答えはもうそこに
「おう」
あまりにも普段通りの返事だったせいで、彰人の思考が一拍遅れた。
目の前にいるのは間違いなく兄である。
昨日から行人と二人で先行し、こちらが三柱を含むヴァルネシア軍と向き合っている間も、どこかを回っていたはずの怜司が、なぜか巨大な鳳凰に運ばれて戻ってきた。
しかも本人は、それを特別なことだとは思っていないらしい。
「……いや、『おう』ちゃうねん」
「ん?」
「なんでカグラに掴まれて帰ってきてんねん」
「乗るとこなかったから」
「行人は乗っとるやろ!」
反射的に返した彰人の声に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
カグラの背から降りた行人が困ったように笑い、その近くでは一緒に運ばれてきた白金の獅子が前脚で地面を掻いている。
怜司だけは自分が何を言われているのか分からないらしく、首を傾げていた。
「二人乗ったら狭いやん」
「せやからって掴まれて帰ってくる奴がおるか!」
「ここにおるやん」
「見たら分かるわ!」
彰人は言い返してから、思わず息を吐いた。
腕が重い。
朝から続いた戦闘で蓄積した疲労は、神装を纏っていても消えてくれるわけではない。
痛みを避けるため無意識に肩を庇っていたらしく、力を抜いた途端、鈍い痛みが両腕を走った。
その僅かな動きを、怜司は見逃さなかった。
「腕、どうしたん」
「どうしたも何も、朝からずっとやっとったんや」
「痛いん?」
「そら痛いわ。兄貴らが帰ってこん間に、こっちは三柱全員来とったんやぞ」
「ふうん」
「ふうんて」
彰人が呆れた顔を向ける。
怜司の視線は、もう彰人にはなかった。
その先にいたセレスティアを見ている。
彼女は少し離れた場所に立ったまま、まだ動いていなかった。
長い戦闘の疲れもあるのだろうが、それ以上に、つい先ほどまで彰人と交わしていた言葉の余韻が残っている。
頬には拭いきれなかった涙の跡があり、目元も赤い。
怜司はもう一度、彰人を見る。
両腕をまともに上げることも難しくなっている弟。
再びセレスティアを見る。
泣いた跡を残している少女。
「……どうなってんの?」
「それ説明したら長いねん!」
「喧嘩したん?」
「ちゃうわ!」
彰人の返答は早かった。
セレスティアも慌てたように首を振る。
『喧嘩では、ありません』
「ほな、なんで泣いてんの」
『それは……』
問い返されたセレスティアが言葉を詰まらせる。
彰人も何か言おうとしたが、簡単に説明できる話ではなかった。
互いに戦う理由を知った。
理解もした。
それでも譲ることのできないものがあった。
どちらかが悪いのなら、まだ簡単だった。
そうではなかったから、答えが見つからなかった。
「まあ……色々あんねん」
「ふうん」
怜司はそれ以上追及しなかった。
ただ、彰人の腕とセレスティアの顔をもう一度見比べたあと、それまで僅かに傾いていた首を戻した。
何かを考え込んだわけでもない。
表情が険しくなったわけでもない。
むしろ、余計なものが少し抜けたようにも見えた。
だからこそ、彰人には分からなかった。
少し離れた場所にいたガルディオとアルディウスが、なぜ同時に反応したのか。
『――下がれ!』
アルディウスの声が響いた。
地面が爆ぜる。
最初に動いたのはガルディオだった。
巨体が大地を蹴り、先ほどまで智臣とラギアを相手にしていた時以上の速度で、一気に距離を詰めてくる。
反対側からはアルディウス。
雅史との戦いでは膨大な知識と経験を使い、相手の判断を読み、その先を塞ぐことに徹していた男が、今は駆け引きそのものを捨てていた。
二人とも理由を説明できなかった。
ただ、長い年月を生き延び、数え切れないほどの戦場を経験してきた身体が、目の前に現れた男をそのままにしておくことを拒絶した。
『待ってください!』
セレスティアが叫ぶ。
しかし、もう遅い。
ガルディオの拳に力が集まり、アルディウスの周囲では複数の術式が一度に展開する。
怜司はその声に気づき、視線だけを横へ動かした。
続いて身体が向きを変える。
右足はほとんど動かさず、左足を半歩引くようにして踵を滑らせる。
ただ振り向くためだけの、ごく日常的な動作だった。
ポケットに入れていた片手さえ出さず、肩も上がらない。
ガルディオと目が合った。
次の瞬間、ガルディオの身体が止まった。
『――ッ!?』
止まった、ように見えた。
実際には前へ進んでいた力そのものが行き場を失い、その巨体が斜め後方へ弾かれている。
ほぼ同時に、アルディウスの術式が崩れた。
発動を妨害されたわけではない。
何かに打ち消されたわけでもない。
術式を維持していた本人が、ほんの一瞬だけ、それを続けることを忘れた。
ガルディオが地面を削りながら後方へ飛ばされ、アルディウスも数十歩分の距離を押し戻される。
二人とも途中で体勢を立て直したものの、着地した足はさらに地面を抉り、ようやく止まった時には、元いた場所から大きく離れていた。
怜司は何も構えていない。
振り返った時と同じ姿勢のまま、飛ばされた二人を見ていた。
「……なんやねん、急に」
「……兄貴?」
彰人の口から、さっきとは違う意味で同じ呼び方が漏れる。
「ん?」
「いや、今の何や」
「知らん」
「知らんて――」
彰人は思わず右手を怜司へ向け、今の出来事を指し示そうとした。
肩の高さまで上がる前に痛みが走る。
「痛っ……!」
慌てて腕を下ろした彰人を見て、怜司の視線がまたその腕へ落ちた。
「ほら、痛いやん」
「今そこちゃう!」
そのやり取りを理解する余裕が、ヴァルネシア兵にはなかった。
三柱のうち二人が、突然現れた一人の男へ向かった。
そして、触れることさえできずに吹き飛ばされた。
前線の兵士たちに分かったのは、それだけだった。
何をされたのかは分からない。
だからこそ、未知の魔術か何かだと考えた。
一人ならば囲める。
術を使わせる前に数で押さえればいい。
誰かがそう判断し、武器を構えた。
『囲め!』
声が上がる。
『三柱を援護しろ!』
最初に数人が走り出し、それに十人、二十人と続いた。
指揮系統を通した命令ではない。
理解できないものを前にした恐怖が、かえって彼らを前へ押し出していた。
ガルディオが顔を上げる。
『待て――』
制止しようとした声は、前へ走る兵士たちの足音に飲まれた。
中衛では、前線で何かが起きたことを察した十三将が動き始めていた。
彼らから怜司の姿をはっきり確認することはできない。
それでも、三柱のいる方向から突然生じた異常を見過ごすことはできず、前線へ戻るため部隊を組み替えようとしている。
