思う」


 隣で地図を見ていた智臣が、町の外側を流れる川へ目を向ける。

 過去の地形を聞けるなら、水路や川筋が変わっていないかも確認できる。雅史が記録を集め、そこから現地で見るべき場所を拾う方が効率はよかった。


「俺も行く」


 雅史が頷き、二人の行き先が決まる。

 桜子が見ていたのは、別の場所だった。

 町の中に学校らしい施設があり、少し離れた場所には養護院も記されている。


「うちはこっちやな。星落ちてくんの分かってんのに、逃げる場所決まってへんかったら話ならんし」


 良澄もその二か所から周囲の道へ視線を移した。

 避難する者が全員、自分の足で同じ速度で動けるとは限らない。

 途中で怪我人が出ることもあれば、最初から介助を必要とする者もいる。


「僕も桜子さんと行こうかな。避難する途中のことも見ておきたい」

「ほな決まりやな」


 少し離れたところでは、智希が地図よりも町の外を見ていた。

 畑の向こうに森が続いている。

 人間が逃げるとき、そこにいる動物がどう動くのか。

 昨日までの調査で見てきたものを考えれば、そちらも確認しておきたかった。


「僕は外を見てくるよ。クオンにも聞いてみる」


 すでに本人の中では、見る場所が決まっているらしい。

 彰人は残った地図へ視線を戻した。

 町の中心ではない。

 建物が減り、人の生活圏から外れていく方向を探していく。


「俺は、人おらんとこ見てみます」


 雅史が顔を上げる。


「星堕としの?」

「何が落ちてくるか分からんけど、真正面から止める以外にも、力の向き変えたり逃がしたりできるかもしれんでしょ」


 彰人の指が町の中心から外へ滑っていく。

 その先に家があれば使えない。畑や街道があっても、被害を移すだけになる。

 その動きを見ていたセレスティアが、地図の一角へ手を伸ばした。


『でしたら、こちらを見てみませんか』


 指したのは町の南東側だった。


『この先は次第に建物が減ります。さらに進めば岩場があり、その向こうは森です』

「人は?」

『大きな集落はありません。ただ、実際に確認した方がよいでしょう』


 彰人は地図とセレスティアを交互に見る。


「ほな、案内お願いしていいです?」

『はい』


 二人の行き先も、それで決まった。

 フィルネは何も言わなかった。

 ただ、セレスティアの隣にいる彰人へ一度だけ視線を向け、それから自分も周辺を確認するように町へ目を移した。

 最後まで行き先らしい行き先を決めていなかったのは、怜司だった。


「兄貴は?」


 彰人に聞かれ、怜司は町の外を見たまま答える。


「その辺見てくる」

「どの辺やねん」

「その辺」


 彰人は少し待ったが、それ以上の説明は出てこなかった。

 目的地を決めて何かを探すというより、歩きながら気になったものを見るつもりなのだろう。


「……聞いた俺が悪かったわ」

「なんでや」


「じゃあ、お昼くらいに一度ここへ戻ろうか。何かあったら、それより前でも」


 それぞれが頷く。

 昨日までと同じように、同じ場所を見るために別々の方向へ歩き始めた。


     ◇


 雅史と智臣が町長を訪ねると、話は思っていたより早く進んだ。

 王都から事前に連絡が届いていたことも大きい。

 十二神承が何者なのか、細かな事情まで共有されているわけではない。

 それでも、星堕としに備えて各地を調べていることまでは伝えられていた。

 町長は二人の話を最後まで聞くと、すぐに何人かの名前を挙げた。


『それなら、私より詳しい者がいます』

「昔からここに住んでいる方ですか?」

『ええ。少し時間をいただければ、他にも何人か集められるでしょう』

「助かります。急がなくても大丈夫ですよ」


 雅史がそう答えたものの、一時間も経たないうちに十人を超える年配の住民が集まった。

 案内されたのは、町の中央にある集会所だった。

 普段から住民同士の話し合いや祭事の準備などに使われているらしく、長い机と椅子がいくつも置かれている。

 杖をついて入ってくる者もいれば、まだ足取りのしっかりした者もいる。

 集められた老人たちは、最初こそ十二神承の二人を珍しそうに見ていた。

 しかし雅史が地図を広げ、昔の町について知りたいと説明すると、その空気は少しずつ変わっていった。


「正確じゃなくても大丈夫です。覚えている範囲で教えてください」


 雅史が指先で現在の町を囲む。


「昔と今で、変わった場所はありますか?」


 一人が話し始めると、隣の老人が訂正する。

 さらに別の者が、それより古い記憶を持ち出した。


 今は畑になっている場所に森があったこと。

 逆に、人が住まなくなって草地へ戻った場所があること。

 古い街道、埋められた井戸、建て替えられた橋。

 今では使われなくなった道。

 雅史は一つずつ聞きながら、現在の地図へ過去の情報を重ねていった。

 話が食い違っても、どちらかをすぐに間違いとはしない。


「その頃には、今の橋はありました?」

『いや、まだだったと思う』

『あったぞ。あの橋が流されたのは、その後だ』

『お前、それは前の橋だ』

『そうだったか?』


 老人たちの間で別の話が始まる。

 雅史は止めなかった。

 誰が正しいのかを決めることより、何を基準に記憶しているのかを拾う。

 祭りの年。橋が流された年。大きな火事。領主が変わった時期。

 それぞれの記憶にある目印を繋いでいけば、曖昧だった時間にも少しずつ順番が生まれていく。

 智臣はその横で、必要なところだけを拾っていた。


『そういえば、大水もあったな』


 一人の老人が何気なく口にした言葉に、智臣の視線が動いた。


「大水?」

『川だよ。今は随分大人しくなったが、昔はよく暴れた』


 窓の向こうを指す。

 町の外を流れている川だった。

 智臣は地図を自分の方へ少し引き寄せた。


「どこまで来た?」

『昔はこの辺りまでだ』


 老人の指が、現在の川筋から離れた場所へ置かれる。


『いや、もっとだろう』


 別の老人が身を乗り出した。


『ここに家があった。半分流されたんだから』

『ああ、そうだった』


 智臣は二人が示した場所を見比べた。

 現在の地形だけを見れば、そこまで水が来るとは考えにくい。

 川筋そのものが変わった可能性もある。


「川、見てくる」


 椅子から立ち上がった智臣を、雅史が見上げる。


「一人で大丈夫?」


「ああ。流れと地形を見るだけだ」


 智臣は扉へ向かいかけて、一度だけ足を止めた。


「昔の水位も聞いといて」

「分かった」


 雅史が頷く。

 それを確認してから、智臣は集会所を出ていった。

 何に使える情報なのかは、まだ分からない。

 星堕としがどこへ落ちるかも、何が起きるかも分からない以上、今の段階で必要なものだけを選ぶこと自体が難しかった。

 だから、雅史は捨てない。

 今は意味を持たなくても、後から別の情報と繋がるかもしれない。


「では、その大水のときのことを、もう少し聞かせてもらえますか?」


 老人たちへ向き直る。

 話は、そこからさらに昔へ遡っていった。


     ◇


 桜子が最初に気にしたのは、建物そのものではなかった。

 学校の敷地へ入ると、休憩中らしい子供たちが広場を走り回っている。

 年齢にはかなり幅があり、日本でいう小学生くらいの子供から、中学生に近い年頃まで同じ場所へ通っているらしい。

 見慣れない桜子たちに気づくと、何人かが足を止めた。

 近づいてくる子はいない。

 けれど、建物へ戻る様子もなく、少し離れたところからこちらを見ている。

 桜子はその様子を見ながら、広場から門までの距離を目で追った。


 子供が何人いるのか。

 一斉に動いたとき、どこで詰まるのか。

 小さい子と大きい子が同じ速度で歩けるのか。


 フィルネが子供たちへ声を掛けると、ようやく何人かが建物へ戻っていった。

 それでも、扉の陰から顔だけを出している子がいる。


「気になるんやろな」


 桜子が小さく笑う。


『珍しいのでしょう』


 フィルネの声にも、咎めるような響きはなかった。

 桜子は教師から渡された簡単な見取り図へ視線を戻した。

 避難そのものを考えたことがないわけではない。

 火災や豪雨、魔物が町へ近づいた場合には、子供たちを集めて移動させる手順がある。

 問題は、その行き先が状況ごとに違うことだった。

 教師が判断し、その場で子供たちへ指示する。

 普段なら、それでも間に合うのかもしれない。

 だが、星堕としが来たときにも同じ方法でいいのか。


 桜子は広場の中央から二つの門を見比べた。

 一方は町の中心へ向かっている。

 もう一方は、住宅が少ない外周へ続いていた。


 子供が教師の指示を待ってから動く。

 教師によって判断が違う。

 その途中で家族を探しに行こうとする子が出るかもしれない。

 頭の中で人の流れを置いてみると、すぐにいくつもの詰まりが見えた。


「行く場所、先に一個決めた方がええな」


 桜子の言葉に、教師が少し困った顔をした。


『ですが、状況によって安全な場所が変わります』

「最終的に逃げる場所は変わってもええねん」


 桜子は外周側の門へ歩いた。

 門を出れば道幅はそれほど狭くない。

 少し先には建物が減り、人数を数えられそうな空間もある。


「最初に集まる場所だけ決めといたらええ。先生おらんくても、子供だけでそこまで行けるようにしとく」


 誰かの判断を待たなければ動けない状態より、一段目だけでも自分たちで動ける方がいい。

 教師たちも桜子が何を気にしているのか理解したらしい。

 見取り図を囲む位置が少し変わった。

 フィルネも外周側へ視線を向ける。


『あちら側なら、町の中心から離れることもできます』

「せやろ。ただ、そこが安全かはまだ分からへん」


 だから、避難所ではなく集合地点。

