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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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21/37

まだ、時間はある

 ヴァルネシアで迎える朝にも、さすがに慣れてきた。

 窓の外から聞こえる音は、日本の朝とは少し違う。

 車の走る音はない。

 代わりに、石畳を踏む足音や、荷を運ぶ車輪の音が遠くから聞こえてくる。

 時折混じる獣の鳴き声も、最初に聞いたときほど気にならなくなっていた。


 戦いが終わってから、二日。

 十二神承はそのままヴァルネシアに滞在していた。

 最初の一日は、互いに何をどう扱えばいいのか分からないようなところもあった。

 つい前日まで戦っていた相手である。

 ヴァルネシアの兵たちは十二神承を見れば無意識に身構え、十二神承の側も、それを責める理由はなかった。

 だが、一度戦う理由がなくなってしまえば、いつまでも睨み合っている必要もない。

 食事をすれば、料理の違いが話題になった。

 日本から持ち込んだものを見せれば、使い方を尋ねられた。

 風呂の話になれば、なぜかそこから話が広がり、気がつけばヴァルネシア側でも妙に興味を持つ者が増えていた。

 ほんの二日前まで戦場だったことを考えれば、随分と変わったものだった。


 そして三日目。

 十二神承は朝食を摂りながら、その日の予定を確認していた。

 最初から会議として集まったわけではない。

 食事を終えた者もまだ席を立たず、卓上には空になった皿と、まだ湯気の残る飲み物が並んでいる。

 そんな中で最初に現実へ引き戻したのは、彰人だった。


「今日、一回帰らなあかんな」


 怜司が朝食を口へ運びながら首を傾げる。


「なんで?」

「兄貴、今日何日か分かってる?」

「九月」

「範囲広すぎんねん」


 彰人が即座に返す。

 洋一が手元のスマートフォンへ目を落とした。

 ヴァルネシアに日本の祝日は関係ない。

 こちらで何日過ごそうと、店が休みになるわけでもなければ、学校が休みになるわけでもない。

 だが、裂け目を一つ越えれば話は別だった。


「シルバーウィークも今日で終わりですね」

「そういうこと」


 彰人が頷く。


「明日から普通に講義あるからな」

「大変やな」

「他人事みたいに言うな。兄貴もやろ」

「まあ、なんとかなるやろ」

「何を根拠に言うてんねん」


 朝から彰人の声が響いた。

 その横で恭平が食べ終えた皿を少し前へ押し出す。


「俺らも明日から普通に学校っすよね」

「そうだね」

 行人が答えた。

「……帰らないと駄目っすかねぇ」

「そりゃ駄目でしょ」

「っすよねぇ…」


 恭平は椅子の背へ身体を預けた。

 世界を一つ跨いで何をしていたところで、日本へ戻れば普段の生活が待っている。

 大学へ通う者もいれば、高校へ通う者もいる。

 今回だけなら数日の不在で済む。

 だが、この先もヴァルネシアへ来る必要があることを考えれば、何も説明せずに同じことを繰り返すわけにはいかなかった。

 そこで洋一が食器を置いた。

 小さな音に何人かが顔を上げる。

 雑談の延長だった空気が、それだけで少し変わった。


「学校だけじゃありませんね」


 洋一は卓上に置いてあった資料へ手を伸ばした。

 昨夜までにまとめた、ヴァルネシアで確認した情報だった。


「一度、日本側にも正式に説明しておいた方がいいと思います」

「政治の方?」


 優斗が飲み物を片手に尋ねる。


「そこもです」


 洋一の視線が、卓上に広げられた資料へ落ちる。

 この二日間、彼らが見ていたのはほとんどヴァルネシア側の事情だった。

 なぜ日本へ攻め込もうとしたのか。

 何に追い詰められていたのか。

 戦う理由がなくなったあと、互いにどう付き合っていくのか。


 だが、それで話が終わるのは十二神承の中だけだった。


 裂け目の向こうに別の世界があり、そこには国家が存在する。

 日本では再現できない魔術があり、身体能力も人間とは異なる種族がいる。

 そして、その国は一度、日本への侵攻を決断した。

 攻め込まないという約束を交わした今でも、その事実まで消えたわけではない。


「僕たちだけが納得して、それで終わりというわけにはいきません」


 洋一は資料の端を指で揃えた。


「向こうがどういう国なのか。どうして侵攻しようとしたのか。今はどうなっているのか。そのくらいは説明しておく必要があります」


 誰からも反対は出なかった。

 十二神承が日本政府の指揮下にあるわけではない。

 だからといって、別世界へ通じる裂け目を十二人だけのものとして扱うつもりもなかった。


「政治だけやないやろ」


 桜子が言った。


「向こうのもん調べるんやったら、研究してる人らにも話通さんとあかんのちゃう?」

「そうですね」


 洋一は少し考えてから頷いた。


「それに、今後も交流が続けば、経済界も無関係ではいられないでしょう」


 智臣が地図から目を上げる。


「商売を考える奴は出るだろうな」

「出てくるだろうね」


 否定する者はいなかった。

 雅史も苦笑する。


 珍しい物があるから欲しい。

 こちらにない技術があるなら知りたい。

 売れる物があるなら商売にしたい。

 それ自体は、善悪の話ではない。

 ただ、相手は未開拓の土地でも、新しく見つかった資源でもなかった。

 人が暮らし、文化があり、国家がある。

 その前提を無視して話が進むことだけは避けなければならない。