さらに裂け目に近い後方では、八傑も異変に気づいていた。
突破を続けるべきか。
前線へ戻るべきか。
それぞれが判断を切り替えようとする中で、怜司だけが、自分へ向かってくる兵士たちを見ていた。
先頭の兵士が剣を構える。
その後ろから、さらに人が続く。
怜司は動かなかった。
それでも、最初の兵士の足が止まった。
片足を踏み出した姿勢のまま、次の一歩が出ない。
後ろから続いた兵士も、次々と速度を失っていく。
『……な……』
誰かが声を漏らす。
目の前にいるのは一人だ。
鎧すら着ていない。
武器も持っていない。
何かの術式が展開された様子もない。
それなのに、身体が前へ進むことを拒んでいる。
剣を握った指から力が抜け、柄が汗で滑る。
喉が渇く。
逃げなければならない。
理由もないのに、その感覚だけが身体の奥から浮かび上がってくる。
『怯むな!』
後方から声が飛んだ。
『セレスティア様も戦っておられる! 我々が止まってどうする!』
『ここで退けば、また星堕としが来るんだぞ!』
『国を守るためだ! 進め!』
自分たちを奮い立たせるための声だった。
恐怖に意味を与え、それを押し込めるための言葉でもあった。
けれど怜司には、別のものとして届いた。
赤くなった目をしたセレスティア。
まともに腕を上げられなくなっている彰人。
その二人が何を話していたのか、怜司は知らない。
何があったのかも知らない。
それでも、見れば分かることくらいはある。
そんな二人を見ようともせず、さらに戦えと声を上げる者がいる。
怜司の目が、声のした方へ向いた。
「……ちゃんと見てから言えや」
彰人の背筋を、冷たいものが走った。
「……兄貴」
物心ついた頃から、ずっと見てきた。
普段は何を考えているのか分からないことも多い。
怒鳴ることも少ない。
感情を大きく表へ出す方でもない。
だから分かる。
これはまずい。
「兄貴、ちょ――」
言葉を最後まで続けることができなかった。
何かが起きた。
けれど、何が起きたのかを彰人自身も説明できない。
風はない。
音も消えていない。
目を閉じたわけでもない。
大地も、空も、目の前の怜司も見えている。
隣にはセレスティアがいる。
少し離れた場所には雅史と智臣がいる。
そのはずなのに、それらを知覚しているという実感だけが急速に薄れていった。
世界から色が消えたわけではない。
暗くなったわけでもない。
むしろ、何もかもが白く塗り潰されていくようだった。
見えている。
聞こえている。
それなのに、何を見ているのかが分からない。
自分がどこに立っているのかさえ曖昧になり、ただ一つ、そこにいる怜司だけが認識の中へ残った。
彰人だけではなかった。
雅史が息を呑む。
知識を探した。
恐怖を引き起こす魔術。
精神干渉、幻覚、威圧、神獣による干渉。
自分が知る限りの現象を一瞬で並べ、それらのどれにも当てはまらないことに気づく。
智臣はラギアへ視線を向けようとした。
深海で感じる恐怖とは違う。
底が見えないから怖いのではない。
何かに捕食されるからでもない。
そもそも、深いも浅いもない。
比較するための尺度そのものが、どこにもなかった。
中衛でも、優斗が弓を持ったまま動きを止めていた。
「……なんじゃ、これ……」
すぐ近くでは清隆が周囲を確認しようとしている。
視線は動く。
頭も働く。
だが、自分の身体が次に何をすればいいのかという、ごく単純な命令だけがうまく繋がらない。
裂け目付近では、洋一が真っ先に仲間を見た。
桜子、智希、恭平、良澄。
全員が同じ方向を見ている。
「……怜司?」
その名を口にしたところで、洋一自身も呼吸が浅くなっていることに気づいた。
「ちょ……これ、洒落ならんで……」
桜子が胸元を押さえる。
自分が怖い。
それ以上に、周囲の兵士たちの顔色が一気に変わっていることが怖かった。
良澄も同じものを見ていた。
「このまま続いたら……倒れる人が出る」
穏やかな声から、いつもの余裕が消えている。
恭平が何か言おうとして、うまく息を吸えずに口を閉じた。
智希も笑っていない。
そして、ヴァルネシア側ではさらに深刻だった。
一般兵の一人が剣を落とした。
拾おうとはしない。
拾えない。
呼吸をしなければならない。
頭では分かっている。
なのに肺がその方法を忘れたように動かず、喉から細い音だけが漏れる。
膝をつく者が出た。
その場に立ったまま涙を流す者もいる。
何が怖いのか分からない。
分からないから、どこへ逃げればいいのかも分からない。
中衛から戻ろうとしていた十三将も、その場で足を止めた。
戦場で積み重ねてきた経験が、何の役にも立たない。
何かが来る。
攻撃される。
殺される。
そういう予測すら成立しなかった。
ただ、これ以上動いてはいけないという結論だけが、理由を伴わず身体へ刻み込まれていく。
裂け目側でも同じだった。
前線へ戻ろうとしていたフィルネは一度大きく翼を打ったものの、次の羽ばたきへ繋げられず、ほとんど滑空するように高度を落として地面へ降りた。
ゼグが歯を食いしばる。
ゴルガも足へ力を込めたまま動けない。
ミリアは逃げ道を探そうとして、視線を動かすことさえ怖くなった。
ベルンだけは、それでも現象を理解しようとしていた。
魔力の流れ、術式、魔道具、神装。
何かがあるはずだと探し続ける。
何もない。
その事実へ辿り着いた瞬間、背中を冷たい汗が流れた。
前線では、ガルディオが片膝をついていた。
アルディウスも立ってはいるものの、指先の震えを止められない。
先ほど自分たちを吹き飛ばしたもの。
今なら、それが攻撃ではなかったことだけは分かる。
怜司は何もしていない。
何かを放ったのでもない。
ただ、自分たちが近づくことを許されなかった。
それだけだった。
『……何なのだ……』
アルディウスの声が掠れる。
千五百年を生きてきた。
国家の興亡を見た。
災害も、戦争も、魔物の群れも知っている。
比較できるものが一つもなかった。
その事実が、知識を持つ彼にとっては何より恐ろしい。
セレスティアも震えていた。
それでも、隣にいる彰人を見る。
『彰人……』
「……分かっとる」
彰人は息を整えようとして、うまくいかないことに苛立った。
「これ……アカンやつや」
身体は近づくなと言っている。
その身体を無視して、一歩だけ前へ出た。
「兄貴」
返事がない。
「兄貴って!」
怜司が彰人を見る。
「なんや」
「なんやちゃう! もうええ!」
「でも――」
「もう誰も動いてへん! 見たら分かるやろ!」
彰人が周囲を示す。