 そこで人数を確認し、その時点で安全な方向へ次に動く。

 桜子が地図へ一本の線を引いたところで、良澄がやってきた。

 すぐには話へ入らない。

 桜子の引いた線と実際の道を見比べ、校庭で走る子供たちへ視線を移した。

 小さな子が転び、近くにいた年上の子が手を貸している。

 その光景を見たあとで、良澄は桜子の横へ立った。


「全員が同じ速さでは動けないね」

「せやねん」


 桜子が地図を渡す。

 良澄は線を目で追いながら、実際にその経路を歩いてみた。

 学校を出て、町の外側へ向かう。

 大人なら大した距離ではない。

 けれど、小さな子供や体調の悪い者にとっては違う。


 星堕としの前兆だけで混乱が起きれば、転倒する者も出る。

 怪我人一人をその場で囲めば、後ろから来る人の流れまで止まる。

 良澄は途中にあった建物の前で足を止めた。


「ここ、使えないかな」


 フィルネが建物を見る。


『倉庫です』

「中には何が?」

『町で使う備品が中心だったはずです』


 良澄は入口の幅を確認し、窓の位置を見る。

 水を運べる場所が近くにあるか、日差しを避けられるか。重傷者を寝かせるだけの空間が取れるか。

 単に「治療できる場所」があればいいわけではない。

 避難する人の流れを止めず、そこからさらに別の場所へ運び出せる必要がある。


「軽い怪我ならここで対応して、そのまま避難に戻ってもらえると思う」


 良澄は地図の線から少し外れた場所へ印をつけた。


「歩けない人は、避難してる人たちと一緒に動かさない方がいいかな。運ぶ人も必要になるし」

『治癒術を扱える者を配置できます』


 フィルネの返答を聞いて、良澄はすぐに人数を尋ねるのではなく、少し考えた。

 治癒術を使える者にも限界がある。

 全員を一か所へ集めれば、別の場所で怪我人が出たときに対応できなくなる。


「何人いるか確認してから決めたいかな。ここだけに集めるのは怖いから」

『分かりました。町側にも確認します』


 そこへゴルガが近づき、倉庫の中を覗き込んだ。

 入口から内部を見回し、壁の一部を軽く叩く。


『ここを抜けば、運び込みやすくなる』


 桜子が振り返った。


「まだ壊したらあかんで」

『分かっている』


 ゴルガは真顔だった。

 そのまま壁の構造を見ている。


『必要になれば、すぐに抜ける』

「持ち主に聞いてからな?」

『当然だ』

「ほんまに?」

『私は何だと思われている』


 良澄が思わず笑った。

 数日前まで、正面からぶつかれば建物どころでは済まない相手だった。

 その男が今は、救護所にする倉庫の壁をどこまで壊していいか確認している。

 桜子も同じことを考えたのか、少しだけ口元を緩めた。


「ほな、必要になったら頼むわ」

『任せろ』


 敵だったという事実が消えたわけではない。

 それでも今、見ている方向は同じだった。


     ◇


 智希が合流したのは、避難経路が地図の上だけではなく、実際の道として形になり始めた頃だった。

 桜子から説明を受ける間も、智希の視線は道の先へ向いている。

 町の外へ抜けた先には畑があり、その向こうに森がある。

 人間にとっては逃げやすい方向でも、そこに暮らすものにとって同じとは限らない。


「この道を使うんだよね?」

「今んとこはな。ただ、ここが安全かはまだ分からへん」


 智希は地図を受け取ったが、長くは見なかった。

 実際の道へ視線を戻し、そのまま外へ向かって歩き始める。


「ちょっと見てくる」

「またみんな勝手にどっか行くなあ」

「姐さんも朝からずっと歩いてるじゃん」

「うちはちゃんと行き先決まっとる」

「僕も決まってるよ」

「どこ?」

「森」

「広いわ!」


 返事の代わりに手を振り、智希は町の外へ出た。

 途中でクオンが追いつく。

 並んで歩きながらも、智希は会話より地面を見ていた。


 土の柔らかい場所。

 草が倒れている場所。

 人間が作った道とは違う、細い筋。

 畑を抜けたところでしゃがみ込む。

 そこには、人間のものではない足跡が残っていた。

 昨日まで別の村で見たものとも違う。


「これ、よく来る?」


 クオンも足跡を確認した。


『夜になれば、この辺りまで出てくる』


 智希は足跡の向きを追う。

 ちょうど、桜子たちが避難経路として使おうとしている道を横切っていた。

 昼間なら問題がなくても、星堕としがいつ来るかは分からない。

 暗い中で大勢の人間が一斉に移動し、そこへ怯えた野生動物が飛び込めば、どちらにも被害が出る。

 追い払えばいい、とは智希は考えなかった。

 もともとここは彼らが使っている場所だ。

 人間が突然大勢で通るからといって、傷つけて退かせる理由にはならない。


「別の方へ行ってもらえないかな」


 智希が森を見る。

 クオンは少しだけ考えた。


『直接言葉を交わせるものばかりではない』

「うん」

『だが、危険が近づいていることを伝え、別の場所へ誘導することはできる』


 そこで初めて智希がクオンを見る。


「じゃあ、それお願いしていい?」

『随分簡単に頼むな』

「できない?」

『できる』

「なら、それが一番いいじゃん」


 智希にとっては迷う理由がなかった。

 できなければ別の方法を探す。

 できるなら、傷つけない方法を選ぶ。

 それだけだった。

 クオンは少しの間、智希を見ていた。

 やがて森へ視線を戻す。


『分かった。やってみよう』

「ありがとう」


 二人はそのまま木々の間へ入っていった。

 人間の避難経路を作るために、動物の避難経路を潰してしまっては意味がない。

 少なくとも智希にとっては、それも同じ調査の中に含まれていた。


     ◇


 彰人とセレスティアは、町の中心から外周へ向かって歩いていた。

 こちらも調査だった。

 少なくとも、二人ともそのつもりで歩き始めている。

 中心部では人と荷車が頻繁に行き交っていたが、一本道を外れるだけで人通りはかなり減った。

 住宅も少なくなり、建物同士の間隔が広がっていく。

 彰人は歩きながら何度も振り返った。

 道幅だけではない。

 そこから見える家の位置、人の流れ、路地の向きまで確認している。


『何を見ているのですか?』


 セレスティアが尋ねた。


「逃がした先です」

『力を、ですか?』

「はい」


 彰人は道の先へ視線を戻した。


「真正面から全部止めようとしたら、止める側にも同じだけ負担掛かるんですよ。せやったら、少し横に流した方が楽なこともある」


 手を上げ、正面から来たものを斜めへ逸らすように動かす。


「ただ、それやって向こうに家あったら、俺らが町壊すことになるんで」


 セレスティアも彰人が示した方向を見る。

 少し先に民家がある。

 さらに向こうには商店が集まる通りがあった。


『ここでは難しいですね』

「ですよね」


 二人で歩きながら、候補から外していく。

 すぐに答えを出すための調査ではない。

 使えない場所を一つずつ消すことも、彰人にとっては必要な情報だった。

 やがて、建物が大きく減る方向へ出る。

 セレスティアが少し先を指した。


『この先なら、南東へ抜けられます』

「何があります?」

『岩場です。その先には森がありますが、大きな集落はありません』


 彰人の目が変わる。


「そこ見たいです」

『分かりました。案内します』


 そのまま向かおうとして、二人の足が市場の前で少しだけ遅くなった。

 王都ほど大きくはない。

 周辺の村から運ばれてきた野菜や肉、布、日用品が並び、店先では客と店主が値段について話している。

 彰人は通り過ぎながら、何となく左右を見ていた。


「こういうとこは、あんま変わらんな」

『日本にもありますか?』

「市場みたいなんはありますよ。こういう形は減ってると思うけど」

『減っているのですか?』

「でっかい店でまとめて買えるんですよ。食べ物も服も、日用品も」


 セレスティアは少し考えた。


『この市場全体が、一つの建物の中にあるようなものですか?』

「でかいとこなら、そんな感じです」

『それなら、あまり歩かなくても済みそうですね』

「いや、中でめっちゃ歩きます」

『……大きいのですね』

「めっちゃでかいとこもありますよ」


 日本の商業施設を知らない相手へ説明しようとすると、意外に難しい。

 彰人がどう言えば伝わるか考えていると、香ばしい匂いが流れてきた。

 反射的にそちらを見る。

 肉らしいものを串に刺し、炭火のようなもので焼いている店があった。

 表面へ塗られた調味料が熱で焦げ、甘辛い匂いが辺りへ広がっている。


「……うまそう」


 彰人が思わず呟く。

 隣を見ると、セレスティアも店を見ていた。


『食べますか?』

「ええんです?」

『まだ時間は掛かりますから』

「ほな……一個」


 調査中ではある。

 だが、朝から歩き続けている。

 食事を取ることまで禁じられているわけではない。

 セレスティアが店主へ声を掛け、二本受け取った。

 そのうち一本を彰人へ差し出す。


『どうぞ』

「ありがとうございます」


 受け取った串は思ったより熱かった。

 一口食べる。

 肉そのものは淡白だが、表面の香草と塩気が強い。

 噛むほどに脂が出て、見た目よりずっと食べやすかった。


「これ、うまいですね」


 彰人が素直に言うと、セレスティアの表情が僅かに緩んだ。


『よかったです』

「何の肉なんです?」


 その問いに、セレスティアがすぐには答えなかった。

 彰人の手が止まる。


「……なんで黙るんです?」

『知らない方がいいかもしれないと思いまして』

「待って。それ言われたら逆に怖いやん」

『以前、日本では食べないものも多いと聞きましたので』

「いやいやいや」


 手にした串を見る。

 すでに半分近く食べている。