「経済関係は僕が話してきます」


 洋一はそう言ってから、清隆へ目を向けた。

 清隆は食事を終えてから、ずっと資料を読んでいた。

 魔術、概念体、異なる種族。

 この二日間で彼が書き加えた項目だけでも、すでに相当な量になっている。


「清隆には、学術関係をお願いしたいです」


 清隆はすぐには答えなかった。

 資料から視線を上げ、洋一を見る。


「どこまで公開する?」


 最初に出たのは、引き受けるかどうかではなく、情報の範囲だった。


「エーテリアとヴァルネシアについては、必要な情報を出して構わないと思います。ただ、僕たち自身の能力については切り離しましょう」

「十二神承を研究対象にはしない?」

「はい。今回必要なのは、向こうで何が確認されたかを共有することですから」


 清隆は数秒だけ考え、手元の資料へ視線を落とした。

 魔術と十二神承の力は、外から見れば同じ未知の現象として扱われかねない。

 だが、それを一緒にすれば調査の対象そのものが際限なく広がる。


「分かった。向こうで観測したものを中心にする」


 清隆は資料を閉じた。


「魔術、種族、生態、こちらと共通する疾病や外傷。確認できた事実と推測を分離して報告する」

「分かった」


 それだけで担当が決まった。

 次に洋一の視線が優斗へ向く。

 優斗はまだ飲み物を持ったまま、二人の話を聞いていた。


「優斗には政治関係をお願いできますか?」

「ワシ?」

「はい」

「いいけど」


 優斗は少し考える。

 肯定の跡で、顎に手を当てて考え込むのは彼らしい癖だ。


「僕より洋一の方が向いてない?」


 一人称が一瞬で変わったことには、誰も触れない。


「僕は経済界へ行きます。それに――」


 洋一は分かっているだろう、と言うかのようにわずかに笑った。


「優斗の方が、相手の反応を見ながら話せるでしょう」

「ああ」


 そこで意味が通じたらしい。

 優斗は飲み物を置いた。


「全部一気に話さない方がいいってことね」


 何を説明するかではなく、どの順番で説明するか。

 優斗が考え始めたのは、すでにその先だった。

 同じ情報でも、最初に何を知ったかで受け取り方は変わる。

 警戒から入るのか、興味から入るのか。

 それを見ながら、必要な情報を足していく。


「そういうことです」

「じゃあ、いいよ」


 優斗は軽く頷く。


「向こうであったことから話して、何を気にするか見てみる」


 清隆とはまるで違う。

 清隆は、分かっていることと分からないことを切り分ける。

 優斗は、情報を置いたとき相手がどこを見るのかを拾う。

 どちらも今回の役割には必要だった。


「あ」


 優斗が恭平と行人を見る。

 二人がきょとんとした顔で優斗を見返す。


「学校の方もワシが話しとこうか?」


 二人が同時に顔を上げた。

 行人は遠慮がちな顔で、恭平は期待に満ち溢れた瞳で優斗を見る。

 それぞれの性格が顔に出た瞬間だった。


「いいの?」


 行人が聞く。


「政治の方に行くなら、その前に話通せると思うよ。全部説明する必要はないだろうけど、国の方から正式に連絡してもらえるようにしておけば、毎回困らないでしょ」

「それは助かるっす!」


 恭平の表情が目に見えて明るくなる。


「じゃあ、それもお願いします」


 高校生の二人を見て、少し和やかな表情を浮かべた洋一が頷いた。


「今後もこちらへ来ることを考えれば、学校側には継続的に対応してもらえる形を作った方がいいですね」

「分かった。聞いてみる」


 行人と恭平が、揃って小さく頭を下げた。

 高校生二人にとっては、下手をすれば今日一番重要な話だったかもしれない。


「じゃあ、全員戻る?」


 良澄が尋ねた。

 それまで全員が日本へ戻る前提で聞いていたわけではない。

 ただ、政治、経済、学術、学校と並べていけば、一度区切りをつけるようにも聞こえる。

 洋一は首を振った。


「いえ。その必要はないと思います」


 卓上には、もう一つの資料があった。

 ヴァルネシアの地図。

 戦いは終わった。

 日本への侵攻もなくなった。

 だが、この国が抱えていた問題まで消えたわけではない。


 星堕とし。


 そもそもヴァルネシアが日本へ目を向けた原因は、そこにあった。


「こっちも進めておかないとね」


 雅史が地図を自分の方へ少し引き寄せた。

 これまでに接触した概念体。

 それらを追うように発生している星堕とし。

 そして、いつの間にかみんなから老師と呼ばれるようになった概念体から得た情報では、新たな概念体がすでに生まれている。

 問題は、その場所が分からないことだった。

 次の星堕としまで、およそ一か月。

 その情報が正しいなら、まだ時間はある。

 だが、何もせず待っていいほど長くもない。


「まずは、その新しい概念体を探すところからだね」


 雅史が地図を指先でなぞる。


「場所が分かれば、次にどこが危ないのかもある程度絞れるかもしれない」

「村とかに落ちたら最悪やで」


 桜子の声が少し低くなる。

 狙われているのが概念体なら、人の暮らす場所を避けてくれる保証はない。

 山中かもしれない。

 森の中かもしれない。

 あるいは、人が暮らす村のすぐそばかもしれない。


「人がいるところだけ見ても仕方ないよね」


 智希が地図を眺めながら言った。


「動物も見ておきたいかな」

「動物?」


 恭平が聞く。


「何か来るなら、人間より先に気づく動物がいるかもしれないし」


 野生動物が星堕としを予知できるとは限らない。

 だが、人間が意識しない変化を先に拾う可能性はある。

 音、振動、匂い。

 あるいは、十二神承にもまだ分からない何か。