今度は腕を上げなかった。
視線だけで十分だった。
「セレスティアも、もう戦う気ないから!」
『はい!』
セレスティアが即座に答える。
声が少し裏返った。
『ありません! もうありませんから!』
「ほら!」
怜司は彰人を見る。
次にセレスティアを見る。
二人が並んで、必死になって自分へ訴えている。
少し考える。
「……仲直りしたん?」
「今そこちゃうねん!!」
彰人の声が響いた。
『ち、違――いえ、違わなくは……』
「セレスティアも真面目に答えんでええから!」
怜司が二人を交互に見る。
さっきまで泣いていたセレスティアが彰人と一緒になって自分へ声を上げている。
彰人も彼女を庇うように前へ出ている。
「なら、ええけど」
怜司の関心が、ふっと二人から外れた。
その瞬間だった。
世界に音が戻った。
誰かが大きく息を吸う。
それを合図にしたように、あちこちから荒い呼吸が重なった。
咳き込む者。
その場へ座り込む者。
張り詰めていた足から力が抜け、隣の兵士へしがみつく者。
武器を落としたまま、両手を地面について何度も息を吸う者もいる。
中衛では十三将がようやく動き始めたものの、すぐに前線へ向かおうとする者はいなかった。
八傑も同じだった。
動ける。
それでも、動こうとは思えない。
「……っはぁ……!」
桜子が胸元を押さえたまま大きく息を吐く。
「何やの、今の……」
「僕も……息、止めてたみたい」
良澄が呼吸を整えながら周囲を確認する。
恭平がその場へしゃがみ込み、智希は珍しく何も言わずに額の汗を拭った。
洋一も一度深く息を吸ってから、前線を見る。
「……怜司、ですか」
誰に確認するでもない言葉だった。
雅史は額へ浮いた汗を手の甲で拭う。
智臣はラギアと一度だけ視線を交わした。
言葉は必要なかった。
自分たちが知る恐怖とは、まったく別のものだった。
彰人は膝へ手をつき、大きく息を吐く。
「……ほんま、勘弁してくれや……」
「何が?」
「自覚ないんが一番怖いねん!」
怜司が首を傾げた。
その時、アルディウスの表情が変わった。
まだ呼吸は整っていない。
それでも何かを感じ取ったように目を見開き、戦場ではない遠くへ意識を向ける。
『……陛下』
王城から届いた意思伝達だった。
アルディウスはしばらく黙ってそれを受け取り、やがて顔を上げた。
『王命だ』
声はまだ僅かに震えていた。
『全軍、武器を捨てよ。戦闘行為を即時停止する』
周囲にいた兵士たちが顔を上げる。
『日本への侵攻を断念する。全軍、武装を解除し、以後の命令があるまで待機せよ』
アルディウスは一度目を閉じた。
『我々は――降伏する』
誰も異を唱えなかった。
最初に剣が落ちる。
続いて槍が置かれる。
それは前線から中衛へ、さらに後方へと少しずつ伝わっていった。
怜司だけが、その光景を不思議そうに眺めている。
「……なんで?」
「兄貴のせいや!!」
◇
戦闘が完全に停止してからも、すぐに王城へ向かうことはできなかった。
まず必要だったのは、戦場を元の場所へ戻すことだった。
負傷者の確認。
武器の回収。
離れた部隊への王命の伝達。
そして、先ほどの恐怖で体調を崩した者たちへの対応。
桜子が救護所へ着いた時には、良澄がすでにヴァルネシア側の治療担当者と一緒に兵士の状態を確認していた。
「良澄、どない?」
「大きな怪我は少ないよ。呼吸が乱れた人と、転んだ時に怪我した人が何人かいるくらい」
「ほな、そっち手伝うわ」
桜子は何の躊躇もなくしゃがみ込み、近くにいた兵士の腕を取った。
治療を受ける側の兵士が戸惑う。
つい少し前まで、自分たちは彼女が守る裂け目を突破しようとしていた。
それを気にしている様子は、桜子にはない。
「ここ痛い?」
『……少し』
「ほな動かさん方がええな。良澄、これ捻っただけっぽい?」
「たぶん。でも一応、向こうの人にも診てもらおう」
兵士が二人を見比べる。
『なぜ……』
「ん?」
『我々は、あなた方の敵だった』
「もう終わったんやろ?」
桜子はそれだけ言って、次の負傷者へ向かった。
良澄も柔らかく笑う。
「痛いのと、それとは別だからね」
兵士はしばらく何も言えなかった。
少し離れた場所では智希が周囲を回り、混乱で逃げた動物や荷役用の獣が戦場へ入り込んでいないかを確認している。
恭平は拘束していた兵士たちを順番に解放し、装備を返すものと預かるものを分けていた。
戦いが終わった。
その実感は、武器を捨てた瞬間よりも、こうして互いに同じ場所で負傷者を運び始めた時の方が強かった。
◇
裂け目の周囲には、しばらく人を残す必要があった。
ヴァルネシア全軍へ王命が届くまでには時間がかかる。
離れた部隊が事情を知らずに現れる可能性もある。
清隆は自分が作り上げた地形を眺めながら、すぐに元へ戻す必要はないと判断した。
「ここは僕が残るよ。陣を解除するのも、全軍の撤収を確認してからの方がいい」
優斗が弓を肩へ掛け直す。
「ならワシも残る。二人おった方が何かあった時に楽じゃろ」
洋一は二人の顔を見てから頷いた。
「分かりました。では、ここをお願いします」
残る二人へ状況を任せ、他の者たちは三柱の案内で王城へ向かうことになった。
出発前、ガルディオが怜司を見た。
すぐに視線を逸らす。
もう一度見る。
「なんや」
『……いや』
「さっきから何やねん」
『何でもない』
「変な奴やな」
『お前にだけは言われたくない』
ガルディオの返答が妙に早かった。
彰人が横で吹き出す。
「笑てるやろ」
「笑ってへん」
「こっち見ろや」
「無理やって」
彰人は顔を背けたまま肩を震わせる。
セレスティアも口元を押さえていた。
「セレスティアさんまで笑わんといてや」
『すみません』
「絶対思ってへんやろ」
『……少しだけ』
「ほら!」
怜司が二人を見る。
「やっぱ仲直りしてるやん」
「もうそれでええわ!」
彰人は考えることを諦めた。
◇
王城へ着いてから、彼らは初めて知った。
怜司が戦場でほんの少し苛立った、あの時間。
異変を感じていたのは戦場だけではなかった。
戦場から離れた城下町でも、突然、理由の分からない恐怖に襲われた者が続出したという。
商売の手を止め、その場へ座り込んだ者。
家へ駆け込み、扉を閉めた者。
泣き出した子供を抱き締めながら、自分自身も震えを止められなくなった親。
何が起きているのか分からないまま、街から逃げようとした者さえいた。
そして王城でも。
玉座にいたアルトリウスは、突然身体の自由を奪われた。
魔術を受けたわけではない。
誰かが侵入したわけでもない。
