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十二神承   作者: 境塚 透
第一章:隔たりの先に
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19/37

答えのないまま

 夜が明け始めた頃、拠点の周囲にはまだ薄い靄が残っていた。

 森の向こうから差し込む朝日は弱く、木々の輪郭をようやく浮かび上がらせた程度だったが、昨夜まで人の行き来が続いていた地面には静けさが戻っている。

 戦場になる場所から少し離れているだけで、鳥の声も、葉が擦れる音も普段と変わらない。

 その静けさの中、洋一は建物の外で湯気の立つカップを手にしていた。

 裂け目がある方向を見てはいるものの、ここからヴァルネシア軍の陣が見えるわけではない。

 互いの布陣する場所の間には意図的に広い緩衝地域が取られており、森や起伏にも遮られているため、普通なら相手が動き始めるまで何も分からない距離だった。


「早いね」


 後ろから聞こえた声に振り返ると、雅史が建物から出てくるところだった。


「雅史さんも」

「何となく目が覚めちゃって」


 雅史は洋一の隣まで来ると、同じように森の向こうへ目を向けた。何かが見えたわけではない。それでも、しばらく意識を向けているうちに表情が僅かに変わる。


「……いるね」

「やっぱり分かります?」

「大体だけどね。昨日より、濃い気がする」


 人数や配置まで分かるほど明確なものではない。

 ただ、遠くに集まる多くの気配の中に、昨日までとは違うものが混じっている。

 洋一がそれを確かめるようにカップへ口をつけた。


「今日は、三柱が揃うと思いますか?」

「そうなるんじゃないかな。昨日は八傑が全員出て、それでも突破できなかったから」


 昨日の最後にはガルディオまで前線へ姿を見せている。

 こで撤退を選んだ以上、同じ戦力、同じ方法をそのまま繰り返すとは考えにくかった。

 だからといって、三柱が出てくることを単純な戦力増強としてだけ捉えることもできない。

 ガルディオは軍を預かり、アルディウスは国政と外交を支え、セレスティアは魔術院を率いている。

 三人ともヴァルネシアという国そのものを支える立場にあり、その全員が戦場へ出るのであれば、向こうも昨日までとは違う段階へ進むつもりなのだろう。


「おはよー」


 そんな二人の背後から、朝の空気にはいささか気の抜けた声が聞こえた。

 優斗が髪を軽く掻きながら外へ出てきて、その後ろを清隆もついてくる。


「早いねえ」

「もう起きる時間ですよ」

「いや、清隆。まだ普通に早朝だよ?」

「そうだね」

「そこは否定してほしかったなあ」


 優斗は眠そうな顔のまま二人の隣へ並んだが、洋一たちが見ていた方向へ目を向けると、その目が少しだけ細くなった。


「……増えてる?」

「優斗さんも分かりますか」

「何となくだけどねえ。昨日より嫌な感じする」


 清隆も森の向こうへ意識を向ける。


「三柱が揃ってるなら、そう感じてもおかしくないと思う」

「清隆も三人とも来ると思う?」

「来ない理由が減ってるから」


 清隆らしい答えに、優斗は小さく息を吐いた。

 八傑でも突破できず、十三将も止められ、兵を増やしても昨日は最後の防衛線に阻まれた。

 その結果を見てなお同じことを繰り返すより、まだ出ていない戦力を投入すると考える方が自然だった。


「今日は大変そうだなあ」

「昨日も大変だったと思いますけど」

「ワシ、中衛だったからねえ。前にいた人ほどじゃないよ」


 優斗がそう言って建物の入口へ目を向けると、ちょうど彰人が外へ出てくるところだった。

 極端に寝起きが悪そうな様子ではない。

 いつもと変わらない足取りでこちらへ歩いてきたものの、途中で右肩を回した瞬間、その動きだけが不自然に止まった。


「……痛っ」


 雅史が思わず笑う。


「来た?」

「来たわ」

「筋肉痛?」

「筋肉痛」


 彰人は不満そうに肩を揉みながら、昨日まで何ともなかったはずの自分の身体を恨めしそうに見下ろした。


「何で神装して筋肉痛なんねん。神獣経由で神様の力借りてんねんから、その辺もサービスしてくれてええと思わん?」

「サービスなんだ」

「福利厚生みたいなもんやろ」

「誰が雇用主なの?」

「知らん」


 優斗が吹き出し、彰人自身も口元だけは笑った。

 少なくとも表面上は、いつもの彰人だった。

 ただ、洋一は笑いが途切れたあともその顔を見ていた。

 昨日の夜から何を考えていたのかは、聞かなくてもある程度想像がつく。


「彰人」

「ん?」

「今日は、セレスティアさんも来ると思います」


 肩を揉んでいた手が、一瞬だけ止まった。

 彰人はそのまま森の向こうへ視線を移し、少し間を置いてから再び肩を揉み始める。


「……せやろな」


 予想していなかったわけではない。

 ガルディオが出てきた以上、残る二人がいつまでも後方にいるとは考えにくい。

 その一人が誰なのかも、昨夜から何度も頭に浮かんでいた。

 セレスティアを傷つけられるか。

 そこについては、もう考える必要すらない。

 無理だった。

 では、彼女が攻撃してきたらどうするのか。

 止めるしかない。

 どうやって。

 傷つけずに。

 結局、考えるたびに同じ場所へ戻ってくる。


「大丈夫?」


 雅史の問いに、彰人は視線を戻した。


「何が?」

「いや」

「大丈夫やで」


 返事だけは早かった。

 だからこそ、雅史も洋一も、それをそのまま受け取らなかった。


「まあ」


 そこへ別の声が割り込む。

 いつから聞いていたのか、桜子が建物の入口で腕を組んでいた。


「考えてどうにかなるんやったら、昨日のうちにどうにかなっとるやろ」

「義姉やん、雑やな」

「何がや」

「もうちょいこう、励ますとかあるやろ」

「ほな頑張り」

「もっと雑なった!」


 彰人が反射的に突っ込むと、桜子は鼻で笑いながら横を通り過ぎる。

 そのまま右肩を軽く叩こうとして、筋肉痛だったことを思い出したのか、途中で手を止めて左肩へ回した。


「痛っ!」

「そっちもかい」

「全身や!」

「ほな今日はよう温まってから行き」

「今から風呂入るん?」

「知らんけど」

「適当すぎるやろ!」


 朝の静かな空気に、彰人の声が響く。

 桜子はそれを聞いてから、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「まあ、そんだけ声出るんやったら大丈夫や」