 普段と違う移動や、突然姿を消す地域があれば、それ自体が情報になる。


「普段どう動いてるか分からないと、変わったかどうかも分からないよね」


 良澄が言った。


「そう。それも見たい」


 智希が頷いた。

 平常と異常を見分けるためには、平常時の様子を把握する必要がある。

 当然と言えば当然の話だった。

 その話を受け、智臣は少し離れた場所を指で示す。


「俺は空間を見る」


 皆の視線が集まった。

 智臣の特性はみんな知っているが、この場では何を懸念した話なのか分かっていなかった。

 その答えを示すように、智臣が続ける。


「裂け目がここだけとは限らない。小さいものや、不安定なものが他にある可能性もある」


 最初から役割を割り振っていたわけではない。

 一人が気になったことを口にすると、それを聞いた誰かが別の穴に気づく。

 動物を見るなら、その土地の普段を知らなければならない。

 空間を見るなら、過去に似た異常がなかったかも知りたい。

 地図を囲んだ話は、誰か一人が指示するのではなく、それぞれの視点が足りない部分を埋めるように広がっていった。


「じゃあ、僕は記録かな」


 雅史は地図の上に記された集落へ目を移した。


「星堕としだけじゃなくていい。昔から残ってる変な話とか、急に地形が変わったとか、動物がいなくなったとか。今まで関係ないと思われていた記録も見たい」


 雅史の言葉を聞いて、良澄も少し考える。

 雅史の言葉から、自分の行動指針に思う所があったようだった。


「僕は治療できる場所を見ておこうかな」


 声は穏やかだった。

 だが、彼が想定しているものは軽くない。


「もし避難が必要になったら、怪我人が出ないとは限らないからね。薬がどれくらいあるのかとか、回復魔法で何ができて何ができないのかも知っておきたいかな」

「子供がおる場所はうちが見る」


 桜子は迷わなかった。

 迷わないのは彼女らしいが、そういうことだけではなく、子供のことになると決断が早い。

 そこも彼女らしいところではある。


「避難させる言うても、大人と同じようには動けへんからな。小さい子抱えて逃げなあかんこともあるやろし」


 話が少しずつ具体的になっていく。

 星そのものをどう止めるか。

 そこへ進むには、まだ情報が足りない。

 だから先に、この国を見る。

 人、動物、治療、記録、地形、空間。

 それぞれが自分に見える場所から情報を拾えばいい。


「怜司さんは?」


 行人が尋ねた。

 怜司は何か考えことをしていたのか、間の抜けた返事を返す。


「ん?」

「何を見るんですか?」


 怜司は少し考えた。

 少なくとも考えているようなポーズを取っていた。


「その辺?」

「……聞き方を間違えましたね」

「なんでや」


 彰人が地図を見ながら小さく笑う。


「兄貴はそれでええんちゃう?」

「お前まで」

「目的決めても、途中でなんか見つけたらそっち行くやろ」

「勝手には行かんで」


 彰人は返事をせず、兄の顔をじっと見た。

 その視線だけで、怜司も言いたいことは分かったらしい。


「……たぶん」

「今、自分で自信なくしたやろ」


 怜司は答えず、残っていた朝食を口へ運んだ。

 何人かの笑い声が重なる。

 最初は朝食のついでに始まった話だった。

 だが、卓上にはいつの間にか地図と資料が広がり、食器は端へ寄せられている。

 今日何をするのか。

 誰がどこへ行くのか。

 それぞれが見なければならないものが、ようやく形になった。

 洋一が全員を見渡す。


「では、今日は二手に分かれましょう」


 日本へ戻る者。

 ヴァルネシアに残る者。


「日本側は僕と清隆、優斗。それから行人と恭平」

「やっぱ俺らもっすかぁ……」


 恭平が自分たちの名前を聞いた瞬間に肩を落とす。

 期待していたわけではないのだろうが、はっきり言われるとショックだったらしい。


「そりゃそうでしょ」


 行人が笑う。


「分かってるっすよー」

「学校側の話は僕が確認しておくよ」


 優斗が二人へ言った。


「それで問題なければ、またこっちに来ればいいし」

「お願いします」

「頼む」

「はいはい」


 優斗は軽く手を上げた。

 怜司はそのやり取りを聞きながら、最後の一口を食べ終える。


「ほな、俺らは?」

「まずはヴァルネシア側と相談ですね」


 洋一が答えた。


「どこから調べるか、向こうにも情報を出してもらわないと」


 日本側で話を通す者と、ヴァルネシア側で調査を始める者。

 二日前までは、全員が同じ目的で戦場に立っていた。

 今度は同じ目的のために、それぞれ別の場所へ向かう。

 卓上に残った地図の上で、裂け目を境に二つの世界が並んでいた。


     ◇


 朝食を終えたあと、十二神承はアルトリウスたちのもとを訪れた。

 昨日までとは、迎えられ方が違う。

 警戒が完全に消えたわけではない。

 廊下ですれ違う兵の中には、怜司たちの姿を見た瞬間、無意識に背筋を伸ばす者もいる。

 特に怜司へ向けられる視線には、まだ明確な緊張が残っていた。

 それでも、武器へ手を伸ばす者はいない。

 道を塞ぐ者もいない。

 ほんの数日前まで敵だった者たちが、今は客人として王のもとへ向かっている。

 変化としては、それだけでも十分に大きかった。


 アルトリウスのもとには三柱も揃っていた。

 洋一は、日本へ一時帰還することから説明した。


『帰るのか』

「全員ではありません」


 洋一は答えた。


「日本側にも今回のことを報告する必要があります。僕たちだけで決めて終わりにはできませんから」


 政治、経済、学術、そして学校。