ただ、戦場のある方角から、理解することのできない何かが伝わってきた。
声を出せなかった。
指一本動かすことさえ難しかった。
王城にいた者たちも同じだった。
それでも、アルトリウスは僅かに動いた指で意思伝達の魔術を起動し、ただ一つの命令を送った。
戦闘を止めろ。
日本への侵攻を断念しろ。
降伏する。
「……そこまで届いてたん?」
説明を聞いた怜司が、純粋に不思議そうな顔をした。
『届いていた』
アルディウスが答える。
「へえ」
『「へえ」ではない』
「知らんかったし」
『我々も知らなかった』
「ほな一緒やん」
『一緒ではない』
アルディウスの返事が即座に返ってきた。
千五百歳の男とは思えない速度だった。
彰人がまた顔を背ける。
「彰人」
「なんや」
「また笑てるやろ」
「今のはしゃあないやろ!」
張り詰めていた王城の会議室に、小さな笑いが生まれた。
◇
話し合いは、そのまま始まった。
アルトリウスは王として、改めて日本への侵攻停止を宣言した。
裂け目へ展開した軍は撤退する。
以後、ヴァルネシア王国の意思によって兵を日本側へ送ることもない。
そこまでは、十二神承側にも異論はなかった。
問題は、その先だった。
『我々は侵攻した側だ』
アルトリウスが卓上へ手を置く。
『必要であれば、我が国の魔術技術を提供する。資源についても――』
「いらんいらん」
桜子が手を振った。
王が止まる。
『しかし』
「うちら、何か貰いに来たんちゃうし」
彰人も頷く。
「もう攻めてこんのやったら、それでええんちゃう?」
『だが、それでは我々だけが――』
「別に得したいわけじゃないからね」
雅史が穏やかに続けた。
「今ここで、無理に何かを差し出す必要はないと思うよ」
アルディウスが少し眉を寄せる。
『貴殿らには、その条件を決める権限があるのか』
洋一がアルディウスを見る。
「僕たちに必要なのは、権限ではありません」
『……何?』
「日本へ攻め込まない。それを約束していただければ、僕たちがここへ来た目的は達成されます」
少し間を置く。
「国同士で細かい調整が必要なら、それは後でやればいいでしょう。僕たちは僕たちで、必要なことを決めます」
アルトリウスが十二人を見る。
侵攻してきた軍を止めた。
三柱も、八傑も、十三将も突破できなかった。
そして最後には、たった一人が僅かに不快感を見せただけで、王城まで届く恐怖を生んだ。
確かに、この者たちが誰かの許可を得なければ動けないとは思えなかった。
『……分かった』
アルトリウスが頷く。
『ならば、今は侵攻停止のみを約束しよう』
「それでお願いします」
洋一が答えた。
『だが』
アルトリウスの表情が曇る。
『それで、すべてが解決したわけではない』
セレスティアも視線を落とした。
『星堕とし……』
王が続ける。
『我々が日本へ向かわなくなったとしても、あれは止まらない』
会議室の空気が少し変わった。
『次にどこへ落ちるかも分からない。避難を続けるにも限界がある。我々が降伏することで日本の者たちを傷つけずに済むのなら、それでよい。だが、その代わりに我が民が失われることを、王として受け入れられるわけではない』
アルトリウスの声には、敗者としてではなく、国を預かる者としての苦悩があった。
セレスティアが唇を噛む。
彰人も彼女を見る。
昨日まで二人の間に答えがなかった理由が、そこにある。
行人も黙って話を聞いていた。
最初は。
アルトリウスが次の星堕としについて話す。
セレスティアが避難の難しさを説明する。
アルディウスが被害の記録へ触れる。
行人は何度か頷いていた。
何度目かの頷きが、途中で止まった。
行人の中で、それまで別々に聞いていた話が急に一本へ繋がった。
アルトリウスたちは、星堕としが止まらないことを前提に話している。
セレスティアも、アルディウスもそうだ。
誰一人として、自分と怜司が向こうで何を確認してきたのかを知っている様子がない。
そこまで考えて、行人の目が僅かに見開かれた。
「……!」
ゆっくりと横を向く。
怜司は普通に座っていた。
焦るでもなく、話へ割り込むでもなく、今後のヴァルネシアについて話すアルトリウスたちを眺めている。
その横顔を見ているうちに、行人の中にあった嫌な予感が確信へ変わった。
「……怜司さん」
「ん?」
呼ばれて、怜司が顔だけを向ける。
行人はすぐには次の言葉を出さなかった。
まさかとは思う。
それでも、この男ならあり得ると思えてしまうところが困る。
「もしかして……まだ言ってないんですか?」
「何を?」
「星堕としです」
「ああ」
怜司は一度だけ頷いた。
「まだやな」
あまりにも自然な返事だった。
行人は数秒その顔を見つめたあと、両手で顔を覆った。
「…………」
隣にいた彰人が、その反応を見逃さなかった。
兄と一緒に戻ってきた行人が、ここまで露骨に頭を抱える。
それだけで、ろくでもない何かが隠れていることくらいは分かる。
「……行人、何や」
「いや……」
行人は顔を覆ったまま、深く息を吐いた。
「僕、もう話したものだと思ってて……」
「何をや」
「僕たちが向こうで調べてきたことです」
その言葉で、彰人だけでなく、卓を囲んでいた者たちの視線が少しずつ怜司へ集まり始めた。
セレスティアも顔を上げる。
アルディウスは行人と怜司を見比べ、アルトリウスも話を止めた。
自分へ視線が集まっていることには気づいているはずなのに、怜司は特に気にした様子もない。
「星堕とし、止められると思うで」
今度は、誰もすぐに反応しなかった。
言葉の意味が伝わらなかったのではない。
むしろ逆だった。
つい先ほどまで、アルトリウスは侵攻を断念した後に残される最大の問題として星堕としを語っていた。
セレスティアも、アルディウスも、その災厄が今後も続くことを前提に考えていた。
その根本を、怜司は今、世間話でもするような調子でひっくり返した。
『…………何?』
最初に声を出したアルトリウスでさえ、聞き返すことしかできなかった。
「次のやつ。多分、止められる」
彰人の口が半分開いた。
隣のセレスティアを見る。
彼女も同じような顔をしている。
もう一度、兄を見る。
怜司はやはり普通だった。
「……兄貴」
「ん?」
「それ、いつ分かったん」
「向こうおる時」
「帰ってきた時には?」
「知ってたで」
彰人の眉間に深い皺が寄った。
そこへ、行人が追い打ちをかける。
「僕も知ってました。ただ、怜司さんが先に戻ったので、当然もう話したものだと……」
「ちょい待て」
彰人が片手を上げた。
今度は痛めた腕ではなく、無事な方だった。