「食い終わってから聞きます」


 セレスティアの口元が動いた。

 最初は笑いを堪えようとしたようだった。

 けれど、彰人が本気で串を見つめているのが可笑しかったのか、やがて小さく声が漏れた。


『ふふっ』

「笑うとこちゃいますって」

『すみません』

「絶対思ってないでしょ」

『……少しだけ』

「認めるんや」


 彰人も笑った。

 そのまま二人で市場を歩く。

 途中で道幅を確認し、人の流れを見る。

 横道がどこへ繋がるのかをセレスティアへ尋ね、彰人が地図へ書き込む。

 調査はしている。

 しているのだが、その合間に会話が途切れなくなっていた。


『日本には、温泉がたくさんあるのですよね?』

「ありますよ。めちゃくちゃ」


 先日のことを思い出したのか、セレスティアの目が少し明るくなる。


『王都に作っていただいたものとは違うのですか?』

「基本は同じですけど、場所によって全然違いますね。山にもあるし、海の近くにもあるし」

『海の近くにも?』

「海見ながら入れるとことか」


 セレスティアが足を止めかけた。


『海を見ながら、温泉に入るのですか?』

「ありますあります。露天風呂で」


 彰人はそこまで言ってから、日本語のままでは伝わりにくいことに気づいた。


「外に風呂があるんですよ」

『外に?』

「そう。景色見ながら入る」

『……それは』


 セレスティアが想像するように少し遠くを見る。


『行ってみたいですね』


 何気ない一言だった。

 彰人も最初は深く考えなかった。


「来れるようになったら、行ったらええんちゃいます?」

『日本へ、ですか?』

「はい」


 答えたあとで、二人とも少しだけ黙った。

 数日前までなら、成立しなかった会話だった。

 セレスティアが日本へ来る。

 観光をする。

 温泉へ行く。

 そんな未来を考える前に、互いに戦うかもしれない状況だった。

 彰人は手にしていた串の最後の一口を食べた。


「まあ、その辺もこれからですけど」

『そうですね』


 セレスティアの声も少し柔らかかった。


「でも、来れるようになったら案内しますよ」


 彰人は深く考えずに続けた。


「温泉くらいなら」

『彰人さんが?』

「俺でよかったら」


 今度は、セレスティアの返事が少し遅れた。


『……お願いします』

「はい」


 それだけだった。

 それだけのはずだった。

 なのに、先ほどまで普通に続いていた会話が一度途切れた。

 彰人は理由が分からず、何となく前を見る。

 セレスティアも同じ方向を見ていた。

 市場を抜ける風が、彼女の髪を僅かに揺らす。

 気まずいわけではない。

 むしろ逆だった。

 何も話さなくても、そのまま並んで歩ける。

 昨日までなら、沈黙ができれば次の質問を探していた。

 今はその必要がなかった。

 しばらく歩いてから、彰人がふと気づく。


「あれ?」

『どうしました?』

「フィルネさんは?」


 朝には近くにいたはずだった。

 セレスティアも一度周囲を見る。


『先ほど、別の場所を確認してくると』

「いつ?」

『市場へ入る前くらいでしょうか』


 彰人は数秒黙った。

 以前にも似たことがあった。

 自分とセレスティアを見比べたフィルネが、明らかに気を遣って離れていったことがある。


「……またか」

『何がですか?』

「いや、なんでもないです」


 セレスティアは不思議そうに彰人を見た。

  市場を抜けようとしたところで、前方から見覚えのある人影が歩いてきた。


 雅史だった。


 町長たちからの聞き取りを終え、智臣のいる川へ向かう途中らしい。

 手には記録をまとめた紙を持っている。

 雅史も二人に気づいた。


「あ、彰人」

「雅史さん」


 彰人が返すと、雅史の足が止まった。

 視線が彰人からセレスティアへ移る。

 それから、二人の手元へ落ちた。

 彰人の串はもう食べ終えている。

 セレスティアの手には、まだ少し残っていた。


 雅史は何も言わない。

 ただ、もう一度二人を見る。

 その顔には、普段と変わらない柔らかな笑みがあった。

 だからこそ、彰人には妙に気になった。


「……何です?」

「何が?」

「いや、その顔」


 雅史は自分の顔を触るでもなく、少し首を傾げた。


「楽しそうでよかったなと思って」


 それだけだった。

 からかう調子でもない。

 含みを持たせているようにも聞こえない。

 それなのに、彰人はなぜか説明しなければならない気になった。


「いや、これ調査ですからね」

「うん」

「南東側に人おらん場所あるって聞いたから、そこ見に行く途中で」

「そうなんだ」

「串はたまたま市場通ったから買っただけで」

「彰人」


 雅史の笑みが少しだけ深くなった。


「僕、何も聞いてないよ」


 彰人の口が止まった。

 自分から全部説明していた。


「……最悪や」


 小さく呟いてから、隣を見る。

 助けを求めたわけではない。

 ただ、セレスティアなら少なくとも調査だったことは証明してくれる。

 そう思った。

 だが、セレスティアは彰人を見ていなかった。

 雅史が二人を見比べた意味に、途中で気づいたらしい。

 視線が市場の反対側へ逸れている。

 先ほどまで自然に動いていた耳も、今は僅かに伏せられていた。

 その先に、薄く赤みが差している。


「……セレスティアさん?」

『はい』


 返事はした。

 こちらは見ない。

 彰人の中で、嫌な確信だけが強くなる。


「分かってますよね?」

『何をでしょうか』


 声は平静だった。

 ただし耳は戻らない。

 雅史はその様子まで見ていたが、やはり何も言わなかった。

 記録を持ち直し、二人がこれから向かうらしい南東側へ視線をやる。


「僕は智臣のところへ行くね」

「はい」

「二人も気をつけて」

「……はい」


 それだけ告げて、雅史は横を通り過ぎた。

 彰人は数歩離れていく背中を見送る。

 からかわれてはいない。

 何一つ断定されてもいない。

 それなのに、真正面からいじられるより遥かに居心地が悪かった。


「……雅史さん、昔からああいうとこあんねん」

『優しい方だと思います』

「優しいですよ。めっちゃ優しい」


 彰人は一度そこで言葉を切った。

 まだ遠ざかっていく雅史の背中を見る。


「優しいから余計たち悪いねん……」


 セレスティアが僅かに首を傾げた。

 それから二人は再び南東へ歩き始める。

 先ほどまでなら、どちらからともなく会話が続いていた。

 今は少しだけ静かだった。

 彰人は地図を確認するふりをしながら、隣を見ないようにする。

 すると、少し前を歩いていたセレスティアが口を開いた。


『……ですが』

「はい?」


 足は止めない。

 こちらを見ることもない。


『楽しそうだった、という部分については』


 そこで一度、声が途切れた。

 彰人が思わず顔を上げる。

 セレスティアの耳が、また少しだけ伏せられていた。


『間違ってはいないと思います』


 今度は彰人の足が止まった。

 セレスティアはそのまま数歩先へ進む。


「……今それ言います?」

『調査を続けましょう』

「いや待って。セレスティアさん」


 追いつこうとすると、彼女の歩調がほんの僅かに速くなった。


「逃げてません?」

『南東はこちらです』

「絶対逃げてるやん!」


 返事はなかった。

 ただ、彰人の声が届くたびに、赤みの残る耳だけが小さく動いていた。

 追いつくことはできる。

 けれど、それ以上を追及するのはやめた。

 追及すれば今度は、自分が何を気にしているのかまで説明しなければならなくなりそうだった。


     ◇


 そんなことが起きているとは知らず、怜司は町の外周を歩いていた。

 目的地は決めていない。

 町を囲むように続く道を選び、時折そこから外れながら歩いている。

 人がどこまで住んでいるのか。

 畑がどこで終わり、森がどこから始まるのか。

 川はどちらへ流れ、道はどこへ繋がっているのか。

 調べようとしているというより、見ているだけだった。

 本人に尋ねても、おそらくそれ以上の説明は出てこない。

 その後ろを、ガルディオがついてきていた。

 最初から同行していたわけではない。

 町へ着いて間もなく、一人で外へ向かっていく怜司を見つけ、そのまま放っておく方が気になると判断したらしい。


「暇なん?」

『違う』

「ほな何してんの?」

『お前を見ている』

「なんで?」

『何をするか分からん』

「何もせえへんで?」


 ガルディオは答えなかった。

 怜司は気にせず歩き続ける。

 途中で道端にしゃがみ込み、見慣れない草へ指を伸ばした。

 葉の表面を軽く触る。

 立ち上がる。


『何かあったのか』

「別に」

『なら、なぜ止まった』

「気になった」

『何がだ』

「草」


 ガルディオは草を見る。

 何の変哲もない。

 少なくとも彼にはそう見えた。


『……そうか』


 それ以上聞くことをやめる。

 少しずつ、この男との会話に慣れてきていた。

 必要なことまで省略する。

 重要でないと思ったことは説明しない。

 本人の中では繋がっているのだろうが、他人には途中が見えない。

 それでも、嘘をついているわけではない。

 町の外周を半分ほど回ったところで、怜司がまた足を止めた。

 今度は地面を見ていなかった。

 顔が上がる。

 視線の先には空がある。

 雲はあるものの、天候が崩れるようには見えない。

 風も強くない。

 ガルディオは数歩先へ進んでから、怜司が止まったことに気づいた。


『どうした』


 返事がない。

 怜司は空を見たまま、少しだけ首を傾げている。

 何かを探しているようにも見えない。

 むしろ、自分の中へ入ってきた違和感の形を確かめようとしているようだった。