 最後の一つを聞いたところで、アルトリウスがわずかに目を細めた。


『学校……?』

「実は僕たちは全員が学生でして」

『……全員が?』


 アルトリウスの視線が、十二人を順に辿った。

 大学に通う者がいる。大学院で研究を続けている者もいる。

 そして、行人と恭平に至ってはまだ高校生だった。

 だが、ヴァルネシア側が知っている彼らの姿は、そんな言葉から連想されるものとはあまりに違う。

 軍を止め、十三将や八傑と渡り合い、最後には三柱さえ退かせた。

 その十二人が、裂け目を越えれば学生として日常へ戻る。


『……そうだったのだな』


 ようやく出てきた言葉には、わずかに戸惑いが混じっていた。

 その視線が、十二人の中でも特に若く見える行人と恭平のところで止まる。


「明日から授業なんです」


 恭平が少し居心地悪そうに頭を掻いた。


『そうか……』


 それ以上、何と言えばいいのか分からなかったらしい。

 洋一は話を本題へ戻した。


「こちらに残る者は、新しく生まれた概念体を探します」


 その言葉で、三柱の表情も変わった。

 星堕とし。

 この国にとっては、戦争より前から続いている問題である。


 日本への侵攻は終わった。

 だが、それはヴァルネシアが抱えていた問題の一つを、自ら手放したに過ぎない。

 空から落ちてくるものは、和平を結んだからといって止まってはくれない。

 むしろ今は、その原因へ初めて手を伸ばせるところまで来ていた。

 アルトリウスは僅かに姿勢を正した。

 三柱も、先ほどまでとは違って洋一へ視線を向けている。


『何か、手掛かりがあるのか』

「新しい概念体が生まれていることまでは分かっています。ただ、場所が分かりません」


 洋一はそこで一度言葉を切り、卓上へ視線を落とした。


「なので、まずはこちらの土地を知るところから始めたいと思っています」


 一呼吸おいて言葉を続ける。


「まず、王都から行ける範囲の村や集落を見たいです。過去に異常があった場所も含めて」


 アルトリウスが三柱を見る。

 短いやり取りのあと、卓上へ地図が広げられた。

 広げられた地図は、十二神承がこれまで使っていたものより遥かに細かかった。

 王都から何本もの街道が伸び、その途中に大小の集落が点在している。

 街道を外れれば森が広がり、そのさらに向こうには山地が続く。

 河川沿いにもいくつかの村があり、地図の端には道そのものが途切れている場所もあった。

 日本の地図ほど正確な縮尺ではない。

 それでも、ここで人がどのように移動し、どこに生活圏を作っているのかを見るには十分だった。


『近い場所からなら、この辺りになる』


 三柱の一人が、王都から延びる街道を指で辿り、その途中にあるいくつかの地点を示した。

 雅史が身を乗り出す。


「過去に変わった出来事があった場所は分かる?」

『記録を調べれば、ある程度は』

「じゃあ、それもお願いしたいな」


 その横で桜子は、村の規模を確認していた。


「子供がおる場所も分かる?」

『人数までは、すぐには分からない』

「学校みたいなんは?」

『村によってはある』

「そこも見たい」


 桜子が見ているのは、村の大きさではなかった。

 何人いるのか。どの年齢の子供が、普段どこに集まっているのか。

 守るときに必要になるのは、そちらの情報だった。

 数十人の村だから後回しにする、という考えは最初からない。

 そこに子供がいるなら、その子供が逃げられる方法を考える。それだけだった。

 なので、子供のいる場所、特にわかりやすい学校のような教育施設は見ておきたかった。

 村の規模の話ということで、良澄もそれに続く。


「治療をする施設とか、治癒術師がいる場所も教えてもらえるかな」


 良澄が知りたいのは、立派な治療院があるかどうかではない。

 怪我人が出たとき、誰のところへ運ばれるのか。

 薬を持っている者がいるのか。治癒術を使える者がいるのか。

 それとも、さらに大きな町まで運ばなければならないのか。

 設備の規模よりも、実際に人が傷ついたときの流れを知っておきたかった。


 質問される内容は、星を迎撃する方法とは随分違っていた。

 だがアルトリウスは、もうそれを不思議には思わなかった。

 戦場でもそうだった。

 圧倒的な力を持ちながら、彼らは兵を殺さなかった。

 勝つためではなく、通さないために戦った。

 そして戦う理由がなくなれば、今度はヴァルネシアの子供や怪我人のことを考えている。

 彼らにとっては、おそらく何も変わっていない。

 敵だったから守らなかったのではなく、敵でなくなったから守るのでもない。

 最初から、必要以上に誰かを傷つけるつもりがなかったのだ。

 それは、今も同じなのだろう。


『分かった。必要な情報はこちらで用意しよう』

「ありがとうございます」


 洋一が頭を下げる。


「それと、僕たちが日本へ戻っている間ですが」


 裂け目を完全に無人にするわけにはいかない。

 日本側から見ても、ヴァルネシア側から見ても、現状では唯一確認されている二つの世界の接点である。

 そこを空白にしておくわけにはいかない。


『もう、先日のような事態は御免だからな』


 ガルディオのその言葉が、ヴァルネシアとしての対策方針を示していた。


 裂け目の向こうには日本がある。

 そして、こちらにはヴァルネシアがある。

 もう互いを警戒して軍を置く必要はない。

 それでも、唯一確認されている二つの世界の接点を、誰の目も届かない状態にしておく理由もなかった。

 何かがこちらから入り込む可能性もある。

 逆に、日本側から何者かが迷い込むことも考えられる。

 以前とは、守る意味が変わっていた。

 