「兄貴は帰ってきた時には、もう知っとった」
「うん」
「そっから俺ら止めて」
「うん」
「王様から降伏まで来て」
「うん」
「王城まで移動して」
「うん」
「今まで一言も言うてへんかったん?」
「聞かれてへんし」
一瞬の静寂のあと、彰人が卓へ身を乗り出した。
「先に言えやぁぁぁぁぁ!!」
声が広い会議室に響き、扉の近くに控えていた兵士まで肩を揺らした。
『そうですよ!』
今度はセレスティアが立ち上がる。
椅子が僅かに後ろへ滑ったが、それにも気づいていない。
『それが分かっていたのなら、なぜ最初に言わなかったのですか!』
「せやから、聞かれてへんし」
「聞かれる前に言う話やろ!」
『その通りです!』
「帰ってきた時、それどころちゃうかったやん」
「誰のせいやと思っとんねん!」
彰人の声に、今度は行人まで大きく頷いた。
自分も伝えていなかったという意味では責任がないわけではない。
それでも、先に戦場へ着いた怜司が当然話すだろうと思っていたのだ。
「僕も、怜司さんが説明してると思ってたんですよ」
「いつ?」
「王城へ来るまでにいくらでも時間あったでしょう!」
「移動してたやん」
「移動しながら話せます!」
普段は比較的穏やかな行人まで声を強めたことで、怜司はようやく少し不思議そうな顔をした。
その様子を見ていたアルトリウスが、片手で額を押さえる。
侵攻を断念した。
王国の存亡を左右する決断もした。
その原因となった男が、実はその時点ですでに別の可能性を持ち帰っていたらしい。
しかも、言わなかった理由が「聞かれていない」。
王として何から言えばいいのか分からなくなったのだろう。
アルトリウスは一度深く息を吐いてから、改めて怜司へ顔を向けた。
『八代怜司』
「なんや」
『今後、国の存亡に関わる情報を得た場合は――』
そこで一度言葉を選ぶ。
『できれば、聞かれなくても教えてくれ』
「内容によるやろ」
アルトリウスの手が再び額へ戻った。
『そこからなのか……』
アルディウスは目を閉じたまま、何も言わない。
ガルディオは腕を組んで天井を見上げている。
つい先ほどまでの重苦しい降伏交渉とはまるで違う空気になっていた。
その中で、セレスティアだけが俯いていた。
肩が小さく震えている。
「セレスティアさん?」
彰人が気づいて顔を覗き込む。
返事の代わりに、小さな息が漏れた。
『ふっ……』
笑っていた。
堪えようとして口元を押さえるほど、余計におかしくなったらしい。
彰人と行人が揃って怜司へ詰め寄り、当の本人だけが何を責められているのか完全には理解していない。
その光景を見ているうちに、先ほどまで胸の奥を塞いでいたものまで一緒にほどけていく。
やがて目元に涙が滲んだ。
今度の涙は、先ほど戦場で流したものとは違う。
拭っても次が浮かび、セレスティアはとうとう笑いながら目尻を押さえた。
「セレスティアさん、また泣いてるやん」
『これは……違います』
笑いを抑えきれないまま、首を振る。
『大丈夫です。これは、本当に……大丈夫ですから』
「ならええけど」
怜司が納得したように頷く。
彰人が即座に兄を見る。
「原因の半分くらい兄貴やからな!」
「なんでやねん」
「そこから説明せなアカンの!?」
彰人の声に、セレスティアはまた堪えきれなくなった。
笑いながら流す涙を拭う姿を見て、今度はアルトリウスの表情まで僅かに緩む。
少なくともその瞬間だけは、敗者と勝者でも、侵攻した国とそれを止めた者たちでもなかった。
ただ、どうしようもなく話の通じない一人を囲んで、同じように呆れている者たちがいた。
◇
怜司と行人が調べてきたことが共有されると、話の意味そのものが変わった。
星堕としは無作為に落ちているわけではない。
概念体を狙っている可能性が極めて高い。
特に、力の弱いものや、新しく生まれたものが優先されているらしい。
そして、次に狙われる可能性が高い概念体は、ヴァルネシア国内の村にいる。
『では、その村を避難させるのですか?』
セレスティアが尋ねる。
「避難はした方がええんちゃう?」
怜司は答えてから、少し考えた。
「でも、次のやつ俺が砕いたらええやろ」
また沈黙した。
『……砕く?』
「うん」
「兄貴、星堕としやぞ」
「知ってる」
「どうやって砕くねん」
怜司が彰人を見る。
「殴ったらええんちゃう?」
「軽いねん!」
彰人が即座に返した。
清隆がいれば何か言ったかもしれない。
代わりに雅史が少し考える。
「でも、考え方としては間違ってないと思う」
「雅兄まで!?」
「いや、もちろん安全にできるなら、だけどね」
雅史は卓上へ指を置き、落下を示すように動かした。
「地上へ到達する前に十分細かく破砕できれば、大半は落下中に燃える。燃え残ったとしても、一つ一つが小さければ被害は大幅に減らせる」
智臣が続ける。
「全部消す必要はない。むしろ破片が残った方がいい」
『なぜだ?』
ガルディオが尋ねる。
「調べられるから」
智臣の答えは簡潔だった。
「組成が分かれば、自然物なのか人工的なものなのか判断できるかもしれない。残留している力も調べたい」
セレスティアの表情が変わる。
『魔術的な構造も調べられます』
「なら一緒にやればいい」
智臣が当然のように答えた。
アルトリウスは、そのやり取りを黙って聞いていた。
昨日まで星堕としは、逃げるしかない災厄だった。
今、それが少しずつ、調査し、対処する対象へ変わっている。
『……本当に』
セレスティアが小さく呟く。
『最初から、私たちが滅びるとは考えていなかったのですね』
怜司が彼女を見る。
「なんで滅びんの?」
セレスティアが目を丸くした。
彰人が頭を掻く。
「こういう奴やねん」
『……はい』
今度の笑顔には、苦しさがなかった。
◇
その日のうちに、十二神承が日本へ戻ることはなかった。
ヴァルネシア側から、せめて一晩は王城で休んでほしいと申し出があったことも理由の一つだった。
だが、それ以上に。
星堕としへの対処について大まかな方向が決まった頃には、窓から差し込んでいた光もかなり傾いていた。
戦闘が始まったのは朝だった。
そこから三柱との対峙があり、怜司たちが戻り、ヴァルネシア軍が降伏した。
負傷者の確認と軍の整理を済ませてから王城へ移動し、さらに今後について話し合っている。
時計を見る習慣のある日本側と違い、王城の中では時間の感覚が掴みにくい。
それでも窓の外に伸びる建物の影を見れば、もうすぐ一日が終わろうとしていることくらいは分かった。
何より、十二神承側にも疲労が残っていた。