 それ以上、何かを言って励まそうとはしなかった。

 彰人も桜子の意図には気づいたのだろう。

 気持ちが軽くなったわけでも、答えが見つかったわけでもない。

 それでも、一人で考え続けていた時よりは幾分ましになったようで、小さく息を吐いた。


「……せやな」


     ◇


 朝食を済ませたあと、それぞれが装具の確認を始めた。

 恭平は今日も彰人の靴を手に取り、靴底から縫い目まで順番に確認している。

 昨日あれだけ激しく動いて問題がなかったのだから十分とも思えるが、本人にとってはそういう話ではないらしい。


「昨日問題なかったで?」

「分かってるっすよ。一応っす」

「好きやなあ」

「途中で壊れる方が嫌じゃないっすか」

「そらそうやけど」


 恭平は靴底を押して状態を確かめたあと、紐を締め直して彰人へ返した。


「昨日あれだけ動いて問題なかったなら、今日も大丈夫だと思うっす。全力で踏んでも平気っすよ」

「ほな今日はもっと動けるな」

「筋肉痛じゃなかったんすか?」


 彰人が黙った。


「無理しない方がいいっすよ」

「高校生に正論言われた……」


 横で智希が笑っている。


「年下の方がちゃんとしてるね」

「お前も同い年やろ!」


 朝のうちは、まだこんなやり取りをする余裕があった。

 装具の確認が一通り終わると、洋一が全員の配置を改めて確認する。

 昨日までと大きく違うのは、最後の防衛線に残す人数だった。


「今日は智希と恭平君も桜子さんの近くにいてください。昨日の状況を見る限り、本当に抜けてくる人が出ると思います」

「抜けてきたら?」


 恭平が尋ねる。


「止めてください。できるだけ怪我をさせないように。ただし、裂け目へ向かう人を最優先で」

「了解っす」


 智希も装具を確かめながら頷いたが、すぐに森の方へ視線を移した。


「じゃあ、動物の方を先にやっとくよ」


 戦場になる場所から動物を遠ざける作業は、昨日までにも少しずつ進めていた。

 すべてを避難させることなどできないが、餌や匂いを使って近づきにくくしたり、クオンの気配を利用して別方向へ誘導したりと、人間には分からない方法まで含めて工夫している。