 相談の結果、三柱のうち二人が交代で周辺に残ることになった。

 戦うためではない。

 今度は、双方の出入口を守るためだった。


     ◇


 日本へ戻る組と別れたあと、残った者たちは王都を離れた。

 用意されたのは馬車だった。

 もっとも、それを引いているものを馬と呼んでいいのかは怪しい。


「……馬?」


 智希が御者台の向こうを覗き込む。

 四本の脚、長い胴、走るために発達した身体。

 そこまでは似ている。

 だが、額には短い角があり、首筋から背中へ続く皮膚の一部は細かな鱗のようなものに覆われていた。


「違うだろ」


 智臣が即答する。


「だよね」


 智希は少し嬉しそうだった。

 触ろうとはしない。

 まず距離を置いて動きを見る。

 耳に近い器官がどちらを向くのか。

 御者の声へどう反応するのか。

 近づく人間をどの程度警戒するのか。

 いつもの動物を見るときと同じだった。


「乗らないの?」


 良澄が馬車の中から顔を出す。


「乗る。ちょっと見てただけ」


 智希が乗り込むと、馬車が動き始めた。

 石畳を抜け、やがて舗装されていない道へ変わる。

 途端に揺れが大きくなった。


「これ、しんどいな」


 彰人が座席を掴む。

 車輪と車軸しかない構造なので、揺れがダイレクトに響いてくる。

 その状況で、怜司が呟く。


「エアサス入れたいな」

「馬車にエアサス入れんな」

「ダンパーも付けたらだいぶマシになるやろ」

「誰がセッティングすんねん」

「良澄?」

「僕?」


 突然名前を出された良澄が自分を指さしながら笑う。


「さすがに馬車は分からないかな」


 馬車の中に小さな笑いが広がった。

 王都が遠ざかっていく。

 建物が減り、畑が増える。

 さらに進めば、それも森へ変わっていった。

 智希は途中で何度か馬車を止めてもらった。

 森の縁、水場、獣道らしい細い跡。

 そこに残る足跡や糞、食べられた植物を確認する。


「何か分かる?」


 彰人が尋ねた。

 智希は先ほどから、足跡を見ては森を眺め、水場を見てはまた周囲へ視線を巡らせている。

 何かを見つけたというより、何かを確かめているように見えた。


「今は普通だと思う」

「普通?」

「うん。でも普通を知らないと、変わったとき分からないから」


 智希は立ち上がり、森の奥を見る。

 今ここで答えを見つける必要はない。

 今日見たものが、数日後にも同じなのか。

 それを比べるための情報を集めている。


 一方で智臣は、違うものを見ていた。

 目に見える景色ではない。

 裂け目へ近づいたときに感じた、空間そのものの違和感。

 それと似たものがないかを探している。

 その様子を見ていた雅史が尋ねた。


「どう?」

「今のところ何もない」


 智臣は短く答えた。


「歪んでる感じもしない。普通だ」


 何もない。

 それもまた、一つの情報だった。

 雅史は小さく頷き、手元の記録に現在地と智臣の言葉を書き加えた。

 今は意味を持たなくても、後から別の情報と繋がるかもしれない。


     ◇


 最初に訪れた村は、王都から半日もかからない場所にあった。

 大きくはない。

 家々が街道沿いに並び、その奥に畑が広がっている。

 十二神承が到着したことは、すぐ村中へ伝わった。

 視線が集まる。

 好奇心、警戒、一部には明確な恐怖もあった。

 戦場の話は、すでにここまで届いているらしい。

 特に怜司が歩くと、人が少しだけ道を空ける。


「なんで?」


 本人だけが不思議そうだった。


「兄貴やからや」

「なんで俺?」

「それ説明せなあかん?」

「分からん」


 彰人は諦めた。

 村では、それぞれが自然に分かれた。

 桜子は子供たちが集まる場所へ。

 良澄は治療を担う者のところへ。

 雅史は村長と、昔から村に住む年長者のもとへ向かう。

 智希は村の周辺。

 智臣は空間の状態を確認する。


 彰人は村人から、普段の生活について話を聞くことにした。

 戦いが終わったことで何が変わったのか。

 徴兵された者はいるのか。

 家族が戻ってきているのか。

 王都から物が届かなくなった時期はあったのか。

 一つの出来事が、誰に、どこまで影響しているのか。

 彰人が見ているのは、そこだった。


 桜子が訪れたのは、小さな建物だった。

 年齢の違う子供たちが同じ場所で過ごしている。

 日本の学校とは違う。

 だが、子供を集めて大人が見るという役割は同じだった。

 桜子は建物を見る。

 出入口、窓、子供の人数、世話をする大人。

 そこから村の外へ出る道。

 近くに川がある。

 雨が降ればどうなるのか。

 夜なら、怪我人が出たら。

 考えるほど、必要なものが増えていく。


「避難場所、決めなあかんな……」


 小さく呟いた。

 星を止められれば、それが一番いい。

 だが、止められることを前提にして子供を置いておく気にはなれなかった。


 良澄も同じように、最悪の場合を見ていた。

 薬草、治癒術、骨折、火傷、感染症。

 日本と同じものもあれば、判断できないものもある。


「これは?」

『熱を下げる薬だ』

「こっちは?」

『傷口の腐敗を防ぐ』


 良澄は一つずつ確認していく。

 知らないから危険なのではない。

 知らないまま使うことが危険だった。

 分からないものは、分からないものとして残す。

 そのうえで、どこへ運べば助けられるのかを知っておく。


 雅史は村長の家で、古い記録を見ていた。

 文字だけではない。

 口伝もある。

 昔、山の向こうが一晩中明るかった。

 森の動物が突然いなくなった。

 川の水が数日だけ濁った。

 その中に、星堕としと関係があるものが混じっているかもしれない。

 もちろん、ただの自然現象かもしれない。

 雅史はどちらとも決めなかった。

 日付、場所、その前後に何があったか。

 分かる範囲で一つずつ記録していく。


 そして怜司は。


「……どこ行った?」


 彰人が気づいたときには、いなかった。


     ◇


 怜司は村の外を歩いていた。


 何かを探しているわけではない。

 少なくとも本人は、そのつもりだった。

 道を歩き。

 気になる方へ曲がり。

 小さな川を渡り。

 斜面へ続く細い道を見つければ、そちらへ進む。


 途中で洞穴らしいものもあった。

 中を覗く、暗い。

 それ以上でも、それ以下でもない。


「ふーん」


 怜司は少しだけ眺めてから、その場を離れた。

 何かを感じたわけではない。