『八代怜司』

「んー」


 ようやく声が返る。


『何だ』


 怜司はすぐには答えなかった。

 空の一点ではなく、もっと広い範囲を見るように視線を動かす。


「なんか来る」


 その言葉で、ガルディオの空気が変わった。


『何がだ』

「分からん」


 いつもの答えだった。

 だが、怜司の視線は空から外れない。

 ガルディオも同じ方向を見る。


『どちらからだ』

「上やと思う」

『空から?』

「たぶん」

『いつだ』


 そこで怜司が初めて困ったように眉を寄せた。


「いつ……」


 時間を測っているわけではない。

 何日後。

 何時間後。

 そんな形で認識しているわけではなかった。

 ただ、遠くにあった何かが動き始めている。

 まだ到達していない。

 それでも、もう止まった状態ではない。


「もう?」


 ガルディオが怜司を見る。


『もう来るのか』

「いや」


 怜司は首を振った。


「来るんはまだやと思う」

『では、何が「もう」なんだ』

「始まってる?」

『何がだ』

「それが分からんねん」


 ガルディオは眉間へ皺を寄せた。

 しかし、今度は怒鳴らなかった。

 怜司の言葉を一つずつ頭の中へ置く。

 上から来る。

 まだ到達していない。

 だが、すでに何かが始まっている。


『少し黙っていろ』

「おう」


 怜司が素直に口を閉じる。

 ガルディオは空へ意識を向けた。

 目で見るだけではない。

 風の流れ。

 空気に含まれる魔力。

 普段なら意識する必要もないほど小さな変化。

 最初は何も分からなかった。

 怜司が何を感じたのかさえ見当がつかない。

 だが、一つだけ思い当たるものがあった。

 ガルディオはこれまで何度も星堕としの迎撃へ参加している。

 毎回、同じではなかった。

 前兆が明確なときもあれば、直前まで何も分からなかったこともある。

 だからヴァルネシアには、星堕としの正確な予測方法がない。


 それでも。


 経験した者にしか分からない程度の共通点はある。

 魔術を使うときに集まる力とは違う。

 もっと遠い。

 こちら側に存在していない何かが、世界へ近づいてくるときに生じる僅かな乱れ。

 ガルディオの呼吸が止まった。

 先ほどまで「何もない」と思っていた空の奥に、一度気づけば無視できないものがある。


『……まさか』


 怜司が横を見る。

 ガルディオは答えず、さらに意識を集中させた。

 記憶と照合する。

 一度ではない。

 二度でもない。

 過去に星堕としが起きたとき、自分が感じたもの。

 完全に同じではない。

 だが、近い。


『星堕としだ』

「やっぱそれ?」


 ガルディオが勢いよく振り返った。


『分かっていたのか!?』

「知らんで?」

『今、やっぱりと言っただろう』

「ガルディオが言うたから」

『では、お前は何を感じていたんだ』


 怜司は少し考えた。


「なんか来る」

『そこへ戻るのか……』


 ガルディオは額へ手を当てた。

 戦場で相対していたときとは別の意味で疲れる。

 だが、今は怜司の説明能力を追及している場合ではなかった。

 自分自身でも兆候を確認した。

 問題は、その早さだった。


『老師とやらの話では、一月ほど先ではなかったのか』

「そう聞いたで」

『まだ何日も経っていない』

「せやな」

『おかしいとは思わんのか』

「思うで」


 声は変わらない。

 けれど、怜司はもう空を見ていなかった。

 町の方を見ている。

 そこには先ほどまで歩いていた道があり、その向こうには建物が並んでいる。


『落ちる場所が分かるか』

「この辺やとは思う」

『町か』

「そこまでは分からん」


 ガルディオも同じ方向を見る。

 この町が、老師の言っていた場所。

 新たな概念体が生まれたとされる土地。

 偶然として切り捨てるには、条件が重なりすぎている。


『戻るぞ』

「おう」

『急ぐ』

「走る?」

『当然だ』


 ガルディオが先に駆け出す。

 怜司も地面を蹴った。

 数歩で横へ並ぶ。

 ガルディオが一度だけ隣を見る。

 怜司はいつもとほとんど変わらない顔をしていた。

 それでも、町へ向かう速度だけは先ほどまでとはまるで違っていた。


     ◇


 知らせを受けて戻ってきた者たちは、朝に集まった広場ではなく、雅史が老人たちから話を聞いていた集会所へ集まった。

 机の上には、すでに今日一日で増えた情報が並んでいる。

 雅史が書き込んだ過去の町。

 智臣が確認した川。

 桜子たちが引いた避難経路。

 救護地点の候補。

 智希が確認した森と動物の移動経路。

 彰人とセレスティアが見てきた、人の少ない方向。

 それまで別々に集めていた情報が、星堕としという一つの言葉によって急に同じ地図の上へ集まった。

 ガルディオの説明を聞き終えても、すぐに声を出す者はいなかった。


 一月ほど先。


 その前提で動いていた。

 今日一日で答えを出す必要はないと思っていた。

 明日も別の場所を見ればいい。

 足りなければ、その次の日もある。

 その時間が、突然なくなった。


「……早すぎへん?」


 彰人が地図を見たまま呟く。

 驚いているというより、頭の中で予定を組み直している顔だった。


「行人から聞いた話でも、一月くらいだったはずだよ」


 雅史が自分の記録を開く。

 そこに書かれている内容は変わっていない。

 新しい概念体。

 この土地。

 次に狙われる可能性。

 そして、およそ一月。

 情報が間違っていたのか。

 何か別のことが起きたのか。

 今の段階では判断できない。


「原因考えるんは後やな」


 桜子が言った。


「来るんやったら、そっち先や」


 その言葉に、清隆がいないことを全員が改めて意識する。

 日本側へ戻った五人にも、この情報を伝えなければならない。

 雅史は地図の位置と、ガルディオから聞いた兆候をもう一度整理した。


「僕が日本側へ行くよ」


 彰人が顔を上げる。


「雅史さんが?」

「うん。怜司に電話してもらうよりは伝わると思う」

「なんでや」


 怜司が不満そうに見る。

 彰人が兄を見る。


「兄貴、洋一さんに何て言うん?」

「星堕とし来る」

「いつ?」

「まだ」

「どこ?」

「この辺」

「ほら!」

「合ってるやん」

「間違ってへんけど情報が足らんねん!」


 張り詰めていた空気が一瞬だけ緩んだ。

 雅史も小さく笑ったが、すぐにガルディオへ視線を戻す。


「一緒に裂け目まで来てもらえますか?」

『私もか』

「星堕としの兆候について、僕が説明するより確実だから」


 ガルディオは少し考えただけで頷いた。


『分かった』


 問題は移動だった。

 馬車では時間が掛かる。

 そう話しながら集会所の外へ出たところで、少し離れた場所から声が届いた。


『私が運ぼう』


 雅史が声の方を見る。

 そこにいたのはメーダだった。

 建物の中へ入ってこられる大きさではない。

 もし先ほどの集会所で不用意に動けば、机どころか壁まで巻き込む。


「速いの?」

『馬車と比べる必要はない』


 雅史はメーダの身体を見る。

 普段の動きからは、そこまで高速で移動する姿を想像しにくい。


「じゃあ、お願いしようかな」

『急ぐのだろう』

「うん」

『なら乗れ』


 雅史は素直に従った。

 そして数分後。

 自分がもう少し具体的に速度を確認しておくべきだったことに気づいた。

 町が後方へ消えていく。

 森が一本一本の木ではなく、巨大な緑の塊として流れていく。

 ガルディオは慣れているのか、特に反応していない。

 雅史は風に目を細めながら前を見る。


「……これ、まだ出る?」

『出る』

「そうなんだ」

『急ぐと言ったはずだ』

「言ったね」


 雅史は一度だけ息を整えた。


「じゃあ、お願い」


 次の瞬間、さらに景色が速く流れ始めた。

 声を上げるほどではない。

 ただ、帰りも同じ移動になる可能性については、少しだけ心の準備が必要だと思った。


     ◇


 裂け目へ到着した二人を、アルディウスが迎えた。

 ヴァルネシア側の警備を担当していた彼は、メーダが普段とは違う速度で近づいてくる時点で異常を察していたらしい。

 雅史たちが降りるより先に、ガルディオへ視線を向ける。


『何があった』

『星堕としだ』


 余計な前置きはなかった。

 アルディウスの顔から、それまでの落ち着きが消える。


『確かなのか』

『兆候を確認した。過去のものと近い』

『場所は』

『調査中の町周辺。詳細はまだ分からん』


 アルディウスは一度だけ裂け目の向こうを見る。


『早すぎる』

『ああ』


 ヴァルネシアで星堕としを経験してきた二人だからこそ、その異常さを説明する必要はなかった。

 雅史は二人のやり取りを聞きながら、頭の中で日本側へ伝える順番を組み直していた。

 怜司が最初に異変を認識した。

 ガルディオが兆候を確認した。

 落下地点は不明。

 老師の予測より大幅に早い。

 現地には残りの十二神承とヴァルネシア側の者たちがいる。


「日本側へ行ってくるね」


 雅史は裂け目へ向かう。


『私も――』


 ガルディオが続こうとしたところで、雅史は一度振り返った。


「ここにいてもらった方がいいと思う」

『なぜだ』

「向こうで説明するのは僕ができる。それよりアルディウスさんと、ヴァルネシア側の情報を合わせておいてほしい」


 ガルディオはすぐに意味を理解した。


『分かった』


 雅史は一人で裂け目を越えた。

 空気が変わる。

 光が変わる。

 わずか数歩で日本へ戻る。

 昨日までは見慣れた景色へ戻るだけで、少し気持ちが緩んだ。

 今はその余裕がなかった。

 