彰人は座っているだけなら平気になったものの、両腕にはまだ鈍い重さがある。
雅史や智臣も、朝から三柱を相手にしていた。
裂け目側で戦っていた者たちも同じで、戦闘が終わった途端、それまで意識の外へ追いやっていた疲れが少しずつ戻ってきている。
アルトリウスはそんな彼らを見回してから、静かに口を開いた。
『今日は、この城で休んでいってほしい』
洋一が顔を上げる。
『部屋はこちらで用意する。十分なもてなしができるとは言えないが、少なくとも夜に山を越えて裂け目へ戻るよりはよいはずだ』
「それは助かります」
洋一が答えた。
拒む理由はなかった。
まだ裂け目周辺には撤収途中の部隊も残っている。
今から全員で戻ったところで、向こうの拠点へ着く頃にはかなり遅くなる。
それに、星堕としについて調べるなら、ヴァルネシア側の資料も必要になる。
セレスティアが持つ魔術の知識。
アルディウスが知る過去の記録。
現地に残る落下地点や被害の情報。
一度日本へ帰る前に確認できるものは、確認しておいた方がいい。
そんな真面目な理由を皆が考えている中で、智希だけは窓の外を見ていた。
王城の高い位置から、城下町の一部が見える。
日本とは明らかに違う建物。
行き交う人々。
遠くには見たことのない形の荷車を引く、大型の獣らしき姿もあった。
「せっかく来たんだし、街も見たいな」
ぽつりと漏れた声に、彰人が横を見る。
「観光に来たんちゃうぞ」
「分かってるって」
智希は笑いながらも、視線は窓の外へ向けたままだった。
「でもニイさんたちが星堕としのこと調べてきたんでしょ? これからこっちと一緒に調べるなら、どんなところか知っといた方がよくない?」
「……言い方は軽いけど、内容は正論なんよな」
彰人が唸る。
雅史も窓の外へ目を向けた。
「僕も、この国の記録は見ておきたいな。星堕としだけじゃなくて、過去にどういう災害が起きて、それにどう対応してきたのかも知りたい」
「水と土も見たい」
智臣が続く。
「空気も。日本と同じように見えるけど、環境そのものが同じとは限らない」
「僕も、この世界の素材は少し興味あるかな」
良澄までそう言うと、話は単なる宿泊ではなくなっていった。
日本とは違う技術体系。
魔術が存在する社会。
人間以外の種族が暮らす国。
昨日まで敵だったという事実を抜きにしても、彼らにとって知らないものばかりだった。
「まあ、帰るん明日でもええんちゃう?」
桜子が椅子の背へ身体を預ける。
「今日はもう疲れたわ」
それが一番単純で、全員が否定できない理由だった。
洋一はしばらく考えてから、行人と恭平を見る。
二人は高校生だ。
大学生組だけの都合で決めるわけにはいかない。
「明日の予定は大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫っす」
恭平が答える。
行人も頷いた。
「僕も問題ありません。連休中ですから」
「ああ、そうか」
彰人がそこで思い出したように声を上げる。
「シルバーウィークやったな」
曜日の感覚など、異世界へ来てからほとんど消えていた。
学校へ行く必要がないからこそ、全員がここまで動けている。
「なら、慌てて帰る理由もありませんね」
洋一が結論を出した。
「清隆たちにも連絡して、交代できるようならこちらへ来てもらいましょう。裂け目の状況を確認しながら、明日一日はこちらを調べる。それでどうですか?」
反対する者はいなかった。
アルトリウスは、話がまとまるのを待ってから立ち上がる。
『では、客室を用意させよう』
そこで僅かに表情を緩めた。
『もっとも、我が国が日本からの客人を迎えるのは初めてだ。何が必要なのか分からぬ部分も多い』
「寝るとこと飯あったら十分やで」
桜子が軽く答える。
『そういうものか』
「風呂も欲しいけどな」
何気なく付け加えたその一言を、この時は誰も重要視しなかった。
後になって、王城の一角へ新しい設備が増えるきっかけになるとも知らずに。
こうして、当初は戦闘が終わり次第日本へ戻るはずだった十二神承は、少なくとも一晩、ヴァルネシア王城へ滞在することになった。
◇
最初に問題になったのは風呂だった。
問題というほど大したものではない。
王城にも身体を洗うための設備はある。
ただ、日本側の拠点で清隆が作った浴場を知っている十二神承からすると、どうしても物足りなかった。
「湯船ないん?」
桜子が尋ねる。
『湯を張った槽へ入る、という意味なら、一般的ではありません』
「マジか」
そこから話がおかしくなった。
裂け目に残っていた清隆と優斗が交代で王城へ来た際、清隆へ説明する。
清隆が浴室を見る。
給水設備を見る。
排水を見る。
熱源を見る。
「これなら作れると思う」
いつもの調子で言った。
数時間後。
「ほんまに作ったん……?」
彰人が完成した浴槽を見て呟いた。
「既存の設備を使えたから」
「そういう問題なんかな……」
王城側の職人たちまで途中から参加し、気づけば簡易的ながら十分な広さの浴槽が完成していた。
最初に入ることになったのはアルトリウスだった。
『……これに入るのか』
「肩までな」
彰人が説明する。
『熱くはないのか?』
「熱かったら水足したらええやん」
恐る恐る足を入れる。
続いて身体を沈める。
肩まで湯に浸かったところで、アルトリウスが動かなくなった。
「王様?」
『…………』
「熱い?」
『いや』
長い沈黙のあと、アルトリウスが天井を見た。
『……これは、よいな』
「せやろ?」
『なぜ……』
目元を押さえる。
『なぜ我が国には、これがなかったのだ……』
「泣くほど!?」
彰人の声が浴場に響いた。
その日の夜。
ヴァルネシア王国に、入浴文化を大きく変える可能性のある何かが生まれた。
◇
桜子は厨房へ消えた。
こちらも、最初は見学するだけのはずだった。
見たことのない野菜。
日本には存在しない香草。
魔物から取れる肉。
鳥に似ているが、翼が四枚ある生物の卵。
興味を持たないはずがない。
「これ、どうやって食べんの?」
『煮込むことが多いですね』
「揚げたことは?」
『揚げる?』
そこから始まった。
王城の料理人が桜子の周囲へ集まり、逆に桜子も現地の調理法を聞き始める。
油へ衣をつけた食材が落ちる。
軽い音が厨房に響いた。
出来上がったものを料理人が恐る恐る口へ運ぶ。
目を見開く。
「どない?」
『……これは』
「塩でもええし、汁つけてもええで」
別の料理人が現地の香草を混ぜた調味料を持ってくる。
桜子がそれを天ぷらへつけて食べる。
「……これうまいやん」
今度は桜子の目が変わった。