 概念体がいると分かったわけでもない。

 ただ見ただけだった。

 その繰り返しでいい。

 今はまだ、何を見つければ正解なのかすら分からないのだから。


     ◇


 同じ頃。


 日本へ戻った五人は、ヴァルネシアとはまるで違う音の中にいた。

 車、信号、スマートフォン。

 見慣れていたはずのものが、二日離れただけで妙に騒がしく感じる。


「文明ってうるさいっすねぇ」


 恭平が呟く。


「二日で何言ってんの」


 行人が笑った。


「いや、向こう静かだったっすよ」

「それは分かるけど」


 日本へ戻って最初に手をつけたのは、高校生二人の学校のことだった。

 優斗が政府側の担当者へ連絡を入れ、事情を説明する。

 もちろん、すべてではない。

 相手の返答を聞きながら、優斗は時折「うん」「そこまでは大丈夫」と短く答える。

 話している内容だけを聞けば、異世界から帰ってきた直後とは到底思えない。

 異世界で戦闘に参加していたなどと、学校へそのまま伝える必要はない。

 国が把握している特殊事案への協力。

 今後も断続的に参加する可能性があること。

 学業へ支障が出た場合には、補講や課題などで対応できるよう調整してほしいこと。

 必要な部分だけを切り出していく。


「こんな感じでいい?」


 電話を終えた優斗が二人を見る。


「十分!」


 行人が答えた。


「むしろ強すぎないっすか?」


 恭平が少し不安そうな顔をする。


「国から学校に連絡いくんでしょ?」

「行くね」

「俺ら何者だと思われるんすかねぇ……」

「高校生」

「そういう意味じゃない」


 優斗は少し笑った。


「まあ、詳しくは聞かれないようにしてもらうから大丈夫じゃない?」

「それが一番怖いんだけど」


 行人の言葉に、恭平も頷いた。

 ひとまず高校の問題は、これで動き始める。

 五人はそこで分かれた。

 行人と恭平は学校へ。

 清隆は学術関係者のもとへ。

 優斗は政界へ。

 そして洋一は、経済界へ向かった。


     ◇


 清隆を待っていたのは、一人ではなかった。

 大学、研究機関、複数分野の研究者。

 裂け目そのものが確認された時点から、関係者の間では情報が共有されていた。

 だが、その先へ実際に入り、調査して戻ってきた者はいない。

 清隆が席についた時点で、机の向こうにはすでに質問事項が積み上がっていた。


「まず確認したい。向こうで観測されたという魔術についてだ」

「はい」

「火を発生させる?」

「しました」

「燃料は?」

「確認できません」

「発火源は?」

「確認できません」

「では、エネルギーはどこから?」

「分かりません」


 迷いのない返答だった。

 質問した研究者が一瞬止まる。


「……分からない?」

「はい」


 清隆は表情を変えない。


「現時点では説明できません」

「君はそれを調べてきたのでは?」

「調べたから分からないと答えています」


 室内が静かになった。

 向かいの研究者だけではない、少し離れた席で資料を見ていた者も顔を上げている。

 清隆の返答を無責任と受け取った者もいれば、逆に、その言葉の意味を理解して資料へ視線を落とした者もいた。

 未知の現象を前にして、仮説はいくらでも立てられる。

 だが、仮説は観測された事実ではない。

 清隆は周囲の反応を気にすることなく、持参した資料を開いた。


「観測された現象は事実です。火炎、凍結、治癒、物体への作用。それぞれ複数回確認しています。ただし、既存の物理法則で説明できる原理は確認できていません」


 資料には、現象だけでなく、それを起こした者についても記録してある。

 同じ場所にいた者が、同じように火や氷を生み出せるわけではない。

 それぞれに使える術にも違いがあった。

 少なくとも現地では、手順さえ覚えれば誰でも再現できる技術とは認識されていなかった。


「こちらの人間でも使えるのか?」


 別の席から声が上がった。


「確認できていません」


 清隆はそれ以上を足さなかった。

 使えない、と断定できる材料もない。

 使える、と推測する材料もない。

 それなら、今の答えはそこまでだった。


 資料を一枚めくる。


「ですから、観測した事実と、推測と、分からないことを分けます」


 火は出た。

 だが、なぜ出たかは分からない。

 氷は生まれた。

 だが、その際の熱移動を説明できない。

 治癒は起きる。

 だが、細胞へ何が作用しているのかは調査できていない。


 治癒について触れたところで、別の資料を追っていた研究者の手が止まった。

 そこに記されているのは魔術だけではない。

 現地で確認した人々の生活、食事、睡眠、負傷や疾病。

 外見上は人間とほとんど変わらない者だけでなく、日本には存在しない特徴を持つ種族についても、確認できた範囲で記録してある。


「生物としては、我々と同じと考えていいのか?」

「そこまでは言えません」


 遺伝子も、細胞も、詳細な検査はしていない。

 同じ食事を取り、眠り、傷を負う。確認できているのは、そこまでだった。


「少なくとも、同じだと断定できるだけの調査はしていません」


 研究者は何かを書き留め、それ以上は追及しなかった。


「分からないことを、分かったこととして扱う方が危険です」


 質問する側の空気が変わった。

 それまで清隆へ向けられていた視線が、少しずつ手元の資料へ移っていく。

 答えを聞くために集まっていた者たちが、そこに書かれている記録そのものを読み始めていた。

 余白へ書き込みをする者がいる。隣の研究者と小声で確認する者もいる。

 火炎の発生条件。治癒前後の変化。種族ごとの身体的特徴。現地で聞き取った魔術に対する認識。

 まだ結論にはならない。

 だが、次に何を確かめるべきかを考える材料にはなる。


「この記録は、研究に使って構わないのか?」


 しばらくして、一人が尋ねた。


「構いません」


 清隆の返答は早かった。


「確認できた事実については、公開してもらって問題ありません。ただし、推測は推測として分けてください」


 現地へ自由に立ち入っていいという意味ではない。

 ヴァルネシアという国家があり、そこで暮らす者がいる以上、追加の調査には向こうとの合意が必要になる。

 それでも、すでに持ち帰った事実を十二神承だけで抱える理由はなかった。


 未知の世界から帰ってきた人間が、答えを持ってきたわけではない。

 何が分かっていて、どこから先が分からないのか。

 清隆が持ち帰ったのは、その境界だった。

 