 今日は昨日以上に戦場が広がる可能性がある以上、確認しておく場所も増える。

 智希にとって、それも戦う準備の一つだった。


     ◇


 前線へ近づくにつれ、彰人から朝の軽さが少しずつ消えていった。

 昨日まで何度も歩いた森を抜けると、戦闘の痕跡があちこちに残っている。

 抉れた土や踏み潰された草、魔術が当たった場所には色の変わった岩もあり、それらを見れば昨日ここで何が起きていたのかは容易に想像できた。

 それでも、血の跡はほとんどない。

 少なくとも昨日までは、自分たちが決めたことを守れている。

 今日も同じようにできるのかと考えたところで、彰人は無意識に右肩を回しかけ、途中で思い出して動きを止めた。


「まだ痛い?」


 隣を歩いていた雅史が気づく。


「朝よりマシ」

「本当?」

「たぶん。動いたらほぐれるやろ」


 前を歩いていた智臣が振り返りもせずに答えた。


「悪化する可能性もある」

「何で朝からずっと夢ないこと言うん?」

「聞かれたから答えただけだ」

「聞いてへん!」


 雅史が笑い、彰人もつられて笑ったが、その声は長く続かなかった。

 三人がほぼ同時に前を向く。

 まだ森の向こうに姿は見えない。

 それでも、昨日までとは明らかに違う圧があった。

 大勢の兵士が集まっているというだけでは説明できない、濃い気配が三つ混じっている。


「……来てるね」


 雅史が足を緩めずに呟く。


「ああ」


 智臣も短く答えた。

 彰人は何も言わなかった。

 そのまま森を抜けて視界が開けたところで、ヴァルネシア軍の姿が見える。

 昨日より前へ出た軍勢の先頭には、三人が並んでいた。

 ガルディオ。

 アルディウス。

 そして、その中央付近に立つ少女を見つけた瞬間、彰人の足が僅かに鈍る。


「……やっぱりおるやん」


 彰人が小さく呟く。


 前線に立つ彰人、雅史、智臣は、ここへ出る前からすでに神装を纏っている。

 昨日までの戦いで八傑の力を知り、その上に立つ三柱が揃う可能性まで考えていた以上、今日は最初から様子を見る理由がなかった。


 中衛でも、優斗と清隆が同じように神装を纏っている。

 昨日とは違う。

 最初から、相手の最大戦力が出てくることを前提にした配置だった。

 誰に聞かせるでもなく漏れた声だった。


     ◇


 ガルディオ、アルディウス、セレスティアの後方には八傑が控え、そのさらに後ろには十三将と兵が続いていた。

 昨日負傷したゼグとゴルガの姿もある。

 治療を受けたのだろうが、ゼグの右脚には固定具のようなものが巻かれ、ゴルガも僅かに片肩を庇っている。

 完全な状態ではないにもかかわらず前線まで出てきたところを見ると、今日のヴァルネシア軍がどこまで戦力を投入するつもりなのかは分かりやすかった。

 三柱が前へ出る。

 アルディウスが一歩だけ先に進み、十二神承側を見渡した。


『昨日は、こちらの判断で兵を退いた』


 セレスティアの翻訳魔術を介した声は、距離があっても意味を失わず届く。


『負傷者を増やし、兵を疲弊させてまで続ける意味がないと判断したからだ。しかし、我々の目的そのものが変わったわけではない』


 洋一が前へ出る。


「こちらも同じです。昨日までと方針は変わっていません」

『そうか』

「はい」


 それ以上、確認することはなかった。

 互いに事情を知り始めたからこそ、昨日よりも言葉は少なくて済んでしまう。

 通りたい。

 通せない。

 今のところ、その間に置ける答えは見つかっていない。

 アルディウスは一度目を閉じ、開いた時には穏やかだった表情から僅かに柔らかさが消えていた。


『では――進む』


 三柱が同時に歩き始める。

 彰人はその中にいるセレスティアから目を離せないまま、一度だけ長く息を吐いた。


「……ほんまに来るんか」


     ◇


 最初に動いたガルディオが向かった先には、智臣がいた。

 昨日、八傑から報告は受けている。

 海の底へ引きずり込まれるような圧迫感と、正体を掴もうと意識するほど身体の奥から湧き上がる拒絶。

 ヴォルグが本能的に嫌がっていた相手が、今日は真正面からガルディオを待っている。


『深山智臣』

「名前は聞いている。ガルディオ=バルザーク」


 智臣が棍を構えると、その背後にラギアの気配が現れた。

 それを認識した瞬間、ガルディオの身体が僅かに強張る。

 頭では敵の能力だと理解している。目の前に海があるわけでも、自分が深海へ落とされたわけでもない。

 それでも、理屈の届かない場所から身体が下がれと訴えてくる。


『……なるほどな。ヴォルグが嫌がるわけだ』

「そうなのか」

『本人には言うな』

「言うつもりはない」

『助かる』


 会話だけなら穏やかだった。

 直後、ガルディオが地面を蹴った。

 巨体から想像するより遥かに速く間合いを潰し、放たれた拳に対して、智臣も昨日までのような余裕を残した構えは取らない。

 真正面から受ければ棍ごと持っていかれると判断し、横から腕へ当てながら軌道をずらす。

 それでも衝撃は殺しきれず、棍が軋み、智臣の足が半歩だけ滑った。

 流したはずのガルディオも崩れない。

 自分の勢いが逸らされた瞬間には別の足で踏み直し、智臣が棍を肘へ滑らせるより先に身体の向きを変えていた。


「……強いな」

『お前に言われると、褒められた気がせんな』