一方的に教えるだけでは終わらない。
気づけば、厨房では日本料理とヴァルネシア料理の境界がなくなり始めていた。
◇
夕食の準備が整う頃には、王城の中にもすっかり夜の空気が降りていた。
厨房では桜子が現地の料理人たちに混ざったまま戻ってこず、智希は城内を案内してもらったついでに、見慣れない道具を見つけるたび足を止めていた。
それでも食事の時間になれば、一人、また一人と用意された広間へ集まってくる。
彰人が席を見回した。
「……あれ?」
人数が足りない。
桜子はいる。
智臣もいる。
怜司はすでに座って、卓上に置かれた見たことのない果物を眺めている。
もう一度数えて、ようやく誰がいないのかに気づいた。
「雅史どこ行ったん?」
「記録庫」
智臣が料理へ視線を向けたまま答える。
「まだ?」
「たぶん」
「たぶんて」
彰人が眉を寄せる。
昼過ぎ、雅史がアルディウスへ過去の星堕としに関する資料を見たいと頼んでいたことは知っている。
そこから何時間経ったのか。
「飯やって言うてくるわ」
立ち上がった彰人へ、智臣が一度だけ顔を向けた。
「戻ってこないかもしれない」
「なんでやねん」
「アルディウスも一緒だから」
「……ああ」
何となく嫌な予感がした。
それでも放っておくわけにもいかず、彰人は城の者に場所を聞いて記録庫へ向かった。
王城の奥へ進むにつれ、人の姿が少なくなる。
案内された扉を開けると、最初に感じたのは紙と古い木の匂いだった。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
壁一面に棚が並んでいる。
日本の本のように綴じられたものもあれば、厚い革の表紙を持つもの、筒状に巻かれたもの、薄い板へ文字が刻まれたものまである。
部屋の奥にはさらに扉があり、その向こうにも同じような棚が続いていた。
その中央。
大きな卓を占領するように、雅史とアルディウスが資料を広げていた。
「この時期だけ、被害地域が偏ってるね」
『ああ。当時は偶然だと考えられていた。だが、今聞いた概念体の話を前提にすると見え方が変わる』
「この地域に、当時何があったか分かる?」
『それを確認していたところだ。三百十四年前の地域記録が――』
アルディウスが別の資料へ手を伸ばす。
雅史も自然に身を乗り出す。
二人とも彰人が入ってきたことに気づいていない。
「……雅史さん」
反応がない。
「雅史さん!」
「ああ、彰人」
ようやく顔を上げた。
驚いた様子すらない。
「どうしたの?」
「どうしたのちゃうねん。飯やぞ」
「もうそんな時間?」
窓のない記録庫では、外が暗くなったことにも気づいていなかったらしい。
アルディウスも少し意外そうな顔をした。
『もう夜か』
「二人とも時間忘れすぎやろ」
「ごめん。もう少しだけ」
「飯冷めるって」
「この辺りだけ確認したら行くよ」
彰人は卓上を見る。
何が書いてあるのか詳しくは分からない。
ただ、資料が一冊二冊でないことだけは分かる。
「この辺りってどこまでやねん」
「この三百年前の記録と、その前後かな」
『いや、それなら先に旧王朝末期の資料を見るべきだ』
「やっぱりそう思う?」
『制度が変わる前の記録方法を確認しなければ、数字を単純比較できん』
「なるほど。じゃあそっちから――」
「待て待て待て」
彰人が割って入る。
「今増えたやろ!」
「何が?」
「見るもん増えたやん!」
雅史とアルディウスが揃って彰人を見る。
その顔に悪気はない。
むしろ、なぜ止められているのか分からないという表情だった。
彰人は悟った。
これは駄目な組み合わせだ。
「……とりあえず飯や。続きはその後にせえ」
「分かったよ」
『承知した』
二人とも素直に頷く。
彰人は少し安心した。
そして踵を返しかけたところで、雅史に呼び止められる。
「彰人、そうだ」
「ん?」
「ちょうどいいところに来たんだけど、三百年くらい前の日本で――」
「知らん!」
内容を聞く前に扉を閉めた。
夕食の広間へ戻ると、桜子が最初に彰人を見る。
「雅兄は?」
「無理や」
「何が?」
「アルディウスと二人で三百年前行っとる」
「は?」
「放っといたら帰ってこん」
智臣は予想していたらしく、何も言わずに食事を続けていた。
結局、雅史とアルディウスが食堂へ現れたのは、それからしばらく経ってからだった。
二人とも食事中まで資料の話を続け、周囲から何度か止められることになる。
どうやら、知識を集めることを好む二人を同じ記録庫へ入れた時点で、結果は決まっていたらしい。
◇
翌朝。
智臣は城下町の外へ出た。
目的は環境調査だった。
日本とは空気が違う。
単純な成分という意味だけではない。
魔力が存在する世界で、生物や水、大地がどのような影響を受けているのか。
川の水を採取する。
土を見る。
植物を見る。
さらに近くに大きな湖があると聞き、そちらへ足を伸ばした。
ラギアも一緒だった。
『何かいる』
湖面を見ながら、ラギアが言った。
「いるね」
智臣も水面を見る。
波が不自然に広がっていた。
案内役の兵士の顔色が変わる。
『近づかない方がいい。あの湖には主がいる』
「主?」
『巨大な水棲魔獣だ。漁師も湖の中央には近づかない』
水面が盛り上がった。
大きな影が動く。
次の瞬間、巨大な魚に似た生物が水面を割った。
智臣が見上げる。
ラギアも見上げる。
『……獲るか』
「調べたい」
『なら獲るか』
「うん」
話は早かった。
◇
昼が近づき、王城の厨房では昨日に続いて慌ただしい時間が始まっていた。
桜子はすでに完全な部外者ではなくなっていた。
朝から顔を出していたせいもあり、料理人たちも何か分からない食材があれば桜子へ見せ、逆に桜子も気になった調味料を見つければ使い方を尋ねている。
言葉そのものはセレスティアの魔術のおかげで通じる。
問題になるのは、食材の常識だった。
「これ、生で触って大丈夫なん?」
『大丈夫です。ただし、内臓には毒があります』
「先に言うて!」
慌てて手を離す桜子を見て、料理人たちが笑う。
昨日まで互いに武器を向けていた国の人間同士とは思えない光景になっていた。
その時、厨房の外が妙に騒がしくなった。
最初は誰も気にしなかった。
食材が運び込まれることもあれば、昼食の準備で人が出入りすることも多い。
だが、ざわめきは収まるどころか次第に大きくなっていった。
『何だ?』
料理人の一人が入口へ向かう。
すぐに足を止めた。
『……え?』
「どないしたん?」
桜子も入口から外を覗く。
人が集まっていた。
兵士、使用人、たまたま通りかかったらしい城の者。