 そして境界が分かれば、次に何を調べればいいのかも決められる。

 研究にとって、それは答えそのものと同じくらい重要な情報だった。


     ◇


 洋一の話は、清隆のいる場所とはまるで違うところから始まった。

 通された部屋に、研究資料の山はない。

 卓上に置かれているのは、洋一が持ち込んだ資料と、数字を書き留めるためのメモだけだった。

 向かいに座る男は、ヴァルネシアの概要へ一通り目を通すと、資料を閉じた。


「で」


 視線だけを洋一へ向ける。


「儲かるのか?」


 洋一は少し笑った。


「最初にそこですか」

「俺に話を持ってきたんだろ。ならそこだ」

「では、その前提から話します」


 洋一は資料を一枚抜き、卓上へ置いた。

 裂け目そのものの大きさ。周辺の地形。ヴァルネシア側で確認した街道と、輸送に使われている馬車。

 そこへ洋一自身が書き込んだ数字も並んでいる。

 大型車両を何台も通せる場所ではない。海運も航空輸送も使えず、裂け目を越えた先に日本と同じ道路網があるわけでもない。

 向こうから物を持ち帰るにしても、こちらから運び込むにしても、まず物流が大きな制約になる。

 男は資料を開き直した。


「量を運べないのか」

「現状では」

「拡張は?」

「できるかどうかも分かりません」


 洋一は可能性を否定しなかった。

 同時に、確認できていない可能性を利益として計算に入れることもしなかった。

 物流だけ考えても、効率は悪い。

 さらに、相手は技術的には日本より遅れているが、単純に弱いわけではない。


「魔術があります」

「どの程度だ」

「こちらの常識で考えない方がいいでしょうね」


 男の視線が、再び資料へ落ちた。


「銃は?」

「効く可能性はあります」


 洋一は、そこで言葉を切った。

 銃弾がどこまで通用するのか、それ自体は比較的単純な問題だった。

 だが、相手が持っているものは銃に耐える身体だけではない。


 火を生み、氷を作り、防壁を展開する。

 亜人と呼ばれる者の中には、日本人の身体能力を大きく上回る者もいる。


「ミサイルなら?」

「撃てば届く、とは考えない方がいいでしょうね」


 男の指が資料の上で止まった。


「迎撃される?」

「分かりません。ただ、空中で爆発させる、凍結させる。少なくとも、こちらが確認している現象だけでも、撃てばそのまま届くことを前提にはできません」


 男は返事をせず、何かをメモした。

 洋一も急かさなかった。

 相手が計算しているのは、勝てるかどうかだけではない。

 勝つために、どこまで不確定な要素を抱え込まなければならないかだった。


 男は黙って資料を見る。


「それでも、軍事的に勝てないとは限らないだろ」

「そうですね」


 洋一はあっさり認めた。


「では、勝ったとして何を得るのかを考えましょう」


 洋一は、もう一枚の資料を卓上へ置いた。

 今度は、ヴァルネシアについての資料ではなかった。

 占領後に必要になるものを、単純に項目として並べたものだった。

 人員。補給。拠点。治安維持。輸送。

 土地を奪えば終わりではない。そこに人を置き続けなければならない。

 資源が見つかったとしても、採掘し、運び、狭い裂け目を通して日本へ持ち帰る必要がある。

 そのすべてを、原理さえ分からない力を持つ住民を相手に続けることになる。


 洋一は結論を言わなかった。

 必要な数字と、不確定な要素だけを卓上へ置く。

 向かいの男はしばらく資料を見ていた。

 一枚めくり、別の紙へ何かを書き、もう一度最初の資料へ戻る。

 やがてペンが止まった。


「……割に合わんな」

「僕もそう思います」

「なら商売だけでいい」


 男は先ほど閉じた資料を、もう一度開いた。


「奪うんじゃなく、向こうが欲しいものを売る。こっちが欲しいものは買う。それなら話は別だろ」


 そこで洋一は初めて、少しだけ表情を緩めた。


「はい」


 ここまで来れば、ようやく本来の話ができる。


「その話ならできます」


     ◇


 優斗の前には、さらに多くの人間がいた。

 政府関係者、与党、野党。

 普段なら同じ部屋に集めるだけでも面倒な顔ぶれだった。

 だが、今回は事情が違う。

 日本国内に出現した裂け目。

 その先に国家が存在した。

 それだけで、政党間の駆け引きを優先している場合ではなかった。


「じゃあ、最初から話しますね」


 優斗は用意された資料を前に置いた。

 いつもの調子だった。

 必要以上に構えない。

 ヴァルネシアという国、そこに暮らす種族。

 技術水準、魔術。

 星堕とし。

 そして、日本へ侵攻しようとした理由。


 順番に話していく。

 質問が出れば答える。

 分からないことは分からないと言う。

 相手がどこで表情を変えるのかも見ていた。


 最初に声を上げたのは、資源の話だった。


「ヴァルネシアには、どの程度の地下資源がある?」

「まだ分かりません」

「鉱物資源についても?」

「そこまで調べてないですね」


 答えながら、優斗は相手の顔を見る。

 未知の国家と聞いて、まず資源を見る人間もいる。それ自体は不思議ではない。


「国民への公表はどうするつもりだ」


 今度は別の席からだった。


「それ、ワシに聞きます?」

「現地を見た人間の意見を聞いている」


「だったら、一気には出さない方がいいと思いますよ」


 優斗は少し考えてから続けた。


「向こうに国があることと、日本へ攻め込もうとしてたことだけ一緒に出したら、たぶんそこしか見なくなるんで」


 その言葉を書き留める者がいる一方で、別の席からはさらに違う問いが飛んだ。


「将来的に、観光は可能なのか?」


 何人かの視線がそちらへ向いた。


「将来的な話だ。交流するなら、いずれ出てくる」

「それは向こうに聞かないと分からないですね」

「日本側だけでは決められないと?」

「そりゃそうですよ。ヴァルネシアは日本じゃないんで」


 資源を見る者がいる。

 国民への説明を考える者がいる。

 すでにその先の交流を見ている者もいる。


 同じ話を聞いていても、気にする場所はそれぞれ違う。

 優斗はそれを一つずつ拾いながら、まだ必要のない情報までは出さなかった。


「現在、侵攻の意思はありません」


 優斗が説明すると、一人が尋ねた。


「将来的にも?」

「今のところは大丈夫だと思いますよ」

「保証は?」

「約束はしてます」

「国家間の約束として?」

「んー」


 優斗は少し考えた。


「そこはこれからですね」


 別の者が口を開く。


「ならば、こちらも軍事的選択肢を保持しておく必要があるのではないか」

「あー……」


 優斗が少しだけ困ったように眉を下げる。


「それは、たぶん無理ですね」


 室内の空気が止まった。


「どういう意味だ?」

「向こうを攻めるって話ですよね?」

「必要になれば、だ」

「怜司さん、向こうも守るつもりなんで」


 それだけだった。

 だが、その場にいた者たちの何人かは、すぐに意味を理解した。

 