 スマートフォンを取り出す。

 画面に表示された時刻を見て、雅史は一瞬だけ指を止めた。

 日本へ戻ってから、まだそれほど時間は経っていない。

 昨日、ようやくそれぞれの日常へ戻るための話をしたばかりだった。

 その翌日に、もう呼び戻すことになる。

 考えていても状況は変わらない。

 雅史は洋一の名前を選び、通話を開始した。

 数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってくる。


『はい』

「洋一?」

『雅史さん。どうしました?』


 いつもの声だった。

 雅史は、頭の中で一度だけ情報を並べ直した。


 怜司が最初に異変を感じたこと。

 ガルディオが過去の星堕としと近い兆候を確認したこと。

 まだ落下地点は特定できていないこと。

 ただし、新しい概念体が生まれたとされる町の周辺で起きていること。

 そして何より、老師から聞いていた時期より明らかに早い。


「予定が変わった」


 電話の向こうで、洋一が黙った。

 ほんの僅かな間だった。

 それでも、雅史には向こうの意識が完全にこちらへ向いたことが分かった。


「星堕としの兆候が出た」

『……もうですか』

「うん」


 驚きは声に残っていた。

 だが、それ以上そこへ時間を使わない。


『状況をお願いします』


 雅史は順番に伝えていった。

 怜司が何を感じたのかは、怜司自身にも説明できていない。

 そこはそのまま伝える。

 一方で、ガルディオは過去に経験した星堕としと近いものを確認している。

 こちらは、現時点で判断に使える情報として分ける。

 町の周辺である可能性は高い。

 ただし、落下地点そのものは分からない。


 分かっていること。

 分からないこと。

 推測していること。

 混ぜないように一つずつ話した。

 洋一も途中では口を挟まなかった。

 説明が終わるまで聞き、それから必要なところだけを確認する。


『落下地点は、まだ不明なんですね』

「うん。町の周辺だとは思う。でも、そこから先はまだ」

『兆候が始まっているということは、時間も分からない?』

「分からない。ガルディオさんにも、そこまでは判断できないみたい」


 再び短い沈黙が入る。

 今度は、洋一が次の手順を組み立てている時間だと分かった。


『分かりました。僕から清隆さんへ連絡します。合流して、できるだけ早くそちらへ向かいます』

「お願い。優斗には僕から掛けるよ」

『行人君と恭平君ですね』

「うん。また学校から出てもらうことになる」

『昨日調整しておいてよかったですね』

「本当にね」


 昨日は今後のために作った連絡経路だった。

 まさか翌日に使うとは、誰も思っていなかった。


「裂け目で待ってる」

『お願いします』


 通話が切れる。

 雅史は画面を見たまま一度息を吐き、すぐに優斗の名前を選んだ。

 こちらは呼び出し音が一度鳴ったところで繋がった。


『もしもし』

「優斗?」

『雅史さん?』


 向こうでは何かをしていたらしい。

 人の声が遠くに聞こえていたが、雅史が次の言葉を口にすると、その気配から意識が切り離される。


「行人と恭平、また向こうへ来てもらうことになりそう」

『何かあった?』

「星堕とし」


 今度は、はっきりと間が空いた。


『……早いね』

「うん。一月くらいって話だったけど、もう兆候が出てる」

『落ちた?』

「まだ。場所も確定してない」


 優斗はそこで細かな質問を重ねなかった。

 今必要なのは原因の推測ではなく、二人を動かすことだと判断したらしい。


『分かった。二人はワシが動かすよ』

「学校側もお願いできる?」

『昨日作った経路があるから、そこ使う。たぶん直接ワシが説明するより早い』

「お願い」

『雅史さんは?』

「裂け目にいる。二人を動かせたら、向こうへ来て」

『了解』


 通話が終わった。

 雅史はようやくスマートフォンを下ろした。

 昨日までに整えたものが、そのまま今日の動きへ繋がっている。

 学校への連絡。

 政府側との窓口。

 日本側に戻った五人の役割。

 昨日は、これから先のために必要になるかもしれないと思って作ったものだった。

 今は、その一つ一つが時間を縮めている。

 星堕としがどれほど近いのか分からない以上、その数十分がどれほど大きいのかも分からない。


 だからこそ、使えるものは全部使うしかなかった。


     ◇



 優斗が最初に連絡したのは学校ではなかった。

 昨日、政府側との調整をした際に渡されていた連絡先を呼び出す。

 国が把握している特殊事案への協力。

 今後も断続的に学校を休む可能性。

 そのたびに学校側へ一から説明し直さなくても済むよう、連絡経路だけは作ってあった。

 昨日の時点では、少し大げさかもしれないと思っていた。

 まさか翌日に使うことになるとは思わなかったが。


『はい』

「昨日お願いした高校生二人の件なんだけど」

『何かありましたか』

「うん。予定よりかなり早くなった」


 優斗は窓の外を見ながら、どこまで伝えるかを考える。

 星堕とし。

 異世界。

 緊急事態。

 学校側へ必要のない情報まで流す理由はない。


「向こうで緊急対応が必要になった。二人とも、今日からまた外してほしい」

『期間は分かりますか』

「そこはまだ」


 分からないことを適当に埋める必要もない。


『承知しました。学校へはこちらから連絡します』

「お願い」


 昨日までなら、ここから学校側との説明が始まった。

 今日は違う。

 電話一本で、次の場所が動き始める。

 優斗は通話を終えると、続けて移動手段について相談した。

 公共交通機関で二人を移動させている時間は惜しい。

 少しして、政治家や要人の送迎にも使われているハイヤーを回せるという返事が来た。


「……そこまでしなくてもいい気もするけど」


 口ではそう言いながら、断らない。

 時間を買えるなら使う。

 それも昨日、政治側へ状況を共有した意味の一つだった。

 ほどなくして、黒塗りの車が静かに停まった。

 運転席には当然、優斗ではなく専属のドライバーがいる。

 優斗が乗り込むと、運転手は事情を尋ねなかった。


『学校へ向かいます。お急ぎと伺っています』

「うん。お願い」

『承知しました』


 車が滑るように走り出す。

 加速しても車内は静かだった。

 優斗は背もたれへ身体を預けながら、スマートフォンへ視線を落とした。

 昨日までの調整が、今日の数十分を作っている。

 政治というものは面倒なことも多い。

 だが、こういうときに複数の場所を一度に動かせるのは、やはり強かった。


     ◇


 授業の途中で名前を呼ばれたとき、行人は最初、自分一人だと思っていた。

 教室を出る。

 少し先の廊下には、別の教室から出てきた恭平がいた。

 二人の視線が合う。


「何かやった?」


 行人が小声で聞く。


「なんで最初に俺疑うんすか」

「恭平ならありそうだから」

「ないっすよ!」


 軽口を交わしながらも、二人とも同時に呼び出された意味は分かっていた。

 昨日、国側から学校へ連絡が入った。

 詳しい事情を説明できないまま、それでも今後授業を休む可能性があることだけは伝えてある。

 今日は、二人同時。

 偶然とは考えにくい。

 職員室へ入ると、担任だけではなく学年主任もいた。

 教師たちも事情の詳細までは聞いていない。

 それでも、普通の早退ではないことくらいは理解しているようだった。


「二人とも、今日はここで帰っていい」


 担任が言った。

 恭平が一瞬だけ行人を見る。


「昨日聞いていた件ですか?」


 行人が確認する。


「ああ。先ほど、正式に連絡があった」


 教師はそこで一度言葉を止めた。

 二人が何をしているのかは知らない。

 聞かないように言われている。

 それでも、目の前にいるのは自分たちの学校へ通う生徒だった。


「どれくらい休むことになる?」

「まだ分かりません」


 行人が正直に答える。


「すみません」

「そこはいい」


 教師は小さく息を吐いた。


「授業の方は何とかする。必要なら補講も組む」


 恭平の眉が少し下がる。


「補講はあるんすね……」

「当たり前だ」

「ですよねぇ」


 少しだけ、いつもの学校の空気に戻る。

 教師も笑いかけたが、すぐに二人を見直した。


「ただし」


 声が少し低くなる。


「無理はするなよ」


 何をしに行くのか知らない。

 危険なのかどうかも聞いていない。