「褒めている」

『そうか』


 ガルディオが笑う。

 ラギアが動くたび、視界の端に深い海のような暗さが広がり、本能は変わらず退けと訴えていた。

 それでもガルディオは、その恐怖を消そうとはしない。

 怖いことと、退くことは同じではない。

 次の一歩も、前だった。


     ◇


 少し離れた場所では、雅史とアルディウスが向き合っていた。


『お前とは、一度話してみたかった』

「戦場じゃなければ、僕もそう思います」

『まったくだ』


 アルディウスは困ったように笑う。

 互いに、相手が話の通じない人物ではないことは分かっていた。

 だからこそ、今この場所で向き合わなければならないことが余計に面倒だった。


『では、始めよう』

「はい」


 先に間合いを詰めたのはアルディウスだった。

 知識を重視する性格であっても、その身体は竜人である。

 考えがまとまるまで待つ必要などなく、まず動き、その結果まで含めて次の手を選べる。

 右腕が来る。

 雅史は受ける前に軌道を読み、次に続く左、その先にある尾までを一つの流れとして捉えた。

 だが、尾へ意識を向けた瞬間、アルディウスの右腕が途中で戻る。


「……そう来ますか」

『読まれているなら、読んだ先を変えればよい』

「そうですね」


 雅史は一歩動きながら、僅かに笑った。


「僕もそうします」


 次は、読んだ場所へ最初から動かない。

 アルディウスがこちらの回避を見て軌道を変えることまで前提に置き、そのさらに先へ身体を運ぶ。

 結果として、拳は雅史が最初にいた場所でも、逃げるはずだった場所でもない空間を抜けた。


『……なるほど。面白いな』

「僕はあまり楽しくないですけど」

『私は楽しいぞ』

「でしょうね」


 アルディウスには、長い年月の中で積み上げた経験がある。

 国、人、戦場、交渉、その中で何度も選択し、失敗も成功も蓄積してきた。

 対する雅史には、一人の人生では到底集めきれない知識を必要に応じて引き出す力がある。

 経験から答えを探す者と、蓄積された知識から答えを探す者。

 性質が近いからこそ、互いの考えが互いの邪魔をする。

 アルディウスが踏み込めば雅史がその先を読み、雅史が先回りすればアルディウスが経験から違和感を拾って手を変える。

 攻防が続くほど、最初に考えた一手のさらに二手、三手先までが互いの中で更新されていった。


『そこだ』

「違います」

『ならこちらか』

「それも違います」

『では――』

「たぶん、それです」


 アルディウスの眉が僅かに動く。


『言うな』

「すみません」


 謝りながらも、雅史の口元には少し笑みがある。

 間違いなく戦っているはずなのに、遠くから見れば二人だけ別の競技でもしているようだった。


     ◇


 その二つの戦いから少し離れた場所で、彰人とセレスティアは向き合っていた。

 周囲ではすでに戦闘が始まっている。ガルディオが踏み込むたびに地面が震え、雅史とアルディウスの間でも乾いた打撃音が断続的に響く。

 そのさらに後方では兵が動き始め、金属の擦れる音や指示を飛ばす声まで重なっていた。

 そんな戦場の中で、二人だけがまだ何もしていない。

 昨日会った時にはなかった杖をセレスティアが持ち、彰人の両腕にも手甲がある。

 それだけが、昨日の続きを話しているわけではないと嫌でも教えていた。


『……おはようございます、彰人さん』

「……おはよう」


 反射的に返してから、彰人は自分でも何をしているのか分からなくなって眉を寄せた。


「いや、何やこれ」


 セレスティアの口元にも、ほんの僅かに笑みが浮かぶ。


『私にも分かりません』

「せやんな」


 その笑みは、長くは続かなかった。

 彰人の視線がセレスティアの杖へ落ちる。


「ほんまにやるん?」


 問いかけられたセレスティアはすぐには答えず、杖を握る指へ少しだけ力を込めた。


『……はい』

「やらん選択肢、ない?」

『あれば、選んでいます』

「……やんなあ」


 彰人は一度空を見上げた。

 雲は少なく、今日も天気はいい。

 こんな日に何をしているのだろうと考えても、答えが出るはずはなかった。


「昨日の続きやけど、一部だけでも先に避難させるとか無理なん?」

『どこへですか?』


 責めるような聞き方ではなかった。

 だからこそ、彰人はすぐに答えられない。

 ヴァルネシア国内に安全な場所があるのなら、そもそも彼らが日本へ来ようとする理由そのものが薄くなる。


「……日本側で何とか話通すとか」

『誰に、ですか?』

「それは……」

『あなたたちの国には、あなたたちより強い権限を持つ方がいるのでしょう?』

「おる」

『その方たちが、私たちを受け入れてくれると約束できますか?』


 彰人は唇を噛み、僅かに視線を逸らした。


「……できへん」


 自分たちは強い。

 それでも、日本という国の意思を勝手に決められるわけではない。


『私も同じです』


 セレスティアの声が静かに続く。


『私一人なら、ここで戦わないことを選べます。でも、国民にも同じ選択をしろとは言えません』

「分かってる」

『アルトリウス様も、ガルディオも、アルディウスも……みんな分かっています。あなたたちが私たちを滅ぼしたいわけではないことも、私たちが困っていることを知ったうえで、それでも止めようとしていることも』