 「……八代の倅か」


 それまで黙っていた男が、低く呟いた。

 議員生活は長い。閣僚も経験し、今では党内でも表立って何かを取り仕切る立場ではない。

 それでも、この場で彼の言葉を聞き流す者はいなかった。

 優斗がそちらを見る。


「知ってるんですか?」

「本人を少しな。親父には……昔、世話になった」


 男はそれだけ言って、腕を組んだ。

 怜司の力について詳しい説明を求める様子はなかった。

 むしろ、名前を聞いたことで別の何かに納得したように見える。


「あいつが守ると言ったのか?」

「言った、というより……」


 優斗は少し考えた。


「たぶん本人の中では、もう守る側に入ってますね」

「……なら、こちらから手を出すような真似はするな」


 即答だった。


「戦力の問題ですか?」

「それもある」


 男はあっさり認めた。


「だが、それ以前の話だ」


 男は資料へ目を落とした。


「あいつは日本を裏切って向こうにつくような人間じゃない。日本だからといって、向こうを見捨てる人間でもない」


 一度言葉を切る。


「そういう人間を、どちらにつくか選ばせる状況を作る方が馬鹿げとる」


 優斗は男を見た。

 怜司の力を恐れているだけなら、「敵に回すな」で話は終わる。

 だが、この男が口にしたのは、怜司に選ばせる状況そのものを作るな、だった。

 どうやら、怜司のことを力だけで見ているわけではないらしい。

 そのことが、優斗には少し意外だった。


 八代怜司という名前自体は、この場にいる者の多くが知っている。

 今回の件より以前から、国側でも存在を把握していた。

 命令して動かせる人間ではない。

 脅して従わせられる人間でもない。

 敵に回した場合に何が起きるのかも、誰も正確には説明できない。

 だから、警戒されることには慣れている。

 力を基準に扱われることも、珍しくはない。


 だが、この男は違った。

 怜司が何をするかではなく、なぜそうするのかを見ている。

 優斗はもう一度、男を見る。


「つまり、八代がヴァルネシア側につくという話ではないんだな?」


 別の席から確認するように声が上がった。


「そういう話じゃないと思いますよ」


 優斗は首を傾げた。


「日本が困ってたら日本も守ると思うし、向こうが困ってたら向こうも守るんじゃないかな」

「双方が争った場合は?」

「だから、争わない方がいいんじゃないですか?」


 あまりにも単純な答えだった。

 先ほどの男は何も言わない。

 ただ、優斗の答えを聞いて、僅かに目を細めただけだった。

 それを見て、優斗にも分かった。

 やはり、この人は知っている。


 怜司をどちらかの陣営へ置いて考えること自体が違う。

 困っている側があれば、そちらへ手を伸ばす。

 本人にとっては、それだけなのだろう。


 そして日本側が自ら争いを作れば、そのとき困る者の中にはヴァルネシアの人々も含まれる。


 室内に沈黙が落ちた。

 しばらくして、上座に座っていた男が資料を閉じた。


「こちらから侵すことはない。その原則は明確にしておこう」


 反論は出なかった。


「交流については?」

「いいと思いますよ」


 優斗が答える。


「向こうも結構面白いですよ。温泉も気に入ってましたし」

「……温泉?」

「はい」


 そこだけ、何人かの顔が同時に緩んだ。

 世界を隔てる裂け目、未知の国家、魔術、安全保障。

 そこまで話した最後に出てきた言葉が、温泉だった。

 だが、その程度でいいのかもしれない。

 相手も国である前に、人が暮らしている場所なのだから。


     ◇


 ヴァルネシアでは、日が傾き始めていた。


 十二神承の残った者たちは、一つ目の村で集めた情報を持ち寄っていた。

 雅史の手元には、村に残されていた古い記録から拾った年代と出来事が並んでいる。

 その横では桜子が、子供たちの集まる場所と、そこから村の外へ出られる道を地図へ書き込んでいた。

 良澄が確認してきたのは、怪我人や病人が出たときの流れだった。

 この村だけで対処できるもの。治癒術師を頼るもの。それでも駄目なら、どこへ運ぶのか。

 少し離れたところでは、智希が森で見つけた痕跡を記録している。

 今のところ、動物たちに目立った変化はない。

 智臣が感じ取った空間にも、裂け目の近くで覚えたような違和感はなかった。

 誰も同じものを見ていない。

 けれど、それぞれが持ち帰ったものを一つの地図へ重ねていけば、この土地で人や動物がどう暮らしているのかが、少しずつ形になっていく。


 まだ、概念体は見つかっていない。

 星堕としの場所も分からない。

 それでも、昨日までとは違う。

 戦う相手を待っているわけではない。

 何が起きるのか分からないまま、ただ構えているわけでもない。

 次に何かが起きたとき、守れるものを増やすために動いている。


 地図の上へ、それぞれが持ち帰った情報が少しずつ増えていく。

 彰人は一通り眺めたところで、ふと周囲を見た。


「……兄貴は?」


 返事はない。

 地図の周りにも、馬車の近くにもいない。


「またおらんやん」


 桜子が呆れたように息を吐く。


「そのうち帰ってくるやろ」

「それでええんか……?」


 少しして。

 村へ続く道の向こうから、怜司が歩いてきた。


「おー」


 片手を上げる。

 彰人はそれを見て、肩から力を抜いた。


「どこ行っててん」

「その辺」

「何かあった?」

「別に」

「何しに行ってん」

「見てた」

「何を?」

「色々」


 彰人は数秒黙った。


「もうええわ」

「なんでや」


 そのやり取りを聞いて、桜子が笑う。

 怜司は理由が分からないまま首を傾げると、皆が囲んでいた地図を覗き込んだ。

 どこを歩いてきたのか。何を見ていたのか。

 結局、彰人にもよく分からない。

 ただ、何もなかったのなら、それでいい。

 今はまだ、それぞれが見てきたものを積み上げていくしかなかった。


 今日一日で答えが出るとは、誰も思っていない。

 まだ時間はある。

 老師の話が正しいなら、次の星堕としまで、およそ一か月。


 明日は別の村を見る。

 過去の記録も、もっと遡れる。

 森も、水場も、今日見られなかった場所はいくらでもある。

 一つずつ確かめていけばいい。

 村を。森を。人を。記録を。

 そして、新しく生まれたという概念体を。


 少なくともこのとき、十二神承の誰もが、そう考えていた。

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