 だから、それ以上のことは言えない。

 それでも心配していることだけは、二人にも分かった。


「はい!」


 行人が先に答えた。


「はいっす!」


 恭平も続く。


「行ってきます」

「ああ。ちゃんと戻ってこい」


 二人は頭を下げた。

 教室へ荷物を取りに戻る。

 何人かのクラスメイトが何事かと見てきたが、説明できることはない。

 鞄を持って校門へ向かう。

 そこに停まっていた車を見た瞬間、恭平の足が止まった。


「……何したんすか、俺ら」


 黒塗りのハイヤー。

 運転手が外へ出て、後部座席の扉を開ける。

 その奥から優斗が手を振った。


「おーい」

「高校生の迎えに来る車じゃないっすよ!」

「ワシもそう思う」

「なんで優斗さんまで他人事なんすか!」


 行人は二人のやり取りを聞きながら車へ近づいた。

 優斗の顔を見る。


「何があったんですか?」


 その一言で、優斗から笑みが少し消えた。


「星堕とし」


 行人の表情が変わる。

 恭平も声を止めた。


「もう来たんですか?」

「まだ落ちてはいないみたい。ただ、兆候が始まってる」

「一か月後じゃなかったんすか?」

「ワシもそう聞いてたよ」


 優斗は少しだけ首を傾げる。


「だから、そこも含めて予定が変わった」


 行人はそれ以上聞かなかった。


「行きましょう」

「うん」


 三人が乗り込む。

 扉が閉まる。

 運転手へ目的地が告げられると、車はすぐに学校を離れた。

 後方へ流れていく校舎を、行人が一度だけ振り返る。

 昨日、ようやく戻ってきた日常だった。

 それでも今は、戻るべき場所がもう一つ増えていた。


     ◇


 洋一が清隆を拾った頃には、すでに雅史から受け取った情報が二人の間で共有されていた。

 運転席には洋一。

 助手席の清隆は、スマートフォンにまとめた内容と雅史から聞いた情報を照合している。


「最初に認識したのは怜司か」

「そう聞いています」

「何を認識した」

「『なんか来る』だそうです」


 清隆が顔を上げた。


「それだけか」

「その後、ガルディオさんが星堕としの兆候を確認しています」

「なら、判断材料にするのはそちらだな」

「僕もそう思います」


 洋一は会話を続けながら、前方の車列を見る。

 空いている車線。

 前を走る車との速度差。

 信号が変わるまでの時間。

 急いでいる。

 だからといって、操作が荒くなるわけではなかった。

 必要のない加減速をしない。

 前の車へ追いついてから慌てて車線を変えるのではなく、その前から空いている位置を見ている。

 車線を変える動きも速いが、唐突ではない。

 清隆は一度だけ速度計へ視線を落とした。

 それから洋一の手元を見る。


「洋一」

「はい?」

「急いでいるのは分かる」

「はい」

「速度も出ている」

「そうですね」

「だが、思ったより揺れないな」


 洋一が少しだけ笑った。


「急いでるときほど、無駄な動きしない方が早いですよ」


 清隆が前を見る。


「なるほど」


 それで納得したらしい。

 速度を出すことと、急いで雑に走ることは違う。

 洋一がやっているのは前者だった。

 少しして、優斗たちの乗るハイヤーとの合流地点へ到着する。

 行人と恭平が先に降り、優斗も続く。


「早かったですね」


 洋一が言う。


「車が良かった」


 優斗が振り返る。

 ハイヤーの運転手は余計なことを聞かず、軽く頭を下げるだけだった。


「助かりました」


 優斗が礼を言う。


『お気をつけて』


 それだけ残し、車は走り去っていった。

 五人が洋一の車へ乗り込む。

 恭平が後部座席でシートベルトを締めながら前を見る。


「洋一さん」

「はい?」

「結構飛ばします?」

「急いでますから」

「いや、それは分かるんすけど」

「怖いですか?」


 車が滑らかに加速する。

 恭平は少し考えた。


「……怖くないのが逆に怖いっす」


 優斗が横で笑った。


「分かる」

「優斗さんも!?」

「速いのに普通なんだよね」

「褒めてます?」


 洋一が聞く。


「褒めてる褒めてる」


 普段と変わらない会話。

 それでも全員、向かっている先で何が起きているのかは分かっていた。

 窓の外を流れる景色が速い。

 誰も「一月後」という言葉を口にはしなかった。


     ◇


 裂け目を越えた五人を待っていたのは、アルディウスだった。

 雅史はすでに町へ戻っている。

 アルディウスから改めて現状を聞く。

 星堕としの兆候は消えていない。

 ただし、落下地点も時間もまだ確定できていない。

 洋一は必要な部分だけを確認すると、現地までの距離を聞いた。


『通常の移動では時間が掛かる』


 アルディウスの答えを聞き、洋一は裂け目の向こうへ続く道を見る。

 馬車を待つ選択肢は最初からなかった。


「テンレイ」


 洋一の呼び掛けに応じるように、周囲の気配が変わる。

 行人もカグラを呼ぶ。

 二柱の神獣が顕現すると、アルディウスでさえ一瞬だけ視線を向けた。

 戦うためではない。

 ただ、今は一分でも早く町へ着く必要がある。

 神装まではしない。

 それでも、神獣本来の速度で移動すれば馬車とは比べものにならない。

 恭平は二柱を見比べた。


「……これ乗るんすか?」

「うん」


 行人が当然のように答える。


「速い?」

「速いと思うよ」

「思う?」


 優斗が笑う。


「まあ、すぐ着くんじゃない?」

「その言い方が一番怖いんすけど」


 時間がない。

 結局、恭平も腹を括った。

 分かれて乗り、アルディウスから方角を確認する。

 動き出した直後は、まだ景色を追えた。

 次の瞬間には無理だった。

 森が横へ流れる。

 街道が一瞬で後ろへ消える。

 馬車を追い越したと思ったときには、もうかなり先へ進んでいる。

 恭平は途中から喋ることを諦めた。

 口を開けば風しか入ってこない。

 顔を伏せる。

 それでも風は容赦なく当たる。

 ようやく速度が落ち、地面へ降りたとき。

 恭平はしばらくその場で動かなかった。


「大丈夫?」


 行人が声を掛ける。

 恭平が鼻をすすった。


「……寒っ」

「早かったでしょ?」

「早けりゃいいって話じゃないっすよ!」


 鼻をもう一度すする。


「風防! 風防欲しいっす!」


 優斗が吹き出した。

 洋一も笑いながら町を見る。

 笑っていられるのは、そこまでだった。

 先に戻っていた仲間たちが見える。

 十二人。

 ようやく全員が揃った。


     ◇


 朝、老人たちが昔話をしていた集会所は、今では臨時の作戦室のようになっていた。

 ただし、壁に武器が並んでいるわけではない。

 机の上にあるのは地図と記録だけだった。

 洋一たちが入ってくると、桜子が少しだけ表情を緩める。

 行人と恭平の姿も確認する。

 全員が揃った。

 それを待って、雅史が今日集めた情報を地図の上へ並べ直した。

 朝には何もなかった場所へ、いくつもの線と印が増えている。

 過去の町の範囲、川が氾濫した記録、現在の水路。

 学校と養護院、避難経路、救護所候補。

 森から動物が出てくる場所。

 人の少ない方向。


 清隆はすぐに話し始めなかった。

 地図を読む。

 次に智臣の記録を手に取る。

 川幅、流速、過去の増水範囲。


 清隆は地図の上へ手を置いた。

 すぐに意見を出すのではなく、朝から増えた書き込みを順番に追っていく。

 川、森、学校、避難経路。

 町の南東に広がる、人の少ない地域。

 それぞれは別の目的で集められた情報だった。

 星堕としが来ると分かった今、そのすべてが同じ地図の上で意味を持ち始めている。

 清隆の指が川の上流で止まった。


「仮に、落下地点がここなら?」


 智臣が地図へ身を寄せた。

 現在の川筋だけではなく、雅史が老人たちから聞き取った過去の氾濫範囲も見る。

 落下物そのものが川へ入る場合。

 周囲の土砂が流れ込む場合。

 水が堰き止められた場合。

 同じ場所へ落ちても、起こることは一つではない。


「規模による」


 智臣の指が川を下っていく。


「ここが塞がれば、町側へ水が来る可能性がある」


 現在の川筋から外れた場所に、過去の水害で水が到達したという印がある。

 清隆はそこを確認してから、今度は川そのものを見る。


「逆に、水を利用できる可能性は?」

「ある。ただし、それも場所次第だ」


 水が使える。

 それだけを聞けば、落下の衝撃や火災への対策にも使えそうに思える。