「せやったら――」

『それでも』


 そこで初めて、セレスティアの声が僅かに揺れた。


『何もしなければ、死ぬかもしれない人がいるんです』


 彰人は口を閉じた。

 遠くで大きな音が響き、土煙が上がる。

 ガルディオの拳が地面へ当たったのかもしれない。

 それでも、彰人はそちらを見なかった。


「俺らも、通したら何が起こるか分からへん。向こうには普通に人がおる。子供もおる」

『はい』

「こっちにもおるやろ」


 セレスティアは一度だけ目を伏せた。


『……はい』

「何やねん、これ」


 昨日も似た話をした。

 その後も何度も考えた。

 だが、どこから始めても同じ場所へ戻ってしまう。


「そっちが武器置く」

『その後、どうなりますか?』

「……分からん」

『こちらを通す』

「それは無理や」

『では、別の方法を探す?』

「それしかないやろ」

『いつまでに?』


 彰人の言葉が止まった。

 セレスティアも、その答えを聞きたくて尋ねたわけではないのだろう。

 時間がない。

 だから彼女はここにいる。

 時間があれば別の答えを探せたのかもしれないという考えさえ、今の二人には何の助けにもならなかった。


「……兄貴がおったらなあ」


 彰人の口から、考えるより先に言葉が漏れた。

 セレスティアが僅かに首を傾げる。


『怜司さんが?』

「兄貴やったら、何か全然ちゃうこと言いそうやねん」

『……そうかもしれませんね』

「肝心な時におらんけどな」


 セレスティアが少しだけ笑った。

 彰人もつられて口元を緩めかけたが、その視界の端を兵士たちが横切る。

 前線を抜けている。

 三柱が三人を引きつけている間に、八傑と十三将が後方へ進み始めていた。

 彰人は反射的にそちらへ身体を向けかけた。

 だが、目の前にはセレスティアがいる。

 彼女を放置して追えば、今度はセレスティアがどこへ向かうか分からない。


「……止めなあかん」

『はい』

「でも、俺、お前のこと殴られへん」


 セレスティアの表情が僅かに曇る。


『……知っています』

「知ってんの?」

『昨日、分かりました』

「最悪や……」

『ごめんなさい』


 その言葉を聞いた瞬間、彰人の眉が強く寄った。


「何で謝んねん」

『でも――』

「そういうとこやで」

『何がですか?』

「余計やりにくなんねん!」


 思わず大きくなった声に、近くを走っていた兵士が一瞬だけこちらを見る。

 セレスティアは何も言わず、杖を両手で握り直した。

 指が震えている。

 彰人にも見えた。


「……やめよや」

『できません』

「俺も通されへん」

『はい』

「ほな、どうすんねん」


 セレスティアは杖を握ったまま、しばらく彰人を見ていた。


『戦います』


 その答えが聞きたくなかったからこそ、彰人の声が荒くなる。


「それが嫌や言うてんねん!」


 周囲の戦闘音に負けないほどの声が響き、セレスティアの肩が僅かに揺れた。


「話通じん奴やったらええんや……」


 彰人は奥歯を噛みながら、それでも目を逸らさなかった。


「向こうが悪い、こっちが正しい。ぶっ飛ばして終わり。それやったら簡単やん」


 だが、もうそうは思えない。

 セレスティアが何を考えているのかを知ってしまった。

 ヴァルネシアが、なぜここまで来たのかも知っている。


「何で分かんねん……。何で、そっちの言うてることも分かんねん」


 セレスティアの目から、一筋の涙が落ちた。


『私だって……あなたたちが間違っているとは思っていません』

「ほな!」

『でも!』


 今度はセレスティアの声が、彰人の声へぶつかった。


『それで、私たちの人たちが死んでもいいんですか!』

「ええわけないやろ!」

『なら、どうすればいいんですか!』

「それを考えてんねん!」

『時間がないんです!』

「分かっとるわ!」


 互いに息が荒くなっていた。

 一度も攻撃していない。

 それなのに、彰人には昨日までのどの戦闘よりも苦しかった。

 セレスティアは涙を拭おうとしたが、すぐに次が頬を伝った。

 拭うことを諦めたように杖を握り直し、震える先端を彰人へ向ける。


『ごめんなさい』

「謝んな」

『ごめんなさい……彰人さん』

「やめろ言うてるやろ」


 杖の先へ魔力が集まり始める。

 彰人も手甲を構えた。


「……ほんまにやるんやな」


 セレスティアは答えなかった。

 答えれば、声が崩れる。

 術が放たれた。

 光が一直線に彰人へ向かい、彰人は右腕を添えるようにして触れた。

 真正面から受け止めるのではなく、流れへ力を加えて軌道を変える。

 向ける先は横でも、後ろでもない。

 上空。

 逸らされた光が高く伸び、誰もいない空で弾けた。

 間を置かず二発目が来る。

 彰人は半歩動きながら再び上へ流し、三発目も同じように空へ逃がす。

 昨日から残る筋肉痛が肩から腕へ鈍く響いたが、今は気にしている余裕もなかった。


『どうして……』

「何がや」

『どうして、返さないんですか』

「返せるわけないやろ」

『私は彰人さんを攻撃しています!』

「知っとる!」

『なら!』

「お前に当たるやろ!」


 セレスティアの顔が歪んだ。

 次の術は、それまでより強い。

 それでも彰人は返さず、両腕を使って軌道を持ち上げる。

 光が頭上を抜け、また空で弾けた。


「そっちに返したら、お前以外にも当たるかもしれへんやろ! 横もあかん、後ろもあかん。ほな上しかないやんけ!」

『……っ』

「何やねんこれ!」


 次の術をいなしながら、彰人が叫ぶ。


「何で俺、お前の攻撃ずっと空に投げてんねん!」

『私だって、こんなこと――!』

「ほな撃つなや!」

『撃たなければ進めないんです!』

「進ませられへんねん!」


 何度話しても、何度叫んでも、結局同じところへ戻ってくる。

 セレスティアの涙は止まらない。

 それでも杖は下げられない。

 彰人も手甲を下ろせない。


     ◇


 三柱が前へ出たことで、戦線の負荷は昨日とは明らかに違う場所へ移っていた。

 前線を抜けた十三将は、自分たちだけで中衛を突破しようとはしなかった。

 昨日の戦いで、優斗の矢と清隆の地形操作が何を狙っているのかは理解している。そして、その対策を考えたのは十三将だけではない。


『魔術隊、前へ! 第一陣だけで維持しようとするな!』


 ルクスの声で、複数の魔術師が一斉に前へ出る。

 優斗はそれを見ながら弓を引いた。


「昨日と並びが違うねえ」


 放った矢が上空で分かれ、広い範囲へ降り始める。