その全員が、同じ方向を見ている。
人垣の向こうから、智臣が歩いてきた。
いつもと変わらない。
服が少し濡れていることを除けば、朝に湖へ向かった時と大差なかった。
「智兄?」
「ただいま」
「何や、その騒ぎ」
「これ」
智臣が後ろを見る。
人が左右へ避けた。
その向こうにあったものを見て、桜子の動きが止まった。
「…………は?」
巨大な魚。
そう呼んでいいのかも分からない。
魚に似た身体をしているが、頭部には硬い突起があり、背には鰭とも角ともつかないものが並んでいる。
数人の兵士が協力して運んでいるにもかかわらず、尾はまだかなり後ろにあった。
その横をラギアが平然と移動している。
「智兄」
「うん」
「何捕ってきてんねん」
「湖の主らしい」
「主を捕ってくんなや!」
厨房の奥まで桜子の声が響いた。
周囲の料理人たちも、笑うどころではない。
何人かは本気で青ざめていた。
『本当に……倒したのですか』
年嵩の料理人が恐る恐る近づく。
「捕まえただけ」
『捕まえた……』
「調べたかったから」
『調べるために……』
現地側には、その説明の方が理解しにくかったらしい。
桜子は額へ手を当てた。
「朝、環境調べに行く言うてたやんな」
「調べたよ」
「結果がなんで主やねん」
「ラギアが見つけた」
『いたからな』
ラギアが当然のように答える。
「ほんで捕ったん?」
「うん」
「この二人アカンわ」
桜子が呟く。
そこへ騒ぎを聞きつけた彰人と智希までやってきた。
「何や何や?」
「うわ、でっか!」
智希は素直に目を輝かせる。
彰人は巨大な水棲魔獣と智臣を見比べた。
「……智臣さん」
「何?」
「確か、調査行ったんちゃうん?」
「だから調査した」
「この流れ今日二回目やで!」
周囲にいた兵士の一人が、まだ信じられない様子で水棲魔獣を見ていた。
『この湖の主は、昔から漁師が避けていた魔獣です。船を沈められたこともあります』
「危ない奴やったん?」
桜子が聞く。
『近づかなければ襲われることは少ないのですが……湖の中央は、これがいるため漁場にできませんでした』
桜子がもう一度、巨大な主を見る。
さっきまでの呆れとは少し違う顔になる。
「……これ、食えるん?」
空気が変わった。
智臣も水棲魔獣を見る。
「それはまだ調べてない」
『食べられるとは聞いています』
案内役として同行していた兵士が答えた。
『昔、一部を食した記録があると。ただ、討伐できる者がほとんどいないので……』
「うまいん?」
『美味だった、と』
桜子の目が変わった。
厨房の料理人たちにも、その変化は分かったらしい。
「……ほな」
袖を捲る。
「捌こか」
「切り替え早ない?」
彰人が呆れる。
「食えるんやったら食材やろ」
「さっきまで主言うてたやん」
「もう捕まってもうてるし」
「強い」
智臣が静かに同意した。
「あんたが言うな!」
そこから厨房は、朝以上の騒ぎになった。
現地の料理人でも、湖の主を丸ごと扱った経験のある者はいない。
魚に似ているからといって、日本の魚と同じ構造とも限らない。
智臣が調査を兼ねて身体の構造を確認し、現地の者が食べられる部位を過去の知識から探り、桜子が実際の調理方法を考える。
切り分けた身は見た目より淡い色をしていた。
「白身っぽいな」
『こちらでは、焼くか煮ると聞いています』
「昨日揚げ物やったし……今日は焼いてみよか」
現地の香草、塩、日本にはない酸味の強い果実。
桜子は料理人と相談しながら、いくつかの調理法を試していった。
昼食の卓へ料理が並んだ頃には、それが数時間前まで湖の中央で恐れられていた存在だとは分からなくなっていた。
アルトリウスは説明を聞いて、皿と智臣を交互に見る。
『……これが、あの湖の主なのか』
「らしいで」
桜子が答える。
『それを今朝、捕らえた?』
「智兄がな」
王の視線が智臣へ移る。
智臣は普通に食事を始めている。
『なぜ……』
「調査」
短い答えだった。
アルトリウスは何か言いかけ、結局諦めたように自分の皿へ視線を戻した。
恐る恐る一口食べる。
しばらく噛む。
もう一口。
「どう?」
桜子が聞く。
アルトリウスは真面目な顔のまま頷いた。
『……美味い』
「せやろ?」
その返事を聞いた現地の料理人たちが、ようやく安堵したように笑った。
こうして長年湖の中央を占拠していた主は、捕獲されたその日の昼、王城で十二神承とヴァルネシアの者たちが同じ卓を囲むための料理になった。
◇
一泊の予定は、結局二泊になった。
星堕としについて調べること。
ヴァルネシアの記録を見ること。
裂け目周辺の状況を確認すること。
互いの世界について知らなければならないことが、あまりにも多かった。
その合間に、厨房では新しい料理が増えた。
王城には浴槽ができた。
城下町を歩けば、昨日まで敵として見られていた十二人へ恐る恐る声をかける者も現れた。
子供たちは神獣の方へ興味を示した。
大人たちは怜司を見ると、まだ少し距離を取った。
「なんで俺だけ避けられんの?」
「分かって言うとるやろ」
「分からん」
「ほな一生分からんでええわ」
彰人は諦めた。
戦いが終わったからといって、問題がなくなったわけではない。
むしろ、ここから始めなければならないことの方が多い。
星堕としの正体。
それを起こしているもの。
ヴァルネシアと日本を繋ぐ裂け目。
互いの国との関係。
細かい話は、一度日本へ戻ってから整理する必要があるだろう。
それでも。
昨日まで武器を向け合っていた者たちが、同じ卓で食事をしている。
日本から来た学生が王城に風呂を作り、厨房で料理を教え、湖の主を捕まえ、古い記録を現地の者と一緒に読み漁っている。
その光景を見ていると、少なくとも一つだけは分かった。
答えがないから、戦うしかない。
そんな前提は、もうどこにもなかった。
王城の窓から城下町を眺めながら、彰人が隣の兄を見る。
「兄貴」
「ん?」
「星堕とし、ほんまにいけそうなん?」
「多分」
「その多分が怖いねんけど」
「次の見たら分かるやろ」
「まあ……せやけど」
彰人は窓の外へ視線を戻した。
まだ何も解決していない。
けれど、何をすればいいのかさえ分からなかった昨日とは違う。
「……ほな、次はそっちやな」
「せやな」
怜司も窓の外を見る。
その返事は、いつも通り雑だった。
星堕としを止める方法も。
この世界とどう付き合っていくのかも。
まだ、形になった答えが出たわけではない。
それでも、探し続けるための道も、その隣を歩く者も。
答えへ繋がるものは――もう、そこにあった。