 だが、どこへ落ちるのか分からない。

 川そのものが被害を受ければ、利用するどころか新しい災害になる。

 清隆は地図の別の場所へ視線を移した。

 彰人とセレスティアが確認してきた南東側だった。


「こっちは人少ないです」


 彰人も地図へ手を伸ばす。

 建物が減り、その先に岩場と森がある。

 実際に歩いて確認した範囲では、大きな集落もない。


「真正面から全部受けんでも、横に逃がせるなら候補にはなると思います」


 指先で、町から南東へ向かう線を描く。

 昼間なら、それで一つの案になった。

 だが今は、星堕としがすでに始まっている。


「ただ」


 彰人の指が止まる。


「何が落ちてくるか分からん状態で、こっちに流すって決めるんは危ない」


 その先には人家が少ない。

 だからといって、何もないわけではない。

 森があり、そこには動物もいる。

 清隆も同じ場所を見ていた。


「質量も速度も不明だ。物理的な落下だけとも限らない」


 過去の星堕としについてヴァルネシア側から得た記録にも、すべてを同じ現象として扱えるだけの共通点はない。

 大きさ。

 形。

 落下時の状態。

 その後に何が起きるのか。

 条件が足りなかった。

 ここで迎撃方法を一つに決めれば、外れたときに別の選択肢を失う。


「現時点で、迎撃方法を固定するべきじゃない」


 清隆の言葉に、誰もすぐには返さなかった。

 地図には使えるかもしれない場所がいくつもある。

 川を利用できるかもしれない。

 南東へ力を逃がせるかもしれない。

 けれど、今の段階ではどれも「かもしれない」でしかない。


「落ちるもん見てからってこと?」


 智希が確認する。


「少なくとも、もう少し情報が必要だ」


 清隆の返答を聞きながら、良澄は地図の別の部分を見ていた。

 星が落ちる場所ではない。

 学校から町の外へ続く、桜子が引いた避難経路だった。


「でも、こっちは待たなくていいよね」


 良澄が線の上へ指を置く。

 清隆の視線もそちらへ移った。


「ああ」


 返答は早かった。


「避難の準備は、落下地点が分からなくてもできる」


 その一言で、全員が見ていた場所が変わった。

 空から来る、まだ形の分からないものではない。

 今、地上にあるものへ。

 桜子が学校の位置を指した。


「ここは今日見てきた。子供は一回ここに集める。先生おらんでも、そこまでは自分らで動けるようにする」


 そこから町の外へ指を滑らせる。

 線は一本ではない。

 落下地点が判明したあと、どちらへでも逃がせるよう途中から分岐させてある。


「最終的にどっち逃がすかは、そのとき決める。最初から一か所に集めて、そこ落ちてきたら洒落ならんからな」


 良澄はその途中にある印を示した。


「怪我した人はここで一度分けたい」


 朝には倉庫だった建物。

 今は最低限、人を寝かせて治療できるよう準備が進んでいる。


「その場でみんなが止まると、後ろの人まで動けなくなるから。歩ける人は避難を続けてもらって、動けない人だけ別に運ぶ」


 地図の上で、人の流れが少しずつ見えるようになる。

 智希は森側へ指を移した。


「動物はこっちへ逃がせると思う。クオンが動いてくれてる」


 恭平がそちらを見る。


「動物にも避難してもらうんすか?」

「人の逃げる道に飛び込んできたら、どっちも危ないでしょ?」


 智希にとっては、人間とは別の問題ではなかった。

 智臣も森と川の位置を見比べる。


「火が出れば森まで行く可能性がある」

「川も?」

「ああ。塞がれば流れが変わる」


 今度は彰人が、町の周囲に広がる畑へ目を向けた。

 昼間に歩いたときには、避けるべき障害物として見ていた場所だった。

 だが、そこで作られたものが市場へ運ばれていた。

 先ほど食べた串焼きの店も、その市場にある。

 人だけが助かれば、それで終わりではない。


「……人逃がせても、畑も店も全部なくなったら、その後暮らされへんよな」


 誰に聞くでもない言葉だった。

 洋一は、それまで口を挟まずに全員の話を聞いていた。

 地図には、朝にはなかった情報がある。


 誰がどこにいるのか。

 どこから逃がせるのか。

 何を利用できるかもしれないのか。

 そして、何を失えば星堕としのあとに困るのか。


 すべてを守れるとは限らない。

 なら、まず順番を決める必要がある。


「最優先は、人ですね」


 洋一が口を開くと、散っていた視線が集まった。


「何が落ちるか分からなくても、人を逃がす準備はできます。避難経路を決める。誘導する人を決める。自力で動けない人を確認する」


 桜子と良澄が作った線を指で追う。


「その上で、条件が分かったら使える選択肢を増やしておく」


 川、森、南東の岩場。

 今日、それぞれが別々に見てきた場所だった。


「動物や森、川への被害も、広げない方法があるなら考えたいです」


 最後に、町の中心へ指を戻す。

 学校がある。

 家がある。

 市場がある。


「家や畑、店も、可能な限り残したいですね」


 守る対象は、そこにいる人間だけではなかった。

 星堕としが終わったあと。

 逃げた人たちが、もう一度ここへ戻ってくる。

 そこまで含めて、初めて町を守ったと言えるのだろう。


 単なる建物ではない。

 星堕としが終わったあと、そこに戻って生活するためのものだ。

 全部を守れる保証はない。

 それでも、最初から捨てる必要もない。

 怜司は少し離れたところで、その話をずっと聞いていた。


 珍しく口を挟まない。

 彰人が途中で気づき、兄を見る。


「兄貴、聞いてる?」

「聞いてるで」

「今どこまで決まった?」


 怜司は地図を見る。


「逃げる準備する」


 彰人が数秒黙る。


「……まあ、合ってる」

「ほら」

「なんでちょっと得意そうやねん」


 小さな笑いが起きた。

 張り詰めた空気が一度だけ緩む。

 だが、怜司が何かを迎撃するという話はまだ出ていない。

 誰が何をするのか。

 そもそも、何を相手にするのか。

 それを決めるには情報が足りなかった。

 だから今は、地上にあるものから準備する。

 それだけは全員の間で一致していた。


     ◇


 方針がある程度まとまると、次に必要なのは王都への報告だった。

 ヴァルネシアの町を動かす以上、十二神承だけで決めることはできない。

 洋一と雅史。

 そして、星堕としの兆候を実際に確認したガルディオ。

 三人が王都へ向かうことになった。

 今度も馬車を待つ時間はない。

 移動手段について相談するより先に、メーダが当然のように身体を低くした。


『乗れ』


 雅史が少しだけ笑う。


「やっぱり帰りもこれなんだね」

『嫌なのか』

「嫌じゃないよ」


 朝よりは心の準備ができている。

 洋一もメーダを見る。


「お願いします」

『任せろ』


 速度について聞かなかった。

 雅史は一度だけ洋一を見る。


「かなり速いよ」

「助かります」

「うん。そう言うと思った」


 三人を乗せ、メーダが地面を蹴る。

 町が急速に遠ざかっていった。


     ◇


 アルトリウスが報告を受けたのは、それから間もなくだった。

 王の前へ通された洋一たちを見て、普段とは違う来訪であることはすぐに理解したらしい。

 ガルディオが同行していることも、その判断を早めた。


『何があった』


 洋一が答えるより先に、ガルディオが一歩進む。


『星堕としの兆候が出た』


 アルトリウスの表情が変わった。


『確かなのか』

『私自身が確認した。過去に経験したものと近い』


 ガルディオがそう断言するなら、単なる推測として扱うことはできない。

 アルトリウスは椅子へ深く座り直した。


『一月ほど先ではなかったのか』


 雅史が持っていた記録へ視線を落とす。


「僕たちも、そう聞いていました」

『情報が誤っていたということか』

「そこまでは分かりません」


 雅史はすぐに結論へ飛ばなかった。


「今確認できているのは、予測されていた時期より早く兆候が出たことだけです」


 なぜ早まったのか。

 老師の情報が間違っていたのか。

 別の条件が加わったのか。

 それを判断できる材料はない。

 分からない理由を、もっともらしい推測で埋める必要もなかった。

 アルトリウスはしばらく黙っていたが、やがて洋一を見る。


『落下地点は』

「まだ特定できていません」


 洋一は町周辺の地図を広げた。