 その直前、兵たちの頭上に半透明の魔法障壁が広がった。

 最初の矢が表面へ突き刺さり、続く矢が次々と光の膜を叩く。

 障壁全体が波打つように揺れ、維持していた魔術師たちの表情がすぐに苦痛へ変わった。

 防ぎきれる威力ではない。

 それでも、最初から防ぎきるつもりはなかった。


『交代!』


 ルクスの声が飛ぶ。

 障壁を維持していた一人が膝をつくより先に、後ろに控えていた術者が術式を重ねる。

 最初の障壁が消える直前に次が広がり、兵士たちはその数秒の間に前へ進んでいった。


「なるほどねえ」


 優斗の声から、いつもの軽さが少しだけ消える。

 昨日見たものに対し、一晩で明確な対策を組んできた。

 ナギが上空を旋回しながら別方向を見る。


『右からも来る』

「見えてるよ」


 優斗が次の矢を番える頃には、清隆の側でも昨日とは違う動きが始まっていた。

 地面が隆起し、兵の進路を塞ぐ。

 昨日なら、そこで足が止まった。

 今日は違った。


『伏せろ!』


 グランの声に応じ、大柄な兵士たちが壁の手前で一斉に身体を低くする。

 後ろから走ってきた兵がその背へ足を掛け、肩を踏み台にして勢いを殺さず壁の上へ手を掛けた。一人が越えると、すぐに次が続く。

 土台になった兵士たちは、自分が先へ進むためにそこへいるのではない。

 後続を通すために残っている。

 清隆が別の場所の地面を持ち上げると、今度はザグがそこへ兵を振り分けた。


『同じだ! 止まるな、越えろ!』


 別方向では、ドルガが自分から壁へ向かおうとしていた。


『俺が崩す!』

『待て!』


 ルクスの声が飛ぶ。


『八傑からの指示を忘れたのか! 俺たちは突破役ではない!』


 ドルガの足が止まった。

 明らかに不満そうな顔をしたものの、前へ出たい衝動を押し込めるように一度鼻を鳴らすと、近くで流れが詰まり始めた部隊へ向きを変える。


『こっちだ! 止まるな!』


 清隆はその様子を見ながら、次の地形を作る場所を探した。

 もっと高くすることはできる。

 谷を深くしてしまうこともできる。

 足場そのものを崩せば、今の方法では越えられない。

 ただし、落ちれば怪我をする。

 状況次第では死ぬ。

 それは使えなかった。


「……数が多い」

「清隆」

「うん」

「抜けるねえ」

「分かってる」


 二人とも焦ってはいない。

 だが、今の条件のまま全員を止めきるのが難しいことは理解していた。

 十三将自身が突出せず、指示と崩れた場所の補助へ回っている。

 その後ろでは、魔術師も兵士も役割を与えられ、疲弊した者から順番に交代していく。

 昨日の十三将なら、戦功を求めて自分から前へ出た者もいただろう。

 今日は、それをしない。


「昨日より面倒だねえ」


 優斗が矢を放ちながら呟く。


「十三人が賢くなった」

「指示されてるだけだと思う」

「清隆、容赦ないねえ」


 だが、その指示を守っているからこそ、確実に効果が出ている。

 兵の流れが少しずつ中衛を越え、その中には八傑の姿もあった。


     ◇


 最後の防衛線で待っていた桜子は、近づいてくる気配の数が昨日までとは違うことに早くから気づいていた。


「来よったな」


 隣へ移動してきた洋一も、その先頭にいる八傑を見る。

 昨日負傷したゼグとゴルガまで混じっている。


「治療、早いですね」

「便利やな、魔法」

「完全ではなさそうですけどね」

「それでも来るんやから元気やなあ」


 桜子が大盾を構える。

 さらに後方には、最初から智希と恭平を置いている。

 昨日の戦いを見た時点で、今日は実際にここを抜ける者が出る可能性を考えていた。

 八傑が足を止める。

 その後ろにいる兵士たちは、装備だけでなく立ち方からして昨日までの者とは違っていた。

 互いの距離を保ち、誰かが止まっても後続が詰まらないように広がっている。

 裂け目へ到達させるために選ばれた精鋭なのだろう。

 ベルンが桜子の大盾を見る。


『昨日のものだな』

「覚えてたん?」

『忘れるか!』

「結構便利やで」

『敵に勧めるな!』


 桜子は笑ったが、ベルンは大盾から目を離さない。


『あれを崩す。それしかない』

「やっぱり?」

『分かっているなら退いてくれ』

「嫌や」

『だろうな』


 桜子は大盾を地面へ立てる。

 ここを越えれば裂け目があり、その先は日本だ。

 昨日までと同じ。

 ここだけは通せない。


「ほな、今日も通行止めや」


 障壁が広がった。


     ◇


 八傑が動く。

 昨日、彰人一人へ向けた連携とは目的が違う。

 桜子を倒す必要はない。

 障壁を一瞬でも消せば、その間に兵を通せる。

 右脚を負傷しているゼグより先にゴルガが踏み込み、真正面から桜子へ向かった。

 その進路へ洋一が入る。

 長柄の装具を正面からぶつけるのではなく、肩口へ添えるようにして風を重ね、突進そのものを桜子の横へ逸らした。

 だが、ゴルガを外した瞬間にはミリアが障壁の端へ走っている。

 そこへ智希の意識が向いた。


「そっちはダメ」


 ミリアの視界から、障壁が消える。

 代わりに、裂け目へ続いているように見える道が現れた。


『えっ、こっち!?』


 迷ったのは一瞬だけだった。

 ミリアが一気に加速し、その道へ飛び込む。

 実際には、障壁に沿って横へ走っているだけだった。


「素直だねえ」

『ミリア! そっちじゃない!』


 ベルンが叫ぶ。

 ミリアが足を止めて周囲を見るが、その目にはまだ別の景色が映っている。


『どっち!?』

「こっちかもよ」


 智希が別方向から声を掛ける。


『お前か!』

「正解」


 ミリアが智希へ向きを変えた頃には、今度はフィルネが上空へ抜けていた。

 横が駄目なら上。

 判断は早い。

 ただ、それを見ていた恭平もすでに走り始めている。

 地面を強く踏み込むと、何度も確認してきた靴が力を逃がさず受け止めた。

 昨日あれだけ動いても問題はなかった。今日も全力で踏める。

 フィルネが障壁の向こうへ着地するより先に、恭平が追いつく。


『速っ!?』

「すみません!」

『何が!?』

「捕まえるんで!」

『謝るところそこ!?』


 フィルネの腕を取るが、関節を極めるようなことはしない。

 飛び出した勢いだけを殺し、そのまま身体を抱えるようにして進行方向を変える。


『ちょっと、離して!』

「暴れないでくださいっす!」

『進めない!』

「進ませないためにやってるんすよ!」


 恭平はそのまま拠点側へ走り始めた。