「ただ、新しい概念体が生まれたとされる場所と、現在兆候が確認されている場所は重なっています」

『ならば、その町へ落ちる可能性が高い?』

「可能性は考えています。ただ、町のどこなのか、そもそも町そのものへ落ちるのかまでは分かりません」


 洋一の指が町全体を囲む。


「なので、現時点では一点を守る準備より、どこへ落ちても動ける準備を優先します」

『住民を今すぐ避難させるのではないのか』

「避難先が落下地点になる可能性を消せません」


 アルトリウスの目が細くなる。

 ただ遠くへ逃げればいいわけではない。

 どちらが安全なのか分からない状態で大勢を動かせば、自分たちで危険な場所へ集める可能性もある。


「今は、すぐ逃げられる状態を作ります」


 洋一は今日までに調べた内容を順番に説明した。

 学校と養護院、避難経路、救護地点。

 周辺の森と川、移動できない住民。

 雅史が過去の記録を補足し、ガルディオがヴァルネシア側で経験した星堕としについて必要な部分を加える。

 アルトリウスは途中で口を挟まなかった。

 すべて聞き終えてから、短く尋ねる。


『何が必要だ』

「現地の人たちです」


 洋一の答えに、アルトリウスが僅かに眉を動かした。


「僕たちは町を知りません」


 地図を見るだけでは分からないことが多すぎる。


「どの家に一人で動けない人がいるのか。どの道が普段から混むのか。食料がどこに保管されているのか。誰が治癒術を使えるのか」


 それを知っているのは、そこに暮らしている人たちだ。


「兵だけでなく、町の人にも協力してもらいたいです」

『分かった』


 アルトリウスの返答は早かった。


『必要な兵も出す。八傑も使え』

「すでに何人か手伝ってくれています」

『そうか』


 ほんの僅かに、アルトリウスの表情が変わった。

 数日前まで、八傑は十二神承を突破するために戦っていた。

 今は同じ町の地図を囲み、避難経路を作っている。

 洋一は最後に一つだけ付け加えた。


「ただ、僕たちだけで決めるつもりはありません」


 アルトリウスを見る。


「ヴァルネシアの町ですから」


 十二神承が守ってやる。

 そういう話ではない。

 自分たちが持っているものを出す。

 ヴァルネシア側も、自分たちが持っているものを出す。

 同じ場所を守るために、それを合わせる。

 アルトリウスは少しの間、洋一を見ていた。

 やがて、ゆっくりと頷いた。


『分かった。こちらも動こう』


     ◇


 町では、すでに準備が始まっていた。

 まだ住民全員を避難させてはいない。

 星堕としの兆候が確認されたことも、混乱を避けるため必要な範囲から順番に伝えている。

 それでも、朝とは明らかに空気が違った。

 学校では教師たちが子供を集める順番を確認していた。

 年長の子供が小さな子を連れて動く。

 教師が一人いなくても、最初の集合場所までは進める。

 桜子は実際に子供たちを歩かせながら、列がどこで伸びるのかを見ていた。

 想定より時間が掛かる。

 角を曲がるところで小さな子供の足が止まる。

 地図の上では一本の線でも、人が歩けば違う。


「ここ、一人立っといた方がええな」


 桜子が印を増やす。

 少し離れた倉庫では、良澄が治癒術を扱える者たちと配置を確認していた。

 ゴルガもいる。

 壁はまだ残っていた。

 桜子がそれを見て少し笑う。


「ちゃんと聞いたんやな」

『当然だ』

「えらいやん」

『子供扱いするな』


 その返事を聞きながら、桜子は倉庫の中を見る。

 朝には荷物が積まれていた場所に、今は人を寝かせられる空間ができていた。

 何も起きなければ、それが一番いい。

 使わずに済むなら、その方がいい。

 それでも、起きてから作るよりはずっといい。


 智希とクオンも森から戻ってきた。

 動物の移動について、完全に制御できるわけではない。

 それでも人間の避難路から離れる方向へ誘導する準備はできる。


 智臣は川をもう一度見に行っている。

 水位だけではない。

 落下によって土砂が流れ込んだ場合、どこが塞がりやすいか。

 今度は「調べる」だけではなく、「何か起きたとき」を前提に見ている。

 同じ景色でも、見るものが変わっていた。


     ◇


 彰人とセレスティアも、昼間に歩いた道へ戻っていた。

 同じ市場を通る。

 同じ店がある。

 先ほど串焼きを買った店も、まだ営業していた。

 店主が客と笑いながら話している。

 星堕としの兆候が出たことを、まだ知らないのかもしれない。

 彰人は足を止めなかった。

 ただ、視線だけが少し長く残った。

 セレスティアも気づいたらしい。

 二人とも、昼間のことには触れない。

 今度は本当に時間がないかもしれなかった。


「この道、人入れんようにできます?」


 彰人が南東へ続く道を示す。


『できます』


 セレスティアの返答も早い。


『必要であれば、兵を配置します』

「まだ塞がんでいいです。候補にしときたい」


 彰人は地図へ印をつける。


「何が落ちるか分かってから、こっちに逃がせそうなら使う」

『分かりました』


 昼間と同じ場所。

 同じ二人。

 けれど、見ているものは変わっていた。

 彰人はもう一度市場を見る。

 人がいる。

 店がある。

 そこで売るためのものを作る人がいて、買いに来る人がいる。

 町を守るという言葉だけなら簡単だった。

 実際に歩いたあとでは、その中にあるものが見えてしまう。


『彰人さん』

「はい?」


 セレスティアも町を見ていた。


『守れるでしょうか』


 昼間の柔らかさとは違う声だった。

 彰人はすぐに「守れる」とは言わなかった。

 何が落ちてくるのか分からない。

 どれほど大きいのかも分からない。

 自分たちに何ができるのかも、まだ決まっていない。


「分からんです」


 正直に答える。

 セレスティアが彰人を見る。


「でも」


 手元の地図へ視線を落とす。

 昼間、二人で歩いて増やした印が残っている。


「守れるようにはします」


 絶対に守る、と言い切ったわけではない。

 それでも、セレスティアの表情が僅かに緩んだ。


『はい』


 二人は再び歩き始めた。

 少し進んだところで、セレスティアが小さく口を開く。


『……日本の温泉も』

「はい?」

『行けるようにしなければいけませんね』


 彰人が一瞬止まる。

 セレスティアは前を向いたままだった。

 耳だけが、彰人の方を意識するように僅かに動いている。

 彰人は少し遅れて笑った。


「せやね」


 今度は否定しなかった。


「約束したし」


 セレスティアの耳が、また少しだけ赤くなった。


     ◇


 日が傾く頃には、集会所の地図は朝とは別物になっていた。

 線が増えた。

 印が増えた。

 書き込みが増えた。

 まだ分からない場所にも、分からないという印がついた。

 星堕としがどこへ落ちるのかは、依然として分からない。

 何が落ちてくるのかも。

 どれほどの規模なのかも。

 老師から聞いていた時期が、なぜ大きくずれたのかも分からない。


 分からないことは多い。

 それでも、朝とは違っていた。


 学校の子供たちは、最初にどこへ集まるのかを知った。

 教師たちは誰がどこへ立つのかを決め始めた。

 救護所になる場所ができた。

 治癒術を扱える者の人数も確認されている。

 動物と人間の避難経路が重ならないよう、クオンたちが動き始めた。

 川は智臣が見ている。

 人の少ない場所は彰人とセレスティアが確認した。

 王都も動き始めた。

 数日前まで、十二神承とヴァルネシアは互いを止めるために向き合っていた。

 今、同じ地図を囲んでいる。

 誰かが命令したからではない。

 戦いが終わったから、すべてを忘れたわけでもない。

 ただ、そこに守るべきものがあることを、双方が知ってしまった。


 人がいる。

 動物がいる。

 森がある。

 川がある。

 畑がある。

 店がある。

 その場所で続いていくはずの生活がある。


 迎撃方法は、まだ決めない。

 決められるだけの情報がない。

 だから今は、見えているものから守る準備をする。

 住民の安全を最優先に。

 その次に、周囲の自然とそこに生きるものを。

 そして星堕としが過ぎ去ったあとも、人々がそこで暮らしていけるように。

 まだ、星そのものは見えていない。


 それでも。

 来ることだけは、もう分かっていた。

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