 戦闘が終わるまで戻ってこられないよう、一時的に隔離できる部屋を用意してある。


『待って! 私、八傑!』

「知ってるっす!」

『扱い雑じゃない!?』

「怪我させてないだけ丁寧っすよ!」


 抗議する声が遠ざかっていく。


「一人!」


 恭平が声を上げると、智希が幻影を維持したまま笑った。


「それ数えるんだ」

「分かりやすいじゃないっすか!」


 そんなやり取りができたのも、そこまでだった。

 八傑の後方から精鋭兵が一気に押し寄せる。

 正面から障壁を叩くだけではない。何人かが盾を重ね、その後ろで別の兵士が身体を低くする。

 仲間の背と肩を足場にし、障壁の上へ手を掛けようとする者まで現れた。


「いやいやいや、そう来るん!?」


 桜子が障壁を上へ伸ばす。

 その瞬間を狙い、アルネアの糸が大盾へ絡んだ。


「うわっ!」


 横へ引かれた大盾を桜子が力で戻す。

 倒れはしない。

 ただ、その一瞬だけ意識が兵から外れた。

 ナーシャの術が飛び、ヴォルグの水が足元を狙い、ゼグとベルンまで間を置かず圧力を重ねてくる。


「桜子さん!」


「分かっとる!」


 洋一が風で糸を払い、水を逸らし、ゼグの進路を押し返す。

 それでも兵は止まらない。


「多いな!」


 桜子の声から、少しずつ余裕が消える。

 倒していいなら難しくない。

 大盾を振り抜いてしまえばいい。

 障壁そのものを前へ押し出してもいい。

 だが、人が重なっている。下には仲間を乗せるために身体を伏せている者までいる。

 ここで強引に押せば、誰かが誰かの下敷きになる。

 桜子が力を調整した、その僅かな緩みを精鋭兵は見逃さなかった。

 一人が障壁へ手を掛け、身体を持ち上げる。


「抜ける!」


 智希の声とほぼ同時に、恭平が走る。

 間に合った。


「はい、こっちっす!」

『離せ!』

「嫌っす!」


 腕を取ってそのまま拠点側へ走る。

 だが、一人を連れていけば、その間に二人、三人と別の場所から越えようとする。


「智希!」

「見えてる!」


 智希が手を上げると、越えかけていた兵士たちの視界が揺らいだ。

 障壁の向こう。

 裂け目へ続いているはずの方向が変わる。


『こっちだ!』

『急げ!』

「そっちじゃないんだけどね」


 兵士たちはまったく違う方向へ走り始めた。

 そこには崖もなければ危険な地形もなく、動物が残っていないことも智希が事前に確認している。


「はい、そのまま真っ直ぐ行ってねー」


 口調だけは軽い。

 だが、額には薄く汗が浮かんでいた。

 一人へ幻を見せるだけなら何でもない。

 今は二人、三人と対象が増え続け、そのうえ八傑まで同時に相手をしなければならない。


「……ちょっと多いな」


 智希の声が僅かに低くなる。


     ◇


 洋一は風で八傑を押し返しながら、戦線全体へ意識を広げた。

 前線では三柱が三人を引きつけ、中衛では十三将と兵が優斗と清隆を数で押している。

 そして最後の防衛線では、桜子が強引な手段を使えないことまで含めて八傑に狙われ始めた。

 まだ、どこも崩れてはいない。

 だが、余裕もない。

 智希も恭平も、相手を倒すのではなく傷つけずに止める方法を選んでいる。

 それができるだけの力はあっても、人数が増えれば必要な手数もそのまま増えていく。

 洋一は、桜子の障壁へさらに数人が取りつくのを見たところで判断した。


「桜子さん!」

「何や!」

「神装してください!」


 桜子が一瞬だけ洋一を見る。

 今日まで使わなかったのは、使えないからではない。

 必要がなかった。

 そして、最後まで残しておける力は残しておきたかった。

 だが、今はその時ではない。


「ええん?」

「お願いします!」


 洋一は返事を待たず、さらに声を飛ばす。


「智希君、恭平君も!」

「はいはい!」

「了解っす!」


 桜子は大盾を握り直し、深く息を吐いた。


「しゃあないなあ」


 大盾をもう一度、地面へ深く立てる。

 その背後で、巨大な気配が立ち上がった。

 御神牛。

 マハナ。

 桜子が振り返る。


「ハナ」


 言葉で返事をする代わりに、マハナが大地を踏んだ。

 重い音が足元を伝わった瞬間、桜子を中心に空気が変わる。

 装甲は光の中から突然現れるのではなく、大地そのものから重さを受け取るように脚から腰、胴、肩へと順に重なり、最後に大盾の表面を新たな装甲が覆った。

 すべてが収まる。

 桜子が顔を上げた。


「ほな、ここまでや」


 大盾を僅かに持ち上げ、もう一度地面へ落とす。

 低い振動が広がると、それまで横へ伸びていた障壁が形を変え始めた。

 前だけではない。

 左右へ回り込み、さらに上空まで覆っていく。

 裂け目へ続く側全体を包む巨大なドームが完成すると、障壁を越えようとしていた兵士たちが一斉に足を止めた。

 昨日までは端を探せた。

 上から越えることも考えられた。

 今は、どちらもない。


「はい、終わり」


 桜子は大盾を支えたまま、目の前の兵士たちを見る。


「ここから先、完全に通行止めな」


 ベルンが障壁を見上げる。

 上へ。

 さらに上へ視線を動かしたところで、その顔が引きつった。


『……冗談だろう』

「残念やったな」


 桜子は笑った。

 ただ、その額にはすでに汗が滲んでいる。

 守る範囲が、あまりにも広い。


     ◇


 桜子の神装とほぼ同時に、智希の背後でもクオンの気配が膨らんだ。

 複数の尾が揺れ、重なった神威が智希の身体を包む。

 桜子の神装が重さを増していくように見えるのに対し、智希は逆に輪郭そのものが曖昧になっていった。


「じゃ、こっちもやろっか」


 兵士の視界の中で、一人だった智希が二人に増える。

 さらに三人。

 それぞれが違う場所で、同じように笑った。


『どれだ!?』

「どれでしょう」

「こっちかも」

「後ろかもよ」

『増えるな!』

「無茶言うなあ」


 それまで桜子へ集中していた兵士たちの視線が散り、流れそのものが崩れ始める。

 その隙間を恭平が駆け抜けた。

 神狼ロウガの気配が重なり、装甲が身体を覆った瞬間、それまででも十分に速かった動きがさらに鋭くなる。

 障壁へ取りつこうとしていた兵士が恭平を見失い、次に気づいた時には背後から腕を取られていた。


「すみません、確保っす!」

『いつ来た!?』

「今っす!」


 勢いを殺しながら進路を変え、次の兵へ向かう。

 智希が幻影で人の流れをずらし、そこへ恭平が飛び込んで確保する。

 中央では桜子が巨大な障壁そのものを維持し続けている。

 三人の役割が噛み合ったことで、最後の防衛線はようやく一つの形になった。

 洋一もその様子を見て、僅かに息を吐く。


「これなら――」

『そこだ!』


 ベルンの声が響いた。

 八傑が一斉に動く。

 障壁を越えられないなら。

 障壁を作っている本人を止めればいい。


「やっぱそうなるよなあ!」


 桜子が叫ぶ。

 アルネアの糸が走り、ナーシャの術が続く。

 ヴォルグが生み出した水が足元を狙い、その間をゼグとゴルガが一気に詰める。

 負傷している二人まで、出し惜しみをしていない。

 洋一が桜子の前へ出た。


「桜子さんには触らせません!」

「頼んだで!」


 風が広がり、八傑へぶつかる。

 フィルネが上へ逃れ、ミリアが横へ回り、ゼグとゴルガは正面から風を押し切ろうとする。

 洋一の足が半歩下がった。

 昨日とは目的が違う。

 突破のために散っていた八人が、今は桜子一人を止めるために力を集中している。


「……これは」

「手伝う?」


 幻影を維持しながら、智希がこちらを見る。


「お願いします!」

「了解!」


 クオンの尾が揺れた。

 八傑の視界の中で洋一が増える。


『またこれか!』


 ベルンが苛立った声を上げる。


「俺じゃないですよ」

「こっちこっち」


 少し離れた場所で智希が手を振る。


『お前か!』

「正解」


 八傑の視線が一瞬だけ乱れ、その間に洋一が風を広げて全体を押し返す。

 だが、八傑だけを見ているわけにはいかない。

 その間にも精鋭兵は桜子へ近づき、恭平が走り回って一人ずつ引き剥がしている。

 智希が惑わせる。

 恭平が確保する。

 洋一が八傑を押し返す。

 桜子がすべての中心で障壁を維持する。

 誰一人、裂け目へは通していない。

 それでも、四人の呼吸は少しずつ重くなっていった。


     ◇


 大盾を握る桜子の手にも、少しずつ疲労が溜まり始めていた。


「……多いな、ほんま」


 神装したからといって、力が無限になるわけではない。

 守る範囲は広く、障壁そのものへの攻撃も増えている。

 そのうえ、押し返す力まで強くしすぎれば、障壁へ群がる兵士同士がぶつかって怪我をする。

 強いからこそ。

 加減する方が難しい。

 大盾へ重い衝撃が伝わり、桜子の身体が僅かに揺れた。


「桜子!」

「大丈夫や! 前見とき!」


 振り返りかけた洋一が、すぐに八傑へ向き直る。

 ナーシャの術を風で散らし、アルネアの糸を長柄で払い、ゴルガの突進を横へ逃がす。

 そこへゼグが踏み込んだ。


「くっ!」


 洋一が受けた瞬間、足が僅かに下がる。

 すぐに智希の幻影が間へ入り、ゼグの判断を一瞬だけ遅らせた。

 その間にも、別の場所では恭平が兵士を捕まえている。


「これ何人目っすか!」

「知らん!」

「数えてなかったんすか!」

「途中で分からんくなった!」

「俺もっす!」


 普段なら笑いが起きてもおかしくないやり取りだった。

 今は誰も笑わない。

 そんな余裕が、少しずつ削られている。

 洋一は攻撃をいなしながら、もう一度全体を見た。

 前線は持っている。

 中衛も持っている。

 最後の防衛線も、まだ誰一人通していない。

 だが、この状態をあと何時間続けられるのか。

 ヴァルネシア側がさらに兵を増やした時、それでも同じように誰も傷つけず止め続けられるのか。


「……厳しいですね」


 漏れた声は、吹き抜ける風の中へ消えた。


     ◇


 前線では、彰人が何度目かも分からなくなったセレスティアの術を空へ逃がしていた。

 肩も腕も痛い。

 昨日からの筋肉痛に、今日の負荷まで重なっている。

 それでも、そんなことを気にする余裕はとうになくなっていた。


「もうええやろ!」

『まだです!』

「何発目やねん!」

『分かりません!』

「俺も分からんわ!」


 また魔術が来る。

 彰人が上へ逸らし、空で光が弾ける。

 セレスティアも息を切らしていた。

 涙の跡が頬に残っている。

 それでも杖を向ける。

 彰人も怒鳴りながら、すべてを誰もいない方向へ流し続ける。


「セレスティア!」

『はい!』

「これ意味ある!?」

『ありません!』

「ないんかい!」

『でも、止められません!』

「俺もや!」


 彰人が叫んだ、その時だった。

 遠くから聞こえてきた音に、二人がほぼ同時に顔を上げる。

 最初は風の音にも思えた。

 だが、急速に大きくなっている。

 翼が空気を叩く音。

 それも、普通の鳥ではない。

 セレスティアが杖を下げきらないまま空を見る。

 少し離れた場所ではガルディオが智臣から距離を取り、アルディウスも雅史との攻防を一度切っていた。

 ヴァルネシアの兵士たちまで、次々に上空へ顔を向ける。


『何だ?』


 誰かの声が聞こえた。

 空の向こうに、小さな影がある。

 遠い。

 だが、異常な速度で大きくなっている。

 彰人は目を細めた。


「……鳥?」


 すぐに違うと気づく。

 見覚えのある翼。

 炎を思わせる姿。


「カグラ?」


 その背に人影がある。

 彰人の表情が変わった。


「行人!」


 帰ってきた。

 そう理解した直後。

 近づいてくるカグラを見て、彰人の眉が寄った。

 何かがおかしい。

 背中には行人がいる。

 そこまではいい。

 問題は。


 脚。


「……は?」


 何かが二つ、ぶら下がっている。

 片方は白金の獅子。

 もう片方を見た瞬間、彰人の顔から戦場に立っていた緊張が一瞬だけ抜け落ちた。


「……兄貴?」


 セレスティアも目を瞬きながら空を見上げている。

 カグラが戦場の上空へ入り、大きく翼を開いた。

 巻き起こった風が地面へ叩きつけられ、兵士たちが腕で顔を覆う。

 土埃が広がる中、高度を落としたカグラがまず白金の獅子を地面へ降ろし、続いてもう片方の脚を下げた。

 怜司の足が地面につく。

 爪が離れると、怜司は少し乱れた服を手で払った。

 それから周囲を見回す。


 三柱。

 八傑。

 十三将。

 ヴァルネシアの兵。

 神装した仲間たち。

 巨大な障壁。

 泣いた跡の残るセレスティア。

 そして、疲れた顔でこちらを見ている彰人。


 何が起きているのかを確認するように一通り眺めたあと、怜司の視線が彰人のところで止まった。

 彰人も、その顔を見ている。

 怜司はいつもと変わらない様子で片手を軽く上げた。


「おう」


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